2013年12月28日土曜日

変人たちの列伝=独行列伝

『後漢書』列伝71独行列伝・序
 孔子は言った、「中庸を得た人と行動をともにできないのであれば、異常な理想家か偏狭な者と交わるべきだ」と。また「理想家はひたすら求めつづけ、偏狭な者は何もしないことを心得ている」とも言っている。これらの者たちはおよそ、完全なる道を失した者たちであり、かたよった端っこ(の一方)を採用しているのであろう。しかしながら、何もしないことを心得ているというのは、一方では(何もしないことをしなければならないという意味で)必ずしなければならないことがあるということだろう。ひたすら求めるとは言っても、一方では(あることだけを求めてほかのことはすべて投げうつという意味で)求めないということなのかもしれない。このように、心の尊重することがらはそれぞれ分かれているのであって、為すべきことと行なわざるべきこととは、(それぞれで)適切さが異なっているのである。
 中世の偏った行ないをする一介の人で、名声を立て方正を確立できた者は、これまた多かった。ある者は志の強さが金石のようで、強力な敵をも(ひるまずに)拒み、ある者は意志が厳冬の霜のように激しく、ちっぽけな信義にも喜びを感じた。また人と友好を結んで、昼夜心を共有する者たちもいれば、義を実践することにとりわけ厳しく、死と生が節義において等しくなるとみなす者もいた。その事跡はくまなく伝えられているわけではないとはいえ、まことにその風格の跡は慕うに足るものがある。しかし実際の事跡は特に整理されていないので、秩序を立てて記述することは難しく、(また)ちょっとした記録に特別なおもむきがあるのであって、独立させて列伝を立てる分量には不足している。彼らを捨ててしまえば事柄に遺漏があることになり、記録すれば体裁の秩序が失われてしまう。名実とも格別であるのに、その節義と行ないがともに絶えてしまうことを恐れるので、まとめあわせて独行の列伝をつくることとする。願わくは、欠文を補って、(前史の)遺漏を記録しておきたい。(孔子曰、「与其不得中庸、必也狂狷乎」。又云、「狂者進取、狷者有所不為也」。此蓋失於周全之道、而取諸偏至之端者也。然則有所不為、亦将有所必為者矣。既云進取、亦将有所不取者矣。如此、性尚分流、為否異適矣。中世偏行一介之夫、能成名立方者、蓋亦衆也。或志剛金石、而剋扞於強禦。或意厳冬霜、而甘心於小諒。亦有結朋協好、幽明共心。蹈義陵険、死生等節。雖事非通円、良其風軌有足懐者。而情迹殊雑、難為條品。片辞特趣、不足区別。措之則事或有遺、載之則貫序無統。以其名体雖殊、而操行俱絶、故総為独行篇焉。庶備諸闕文、紀志漏脱云爾。)

 范曄の論のなかでも名文として知られている(はずの)独行列伝・序を訳出してみました。できれば、わたしも普通の感覚なら記載しないような、クズみたいなものたちに価値を見出してみたいですね。

 本当は宋書百官志訳注の続きを更新しようと思ったのですが、光禄勲を調べたらたいへん面倒なことがわかったのでやめました。
 今年の更新はこれで最後です。ただの自己満足・虚栄心のかたまりのような文章ばかりでしたが、お読みいただいてありがとうございました。時々感想をいただけたりするのはとても嬉しかったですし、励みになりました。たとえ読者は少なくても、読んでくださる人を楽しませることができたら、それでわたしは満足でございます。
 どうぞ来年もご愛顧くださいますよう。

幸福のイメージのなかには、救済のイメージが、絶対に譲り渡せぬものとして共振している。歴史が事とする過去のイメージについても、事情は同じである。過去はある秘められた索引を伴っていて、それは過去に、救済(解放)への道を指示している。実際また、かつて在りし人びとの周りに漂っていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺(こだま)が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのない姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。だとすれば、私たちはこの地上に、期待を担って生きてきているのだ。だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。この要求を生半可に片づけるわけにはいかない。
――ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」テーゼⅡ

范曄やばない?

言葉によって意図が伝わり、文飾によって言葉が生きる。言葉にしなければ、意図は誰にも伝わらない。言葉にしても文飾がなければ、相手に伝わりはするが印象には残らない。(言以足志、文以足言。不言誰知其志。言之無文、行而不遠。)
――『春秋左氏伝』襄公25年


 ちょっと史通を読んでたら久々に書く気になったので。

『史通』巻四論賛
 司馬遷は自序伝の最後に一つずつ各巻を挙げ、それぞれの意図を書き記した。(司馬遷は散文体であったのだが、)やがて班固はそれを詩風の韻文体に改め、「述」と称した。范曄は「述」を「賛」に改めた。ほどなく、彼らの述や賛は史書の体例となり、巻ごとに一つ書かれるようになったが、事柄が多い巻は要約されて(相対的に)少ない文章となり、内容が空虚な巻は誇張されて(相対的に)多い文章となってしまっているので、形式と内実が乖離し、(巻の内容と賛の内容とで)詳細さと簡略さが符合していない。それに人の善悪や歴史上の褒貶を知ろうとするうえで、この形式を利用する必要もなかろう。
 とはいっても、班固は述をすべてまとめて叙伝のうちに記し、一貫した筋道を立てた形式にしたので、その文章は見やすくて読むに足る。范曄『後漢書』の賛は実際のところ(多くの部分を)班固に倣っているが、(ただ班固とは違い)賛を各本伝にくっつけ、各巻末に書いたので、巻の題目と乖離し(?)、ばらばらに置かれているので秩序もない。しかし、范曄以後の作者はこの間違いに気づかなかった。例えば蕭子顕『南斉書』、李百薬『北斉書』、それに大唐が新たに編纂した『晋書』は、すべて范曄の間違った体裁にもとづき、巻末に賛を置いている。そもそも、巻ごとに論を立てるだけでも煩雑このうえないのに、論に続けて賛を置くとなると、見苦しくてしょうがない。(馬遷自序伝後、歴写諸篇、各叙其意。既而班固変為詩体、号之曰述。范曄改彼述名、呼之以賛。尋述賛為例、篇有一章、事多者則約之使少、理寡者則張之令大、名実多爽、詳略不同。且欲観人之善悪、史之褒貶、蓋無仮於此也。然固之総述合在一篇、使其条貫有序、歴然可閲。蔚宗後書、実同班氏、乃各附本事、書於巻末、篇目相離、断絶失次。而後生作者不悟其非、如蕭・李、南・北斉史、大唐新修晋史、皆依范書誤本、篇終有賛。夫毎巻立論、其煩已多、而嗣論以賛、為黷弥甚。)
 
同巻序例
 孔安国は「序とは作者の意図を述べるためのものである」と言っている。思うに、『尚書』には典や謨(などの体裁の篇)があり、『詩』には比や興(などの比喩)が含まれているから、もし最初に序がなければ、それらの文章の意味をちょっとでも理解することが困難であったろう。そのため、篇ごとに序が書かれ、その意味が述べられたのである。くだって『史記』、『漢書』になると、事柄の記述が中心となったので(すべての巻に序をつくることはしなくなったが)、表、志、雑伝にかんしては、しばしば序を立て(それらを制作した意図を述べ)たのである。その文章は華美でありながらも史書の体裁を(壊さずに)兼ね備えており、述べていることは諸子百家のようであって、(序の設けられた列伝は)『尚書』の誥や誓(といった諸篇)、『詩』の風や雅に等しいと言えるだろう。・・・
 范曄にいたって、そうした書き方ははじめて改められ、史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった。范曄以後の作者もみなこれに倣った。かくして司馬遷、班固の方法はここに途切れ、精緻で隠微に富んだ書き方も廃れていった。例えば(『後漢書』の)后妃列伝、列女伝、文苑列伝、儒林列伝といった類の列伝においては、范曄は必ず序を立てた。いったい、世の作者というのは、前代の史書(の志や列伝)にはあるのに自分の書(の志や列伝)だけにはないことを恥じるものである。そのため、晋、宋から陳、隋にいたるまで、伝を書くたびに序を立て、序を書いた数で評価が決まるほどであった。そもそも、史書を書く根本というのは、過去のことを現在に伝えることなのであるが、前代の史書にすでに序があるというのに、どうして現代の作者たちも(わざわざ)序を書く必要があろうか。(ある志や雑伝を制作する意図はすでに前代によって明らかに述べられているではないか。)(ある志や列伝に)一番最初に立てられた序は、見るべきところがあろう。だが屋上屋に重ねたもの(、すなわちそれ以後に同じ題目の志や列伝に立てられた序)にかんしては、まったくの無駄である。(孔安国有云、序者所以叙作者之意也。竊以書典謨、詩含比興、若不先叙其意、難以曲得其情。故毎篇有序、敷暢厥義。降逮史漢、以記事為宗、至於表志雑伝、亦時復立序。文兼史体、状若子書、然可与誥誓相参、風雅斉列矣。・・・爰洎范曄、始革其流、遺棄史才、矜衒文彩。後来所作、他皆若斯。於是遷固之道忽諸、微婉之風替矣。若乃后妃・列女・文苑・儒林、凡此之流、范氏莫不列序。夫前史所有、而我書独無、世之作者、以為恥愧。故上自晋宋、下及陳隋、毎書必序、課成其数。蓋為史之道、以古伝今、古既有之、今何為者。濫觴肇迹、容或可観、累屋重架、無乃太甚。)

同巻題目
 前代の史書の列伝を見てみるに、巻の題名には一定の決まりがない。(ある程度の規則としては、)文字が簡単な人にかんしては姓名を書く、例えば司馬相如、東方朔。文字がめんどうな人にかんしては姓だけを書く、例えば毋将、蓋、陳、衛、諸葛。(同じ巻に列伝を立てる)人が多くなると、(同巻で)同姓の者がいる場合もでてくる。そのときはまとめ合わせて数を記す、例えば二袁、四張、二公孫。この規則に従えば、十分いきとどくであろう。
 (ところが)范曄の規則となると、人はすべて姓名をともに書くようになったので、短い行となった巻〔人が少ない巻〕がまばらにあり、字を通常より細くした巻〔人が多い巻〕がわらわらとあるありさま。子孫で附伝した者は(逐一)祖先の名の下に注記している。こんなものは世の公文書目録、薬草の解説に類するようなもので、これほどまでに細々としてうるさいものがあるだろうか。
 これ以降、多くの者は范曄に倣うようになった。魏収も范曄に従ったが、とてもひどいものである。・・・およそ、法律の文言が煩雑になること〔原文「滋章」〕は、古人の避けることであった。范曄や魏収のような題目の書き方は、「文言が煩雑になること」のひどい例ではなかろうか。(観夫旧史列伝、題巻靡恒。文少者則具出姓名、若司馬相如、東方朔是也。字煩者唯書姓氏、若毋将、蓋、陳、衛、諸葛伝是也。必人多而姓同者、則結定其数、若二袁、四張、二公孫伝是也。如此標格、足為詳審。至范曄挙例、始全録姓名、歴短行於巻中、叢細字於標外、其子孫附出者、注於祖先之下、乃類俗之文案孔目、薬草経方、煩碎之至、孰過於此。・・・自茲已降、多師蔚宗。魏収因之、則又甚矣。・・・蓋法令滋章、古人所慎。若范魏之裁篇目、可謂滋章之甚者乎。)
 劉知幾は范曄が大嫌いなようですが、いやでもこれ、けっこう范曄すごない? 史書の形式においては、「范曄的転回」とでも言うようなパラダイムシフトがあったことを暗に示しているよね。
 とりわけ、これまで書いてきた拙ブログの記事との関連で言えば、序例の「史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった」という記述であろう。これはまったく正しい。范曄自身、これは認めるところがあるのではないか。事実、「獄中与諸甥姪書」(『宋書』巻69范曄伝)で次のように范曄は述べている。
(わたしは)もともと史書に関心をもっておらず、いつも難しさを知るばかりであった。『後漢書』を執筆してからというもの、かえって要領をつかんだため、古今の著作や評論を読んでみたのだが、ほとんど満足できるものはなかった。班固の書が最も名声を得ているが、(わたしが思うに)気分のままに書いた文章で統一された規則がなく、(全体的には)優劣つけがたい。巻末の賛は道理においてほとんど得るところがないが、ただ志は悪くない。博識さではかなわないが、形式の秩序の点では(わたしも)劣らないだろう。わたしの書いた雑伝の論は、みな深みのある内容で、切れ味があるのは字句を圧縮したためだ。循吏列伝から六夷列伝の序や論は、筆が伸び伸びと走っており、まことに天下の名文だ。そのうちでも自信作となるのものは、あらゆる部分で賈誼の「過秦論」にひけをとらない。ためしに班固の文章とも比べてみても、たんに恥ずかしくないだけではない(優っている自信がある)。志も作成し、『漢書』が立てている志もすべて備えるつもりであった。(ついにそれはできなかったが、志に関連した)事柄の記述は、多くはないとはいえ、文を読めばできるだけわかるように、さしあたり記述してある。また、事柄に応じて巻内に論を立て、一代の得失を正すつもりであったのだが、結局完全には果たされないままとなってしまった。賛はわたしの文章のうちでも傑作で、ほとんど一字の無駄もなく、変幻自在で、様々な文体を混ぜ合わせており、わたしですらほめかたがわからない。この書物が広まれば、必ずこの価値がわかるものが出るだろう。帝紀や列伝の体裁規則はあらましを説明しただけではあるが、多くの箇所で細心の注意を払っている。いにしえより、これほどまでに体裁が整っていて思考が細密なものはなかろう。おそらく世の人々にはこの書の価値がわかるまい。多くの者はいにしえを尊重していまをいやしむからだ。人間の本性に合致するのは狂言であるというのも、これに由来する。(本未関史書、政恒覚其不可解耳。既造後漢、転得統緒、詳観古今著述及評論、殆少可意者。班氏最有高名、既任情無例、不可甲乙辨。後贊於理近無所得、唯志可推耳。博贍不可及之、整理未必愧也。吾雑伝論、皆有精意深旨、既有裁味、故約其詞句。至於循吏以下及六夷諸序論、筆勢縦論、実天下之奇作。其中合者、往往不減過秦篇。嘗共比方班氏所作、非但不愧之而已。欲遍作諸志、前漢所有者悉令備。雖事不必多、且使見文得尽。又欲因事就巻内発論、以正一代得失、意復未果。賛自是吾文之傑思、殆無一字空設、奇変不窮、同合異体、乃自不知所以称之。此書行、故応有賞音者。紀、伝例為挙其大略耳、諸細意甚多。自古体大而思精、未有此也。恐世人不能尽之、多貴古賤今、所以称情狂言耳。)
 見られるように、范曄は自己の『後漢書』について、文章のできの良さから自己評価を下している。なので、劉知幾が「文飾だけにこだわりやがった ks 野郎」と言うのは間違ってないと思う。
 それにしても范曄はちょっと気持ち悪いくらいの自信家ですね。でもその一方で引用文後半からうかがえるように、少しペシミズムというかニヒリズムというか、そんな感覚ももちあわせていたように感じられます。実際、范曄の列伝を読むと、彼はかなり鬱屈した人生を送っている(それは范曄がわがままなところにも起因すると思うけど)。自分が面白いと思ったことはとことんやるし、事実自分がやってきたことはすべて面白い、自分はやりたいことだけやるんだと、そういう自信のようなものを強く抱いている一方で、誰も理解者はいないだろうという、他者や社会への冷めた目線ももちあわせているわけで。そうなると、彼はますますやりたいことだけやって、自分のやっていることだけを面白いと思うのでしょうね。「努力やがんばりなんて自己満足でいいじゃん」と言う人もいますが、それは違うと思います。人生をかけてまで費やしたその先に自己満足しか得られなかったら、虚しいでしょ、そりゃ(とは言いつつ、わたしはそういうニヒリズムから出発しないといかんとも思います)。

 なんか話がそれてしまったが、「天下之奇作」(自称)たる『後漢書』の序や論は、じつはあんだけ范曄を嫌ってる劉知幾も評価しているんですわ(『史通』論賛)
陳寿以降、(論の体裁は)勝手気ままになって根本に立ち返ることをせず、たいてい、実質よりも華美で、道理は文飾より少なく、立派で美しい文章を自慢するばかりであった。そのうちでもよい者を選ぶとしたら、干宝、范曄、裴子野が最もよく、沈約、臧栄緒〔『晋書』〕、蕭子顕はその次によい。孫盛はダメにもほどがある。習鑿歯はたまにはよかろうもん。袁宏は玄学的な言葉の文飾に一生懸命で、謝霊運〔『晋書』〕は立派そうな論をおおげさに書いているが、「底のない玉製のさかずき」〔『韓非子』外儲説右上〕のようなもの、見た目は立派でもなんのありがたみもない、話にならん。王劭〔『斉志』〕は文意こそ簡明であるものの、言葉がきたなすぎる。かりに道理があったとしても、結局彼の文章は心に残るまい。孔子は「人の過ちを見てその人が仁者かどうかがわかる」と言っているが、王劭のような者のことを言うのだろう。(自茲以降、流宕忘返、大抵皆華多於実、理少於文、鼓其雄辞、誇其儷事。必択其善者、則干宝、范曄、裴子野是其最也、沈約、臧栄緒、蕭子顕抑其次也。孫安国都無足採、習鑿歯時有可観。若袁彦伯之務飾玄言、謝霊運虚張高論、玉巵無当、曾何足云。王劭志在簡直、言兼鄙野、苟得其理、遂忘其文。観過知仁、斯之謂矣。)
 というわけで、范曄の文章がよいことは劉知幾自身も認めていたようです。また最後の王劭に見られるように、きちんときれいな言葉で書くべきだ、っていうのは彼も意識していたようだ。まあというかこの時代の史書は「きれいに書く」ことは当然の通念だったと思うので、とくに不思議はないが(劉知幾はやりすぎるなと言っている)。
 最後に、范曄のいでたちについて。
范曄は身長七尺(=約170センチ)にも満たず、太っていて色黒で、眉とあごひげがなかった。(曄長不満七尺、肥黒、禿眉鬚。)
 うむ・・・なんか予想外な感じがしますね。

2013年12月3日火曜日

歴史の言語的想像力

要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
――H. White, Metahistory

「心に現われた考えを表現する」という言い方は、言葉で表現しようとするものが、ただ別の言語によってではあるが既に表現されている、そしてこの心に現われており、ただこの心的言語から話し言葉にそれを翻訳すればよい、と思わせる。しかし、「考えを言い表す云々」と我々が言うほとんどの場合に、それとは非常に違ったことが起こっている。ある言葉を模索している、といった場合に何が起きているかを考えてみたまえ。あれこれの語が浮かんでくる、私は拒否する、最後に一つの言葉が提案され、「これこそ私の意味したものだ」と言う具合だ。
――ウィトゲンシュタイン『青色本』


 歴史学における「想像力」を問題としたヘイドン・ホワイト。日本の学界では「物語(り)論」の祖のような扱いを受け、それなりに著名である。たしかに彼の名を一躍知らしめた著作Metahistoryにおいて、歴史著作を「筋立て」などの構造をもつ「物語(story)」と見なして分析する「形式論(Formalism)」を展開しているわけだが、その「物語」という表現にとらわれて彼の著作のポイントを見落としてはならない。
 だが、いずれにせよ、弁証法的な歴史説明は〔説明の対象性質に内在しているのではなく〕文脈のうちに展開されるのであり、ここで言う文脈とは、歴史の対象領域の型にかんする首尾一貫した観方、ぴったりしたイメージのことである。この文脈こそが個々の思考家が使用する表象概念に合理的な全体性をもたらす。この首尾一貫性と合理性こそ、歴史化の仕事に彼独自の文体的特徴を与えるのである。ここで問題となるのは、説明の首尾一貫性や合理性を支える要素を明らかにすることである。私のみるところ、本質的にそれらの要素は詩的なもの、とりわけ言語的なものであると思われる。
 歴史家は、表象や説明に利用する概念的道具を、歴史の対象領域の資料に適用するまえに、まず必ず歴史の対象領域をあらかじめ形象している。――換言すると、歴史家は心的に認識した対象によって歴史の対象領域を構築しているのだ。歴史家のこの詩的な活動は、言語的活動となんら変わらない。言語的活動は、ある領域が特定の領域として解釈されることに決定しているときになされる。すなわち、与えられた歴史の領域が解釈を受ける以前に、認識可能な形象が内包した場として、その領域はすでに解釈されていなければならない。ついで、領域にある形象は目・類・属・種として分類することが可能な現象だと見なされるようになる。ここからさらに、その形象は別の形象と関係づけられ、その関係づけの変化が「課題」を設定せしめ、その「課題」は叙述の筋や世界観の次元によってもたらされる「説明」によって解決されるのである。
   英語の拙訳でもうしわけないが、つまりは、歴史家の叙述に見られる説得力(首尾一貫性、合理性)は、あくまで説明がうまいかどうかといった言語的問題ですよということ(説得力はその説明の真偽に関係ない。ウソっぽい話でも論理的で合理的な筋を通すことはできるよね。例は挙げないけど想像はしてもらえると思う)。しかし、言語でいろいろ書く前に、歴史叙述の対象にしようとしている世界空間をすでに想像しているんじゃないか? ホワイトはそのように問う。あの出来事はこういう性質のものだ、一方であの出来事はさっきの出来事の付随的なやつだな、・・・云々。こうして様々な出来事が関係づけられ、歴史的な世界空間が頭のなかに創出される。ホワイトは、この記述前の作用を重視し、この作用を「想像力」とも「詩学」とも彼は呼ぶ。ミソとなるのは、記述に先行する作用でありながらも言語的な作用である、ということだろうか。
 要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
 ・・・過去に「実際にはなにが起こったのか」を形象するためには、歴史家はまずあらかじめ、文書に記録されたあらゆる出来事を、知識として認識可能な対象に形象しなければならない。この先行形象化活動は、詩的である。その活動が歴史家の歴史意識を未来予知的な歴史叙述に散りばめる限りで、または構造を構成する限りにおいて、すなわち「実際にはなにが起こったのか」を表象、説明する際に歴史家が用いる言語様式によって、構造がイメージづけされる限りにおいて、先行形象化活動は詩的なのである。
 現象は言語的に形象される。「~~は進歩と言うことができる」、「・・・は因果関係にあると言える」。ある現象の正しい言語表現はなにか、いや、ここで彼が述べているように、「その人にとって」適切と思える言語表現はなにか。まずはじめに、言語を使ってそのような想像がなされるのである(言語を抜きにした想像行為などありえない)。そのような意味で、まずなされるのは言語規則の構築なのだと彼は言う。現代のように先行研究のパラダイムにのっかっているとそんなことを意識することはまれだが、近代歴史学の祖たちをかえりみれば、たしかに彼らのやってきたことは言語表現の開発だと言ってもそれほどおかしくはない(六朝の「貴族」とかまさに)。歴史的な世界とは言語的に想像/創造されるのだ、端的に言うとそんな感じでしょうか。
 とまあ、これはわたしの拙い英語力と乏しい(英米)哲学の知識で読解したホワイトの主張なので、精確にはまちがっているかもしれません。ただ、今回わたしがこんなことを記事にしたのは、先日わたしが記事にしたテーマである「中国史学における文学性」を考えるうえで、多大な示唆を与えてくれると思うからです。

2013年12月2日月曜日

話し言葉と書き言葉の交錯

教養言語、文語はすべて、本の中に独自の存在領域を持つようになります。これは人の口という普通の領域から独立した、異なる伝播の領域です。本のための言語の用法が確立し、正書法と呼ばれる本のための文字表記のシステムが確立します。本が会話と同じくらい大きな役割を果たすのです。
――フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』



 六朝時代は言語に対する感性がとくだん研ぎ澄まされた時代。『世説新語』文学篇の以下の逸話は、中国における言語観をよく示しているんじゃなかろうか。
楽尚書令は清談を得意としていたが、文章を作るのは不得手であった。河南尹を辞退しようとしたとき、(文章の上手い)潘岳に(自分の代わりに辞退の旨を告げる)上表文を書いてくれないかと頼んだ。潘岳、「書きましょう。あなたのおっしゃりたいことを言ってください」。楽広は辞退する理由を言葉にしてみたが、二百語を数えるばかり。(ところが)潘岳はすぐに言葉を拾って組み合わせ、たちまち名文に仕上げてしまった。当時の人々はこう言いあったそうだ。「もし楽どのが潘どのの文章を利用できず、潘どのが楽どのの考えを得なかったら、あれを作るのは無理だったろうさ」(楽令善於清言、而不長於手筆。将譲河南尹、請潘岳為表。潘云、「可作耳、要当得君意」。楽為述己所以為譲、標位二百許語、潘直取錯綜、便成名筆。時人咸云、「若楽不仮潘之文、潘不取楽之旨、則無以成斯矣」)
 書き言葉と話し言葉の明確な技法の違い。同じ言語であってもそれぞれが創り出す世界はまったく違うのだと言わんばかりの言語世界観を見せてくれているじゃありませんか。話し言葉のほうが書き言葉よりより純粋なのだとかそういう優劣思想もここには見られないね。
 ここで范曄を挙げておこう。彼の最期の作品「獄中与諸甥姪書」(『宋書』巻69本伝)では以下のように自己の人生が回想されている。
 私は若いころ学問を怠けたために、一人前になるのが遅れ、三十歳ばかりになってようやく方針が定まったほどだ。それ以来、しだいに心境が変わり、すぐに老いがやってくるからと考え(学問に打ち込むようになっ)たが、いまだ完成していない。しばしば少し理解できたことがあっても、言葉では表現し尽くせなかった。(かといって、)注釈を調べない性格だったので、心中わだかまりがあっても、ちょっと悩んでは、(うまく表せずに)いらいらするといった状態だった。口弁も得意でなかったので、清談の業績もない。(そのため)理解できたことに関しては、すべて自分の胸中にしまい込むだけであった。
 文章はかえって上達するようになったのだが、才能に乏しく、発想も貧しかったので、筆を取るたびに書いた文章は、ほとんどすべて褒められたものでなく、いつも文士とされることが恥ずかしかった。(ところで、)文章の弊害としては、叙述が対象の描写に終始すること、心が修飾に集中すること、語の意味が文章全体の趣旨を損なうこと、韻の調整のために文意が変更させられることが挙げられる。たまに文章の上手い者がいても、おおよそこれらの弊害からは逃れられておらず、(そうであっては)うまい絵画のようなもので、とうとう(本当の文章を)得られない。(書くために書いたり、外観に専念したりして、内容をおろそかにしてはならない。)いつも思うに、(文章は)心をかこつけるものだから、まさに意図を第一とし、言葉に文飾を施してその意図を表現するべきだ。意図を第一とすれば、その文章の趣旨が必ずはっきりするし、文飾を施してその意図を表現すれば、その文章は印象に残る。こうしたことを踏まえた後で、(さらに修飾を加え)良い香りをただよわせ、美しい音色を響かせるようにするのである(吾少懶学問、晩成人、年三十許、政始有向耳。自爾以来、転為心化、推老将至者、亦当未已也。往往有微解、言乃不能自尽。為性不尋注書、心気悪、小苦思、便憒悶。口機又不調利、以此無談功。至於所通解処、皆自得之於胸懐耳。文章転進、但才少思難、所以毎於操筆、其所成篇、殆無全称者、常恥作文士。文患其事尽於形、情急於藻、義牽其旨、韻移其意。雖時有能者、大較多不免此累、政可類工巧図繢、竟無得也。常謂情志所託、故当以意為主、以文伝意。以意為主、則其旨必見、以文伝意、則其詞不流。然後抽其芬芳、振其金石耳)
 口下手な彼も文章は超一流の腕前にまでみがきあげたというところがわたしのお気に入りの箇所。なんかまあ、口頭でうまくしゃべれんだけで「コミュ障」とかいうことを言い出すどっかの社会がアレですね。
 ところで、さりげなく触れられているだけだが、韻=リズムのことが述べられている。この時代(に限らないが)、文章はすべて声に出して読まれるべきものであり、音読したときのリズム(韻)が美しくないと文章としてはイカンというわけだ。范曄は、リズムにとらわれ過ぎて文意がダメになってしまうというやり過ぎを批判していたわけです。
 文章はすべて声に出して読まれるべきだ、というこの発想。案外重要な考えだと思う。というのも、これは史書を読むときにも該当したようだからなのだ。
当時、『漢書』はたいへん尊重され、学者はみな暗誦したほどであった(当世甚重其書、学者莫不諷誦焉)
 『後漢書』伝30上・班彪伝附固伝にあるちょっとした記述だけど、「諷誦」(暗唱・朗読)は見逃せない記事なんじゃなかろうか。『漢書』という史書といえど、それは一種の文章作品としても愛好されたわけである。
 中国は「歴史」の国だとよく言われる。だが、すこぶる近代的な概念である「歴史」や「歴史学」を見かけだけ中国古代にあてはめるのは慎重になったほうがよいかもしれない。たしかに、中国では史書は古くから記述されてきたし、史学の伝統も長い。が、それら「史学」や「史書」はわたしたちが現代的に使用する「歴史学」や「歴史書」と同じようなニュアンスで表現して良いのだろうか。そこにわたしは違和感を覚えることがある。
 そんだけです。すんませんでした。

2013年11月21日木曜日

三十六国時代

 『太平御覧』は、引用する書物の表題を間違えることがよくある。今回は崔鴻『十六国春秋』と蕭方等(あるいは武敏之)『三十国春秋』をとりあげて、そのことを例示してみよう。

『太平御覧』巻35時序部20凶荒
崔鴻三十国春秋曰、諸州自建武元年十一月不雨雪、至十二年八月、穀價踴貴、金斤値米二升、民流散死者十有五六、百姓嗷然、人無生頼。
 あー、まあね、三十国春秋と十六国春秋ってなんかややこしいからね、わかるわかるーー ってわかんねえよ!!!!! どっちなんだよ! 崔鴻の『十六国春秋』なのかよ、『三十国春秋』なのかよ、どっちなんだよ! はっきりしろよ!!!![1]
 まあ、とにかくね、まざっちゃったんだろうね。だいたい似た時代を書いてるし、表題も似てるしね・・・。

『太平御覧』巻142皇親部8劉曜皇后
崔鴻三十国春秋前趙録曰、劉皇后、侍中暟女。年十三、長七尺八寸、手垂過膝、髮与身斉、姿色才徳,邁於列后。
 これはね、さすがに許そう。「前趙録」ってあるから十中八九、崔鴻『十六国春秋』を誤記して『三十国春秋』てしちゃったんだろうね。

『太平御覧』巻370人事部11手
三十六国春秋曰、劉淵父豹、母呼延氏、淵生而左手有文、曰淵、遂以命之。
 ふええぇぇえ・・・聞いたことがないよぉ・・・新しいよぉ・・・どっちかぜんぜんわかんないよぉ・・・
 もちろん『隋書』経籍志に記録はございません。書いた人物が完全にごちゃまぜになって、ミックスさせた表題にしてしまったんだろう。なんと迷惑なことを・・・




 少し真面目な話を最後に。『太平御覧』から佚文などを引用する場合、例えば『太平御覧』の巻いくついくつに引く某の『~~』、ってするじゃないですか。でも最初と最後の事例だと、そういうふうに引用しづらいよね。最初の方は撰者名を優先すればいいのか、書名を優先すればいいのかで判断がつきにくいし、仮についたとしても、「巻35に引く崔鴻の『十六国春秋』には・・・」って文章も書きづらい。だって巻35に引用してあるのは「三十国春秋」になってるわけだし。それともいちいち断り書きを書きます? 「『十六国春秋』(ただし表記は「三十国春秋」)」とか。めんどいね。最後のほうはもっとめんどいね。
 じつは便利な引用の仕方がある。わたしだったらこの箇所、「巻35に引く『崔鴻三十国春秋』には『~~』とあり・・・」と書いてしまう。以下も同様に、巻142所引「崔鴻三十国春秋前趙録」、巻370所引「三十六国春秋」、と表記してしまう。
 そう、完全に思考を停止して、書いてあることをそのまま全部「 」か『 』にくくっちまえばいんですよ。どちらかといえば「 」でくくるのがいいのかな。必ずこのような表記原則にしなければならないってわけではないんだけど、まあ上記のような面倒な事例があるので、こういう引用表記の仕方も念頭に置いておくと幅が広がるのではないかと思います(ちなみに本ブログで連載している宋書百官志訳注の場合、『太平御覧』から引用するときは基本的にこの表記原則に従い、『 』でくくっています)。


――注――

[1]ちなみに『三十国春秋』は武敏之のと梁・蕭方等らのがあるが、どちらも後漢末(=晋宣帝)から晋恭帝(=東晋末)までを叙述対象としていたらしい。晋を正統としながらも、劉淵ら五胡系諸国も記述していた(以上は清・湯球撰/呉振清校注『三十国春秋輯本』〔天津古籍出版社、2009年]の「序」を参照)。[上に戻る]

2013年11月17日日曜日

東晋・孝武帝の最期

『晋書』巻9孝武帝紀
既而溺于酒色、殆為長夜之飲。・・・醒日既少、而傍無正人、竟不能改焉。時張貴人有寵、年幾三十、帝戯之曰、「汝以年当廃矣」。貴人潛怒、向夕、帝醉、遂暴崩。

孝武帝は即位してすぐ酒や女に溺れるようになり、いっつも深夜まで飲んだくれていた。・・・日中に目が覚めることはまれで、わがまま放題、まったく改善の余地がなかった。当時、張貴人は孝武帝の恩寵を受けていたが、三十になりかかろうとしていた。孝武帝はふざけて「おまえも歳だしなあ! 貴人、やめよっか(クイッ」と言ったところ、張貴人、表情には出さないが内心怒り心頭。夜になり、帝が酔いつぶれると、とうとうにわかに孝武帝は崩じてしまった。
 ん? 最期の展開が急すぎてまったくついていけないんだが? いったい何が起こったんや・・・・
 と、このときの出来事を克明に記述した史書がある。宋の檀道鸞『続晋陽秋』である。その佚文(『太平御覧』巻99皇王部24孝武帝、引)をご覧いただこう。
初、帝耽於色。末年、殆為長夜之飲。醒治[1]既少、多居内殿、留連於盤鐏之間。時張貴人寵冠後宮、威行閫内、年幾三十。帝妙列伎楽、陪侍嬪少、乃笑而戯之、「汝已年廃矣、吾已属諸妹少矣」。貴人潜怒、上不覚。上稍酔臥、貴人遂令其婢蒙之以被、既絶。云以魘崩。

当初、孝武帝は女に夢中であったが、末年になると深夜まで飲んでばかりであった。日中に目が覚めることはまれで、一日の大半を宮殿で過ごし、ごちそうと酒に囲まれて暮らしていた。当時、張貴人が受けている恩寵は後宮トップで、その権威は後宮に行き渡っていたが、歳は三十になろうかというところであった。ある日の宴会、孝武帝は若い妓女や側室を侍らせると、ほくほくになって思わずにやけてしまい、張貴人に対し、「おまえは年寄りだしもうええわ、若いチャンネー集まったし」とふざけて言った。張貴人、あらわにはしないが内心は怒り狂う。が、孝武帝、気づかない。孝武帝が酔いつぶれ、倒れて寝はじめると、張貴人は介抱せず、下女をおおいかぶさせて、のしかからせたに布団で帝をくるませた〔原文「蒙之以被」の箇所。まちがえてました。申しわけない〕。ほどなく、孝武帝は息絶えてしまった窒息してしまった。張貴人は「悪夢にうなされてお亡くなりになりました」と報告した。
 ははあ、なるほどねえ。「暴崩」=「にわかに崩御した」との記述のウラには、じつはこんな経緯があったんですねえ。たまげたなあ・・・。
 しかし、なんでこれが唐修『晋書』だとああいう記述になっているんだろうか?
 それは唐修『晋書』の帝紀が何に基づいて編集されたか、に関係しているだろう。例えば東晋末に編纂された徐広『晋紀』。徐広の『晋紀』は国史として編纂されたが、おそらくそのゆえに、孝武帝のかかる最期は忌むべき、隠すべき秘事として扱われた蓋然性は高い。その意味で、「暴崩」なんていうあいまいだけど便利な記述は、徐広『晋紀』に由来していると言えなくもない。ただその場合、張貴人のエピソードを挿入する必要がないじゃんてなるけども。まあほかにも何法盛『晋中興書』もあるし、あるいは唐の史官が独自に編集してこのような記述を残したのかもしれないね(そうであったらなおさら、どうして隠したのかが気になるが)。



――注――

[1]「治」というのは意味が通じない。ここは『晋書』に従い、「日」に字を改めて訳出する。なお清・湯球『衆家編年体晋史』(喬治忠氏校注本)は「時」に釈字しているが、わたしの手元にある宋本『太平御覧』(影印本)を何度見たって「時」には読めない。[上に戻る]

2013年11月10日日曜日

『宋書』百官志上訳注(4)――卿(太常)

 太常卿は一人。舜が帝位につくと、伯夷を秩宗とし、三礼をつかさどらせたが[1]、すなわちこれが現在の太常卿の職務に相当する[2]。周のときは宗伯といい、春官で、国家の礼を管轄した[3]。秦は奉常に改称し、漢はこれを継承した。景帝の中六年、太常に改称した[4]。応劭が言うに、「国家をして盛大に、かついつまでも存続せしめる〔原文「常存」〕、との意味から太常と言うのである」[5]。前漢では必ず、忠と孝に篤く、慎み深い列侯を太常に任じていたが、後漢では列侯に限定しなかった。[6]
 博士は、班固が言うには秦の官であるが、史臣〔「わたし」=沈約を意味する〕が案ずるに、戦国六国の時代にあちこちに博士がいる(から、班固は誤りであろう)。古今の事柄に通暁することを仕事としている。漢の武帝の建元五年、はじめて五経博士を置いた[7]。宣帝、成帝のとき、五経の学派が(武帝以来)徐々に増えていたので、一つの経ごとに博士を一人置いた。後漢のときには合計で十四人の博士がいた。『易』は施氏、孟氏、梁丘氏、京氏[8]、『尚書』は欧陽氏、大夏侯氏、小夏侯氏[9]、『詩』は斉詩、魯詩、韓詩[10]、『礼』は大戴氏、小戴氏[11]、『春秋(公羊伝)』は厳氏、顔氏[12]で、(学派ごとに)それぞれ一人の博士がいた。さらに(そのなかから)聡明で威厳がある者一人を博士祭酒とした[13]。魏と西晋では十九人置かれたが、東晋のはじめは減員されて九人となった。いずれの時代も、(博士たちが)どの経を担当していたのかは不明である。元帝の末年、『儀礼』と『春秋公羊伝』の博士を一人ずつ新たに置き、合計で十一人とした。のちにまた増置されて十六人となった。五経をそれぞれで分担するようにはならなくなったが、このような博士は(後述の国子博士と区別されて)太学博士と呼ばれるようになった。秩は六百石。
 国子祭酒は一人、国子博士は一人、国子助教は十人。『周易』、『尚書』、『毛詩』、『礼記』、『周官』〔周礼のこと〕、『儀礼』、『春秋左氏伝』、『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』をそれぞれ単独で一経、『論語』と『孝経』は二つ合わせて一経とし、合計で十経とし、助教が分担して教授した。「国子」とは、周の時代の名称に由来し、周では師氏が有していた官職が、現在の国子祭酒にあたる[14]。西晋のはじめに国子学が置かれ、生徒の教育を担うこととなり、太学を(国子学の)下に所属させた。晋のはじめは助教が十五人であったが、東晋以来、その定員は減らされた[15]。宋以来、もし国子学を開かなければ、助教は一人だけ置くこととした。ただし、祭酒と博士は常設とした[16][17]
 太廟令は一人。丞は一人。ともに前漢のときに置かれた。(ただし)西漢は「長」で、東漢は「令」であった。齋郎二十四人を統括する[18]
 明堂令は一人。丞は一人。丞は東漢のはじめに置かれ、令は宋の孝武帝の大明年間に置かれた。〔『続漢書』百官志二によると、後漢の明堂丞は明堂の警備をつかさどったという。たぶん後漢以後も同じだろう。〕
 太祝令は一人。丞は一人。祭祀の際に祝文を読んで神を送迎することをつかさどる。太祝は周の官である。西漢は太祝令、丞を置き、武帝の太初元年に廟祀(令)と改称し、東漢のときに太祝令に改称された。
 太史令は一人。丞は一人。三辰〔日・月・星(北斗七星)、つまり天文〕のこと、年月のこと、瑞祥・災異のことや、一年の終わりに新暦を奏上することを仕事とする。太史とは(もともと)三代の官であり、周のときは国家の六典〔周代における国を治めるための六つの法典。治典・教典・礼典・政典・刑典・事典(『漢辞海』)〕を定め、一年を正確にして物事に秩序を与え、国家に新暦を頒布することを職務とする[19]。また(周のときには)馮相氏がおり、天体移動の観測を担当し[20]、保章氏は天文現象の異常の観察をつかさどった[21]。現在の太史令は、周の太史・馮相・保章の三つの官職を合わせたものである。西漢は太史令と言った。東漢は丞二人、そのうちの一人は霊台[22]に配された。
 太楽令は一人。丞は一人。(祭祀や宮廷宴会をはじめ)音楽に関するあらゆることを管轄する。周のときは大司楽と言った。西漢は太楽令と言った。東漢は大予楽令と言った。魏は太楽令に戻した。
 陵令は陵ごとに一人。漢の官である[23]
 乗黄令は一人。天子の車および安車〔屋根付き馬車〕の馬を管理した。魏のときに置かれた[24]
 博士から乗黄令まではみな太常に所属する[25]


――注――

[1]『尚書』虞書舜典「帝曰、『咨四岳、有能典朕三礼』。僉曰、『伯夷』。帝曰、『俞、咨伯、汝作秩宗。夙夜惟寅、直哉惟清』」。[上に戻る]

[2]これだと簡潔すぎるので、『続漢書』百官志二・太常の条・本注より引用、「太常卿は儀礼や祭祀を担当する。祭祀のたびに、あらかじめその祭祀における礼儀の仔細を奏上(して天子にお知らせ)し、祭祀当日には、ぴったり付き添って(天子を)助ける。博士の試験選抜を実施した際は、(受験者の)合否を(天子に)奏上する。大射礼〔射礼の一つで、皇帝と選抜された群臣とで射撃を行なう儀礼〕、養老礼〔三老五更=老人で徳の高い者に酒食を振る舞う儀礼〕、大喪〔天子の葬儀〕のときは、その礼儀の仔細を奏上する。毎月、月末の前日には、帝陵と宗廟を視察する(掌礼儀祭祀。毎祭祀、先奏其礼儀、及行事、常賛天子。毎選試博士、奏其能否。大射、養老、大喪、皆奏其礼儀。毎月前晦、察行陵廟)」。あくまで後漢の話ではあるけど、そんなに大きな変化はないんじゃないかな。なにしろ、仕事はかなり専門的だし、ほかに官に実際上の仕事を奪われたなんてこともないと思う。おそらく。[上に戻る]

[3]『周礼』春官宗伯「乃立春官宗伯、使帥其属而掌邦礼、以佐王和邦国」。[上に戻る]

[4]『太平御覧』巻228『漢官典職』「恵帝改太常為奉常、景帝復為太常、蓋周官宗伯也」。これによると、前漢初期ですでに太常であったが、恵帝期に奉常にもどり、景帝がまた太常にしたらしいのだが・・・『漢書』の百官公卿表にもない話で、真偽は不明。[上に戻る]

[5]『後漢書』紀1光武帝紀・上・更始元年の条・李賢注引『応劭漢官儀』、「欲令国家盛大、社稷常存、故称太常」。沈約は『漢官儀』を引いたっぽいね。ただ、『漢書』巻19百官公卿表・上の師古注に「応劭曰、『常、典也、掌典三礼』」と応劭の別の名称解釈が見えている。さらに顔師古は応劭とは異なる解釈を示しており、王者は日月の絵が入った旗を有するが、これを立てるときは礼官が奉じて旗を持ったため、礼官を「奉常」と呼ぶようになった、のちに「太常」と改められたのは、尊大の意味を附したからだ、としている。[上に戻る]

[6]『太平御覧』巻228『漢官解詁』「太常は社稷の郊祀をつかさどり、その仕事は非常に重要で、職務は尊貴であるため、九卿の筆頭に置かれているのである(太常、社稷郊祀、事重職尊、故在九卿之首)」。また『太平御覧』巻228『斉職儀』「太常卿一人、品第三、秩中二千石、銀章〔青?〕綬、進賢両梁冠、絳朝服、佩水蒼玉」。  本文に記述はないが、六朝期には丞が置かれていたようである。『太平御覧』巻229太常丞に引く『(唐)六典』「太常丞二人、従有五品上。秦有奉常丞、漢因之、比千石。魏晋宋皆置一人(『唐六典』のテキストもってないんで、御覧からの引用で勘弁してください)、同巻『宋百官春秋』「太常丞は尚書郎と同等。銅印黄綬で、一梁冠。七品。帝陵や宗廟の不法を取り締まる(太常丞視尚書郎、銅印黄綬、一梁冠、品第七、掌挙陵廟非法)、同巻『陶氏職官要録』「晋と宋の九卿の丞は、みな進賢一梁冠、介幘、皂衣、銅印黄綬である。斉と梁では墨綬(晋宋九卿丞、皆進賢一梁冠、介幘、皂衣、銅印黄綬、斉梁墨綬)」。『宋百官春秋』にある太常丞の職務の記述は、『続漢書』百官志二・太常の条・劉昭注引『漢旧儀』と一致する。ただ『続漢書』本注によると、単に取り締まりだけでなく、祭祀関連の雑務や太常府の曹の総括も行なっていたらしい。太常府に置かれいた曹については、卿はみな仕事に応じて掾史を置いていたと『続漢書』太常条にあり、後漢ではとくだん決められた曹(掾史)が置かれていたわけではないようだ。
 ほか、太常の補佐官としては主簿がいたそうだ。『通典』巻25職官典7太常「主簿、漢有之、魏晋亦有焉」。[上に戻る]

[7]余談だが、近年では、武帝期に五経博士が置かれたとするのは後世の付会だと見る説が力をもっている。さしあたり、福井重雅『漢代儒教の史的研究――儒教の官学化をめぐる定説の再検討』(汲古書院、2006年)、溝口雄三・池田知久・小島毅共著『中国思想史』(東京大学出版会、2007年)、渡邉義浩『儒教と中国――「二千年の正統思想」の起源』(講談社、2010年)などを参照。[上に戻る]

[8]漢代の経学は、本文テキストおよびそのテキストの読み方(章句)=解釈が、学者のグループによって異なっていた。『易』も含め、わたしもそんなに詳しいわけではないのだが、以下若干の補足をしておく。
 『易』(『周易』)は本文にあたる「経」と、その解説にあたる「十翼(伝)」とから構成されたテキスト。本文で言及されている四氏はいずれも前漢の宣帝・元帝期に学官に立てられた学派で、施氏は施讐、孟氏は孟喜、梁丘氏は梁丘賀、京氏は京房を創始とする解釈集団である。みな今文学(漢代の隷書のテキスト)。のちに曹魏の王弼が古文易経(費氏)をテキストとし、老荘思想の観点から注をつけて以来、王弼注が盛行したために、漢代の今文学は廃れていった(高田真治「解説」〔『易経』上、岩波文庫、1969年〕)。現行の『易経』も王弼注本に基づく。
 博士に立てられるというのは、王朝から公認された学問集団であることを意味し、官学の頂点たる太学でその学派のテキストや章句を生徒(「諸生」や「博士弟子」などと呼ばれる)に教授した。ちなみに後文に見える学派もほぼ今文学で、要するに漢代の官学は今文学中心である。
 これら今文学集団は一つの経典だけ専門とし、章句中心の学問で、各学派の解釈を守旧することに力を向けていた。のち、古文(漢代以前の文字のテキスト)が在野の学者に普及し、複数の経典を兼修する風潮が広まると、今文学のかかる閉鎖的傾向には批判が強まり、経典横断的な読解と総合化・体系化が志向されるようになった(鄭玄が代表的。こうした学者のありかたは「通儒」とも呼ばれる)。さらに六朝になると、経学だけでも狭い!となり、経学・玄学(老荘)・仏教を横断した学問が士大夫たちの中心傾向となった(たとえば、曹魏の何晏『論語集解』は『論語』を老荘思想的に読解してみせるという天才的業績を残したし、東晋の袁宏は『後漢紀』において、孝や忠などの経学概念を老荘思想の概念・言語を用いて説明したりしている)
 後漢末から六朝期への学問思想の変遷については、吉川忠夫「六朝士大夫の精神生活」(同氏『六朝精神史研究』同朋舎、1984年)が好論。漢代の経学テキストなどは『漢書』巻30芸文志を参照、とくにちくまの訳注は意外と詳しいので、おススメ。また漢代の学術に関しては、清・皮錫瑞『経学歴史』(1907年)四章、東晋次『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、1995年)第三章、渡邉義浩『儒教と中国』序章などを参照しました。[上に戻る]

[9]欧陽氏は欧陽生、大夏侯は夏侯勝、小夏侯は夏候建にはじまる。今文のテキストとその章句。西晋末の永嘉の乱で、これら今文の学派はすべて失われた(『隋書』巻32経籍志一・書類)。一方、古文テキストはかなり事情が複雑。漢代の古文尚書経の伝来には様々な話が存在しており、たとえば、①漢武帝期に孔子旧宅から発見された古文尚書を孔安国が校訂したもの、②後漢の杜林がどこかから手に入れたもの、など。「隋志」が言うには、①と②はまったくの別物であるらしい。清の唐晏『両漢三国学案』巻四によれば、孔安国本のほうは後漢はじめころにはすでに失われており、後漢の古文といえば杜林本を指すのだそうだ。その後、「隋志」によると、西晋時代までは漢代の古文尚書の経文が残存していたようであるが、これも永嘉の乱あたりで失われたらしい(「隋志」はこの系統の古文尚書は伝わっていないと明記している)。東晋のときになって、梅賾という者が、孔安国の「伝」(解説)が附された古文尚書をゲットしたと奏上し、以後、尚書はこの「古文尚書」が使用されるようになり、現行の『尚書』もこのテクストが基となっている。が、どうも全篇にわたる孔安国伝および半分近くの篇は偽作であるようだ。でっちあげの作者も王粛、皇甫謐、梅賾など諸説あるが、よくわかっていないらしい。まあとにかく『尚書』のテクスト問題は相当めんどうなので、もう触れないでおきましょう。皮錫瑞『経学歴史』五章、野村茂夫「疑「偽古文尚書」考(上・中)」(『愛知教育大学研究報告(人文科学)』34、37、1985、1988年)参照。[上に戻る]

[10]斉の轅固のテキストと「伝」(解説)が斉詩、魯の申培のが魯詩、燕の韓嬰のが韓詩。韓詩の『伝』が現存しているが、そのほかは亡。いずれも今文学。現行の『詩経』は、毛氏の古文テキストとその「伝」が合成されたものである(「毛詩」と呼ばれるのはそのため)。[上に戻る]

[11]大戴は戴徳、小戴は戴聖。両者とも、古文礼のテキストに「記」(解説)を作った。戴徳の「記」は『大戴礼記』として、戴聖のは現行の『礼記』として、それぞれ現存。なお今文の礼経は『士礼』といい、現行の『儀礼』。[上に戻る]

[12]原文は「春秋、厳・顔」とあるのみだが、漢代に立てられた『春秋経』の博士は今文の『春秋公羊伝』なので、訳文のように補った。厳氏は厳彭祖、顔氏は顔安楽にはじまる公羊伝解釈グループ。ちなみに『左氏伝』は古文。『穀梁伝』は、皮錫瑞によると、清末当時においては今文説が主流で、一部に古文説もあったそうである。『公羊伝』は後漢末に何休が『春秋公羊解詁』を大成するなど、漢代を通じて盛んであったが、その後は『左氏伝』が主流を占めるようになり、漢代ほどの影響はなくなったようである。[上に戻る]

[13]『続漢書』百官志二「博士祭酒一人、六百石。本僕射、中興転為祭酒。博士十四人、比六百石。本注曰、易四、施・孟・梁丘・京氏。尚書三、欧陽・大小夏侯氏。詩三、魯・斉・韓氏。礼二、大小戴氏。 春秋二、公羊厳・顔氏。掌教弟子。国有疑事、掌承問対。本四百石、宣帝増秩」。『後漢書』列伝23朱浮伝・李賢注引『漢官儀』「博士、秦官也。武帝初置五経博士、後増至十四人。太常差選有聡明威重一人為祭酒、総領綱紀。其挙状曰、『生事愛敬、喪没如礼。通易・尚書・孝経・論語、兼綜載籍、窮微闡奧。隠居楽道、不求聞達。身無金痍痼疾、卅六属不与妖悪交通・王侯賞賜。行応四科、経任博士』。下言某官某甲保挙」。[上に戻る]

[14]『周礼』地官・師氏「師氏掌以媺詔王、以三徳教国子」。「国子」への教育が師氏の仕事だったようだ。[上に戻る]

[15]『晋書』巻24職官志によると、国子学が創立されたのは武帝の咸寧四年のこと。「晋初承魏制、置博士十九人。及咸寧四年、武帝初立国子学、定置国子祭酒、博士各一 人、助教十五人、以教生徒。博士皆取履行清淳、通明典義者、若散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子以上、乃得召試。及江左初、減為九人。元帝末、増儀礼・春秋公羊博士各一人、合為十一人。後又増為十六人、不復分掌五経、而謂之太学博士也。孝武太元十年、損国子助教員為十人」。
 また、これが一番のミソなのだが、国子学には入学制限がかけられていた。というのも、太学生があまりにも増加してしまったため、特別なエリートにはエリート専門の学校で教育させようとし、その目的に沿って設けられたのが国子学だというのである。『南斉書』巻9礼志・上「晋初太学生三千人、既多猥雑、恵帝時欲辯其涇渭、故元康三年始立国子学、官品第五以上得入国学。天子去太学入国学、以行礼也。太子去太学入国学、以歯讓也。太学之与国学、斯是晋世殊其士庶、異其貴賎耳。然貴賎士庶、皆須教成、故国学太学両存之也、非有太子故立也」。官品五品以上というのは父や祖父の官品が五品以上ということであろう。また、この記述によると、恵帝のときに国子学が開かれたことになっているが、Wikiに引く福原先生の研究によると、創立は武帝、開校は恵帝、ということなのだそうだ(今度ちゃんと確認します)。[上に戻る]

[16]劉宋期に国子学があまり振るわなかったらしいことは、『宋書』巻93隠逸伝・雷次宗伝「元嘉十五年、徴次宗至京師、開館於鷄籠山、聚徒教授、置生百余人。会稽朱膺之、潁川庾蔚之並以儒学、監総諸生。時国子学未立、上留心芸術、使丹陽尹何尚之立玄学、太子率更令何承天立史学、司徒参軍謝元立文学、凡四学並建」、『南史』巻22王曇首伝附倹伝「宋時国学頽廃、未暇修復、宋明帝泰始六年、置総明観以集学士、或謂之東観、置東観祭酒一人、総明訪挙郎二人、儒・玄・文・史四科、科置学士十人、其余令史以下各有差」などからもうかがえる。
 しかしそもそも、『宋書』巻14礼志一によると、東晋のときから大して運営されてなかった感じ。成帝の咸康三年に国子祭酒の袁瓌らが国子学再建を要請しているが、その上奏文をざっと見る限り、永嘉の乱以来、国子学は名目だけで実質的に機能していなかった様子である。ただこの上奏がきっかけで学生を募集したとのこと(でもみんな老荘ばっかり学んで儒学はそっちのけだったらしい)。のち、穆帝の永和八年、殷浩の北伐の際に国子学は廃止させられたという。このときの北伐は三呉を中心にして資金・物資をかなり厳しくかき集めたらしいので、資金削減のために廃止させられたのだろう。国子学は太元十年に復興されたが、東晋末までにまた廃せられたらしい。というのも、劉裕は即位すると国子学を再建しようとした、との記述があるからで、ということは当時、国子学は開かれていなかったことを意味していよう。ところが武帝は間もなく崩じてしまい、国子学の話は沙汰止み。くだって文帝が元嘉二十年に国子学を再建したが、二十七年に廃止された(附言しておくと、二十七年は北魏・太武帝の大規模な南征を受けた年。軍の出動に伴い、資金繰りのために百官の俸禄を減らしたことなどが記録されており、その一環で国子学も廃止だろうね)。そのあとの消息はちゃんと調べていないが、上に引いた『南史』王倹伝にあるように、明帝年間まで国子学は実質的に廃されたままで、国子祭酒=学長だけが存在する状態であったようだ。[上に戻る]

[17]なお本文で言及がないが、博士には太常博士というのもある。魏の文帝が置いた官で、皇帝の乗車の引率、王公らの諡号の決定を担当するという。『晋書』巻24職官志「太常博士、魏官也。魏文帝初置、晋因之。掌引導乗輿。王公已下応追諡者、則博士議定之」。[上に戻る]

[18]『太平御覧』巻229『宋書』「太廟令一人、主守宗廟、案行洒掃、衆事。領齋郎二十四人」。赤字は佚文。宗廟の警備と掃除が仕事なんだって。[上に戻る]

[19]『周礼』春官・大史「大史掌建邦之六典、以逆邦国之治。・・・正歳年以序事、頒之于官府及都鄙、頒告朔于邦国」。[上に戻る]

[20]『周礼』春官・馮相氏「馮相氏掌十有二歳、十有二月、十有二辰十日、二十有八星之位、辨其敘事、以会天位、冬夏致日、春秋致月、以辨四時之敘」。天体を観察して、天体の位置と年月との対応を計算する仕事なんだって。[上に戻る]

[21]『周礼』春官・保障氏「保章氏掌天星、以志星辰日月之変動。以観天下之遷、辨其吉凶」。天体の異常な動きを観察して記録し、吉凶をはかる、というお仕事。[上に戻る]

[22]『続漢書』百官志二「霊台とは、太陽、月、星の気を観察することを役割とし、明堂とともに太史令の管理下に置かれる(霊台掌候日月星気、皆属太史)」。[上に戻る]

[23]『太平御覧』巻229『斉職儀』「毎陵令一人、品第七、秩四百石、銅印墨綬、進賢一梁冠、絳朝服」。『宋書』だとこれだけしか書かれていないので、『続漢書』百官志二から補っておこう。後漢にはまず、園令が一つの陵に一人置かれ、陵墓と霊園の清掃を職務とする。丞と校長が一人ずつおり、校長は警備員みたいなもの。また食官令が一つの陵につき一人配され、毎月十五日・末日および季節ごとの祭祀を管轄している。後漢以後どうなったのかはよくわからないが、あるいは陵令一人でこれらすべてを担当していたのかもね。[上に戻る]

[24]『太平御覧』巻230『宋書』に「乗黄令、晋官也。乗輿金根車及安車追鋒諸衆車馬」。本文とはまったく異なる文章で、『御覧』引『宋書』は沈約のものではないのかもしれない。『通典』巻25職官典7・太僕卿・乗黄署に「後漢太僕有未央厩令。魏改為乗黄厩。乗黄、古之神馬、因以為名、晋以下因之。宋属太常」とあり、乗黄厩が設置されたのは曹魏のときであるから、『御覧』引『宋書』が「晋官」としているのは誤りだろう。乗黄厩令は東晋まで太僕に所属していたが、宋では太常に所属することになったらしい。乗黄の名称の由来については次も参照。『太平御覧』巻230『斉職儀』「乗黄令、獣名也。龍翼馬身、黄帝乗之而仙、後人以名厩」。[上に戻る]

[25]『宋書』には記録がないが、晋代には協律校尉という楽官も太常に所属していたらしい。『晋書』職官志「協律校尉、漢協律都尉之職也、魏杜夔為之。及晋、改為協律校尉」。
 もう一つ『宋書』に記録のない官が鼓吹令。『通典』巻25職官典7太常鼓吹署「後漢には承華令がおり、宮中の鼓吹楽(大まかに言えば、管楽器の簫・笳と打楽器の鼓で合奏した音楽のこと)を管轄していた。少府の所属。西晋は鼓吹令と丞を置いた。太常所属。元帝は太楽令と鼓吹令を廃したが、哀帝は鼓吹令を廃して太楽令を残した(後漢有承華令、典黄門鼓吹、属少府。晋置鼓吹令・丞、属太常。元帝省太楽并鼓吹、哀帝復省鼓吹存太楽)」。そのあとの記述は梁にまで飛んでしまうため、劉宋期がどうだったのかは知らない。てか太学令って東晋のときは廃されたりしてたんだね、書いとけよ沈約・・・
 最後に、『続漢書』百官志二には太常の所属の官として太宰令一人、丞一人が記録されており、祭祀の際に使用する食器の管理・陳列を職掌としていたという。が、『通典』にも『御覧』にも項目がないので、後漢以後どうなったのかは全然わからないよお・・・[上に戻る]




 当初はつづく光禄勲や衛尉も記事に含めるつもりだったのだけど、いろいろやっているうちに太常だけでやばくなってきたので今回のようになりました。ここまでやるつもりはなかったのだけど、やりはじめるとやらなければ気が済まなくて・・・。
 それにしても、経学の古文・今文とか『尚書』の真偽問題とか、テキストの継承関係とか、そうしうところの知識がかなり薄いことをとても痛感しました。家になんとか参考になる資料はないものかと漁ってみたものの、ないんだよなあ・・・。いままであんまり注意を向けてなかった分野なんだろうなあ、と反省しました。

 それは措いとくとして、今回訳注してみた太常の記事。おおよその傾向としては、太常は祭祀や儀礼に関する役所ですよね。音楽しかり、宗廟・明堂・帝陵しかり。最も形式を美しくしなければならん仕事なわけですね。そんだけでした。

2013年10月26日土曜日

西晋時代の人事運用の一例(『晋書』李重伝)

『晋書』巻46李重伝
 遷尚書吏部郎、務抑華競、不通私謁、特留心隠逸、由是群才畢挙、抜用北海西郭湯、琅邪劉珩、燕国霍原、馮翊吉謀等為秘書郎及諸王文学、故海内莫不帰心。
 時燕国中正劉沈挙霍原為寒素、司徒府不従、沈又抗詣中書奏原、而中書復下司徒参論。
 司徒左長史荀組以為、「寒素者、当謂門寒身素、無世祚之資。原為列侯、顕佩金紫、先為人間流通之事、晚乃務学、少長異業、年踰始立、草野之誉未洽、徳礼無聞、不応寒素之目」。
 重奏曰、「案如癸酉詔書、廉譲宜崇、浮競宜黜。其有履謙寒素靖恭求己者、応有以先之。如詔書之旨、以二品繫資、或失廉退之士、故開寒素以明尚徳之挙。司徒総御人倫、実掌邦教、当務峻準評、以一風流。然古之厲行高尚之士、或棲身巖穴、或隠跡丘園、或克己復礼、或耄期称道、出処黙語、唯義所在。未可以少長異操、疑其所守之美、而遠同終始之責、非所謂擬人必於其倫之義也。誠当考之於邦党之倫、審之於任挙之主。沈為中正、親執銓衡。陳原隠居求志、篤古好学、学不為利、行不要名、絶跡窮山、韞韣道芸、外無希世之容、内全遁逸之節、行成名立、搢紳慕之、委質受業者千里而応、有孫孟之風、厳鄭之操。始挙原、先諮侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼。去三年、諸州還朝、幽州刺史許猛特以原名聞、擬之西河、求加徴聘。如沈所列、州党之議既挙、又刺史班詔表薦、如此而猶謂草野之誉未洽、徳礼無聞、舍所徴検之実、而無明理正辞、以奪沈所執。且応二品、非所求備。但原定志窮山、修述儒道、義在可嘉。若遂抑替、将負幽邦之望、傷敦徳之教。如詔書所求之旨、応為二品」。
 詔従之。

 (李重は)尚書吏部郎に移った。体裁ばかりで浮薄な人(「浮華」)を抑え込むのに努め、私的な斡旋を行なわず、とりわけ隠逸の士に心を向けていたので、多くの有能な士が推挙された。(例えば)北海の西郭湯、琅邪の劉珩、燕国の霍原、馮翊の吉謀らを抜擢し、秘書郎や諸王の文学に就けた。かくして、天下の人々はみな(李重に)心服したのである。
 当時、燕国中正の劉沈が霍原を「寒素」に推挙したが、司徒府は(劉沈の推挙を)採用しなかった。劉沈は抗弁のため、中書省に出向いて霍原のことを報告したところ、中書省はもう一度司徒府に調査を命じた。
 司徒左長史の荀組の意見、「『寒素』とは、家柄が低く、その人個人も貧素で、家代々の『資』[1]がない者を対象としている。(だが)霍原は列侯で、金印紫綬を帯びている。当初は世間をさすらい歩き、年をとってからようやく勉学に打ち込み、成人になってからやっと立派な行ないをおさめ、三十歳を越えてようやく成果をあげた〔原文「年踰始立」。『論語』の「三十而立」を意識した表現〕。原野における(彼の)名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない。(霍原は)『寒素』の科目にふさわしくない(以上が司徒府の下した結論である)」。
 李重の意見、「癸酉詔書〔原文ママ。詔書はしばしば下された日の干支を頭に着けてこのように呼ばれる〕には、『廉潔の士は重用し、浮華の者は退けよ。履謙・寒素・靖恭・求己(の科目)にふさわしい者がおれば、彼らを優先的に登用せよ』とある。詔書の主旨をかんがみるに、二品の評定を『資』に関係させて下してしまうと、(『資』を有していない)廉潔の士を失うことになるから、(『資』がない人士を対象とした)寒素の科目を設けて徳を尊重する選挙であることを明確にしたのである。司徒は人材を総括し、国家の教化をつかさどるところ、まさに厳格な人物評定に努め、風俗を正すべきである。さればこそ、いにしえの行ないに励んだ高尚の士は、ある者はほら穴に隠棲し、ある者は田舎に隠退し、ある者は身を節制して礼に立ち返り、ある者は年老いてから道を主張した。(彼らが)仕えるか退くか、黙るか話すか(を決めた基準)は、ただ義があるかどうかだけであった。(だというのに、このたびの司徒府は、霍原が)時間をかけて立派な行ないをおさめたことを評価せず、彼が善しとして固持していることを疑い、しかも過去をさかのぼって(行動が)終始一貫していないあやまち〔行動が軽薄だということ。具体的な経歴で言うと、最初はぶらつき遊んでいて、あとになってから勉学したことを指すか〕と同一視しているが、(このような評定は)人物は必ず同輩たちの徳義によって測らねばならないという原則に反している。まさしく、人物は郷党の友人たちや推挙の保証人[2]によって審査しなければならない。(このたび保証人となっている)劉沈は中正であり、みずから選挙の公務を執っている。彼が述べるところによると、『霍原はひっそり隠居生活を送って志をめざし、いにしえを尊重して学問を好み、利益のために勉学せず、名声のために行ないをせず、交際を絶って山にこもり、道術を修め、外面は立身出世を望む様子もなく、内面は隠逸としての節義をまっとうせんとしている。振る舞いが完成し、名声が広まると、人士たちは彼を慕うようになり、(弟子入りのための)贈り物を渡して学問の指導を受けようとする者は、千里をものともせずにやって来ている。霍原には孫卿(荀子)や孟軻(孟子)〔原文「孫孟」。勘でこの二人だと思ったが、自信はない。後漢末~魏の時期に孫炎という学者がいたが、ああるいは孫炎を指すかも。その場合、孟が誰かという問題になるが〕のような風格があり、(漢の)鄭子真や厳君平[3]のような節操が備わっている。最初に霍原を推挙しようとしたとき、事前に侍中・領中書監の(張)華、さきの幽州大中正・後将軍の嬰、河南尹の軼に(可か不可かを)たずねた(ところ、了承を得ることができた)。また三年前、各州の刺史が朝廷に戻ったとき、幽州刺史の許猛は霍原の名声が高く、西河太守(の某)に匹敵するとし、特別に(朝廷に霍原を)招聘するよう求めている』ということだ。劉沈によれば、郷党の意見はすでに得ており、また幽州刺史も(癸酉?)詔書を(州内に)ふれまわって、(霍原の)推薦を上表していることになる。このようであるというのに、『原野における名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない』と言い、保証の根拠となる事実を棄ておき、しかも明白な論理も正確な陳述もなく、劉沈の推薦をむりやり否決している。それに、二品にふさわしいというのは、全ての面が備わっていることを求めるのではない。ただ、霍原は固い意志を抱いて山にこもり、儒学と道術を修得しており、その義は評価すべきである。もし(彼を登用せずに)おさえつけてしまえば、幽州の名望家を裏切り、徳を厚くする教化を損なうことになるだろう。癸酉詔書が要望する趣旨に従い、(霍原を)二品にすべきである」。
 詔が下り、李重の意見を採用した。
 なかなか興味深い記事である。まず人事選考の流れをまとめてみると、
  中正の選挙→司徒府の採決――(可)―→尚書吏部の選考? 
              ┖―(不可)―→不採用
                                       ┖→中書が仲介して関係各所(中正・尚書・司徒府)で再審査
という感じだろうか? 知らんけど。
 『宋書』百官志上訳注(2)の注20、24で言及したように、司徒府には左長史という特殊な長史が置かれ、「掌差次九品、銓衡人倫」(『通典』巻20)、すなわち九品官人における品の評定を職掌としていたらしい。

 それと「寒素」という選挙科目だけど、文脈からしてどうやら「二品」に相当するみたいだね。科目のある選挙って言ったら、いわゆる「孝廉」「茂才(秀才)」「賢良」をはじめとする漢代の選挙が想起される。漢代の選挙は、郡太守(郡太守の人物推挙は「孝廉」という科目)や州刺史(刺史の推挙は「秀才」という科目)や二千石以上の高官が、特定の秩石以下の人物を推薦する仕組みとなっている。太守(孝廉)や刺史(秀才)のような定期的に行なわれる場合と、皇帝が不定期に二千石以上高官に推挙を求める場合とがあった(賢良、方正など。この場合の選挙を「察挙」と呼ぶ)。孝廉や秀才などに推薦された人物は中央に行き、皇帝の策問(時事や経義などにかんする質問)に回答(「対策」と呼ぶ)し、この試験結果次第で、その後に任命される官職やコースに差がでるわけです(あやふな知識で話してます。専門書としては福井重雅先生の『漢代官吏登用制度の研究』創元社、1988年が詳しい。一般書ではちょっと・・・)
 かかる他薦式の選挙方式は魏晋以後も細々ながら継続していたことが諸史料に見えている。霍原がかつて幽州刺史に推薦されたという話も、「秀才」に選ばれたことを言ってるんじゃないかな。もっと具体的な例を述べてみよう。東晋時代のこと、東晋初期は戦乱直後ということで特別に孝廉や秀才に試験を課さずに官に命じていたけども、落ち着き始めると元帝は試験制度を復活させた。そうすると今度は孝廉、秀才に推挙されてもそれに応じない者が続出し、たまに中央に来る者はいても、「病気なんで」とか言って何とか試験をやりすごそうとする。孔坦が「時期が時期だし、もう少し落ち着いてから試験を再開した方がいいっすよ」と提案すると、元帝は五年間孝廉の試験を免除した。だが秀才に関しては試験が存続したので、湘州刺史の甘卓は秀才も試験をなくすよう求めたものの、却下された。のち甘卓は谷倹を秀才に推挙した。当時、秀才に挙げられた人物は試験を嫌がってみんな応じず、中央試験に行くものは誰もいなかった。ちなみに秀才は定期的に義務づけられているので、刺史は恒常的に人物を推挙しなければならんのである。ところが谷倹はそうした当時の風潮をものともせず、一人だけ試験を受けに都に行った。ほかに受験者は誰もいないので、試験を実施せずに谷倹は合格となった。だが谷倹はどうしても試験をやらせて欲しいと懇願し、試験を受け、好成績を収めて郎中就任というエリートコースを得たのであった。という長々としたエピソードがあります。(『晋書』巻70甘卓伝、同書巻78孔愉伝附坦伝)
 ついわきに逸れに逸れてしまったが、要するに言いたいことは、中正による九品官人の選挙にも、郡太守や州刺史の「孝廉」「察挙」同様、科目名があったのだろうか、ということです。あったのかな。よくわからないけど。中正が人物評価をしたためるときは、「輩」という推薦人物と同格と思われる人物のリストと[4]、「状」という簡潔な人物評=才能の評価を作成するのだけど[5]、その「輩」や「状」に「こいつは何品くらい」って書いてそれで終わり、みたいな選考じゃなかったんだね。「寒素」に厳密な条件があったことからして、「輩」や「状」を作成しつつ各科目に仕分けして推薦する仕事もあったのかな。
 ちなみに「寒素」の科目で検索してみると、陸機のような孫呉系人士や陶侃など、たしかに寒門っぽい人たちがこの科目に挙がっていたようだ。

 さらに気になるのが、中正が推薦する際、事前に三人の人物に聞き訪ねてお墨つきを得たという話だ。このうち、「侍中・領中書監華」は訳文で補っておいたように、おそらく張華を指すと思われる。他の二人、某嬰と某軼は不明。だがここで張華が登場している時点でどういうやつらなのかは推測がつく。張華といえばそう、本貫は范陽、すなわち幽州の出身なんですよこれが。そうすると後文のいくつかの箇所が色々と思い当たって来るよね。「郷党の意見ですでに了承されている」「幽州の名士たちに背くことになる」とか。そう、それらの文言は張華や某嬰、某軼をはじめとする幽州の名士にもうお墨つきをもらってるんだけど文句あんの? ってことを言っているのだろうね。中正が人物を推挙するにあたって、その州の著名人に意見を聞くことが、郷党の意見から了承を得ることになっているわけだ。他の州でも同様だったのかもしれないし、これが常制だったかもしれない。まあつまりね、先行研究で散々議論されていた「郷論」っていうのはこういうもんなんじゃないですかね。

 と、つい長くなってしまいました。この李重伝の記事、宮崎市定『九品官人法の研究』にも取り上げられていて(中公文庫版、pp. 121-122, 157-158)、それなりに知られてはいるのだけど、もっと注目されるべき史料だと思うんだよなぁ・・・。
 ちなみに霍原は『晋書』隠逸伝にも立伝されています。このときのお話も少し載っているよ。霍原はのち、幽州刺史・王浚に因縁をつけられて殺されてしまいました。


――注――

[1]『資』は原文のママ訳出した。官制用語。だがどうやら用語であるらしいということがわかっているだけで、なにをもって「資」と呼んでいるのかは明確ではない。中村圭爾氏は昇進ルートのランクのようなものを指すと解しておられるようである。つまり、同じ品でも官によって出世コース上の官とそうでない官があり、出世コースのルートにつけるかどうかはその人がこれまでどのような官歴をたどってきたかに依るが、その官歴の累積ポイントのようなものが「資」で、「資」が一定まで積もればルートのランクがアップする、といった感じのようだ。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。
 ただ、中村氏も言及しているが、「資」に関する熟語には「門資」「世資」、さらには今回取り上げた李重伝の記事にも「世祚之資」とあるように、明らかに家柄に関する何かを意味しているような場合がある、というか比較的そのような用例が多い印象がある。かりに「資」を上のようなものと考えてみると、個人だけに留まらず家ごとに「資」が累積していたことになる。その場合、どのように「資」は決まっていたのだろう? 父の官歴?
 「資」という語は劉寔「崇譲論」(『晋書』巻41本伝所載)、劉毅「八損論」(『晋書』巻45本伝所載)などにも見えており、西晋時代にはもう一般的な語であったようだ。わたしもよく見かけてきた語で、以前からとても気になっていた語なのだけど、申し訳ないが具体的なイメージがいまだにつかめない。中村氏が言うように、人事運用上で参照される「何か」であることはたしかなのだが・・・
 余談だが、北魏には「階」という制度があり、官職の成績や勤続年数、あるいは軍功によって累積するもので、官を得たり転任する場合は「階」を参考基準として人事の運用がなされたという(岡部毅史「北魏の「階」の再検討」、『集刊東洋学』83、2000年)。中村氏の「資」の解釈にどことなく似ている。[上に戻る]

[2]人物推薦の際に保証人がつくことは、戦国秦から行なわれていた制度である。詳しくは楯身智志「秦・漢代の「卿」――ニ十等爵制の変遷と官吏登用制度の展開」(『東方学』116、2008年)を参照。[上に戻る]

[3]原文「鄭厳」。人名なのはわかるけど、誰のことだかはよくわかりませんね。このような、六朝時代の漢文で出典を調べるとき、最も役に立つのが『文選』の唐・李善注である。李善はひたすら典拠を記述するというスタイルで注釈をつけたため、熟語の出典をはじめとして調べものをするときはホントに助かるんですよ。え? でも唐代の人物じゃん? は、何言ってんの? 李善なんて現代の我々よりうん百倍と教養あるんですけど。むしろ李善さんを呼び捨てにするのもためらわれると感じないの? じゃあさっそくこの「鄭厳」の出典について、李善さんのお言葉を賜わることといたしましょう。幸いなことに、李善さんは我々を見棄ててはいなかった。『文選』巻23諸州の嵇康「幽憤詩」に「仰慕鄭厳」という句があり、李善どのの注、「漢書曰、谷口有鄭子真、蜀有厳君平、皆脩身保性。成帝時、元舅王鳳以礼聘子真、子真遂不詘而終、君平卜筮於成都市、以為卜筮賤業、而可以恵衆、日閲数人、得百銭、足以自養、則閉肆下簾而授老子、年九十余、遂以其業終」。この文章は現行『漢書』巻72王貢両龔鮑伝の冒頭からの節略引用である。鄭子真は官に招かれても応じず、隠居して世を終えた人、厳君平は占いを仕事にしていたが、それで満ちるを知り、仕事のあとは『老子』の教授などをしながら生活し、そのまま天寿を全うしたという。[上に戻る]

[4]輩で著名な話が司馬炎と鄭黙の事例。司馬炎が魏末に中正の選挙を受けたときのこと、郡内では司馬炎の「輩」に相当する人物がいなかったため、州内に対象範囲を広げて「輩」を探したところ、鄭黙に決まったという(『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝)。選挙するにあたって、「コイツはこの人物と同等ですよ」みたいなね、なんかそういうのが必要だったらしい。[上に戻る]

[5]状については矢野主税「状の研究」(『史学雑誌』76-2、1967年)が詳しい。矢野氏が状の例として挙げるのが、列伝冒頭にあるリズミカルな標語。例えば「少有風鑑、識量清遠」(王導)、「風格峻整、動由礼節」(庾亮)など。また中村圭爾氏によれば、状には才能評価だけを記したものだけでなく、それに加えて品を記したものを指す場合があったが、西晋になるとさらに、その人個人の官歴の記録(「薄伐」と言う)も状に記録するようになったという。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。[上に戻る]

2013年10月20日日曜日

『宋書』百官志上訳注(3)――特進・将軍

 特進は前漢のときに置かれた官で、両漢と魏、晋では加官であり、車や服は本官(の規定)に従うものとされ、府吏や兵卒は置かれない。晋の恵帝の元康年間、特進の位〔朝位(=朝廷での席順)を指す。以下たんに「位」という場合は同じ〕を公の下、驃騎将軍の上に定めた。

 驃騎将軍は一人。漢の武帝の元狩二年、はじめて霍去病を驃騎将軍に登用した。西漢の制度では、大将軍、驃騎将軍の位は丞相の次であったに位置する[1]
 車騎将軍は一人。漢の文帝の元年、はじめて薄昭を車騎将軍に登用した。魚豢が言うには、「魏のときの車騎将軍は、都督となった場合、礼儀は四征将軍と同じになった。もし都督とならなければ、持節であったとしても、四征将軍に統属する。その場合、礼儀は前、後、左、右、雑号将軍と同じである。また散官として置かれてとくに職務がない場合は、逆に文官の規程に従うものとされ、位は三司の次となるに位置する」[2]。晋、宋の車騎将軍、衛将軍は、四征将軍の指揮下に置かれたことがなかった。
 衛将軍は一人。漢の文帝の元年、はじめて宋昌を衛将軍に登用した。この三号将軍の位は三司に次いだ〔三号将軍は驃騎、車騎、衛のこと? 驃騎は三司より上みたいな記述が見えていたが・・・〕。漢の章帝の建初三年、はじめて車騎将軍の馬防の位〔原文は「班」、班位のこと。班位は朝位に同じ〕を三司と同じにした。位が三司と同じとなったのは、これより始まったのである。漢末の奮威将軍、晋の江右将軍、輔国将軍はみな「大」を加えられると、礼遇は三司と同じとした〔原文「儀同三司」〕。江左以来、将軍で中軍将軍、鎮軍将軍、撫軍将軍、四鎮将軍以上、あるいは「大」を加えられた将軍、将軍以外の官で左右光禄大夫以上の官は、みな儀同三司となれるが、これら以下の官はなれなかった。

 持節都督は定員なし。前漢で使者を派遣したとき、はじめて(使者に)節を持たせた。光武帝の建武の初め、天下の四方を征伐したとき、はじめて臨時的に督軍御史を置いたが、征伐が終わると廃された。(後漢の)建安年間、魏武帝が丞相となると、はじめて大将軍を派遣して軍を監督させた。例えば建安二十一年に孫権を征伐して帰還した際、夏侯惇に二十六軍を監督させている。魏の文帝の黄初二年、はじめて都督諸州軍事を置き、(州都督は)刺史を兼任〔原文「領」〕することもあった。黄初三年、上軍大将軍の曹真が都督中外諸軍事、仮黄鉞となると、内外の諸軍(の全て)を統べた。明帝の太和四年、晋の宣帝が蜀を征伐したとき、大都督を加えられている。高貴郷公の正元二年、晋の文帝が都督中外諸軍事となり、ついで大都督が加えられた。
 晋のとき、都督諸軍事を一番上、監諸軍事をその下[3]、督諸軍事をさらにその下とした。(また)使持節を一番上、持節をその下、仮節をさらにその下とした。使持節は二千石以下を誅殺可能で、持節は官や位がない者を誅殺できるが、軍事の際ならば使持節と同じである。仮節は軍事の際に軍令に違反した者を誅殺できる。晋の江左以来、都督中外諸軍事がとりわけ重職で、王導だけがこれに就任した。宋氏の人臣では(都督中外諸軍事に就いた者は)いない。江夏王義恭は仮黄鉞になっている。仮黄鉞とは、指揮下の将軍を自由に誅殺することができるもので、人臣の通常の待遇ではない。

 征東将軍は一人。漢の献帝の初平三年、馬騰がこれに就いている。征南将軍は一人。漢の光武帝の建武年間、岑彭がこれに就いている。征西将軍は一人。漢の光武帝の建武年間、馮異がこれに就いている。征北将軍は一人[4]。魚豢が言うに、「四征将軍は魏武帝が置いた。秩は二千石。黄初年間、位は三公に次いだに位置した。漢の旧制では、諸征将軍は偏将軍、裨将軍、雑号将軍と同等であった」[5]
 鎮東将軍は一人。後漢末に魏武帝がこれに就いている。鎮南将軍は一人。後漢末に劉表がこれに就いている。鎮西将軍は一人。後漢の初平三年に韓遂がこれに就いている。鎮北将軍は一人[6]
 中軍将軍は一人。漢の武帝が公孫敖をこれに任命したが、当時では雑号将軍である。鎮軍将軍は一人。魏の陳群がこれに就いている。撫軍将軍は一人。魏は司馬宣王をこれに任命した。中軍、鎮軍、撫軍の三将軍は四鎮将軍と同等であった。
 安東将軍は一人。後漢末に陶謙がこれに就いている。安南将軍は一人[7]。安西将軍は一人。後漢末に段煨がこれに就いている。安北将軍は一人[8]。魚豢が言うに、「鎮北将軍、四安将軍は魏の黄初年間、太和年間に置かれた」。
 平東将軍は一人。平南将軍は一人。平西将軍は一人。平北将軍は一人。四平将軍は魏のときに置かれた。

 左将軍、右将軍、前将軍、後将軍。左将軍以下(この四つの将軍)は周末の官で、秦、漢ともにこれを継承して置いた。光武帝の建武七年に廃されたが、魏以来復置されている。
 征虜将軍、漢の光武帝の建武年間、はじめて祭遵がこれに就いている[9]。冠軍将軍、楚の懐王が宋義を卿子冠軍に任じている。冠軍の名称はこれが初めである。魏の正始年間、文欽を冠軍将軍、揚州刺史としている。輔国将軍、漢の献帝が伏完をこれに任命している[10]。宋の明帝の泰始四年、(輔国を)改称して輔師とし、後廃帝の元徽二年にまた輔国に戻った。龍驤将軍、晋の武帝がはじめて王濬をこれに就かせている 。
 東中郎将、漢の霊帝は董卓をこれに就かせている。南中郎将、漢の献帝の建安年間、臨淄侯曹植をこれに就かせている。西中郎将[11]。北中郎将、漢の建安年間、〔阝焉〕陵侯曹彰をこれに就かせている。およそこの四中郎将は、何承天によると、みな後漢に置かれたという[12][13]
 権威将軍、漢の光武帝の建武年間、耿弇を権威大将軍としている。振威将軍、後漢の初めに宋登がこれに就いている。奮威将軍、前漢のときに任千秋がこれに就いている。揚威将軍、魏が置いた。広威将軍、魏が置いた。建武将軍、魏が置いた。振武将軍、前漢末に王況がこれに就いている。奮武将軍、後漢末に呂布がこれに就いている。揚武将軍、光武帝の建武年間に馬成をこれに就かせている。広武将軍、江左が置いた。
 鷹揚将軍、漢の建安年間、魏武帝が曹洪をこれに就かせている。折衝将軍、漢の建安年間、魏武帝が楽進をこれに就かせている。軽車将軍、漢の武帝が公孫賀をこれに就かせている。揚烈将軍、建安年間に公孫淵に授けている。寧遠将軍、江左が置いた。材官将軍、漢の武帝が李息をこれに就かせている。伏波将軍、漢の武帝が南越を征伐した際に、はじめてこの将軍号が置かれ、路博徳をこれに就かせている。
 凌江将軍、魏が置いた。凌江将軍以下には、宣威、明威、驤威、厲威、威厲、威寇、威虜、威戎、威武、武烈、武毅、武奮、綏遠、綏辺、綏戎、討寇、討虜、討難、討夷、蕩寇、蕩虜、蕩難、蕩逆、殄寇、殄虜、殄難、掃夷、掃寇、掃虜、掃難、掃逆、厲武、厲鋒、虎威、虎牙、広野、横野、偏将軍、裨将軍の計四十号がある。威虜将軍、光武帝が馮俊をこれに就かせている。虎牙将軍、(光武帝が)蓋延をこれに就かせ、虎牙大将軍としている。横野将軍、(光武帝が)耿純をこれに就かせている。蕩寇将軍、漢の建安年間、満寵がこれに就いている。虎威将軍、于禁がこれに就いている。そのほかの将軍号は、あるいは後漢や魏が置いたものだが、現在では置かれたり置かれなかったりしている。
 前、後、左、右将軍以下からこの四十号将軍まで、四中郎将だけは各一人ずつ定員があるが、ほかはみな定員がなかった。車騎将軍以下で刺史または都督となり、かつ儀同三司になった将軍は、常備軍を加えられた府と同じように府官を設けるが、ただし都督であっても儀同三司でなければ、従事中郎を置かず、功曹一人を置く。(功曹は)府吏のこと(全般)を掌り、(位は)主簿の上、漢末の官である。東漢の司隷(校尉の属官)には功曹従事史がおり、州の治中従事史のような官であるが、(この都督府の功曹は)その形式を継承したのである。(また儀同三司でない都督の府には)功曹参軍が一人置かれる。「佐□」を掌り、(位は)記室令史の下、戸曹(属)の上であった[14]。(都督でなく)監諸軍事であれば、諮議参軍、記室令史を置かないが、ほかは同じである。宋の明帝以来、皇子・皇弟は都督でなくとも、記室参軍を置いた。小号将軍(低級な将軍)が大きな辺郡の太守となり、属吏を置く場合は、また(上述の府とは違って)長史を置くが、ほかは同じである。


――注――

[1]『太平御覧』巻238『応劭漢官儀』「漢興、置驃騎将軍、位次丞相」、同巻『韋昭辯釈名』「驃騎将軍、(車?)騎将軍、秩比三公。辯云、此二将軍、秩本二千石」。[上に戻る]

[2]魚豢の著作としては『魏略』『典略』がよく知られていよう。ここの沈約の引用も、どちらかからのものであると考えて差し支えない。『南斉書』巻16百官志・序に「魚豢中外官」という記述が見えるが、これは上記史書が百官志に相当する「中外官(志)」という項目を設けていたことを示しているものと解せられる。魚豢の中外官も含め、六朝時代に編纂された官制関連の書物に関しては中村圭爾「六朝における官僚制の叙述」(『東洋学報』91-2、2009年)が詳しい。[上に戻る]

[3]『太平御覧』巻240『沈約宋書』「監軍、蓋諸将出征、大将監領之」。おそらく百官志の佚文。意味がいまいちよくわからない(ので翻訳しない)。ここの「監軍」も本文の「監諸軍事」と同一なのか、いまいち心許ない。たぶん違う気もするが・・・。とりあえず『通典』巻29職官典11監軍の条から大事だと思われるところを引用しておく。「漢の武帝は監軍使者を置いた。光武帝は来歙に諸将を監督させた。後漢末、劉焉は監軍使者で益州牧を兼任した。魏と晋ではともに監軍が置かれた。はじめ、(新末後漢初の)隗囂は軍に軍師(という役職)を設けていた。魏武帝のとき、また師官を四人置いた。晋のとき、景帝の諱を避けて軍司に改称された。およそ、どの軍にも軍司を置き、常設としていたが、それは適宜、ものごとに対応させるためである。これもまた監軍の仕事なのである(漢武帝置監軍使者。光武以来歙監諸将。後漢末、劉焉以監軍使者、領益州牧。魏晋皆有之。初、隗囂軍中嘗置軍師。至魏武帝、又置師官四人。晋避景帝諱、改為軍司。凡諸軍皆置之、以為常員、所以節量諸宜、亦監軍之職也)(原注は全て省略)。原注には晋の監軍として「孟康持節監石苞諸軍事」が例に挙げられているけど、やっぱり『通典』の文を見る限りでは、「監諸軍事」と「監軍」は違うのかもね。
 なお、『通典』はさらに続けて、「宋斉以来、此官頗廃」とある。『宋書』に監軍使者等についての言及が見えないのは、宋以降廃れてしまった状況を反映しているからなのかもしれない。[上に戻る]

[4]他の将軍号と違って例示がなされていないが、『通典』巻29職官典11四征将軍の条の原注に次のようにある。「魏明帝太和中置、劉靖為之、許允亦為之」。[上に戻る]

[5]「四征将軍は魏武帝が置いた」というのは、漢代までは非常設であったけれども、魏武帝以降は常設の将軍となった、ということだろうか。将軍に秩(俸禄)が定められているのもかかる事情に由来しているものかもしれない。[上に戻る]

[6]征北将軍同様、例示がないので『通典』巻29職官典11四鎮将軍の条の原注から補足しておく。「魏明帝太和中置、劉靖、許允並為之」。[上に戻る]

[7]同じく『通典』巻29職官典11四安将軍の条の原注より補足。「光武元年、以岑彭為之、晋范陽王虓亦為之」。[上に戻る]

[8]同じく『通典』巻29職官典11四安将軍の条の原注より補足。「晋以郗鑒為之」。『通典』でもこれだけやな。[上に戻る]

[9]『太平御覧』巻239『沈約宋書』「征虜将軍は世よ金紫将軍と呼ばれた(征虜将軍世号金紫将軍)」。佚文? 百官志にはない記述。[上に戻る]

[10]『太平御覧』巻240『沈約宋書』「呉は輔呉将軍を置き、その位は三司に次いだ(呉置輔呉将軍、班亜三司)」。輔国将軍とは別格だが、名前が似てるのでここに注をつけておいた。おそらくこれも百官志の佚文だと思われる。[上に戻る]

[11]同じく『通典』巻29職官典11四中郎将の原注より補足。「晋以謝曼、桓沖為之」。これだけなんだよなあ・・・[上に戻る]

[12]暦の大家・何承天は劉宋文帝のときに『宋書』の編纂を命じられているが、沈約『宋書』巻100自序によれば、「宋の著作郎の何承天がはじめて『宋書』を編纂し、紀伝を創立しました。(ですが、その伝は)武帝功臣までにとどまっており、薄い書物でした。(何承天が自分で)記述した志は天文志と律暦志だけで、そのほかの志は全て奉朝請の山謙之に任せました(宋故著作郎何承天始撰宋書、草立紀伝、止於武帝功臣、篇牘未広。其所撰志、唯天文、律歴、自此外、悉委奉朝請山謙之)」とある。また同書巻11志序によれば、何承天の『宋書』の「志は十五篇あり、司馬彪の『続漢書』(のような志)をめざした。何承天の(書物からの)引用が広く行なわれているのは、このような編纂方針だからである(其志十五篇、以続馬彪漢志。其證引該博者、即而因之)」。沈約はこの何承天『宋書』の志をベースにして志の編集を行なったようなので、ここの何承天の引用も何承天『宋書』からのものなのであろう。[上に戻る]

[13]なお『通典』巻29職官典11四中郎将によると「江左になると(四中郎将)は徐々に要職となり、ある者は刺史を兼任し、ある者は持節でありながら中郎将に就いた(江左弥重、或領刺史、或持節為之)」。[上に戻る]

[14]原文「主佐□□記室下戸曹上」。二文字目の欠字は「在」だろう。[上に戻る]

2013年10月12日土曜日

石勒ファミリー

 石勒、と言えば、西晋末期から五胡初期を代表する人物であるが、彼は「匈奴」劉氏や巴氐李氏と違い、族的なバックボーンが皆無なところから勢力を形成したことでも著名であろう。
 だが載記などを読んでみると、ちょくちょく石氏が出てきてるじゃん?ってなるじゃん? そこでね、今回は石勒時代の石氏たちの素性を詳しく調べてみた。これで石勒ファミリーの全貌がわかるね!

石虎
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石虎字季龍、勒之従子。勒父朱幼而子之、故或謂之為勒弟。晋永興中、与勒相之[1]。嘉平元年、劉琨送勒母王及虎于葛陂、時年十七。

石虎は字を季龍といい、石勒の従子である。石勒の父の周葛朱が幼少の石虎を子として養ったので、石勒の弟とも言われることがある。晋の永興年間、石勒と生き別れた。嘉平元年、劉琨が石勒の母の王氏と石虎を(石勒の駐留していた)葛阪に送った。そのとき、石虎は十七歳であった。
『世説新語』言語篇注引『趙書』[2]
虎字季龍、勒従弟也。
敦煌発見「晋史」残巻[3]
従子虎。
 「従弟」か「従子」かで記述に多少の違いがある。「従弟」とはおそらく、父方の兄弟の子でありかつ石勒より年少、ということであろう。石勒の父親がわざわざ引き取って育て、石勒の弟のようにしたというのもそれならうなずける。他方、「従子」とは父方・母方の兄弟姉妹の子を言うこともあるそうだ(『漢辞海』)そうなると「従弟」とほとんど同じ意味だね。ちがいます(2020/8/13)。まあ、こういう場合に各史料を整合的に突き合わせるのはあんまりよくないとは思うのだけど、とりあえず石勒より年少であり、石勒と父あるいは母を同じくする兄弟というわけではなさそう、ということだけおさえられればよろしい。

石会
『晋書』巻104石勒載記上
時胡部大張〔勹+背〕督・馮莫突等擁衆数千、壁于上党、・・・勒於是命〔勹+背〕督為兄、賜姓石氏、名之曰会、言其遇己也。

ときに、胡部大の張〔勹+背〕督や馮莫突らが数千の衆を擁して、上党に自衛拠点を築いた。・・・(ここにやって来た石勒は張〔勹+背〕督らを自分に従うよう説得し、成功すると、)石勒はこうして張〔勹+背〕督を兄(?)とし、石氏を賜い、「会」と名付けた。「石勒と出会った」ことを意味している。
 石勒が劉淵に帰順する直前のこと、石勒は上党にいた「胡部大」の張らを説得した、「オレはすごいから、オレに従え」。こうして張らは石勒の指揮下に入り、石勒はこの手勢を引き連れて劉淵のところへ行ったのだという。で、このときに「胡部大」の張に石氏を賜い、「オレと会ったのも運命なんやで」という意味で「会」の名を授け、石勒の兄弟としたのだそうだ。「胡部大」は詳しくわからんが、まあ胡族の親分とかそんなもんでしょう。唐長孺氏だったかは忘れたが、誰かが「烏丸には張姓が多い」とかいうことで、この胡部大の張は烏丸であろうとか推測していた気がする。記憶違いかもしれんが。

石生
『太平御覧』巻326所引『二石偽事』[4]
劉曜躬領将士二十七万、大挙征勒、勒養子生為衛将軍、領三千人、鎮洛金墉城。

劉曜はみずから将兵二十七万を統率し、全軍挙げて石勒を討とうとした。石勒は養子の石生を衛将軍とし、三千人を統率させて、洛陽の金墉城に駐屯させた。
敦煌発見「晋史」残巻
晋人則程遐・徐光・朱表・韓攬・郭敬・石生・劉徴、旧族見用者河東裴憲・穎川荀綽・北地傅暢・京兆杜憲・楽安任播・清河崔淵。
 興味深い事例。『二石偽事』によると養子として見えている。石勒載記・下などでも、石生は劉曜攻撃の先鋒に立ち、洛陽金墉城に駐留しているので、『二石偽事』の「養子生」は他書に見える石生と同一人物と考えてよいだろう。さらに敦煌「晋史」残巻には登用された「晋人」の一人に「石生」の名が挙がっているが、もしこの「石生」が「養子の石生」と同一であったとすれば、石生は石勒の養子となった晋人であることになる。なんとまあ!(ちなみに「晋史」残巻に挙がっている晋人のなかには有名人もいますね。石氏の外戚となる程遐、石勒の懐刀であり牛医の家から出た徐光、若き日の石勒を評価し援助していた郭敬、おそらく十八騎の一人で曹嶷を滅ぼしたあとに青州刺史として活躍した劉徴、などなど)
 また、『晋書』巻105石勒載記・下・附石弘載記に、石勒没後のこと、石虎が政権を握る中途におけることとして、
時石生鎮関中、石朗鎮洛陽、皆起兵於二鎮。

当時、石生は関中に出鎮し、石朗は洛陽に出鎮していたが、両者とも各鎮所で挙兵した。
とか、『宋書』巻24天文志二には、
其年七月、石勒死、彭彪以譙、石生以長安、郭権以秦州、並帰従。於是遣督護高球率衆救彪、彪敗救退。又石虎、石斌攻滅生、権。

咸和八年の七月、石勒が死ぬと、彭彪が譙で、石生が長安で、郭権が秦州で、みな(東晋に)帰順した。こうして、(晋の朝廷は)督護の高救に軍を統率させて派遣し、彭彪を救援しようとしたが、彭彪は(石虎に)敗れたたため、高救も退却した。また石虎、(虎の子の)石斌が石生と郭権を攻め滅ぼした。
とある。石勒晩年から石弘時期にかけての石虎が権力を手中にする時期においては、石生は長安に出鎮しており、石虎に対し反発の挙兵を実行している。出鎮ということはその周辺地域に関する大権を有していたのだろう、養子とはいえそれなりの権力を委託されていたようだ。なお、洛陽にいたという石朗は素性不明。

石聡
『晋書』巻63李矩伝
石勒遣其養子悤襲默。

石勒は養子の悤を派遣して郭黙を襲撃させた。
 この記事、石勒載記・下は「石聡」に作っている。まあ通じる字なので、同一人物と見なしてよろしかろう。ということで、石聡は養子。
 石聡も石生同様、石虎に反発したらしい。『晋書』巻7成帝紀・咸和八年(西暦333年)七月の条に、
石勒死、子弘嗣偽位、其将石聡以譙来降。

石勒が死に、子の弘があとを継いだ。後趙の将軍の石聡は譙を挙げて(晋に)来降した。
とあり、同様の記事は『晋書』巻78孔愉伝附坦伝にも、
咸康元年、石聡寇歴陽、王導為大司馬、討之、請坦為司馬。会石勒新死、季龍専恣、石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。

咸康元年(335年)、石聡が歴陽を侵略してきたので、王導を大司馬とし、討伐させることにした。王導は孔坦を司馬にしたいと要請した。たまたま石勒が死に、石虎が横暴に振るまったので、石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。
とある。前掲の史料に見えていた譙の彭彪も登場している。石聡も譙で降ったという先の『晋書』成帝紀の記事も重視すれば・・・譙の太守は彭彪だけども、石聡は譙に出鎮していたのかもしれないね。
 だがしかし、この二つの史料、おかしいと思いませんか? 年代合ってないじゃん・・・っていう。成帝紀によれば、石聡は咸和八年に降っているのに、孔坦伝では咸康元年に攻めてきて、そんときに降ったことになっている。咸康元年の攻撃は成帝紀にも記事があるが、そこでは石虎が攻めて来た、とあるのみ。また、当時歴陽太守であった袁耽の伝には、「咸康年間の初め、石虎が游騎十余を率いて歴陽に来た。袁耽はそのことを上奏して報告したが、騎馬が少ないことは言わなかった。当時、夷狄の侵略が激しく、朝廷も原野も危惧していたので、王導は宰相の重責をになうゆえにみずから討伐したいと願い出た(咸康初、石季龍游騎十余匹至歴陽、耽上列不言騎少。時胡寇強盛、朝野危懼、王導以宰輔之重請自討之)」とある(『晋書』巻83袁瓌伝附耽伝)。ほんとうに石聡が攻めて来たんだろうか? 石聡は咸康元年より前に降ったんじゃないだろうか? よくよく見れば、『宋書』天文志二の記事でも、彭彪は咸和八年に降ったことになっているじゃん、石聡も同時期に降ったんじゃねーの? 孔坦伝の記事うそくさくねーか?
 なんでこんなにこだわるかというと、じつはかなり重要な史料が『晋書』孔坦伝に掲載されているからだ。孔坦が石聡に送ったという書簡である。
石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。坦与聡書曰、「・・・将軍出自名族、誕育洪冑。遭世多故、国傾家覆、生離親属、仮養異類。雖逼偽寵、将亦何頼。聞之者猶或有悼、況身嬰之、能不憤慨哉。非我族類、其心必異、誠反族帰正之秋、図義建功之日也。・・・」。

石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。孔坦は石聡に書簡を送った。「・・・将軍は名族の出身でございまして、立派な家にてお育ちになられました。不運なことに、非常な時期に遭われまして、国は傾き、家は転覆し、親族とは生き別れ、一時的に異民族に養われたそうですね。(現在、将軍は)夷狄の恩寵に促されて(後趙に仕えて)いるとはいえ、どうしてやつらの恩寵が頼りになりましょうか。(将軍のような過去を)聞いただけの者でもいたましく思うもの、ましてやご自分の身に降りかかったことでありますれば、憤慨せずにおられましょうや。『我が族類でなければ、その心は必ず異なる』(『左伝』成公四年)と言われておりますが、まこと、(いまこそ)本来の族に戻り、正しきところに帰るべきときであり、義のために功績を打ち立てるべき日なのです。・・・」。
 このあとも孔坦は、「石聡よ、オレたちに味方しろ」「これから水陸一斉に北上すんぜ」などと述べている。なので、咸康元年の王導による撃退計画が立てられていたらしい様子がうかがえる。
 それにしても興味深い書簡じゃないですか。石聡が名族かどうかは世辞の可能性もあるので知らんが、もともとは晋人であったことが明記されてるやん! すげええええええ! ともろ手を挙げたいけれども、先に述べたように、そもそも石聡は咸康元年に降ったのだろうか? もしそうではなく、それ以前の咸和八年に降ったいたとすれば、この書簡も含む孔坦伝の記事はウソだらけっていうことになる。妙に生々しい書簡だから信じたいのだけど・・・あああああああああああああ
 強いて不思議なのが、この孔坦の書簡は降ってくる石聡に宛てたものというより、まだ後趙にいる石聡に離叛を促しているように読めるんだよね。咸和八年に降ると言っておきながら、行動には移さず、譙にずっと留まったまま晋の言うことを聞いていなかった、とかそういう感じだろうか。わからないねえ・・・。
 石聡だけ長くなってしまったが、結論としては、彼は石勒の養子であるということだけは確実なんだろう[追記1]

石肇
『太平御覧』巻499所引『趙書』(おそらく田融『趙書』)
石肇、前石之昆弟也。前石既貴、肇在軍中不能自達、人送詣前石、前石哀之、拝建威将軍。以肇無才力、毎高選参佐輔之。為娉広川劉典兄女、肇甚懼之。拝長楽太守、治官、毎入門、動称「阿劉、教可爾、不可爾」、時人以為嗤謡。

石肇は石勒の兄弟である。石勒が高貴になったあと、石肇は軍中において自力で動くことができず、石勒のもとまで人に送ってきてもらった。石勒は哀れんで、建威将軍を授けた。石肇は才能も武力もからきしなので、(石勒は)いつも有能な輔佐を選んで助けさせた。(また石勒は)石肇のために広川の劉典の兄の娘を嫁に取ったが、石肇は恐れおののくだけであった。長楽太守に任じられた。公務をこなしているときは、(役所の?)門に入るたび、いつも「劉や劉や、これでいいのか、よくないのか、教えておくれ」と言っていた。当時の人々はこれを笑い話とした。
 石肇の記述はこれだけ。載記にも登場しない。こんなんじゃ登場せんわな・・・。

石挺
敦煌発見「晋史」残巻
従弟挺。
 『晋書』載記にもしばしば登場する石挺は従弟である可能性がある[追記2]

石樸
『晋書』巻33石苞伝附樸伝
苞曾孫樸字玄真、為人謹厚、無他材芸、没於胡。石勒以与樸同姓、倶出河北、引樸為宗室、特加優寵、位至司徒。

石苞の曾孫の樸は字を玄真という。人となりは慎み深く、温厚であったが、ほかに才能はなかった。夷狄の支配におちいった。石勒は石樸と同姓であり、ともに河北出身であることから、樸を招きよせて宗室とし、特別に恩寵を加えた。司徒にまで至った。
 石苞は西晋時代の人。金持ちで有名だね。それにしても石勒の思考単純すぎだろ・・・。

石瞻
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石閔字永曽、虎之養孫也。父瞻字弘武、本姓冉、名良、魏郡内黄人也。・・・勒破陳午於河内、獲贍、時年十二。・・・勒奇之曰、「此児壮健可嘉」。命虎子之。

石閔は字を永曽といい、石虎の養孫〔養子の子〕である。父の瞻は字を弘武という。もとの姓は冉、名は良といい、魏郡内黄の人である。・・・石勒が乞活の陳午を河内で破ったとき、石瞻を捕えた。当時、石瞻は十二歳であった。・・・石勒は石贍を高く評価し、「この子は壮健で見どころがある」と言い、石虎に子とするよう命じた。
 ご存じ冉閔の父親。石勒ではなく石虎の養子だが、まあ同じようなもんでしょ、石勒の命令だしね。石瞻は劉曜との最終決戦の際に戦死したようである(『晋書』巻103劉曜載記)
 石瞻はもとの名が「良」であったためか、「石良」と記述されることもあったらしい。例えば『晋書』巻6明帝紀・太寧三年の条「石勒将石良寇兗州、刺史檀贇力戦、死之」は、石勒載記・下では「石瞻攻陷晋兗州刺史檀斌于鄒山、斌死之」と記されている。

 ほか、石弘、石宏、石恢が石勒の子っぽい。石斌は石勒の子なのか石虎の子なのか不明確でよくわからないwikiによると、石勒の子で石虎の養子になったらしいが)。素性が不明なのは石泰、石同、石謙、石堪、石他。石泰、石同、石謙は一度しか出てこないのでさっぱり。石他は途中で登場しなくなり、手がかりがない(太寧三年に劉曜軍と戦闘により戦死。『晋書』劉曜載記、『資治通鑑』巻93太寧三年の条)。石堪は石勒没後、石虎に反発して殺害される。数年前のわたしのメモには「義兄弟か養子」とあるのだが、何を根拠にしているのか自分でもわからない・・・[5][追記3]

 ということでね、わたしの感覚では石勒時代の石姓は擬似血縁者が多いと思う。わたしのピックアップの仕方が恣意的だと思う方もおられようが、仮にそうであったとしても、「匈奴」劉氏や巴氐李氏と比べると、異様なくらいに疑似血縁者が目立つはずだ。だって劉氏や李氏にそんな人たちがここまで見られただろうか?
 単に疑似血縁者に過ぎないと軽視できないのがミソである。石樸伝にあるように、彼らもみな「宗室」扱い。石生のように出鎮という大権を委ねられることさえあった。石勒は勢力形成・拡大する過程において、晋人などをみずからの宗室扱いとしながら血縁集団を創出したわけで、彼らを中核とした集団形成を企図していたのであろう。石勒が劉曜から独立する際に述べたと言う次の言葉も、かかる文脈から理解すべきかもしれない。
孤兄弟之奉劉家、於人臣之道過矣。若微孤兄弟、豈能南面称朕哉。(『晋書』石勒載記・下)

孤(わたし)の兄弟が劉家に奉仕すること、人臣の道を過ぎるほどであった。もし孤の兄弟がいなければ、どうして南面して朕と称せただろうか。
 最初にこれを読んだとき、えっ、おまえ言うほど兄弟いたっけ? って思ったんだけど、たぶん義兄弟・養子も含めた疑似血縁者のことを言ってたんだろうね[6]。こういう兄弟関係の原理って種族的・習俗的特徴なのだろうか[7]。あんまりよく知りませんが。そう言えば、唐後半期からの藩鎮の時代では、節度使と幕府官との仮父子関係が人間関係の原理として特徴的だと、どこかで聞いたことがある。そんで藩鎮といえば、やはりソグド系などの中央アジア諸族、北方諸族の人々が多く混じっていたことが近年指摘されている。なんか突っついてみると面白そうね。
 附言すれば、この「兄弟」の原理、石勒集団内部だけでなく、外部集団と関係を結ぶときにも持ち出されたらしい。
『魏書』巻1序紀・平文帝三年の条
石勒自称趙王、遣使乞和、請為兄弟。帝斬其使以絶之。

石勒が趙王を自称すると、使者を派遣して(拓跋氏と)和解を求め、兄弟の関係になるよう願い出た。平文帝はその使者を斬って絶交した。
『晋書』石勒載記・上
遣石季龍盟就六眷于渚陽、結為兄弟。

(石勒は)石虎を派遣して、段就六眷と渚陽で盟約を結ばせ、兄弟とさせた。
 せっかく父ちゃんが「兄弟になろう」と言っているのに、あろうことかそれを拒絶した拓跋氏はアホとしか言いようがない。拓跋氏は永遠に許されない。やつらを許すな!


――注――

[1]『晋書』巻106石季龍載記・上は「之」を「失」に作る。『十六国春秋』だと、「永興年間に石勒と知り合った」。載記なら「永興年間に石勒と生き別れた」。まあ載記のが妥当かなあ。ということで、「失」に字を改めて翻訳しました。[上に戻る]

[2]『趙書』は①前燕・田融撰と、②呉篤撰の二種あることが知られているが、多くは①を指す。『隋書』巻33経籍志二に「『趙書』十巻 一曰『二石集』、記石勒事。偽燕太傅長史田融撰」とある。[上に戻る]

[3]羅振玉『鳴沙石室佚書正続編』(北京図書館出版社、2004年)所収。20世紀初頭に敦煌で発見された写本。書名は無いが、東晋・元帝期の記事が編年体で記されており、羅振玉氏は東晋・鄧粲『晋紀』の写本と推定した。これに対し、周一良氏は鄧粲『晋紀』ではなく、東晋・孫盛『晋陽秋』であるとしている。周一良「乞活考――西晋東晋間流民史之一頁」(『周一良集』第壱巻、魏晋南北朝史論、遼寧教育出版社、1998年)参照。
 近年、岩本篤志氏がこの残巻を詳細に検討し、①唐修『晋書』よりは古いが、『資治通鑑』には影響を与えておらず、北宋期には散佚していた可能性がある、②『晋陽秋』である可能性を退けることはできないが、別の晋史である可能性が高い、などと述べておられる。岩本「敦煌・吐魯番発見「晋史」写本残巻考――『晋陽秋』と唐修『晋書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』2、2005年)。なお同論文には、岩本氏が校訂した敦煌発見「晋史」残巻のテキストも掲載されているので、参照されたい。[上に戻る]

[4]『隋書』巻33経籍志二に「『二石偽治時事』二巻 王度撰」とあり、『旧唐書』巻46経籍志・上には「『二石偽事』六巻 王度・隋翽等撰」とある。『隋書』によると、王度は「晋北中郎参軍」で、『二石伝』(二巻)という書物も編纂している。『史通』巻12古今正史には、「その後、前燕の太傅長史の田融、宋の尚書庫部郎の郭仲産、北中郎参軍の王度が二石〔石勒と石虎のこと。石勒を「前石」、石虎を「後石」とも言う〕の事跡を記述し、編集して『鄴都記』『趙記』などの書物を作った(其後燕太傅長史田融・宋尚書庫部郎郭仲産・北中郎参軍王度撰二石事、集為鄴都記・趙記等書)」と、後趙関連の史書を記述した人物として名が見えている。『晋書』巻95芸術伝・仏図澄伝だと、「著作郎王度」が石虎期の記事に見えており、このことから内田吟風氏は、王度は当初は後趙に仕えていたが、のちに東晋に降ったのだろうと推測している。隋翽については全くの不明。内田「五胡時代匈奴系諸国史の編纂とその遺文」(『龍谷史壇』79、1981年)参照。[上に戻る]

[5]wikiでも旧姓は田で、石勒の養子とある。少し調べてみたところ、『十六国春秋』にそのような記述があるらしい。が、わたしの持っている『十六国春秋輯補』および『十六国春秋纂録校本』にはかかる記述は見られなかった。『十六国春秋』はややこしい本で、北魏の崔鴻によって編纂された編年体の史書(記録により異同があるが、おおよそ百巻前後)なのだが、北宋~南宋くらいにいったん散佚し、明代に復元が試みられた(屠喬孫本)。ただこの屠本は現在ではあまり使われない。現在おもに使用されているのは、清の湯球が当時流伝していた『十六国春秋纂録』(十六巻。屠本より以前に成立していたらしいが、どういう経緯で編纂されたのかは全く不明。『隋書』経籍志に記載のある『(十六国春秋)纂録』のことだとか、後人が百巻本をコンパクトにしたものとか、載記をまとめただけだとか言われているが、詳しくはわからんらしい。孫啓治ら編『古佚書輯本目録 附考證』中華書局、1997年、p. 161参照。)を校訂した『十六国春秋纂録校本』、『纂録』をベースにしつつ、『十六国春秋』の佚文や『晋書』載記などで大幅に記述を補った『十六国春秋輯補』、の二つである。わたしが見落とした可能性もあるが、この二つでは石堪に関する記述を見つけることができなかった。屠本に書いてあるのだろうか? 今後機会があったら調べます。→[追記3]を参照。[上に戻る]

[6]あるいは、これまで一緒に苦楽をともにしてきた仲間たち全員のことを「兄弟」と言っているのだろうか。だとしたら石勒父ちゃんマジあったけえ・・・。[上に戻る]

[7]石氏はソグド(石国=タシュケント)出身のソグド人とする説もあったりする(譚其驤氏の論文、題名は忘れた。。ほか羯族にかんしては内田吟風氏など多くの先行研究がある)。たしかに「深目」などの身体的特徴は中央アジア種族と似ているのだけども、ソグド人と見てしまうよりも、中央アジア系との混血種族と見たほうが無難であるらしい(町田隆吉「西晋時代の羯族とその社会」、『史境』4、1982年。三﨑良章『五胡十六国』東方書店、2002年、p. 62)。あんまり羯族に関してはわたしも詳しく調べてないので、こんなことぐらいしか知らないです。[上に戻る]


[追記1]記事をアップした後、『資治通鑑』をめくっていたら、石勒の死没直後の咸和八年七月の条に「後趙の将軍の石聡と譙郡太守の彭彪が、それぞれ(晋に)使者を派遣して降服した。〔胡注:石聡はこのとき譙城に出鎮していたのである〕。石聡はもともと晋人であるが、姓を石氏に変えたのである。晋朝廷は督護の喬球を派遣して救援させようとしたが、到着しないうちに、石聡らは石虎に誅殺されてしまった(趙将石聡及譙郡太守彭彪、各遣使来降。〔聡時鎮譙城。〕聡本晋人、冒姓石氏。朝廷遣督護喬球救之、未至、聡等為虎所誅)」とあった。[上に戻る]

[追記2]『資治通鑑』巻95咸和八年の条の胡注に「挺、虎之子」とあったのを見落としていた。胡三省が何をもとに言っているのかは知らんが。[上に戻る]

[追記3]『資治通鑑』巻95咸和八年の条に「石堪はもともと田氏の子であったが、しばしば功績を立てたので、石勒は彼を養子とした堪本田氏子、数有功、趙主勒養以為子」とありました。申し訳ない、見落としていました。唐修『晋書』などには記載のない、『資治通鑑』だけの独自の五胡十六国情報はおおよそ『十六国春秋』が出典だと思われるので、『十六国春秋』に基づいて司馬光がかかる記述をした可能性が高いだろう。[上に戻る]

2013年10月8日火曜日

新・三国時代――後趙・東晋・成漢

 後趙の石勒と徐光とのあいだに交わされたというつぎの問答、なかなか面白くない?(『晋書』巻105石勒載記・下・附弘載記)
 遐退告徐光曰、「主上向言如此、太子必危、将若之何」。光曰、「中山常切歯於吾二人、恐非但国危、亦為家禍、当為安国寧家之計、不可坐而受禍也」。
 光復承間言於勒曰、「陛下廓平八州、帝有海内、而神色不悦者何也」。
 勒曰、「呉蜀未平、書軌不一、司馬家猶不絶於丹楊、恐後之人将以吾為不応符籙。毎一思之、不覚見於神色」。
 光曰、「臣以陛下為憂腹心之患、而何暇更憂四支乎。何則、魏承漢運、為正朔帝王、劉備雖紹興巴蜀、亦不可謂漢不滅也。呉雖跨江東、豈有虧魏美。陛下既苞括二都、為中国帝王、彼司馬家児復何異玄德、李氏亦猶孫権。符籙不在陛下、竟欲安帰。此四支之軽患耳。中山王藉陛下指授神略、天下皆言其英武亜於陛下、兼其残暴多姦、見利 忘義、無伊霍之忠。父子爵位之重、勢傾王室。観其耿耿、常有不満之心。近於東宮曲讌、 有軽皇太子之色。陛下隠忍容之、臣恐陛下万年之後、宗廟必生荊棘、此心腹之重疾也、惟陛下図之」。勒黙然、而竟不従。

 程遐は退出すると、徐光に告げた、「主上〔石勒〕がさきほど、かくかくしかじかと言っていたのだが〔程遐が石勒に石虎を排斥するよう進言したところ、石虎はそんなやつじゃない、自分は太子を輔佐させるつもりだと程遐の勧めを却下したこと〕、(こうであっては)太子〔石弘〕は必ず危険だ。どうしようか?」。徐光、「中山王〔石虎〕はつねに我々二人に歯ぎしりして(嫌って)いるから、(石虎が輔佐に就けば)おそらくたんに国家の危難であるだけでなく、我々の家の禍ともなろう。国と家を安寧させる計略を案じなければならん。ただ黙って禍を受けるわけにはいかぬ」。
 徐光は機会をうかがって再度、石勒に言った、「陛下は八州〔九州=天下の表現を踏まえれば、「天下の九分の八」の意か〕を平定し、帝王となって天下を保有しておりますのに、顔色が喜ばしくないのはどうしてでしょうか?」。
 石勒、「呉と蜀がまだ平定されておらず、文字と車輪の幅が統一されていないし、司馬家はなお丹楊に復興しているから、おそらく後世の人はわたしを(天の)予兆に応じた者ではないとみなすだろう。いつもこのことを考えているから、不覚にも顔色に出てしまったのだろう」。
 徐光、「臣が思いますに、陛下は腹心のやまいを心配する必要があるのであって、四肢のけがを心配するお時間なぞございません。どうしてでしょうか。魏は漢の暦運を継承した正朔の帝王でございます。劉備は巴蜀で漢を復興させたとはいえ、(魏が漢を継いでいる以上、)漢が滅んでいないとは言えません。呉が江東に割拠していたとはいえ、魏の有利な点〔魏が漢を継承していること〕を損なってはおりません。陛下はすでに二都〔洛陽・長安〕を手中におさめ、中国〔中原〕の帝王となっております。かの司馬家の小僧は劉玄徳とどこが違いましょうか。(巴蜀の)李氏も孫権のようなものです。予兆が陛下になければ、最終的にどこに帰結しようというのでしょう。呉蜀のことは四肢の軽いけがのようなものに過ぎません。中山王は陛下が神のような策略を授けたことに頼っているだけですが、天下の者はみな中山王の英略武勇は陛下に次ぐと言っておりまして、加えて残虐で邪悪な行ないが多く、利を見れば義を忘れるような者ですから、伊尹や霍光のような忠誠はないでしょう。(現在)親子で爵位は高く、権勢は王室を傾けるほどであります。(だというのに、)中山王が心を落ち着けていないさまを観察するに、つねに不満の心を抱いているのでしょう。最近では東宮で宴会を催しましたときに、皇太子を軽視する様子が見られました。陛下が我慢して中山王をお許しになっても、臣は陛下の万年のち、宗廟に必ずいばらが生えるであろうことを心配しております。これが腹心の重病であります。陛下はこのことだけをお考えください」。石勒は黙ったが、ついに従わなかった。
 石勒晩年のお話で、石虎の処遇がメインなわけですが、まあここはそんなんいいじゃない。そんなことよりも、ちゃっかり垣間見えている正統観、あるいは歴史観の方が面白いじゃないですか。
 つまり、徐光は後趙=曹魏=中原の帝王だと見る。自分たちは前代の王朝を正式に継承した正朔の帝王だと述べている。そうである以上、前王朝の残党(東晋=蜀漢)だとか、一地方の群雄(成漢=孫呉)が割拠しようが、自分たちの正統はまったく揺るがない。こんなやつら放っておいたって、自分たちの正統は何ら傷つかないから無視で構わん、そんなことより石虎が・・・。そういうロジックなわけだ。
 ここに見られるように、徐光は当時の時代状況を三国時代に擬えている。そう言われると確かに、かなり酷似している。大陸がおおよそ中原・呉・蜀の三つに分割されていて・・・端っこに小勢力(張氏前涼、鮮卑慕容氏)がいるのもどことなく似ている。
 それだけじゃない、劉備のように司馬睿が王朝の復興を掲げて一地方に中興するという政治的状況まで一緒なのだ。まさに三国時代の再来。
 この天下三分が解消されるのは東晋の永和三年(西暦347年)、桓温が漢の李勢を降し、益州を支配域におさめたときであった。以後、前秦に益州を奪われたり、譙縦が益州で自立したりすることはあったものの、基本的には江南王朝が益州を保有することになる。前・三国時代では中原王朝が四川を得て、江南を平定したのだが、今度の三国時代は江南が四川を得てしまったために、なまじ分裂がなかなか収束しなかったとさえ言えるかもしんない(適当
 そういうことなんでね、「三国志」の続編とでも銘打って、「趙・晋・成(漢)」の三国鼎立でだれか書いてみない?

2013年9月29日日曜日

『建康実録』の東晋巻について

 この記事では『建康実録』について書こうと思う。なお簡単な書誌情報については別途、記事(「『建康実録』概要」)を作成したので、そちらを参照されたい。
 さてこの『建康実録』、成立が唐中期とやや古いためもあってか、歴史学的にはそれほど参照されることがないものなのだが、史学史的に見ると、注目すべき価値を持っているものなのだ。
 例えば、劉宋の巻。『建康実録』の劉宋の巻は、簡単に通読しただけでも沈約『宋書』とはかなり雰囲気が異なっていることが明らかなのである。具体的に言うと、地の文に「裴子野曰」と裴子野なる人物の論が挿入されていたり、劉宋の巻末にはその裴子野の総論・自序があったりする。で、この裴子野という人は何ものかというと、かの裴松之を曾祖父に、裴駰(『史記集解』)を祖父にもつ史学の申し子なのだ(生没年=宋・泰始5年(西暦469年)―梁・中大通2年(530年))。やばいっすね。裴子野には『宋略』という著作があったことが知られている。
 『宋略』は沈約『宋書』をベースにしつつ、コンパクト、かつ簡潔にまとめ直したものらしいが、裴子野の独自色も強く表れていたらしく、沈約は『宋略』を見て「こりゃかなわん」と言ったとか[1]、劉知幾も「裴子野のが沈約のより断然良い」なんて言ったりしている[2]。現在は散佚してしまい、諸書に佚文があるのみで、輯本も作られてない[3]
 その裴子野の「論」「総論」「自序」もしくは佚文が『建康実録』の劉宋巻に引用されてるんですよ! まじ!
 そういうこともあってか、劉宋巻は裴子野『宋略』が底本と使用されて編集されたのだと古くから言われており、史料的価値が注目されてきたのです[4]。すでに史学史では『宋略』=底本説が通説っぽくなっているのだけども[5]、まあ昨年色々あって巻11武帝紀を徐爰『宋書』(佚文)、沈約『宋書』、李延寿『南史』と比較検討しながら読んだのだが、やはり『建康実録』の物語のプロットは独自なものがあって、『宋略』をベースにして編集をしているという説も、巻11に限って言えばその通りなんじゃないかと思う。

 と、長くなってしまったが、今回はこんなことを言いたかったのではない。あくまで東晋巻について書くつもりなのだ。
 わたしが注目したいのはつぎの記事。
是歳、散騎常侍領著作孫綽卒。
綽字興公、太原郡人也。馮翊太守楚之子。永嘉喪乱、幼与兄統相携渡江。・・・卒、時年五十八。
 この記事は巻8簡文帝紀の咸安元年(371年)の条にある。以前に六朝期の編年体史書は、紀年(「経」)の間に「伝」を挿入する形式であったことを指摘したが(「六朝期における編年体史書」)、この記事もその例に漏れず、孫綽死没の記事のあとに孫綽の簡潔な列伝が記されている。この『建康実録』の記事によると、孫綽は咸安元年に享年58で没したということになる。すると生年は建興2年(314年)になろう。
 それがいったい何だねと思われようが、じつは唐修『晋書』には孫綽の没年が記されていないのである。なので、孫綽の生年なぞわかりようがなかったのだが、『建康実録』によって判明したのだ。お手柄だね!
 それだけじゃない、孫綽の生年が判明したことでもう一つわかりそうなのが、孫盛の生没年だ。上掲の孫綽の略歴にもあるように、彼は「永嘉の乱」の際に兄の孫統と長江を渡った。「永嘉の乱」というと、なんとなく洛陽が陥落した永嘉5年(311年)のことであろうと考えてしまう。が、「永嘉の乱」というのは非常にあいまいな用語で、建興4年の長安陥落までを含めて「永嘉の乱」と言うこともある。まあそこら辺は機会があったら記事にしましょう。
 だが、孫綽の生年が上述したとおりであるとすれば、かれが永嘉5年に長江を渡ることは不可能であり、孫氏兄弟の渡江は建興2年以降となりそうだ。さらに重要なことに、この孫氏兄弟の渡江には従弟の孫盛が同行していた。孫盛はそのとき10歳であったという(『晋書』巻82孫盛伝)。もし孫子兄弟の渡江が永嘉5年であるとすれば、孫盛の生没年は太安元年(302年)―寧康元年(373年)と簡単に計算できるのだが・・・現に先行研究ではそのように推測されてきた[6]。だが孫綽の生年が上述の通りであるとすると、孫盛のそのような生没年推測は成り立たないことになるのだ。! なんとまあ、孫綽の生没年がわかるだけで色々わかること!
 しかし問題は、『建康実録』の記事は信頼できるのか、ということだ。なにしろ成立は唐代なのだ、この記事は信頼できんのだと一蹴しようと思えばできんこともなさそうである(というかされた)。
 が、どうであろう。冒頭でわざわざ、『建康実録』の劉宋巻は沈約『宋書』や李延寿『南史』とは別系統の史書・裴子野『宋略』をベースにしている可能性が高いと言ったのは、他の巻でもその可能性が考えられるのではないかと言いたかったからだ。安田二郎氏が『建康実録』独自の文を全く信頼ならないものではなく、佚書『宋略』に基づく貴重な史料だと見なしたように、上の孫綽の記事も信頼に足らぬ記事ではなく、何らかの佚書からの文章であると考えるべきでないだろうか。例えばそう、東晋・徐広『晋紀』だとか劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』だとか。わたしはそういう可能性で考えるべきだし、少なくとも、『建康実録』の文が全くデタラメであるという根拠がない限り、『建康実録』の独自情報は無視すべきでないと思う。

 そういうわけで、わたしは劉宋巻にはもう飽きてしまったのだけど、逆に東晋巻にはたいへん興味を持っていて、いつか唐修『晋書』だとかと色々比較して、『建康実録』をしっかり分析してみたいなあと考えたりしてます。おわり

――注――

[1]『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒、子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其敘事評論多善、約見而歎曰、『吾弗逮也』。蘭陵蕭琛・北地傅昭・汝南周捨咸称重之」。[上に戻る]

[2]『史通』内篇・叙事「夫識宝者稀、知音蓋寡。近有裴子野『宋略』・王劭『斉志』、此二家者、並長於叙事、無愧古人」、同書外篇・古今正史「世之言宋史者、以裴略為上、沈書次之」など。そもそも劉知幾さんは編年体が好きだし、沈約が嫌いだったようで所々で悪口言ってるし、まあそういうとこもあって、裴子野>沈約と評価している印象もある。[上に戻る]

[3]佚文に関してはつぎの通り。
「論」(「裴子野曰」)→『建康実録』(巻11・12・14に複数)、『資治通鑑』(巻128(二つ有)・132・133)、『通典』(巻14・16・141)、『文苑英華』(巻754)。『建康実録』以外は厳可均『全梁文』巻53に収録されている。これらはわたしが実見したものだけに限っているが、ほか『長短経』という唐代の書物にも裴子野の「論」が引用されているという。詳しくは、周斌「『長短経』所引『宋略』史論的文献価値」(『史学史研究』2003-4)を参照。また「総論」に関しては、蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)で詳細な校勘がなされている。
佚文→『建康実録』(巻13に4条)
 そもそも『宋略』に限った話ではないのだが、散佚した宋史に関しては全く輯本が無い(『古佚書輯本目録』および『六朝史学』「佚書輯本目録」を確認した限りでは。ただ実見はしていないのだけども、周斌氏によると、唐燮軍「也論裴子野的『宋略』」(『史学史研究』2002-3)が『宋略』の輯佚・校注を行なっているらしい)。『太平御覧』等には、徐爰『宋書』(孝武帝年間成立。沈約『宋書』のベースになったと言われている。『太平御覧』『芸文類聚』の皇帝略歴の項目には、沈約ではなくこれが引かれている。おそらく北斉『修文殿御覧』の影響だろう)、王琰『宋春秋』なんかが引用されているのだけどね。とはいっても、「旧晋史」と比べれば圧倒的に佚文は少ないし、いたしかたない。[上に戻る]

[4]王鳴盛『十七史商搉』巻64「建康実録」、『四庫全書総目』巻50など。安田二郎氏は『建康実録』にしか見られない文章に着目し、それが唐の許嵩が勝手に書き込んだものではなく、裴子野『宋略』独自の文だと解釈することで、土断の新解釈を示されている(安田二郎『六朝政治史の研究』第十章、京都大学学術出版会、2003年)。『建康実録』が『宋略』ベースであれば、いくら唐代成立の書物であるとはいっても、南朝史研究に棄ておけない史料となるのである。[上に戻る]

[5]唐燮軍氏は、原注もしくは地の文にしばしば沈約『宋書』がママ引用されていることを指摘し、完全に『宋略』ベースではないとする。唐燮軍「辨『建康実録』記宋史全据『宋略』為藍本」(『中国史研究』2005-2)参照。いやまあ、代々「藍本」(底本)とわざわざ言われてきたのは、あくまでベースって話では? そりゃ完全な丸写しをしているなんて誰も思ってないだろうし、許嵩なりのアレンジはあるでしょう。そこに沈約や李延寿の文章が混じっていたって、当然なんじゃないかな。
 しかしながら、わたしも少し慎重に考えた方が良いかもしれないと思っている。裴子野の引用状況にはばらつきがあるからだ。最初の武帝紀、文帝紀にはけっこう「論」が見られるのに、それ以降はぱったりしてしまう。いったいどういうことだろうか。まだちゃんと全面的に検討してないので、いずれちゃんと調べてみたいね。[上に戻る]

[6]蜂屋邦夫「孫盛の歴史評と老子批判」(『東洋文化研究所紀要』81、1980年)p. 22、松岡栄志「孫盛伝(晋書)――ある六朝人の軌跡」(伊藤漱平編『中国の古典文学――作品選説』東京大学出版会、1981年)p. 33、喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1989年)「前言」p. 6、長谷川滋成『孫綽の研究――理想の「道」に憧れる詩人』(汲古書院、1999年)pp. 16-19参照。長谷川氏は上掲の『建康実録』の記事を引いて、これだと孫盛が永嘉4年に渡江することは不可能になるとしつつも、『建康実録』の記事は信頼できないとして棄却している。
 対して、『建康実録』の情報を積極的に活用したのが王建国氏で、氏は孫氏の渡江を長安が陥落した建興4年(316年)にかけ、孫盛の生没年を永嘉元年(307年)―太元3年(378年)と推定している。王建国「孫盛若干生平事迹及著述考辨」(『洛陽師範学院学報』2006‐3)参照。まあ別に建興4年にかける必要もない気はするけど、『建康実録』を無視した説よりは支持できる。[上に戻る]

『建康実録』概要

 『建康実録』という史書をご存知だろうか。コアな方なら知っておられようが、あまり一般での知名度は高くないはずだ。
 『建康実録』は「六朝」の事跡を叙述した史書のことである。具体的には、孫呉(巻1~4)、東晋(5~10)、劉宋(11~14)、南斉(15・16)、(17・18)、(19・20)。基本的には編年体だが、劉宋以降は列伝が附され、南斉・梁は完全に紀伝体となっている。孫呉や東晋の巻では、原注のような形で佚書が引用されることもしばしばある(特に建康に関する情報が豊富なことで有名)[1]。撰者は「序」で、
①「南朝六代」「東夏之事」を記載範囲とする
②「六朝君臣」の事跡については、必ずしも完備を追求しない
③「土地山川」「城池宮苑」については、その場所を明示する
④異聞は煩瑣にならない程度に注記しておく
などと述べている。
 撰者は唐の許嵩。その事跡は不明だが、『建康実録』巻10恭帝紀の末尾にある「案、東晋元帝即位太興元年、至唐至徳元年、合四百四十年」という記載から、玄宗・粛宗期の人だと考えられている。この許嵩、どうも建康に居住して、六朝時代の史跡を実見している可能性が高いようである。先も少し触れたように、建康関連の情報が豊富であることや、山川や宮城の場所を明記するという編纂方針からしても、そのことが推測されようし、『宋史』芸文志によると、許嵩は『六朝宮苑記』という書物も作っているようなので、地理関連に関してはなかなか豊かな知識を持っているようだ。
 しかし、そういう特徴=長所があるとはいえ、『建康実録』の評価は低い。後世での評価の主なものを箇条書きにしてみると、
・編年体なのか紀伝体なのか。体裁の不統一はちょっとなぁ・・・(群斉読書志、四庫総目)
・佚書を豊富に引いているのはよろしい(四庫総目)
・列伝の取捨選択のバランス悪い、李延寿にはるかに及ばない(王鳴盛)
・南斉・梁・陳の記述にやる気を感じられない
 一番最後は誰が言っていたか忘れてしまったが、まさしくその通り。はじめの孫呉、東晋まではかなり力の入った記述なんですよ、原注もたくさんつけているし。ところが、劉宋くらいから雲行きが怪しい。なんかテキトーに書いてんじゃねえのコイツ?みたいな雰囲気が漂い始め、南斉・梁・陳に関しては、(正確に検討はしていないけど)「正史」の本紀・列伝をコピペしただけ。なんともお粗末。全体を細かく検討したというわけではないので、根拠があまりない推測になってしまうが、『建康実録』は未完の書なんじゃないか、と思うことがある。本来は編年体で統一するつもりだったが、途中でやる気がなくなったかなんかで、結局紀伝体(=編集途中)のまま放置してしまった、みたいな。あるいは南斉・梁・陳に関しては、手本となる良質な編年体史書が無かったとか? いやそうだったら、自分で編集して編年体にまとめればいいじゃん、って結局そうなるのだけど[2]

 つぎに本について少しまとめておこう。じつは『建康実録』、上述したように一つの史書としては非常に中途半端であったためか、北宋の中ごろに伝えられていた本はすでにボロボロで、欠損や錯簡がひどく、読むのも困難であったらしい。そこで北宋の嘉祐3年(西暦1058年)に校訂が行なわれ、翌年に完了し[3]、一応の版本ができた。この北宋嘉祐本は現存こそしていないものの、このあとに成立した本の系統の祖本であるらしい。もちろん、この北宋本で欠損や錯簡が完全に復元されたわけではない。最新の本でも残欠が残っていたり、読みづらい箇所が多々あったりするのも、北宋本以来、もうどうしようもないところなのだろう。
 現存で最も古い本は「紹興十八年(1148年)」の記載がある南宋紹興本(刊刻本)である。北宋本を継承したと思われるが、かなり誤りが多いらしい。その他にも色々本はあるのだけど、とりあえず現在最も利便な本は、張忱石氏が校訂した『建康実録』上・下(中華書局、1986年)である。これは清の光緒28年(1902年)に刊行された清光緒甘氏本を底本とし、その他現存する刊刻本・鈔本(写本)をほぼ全て参照して校勘、さらに正史や『資治通鑑』などの関連史書も利用して校訂したという。[4]
 要するに本にまで触れておいて何が言いたかったのかというと、『建康実録』は祖本となる北宋本以来、残欠や錯簡があり、不完全な書物である、ということが言いたかった。


――注――

[1]佚文の蒐集家として著名な厳可均、湯球も『建康実録』の佚文だけは蒐集していない。なので、「全文」や「八家旧晋書」の輯本だけで満足しないように。ちなみに最近出版された『三十国春秋輯本』(湯球輯、呉振清校注、天津古籍出版社、2009年)は、湯球が集め損ねた『建康実録』原注引用の『三十国春秋』を集め直してある。[上に戻る]

[2]安田二郎氏も、「体例の不純一つ取っても、もしも許嵩が再度見直して余裕をもって対処したら、調整、補訂が十分できるミスや欠陥だったのではないでしょうか。・・・何らかの切迫した事情があり、慌ただしく書かざるを得なかった書物ではないかと考えられてくるのです。」「序文で『歴史的事実は正史に質し』などと大書しているのに、実際には基礎的、基本的知識のないまま、しかも正史をきちんと読みもせず、ノリとハサミで大急ぎで書き上げた体の書物であり、第一次的草稿としか言いようのないように思われます。」と述べている。安田二郎「許嵩と『建康実録』」(『六朝学術学会報』7、2006年)pp. 127, 129 参照(強調は筆者)。[上に戻る]

[3]『建康実録』最後の巻である巻20の末尾に「江甯府嘉祐三年十一月開造『建康実録』、並按三国志、東西晋書并南北史校勘、至嘉祐四年五月畢工、凡ニ十巻、揔二十五万七千五百七十七字、計一千策」とある。『三国志』だとか他の史書を参照しつつ、校訂を行なったらしい。なお原文の書き方として、ここで言及されている「晋書」や「南北史」は、唐修『晋書』や李延寿の「南北史」を指す固有名詞ではなく、「西晋と東晋の史書ならびに南朝・北朝の史書」のことを言っているのかもしれない(そのように解釈すれば、沈約『宋書』、蕭子顕『南斉書』も「南北史」に含まれることになる)。[上に戻る]

[4]以上、『建康実録』の基礎的内容や版本情報は、張氏テキストの上巻「点校説明」を主に参照した。[上に戻る]

2013年9月23日月曜日

太宰と太師が並置できるってまじ?

 昨日の太宰に関する記事を出したあと、ツイッターで次のような指摘を頂いた。


 さっそく見てみると、『晋書』巻111慕容暐載記に以下のような記事がある。
升平四年、僭即皇帝位、大赦境内、改元曰建熙、立其母可足渾氏為皇太后。以慕容恪 為太宰・録尚書、行周公事。慕容評為太傅、副賛朝政。慕輿根為太師。・・・

升平四年、(慕容暐は)僭越にも皇帝の位についた。支配領域内に大赦を下し、建煕と改元し、母の可足渾氏を皇太后に立てた。慕容恪を太宰・録尚書とし、行周公事[1]とした。慕容評を太傅とし、朝政を輔佐させた。慕輿根を太師とした。・・・
 確かに並置されている・・・!
 そしてこの指摘を受けて思い出したのだが、匈奴劉氏の漢も太宰と太師が並置されているのだ。
粲誅其太宰・上洛王劉景、太師・昌国公劉顗、大司馬・済南王劉驥、大司徒・斉王劉勱等。(『晋書』巻102劉聡載記)

劉粲は太宰の上洛王劉景、太師の昌国公劉顗、大司馬の済南王劉驥、大司徒の斉王劉勱らを誅殺した。
 もうっ、匈奴ったらあほたむだなぁっ! くらいにしか思ってなかった。そりゃそうだろう、「太宰=太師の別称」説に立っていれば、こんなん無知にしか思えん。しかも非漢族政権ときたもんだから、まあ無知でもしょうがなかろうと考えてしまう。
 が、しかし先日の記事で指摘したように、『斉職儀』に記されている説=「太宰は単に『周礼』に従って置いただけで、諱を避けるために太師の代わりとして置いたわけではない」という話を信じれば、これら五胡政権の並置は何ら不思議なことではなくなるのだ。だって、そもそも太宰は太師の別称ではないし、太宰と太師とは全く別の独立した役職ということになるのだから。
 それに、つい五胡政権だから中国官制に無知だろうなんて思ってしまうけれど、こうした中国式制度の確立・整備をするためには、漢人知識人の力が必要だ。というか彼ら漢人ブレーンによってほとんど構築されているに違いなかろう。もし「太宰=太師」であるというのなら、彼ら漢人ブレーンがそんな単純なミスを犯すとも思えない。という風に考えると、「太宰=太師」説というのはかなり胡散臭く思えないだろうか。

 ということで、別に決定的な根拠があるわけではないが、わたしは「太宰とは、諱を避けるために太師の代わりとして置かれた官職である」という説を棄却し、「『周礼』に従って設けた官職であって、太師とは関係なく置かれた」説を採用しようと思う。沈約さん、あんたまちがってるで、あんたの採用した説が俗説なんや!(ドヤ


――注――

[1]周公のような権限あげますということ。周公は太宰であったと伝えられているから(『漢書』王莽伝・上、『宋書』百官志・上など)、その故事を意識して太宰と行周公事をセットで与えたのだろう。[上に戻る]

2013年9月22日日曜日

太宰ってさあ・・・

 Wikiより引用。
晋において再度太師、太傅、太保を置いたが、「師」が景帝司馬師の諱であることから避けて太師を太宰と称した。
 このWikiの記述は『宋書』百官志・上に基づいているようだ。本ブログの訳注より引用。
太宰は一人。周の武王のとき、周公旦が初めてこれに就任し、国の政治を掌り、六卿の第一位であった。秦、漢、魏は置かなかった。晋の初め、『周礼』に拠って三公を設置した。三公の官職では太師が第一位であったが、景帝の諱が「師」であったため、太宰を置いて太師の代わりとした。
 わたしもすっかりそうなんだろうと思っていた。けれど、訳注作成中に記事を整理していたところ、訳注でも紹介した『斉職儀』に次のようにあるじゃありませんか。
太宰品第一、金章紫綬、佩山玄玉。・・・秦漢魏無其職、晋武以従祖安平王孚為太宰。安平薨、省。咸寧四年又置。或謂、本太師之職、避景帝諱、改為大宰。〔或謂、太宰、周之卿位、〕晋武依周、置職以尊安平、非避諱也元興中、恭帝為太宰桓玄都督中外、博士徐豁議、太宰非武官、不応都督、遂従豁議。(『太平御覧』巻206引)

太宰の官品は一、金の章・紫色の綬で、山玄玉を佩く。・・・秦・漢・魏には置かれなかったが、晋の武帝は従祖の安平王孚を太宰とした。安平王孚が薨ずると、(太宰を)廃した。咸寧四年にまた置いた。一説に、元来は「太師」であったが、景帝の諱を避けて、「太宰」に改められたと言う。また別の一説に、太宰は周の卿であり、晋は周に倣って「太宰」を置き、安平王孚を(それに任じることで)尊重したのであって、諱を避けたわけではないと言う晋の元興年間、恭帝は太宰の桓玄を都督中外諸軍事にしようとしたが、博士の徐豁が議して、太宰は武官でないから都督中外諸軍事は相応しくないとしたため、ついに徐豁の議に従っ(て桓玄を都督中外にしなかっ)た
 諱を避けたわけでも何でもなく、単に西晋王朝の周回帰志向から太宰が置かれたという[1]まあたしかに、太(大)宰は『周礼』に出てくるが、太師は出てこない。(『周礼』にそのままの字句で登場こそしないが、春官に師氏があるのでこういうふうに言うのは問題ありであった。というわけで訂正する。――2016年8月9日)全くのデタラメとも言い難い。
 そもそもこの『斉職儀』とは何か。『隋書』経籍志二には二つの『斉職儀』が掲載されている。一つが南斉の王珪之の撰で五十巻、もう一つが撰者不明の五巻[2]。王珪之は琅邪王氏の一人で、『南斉書』巻52文学伝、『南史』巻24王准之伝に附伝が設けられており、それらに『斉職儀』編纂のことも明記してある。後者の撰者不明のやつは、五十巻本のダイジェスト版とかかもしれんね。
 内容については、次の『南斉書』の附伝の記述を参照いただきたい。
永明九年、其子中軍参軍顥上啓曰、「臣亡父故長水校尉珪之、藉素為基、依儒習性。以宋元徽二年、被敕使纂集古設官歴代分職、凡在墳策、必尽詳究。是以等級掌司、咸加編録、黜陟遷補、〔悉〕該研記、述章服之差、兼冠佩之飾。属値啓運、軌度惟新、故太宰臣淵奉宣敕旨、使速洗正、刊定未畢、臣私門凶禍。不揆庸微、謹冒啓上、凡五十巻、謂之斉職儀。仰希永升天閣、長銘祕府」。詔付祕閣。

永明九年(西暦491年)、王珪之の子である中軍参軍の顥が上申した、「臣の亡父である、もと長水校尉の珪之は、飾り立てずに本心のままに在り、儒学を拠りどころとして習慣にしていました。宋の元微二年(474年)、勅命を受け、過去に置かれた官職や歴代の職務(の変遷)をまとめること、古籍の記述にあるものはすべて、必ず網羅することを命じられました。こうして、(官職の)位の階級や職掌は、すべて記述され、(時代に伴う官の位の)上下の移動や変更、追加も万遍なく調査して記録し、(さらに官の)印章や服装の等級、冠と佩玉の装飾品(の差異)も記しましたちょうど革命の時期にあたり、車輪の幅と度量衡が改まり(天下が一新し)ましたので、もと太宰の褚淵が勅使を伝えて参りまして、急ぎ整理して校正するようにとのことでしたが、校正が終わらないうちに、臣の家に不幸が襲ってきたのでした。不才ではございますが、ここにつつしんで申し上げたく存じます。全てで五十巻、『斉職儀』と申します。永代まで朝廷の秘閣に所蔵されますことをお願い申し上げます」。詔が下り、秘閣に所蔵された。
 南斉の官職について述べたものではなく、南斉の時期に朝廷に収められたから『斉職儀』と名付けられたのだろう。内容や編纂方針としては『宋書』百官志とそれほど変わらないように思える。
 だとすれば不思議なのが、どうして沈約は先の太宰にまつわるエピソードを一つ採用、一つリジェクトしたのだろうか。沈約は建元四年(482年)に最初の『宋書』編纂の勅旨を下され、永明六年(488年)に本紀・列伝を完成させ、謹上した。志に関してはその後、梁の初めころに完成したと見られている(中華書局標点本の「出版説明」)。とすれば、沈約が『斉職儀』を見ていなかったということは考えにくい。むしろ、司馬彪『続漢書』の志の続編を目指して編纂された何承天『宋書』の志の、その後継たらんとする沈約であれば(『宋書』巻11志序)、宋一代に留まらない志の編纂を方針にしていたはずであって、歴代の沿革を概述したと言う『斉職儀』はまたとない手本に成り得たはずなのだから、参照しないというのは余計に考えにくいところがある。
 まあどこだったかは忘れてしまったが、博学の沈約さんは「俗説」と判断したものはわりと簡単に切ってしててしまったりしてるところがあるし、「太宰は諱を避けたわけではない」説もそういう感じで切り捨てられてしまったんだろうか。

 集めた史料を改めて見ていると、こういう発見がたまにあるもんだからなかなか。ブログのアクセス数的には『宋書』百官志訳注はオワ記事だけど、今回のこういう収穫があったので満足。


――注――

[1]小林聡先生、渡邉義浩先生などがそういった傾向を指摘・強調していたように思う。[上に戻る]

[2]『旧唐書』経籍志・上だと撰者が范曄になっているが、これはありえない、誤りだろう。范曄には『百官階次』という官職関連の著述がいちおうあるけどね。[上に戻る]

2013年9月15日日曜日

後漢の駅吏?(五一広場東漢簡より)

 最近、長沙から後漢時代の簡牘が出土したそうだ。あの走馬楼とかなり近い地点であるらしい。
 『文物』(2013・6)に掲載されている発掘簡報によると、2010年、地下鉄建設のため下水管移動工事をしてたら、穴倉(?)が出てきて、そこから簡牘が見つかったそうだ。まだ整理中とのことで、総枚数は不明とのことだが、一万枚前後はあるという。簡牘のほかにも磚や木器が出土しているとのこと。
 簡牘は様々な形状のものが出土しており、なかにはけっこう大型な木牘もある。掲載されている図版を見ると、いくつかに編綴痕も見えている(J1③:325-1-12A、J1③:201-30)。多くが木製で、保存状態が良く、文字が見やすいうえ、多くの簡牘に紀年が記されているから時期も判明したそうで、最も早い年号は後漢・章帝の章和四年(西暦90年)、下限は安帝の永初五年(112年)。おおよそこの時期の簡牘群であるらしい。その多くは官文書であり、だいたいどういう感じの内容が多いかまでまとめてくれているのだが、長くて読む気がせんので、興味のある方はご自分で買ってみてね☆

 わたしは簡牘が読めない人間なのだけど、とりあえず字面だけでも眺めてみると、少し興味深いものがあった。
案(?)都郷利里大男張雄、南郷匠里舒俊、逢門里朱循、東門里楽竟、中郷泉陽里熊趙皆坐。雄賊曹掾、俊・循吏、竟驂駕、趙駅曹史駅卒李崇当為屈甫証。二年十二月卅一日、被府都部書、逐召崇不得。雄・俊・循・竟典主者掾史、知崇当為甫要証、被書召崇、皆不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月壬辰朔十二日壬寅、直符戸曹史盛劾、敢言之。謹移獄、謁以律令従事、敢言之。(J1③:281-5A)
 訳は載せません(察してください)。簡報の解釈も参照すると、大意は次の通り。
 永初二年十二月三十一日、長沙太守府は駅卒の李崇を重要証人として呼び出す指令書を下した(何についての証人なのかは知らん[1])。しかし、李崇を連れてくる仕事を担当すべきであった、賊曹掾の張雄、吏の舒俊と朱循、驂駕の楽竟、駅曹史の熊趙は指令が下っていることを知っておきながら、仕事をしなかった。永初三年正月十二日、この件について、直符戸曹史の盛という人が彼らを弾劾し、罰するよう要請した。
 わたしが注目したのは駅に関する肩書が見えている点だ。従来、駅については体系的な史料がなく、どういう人たちが駅で働いていたのかとかそういったこともあまりわからなかったのである。まず駅の役人から考えてみよう。『続漢書』輿服志の劉昭注に、
臣昭案、東晋猶有郵駅共置、承受傍郡県文書。有郵有駅、行伝以相付。県置屋二区。有承駅吏、皆條所受書、毎月言上州郡。『風俗通』曰、「今吏郵書掾・府督郵、職掌此」。
と、東晋時代までは「駅吏」がいたような感じの記述が残されている。「駅吏」というのは「駅に勤務している役人」といった感じで、肩書でもなんでもないと思われるので、あまりロクな史料ではないようだが、まあとりあえず役人が管理しているようだということは確認できそうだ。
 さらに西北辺境の簡牘を見てみると、「駅小史」[2]とか「駅佐」(懸泉漢簡91DXF⑬C:34)が見えている。しかしこれらはあくまで西北辺境の話、特殊な話なのだから一般化が難しい。実際、前漢後期ころと考えられている尹湾漢簡では、亭や郵については記述があるのに、駅については何も書かれていない。そもそも駅なんていう組織[3]自体、辺境地域にしか存在しなかったんじゃないかと勘繰りたくなってくる。
 が、先に掲げた東漢簡には「駅曹史」とあるじゃありませんか。官制にあんま精通していないわたしには、この「駅曹史」が郡吏なのか県吏なのかはわかりませんが、駅で曹が設けられていたというのはじつに興味深い。やはり内郡にも駅は存在した。ちなみに時期は少し下るが、西晋・恵帝年間ころのものと思われる郴州晋簡は、長沙より南の桂陽郡における上計文書らしいと考えられているが、公表されている簡には(湖南省文物考古研究所・郴州市文物処「湖南郴州蘇仙橋遺址発掘簡報」、『湖南考古輯刊』8、岳麓書社、2009年)
都郵南到穀駅廿五里、吏黄明、士三人、主。(1-26)

和郵到両橋駅一百廿里、吏李頻、士四人、主。(2-384)
というものがある。わたしはこれらを以下のように読んでいる。
都郵の南のほう二十五里で穀駅に行き着く。(穀駅は)吏の黄明と三人の士によって管理されている。

和郵から百二十里で両橋駅に行き着く。(両橋駅は)吏の李頻と四人の士によって管理されている。
 さらに郴州晋簡には次のような簡もある。
松泊郵南到徳陽亭廿五里、吏区浦、民二人、主。(2-166)

松泊郵の南のほう二十五里で徳陽亭に行き着く。(徳陽亭は)吏の区浦と二人の民によって管理されている。
 駅には「士」が、亭には「民」が配置されていることになっているのだが、どうやらこれは偶然ではなく、そのように規則化されていたらしいふしがある。というのも、
卅六尉健民・郵亭津民。(1-56)
とあるように、郵や亭には民があったことは書かれているが、ここに駅が含まれていないからである。すなわち、駅の「士」とは「民」の言い換え表現とかそんなんではなく、意図的に「士」と書いている可能性が高い。当該時代の「士」と言えば、いわゆる「兵戸」や兵士を意味する用例が多いことを考えると、駅で働く人間が「士」であるのは当然と言われれば当然かもしれない。「二年律令」などを参照するに、郵人(民)の業務は文書の伝達とか、宿泊する官吏の接待とか、雑務であるのに対し、駅の役割は不明瞭な点が多いとはいえ、馬を使用した伝達業務を主としたことは確かであると思われる。つまり、馬に乗れないと話にならんのだ。そんじょそこらの民を連れてきて訓練するより、もともと乗れるやつ、乗れる資質(期待値)が高そうなやつを引っ張ってきた方が効率良いに決まっている。郴州晋簡で、郵や亭には民が勤務しているのに対し、駅では士である事情は、このように考えることができるのではないだろうか。

 わたしは郴州晋簡の「駅士」の前身にあたる人はいるだろうか、と気になり、漢簡を多少調べたことがある。管見の限り、「駅士」は見つからなかった。が、おそらく「駅士」と同様の働きをしているんじゃないかと思われる「駅騎」という人たちを、懸泉漢簡から多数見つけることができた。一例挙げると、懸泉漢簡Ⅴ1612④:11A(胡平生・張徳芳編『敦煌懸泉漢簡釈粹』上海古籍出版社、2001年)
皇帝橐書一封、賜敦煌太守。元平元年十一月癸丑夜幾少半時、県(懸)泉駅騎伝受万年駅騎広宗、到夜少半時付平望駅騎
 また、居延漢簡には次のような記録も見えている。居延漢簡EPT49‐29(『居延新簡』中華書局、1994年)
〼□分、万年駅卒徐訟行封橐一封、詣大将軍、合檄一封、付武彊駅卒 無印
 なんと、ここには「駅卒」が見えているのだ。そう、すでに遠い昔の話になってしまったが、今回ピックアップした東漢簡にも「駅卒」が見えているのである。なのでちょっとテンション上がったのだ。

 しかし、駅騎と駅卒は何が違うのだろう? 両者は同一だとする理解が一般的なように見受けられるが[4]、わたしにはそう言い切るのには少し抵抗がある。特に根拠という根拠はないんですが・・・。じつは、いちおうわたしが見た限りでは、「駅卒」の事例は上の居延漢簡以外に見つからなかったのです。事例が少ないから、もう少し慎重に考えておきたいという程度のことです。そう思ってた時に、東漢簡に「駅卒」が出てきたもんだから、おお!となりましたわ。まあ何をやってたのかはわからんが[5]

 ということでね、ほんの少しだけですが、東漢簡を見た感想を述べてみた次第です。ちなみに、先の東漢簡の話の後日談を伝える簡も公表されています。
臨湘耐罪大男都郷利里張雄、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷匠里舒俊、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷逢門里朱循、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷東門里楽竟、年卅歳。
臨湘耐罪大男中郷泉陽里熊趙、年廿六歳。
皆坐吏不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月十二月系。(J1③:201-30)
 臨湘は長沙郡の属県。耐は、ひげを剃り落として髪は残す二年以上の強制労働刑を言う(濱口重國「漢代に於ける強制労働刑その他」、同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、東大出版会、1966年、注27〔pp. 654-656〕)[6]。あんまりここら辺は知識もあやふやなんですが、まあ臨湘で強制労働に就いたということでしょう。弾劾された正月十二日の日付があるところをみると、弾劾即判決ということなのだろうか。そうか、かわいそう、でもないけど・・・。


――注――

[1]発掘簡報によると、どうもこの文書は前半部分が欠けているようなので、どういう事情があったのかは詳しくわからんみたいだ。[上に戻る]

[2]懸泉漢簡ⅡT0214③:57(張経久・張俊民「敦煌漢代懸泉置遺址出土的“騎置”簡」、『敦煌学輯刊』2008-2)

元康二年四月戊申昼七時八分、県(懸)泉訳(駅)小史寿肩受平望訳(駅)小史奉世、到昼八時付万年訳(駅)小史識寛。
 居延漢簡413‐3(謝桂華・李均明・朱国炤『居延漢簡釈文合校』文物出版社、1987年)
●凡出粟三十三石 給卒・駅小史十人三月食。
 わたしが見つけられたのはこんなもん。[上に戻る]

[3]燧に駅馬が備わっていることを示す簡牘史料があるため、燧の外部に駅馬を備えた駅という建造物が存在したというより、駅馬管理や駅馬を利用した文書伝達業務を管轄した組織のことを駅と呼んでいたと、わたしは考えている。冨谷至「漢代の地方行政――漢簡に見える亭の分析」(同氏『文書行政の漢帝国』名古屋大学出版会、2010年)も参照。[上に戻る]

[4]前掲張経久・張俊民論文、鷹取祐司「秦漢時代の文書伝送方式――以郵行・以県次行・以亭行」(『立命館文学』619、2010年)[上に戻る]

[5]ついでながら駅騎について補足しておくと、張氏、鷹取氏によれば、駅騎は文書伝達業務、駅馬の飼育を行っていたようである。[上に戻る]

[6]完城旦(四年刑)、鬼薪(三年刑)、隷臣(三年刑)、司寇(二年刑)。以上の強制労働刑は耐=ひげを剃り落とす処分もあったということになる。なので、濱口氏によれば、こられの刑を「丁寧に記述」すれば、「耐為司寇」などとなる、とのことである。刑罰に関しては、その後の研究で修整された箇所もあるかもしれんが、わたしはあまり把握してないので申し訳ないが濱口氏の研究で良しとさせていただく。[上に戻る]

2013年9月8日日曜日

劉氏の系図への疑義――「匈奴」劉氏と屠各種(1)

 これまで、二回にわたって後漢末の匈奴・去卑について、記事を書いてきた。そのうちの二回目の記事の末尾で、屠各種について少し触れておいた。今回はその屠各種についてまとめようと思います。ほんとに学説史をまとめた程度のものですが、補足としての意味合いも兼ねて記事にしたんですわ。

 さて、わたしは、劉淵は於扶羅の孫ではないし、そもそも劉氏は南単于の血統に当たらないといったような話をしてきた。しかし、その点に関して、十分な根拠を示していなかったと思う。劉氏が南単于に反抗的な一族であることは論じたものの、だからといって劉氏は南単于の一族でないということが証明されたわけではない。今回は、わたしがある程度受け入れ、劉氏は南匈奴ではないと考えるようにいたった根拠の一つにあたる、「屠各種は南匈奴ではない」説を紹介しようと思う。

 まず『晋書』巻97四夷伝・北狄匈奴伝を引用しておこう。
北狄以部落為類、其入居塞者有屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黒狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀頼種・鍾跂種・大楼種・雍屈種・真樹種・力羯種、凡十九種、皆有部落、不相雑錯。屠各最豪貴、故得為単于、統領諸種。其国号有左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左於陸王・右於陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左独鹿王・右独鹿王・左顕禄王・右顕禄王・左安楽王・右安楽王、凡十六等、皆用単于親子弟也。其左賢王最貴、唯太子得居之。其四姓、有呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏。而呼延氏最貴、則有左日逐・右日逐、世為輔相。卜氏則有左沮渠・右沮渠。蘭氏則有左 当戸・右当戸。喬氏則有左都侯・右都侯。又有車陽・沮渠・余地諸雑号、猶中国百官也。其国人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。

北狄は部落をもって類をなしている。(北狄の中で)中国に入居した類は、屠各種、鮮支種、寇頭種、烏譚種、赤勒種、捍蛭種、黒狼種、赤沙種、鬱鞞種、萎莎種 、禿童種、勃蔑種、羌渠種 、賀頼種、鍾跂種、大樓種、雍屈種、真樹種、力羯種 、以上十九種である。みな部落を有し、互いに入り乱れることはなかった。屠各種はもっとも権力をもった貴種であり、ゆえに単于となることができ、諸々の種族を統率していた。匈奴の国の称号には左賢王、右賢王、左奕蠡王、右奕蠡王、左於陸王、右於陸王、左漸尚王、右漸尚王、左朔方王、右朔方王、左独鹿王、右独鹿王、左顕禄王、右顕禄王、左安楽王、右安楽王、以上十六等級あり、みな単于の親族子弟を任用した。この中でも左賢王が最も貴く、唯一太子だけが就くことができた。匈奴の四姓に、呼延氏、卜氏 、蘭氏、喬氏がある。呼延氏が最も貴く、左日逐、右日逐の称号を有し、代々単于の補佐を務めている。卜氏は左沮渠、右沮渠を有し、蘭氏は左当戸、右当戸を有し、喬氏は左都侯、右都侯を有している。また、車陽、沮渠、余地といった雑号があり、それらはちょうど中国の百官と同様な称号である。匈奴の国人のなかに、綦毋氏、勒氏がいる。ともに勇敢で強く、よく反乱を起こした。武帝のとき、騎督の綦毋俔邪という者がいた。呉の討伐に功績があり、昇進して赤沙都尉となった。[1]
 うえの記事を素直に読めば、匈奴単于の一族は「屠各種」と呼ばれる部族に属していたことになる。だから劉氏=屠各種=南単于の一族、という理解が成り立っていた。しかし、本当にそう考えて良いのか。以下はこのような理解に異議を申し立てた学者たちの説を整理してみる。
 劉氏は南単于の一族ではない、という説は、近代歴史学においては戦前から唱えられていた。劉氏の系統に疑問を呈したのは岡崎文夫氏である。岡崎氏は、劉氏は元来の南単于の一族ではなく、後漢~魏晋のころに台頭した「屠各種」と種族に属する一族ではないか、と述べている[2]

 この岡崎氏の疑問は、あくまで疑問に留められており、真剣に考証した内容ではない。ただこの岡崎氏の疑問に触発され、劉氏の正体を突き止めようとしたのが唐長孺氏である。[3]
 唐氏の議論は多岐に渡るが、ここでは二点に渡って整理しておく。まず一点目に、唐氏は系図がおかしいと指摘する。『晋書』劉元海載記の次の記述をご覧いただきたい。
於扶羅死、弟呼廚泉立、以於扶羅子豹為左賢王、即元海之父也。・・・豹妻呼延氏、魏嘉平中祈子於龍門、・・・自是十三月而生元海、左手文有其名、遂以名焉。・・・後秦涼覆没、・・・会豹卒、以元海代為左部帥。太康末、拝北部都尉。

(中平5年=西暦188年に)於扶羅が死ぬと、弟の呼廚泉が立ち、於扶羅の子の豹を左賢王とした。 劉豹がすなわち劉淵の父である。・・・劉豹の妻は呼延氏で、魏の嘉平年間(249-253年)に龍門で子を(妊娠することを)天に祈ると、・・・これより十三ヵ月後に元海が生まれ 、左手に(あった)文字にその名が記されていたため、そのまま(淵と)名づけた。・・・のちに秦州、涼州で(起こった反乱により)軍隊が壊滅状態となったとき〔禿髪樹機能の反乱のこと。咸寧5年=279年ころか〕、・・・たまたま(父の)劉豹が卒し、(晋は)劉淵を(劉豹の)代わりとして左部帥とした。太康年間(280-289年)の末、北部都尉を拝命した。
 年号=西暦年に注目して欲しい。単純に数えただけでも、劉豹は100歳を越えてそうであることにお気づきだろうか。劉豹が没したのは禿髪樹機能の反乱後のこと、とりあえず280年ころとしておこうか。一方、劉豹は188年に左賢王になったことになっているが、そういう地位に就くためにはいっぱしの年齢である必要があろう。仮に若く見積もって、これを15歳のこととする。とすると、彼の生年は数え年でさかのぼって、174年となる。かなりギリギリのラインで生没年を見積もってみても100歳を越えてしまった。なんというジジイ。
 それだけではない。このジジイが劉淵を得たのが、249-253年のころなのだ。つまり、さきの年齢で仮定してみれば、70歳を越えてようやく劉淵を子に得たことになる。なんというクソジジイ。ちなみに劉淵には、兄に劉延年、弟に劉雄という人物がいることがわかっている[4]。劉淵のあとにも子を産んだのか、お盛んなやつめ。
 わたしはこの唐氏の指摘を読むまで、こんな系譜上の違和感に全く気付かなかった。もう驚いたのなんの。
 また、唐氏は言及していないが、もう一人怪しい人物がいる。
 こういう場合、図にしてみる、というのは本当に価値があることである。漢字の羅列では見えづらかったものが見やすくなってくるからだ。ということで、先日の記事を見返していただきたい。どう見てもおかしい人物がいないだろうか。そう、劉宣である。劉宣は劉淵の「従祖」とある。劉淵の祖父の兄弟という意味である。劉淵の祖父は於扶羅たちであるが・・・こんな後漢末のやつらと同世代だと!? おいおいよお、劉宣が他界したのは永嘉二年=308年だぜ!?[5] 劉豹が没しておよそ20年して没しているということは、どういうことなんだ、もう算数とかめんどくさいからやんないけどけっこう長生きしてるってことじゃん? けっこうというか異常と言うべきだろうか?
 いやー、すごいすなあ、劉氏は。こんだけ長生きな一族だとは恐るべし。なんていうことを言いたいのではもちろんない。いくらなんでもこの系図には無理があるんじゃないの、というより改竄されてるんじゃないの、ということが言いたいのである。『三国志』にすでに劉豹が登場することからして、曹魏後期ころに劉豹が存在したのは確実だ。その劉豹の子が劉淵、劉豹のおじが劉宣であるという続柄も確実であると仮定して特に問題ない。劉豹と劉宣の活動年代が後漢末まで引き延ばされてしまうから問題が起きてしまうのである。そこら辺で系図の改竄がなされている可能性が高いのではなかろうか。

 と、まあ自分の意見や感想も混じり混じりになってしまったが、唐氏は劉豹の活動年代が不自然であることを指摘し、劉豹が無理矢理後漢末にまで引き延ばされている形跡を指摘したのである。

 もう一つの唐氏の重要な論点は、「屠各種」についての議論である。

 が、なんかもう書くの疲れし、けっこう長くなったから「屠各種」についてはまた気が向いたら。


――注――

[1]ちなみに、後述する唐長孺氏は、この『晋書』北狄匈奴伝の記述は、劉宋・何法盛『晋中興書』からコピペした記事であると指摘している。というのも、『晋中興書』の佚文に「胡俗、其入居塞者、有屠各種最豪貴、故得為単于、統領諸種」と、類似したものが見られるからである(『文選』巻44所収陳琳「為袁紹檄予州」の李善注引)[上に戻る]

[2]岡崎文夫『魏晋南北朝通史』(弘文堂、1932年)内篇第二章第二節pp. 139-140. 内篇なので、東洋文庫版にも記述があるはず。[上に戻る]

[3]唐長孺「魏晋雑胡考」(同氏『魏晋南北朝史論叢』生活・読書・新知三聯書店、1955年)[上に戻る]

[4]劉延年については『元和郡県図志』巻13「大干城在文水県西南十一里、本劉元海築令兄延年鎮之、胡語長兄為大干、因以為名」。
劉雄については『金石録』巻20「偽漢司徒劉雄碑」に「偽漢劉雄碑其額題『漢故使持節・侍中・太宰・司徒公・右部魏成献王之碑』。碑云、『公諱雄、字元英、高皇帝之胄。孝宣皇帝玄孫、値王莽簒竊、遠遁辺朔、為外国所推、遂号単于。累葉相承家雲中、因以為桑梓焉。』雄、劉元海弟也」。[上に戻る]

[5]『資治通鑑』巻86・永嘉2年10月の条「丙午、漢都督中外諸軍事・領丞相・右賢王宣卒」。この記事は『資治通鑑』にしか見えない。日付まである詳細な記事であることからすると、北魏・崔鴻『十六国春秋』あたりから取ってきたものと思われる。[上に戻る]

2013年8月29日木曜日

南単于の侍子

 このごろ話題にあげている劉淵であるが、かれは曹魏・西晋の「侍子」として、朝廷に送られていたことが知られている。「侍子」というのはその語の通り、自分の子を派遣させて皇帝に侍らせることを言うのだが、要するに中国王朝の人質ということである。
 さて、この風習はじつは南匈奴時代から見えている。
単于歳尽輒遣奉奏、送侍子入朝、中郎将従事一人将領詣闕。漢遣謁者送前侍子還単于庭、交会道路。(『後漢書』伝79南匈奴伝)

南単于は年の終わり〔10月か12月?当時の年度末は10月〕に(朝廷に)政事の報告を上奏し、侍子を送って朝廷に入れさせる。その際は、使匈奴中郎将の従事(二人のうち)一人が侍子を連れて朝廷に送る。漢の側は謁者にこれまでの侍子を連れさせて単于庭〔西河郡美稷県に置かれていたという。オルドス地帯〕に帰らせる。(従事と謁者は)道路上で行き違う。
 「行き違う」と訳した「交会」であるが、道路上で従事がちゃんと新しい侍子を連れてきているか(またその逆)をお互い確認するということであろう。この風習がどの程度まで続いていたのかはわからないが、どうやら後漢順帝ころまでは侍子を中央に送るということはちゃんと行われていたようだ。
 というのも、去特若尸逐就単于・休利のときのことであるが、永和5年(西暦140)に句龍王・吾斯という者たちが大規模な反乱を起こしたのだけども、このときに使匈奴中郎将であった陳亀は、単于の監督不届きを厳しく責め立て、単于・休利とその弟であった左賢王を自殺させてしまった。その後、吾斯の反乱で騒がしくなってなかなか単于の後継者が立てられなかったが、漢和2年(143)にようやく新たな単于が立てられた。そのときのことは次のように記されている。
呼蘭若尸逐就単于兜樓儲先在京師、漢安二年立之。天子臨軒、大鴻臚持節拜授璽綬、引上殿。・・・遣行中郎将持節護送単于帰南庭。

呼蘭若尸逐就単于・兜楼儲はこれ以前より洛陽にいたが、漢安2年に単于に立てられた。その際、天子が前殿に出御し、大鴻臚が節を持って(南単于の?)印璽と綬(ひも)を授け、上殿に引率した。・・・使匈奴中郎将に節を持たせて単于・兜楼儲を護送させ、南単于庭に帰らせた。
 兜楼儲は侍子だったんでしょうね。で、次期単于候補だった左賢王も死んでしまったから、彼にその地位が回ってきたのかもしれない。

 ちなみに『後漢書』伝69儒林伝・上・序に次のような記述も見える。
復為功臣子孫・四姓末属別立校舍、搜選高能以受其業、自期門羽林之士、悉令通孝経章句。匈奴亦遣子入学。

(明帝は)功臣の子孫や四姓の末族のために別に校舎を立て、高い才能を有している人を探し求めて学業を受けさせ、期門や羽林の士以下は、全て『孝経』の章句を通読させ、匈奴も子を派遣して太学に入れさせた。
 この留学がどの程度まで行われていたのか、そもそもこの記事を真に受けてしまっていいのか、判断がつきかねるのだけども、なかなか興味を引く記事である。

2013年8月27日火曜日

趙王倫たむぅ・・・

 昨日、ある方と八王のことに話が及んだので、ついでながら簡単に八王の列伝をパラパラめくりなおしているとき、なかなか面白い話が趙王倫の列伝にあることを思い出したので、ちょっと書いてみた。
『晋書』巻59趙王倫伝
倫・秀並惑巫鬼、聴妖邪之説。秀使牙門趙奉詐為宣帝神語、命倫早入西宮。又言宣帝於北芒為趙王佐助、於是別立宣帝廟於芒山。謂逆謀可成。・・・使楊珍昼夜詣宣帝別廟祈請、輒言宣帝謝陛下、某日当破賊。拝道士胡沃為太平将軍、以招福祐。秀家日為淫祀、作厭勝之文、使巫祝選択戦日。又令近親於嵩山著羽衣、詐称仙人王喬、作神仙書、述倫祚長久以惑衆。

趙王倫と孫秀はともに巫術に傾倒し、妖邪の話を聞き入れていた。孫秀は牙門の趙奉に偽らせて宣帝の神託をでっちあげさせ、倫に早く西宮に入るよう命じさせた。また宣帝が北芒で趙王の助けとなるとも喧伝し、そのために宣帝廟を別に芒山に建てた。(こうして)簒奪の計略は万全だと考えた。・・・(斉王冏らが義軍を挙げて攻めてくると、趙王倫は)楊珍を昼夜、宣帝別廟に行かせて祈祷させていたが、楊珍は毎回、宣帝は陛下〔趙王倫のこと〕に謝しており〔原文「謝」は「わびる」の意でも「感謝する」の意でも取れるが、どちらが妥当か判断できない〕、某日に必ず賊を滅ぼすと言っていると報告した。道士の胡沃を太平将軍に任命し、吉を呼び込もうとした。孫秀の家では毎日淫祀〔妖しげな祭祀。みだらなパーティのことではない〕を行い、呪いで打ち負かすための文を作成し、巫祝〔シャーマン〕に決戦の日を選ばせた。また近親の者に嵩山で羽衣を着させると、偽らせて仙人の王喬だと自称させた。(この者に)神仙書を作成させ、倫の天命が長いことを記し、人々を惑わせた。
 趙王倫らはかなりシャーマニズムに傾倒していたようなのだが、彼らがやけに宣帝に頼っていることは興味深い。「天下は高祖の天下なり」ならぬ「天下は宣帝の天下なり」という正当観がにじみでている。宣帝を晋朝の起源におくかどうかは、国史編纂問題も含めて一悶着あったはずなのだが、結局は漢の高祖と同じような扱いに落ち着いたということだろう。

 もう一つ目立つのが、趙王倫の懐刀・孫秀であろう。ここに見えている孫秀の妖しげな行為、じつは道教と関連が深いものかもしれない。それは道士とか仙人とかまじないがでてきているから、というのもまあそうだけど、彼と同族の子孫がかの東晋末に道教教団を率いて組織的反乱を起こした孫恩なのだ。彼ら琅邪・孫氏は長江に渡ってから道教を信奉したのではなく、すでに西晋時代から、一族を挙げて信仰していたのだろう。
 琅邪というと、あの琅邪・王氏も道教を奉じていたことで知られている[1]。琅邪とは離れるが高平・郗氏も道教を奉じている者たちがいたようだ[2]。これよりさきは深く調べてないのでもうこの位にしておく。今回は単に西晋時代時点で、一族こぞって道教を奉じていた家がわりとあったかもしんないということだけが言いたかった。


――注――

[1]『晋書』巻80王羲之伝附凝之伝「王氏は代々、張氏の五斗米道を信奉していたが、王羲之の子の凝之はとりわけ信仰心が篤かった。孫恩が反乱を起こして会稽を攻めたとき、(会稽内史であった凝之の)部下たちは守りを固めることを願い出た。凝之は彼らの意見を聴き入れず、部屋に閉じ籠って祈祷した。部屋から出てくると、部下たちに『大道に祈っておいたので、鬼兵が助けてくださるだろう。賊など勝手に滅びるわい』と言った。こうして守りを固めておかなったために、とうとう孫恩に殺されてしまった(王氏世事張氏五斗米道、凝之彌篤。孫恩之攻会稽、僚佐請為之備。凝之不従、方入靖室請祷、出語諸将佐曰、『吾已請大道、許鬼兵相助、賊自破矣』。既不設備、遂為孫恩所害)」。吉川忠夫『王羲之――六朝貴族の世界』(岩波現代文庫、2010年)が詳しく書いているので、興味のある方はぜひ。[上に戻る]

[2]郗鑒の子の愔と曇は「天師道」を奉じていたが、愔の子・超は「仏」を奉じていたらしい(『晋書』巻67郗鑒伝附超伝、同巻77何充伝)。ちなみに王羲之の最初の奥さんは郗鑒の娘で、あるいは両家には道教的なつながりがあったんじゃなかろうかという指摘を何かの文章で見かけたことがある(てきとうですいません)。[上に戻る]