晋において再度太師、太傅、太保を置いたが、「師」が景帝司馬師の諱であることから避けて太師を太宰と称した。このWikiの記述は『宋書』百官志・上に基づいているようだ。本ブログの訳注より引用。
太宰は一人。周の武王のとき、周公旦が初めてこれに就任し、国の政治を掌り、六卿の第一位であった。秦、漢、魏は置かなかった。晋の初め、『周礼』に拠って三公を設置した。三公の官職では太師が第一位であったが、景帝の諱が「師」であったため、太宰を置いて太師の代わりとした。わたしもすっかりそうなんだろうと思っていた。けれど、訳注作成中に記事を整理していたところ、訳注でも紹介した『斉職儀』に次のようにあるじゃありませんか。
太宰品第一、金章紫綬、佩山玄玉。・・・秦漢魏無其職、晋武以従祖安平王孚為太宰。安平薨、省。咸寧四年又置。或謂、本太師之職、避景帝諱、改為大宰。〔或謂、太宰、周之卿位、〕晋武依周、置職以尊安平、非避諱也。元興中、恭帝為太宰桓玄都督中外、博士徐豁議、太宰非武官、不応都督、遂従豁議。(『太平御覧』巻206引)諱を避けたわけでも何でもなく、単に西晋王朝の周回帰志向から太宰が置かれたという[1]。
太宰の官品は一、金の章・紫色の綬で、山玄玉を佩く。・・・秦・漢・魏には置かれなかったが、晋の武帝は従祖の安平王孚を太宰とした。安平王孚が薨ずると、(太宰を)廃した。咸寧四年にまた置いた。一説に、元来は「太師」であったが、景帝の諱を避けて、「太宰」に改められたと言う。また別の一説に、太宰は周の卿であり、晋は周に倣って「太宰」を置き、安平王孚を(それに任じることで)尊重したのであって、諱を避けたわけではないと言う。晋の元興年間、恭帝は太宰の桓玄を都督中外諸軍事にしようとしたが、博士の徐豁が議して、太宰は武官でないから都督中外諸軍事は相応しくないとしたため、ついに徐豁の議に従っ(て桓玄を都督中外にしなかっ)た
そもそもこの『斉職儀』とは何か。『隋書』経籍志二には二つの『斉職儀』が掲載されている。一つが南斉の王珪之の撰で五十巻、もう一つが撰者不明の五巻[2]。王珪之は琅邪王氏の一人で、『南斉書』巻52文学伝、『南史』巻24王准之伝に附伝が設けられており、それらに『斉職儀』編纂のことも明記してある。後者の撰者不明のやつは、五十巻本のダイジェスト版とかかもしれんね。
内容については、次の『南斉書』の附伝の記述を参照いただきたい。
永明九年、其子中軍参軍顥上啓曰、「臣亡父故長水校尉珪之、藉素為基、依儒習性。以宋元徽二年、被敕使纂集古設官歴代分職、凡在墳策、必尽詳究。是以等級掌司、咸加編録、黜陟遷補、〔悉〕該研記、述章服之差、兼冠佩之飾。属値啓運、軌度惟新、故太宰臣淵奉宣敕旨、使速洗正、刊定未畢、臣私門凶禍。不揆庸微、謹冒啓上、凡五十巻、謂之斉職儀。仰希永升天閣、長銘祕府」。詔付祕閣。南斉の官職について述べたものではなく、南斉の時期に朝廷に収められたから『斉職儀』と名付けられたのだろう。内容や編纂方針としては『宋書』百官志とそれほど変わらないように思える。
永明九年(西暦491年)、王珪之の子である中軍参軍の顥が上申した、「臣の亡父である、もと長水校尉の珪之は、飾り立てずに本心のままに在り、儒学を拠りどころとして習慣にしていました。宋の元微二年(474年)、勅命を受け、過去に置かれた官職や歴代の職務(の変遷)をまとめること、古籍の記述にあるものはすべて、必ず網羅することを命じられました。こうして、(官職の)位の階級や職掌は、すべて記述され、(時代に伴う官の位の)上下の移動や変更、追加も万遍なく調査して記録し、(さらに官の)印章や服装の等級、冠と佩玉の装飾品(の差異)も記しました。ちょうど革命の時期にあたり、車輪の幅と度量衡が改まり(天下が一新し)ましたので、もと太宰の褚淵が勅使を伝えて参りまして、急ぎ整理して校正するようにとのことでしたが、校正が終わらないうちに、臣の家に不幸が襲ってきたのでした。不才ではございますが、ここにつつしんで申し上げたく存じます。全てで五十巻、『斉職儀』と申します。永代まで朝廷の秘閣に所蔵されますことをお願い申し上げます」。詔が下り、秘閣に所蔵された。
だとすれば不思議なのが、どうして沈約は先の太宰にまつわるエピソードを一つ採用、一つリジェクトしたのだろうか。沈約は建元四年(482年)に最初の『宋書』編纂の勅旨を下され、永明六年(488年)に本紀・列伝を完成させ、謹上した。志に関してはその後、梁の初めころに完成したと見られている(中華書局標点本の「出版説明」)。とすれば、沈約が『斉職儀』を見ていなかったということは考えにくい。むしろ、司馬彪『続漢書』の志の続編を目指して編纂された何承天『宋書』の志の、その後継たらんとする沈約であれば(『宋書』巻11志序)、宋一代に留まらない志の編纂を方針にしていたはずであって、歴代の沿革を概述したと言う『斉職儀』はまたとない手本に成り得たはずなのだから、参照しないというのは余計に考えにくいところがある。
まあどこだったかは忘れてしまったが、博学の沈約さんは「俗説」と判断したものはわりと簡単に切ってしててしまったりしてるところがあるし、「太宰は諱を避けたわけではない」説もそういう感じで切り捨てられてしまったんだろうか。
集めた史料を改めて見ていると、こういう発見がたまにあるもんだからなかなか。ブログのアクセス数的には『宋書』百官志訳注はオワ記事だけど、今回のこういう収穫があったので満足。
――注――
[1]小林聡先生、渡邉義浩先生などがそういった傾向を指摘・強調していたように思う。[上に戻る]
[2]『旧唐書』経籍志・上だと撰者が范曄になっているが、これはありえない、誤りだろう。范曄には『百官階次』という官職関連の著述がいちおうあるけどね。[上に戻る]
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