2013年8月29日木曜日

南単于の侍子

 このごろ話題にあげている劉淵であるが、かれは曹魏・西晋の「侍子」として、朝廷に送られていたことが知られている。「侍子」というのはその語の通り、自分の子を派遣させて皇帝に侍らせることを言うのだが、要するに中国王朝の人質ということである。
 さて、この風習はじつは南匈奴時代から見えている。
単于歳尽輒遣奉奏、送侍子入朝、中郎将従事一人将領詣闕。漢遣謁者送前侍子還単于庭、交会道路。(『後漢書』伝79南匈奴伝)

南単于は年の終わり〔10月か12月?当時の年度末は10月〕に(朝廷に)政事の報告を上奏し、侍子を送って朝廷に入れさせる。その際は、使匈奴中郎将の従事(二人のうち)一人が侍子を連れて朝廷に送る。漢の側は謁者にこれまでの侍子を連れさせて単于庭〔西河郡美稷県に置かれていたという。オルドス地帯〕に帰らせる。(従事と謁者は)道路上で行き違う。
 「行き違う」と訳した「交会」であるが、道路上で従事がちゃんと新しい侍子を連れてきているか(またその逆)をお互い確認するということであろう。この風習がどの程度まで続いていたのかはわからないが、どうやら後漢順帝ころまでは侍子を中央に送るということはちゃんと行われていたようだ。
 というのも、去特若尸逐就単于・休利のときのことであるが、永和5年(西暦140)に句龍王・吾斯という者たちが大規模な反乱を起こしたのだけども、このときに使匈奴中郎将であった陳亀は、単于の監督不届きを厳しく責め立て、単于・休利とその弟であった左賢王を自殺させてしまった。その後、吾斯の反乱で騒がしくなってなかなか単于の後継者が立てられなかったが、漢和2年(143)にようやく新たな単于が立てられた。そのときのことは次のように記されている。
呼蘭若尸逐就単于兜樓儲先在京師、漢安二年立之。天子臨軒、大鴻臚持節拜授璽綬、引上殿。・・・遣行中郎将持節護送単于帰南庭。

呼蘭若尸逐就単于・兜楼儲はこれ以前より洛陽にいたが、漢安2年に単于に立てられた。その際、天子が前殿に出御し、大鴻臚が節を持って(南単于の?)印璽と綬(ひも)を授け、上殿に引率した。・・・使匈奴中郎将に節を持たせて単于・兜楼儲を護送させ、南単于庭に帰らせた。
 兜楼儲は侍子だったんでしょうね。で、次期単于候補だった左賢王も死んでしまったから、彼にその地位が回ってきたのかもしれない。

 ちなみに『後漢書』伝69儒林伝・上・序に次のような記述も見える。
復為功臣子孫・四姓末属別立校舍、搜選高能以受其業、自期門羽林之士、悉令通孝経章句。匈奴亦遣子入学。

(明帝は)功臣の子孫や四姓の末族のために別に校舎を立て、高い才能を有している人を探し求めて学業を受けさせ、期門や羽林の士以下は、全て『孝経』の章句を通読させ、匈奴も子を派遣して太学に入れさせた。
 この留学がどの程度まで行われていたのか、そもそもこの記事を真に受けてしまっていいのか、判断がつきかねるのだけども、なかなか興味を引く記事である。

2013年8月27日火曜日

趙王倫たむぅ・・・

 昨日、ある方と八王のことに話が及んだので、ついでながら簡単に八王の列伝をパラパラめくりなおしているとき、なかなか面白い話が趙王倫の列伝にあることを思い出したので、ちょっと書いてみた。
『晋書』巻59趙王倫伝
倫・秀並惑巫鬼、聴妖邪之説。秀使牙門趙奉詐為宣帝神語、命倫早入西宮。又言宣帝於北芒為趙王佐助、於是別立宣帝廟於芒山。謂逆謀可成。・・・使楊珍昼夜詣宣帝別廟祈請、輒言宣帝謝陛下、某日当破賊。拝道士胡沃為太平将軍、以招福祐。秀家日為淫祀、作厭勝之文、使巫祝選択戦日。又令近親於嵩山著羽衣、詐称仙人王喬、作神仙書、述倫祚長久以惑衆。

趙王倫と孫秀はともに巫術に傾倒し、妖邪の話を聞き入れていた。孫秀は牙門の趙奉に偽らせて宣帝の神託をでっちあげさせ、倫に早く西宮に入るよう命じさせた。また宣帝が北芒で趙王の助けとなるとも喧伝し、そのために宣帝廟を別に芒山に建てた。(こうして)簒奪の計略は万全だと考えた。・・・(斉王冏らが義軍を挙げて攻めてくると、趙王倫は)楊珍を昼夜、宣帝別廟に行かせて祈祷させていたが、楊珍は毎回、宣帝は陛下〔趙王倫のこと〕に謝しており〔原文「謝」は「わびる」の意でも「感謝する」の意でも取れるが、どちらが妥当か判断できない〕、某日に必ず賊を滅ぼすと言っていると報告した。道士の胡沃を太平将軍に任命し、吉を呼び込もうとした。孫秀の家では毎日淫祀〔妖しげな祭祀。みだらなパーティのことではない〕を行い、呪いで打ち負かすための文を作成し、巫祝〔シャーマン〕に決戦の日を選ばせた。また近親の者に嵩山で羽衣を着させると、偽らせて仙人の王喬だと自称させた。(この者に)神仙書を作成させ、倫の天命が長いことを記し、人々を惑わせた。
 趙王倫らはかなりシャーマニズムに傾倒していたようなのだが、彼らがやけに宣帝に頼っていることは興味深い。「天下は高祖の天下なり」ならぬ「天下は宣帝の天下なり」という正当観がにじみでている。宣帝を晋朝の起源におくかどうかは、国史編纂問題も含めて一悶着あったはずなのだが、結局は漢の高祖と同じような扱いに落ち着いたということだろう。

 もう一つ目立つのが、趙王倫の懐刀・孫秀であろう。ここに見えている孫秀の妖しげな行為、じつは道教と関連が深いものかもしれない。それは道士とか仙人とかまじないがでてきているから、というのもまあそうだけど、彼と同族の子孫がかの東晋末に道教教団を率いて組織的反乱を起こした孫恩なのだ。彼ら琅邪・孫氏は長江に渡ってから道教を信奉したのではなく、すでに西晋時代から、一族を挙げて信仰していたのだろう。
 琅邪というと、あの琅邪・王氏も道教を奉じていたことで知られている[1]。琅邪とは離れるが高平・郗氏も道教を奉じている者たちがいたようだ[2]。これよりさきは深く調べてないのでもうこの位にしておく。今回は単に西晋時代時点で、一族こぞって道教を奉じていた家がわりとあったかもしんないということだけが言いたかった。


――注――

[1]『晋書』巻80王羲之伝附凝之伝「王氏は代々、張氏の五斗米道を信奉していたが、王羲之の子の凝之はとりわけ信仰心が篤かった。孫恩が反乱を起こして会稽を攻めたとき、(会稽内史であった凝之の)部下たちは守りを固めることを願い出た。凝之は彼らの意見を聴き入れず、部屋に閉じ籠って祈祷した。部屋から出てくると、部下たちに『大道に祈っておいたので、鬼兵が助けてくださるだろう。賊など勝手に滅びるわい』と言った。こうして守りを固めておかなったために、とうとう孫恩に殺されてしまった(王氏世事張氏五斗米道、凝之彌篤。孫恩之攻会稽、僚佐請為之備。凝之不従、方入靖室請祷、出語諸将佐曰、『吾已請大道、許鬼兵相助、賊自破矣』。既不設備、遂為孫恩所害)」。吉川忠夫『王羲之――六朝貴族の世界』(岩波現代文庫、2010年)が詳しく書いているので、興味のある方はぜひ。[上に戻る]

[2]郗鑒の子の愔と曇は「天師道」を奉じていたが、愔の子・超は「仏」を奉じていたらしい(『晋書』巻67郗鑒伝附超伝、同巻77何充伝)。ちなみに王羲之の最初の奥さんは郗鑒の娘で、あるいは両家には道教的なつながりがあったんじゃなかろうかという指摘を何かの文章で見かけたことがある(てきとうですいません)。[上に戻る]

2013年8月25日日曜日

台湾の古代中国史研究

 今日、昼過ぎから少し神保町を散策して、サマーセール中の東方書店さん、内山書店さんなどを回ってみた。南宋・張敦頤『六朝事迹編類』(張忱石点校、中華書局、2012年)、陳・顧野王『輿地志輯注』(顧恒一ほか輯注、上海古籍出版社、2011年)のほか、マイケル・ダメット『思想と実在』(金子洋之訳、春秋社、2010年)、中山康雄『現代唯名論の構築――歴史の哲学への応用』(春秋社、2009年)を購入。中山氏の著作はダントーや野家啓一氏にも言及しているのだが、恥ずかしながら今日手に取るまでこの本の存在は全く知らなかった。反省。
 それともう一冊、わりと面白そうな本を買った。林素娟『美好与醜悪的文化論述――先秦両漢観人・論相中的礼儀・性別与身体観』(台湾学生書局、2011年)というもの。総頁414。5000円近くしたのだけども、日本の古代中国史研究でこんな感じの(挑戦的な)テーマはあんまり見かけないし、面白そうだから購入した。目次を眺めてみると、儒教や方術の身体観や、美的感覚、女性に対する美醜観が論じられている様子。古代史というと、金太郎飴のようにだいたいが国家ガー政治ガーばっかり論じる傾向にあるけども、本書のように「感覚」を問題に設定するのは現代チックな感じがして、いったいどういう議論をしているんだろうかと気になる[1]
 そんなことを期待しながら冒頭のほうを少しめくってみると、モーリス・アルヴァックス、ガダマー、ポンティといった名前が。ほかにもフーコー、ヘイドン・ホワイト、ポランニー、ブルデュー、とよく知られた人たちが引用されている。少し古い世代の人たちとはいえ、古代史ではめずらしい引用の顔ぶれ。参考文献を見ると、私も知らない欧米人の著作が並んでいる。
 ここで思い出したのが、廖宜方『唐代的歴史記憶』(台大出版中心、2011年)という著作。昨年お世話になった研究書なのだけど、最近何かといろんなジャンルで見かける「記憶」をテーマにしている。導論では、モーリス・アルヴァックスの「集合的記憶」とか、ハーマンらの「トラウマ」の研究成果、さらにはドイツのヤン・アスマンとアライダ・アスマンを中心とした研究グループ「文化的記憶論Cultural memory studies」を引きつつ、「歴史記憶」という新たな概念の理論構築を試みている。残念ながらその理論構築はうまくいっていないと思われるが[2]、本書を通してアライダ・アスマンらやクリフォード・ギアツを知るきっかけになったので、けっこう感謝している[3]
 なんかよく知らんのだけど、台湾だとこういう研究傾向にあるのだろうか。ずいぶん現代チックになったというか。こういう研究はたいてい、周囲からは冷ややかに見られるし、うすっぺらい研究だと見なされがちであるが、わたしはこんな傾向のほうが面白いと思っているので、いいぞもっとやれ!的な。ただまあ、あちら側の思想をそのまま輸入したようなやつはやめていただきたいが。


――注――

[1]アラン・コルバンだっけ?「におい」の歴史とやらを書いたのは。ほかにもいわゆる「アナール」には身体に関する歴史を書いた誰かがいたような気がする。[上に戻る]

[2]わたしが見るところ、廖氏はCultural memory studiesへの理解が浅い。このグループは、過去とは「記憶の再構築作用のように」再構築される、という構築主義的スタンスに立っているのであり、その様相を「記憶」の言語(想起、保持、忘却)を用いることで記述しようという方法論なのである。だからこの方法論においては、文化=メディア(書物、祭日、身振りなど)として保存された過去の情報は、歴史であろうと神話、物語であろうと、その都度の集団や個人によって再構築された過去なのだ、という理解である。だとすると、「歴史記憶」という言語表現はそれ自体でもはやおかしさを感じさせる。「歴史についての記憶」とでも言いたいのだろうか。それは「記憶のように構築された歴史」ということであろうか。そうだとすると、「文化的記憶」と何が違うのだろうか。わざわざ「歴史記憶」という、そもそも定義すら明確に行い得ていない言語を導入する必要がどこにあるのか。という具合でわたしは廖氏の方法は上手くいっていないと考えています。が、このような議論をしようとしたことに関しては、非常に好感をもっています。[上に戻る]

[3]アライダ・アスマン『想起の空間――文化的記憶の形態と変遷』(安川晴基訳、水声社、2007年、原著は1999年)、クリフォード・ギアツ『文化の解釈学』Ⅰ・Ⅱ(吉田禎吾ほか訳、岩波書店、1987年、原著は1973年)。エストリッド・エル氏が執筆した「文化的記憶論」の手引論文では、「文化的Cultural」という言葉は、カルチュラル・スタディーズのような意味合いではなく、文化人類学的な意味で使用している、と述べられており、ギアツの『文化の解釈学』を参照するように注記されている。このエル氏の論文を読んでわたしはギアツをかじりはじめた。Astrid Erll, “Cultural Memory Studies: An Introduction” (In A. Erll & A. Nünning eds., Cultural Memory Studies: An International and Interdisciplinary Handbook, Berlin and New York: Walter de Gruyter, 2008) を参照。[上に戻る]

去卑のその後と匈奴の分割(8月27日追記)

 前回の記事では後漢末の南匈奴・去卑を取り上げ、彼が匈奴単于の血統を引く人物である可能性が高いことを述べておいた。今回は去卑のその後、具体的には白波と献帝を護衛した後の動向について一瞥しておき、ついで匈奴分割の話をしておこうと思う。
 とりあえず『後漢書』伝79南匈奴伝を再度引用しておこう。
建安元年、献帝自長安東帰、右賢王去卑与白波賊帥韓暹等侍衛天子、拒撃李傕・郭汜。及車駕還洛陽、又徙遷許、然後帰国。〔謂帰河東平陽也。〕二十一年、単于来朝、曹操因留於鄴、〔留呼廚泉於鄴、而遣去卑帰平陽、監其五部国。〕而遣去卑帰監其国焉。

建安元年、献帝が長安から東に帰る際、右賢王の去卑は白波賊の頭領の韓暹らとともに天子に侍って護衛し、李傕や郭汜を撃退した。天子が洛陽に帰ると、今度は許に移り、そうしてからようやく去卑は国に帰った〔河東の平陽に帰ったのである――李賢注〕。建安21年、呼厨泉単于が後漢朝廷に朝見すると、曹操は鄴に留めさせておき〔呼厨泉を鄴に留めておいて、去卑を平陽に帰し、匈奴五部を監督させたのである――李賢注〕、去卑を帰して匈奴の国を監督させた。
 結論的に言うと、去卑に関する事跡はこれが全てである。これ以上の記述は無いため、献帝護衛後、あるいは匈奴本国監国の時期における彼の具体的な活動をうかがい知ることはできない。
 といっても、若干ながら付け加えるべき情報がないわけでもない。まず『三国志』巻28鄧艾伝を引いてみよう。
是時并州右賢王劉豹并為一部、艾上言曰、「戎狄獣心、不以義親、彊則侵暴、弱則内附、故周宣有玁狁之寇、漢祖有平城之囲。毎匈奴一盛、為前代重患。自単于在外、莫能牽制長卑。誘而致之、使来入侍。由是羌夷失統、合散無主。以単于在内、万里順軌。今単于之尊日疏、外土之威寖重、則胡虜不可不深備也。聞劉豹部有叛胡、可因叛割為二国、以分其勢。去卑功顕前朝、而子不継業、宜加其子顕号、使居雁門。離国弱寇、追録旧勲、此御辺長計也」。

この当時〔斉王芳の時期、『資治通鑑』は嘉平3年とする――筆者注〕、并州にいた〔匈奴の〕右賢王劉豹が民衆を併せて〔匈奴五部族の〕一部族として存在していた。鄧艾は上奏文をたてまつって述べた、「蛮族は野獣の心をもっていて、道義によってなつかせることができません。強いときは侵略をはたらき、弱いときは内属します。そのため周の宣王の時代には玁狁(匈奴の別称)の侵入があり、漢の高祖の時代には平城での〔匈奴の〕包囲がありました。匈奴がひとたび盛んになると、過去においてはいつも重大な災難をもたらしてきたのです。単于(匈奴の王号)が国境の外にいて、部族長や民衆に対する拘束力を失ってからは、うまく誘って〔国境内に〕招き寄せ、お側仕えとして参内させました。これがために羌族は統率力を失い、あるじもなく離合をくりかえしました。単于が国境内にいたことから、万里のかなたまで規範に従うことになりました。ところが今〔国境内にいる〕単于の権威は日に日に下ってゆき、外地〔にいる異民族〕の威光がしだいに重みを増しておりますれば、蛮族に対して充分に備えをしなければいけません。聞けば劉豹の部族に反乱が起こったとか。反乱につけこんで二国に分割してその勢力を割くべきかと存じます。去卑は前代(武帝の時代)に顕著な功績をあげながら、その子は残した功業を引き継いでおりません。どうかその子に高い称号を与えまして雁門に住まわせてくださいますように。〔匈奴を〕二国に分けて侵略者の力を弱め、昔の勲功に対してさかのぼって恩賞をとらすこと、それは国境地帯を統御するための長期的戦略であります」。(ちくま訳pp. 270-271)
 この鄧艾の進言によると、どうやらもうこの時期には去卑は亡くなっているようである。しかしその子は去卑を継いでいないという。ちなみに去卑の功績というのは、ちくま訳によると呼厨泉を入朝させたこと、もしくは匈奴本国の監督のことであるらしい。
 ところで、めざとい人であれば、この箇所に劉淵の父「劉豹」が登場していることに気付くであろう。同一人物と見なして構わないと思う。注意していただきたいのは、劉豹が単于の権威をモノともしない危険分子として鄧艾に見なされていることである。当然、彼は去卑や去卑の子にも権威を感じていなかったであろう。鄧艾はその危険分子・劉豹の勢力範囲を二つに分割するべきだと言い、おそらくは、その片方を去卑の子に統治させようとしていたのではないだろうか。そこまでは少し考えすぎかもしれない。
 しかしいったん、この話題はここまで。劉豹は反単于的人物であったと言うことだけ念頭に留めておいていただきたい。この鄧艾の進言に関して、より深く考えてみたい箇所が別にある。実はこの史料、けっこう読みにくい。とりわけ「自単于在外、莫能牽制長卑。誘而致之、使来入侍。」の箇所は、呼厨泉入朝のことを言っているのはわかるのだけども、どうも「長卑」の意味がわからない。他に用例もないのでお手上げである。ちくまは「部族長や民衆」、言ってみれば「高貴な人といやしい人」と訳しているようだ。なるほど、と思わせる翻訳である。
 ここで『三国志集解』を見てみると、次のようにある。
沈家本が言うに、「『長卑』というのはよくわからん。『去卑』の間違いなんじゃねえか」。わたくし〔盧弼のこと――筆者注〕が考えるに、後文で去卑が登場しているし、去卑とは別人なんじゃなかろうか(字の誤りとは考えにくい)。
 かの沈家本がわかんねえと言うんだから、オレがわかんないのも当然っすわな。しかし沈家本は「去卑」の誤字なんじゃないかと言うとんでもない指摘をしている。盧弼はそれを否定してはいるものの、人名として見なしているふしがある。あれ、ちくまは別に人名と見なしてないけども・・・。
 まあとりあえず沈家本の考えを採用してみようじゃありませんか。すると次のように原文が書き換わる。
毎匈奴一盛為前代重患自単于在外莫能牽制卑誘而致之使来入侍由是羌夷失統合散無主
 なぜ標点を省略したのかって? そもそも中華書局の標点に疑問があるからですよ。結論的に言うと、ここは中華書局が一か所「。」を打つべき個所を誤っている。次のように文章を読むべきだ。
毎匈奴一盛、為前代重患。自単于在外、莫能牽制去卑誘而致之、使来入侍。由是羌夷失統、合散無主。以単于在内、万里順軌。

匈奴はいったん盛んになるたびに、過去における重大な悩みとなっていた。匈奴単于が(朝廷の)外にいるようになって(参内しなくなって)以来、匈奴本国は統制できなくなっていた。去卑は単于を誘って招き寄せ、朝廷に入らせて側仕えさせるようにした。こうして羌(などの非漢族?)は統一を失い、統率者がいないままに合流したり解散したりしていたのだが、単于が朝廷内にいるようになると、天下は帰順した。
 かなりわたしなりの解釈が混じっているが、前漢・後漢の匈奴史をある程度踏まえて読んでみた。前漢・宣帝期、後漢・光武帝期の二人の呼韓邪単于が入朝して臣従の意を示したことで、匈奴が落ち着いて、漢朝との関係も比較的平和になったことを意識した文章だと思われる。あんまりごちゃごちゃ書くと長くなるので、色々は書きませんが、わたしはこのように読むのが正しいと思います。[1]
 すると大事なことが言われているじゃあありませんか。だって去卑が呼厨泉を入朝させた張本人ということになってるんですよ。
 じつはこのことに関しては、西晋の江統「徙戎論」(『晋書』巻56本伝所収)でも述べられているのだ。
中平中、以黄巾賊起、発調其兵、部衆不従、而殺羌渠。由是於彌扶羅求助於漢、以討其賊。仍値世喪乱、遂乗釁而作、鹵掠趙魏、寇至河南。建安中、又使右賢王去卑誘質呼廚泉、聴其部落散居六郡。

中平年間、黄巾賊が起こったことから、(匈奴単于は後漢を援護するために)兵を徴発したが、部衆は従わずに単于の羌渠を殺してしまった。こうしたことから、於弥扶羅〔於扶羅のこと――筆者注〕は漢に助けを求め、単于を殺害した者たちを討とうとした(が許されなかった)。すると(後漢末の)戦乱に出くわしたので、ついにその隙に乗じて反乱を起こし、趙魏で掠奪を行い、侵略は河南にまで及んだ。建安年間、また(朝廷は?)右賢王の去卑に呼厨泉を誘致させて(朝廷に)人質として差し出し、匈奴の部落が六郡に散居することを許した。
 そう言われると、去卑は献帝が許に移動するまで帝に付き従っていたのだから、曹操と面識があった可能性は否定できない。また呼厨泉が入朝すると曹操がそのまま鄴に留めたと言うことは、現在は匈奴本国から追放されている単于であるとはいえ、単于が再び権威や権力を取り戻して、朝廷にたてつくような勢力を得てしまうことを曹操は警戒していたということであり、それゆえに彼は単于を自らの手元に軟禁しておこうと考えたのだろう。そうした曹操の思惑通りに呼厨泉を誘い出したのが去卑ということになる。おまけに彼は、単于の血族であるにも関わらず、匈奴単于の復活を警戒していたと思われる曹操から、匈奴本国の監督を委任されているのである。要するに、去卑と曹操は裏で手を結んでいたのではなかろうか。そうして実現したのがこの呼厨泉の入朝=軟禁と去卑の監国だったというわけである。[追記]
 少し妄想を交えすぎたかもしれない。ただわたしは、おおよそこのような流れで理解して良いと思っている。わざわざ江統がウソをつく必要もないだろうし。鄧艾伝のあの箇所を、前述したように読むべきだと主張したのも、この「徙戎論」の記述を根拠の一つとしている。

 去卑が監国のために帰った後はどうであろうか。そもそも彼が監督を委任された「国」とは、羌渠を殺害し、於扶羅を追い出した部民たちの住む本国のことであったと思われる。これも前回に軽く触れたのだけど、もう一度このあたりの経緯を確認しておこう。
 単于羌渠、光和二年立。中平四年、前中山太守張純反畔、遂率鮮卑寇辺郡。霊帝詔発南匈奴兵、配幽州牧劉虞討之。単于遣左賢王将騎詣幽州。国人恐単于初兵無已、五年、右部○〔諡の言を酉にした字〕落与休著各胡白馬銅等十余万人反、攻殺単于。
 単于羌渠立十年、子右賢王於扶羅立。
 持至尸逐侯単于於扶羅、中平五年立。国人殺其父者遂畔、共立須卜骨都侯為単于、而於扶羅詣闕自訟。会霊帝崩、天下大乱、単于将数千騎与白波賊合兵寇河内諸郡。時民皆保聚、鈔掠無利、而兵遂挫傷。復欲帰国、国人不受、乃止河東。須卜骨都侯為単于一年而死、南庭遂虚其位、以老王行国事。(『後漢書』南匈奴伝)

 単于の羌渠は光和2年に立った。中平4年、もと中山太守の張純が反乱を起こすと、鮮卑を引き連れて辺郡を侵略した。霊帝は詔を下し、南匈奴の兵を徴発して、幽州牧の劉虞に配し、張純を討伐するよう命じた。羌渠単于は(それに従い、)左賢王に騎兵を統率させて幽州に行かせた。匈奴の国人は単于の徴兵が続くことを憂慮し、中平5年、右部○と休著各胡の白馬銅ら十余万人が反乱を起こし、単于を殺した。[2]
 単于の羌渠が立って十年で、その子の右賢王・於扶羅が立った。
 持至尸逐侯単于の於扶羅は中平5年に立った。匈奴の国人は於扶羅の父を殺してとうとう反乱を起こすと、共同で須卜骨都侯を単于に立てたので、於扶羅は朝廷に行って訴え出た。ちょうど霊帝が崩御して、天下が大混乱に陥ったので(於扶羅は相手にしてもらえず)、於扶羅単于は数千騎を率いて白波賊と合流し、河内などで暴虐をはたらいた。しかし当時の民衆たちはみな寄り集まって(自己防衛して)いたので、掠奪して得られるものはなく、(疲労などで)兵たちは使い物にならなくなっていった。再び国に帰りたいと思ったが、国人は受け入れなかったので、河東に駐留することにした。須卜骨都侯は単于になって一年で死んだが、南匈奴の単于は空位のままとなり、老王が国の政事を取り仕切った。
 この事件、じつはものすごい大事件である。曲がりなりにも約200年間「南匈奴」部族連合[3]のトップにあった単于=虚連題氏が、その連合下にある部族民たちから単于失格の烙印を押されて追放され、異性大臣・骨都侯の位にあった須卜氏を代わりに単于にしたというのだ。ちなみにこの須卜氏は呼延氏と並んで匈奴の「四姓」の一つである。わかりやすく言うと易姓革命のようなものが起こったのである。いままで、後漢の後期になるにつれて単于に対する反乱が起こったりと、たしかに単于の権威が低下しつつあったようだけども[4]、後漢末年にいたって、とうとうこんな結果になってしまったようである。
 於扶羅や去卑ら虚連題氏が全く手を出せなくなった匈奴本国は、どうなったのだろうか。「老王が取り仕切った」以上に明確な情報はあまりないのが現状である。わかることを述べておくと、曹操と袁紹が対立を鮮明にしていた時期においては、単于グループは袁紹に味方をしていたようである。建安11年、曹操が高幹を討伐すると、梁習を并州刺史に任じた(『三国志』巻15本伝)。梁習伝によると、当時の并州は荒れ放題だったが、梁習が武力制裁やらを加えることで平穏を取り戻したそうだ。こうして、
単于恭順、名王稽顙、部曲服事供職、同於編戸。

単于は帰順し、名王は額を下げ、部曲〔ちくまは部族民と訳す、ニュアンスとしてはおそらく妥当――筆者注〕は仕事を行うようになり、編戸〔戸籍が作られること、転じて一般農民を指す〕と同じように扱われた。
という風になったらしい。はたしてこの記述が単に単于グループに留まるのか、本国にまで関する記述と見て良いのか、よくわからない。まあたぶん単于グループも本国も、といった感じだろうか。どうも陳寿は匈奴本国と単于グループが乖離していたという点をあまり意識できていないようにも見えるのだが、どうだろう。
 この乖離状況を打ち破ったのが去卑であった。彼は(おそらく)曹操と手を組み、単于・呼厨泉を人質として差し出す代わりに、匈奴本国を支配する承認を得たのである。それはうまくいったのだろうか。まあ何も記述が残っていないので、推測の仕様がないが、逆に特記するほどの大事件もなかったということだろうか、まあ比較的順調だったのかもしれない。
 だが去卑の没後はどうもそういうわけにもいかなかったようだ。前掲鄧艾伝からうかがう限りでは、去卑の子は魏朝から何らかのお墨付きをもらっていたわけでもないし、匈奴本国でもあまり尊重されていなかったようだ。対して、匈奴本国で急速に勢力を伸ばしていたので劉豹のような匈奴劉氏であったと思われる。前掲鄧艾伝でも、単于の権威をカサにきない不穏分子として劉豹が言及されている点を指摘しておいた。なんだか劉豹は、単于と関係のある人物というより、敵対していた人物であったようにも見える。匈奴劉氏に関しては、『三国志』巻24孫礼伝にも、
時匈奴王劉靖部衆彊盛、而鮮卑数寇辺、乃以礼為并州刺史、加振武将軍・使持節・護匈奴中郎将。

当時、匈奴の王の劉靖の部族が勢い盛んで、かつ鮮卑がしばしば辺境を侵略していたので、孫礼を并州刺史とし、振武将軍・使持節・護匈奴中郎将を加えた。
とあるが、この記事は曹爽が誅殺される直前に置かれているので、正始末年~嘉平元年ころの話だと思われる。鄧艾伝の話は『資治通鑑』によると嘉平3年である。どうもこの時期くらいになると、匈奴本国は魏朝や単于のことをないがしろにし始めていくようだ。その指導者であったのが劉氏であったらしい。
 これに危険を感じた鄧艾は、その勢力を無理矢理二つに分割することで、勢力を削ごうとしたらしい。なんかコントロールできないよぉとか言っときながら分割は強行できるんだろうか?と思っちまうのだが、劉氏の側も曹魏から自立できるほどの力はなかったんだろうか? このあたりの事情はよくわからんのだが、どうも分割政策は実行できたらしい。というのも、さきの江統「徙戎論」のつづきに、
咸熙之際、以一部太強、分為三率。泰始之初、又増為四。・・・今五部之衆、戸至数万、人口之盛、過於西戎。

咸煕年間、一部が強大だったので、分割して三部とした。泰始の初めには、また分割数を増やして四部とした。・・・現在の匈奴五部の衆は、戸数数万にもいたり、人の多さは西戎以上となっている。
とあるからだ。おそらく、嘉平年間に二部に分割され、さらに曹魏末年の咸煕年間に三部、泰始に四部、そしてその後、「徙戎論」が書かれた恵帝中期ころには五部になっていたようである。すなわち、匈奴の五部分割とは曹魏から西晋にかけて、徐々に行われた政策であったことになる。
 それはおかしい!と思われた方もいると思う。通説、というより『晋書』巻101劉元海載記や『十六国春秋』前趙録では、五部分割は曹操によって行われた政策であると記述されているからだ。そしてこれを受けて、通説では曹操によって去卑が監国に帰された際に五部分割が実行に移され、劉氏=虚連題氏が五部の帥に任命されたと考えられてきた。
 しかしわたしは、鄧艾伝や「徙戎論」を重視して、去卑が帰された際は「六郡の散居」状態で五部分割などはなされず、その後劉氏の台頭に伴って、危機意識を増した曹魏・西晋が五部分割を実行したのだと考えておきたい。[5]
 もうこれまでの記述の様子からお分かりだと思うが、わたしは劉氏を単于一族=虚連題氏とは考えていない。おそらく劉氏は、単于一族=虚連題氏追放後の匈奴本国で力を握り、頭角を現した一族であると推測している。さらに言えば劉氏とは、南匈奴部族連合のオリジナルメンバーではなかった「屠各種」と呼ばれる人々であったと考えている。屠各種や、単于の子孫については・・・もう長く書きすぎてしまったのでまたの機会に。


――注――

[1]このことはちゃんと言っておこうと思いますが、鄧艾伝のこの箇所を記事のように読むべきだと言ったのはわたしが初めてではなく、すでに先行研究で指摘されています。たしか町田隆吉先生の「二・三世紀の南匈奴について――『晋書』巻101劉元海載記解釈試論」(『社会文化史学』17、1979)で言われてたと思う。町田先生の五胡に関する研究論文は、手に入りにくい雑誌や論文集に収録されているので、あまり広くは知られていないと思いますが、とてもすばらしい研究ばかりなので、機会がある人はぜひご覧になってください。五胡に直接興味があるわけではなくても、例えば前秦の護軍を考察した論文は、魏晋の護軍を考察するうえでの古典的論文にもなりますので。え?町田先生に媚びすぎ?いやいや、いくら魏晋の会の会長だからってなんかちょっと目をかけてほしいとか別にそういうわけじゃありませんよ、ええ、やめてくださいそういうの。[上に戻る]

[2]前回の記事では『晋書』劉元海載記や『十六国春秋』前趙録に従って黄巾の乱の直後に殺されたと述べていたけど、『後漢書』では黄巾の乱後の張純の乱のときに殺されたことになっていましたね。すみません。いちおうどちらでも、霊帝末年に単于が殺されたということで共通しているので、とりあえずそんな感じで許して。[上に戻る]

[3]後漢朝によって正式に承認された匈奴単于を中心とする部族連合のことを、わたしは南匈奴と呼ぶことにしている。[上に戻る]

[4]例えば永和5年の句龍王吾斯の反乱とか。吾斯は単于庭を包囲して攻め、しかも自分で勝手に単于を立ちゃったりしている。南匈奴史においてはけっこう重大な事件。[上に戻る]

[5]じゃあなんで『晋書』載記や『十六国春秋』前趙録は、曹操が五部分割したと記述しているのか、というと、どうもこれらは匈奴劉氏の王朝・漢や前趙で編纂された国史『漢趙記』に由来するらしい。後漢末年に自ら(劉豹)の系譜をつなげるなどといったイデオロギー的操作がこのような記述を生み出したのだろうと指摘されている。前掲町田論文参照。[上に戻る]


[追記]書き忘れてしまっていたが、去卑と曹操がグルであった可能性はすで内田吟風『北アジア史研究』によって指摘されている。わたしの独創でもないものを、さもわたしが思いついたかのように書いてしまったことは不適切でした。すみません。[上に戻る]

2013年8月22日木曜日

後漢末の匈奴・去卑

 匈奴単于・於扶羅の叔父である去卑なる人物を、みなさんはご存じだろうか。次の史料を見てみよう。
『北史』巻53破六韓常伝
破六韓常、単于之裔也。初呼厨貌入朝漢、為魏武所留、遣其叔父右賢王去卑監本国戸。魏氏方興、率部南転、去卑遣弟右谷蠡王潘六奚率軍北禦。軍敗、奚及五子俱沒于魏、其子孫遂以潘六奚為氏。後人訛誤、以為破六韓。

破六韓常は(匈奴の)単于の子孫である。はじめ、呼厨貌が後漢朝に入朝したとき、魏武帝によってそのまま(鄴に)拘留され、(魏武帝は?)呼厨貌の叔父の去卑を匈奴本国に遣わし、本国の人びとを監督させた。拓跋氏が起こると、(去卑は)部民を率いて南に移動し、弟の右谷蠡王・潘六奚に軍を統率させて北方を防衛させた。(しかし)潘六奚の軍は敗れ、潘六奚とその五人の息子はみな拓跋氏に降った。その子孫はそのまま潘六奚を氏としたが、後世、なまって「破六韓」となった。
 北朝と言えば系譜の改竄が盛んに行われた時代として有名である。高さんとか李さんとか楊さんとか、挙げていくときりがない[1]。なのでこの系譜もまゆつばなのだけども、呼厨貌(泉)の叔父として去卑という人物が挙げられているのは注目に値する。というのもこの人物、たしかに『後漢書』『三国志』等に名前こそ散見するものの、匈奴単于とどういう関係にあったかが不明瞭だったからである。
 ためしに『後漢書』等から関連する記述を以下に列挙してみよう。
楊奉・董承引白波帥胡才・李楽・韓暹及匈奴左賢王去卑、率師奉迎、与李傕等戦、破之。(『後漢書』紀9献帝紀・興平2年11月の条)

楊奉と董承は、白波の頭領である胡才、李楽、韓暹、そして匈奴の左賢王・去卑を連れてきて、軍を統率して(献帝を)迎え、、李傕らと戦い、撃破した。

承・奉乃譎傕等与連和、而密遣間使至河東、招故白波帥李楽・韓暹・胡才及南匈奴右賢王去卑、並率其衆数千騎来、与承・奉共撃傕等、大破之、斬首数千級、乗輿乃得進。董承・李楽擁衛左右、胡才・楊奉・韓暹・去卑為後距。(『後漢書』伝62董卓伝)

董承と楊奉は李傕らをだまして彼らに協力しようと言いつつ、ひそかに使者を河東にやって、もと白波の頭領である李楽・韓暹・胡才、および南匈奴の右賢王・去卑を誘致した。彼らは数千騎の衆を引き連れて到来し、董承や楊奉らとともに李傕らを撃退し、斬首数千級を挙げた。こうして天子はようやく進むことができた。董承と李楽は天子の左右を守り、胡才・楊奉・韓暹・去卑はしんがりとなった。

建安元年、献帝自長安東帰、右賢王去卑与白波賊帥韓暹等侍衛天子、拒撃李傕・郭汜。及車駕還洛陽、又徙遷許、然後帰国。〔謂帰河東平陽也。〕二十一年、単于来朝、曹操因留於鄴、〔留呼廚泉於鄴、而遣去卑帰平陽、監其五部国。〕而遣去卑帰監其国焉。(『後漢書』伝79南匈奴伝)

建安元年、献帝が長安から東に帰る際、右賢王の去卑は白波賊の頭領の韓暹らとともに天子に侍って護衛し、李傕や郭汜を撃退した。天子が洛陽に帰ると、今度は許に移り、そうしてからようやく去卑は国に帰った〔河東の平陽に帰ったのである――李賢注〕。建安21年、呼厨泉単于が後漢朝廷に朝見すると、曹操は鄴に留めさせておき〔呼厨泉を鄴に留めておいて、去卑を平陽に帰し、匈奴五部を監督させたのである――李賢注〕、去卑を帰して匈奴の国を監督させた。

秋七月、匈奴南単于呼廚泉将其名王来朝、待以客礼、遂留魏、使右賢王去卑監其国。(『三国志』巻1武帝紀・建安21年の条)
 もう疲れたのでこのくらいにさせていただきたい。
 まず「左」賢王なのか「右」賢王なのかで史料に混乱があるが、もともとこの2字は誤写しやすい漢字なので、どっちかで誤写ったのだろう。どちらかと言うと「右」とする記述が多いようだ。右賢王より左賢王のほうが偉いし、次期単于候補はたいてい左賢王になるので、どっちなのかはけっこう大事な問題だったりするのだけども、この点はいったん保留しておこう。それよりもこれらの王位に就く者はみな「単于子弟」、すなわち単于の兄弟や子供たちであったという点に注意しておきたい。だとすると、賢王であった去卑は匈奴単于・於扶羅、あるいは呼厨泉の兄弟、もしくは子供であったことがわかるからだ。しかし、匈奴の王位にあった人たちを精査してみると、単于の「子弟」でない人が王であったりするので、この規則が本当に厳格に守られていたのか、疑問なしとは言えないのである。
 ところが、冒頭で引いた『北史』の記事によると、やっぱり呼厨貌(泉)の叔父とあるじゃあありませんか。しかもこいつら、系譜を改竄する連中なわけだけど、逆にそのことがこの系譜の権威性を証明していることに注意しておきたい。どこの馬の骨だからわかんねえ大野くんが、やっぱりどこの誰だかわかんねえ家の系譜を接合して、「どうだあ、オレは楽浪郡の李氏だぞお!」とか言っても、「大野くんとうとう頭が・・・」ってなるじゃない。つまり、少なくとも、去卑が南匈奴単于の血統を継ぐ人物であると見なされていたことは間違いないのである。[2]
 さて、上に掲げた史料によると、去卑はなぜだか白波賊と行動をともにしており、献帝東遷の際には、白波賊らとともに護衛につき、許まで付き従ったそうだ。そしてその後、単于の呼厨泉が鄴に留められるようになると、匈奴本国に派遣され、国を監督したと言う。どうやら呼厨泉と一緒に許昌か鄴に行き、去卑だけは国に帰されたようだ。しかも単于代行のようなお仕事まで任されたようである。

 どうして南単于の血統を引く去卑は白波賊と行動をともにしたのだろう。色々な史料を突き合わせたりすると、だいたい次のような事情があったらしい。
 後漢末、黄巾の乱が起こると、ときの匈奴単于・羌渠は子の於扶羅を後漢の援軍として派遣した。すると間もなく、どういう事情があったかはわからないが、羌渠は匈奴の国人たちに殺されてしまい、勝手に自分たちで単于を立ててしまった。一仕事を終えて戻ってきた於扶羅であったが、国に入れてもらえない。怒った於扶羅は、自らが正統な単于であると名乗り、後漢朝廷に何とかしてくれと訴えた。しかし何もしてくれない後漢朝廷。いじけた於扶羅は白波賊に合流、河内などで掠奪を働いたのち、河東(山西省南部。匈奴本国は山西省北部)に根城を置いた。於扶羅は興平二年に亡くなり、同年、弟の呼厨泉が後を継いで単于に立った。・・・[3]
 そうすると、去卑も於扶羅と一緒に派遣されていたか、羌渠が殺されたときに追放されて於扶羅に合流したかで於扶羅らと行動を共にし、於扶羅没後に呼厨泉が立った後も集団内に留まり、そのまま河東にいたのだろう。うろ覚えだが、河東は白波のアジトでもあったはずなので、於扶羅以来、南単于集団は白波とずっとお付き合いを続けていたのだろう。そうしているときにたまたま董承らから連絡があって、どういう理由でかは知らないが去卑が献帝の援軍に派遣されることになったという感じでしょう。
 冒頭の『北史』と合わせて考えると、去卑は於扶羅や呼厨泉の父の弟、すなわち羌渠の弟ということになろう[4]。『三国志』の時代に登場する数少ない南匈奴の要人として、ぜひ記憶にとどめおいてもらいたい。
 というのもこの去卑、実は呼厨泉入朝の裏で糸を引いていたらしいのと、この人物に着目することによって匈奴の五部分割の歴史が浮き彫りになるという、意外と外してはならない重要な人物だからである。これらの話についてはまた後ほど。[5]


――注――

[1]石見清裕『唐代の国際関係』(山川リブレット97、2009)によると、隋の楊氏はもともと普六茹氏で、唐の李氏は大野さんであったらしい。大野くんにはしっかりしてもらいたいね。[上に戻る]

[2]ちなみに、のちに赫連氏を名乗ることになる鉄弗・劉氏もまた、南単于の子孫かつ去卑の子孫を名乗っている(『魏書』巻95鉄弗・劉虎伝)。このことからも、去卑が南単于の血統にあることが確かめられよう。赫連勃勃はいちおう、匈奴単于の子孫ということになるわけである。劉虎らをふくむ匈奴劉氏の系図については、後日また取り上げたい(と思います)[上に戻る]

[3]町田隆吉「二・三世紀の南匈奴について――『晋書』巻101劉元海載記解釈試論」(『社会文化史学』17、1979)など参照。[上に戻る]

[4]ちなみに於扶羅の子が劉豹、豹の子がかの劉淵であるとされている。が、この系図はかねてから疑問が唱えられており、本当に劉淵が於扶羅の孫であったかはかなり疑わしいと考えられている。わたしも劉淵が於扶羅の孫だとは思っていないし、南単于の血統にも当たらない人物だろうと考えている。機会があれば記事にします。さしあたり三崎良章『五胡十六国――中国史上の民族大移動』(東方書店、2002)を参照のこと。[上に戻る]

[5]俺以外に去卑を記事にするやつなんておらんやろ、と余裕こきながらためしに検索してみたら、もうすでにWikiに項目が作られてるね。しかも詳しいわあ・・・[上に戻る]

2013年8月6日火曜日

六朝期における編年体史書

 六朝時代と言えば、編年体の史書が流行した時代である。『隋書』経籍志は紀伝体の史書を「正史」、編年体の史書をおおよそ「古史」に分類している[1]。「正史」は司馬遷『史記』、班固『漢書』を模範とするのに対し、「古史」は『春秋左氏伝』にその体裁を倣っているのだと言う[2]
 しかし残念ながら、編年体の史書で現在でも完本のかたちで残存しているのは東晋・袁宏『後漢紀』のみであり、そのほか東晋・干宝『晋紀』、東晋・鄧粲『晋紀』、東晋・孫盛『晋陽秋』、東晋・習鑿歯『漢晋春秋』、劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』、梁・裴子野『宋略』、梁・蕭方等『三十国春秋』、北魏・崔鴻『十六国春秋』(これは五胡関連と言うことで「覇史」に分類されている)などは散逸してしまった。だがこれらも佚文のかたちで残っている点では、まだましかもしれない。なかには佚文すらも全く残っていないという史書もある。
 今回はその編年体の「書き方」について、一つの特徴をまとめて、述べておこうと思う。

 さて、その『後漢紀』であるが、まず以下のような叙述を見ていただきたい(巻一光武皇帝紀)
 三月、世祖与諸将略地潁川、父城人馮異、内郷人銚期、潁陽人王覇、襄城人傅俊、棘陽人馬成、皆従世祖。
 異字公孫、通左氏春秋、好孫子兵法、為郡功曹、監五県事、与父城令苗萌共守。異出行属県、為漢兵所得、異曰、「老母在城中、且一夫之用、不足為強、願拠五城以効功」。世祖善之。異帰謂萌曰、「観諸将皆壮士屈起、如劉将軍、非庸人也、可以帰身、死生同命」。萌曰、「願従公計」。
 期字次況、身長八尺二寸、容貌壮異。父卒、期行喪三年、郷里義之。世祖聞其気勇有志義、召為掾。
 覇字元伯、家世獄官。覇為獄吏、不楽文法、慷慨有大志。其父奇之、使学於長安数年。帰、会世祖過潁陽、以賓客見世祖曰、「聞将軍興義兵、誅簒逆、竊不自量、貪慕威徳、願充行伍、故敢求見」。世祖曰、「今天下散乱、兵革並興、得士者昌、失士者亡、夢想賢士共成功業、豈有二哉」。覇父謂覇曰、「吾老矣、不任軍旅、汝往勉之」。
 俊字子衛、成字君遷、以県吏・亭長従。
 夏五月、王莽遣大司徒王尋・大司空王邑将四十万兵、号百万衆、至潁川、厳尤・陳茂復与二公遇。・・・
 だいたい歴史学者というのは、この中身の批判的吟味ばかりをしてしまう。范曄の『後漢書』にもある文章はどれか、ない文章はどれか、相互で矛盾した記述はないか、等々。だがそんなことはどうでもよかろう。ここで注目していただきたいのは、叙述の進め方である。以下のようにまとめることができそうだ。
更始元年三月の記事。
馮異の記事。
銚期の記事。
王覇の記事。
傅俊・馬成の記事。
更始元年五月の記事。
 『春秋経』を思い出していただきたい。そこでは「○○年、~~。××年、~~」とあるのみであった。しかしこの『後漢紀』ではどうだろう。単純に「△△年、~~があった。□□年、~~があった」と書いているのではなく、「△△年」(更始元年三月)と「□□年」(更始元年五月)の間に少々脱線した列伝風の記事を挿入しているのである。
 もう少し詳しく見てみよう。この場面で記事が挿入さている馮異、銚期らは、「△△年」(更始元年三月)が初登場である。初登場となったところで、その人物の郷里、字、人となり、簡単な逸話、そしてどうしてこの場面で登場するに至ったかのいきさつ(ここでは光武帝に従うようになったいきさつ)を記述しているのである。
 この場面だけではなく、『後漢紀』では所々でこのような列伝風記事や逸話を挿入している。このような書き方、あたかも『春秋左氏伝』を思わせるものがあるだろう。ただし袁宏の場合は、「経」の間に「伝」を挿入し、「伝」の内容も脱線し過ぎないようにコンパクトにまとめているのではあるが。

 以上のような特徴的構造を持つ『後漢紀』であるが、どうやらこのような構造は当該時期の編年体一般に通じる特徴であったらしい。というのも、『史通』巻2載言篇に、
昔干宝議撰晋史、以為宜準丘明、其臣下委曲、仍為譜注。於時議者、莫不宗之。故前史之所未安、後史之所宜革。

むかし、干宝が晋朝の国史編纂の件について意見を述べたとき、(彼は)左丘明(の体裁)を手本とし、皇帝の臣下たちの詳細については、箇条書きにして注記することとした。当時の論者たちは、みな干宝のこの形式に倣った。こうして、前代の編年体における「事柄を詳細にカバーしきれない」という不安な点は、後代の新しい編年体形式によって改善されたのである[3]
とあるからである。
 編年体となれば、皇帝の事跡が中心となった叙述になってしまう。そうなると、臣下たちの事跡はかなりの程度捨象せざるをえない。それに比べ、紀伝体は列伝とか志とか表とかいう形式で、何でもいくらでも書いて良いのである。結果論的ではあるが、結局のところ紀伝体が生き残っていったのは、詳細に何でも記録できると言う長所にあったのではなかろうか[4]
 干宝は国史『晋紀』の編纂に当たって、編年体のこうした欠点を改善するために、簡単な列伝を作ってそれを注記のかたちで挿入することにしたようだ[5]。たとえば次のような佚文がこれに該当するだろうか。
干宝晋紀曰、文淑討樹機能等、破之。文淑字次鴦、小名鴦、有武力算策。楊休・胡烈為虜所害、武帝西憂、遣淑出征、所向摧靡、秦涼遂平、名震天下。為東夷校尉、姿器膂力、万人之雄。(『太平御覧』巻275引)
 ほかの編年体史書からもこのような列伝風記事をいくつかあげておこう。

東晋・鄧粲『晋紀』
鄧粲晋紀曰、(裴)遐以辯論為業、善敘名理、辞気清暢、泠然若琴瑟、聞其言者、知与不知無不歎服。(『世説新語』文学篇注引)

東晋・孫盛『晋陽秋』
晋陽秋曰、(潘)岳字安仁、滎陽人、夙以才穎発名、善属文、清綺絶世、蔡邕未能過世、仕至黄門侍郎、為孫秀所害。(『世説新語』文学篇注引)

晋陽秋曰、胡威字伯虎、淮南人、父質、以忠清顕、質為荊州、威自京師往省之、及告帰、質賜威絹一匹、威跪曰、「大人清高、於何得此」。質曰、「是吾奉禄之余、故以為汝糧耳」。威受而去、毎至客舎、自放驢、取樵爨炊、食畢、復随旅進道、質帳下都督陰齎糧、要之、因与為伴、毎事相助経営之、又進少飯、威疑之、密誘問之、乃知都督也、後以白質、質杖都督一百、除其吏名、父子清慎如此、及威為徐州、世祖賜見、与論辺事及平生、帝歎其父清、因謂威曰、「卿清孰与父」。対曰、「臣清不如也」。帝曰、「何以為勝汝邪」。対曰、「臣父清畏人知、臣清畏人不知、是以不如遠矣」。(『世説新語』徳行篇注引)

劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』
続晋陽秋曰、車胤字武子、学而不倦、家貧、不常得油、夏日用練嚢、盛数十蛍火、以夜継日焉。(『芸文類聚』巻97蟲豸部蛍火引)

北魏・崔鴻『十六国春秋』
崔鴻十六国春秋前趙録曰、江都王延年、年十五喪二親、奉叔父孝聞。子良孫及弟従子、為噉人賊所掠。延年追而請之。賊以良孫帰延年、延年拝請曰、「我以少孤、為叔父所養。此叔父之孤孫也。願以子易之」。賊曰、「君義士也」。免之。(『太平御覧』巻421引)

崔鴻前趙録曰、李景(年)字延祐。少貧、見養叔父、常使牧羊。景(年)見其叔父講誦、羨之。後従博士乞、得百余字。牧羊之暇、折草木書之、叔父乃誤曰、「吾家千里駒也。而令騏驎久躓塩坂」。乃為娶妻教学。(『太平御覧』巻833引)

崔鴻十六国春秋後趙録曰、張秀字文伯、羌渠部人也。頗暁相法、常謂石虎曰、「明公之相、非人臣骨」。虎掩其口、曰、「君勿妄言、族吾父子」。(『太平御覧』巻730引)

十六国春秋曰、趙明字顕昭、南陽人。虎摂位、拝為尚書。及誅勒諸子、明諌曰、「明帝功格皇天、為趙之太祖、安可以絶之」。虎曰、「吾之家事、幸卿不須言也」。以直忤旨、故十年不遷、貞固之風、時論擬之蘇則。(『太平御覧』巻454引)

 これらは全て引用された記述(佚文)であるから、引用者によって文章が改変されている可能性はもちろん高い(『晋陽秋』佚文の潘岳に関する記事とか、潘岳発初登場時にその殺害のことまで記述されているとは少し考えがたいかもしれない、だとすれば引用者が引用するときに殺害の情報まで追加しておいたのかもしれない)。ただしかし、当時の編年体の叙述の進行やスタイルはおおよそ、袁宏『後漢紀』(干宝『晋紀』)と同様であったと思われる。
 編年体の利点としては、読みやすさ、簡潔さがよく挙げられている。だが干宝に始まる新形式であれば、異なるスタイルの文章を加えることによって、文章に凹凸ができるため、平板さが消え去って、叙述に豊かさがもたらされる、のかもしれない。飽きない文章であればなおさら、スラスラ読める文章となるわけだ[6]。この新しい編年形式が『資治通鑑』にも継承されていることを考えれば、この新形式の発明は軽視できないものなのである。


――[注]――

[1]この時期の「正史」という語が書き方の形式(フォーマット)を指して用いられていたこと、改めて注意しておくべきである。なお編年体は全てが「古史」に分類されたわけではなく、一部は「雑史」や「覇史」にも分類されている。おおよその傾向としては、古史=正統王朝(南北朝)の断代史(東晋・孫盛『晋陽秋』など)、雑史=通史(西晋・皇甫謐『帝王世紀』など)、覇史=五胡などの非正統王朝(前趙・和苞『漢趙記』など)。あくまで「おおよそ」なんで。[上に戻る]

[2]隋志によると、「起漢献帝、雅好典籍、以班固漢書文繁難省、命潁川荀悦作春秋左伝之体、為漢紀三十篇」とあり、荀悦『漢紀』を「古史」の先駆けに挙げ、詳しいいきさつを述べている。それによると、漢の献帝が「班固の文章うるさっ!みづらっ!」と思ったので、荀悦に『漢書』を『左氏伝』風にまとめなおすよう命じ、こうして『漢紀』が成立したのだと言う。つづけて隋志によると、西晋期にいわゆる『竹書紀年』が発見され、その体裁が『春秋経』や『左伝』に似ていたことから、学者たちは『春秋』『左伝』こそが古代の史書のスタイルであったに違いない、と確信するようになり、『左伝』風の体裁=編年体が権威あるものとして受け止められ、流行したのだと言う。
 と、長々と述べてきたが、このような隋志の説明は、隋志の執筆者の理解が反映されているのであって、実際にはそうではないとする意見もある。例えば戸川芳郎氏によると、荀悦は序で『左伝』に言及しておらず、とくに『左伝』を意識していたわけではなかったのであり、『漢紀』が『左伝』に倣ったという理解自体、後世の産物であると言う。さらに、「帝紀もの」(編年体)が行われた当初は年代記風の通史的叙述をめざしていたのであって、『春秋経』『左氏伝』を意識していたわけではなかったが、西晋期の『竹書紀年』発見が契機となり、こうした「帝紀もの」が『春秋経』や『左氏伝』に連なる叙述スタイルとして権威づけされていき、その認識がそのまま継承され、隋志にいたっているとのことだそうだ(戸川「帝紀と生成論」、同氏『漢代の学術と文化』研文出版、2002年。また同氏「四部分類と史籍」、『東方学』84、1992年も参照)[上に戻る]

[3]この部分の読解は、『史通』巻2二体篇における編年体・紀伝体の長短に関する論述を念頭に置いている。[上に戻る]

[4]もちろん、劉知幾が代表的ではあるが、紀伝体は長ったらしくて嫌いだ!編年体のほうが簡潔でイイネ!!紀伝体なんか滅びてしまえ!!!という人もけっこういる(前述の献帝もそうですね)。六朝期に編年体がそれなりに流行したのは、同じように思った人がけっこういたからではなかろうか。[上に戻る]

[5]このような形式をひねりだした背景には、貴族たちの事跡を重んじようとする当時の貴族制的風潮が影響していたとの説がある。「干宝が譜注を添える形式を採ったことは、裴松之の三国志注、劉孝標の世説新語注に連なるものとして注目を要し、しかも、それがあらかじめ構成された自注であり、一書全体を通して、編年体の帝紀と君臣個人の譜注の関係にあること、そして、この干宝の提議にたいして、東晋初頭の議者がすべて賛同したということには、いっそう注目すべきである。紀伝体史が主流となったときに、その簡略化を旨とし、古史への回帰を志向する精神が、貴族制の進展とそれに伴う家伝、氏譜の尊重の世相と混合して、このような折衷的な新形式を生みだし、その故に当時の評判をかちえたものであろう。しかも、干宝は、簡潔な帝紀を譜注によって適切に説明し、春秋左伝の経と伝との関係に擬えたつもりではなかったかと思われる」(尾崎康「干宝晋紀考」、『斯道文庫論集』8、1970年、pp. 293-294)。尾崎氏は「譜注」の語を「家譜形式の注記」といった感じで解釈しておられるようである。この指摘は見逃せないけれども、そこまで貴族制を第一に考えなくとも良い気もする。
 なお原文「譜注」は、『漢語大詞典』によると「叙写、記載」とのこと(用例には本分引用の『史通』を挙げている)。まあたまに『漢語大』でもこういう諸橋大漢和レベルの語釈があるんですわ。しかし、『漢語大』に従って単に「記述した」と意味を取っては、文章全体が意味をなさない。本文の翻訳は少しやりすぎだなのだが、まあこんくらい大胆にやってみてもいいでしょう。
 しかしこんな技巧をてらしてまでせんでも、いろいろ書きたいいうならいっそ紀伝体でかけばええやん、よみづらいとかなにさまなんでもありません[上に戻る]

[6]余談だが、清の銭大昕の『廿二史考異』序文に、『資治通鑑』を何葉かめくってあくびをしだす知識人の故事が引用されていた。たしか南宋の人だけど。まああんな漢字だらけで、しかも現代と違って標点もなければ、活字でもないというのでは、「見づらい読みづらいつまらない」になるのも仕方ないだろうね。私も読む気にならんと思う。[上に戻る]

2013年8月1日木曜日

7月の読書記録

読む時間あんまとれんかった;
 エドワード・カーはだいぶ昔に読んだのを再読したのだけど、以前よりはすっきり理解できたと思う。まあ神経質にも「What is history?」って「歴史学とは何か」と訳すべきじゃねーの?なんて言ったりしてあるが、わりとどうでもいいことだね…。
 ほんとは7月中にウィトゲンシュタイン『哲学探究』、マルクス『経済学批判』『ブリュメール』を読むつもりだったのだが、思ったより忙しくて時間がとれなかった。8月の目標はまずこれらを片付けること……

2013年7月の読書メーター
読んだ本の数:13冊
読んだページ数:3181ページ
ナイス数:2ナイス

言語哲学―入門から中級まで言語哲学―入門から中級まで感想
意味の指示説の周辺(ラッセルの記述理論、クリプキの意味理論と指示理論)、意味論の諸説(命題、使用、心理、検証、真理条件)、語用論、隠喩について、諸説の紹介と欠点について概説。個人的には真理条件で少し置いとけぼりにされた感じがしてしまった…が、全体的に読みやすい。興味を持った理論への手引きにもなるし、良い入門書だと思う。
読了日:7月4日 著者:W.G. ライカン
マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)
読了日:7月4日 著者:マルクス,エンゲルス
賃労働と資本 (岩波文庫)賃労働と資本 (岩波文庫)
読了日:7月4日 著者:カール マルクス
賃銀・価格および利潤 (岩波文庫 白 124-8)賃銀・価格および利潤 (岩波文庫 白 124-8)
読了日:7月4日 著者:カール・マルクス
出版のためのテキスト実践技法 (執筆篇)出版のためのテキスト実践技法 (執筆篇)感想
基礎・入門。原稿の効率的な入力、整理の方法、そのためにはテキストエディタが有効であること等。
読了日:7月5日 著者:西谷 能英
イデオロギーとは何か (平凡社ライブラリー)イデオロギーとは何か (平凡社ライブラリー)感想
「Aという語には、Bの意味があるがそうでない場合もある。・・・Zの意味があるがそうでない場合もある」。結論「AにはB~Zの意味があるが、そうでない場合もある」。結局何も言ってないのと同じじゃないか?と思ってしまいそうだが、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』で言っていたように、語のオリジナルがピンボケ画像だから、目的次第で自由に境界線を引っ張って使えばよろしいということか。著者がイデオロギーを六つに定義し、それぞれの語用をきっかり述べ、イデオロギーの戦略性を言及しているのはそういう狙いがあったんじゃないか
読了日:7月5日 著者:テリー イーグルトン
出版のためのテキスト実践技法 (編集篇)出版のためのテキスト実践技法 (編集篇)感想
原稿の検索・置換による原稿の効率的な整理の方法。テキストエディタ、SDEの正規表現やスクリプトのやり方。タグ付け。
読了日:7月8日 著者:西谷 能英
出版のためのテキスト実践技法 総集篇出版のためのテキスト実践技法 総集篇感想
テキストエディタを用いた編集の方法まとめ。ファイル変換、検索・置換、タグ付け
読了日:7月10日 著者:西谷 能英
出版文化再生: あらためて本の力を考える出版文化再生: あらためて本の力を考える感想
商業としての出版ではなく、文化行為としての出版
読了日:7月15日 著者:西谷能英
パッション (ポイエーシス叢書)パッション (ポイエーシス叢書)
読了日:7月17日 著者:ジャック デリダ
心的外傷の再発見心的外傷の再発見感想
歴史的な物語や人物の事跡に対し、心的外傷という視点から読み直しを図るという手法を取り、現代の事例と比較して考察している。例えばヒステリー、多重人格、自傷行為などの背景に、近親姦や身体的虐待といった心的外傷を読み取る、という具合。この論法の問題は、ヒステリーはみな児童期の性的虐待被害者になってしまいかねないことだろう。ただし「訳者あとがき」によると、心的外傷の記憶はウソと見なされがちであることに対し、編者らが抗議の意を込めて、心的外傷の事実性を強調しているようなので、その戦略を考慮すべきである。
読了日:7月18日 著者:
脳科学は宗教を解明できるか: 脳科学が迫る宗教体験の謎脳科学は宗教を解明できるか: 脳科学が迫る宗教体験の謎感想
もし「心」「意識」が脳の活動から生まれたものに過ぎないとすれば。神秘的に見える「宗教体験」も脳が見せている風景になるのか、非物質的に思われた「心」も物質が生んだ物質的な実在に過ぎないのか。このような問いを立て、唯物論的脳科学の妥当性の検証、宗教哲学との架橋を論じる。論者のなかで医学専攻は一人だけ、あとはみな哲学・思想系で、ほぼ全員が唯物論的還元主義の脳科学に批判を浴びせており、一見すると公平性に欠ける。ただわたしも、脳科学は世界を説明する形式言語の一種だと思うし、そのように捉えておくのが健康的な気がする
読了日:7月24日 著者:杉岡 良彦,藤田 一照,冲永 宜司,松野 智章
歴史とは何か (岩波新書)歴史とは何か (岩波新書)感想
厳密に言うと「歴史学とは何か」だと思う(邦訳の表題が直訳すぎ?)。戦後以降の歴史学世代のバイブルだと思うので、先行研究の背景を読み解く意味でも必須。古い本だけども、解釈や客観性の理解でもバランスが取れている。理性とか進歩とか成し遂げたこととか、細かいところではしっくりこない。現在や未来の成功のために役に立つことばかりを考えている時代で、いかに多くを棄て去っているかを提起するのも大事ではなかろうか(という風に言うと、その提起もまた未来への進歩のために有意義だと回収されるのだろう、プラグマティズムは嫌だ)
読了日:7月31日 著者:E.H. カー

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