2013年12月28日土曜日

范曄やばない?

言葉によって意図が伝わり、文飾によって言葉が生きる。言葉にしなければ、意図は誰にも伝わらない。言葉にしても文飾がなければ、相手に伝わりはするが印象には残らない。(言以足志、文以足言。不言誰知其志。言之無文、行而不遠。)
――『春秋左氏伝』襄公25年


 ちょっと史通を読んでたら久々に書く気になったので。

『史通』巻四論賛
 司馬遷は自序伝の最後に一つずつ各巻を挙げ、それぞれの意図を書き記した。(司馬遷は散文体であったのだが、)やがて班固はそれを詩風の韻文体に改め、「述」と称した。范曄は「述」を「賛」に改めた。ほどなく、彼らの述や賛は史書の体例となり、巻ごとに一つ書かれるようになったが、事柄が多い巻は要約されて(相対的に)少ない文章となり、内容が空虚な巻は誇張されて(相対的に)多い文章となってしまっているので、形式と内実が乖離し、(巻の内容と賛の内容とで)詳細さと簡略さが符合していない。それに人の善悪や歴史上の褒貶を知ろうとするうえで、この形式を利用する必要もなかろう。
 とはいっても、班固は述をすべてまとめて叙伝のうちに記し、一貫した筋道を立てた形式にしたので、その文章は見やすくて読むに足る。范曄『後漢書』の賛は実際のところ(多くの部分を)班固に倣っているが、(ただ班固とは違い)賛を各本伝にくっつけ、各巻末に書いたので、巻の題目と乖離し(?)、ばらばらに置かれているので秩序もない。しかし、范曄以後の作者はこの間違いに気づかなかった。例えば蕭子顕『南斉書』、李百薬『北斉書』、それに大唐が新たに編纂した『晋書』は、すべて范曄の間違った体裁にもとづき、巻末に賛を置いている。そもそも、巻ごとに論を立てるだけでも煩雑このうえないのに、論に続けて賛を置くとなると、見苦しくてしょうがない。(馬遷自序伝後、歴写諸篇、各叙其意。既而班固変為詩体、号之曰述。范曄改彼述名、呼之以賛。尋述賛為例、篇有一章、事多者則約之使少、理寡者則張之令大、名実多爽、詳略不同。且欲観人之善悪、史之褒貶、蓋無仮於此也。然固之総述合在一篇、使其条貫有序、歴然可閲。蔚宗後書、実同班氏、乃各附本事、書於巻末、篇目相離、断絶失次。而後生作者不悟其非、如蕭・李、南・北斉史、大唐新修晋史、皆依范書誤本、篇終有賛。夫毎巻立論、其煩已多、而嗣論以賛、為黷弥甚。)
 
同巻序例
 孔安国は「序とは作者の意図を述べるためのものである」と言っている。思うに、『尚書』には典や謨(などの体裁の篇)があり、『詩』には比や興(などの比喩)が含まれているから、もし最初に序がなければ、それらの文章の意味をちょっとでも理解することが困難であったろう。そのため、篇ごとに序が書かれ、その意味が述べられたのである。くだって『史記』、『漢書』になると、事柄の記述が中心となったので(すべての巻に序をつくることはしなくなったが)、表、志、雑伝にかんしては、しばしば序を立て(それらを制作した意図を述べ)たのである。その文章は華美でありながらも史書の体裁を(壊さずに)兼ね備えており、述べていることは諸子百家のようであって、(序の設けられた列伝は)『尚書』の誥や誓(といった諸篇)、『詩』の風や雅に等しいと言えるだろう。・・・
 范曄にいたって、そうした書き方ははじめて改められ、史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった。范曄以後の作者もみなこれに倣った。かくして司馬遷、班固の方法はここに途切れ、精緻で隠微に富んだ書き方も廃れていった。例えば(『後漢書』の)后妃列伝、列女伝、文苑列伝、儒林列伝といった類の列伝においては、范曄は必ず序を立てた。いったい、世の作者というのは、前代の史書(の志や列伝)にはあるのに自分の書(の志や列伝)だけにはないことを恥じるものである。そのため、晋、宋から陳、隋にいたるまで、伝を書くたびに序を立て、序を書いた数で評価が決まるほどであった。そもそも、史書を書く根本というのは、過去のことを現在に伝えることなのであるが、前代の史書にすでに序があるというのに、どうして現代の作者たちも(わざわざ)序を書く必要があろうか。(ある志や雑伝を制作する意図はすでに前代によって明らかに述べられているではないか。)(ある志や列伝に)一番最初に立てられた序は、見るべきところがあろう。だが屋上屋に重ねたもの(、すなわちそれ以後に同じ題目の志や列伝に立てられた序)にかんしては、まったくの無駄である。(孔安国有云、序者所以叙作者之意也。竊以書典謨、詩含比興、若不先叙其意、難以曲得其情。故毎篇有序、敷暢厥義。降逮史漢、以記事為宗、至於表志雑伝、亦時復立序。文兼史体、状若子書、然可与誥誓相参、風雅斉列矣。・・・爰洎范曄、始革其流、遺棄史才、矜衒文彩。後来所作、他皆若斯。於是遷固之道忽諸、微婉之風替矣。若乃后妃・列女・文苑・儒林、凡此之流、范氏莫不列序。夫前史所有、而我書独無、世之作者、以為恥愧。故上自晋宋、下及陳隋、毎書必序、課成其数。蓋為史之道、以古伝今、古既有之、今何為者。濫觴肇迹、容或可観、累屋重架、無乃太甚。)

同巻題目
 前代の史書の列伝を見てみるに、巻の題名には一定の決まりがない。(ある程度の規則としては、)文字が簡単な人にかんしては姓名を書く、例えば司馬相如、東方朔。文字がめんどうな人にかんしては姓だけを書く、例えば毋将、蓋、陳、衛、諸葛。(同じ巻に列伝を立てる)人が多くなると、(同巻で)同姓の者がいる場合もでてくる。そのときはまとめ合わせて数を記す、例えば二袁、四張、二公孫。この規則に従えば、十分いきとどくであろう。
 (ところが)范曄の規則となると、人はすべて姓名をともに書くようになったので、短い行となった巻〔人が少ない巻〕がまばらにあり、字を通常より細くした巻〔人が多い巻〕がわらわらとあるありさま。子孫で附伝した者は(逐一)祖先の名の下に注記している。こんなものは世の公文書目録、薬草の解説に類するようなもので、これほどまでに細々としてうるさいものがあるだろうか。
 これ以降、多くの者は范曄に倣うようになった。魏収も范曄に従ったが、とてもひどいものである。・・・およそ、法律の文言が煩雑になること〔原文「滋章」〕は、古人の避けることであった。范曄や魏収のような題目の書き方は、「文言が煩雑になること」のひどい例ではなかろうか。(観夫旧史列伝、題巻靡恒。文少者則具出姓名、若司馬相如、東方朔是也。字煩者唯書姓氏、若毋将、蓋、陳、衛、諸葛伝是也。必人多而姓同者、則結定其数、若二袁、四張、二公孫伝是也。如此標格、足為詳審。至范曄挙例、始全録姓名、歴短行於巻中、叢細字於標外、其子孫附出者、注於祖先之下、乃類俗之文案孔目、薬草経方、煩碎之至、孰過於此。・・・自茲已降、多師蔚宗。魏収因之、則又甚矣。・・・蓋法令滋章、古人所慎。若范魏之裁篇目、可謂滋章之甚者乎。)
 劉知幾は范曄が大嫌いなようですが、いやでもこれ、けっこう范曄すごない? 史書の形式においては、「范曄的転回」とでも言うようなパラダイムシフトがあったことを暗に示しているよね。
 とりわけ、これまで書いてきた拙ブログの記事との関連で言えば、序例の「史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった」という記述であろう。これはまったく正しい。范曄自身、これは認めるところがあるのではないか。事実、「獄中与諸甥姪書」(『宋書』巻69范曄伝)で次のように范曄は述べている。
(わたしは)もともと史書に関心をもっておらず、いつも難しさを知るばかりであった。『後漢書』を執筆してからというもの、かえって要領をつかんだため、古今の著作や評論を読んでみたのだが、ほとんど満足できるものはなかった。班固の書が最も名声を得ているが、(わたしが思うに)気分のままに書いた文章で統一された規則がなく、(全体的には)優劣つけがたい。巻末の賛は道理においてほとんど得るところがないが、ただ志は悪くない。博識さではかなわないが、形式の秩序の点では(わたしも)劣らないだろう。わたしの書いた雑伝の論は、みな深みのある内容で、切れ味があるのは字句を圧縮したためだ。循吏列伝から六夷列伝の序や論は、筆が伸び伸びと走っており、まことに天下の名文だ。そのうちでも自信作となるのものは、あらゆる部分で賈誼の「過秦論」にひけをとらない。ためしに班固の文章とも比べてみても、たんに恥ずかしくないだけではない(優っている自信がある)。志も作成し、『漢書』が立てている志もすべて備えるつもりであった。(ついにそれはできなかったが、志に関連した)事柄の記述は、多くはないとはいえ、文を読めばできるだけわかるように、さしあたり記述してある。また、事柄に応じて巻内に論を立て、一代の得失を正すつもりであったのだが、結局完全には果たされないままとなってしまった。賛はわたしの文章のうちでも傑作で、ほとんど一字の無駄もなく、変幻自在で、様々な文体を混ぜ合わせており、わたしですらほめかたがわからない。この書物が広まれば、必ずこの価値がわかるものが出るだろう。帝紀や列伝の体裁規則はあらましを説明しただけではあるが、多くの箇所で細心の注意を払っている。いにしえより、これほどまでに体裁が整っていて思考が細密なものはなかろう。おそらく世の人々にはこの書の価値がわかるまい。多くの者はいにしえを尊重していまをいやしむからだ。人間の本性に合致するのは狂言であるというのも、これに由来する。(本未関史書、政恒覚其不可解耳。既造後漢、転得統緒、詳観古今著述及評論、殆少可意者。班氏最有高名、既任情無例、不可甲乙辨。後贊於理近無所得、唯志可推耳。博贍不可及之、整理未必愧也。吾雑伝論、皆有精意深旨、既有裁味、故約其詞句。至於循吏以下及六夷諸序論、筆勢縦論、実天下之奇作。其中合者、往往不減過秦篇。嘗共比方班氏所作、非但不愧之而已。欲遍作諸志、前漢所有者悉令備。雖事不必多、且使見文得尽。又欲因事就巻内発論、以正一代得失、意復未果。賛自是吾文之傑思、殆無一字空設、奇変不窮、同合異体、乃自不知所以称之。此書行、故応有賞音者。紀、伝例為挙其大略耳、諸細意甚多。自古体大而思精、未有此也。恐世人不能尽之、多貴古賤今、所以称情狂言耳。)
 見られるように、范曄は自己の『後漢書』について、文章のできの良さから自己評価を下している。なので、劉知幾が「文飾だけにこだわりやがった ks 野郎」と言うのは間違ってないと思う。
 それにしても范曄はちょっと気持ち悪いくらいの自信家ですね。でもその一方で引用文後半からうかがえるように、少しペシミズムというかニヒリズムというか、そんな感覚ももちあわせていたように感じられます。実際、范曄の列伝を読むと、彼はかなり鬱屈した人生を送っている(それは范曄がわがままなところにも起因すると思うけど)。自分が面白いと思ったことはとことんやるし、事実自分がやってきたことはすべて面白い、自分はやりたいことだけやるんだと、そういう自信のようなものを強く抱いている一方で、誰も理解者はいないだろうという、他者や社会への冷めた目線ももちあわせているわけで。そうなると、彼はますますやりたいことだけやって、自分のやっていることだけを面白いと思うのでしょうね。「努力やがんばりなんて自己満足でいいじゃん」と言う人もいますが、それは違うと思います。人生をかけてまで費やしたその先に自己満足しか得られなかったら、虚しいでしょ、そりゃ(とは言いつつ、わたしはそういうニヒリズムから出発しないといかんとも思います)。

 なんか話がそれてしまったが、「天下之奇作」(自称)たる『後漢書』の序や論は、じつはあんだけ范曄を嫌ってる劉知幾も評価しているんですわ(『史通』論賛)
陳寿以降、(論の体裁は)勝手気ままになって根本に立ち返ることをせず、たいてい、実質よりも華美で、道理は文飾より少なく、立派で美しい文章を自慢するばかりであった。そのうちでもよい者を選ぶとしたら、干宝、范曄、裴子野が最もよく、沈約、臧栄緒〔『晋書』〕、蕭子顕はその次によい。孫盛はダメにもほどがある。習鑿歯はたまにはよかろうもん。袁宏は玄学的な言葉の文飾に一生懸命で、謝霊運〔『晋書』〕は立派そうな論をおおげさに書いているが、「底のない玉製のさかずき」〔『韓非子』外儲説右上〕のようなもの、見た目は立派でもなんのありがたみもない、話にならん。王劭〔『斉志』〕は文意こそ簡明であるものの、言葉がきたなすぎる。かりに道理があったとしても、結局彼の文章は心に残るまい。孔子は「人の過ちを見てその人が仁者かどうかがわかる」と言っているが、王劭のような者のことを言うのだろう。(自茲以降、流宕忘返、大抵皆華多於実、理少於文、鼓其雄辞、誇其儷事。必択其善者、則干宝、范曄、裴子野是其最也、沈約、臧栄緒、蕭子顕抑其次也。孫安国都無足採、習鑿歯時有可観。若袁彦伯之務飾玄言、謝霊運虚張高論、玉巵無当、曾何足云。王劭志在簡直、言兼鄙野、苟得其理、遂忘其文。観過知仁、斯之謂矣。)
 というわけで、范曄の文章がよいことは劉知幾自身も認めていたようです。また最後の王劭に見られるように、きちんときれいな言葉で書くべきだ、っていうのは彼も意識していたようだ。まあというかこの時代の史書は「きれいに書く」ことは当然の通念だったと思うので、とくに不思議はないが(劉知幾はやりすぎるなと言っている)。
 最後に、范曄のいでたちについて。
范曄は身長七尺(=約170センチ)にも満たず、太っていて色黒で、眉とあごひげがなかった。(曄長不満七尺、肥黒、禿眉鬚。)
 うむ・・・なんか予想外な感じがしますね。

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