2015年11月3日火曜日

「闕」ってなんのことだろうって前々からずっと気になってたけど雰囲気でなんとなくわかってるつもりになっててごめんなさい

西晋・崔豹『古今注』都邑篇より[1]

「闕」とは「観」〔物見台〕のことである。いにしえは一つの門につき二つの観を門の前に建て、宮門の目印とした。観の上は座ることができるだけのスペースがあり、登れば遠くまで眺めることができるので「観」と呼ぶ。人臣が朝廷に上るとき、ここまで来ると自分の闕(=欠)けているところを反省する。そのためここを「闕」と呼ぶ。上〔屋根?〕はすべて赤い粉末で塗装されており、下〔下部の外壁?〕には気や神仙、珍獣が描かれ、図柄によって四つの方角を示している。蒼龍闕には蒼龍、白虎闕には白虎、玄武闕には玄武、朱雀闕の上には二匹の朱雀が描かれている[2](闕、観也。古毎門樹両観於其前、所以標表宮門也。其上可居、登之則可遠観、故謂之観。人臣将朝、至此則思其所闕、故謂之闕。其上皆丹堊、其下皆画雲気仙霊、奇禽怪獣、以昭示四方焉。蒼龍闕画蒼龍、白虎闕画白虎、玄武闕画玄武、朱雀闕上有朱雀二枚。)

 またテキストの校注者は『釋名』釋宮室の一節を引用している。「闕とは闕のことである。門の両端にあり、真ん中は闕然(がらん)としていて道をつくっている(ので、門の両端にあるものを「闕」と呼ぶようになった)(闕、闕也。在門両傍、中央闕然為道也)」。

 いままでどういうものを「闕」って言ってるのかたいして理解しようとしてなかった・・・ごめんわかってあげられなくて。
 これからは「闕」って出てきたら、それは「宮門の両端にあるやつで、なんかマンガとかにもよく出てきそうな雰囲気のあるよくわかんねー長いやつ、転じてだいたい宮門のことらしい」って理解すれば良いのだな! 「闕」と呼ばれるゆえんも知ったからもう忘れてやんねー。

 『古今注』にはこのほかにもおもしろそうな豆知識満載なので、これからちょくちょく紹介するかも?



――注――

[1]テキストは牟華林校箋『《古今注》校箋』(線装書局、2015年)を使用した。底本は明嘉靖年間の『四部叢刊』(覆宋本)。校勘や語釈が充実しているテキストである。附録として佚文や明清ころ?の知識人の跋文やらなにやらがいくつか収録されている。
 撰者の崔豹については『世説新語』言語篇・劉孝標注に引く『晋百官名』に「崔豹字正熊、燕国人、恵帝時、官至太傅丞」とあるほか詳細不明。『古今注』はさまざまな事物の名称の由来を中心に雑学知識を集めたもの。古今の事物の注解を書きました、って感じだね。現存する本は全三巻八篇(輿服、都邑、音楽、鳥獣、魚虫、草木、雑注、問答釈義)。隋書経籍志は三巻、旧唐書経籍志は五巻、新唐書芸文志は一巻と伝世文献の目録では構成にバラつきがあるが、上記附録に収載されている南宋の『群斎読書志』関連記事は全三巻全八篇で上記の篇名を記録しているそうなので、まあ巻数にバラつきはあっても全体の構成は(少なくとも南宋ころから)あまり変わっていないのではなかろうか。佚文がそこそこあったり字句に混乱があったりと、現在の本にはちょこちょこ散佚やら錯簡があるようだ。
 崔豹の『古今注』は成立とか本のこととかあんまり詳しくないのだが、残念なことに上記の校注本には解題がない(この部分は本当に残念!)。附録にある前近代知識人の感想文やら考証やらを読んで察しろ、というスタンスなのかもしれない。
 ともかく、附録をおおまかに参照して私なりにまとめておくことにする。

 現在伝わっている崔豹『古今注』には偽書疑惑がかけられていた。代表的なものが『四庫全書総目提要』で、そこで問題点とされているのは二つある。まず一つに、現今の崔豹『古今注』は後唐の馬縞『中華古今注』(後述)と非常に酷似している、つまり両書の出所は同一ではないのか、ということ。もう一つに、崔豹の『古今注』は北宋から元にかけて失われている可能性がある、例えば『太平御覧』は崔豹の『古今注』を引用していて『中華古今注』を引用していないのに、『文献通考』はその逆であること。この二点から、崔豹の本は北宋~元に失われたのであり、現今の崔豹本は馬縞のものをもとにして作成されたものである、というのがどうやら提要の見解みたいである。

 これに反論を加えているのが余嘉錫。まず一点目の問題について。そもそも『中華古今注』ってのは何なのだねという話なのだが、撰者の馬縞の自序には「崔豹の本は博識だけど、ところどころいたらないところがあって残念だなあと思ったからオレが新たに注を加えたよ、書名も変えてみたよ」ってある(そうだ)。つまり『古今注』の注っていう位置づけになるのだろう。したがって余嘉錫は、『中華古今注』が崔豹の『古今注』と大部分同じであるのは『古今注』本文をほぼそのまま収録して一部加筆・改変したにすぎないからだ、と主張している。また彼によれば、明の覆宋本『古今注』と『百川学海』本『中華古今注』とを比較し、馬縞が独自に加筆したところを調べてみたところ、55条「も」加筆があったそうで、しかもその加筆は崔豹本文への追加の注は除いた合計数、つまり崔豹の本文ではもともと取りあげられていなかった題材・記事の加筆数をカウントしたもので、注の追加も数えたらもっとあるんだけど?と嫌味をたれ、「どーーーこがまったく同じなんだ」と息巻いている。コイツまじでやばくない?

 二点目の問題だが、まず余嘉錫も指摘していることで問題の核心にはあまり関係がないが、そもそも北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』を下敷きにしていると言われているもので、『修文殿』が後世の『中華古今注』を参照できるはずがないのだから、『太平』に『中華古今注』が引用されていないというのはありうることである。なので『太平御覧』のみを論拠にして、「この時期まではこの本はあったがあの本はなくて~」と論じるのは少々不適切ではないだろうか。
 だがこれは大して重要な論点ではない。『文献通考』にはどうして崔豹本が著録されていないのか、というのが重要である。そこで余嘉錫が『通考』の撰者・馬端臨の参照したという北宋~南宋期の3つの目録書を調べてみたところ、どの本にも崔豹本が記録されているじゃあないかと。これはたんに馬端臨がたまたま見落としてしまったにすぎないのであって、南宋にもちゃんと崔豹本はきっちり伝わっているしぃ、てかそもそも『文献通考』の経籍考ってその書物が現存しているかどうかに関係なく記録していたのだから、「『通考』にない=当時現存していなかった」なんて等式は成り立たないんですけど?、そんなことも知らねーーーの???、と完全に彼はエクスタシーしています。

 というわけで、提要の論拠をすべて論破した余嘉錫なわけだが、さらに彼は現今の崔豹本と隋唐宋代の書籍に引用されている『古今注』の文を比較検討してみたところ、やはり現本は引用文の「本体」といえる確かさがあり、宋人や明人が佚文やらを拾い集めてつくった偽書とは一線を画しているという。このあたりの感覚はわりかし信用してもいいんじゃなかろうか。

 以上、偽書疑惑について簡単にまとめてみた。私が詳しくないばっかりに現在ではどういう扱いになっているのかわからないが、提要の疑念は確かな根拠にもとづいているとは言えないし、そもそも宋史芸文志にも崔豹『古今注』って採録されているし。北魏・崔鴻『十六国春秋』のように、宋史芸文志には記録がないのに明代にぽっと本が出てくるようなものとは問題の質が違っている。「じつは一度散佚していていま残っているのは後世の偽書だ」と言われたら確かに「そうではない」証拠を出すことはできないのだけど、逆に「散佚している」証拠もないのであって、いちおう余嘉錫に従って、現今の『古今注』は崔豹の原本だと見ておいて良いのかな、たぶん。
 てかこの2015年のテキストもさー、研究助成?かなんかで出版したらしいのだけど、それってつまり長らく『古今注』テキストを研究した成果がコレ、ってことなんでしょ。だったらテキスト問題の解題くらい書いて、研究の結果どう結論が出せそうか表明しておこうよ・・・。購入してから解題がないことに気づいた私もアレですけど。[上に戻る]

 

[2]原文は「朱雀闕上有朱雀二枚」。校注者によれば『古今事文類聚続集』は「上有」を「画」に作っており、おそらくこちらが正しいだろうとしている。私もそう思うが、とりあえず訳文では原文を尊重しておいた。また「蒼龍闕」以降の文は別の本だと改行されている、すなわちその前の闕の文とは別扱いになっているそうだ。ここでは使用したテキストに従い、すべてをまとめて一条と見なすことにする。[上に戻る]

2015年10月4日日曜日

南朝の変人やヴぁすぎ




 劉宋の高祖・劉裕の知恵袋に劉穆之という人がいました。
 劉裕の幼馴染のような間柄で、東晋末年に劉裕が北のほうへ軍事行動を起こしたときは、彼が建康で留守を守って一手に政務を決していた。劉裕からの信頼もかなり厚かったらしいが、激務がたたったためか、劉裕が皇帝になるまえに病没してしまった。劉裕は即位後、その功績を称えて南康郡公に封じている。

 その爵と封国は子孫にも継承され・・・、孫の劉邕にいたる。今回はこの劉邕についてのお話。『宋書』巻42劉穆之伝に附伝されている彼の伝から。

これより以前、郡、県が封国になった場合は(その郡県の)内史や相は国主に対して臣と称し、任期が終わればそれをやめることになっていた。孝武帝の孝建年間になって、はじめてこの制度が改正され、卑称は(臣から)下官に変更され、贈物を贈るように定まった[1]。河東の王歆之はかつて(制度改正以前に)南康相に就いていたが、平素から(国主である)劉邕を軽蔑していた。のちに王歆之と劉邕が元会〔元日における朝廷での儀礼・宴会のようなもの〕に出席したとき、席が隣り合った。劉邕は酒好きだったので、王歆之に言った。「あなたは以前、(私の)臣であったが、現在では一杯の酒も(私に)注げないのかな?」王歆之は孫晧の歌をまねて応答した。「むかしはおまえの臣だったけれど、いまはおまえと肩を並べている。おまえに酒を勧めることはしないし、おまえの長寿を願うつもりもない」。(先是郡県為封国者、内史、相並於国主称臣、去任便止。至世祖孝建中、始革此制、為下官致敬。河東王歆之嘗為南康相、素軽邕。後歆之与邕俱豫元会、並坐。邕性嗜酒、謂歆之曰、「卿昔嘗見臣、今不能見勧一盃酒乎?」歆之因学孫晧歌答之曰、「昔為汝作臣、今与汝比肩。既不勧汝酒、亦不願汝年」。)

 ちょい悲しいお話だが、まあまあまあ。可能な範囲で掘り下げてみましょう。
 まず内史や相は国主に対して「臣」と称した、という点について。「称臣」については尾形勇氏の古典的研究があるが、氏は漢代の「称臣」のパターンを検証したさいに、呉王濞の郎中であった牧乗が「臣乗」と自称している例を挙げている(『漢書』巻51牧乗伝。氏は正確には「陪臣」と称したであろうと指摘している)。もっとも、封国の官吏が国主に臣を称した例はこの一例しか見られないようである。氏は、漢代の「称臣」は皇帝に限定されて用いられており、それは皇帝権力の確立と関係があると論じているが、この一例を例外ないし逸脱とは見なさず、これもまた皇帝権力構造のなかで機能したものであろうと肯定している(尾形『中国古代の「家」と国家』岩波書店、1979、pp. 118-120、156-160)
 最近はいわゆる「郡国制」の理解が深められており、漢初の王(王国)は漢朝(皇帝)からあるていど独立して王国内の行政を執っていたらしい、という側面が強調されている[2]。なので、陪臣が「臣」と自称していた可能性は十分あり、じゃないですかね。とはいっても、「郡国制」秩序が変化していった武帝期以後もそうであったと言えるのかはあんまり詳しくないからわからないが。
 魏晋以降については、徐冲氏により国主への「称臣」があったことが指摘されている[3]
 というわけで、おそらく漢代以来つづいていたと思われる慣習が孝武帝のときに突如改められたわけだけれども、これはいったいどうしてだろう。
 孝武帝といえば、とまずイメージでいうと、皇帝権力の確立に腐心した皇帝、かなと[4]。そんな彼のことだから、どうも「外」が権力をもつことに非常に警戒心を抱いていたらしい。『宋書』百官志の録尚書のところにも次のような記述が見える。

およそ重号将軍や刺史であれば、みな属官の任用を自分の裁量ででき、(皇帝直任官の)任命や(属官に)節を与えることができなかったのみで(それだけで権限が非常に大きく、これに録尚書事を加えると内外の要事を一手に握ることになるので)、宋の孝建年間、権力を朝廷の外〔地方に出鎮する将軍や刺史〕に与えたくなかった孝武帝は、録尚書事を廃した。(しかし)大明年間の末年に復置された。以後、置かれたり置かれなかったりした。訳注(9)

 とりわけ孝武帝が警戒したのはおそらく皇族であった。劉宋は東晋と違い、中央の要職も地方の要衝も皇族を充てる人選をおこなっていた。文帝の元嘉27年の北伐でも、東西各前線への指示は将軍・刺史・都督であった皇族たちがおこなっていたくらいにこの方針は貫かれている。すると、皇族たちが政治的権力をにぎるようになったためか、皇族間のいさかいがぽちぽち起きはじめる。文帝と彭城王義康、文帝と劉劭(元凶)・・・かくいう孝武帝も、父・文帝を殺害して帝位についた兄の劉劭を殺害して即位している。
 孝武帝が皇族への疑心を広げて、封国をもち独自に官府を組織できる異姓諸侯王一般へも向けたであろうことは想像の範囲内であろう。ここで想起されるのは上述でも触れた尾形勇氏の研究である。氏は、元来「称臣」は皇帝や天子のみを対象としておこなわれていたわけではなく、目上の人や上司に対してもおこなわれていたが、漢になってから徐々に、その対象が皇帝へ限定されるようになったと述べているのだ。「「称臣」の限定集中化は、皇帝権力の確立ということと表裏していたのであり、・・・「称臣」という事柄が、皇帝を頂点とする一元的支配体制のもとに置かれていた」(p. 158)
 孝武帝はおそらく、この原理を徹底的に推し進めようとしたのではないだろうか。諸侯王とその部下とが皇帝を介在させずに強固な紐帯を結ぶのを阻止すること、その一環として「称臣」という形式的・心理的臣従をやめさせること。当然ながら、王歆之のように「称臣」していたからといって心まで売ってない場合があるわけで、「称臣」の心理的内面化の効果を過大視してもしょうがないが、まあ形的に臣を認めちゃってるしね。
 なお『隋書』巻26百官志・上の梁武帝・天監の改革前の記述のうちに、「諸王公侯国官、皆称臣、上於天朝、皆称陪臣」とある。彼の死後まもなく改められた可能性が高いのではないかな。

 それにしてもここまで話を展開できるとは予想外でした。最初はとくに深めるところはなさそうだなと思ってたけど、調べているうちにあれもこれもと、いやーつながっちゃったね。しかし本当に申しわけないんですが、上の称臣の話題は正直どうでもいいことでした。ゴメン。

***
 冒頭に引いた劉邕と王歆之のエピソード。おもしろいところというか盛りあがるところというか、話の見せ場は王歆之がやり返したって場面だね。この箇所、孫晧のまねをしたとある。これはいったいどういうことだろう。王歆之が言っているのは次の逸話に違いない。『世説新語』排調篇より。

武帝は孫晧にたずねた。「南人は「爾汝歌」〔爾も汝も「なんじ」の意〕をつくるのが得意と聞いたが、君はできるのか」。孫晧は杯を挙げて、武帝に酒を勧めて歌った。「むかしはおまえ〔原文「汝」、以下同〕と隣国だったが、いまはおまえの臣。おまえに一杯の酒を献じて、おまえの長寿を祝おう」。武帝は後悔した。(晋武帝問孫皓、「聞南人好作「爾汝歌」、頗能為不」。皓正飲酒、因挙觴勧帝而言曰、「昔与汝為隣、今与汝為臣。上汝一杯酒、今汝寿万春」。帝悔之。)

 「汝」は日本語で言うと「おまえ」みたいなそんな感じ。皇帝に使っていい言葉じゃないけど、使っていいよって武帝が言っちゃったばかりに・・・ってやつだね。
 そう、王歆之の歌も訳文で「おまえ」と訳したところはぜんぶ「汝」なんですよ。

〈孫晧〉
昔与汝為隣 むかしはおまえと隣国だったが
今与汝為臣 いまはおまえの臣
上汝一杯酒 おまえに一杯の酒を献じて
今汝寿万春 おまえの長寿を祝おう

〈王歆之〉
昔為汝作臣 むかしはおまえの臣だったけれど
今与汝比肩 いまはおまえと肩を並べている
既不勧汝酒 おまえに酒を勧めることはしないし
亦不願汝年 おまえの長寿を願うつもりもない

 こういうふうに意味をうまーく反転させたパロディなんですねー。ちなみに酒を勧めるときに「長寿を祝う」ってのは、皇帝に酒を献じるときに「万歳」「千万歳寿」って言うことですな。
 さらにちなみにの話ですが、劉邕は王歆之のことを「卿」と呼んでいるんだよね。丁寧語というか軽い敬称というか、「あなた」「君」みたいなニュアンスかな。いちおう丁重に呼んでいるんですよ。だから「汝」って突然言われちゃってすごくかわいそう。。。

***
 ところでこの劉邕、ちょっとした奇行があったらしいのだ。

劉邕はところかまわずかさぶたを食べるのが好きで、あわびのような味がすると言っていた。ある日、孟霊休のところへ遊びに行ったときのこと。孟霊休はちょっとまえにおきゅうで傷ができてしまっていたが、そのかさぶたがテーブルの上に落ちると、劉邕はそれを拾い取って食べてしまった。びっくりする孟霊休。「 好き なんだよなあ」と言う劉邕。孟霊休は残りのかさぶたを次々にはがし、ぜんぶ劉邕にあげた。劉邕が帰ると、孟霊休は何勗へ手紙をしたためた。「劉邕がかさぶたを食うのを向かい合って、しかとこの目で見たぜ。あいつそのうちかさぶたの食いすぎで全身から血が出んじゃねえか」。南康国の吏は約200人いたが、劉邕は罪の有無を問わず、(全員を)代わりばんこに鞭で打ち、そのかさぶたを食膳に加えていた。(邕所至嗜食瘡痂、以為味似鰒魚。嘗詣孟霊休、霊休先患灸瘡、瘡痂落牀上、因取食之。霊休大驚。答曰、「性之所嗜」。霊休瘡痂未落者、悉褫取以飴邕。邕既去、霊休与何勗書曰、「劉邕向顧見噉、遂挙体流血」。南康国吏二百許人、不問有罪無罪、逓互与鞭、鞭瘡痂常以給膳。)

 いやあ 驚いたね。
 かさぶたがあわびの味するってまじ? いや仮にしたとしてもあわび好きってわけでもないから食べないけどね。じゃあかさぶたがサッポロポテトバーベQ味したら食べるのかよって言われたらそりゃうーん、ちょっとやるかもしれないよ? でもそんなあなたさあ、人前で食べるぅ? それも友達の食べちゃう?
 この話のミソは孟霊休だよね。彼の鬼畜根性ときたら。そこはがしてまであげちゃうんかい。そこまでする必要あった? おもしろかったのかおまえ。それともおまえあれか、かさぶたは自然に落ちるまえの、あのギリギリのところでぴりぴりはがすのがたまんねえってやつか、はがしたついでにあげただけか。

 上の王歆之との関連で注目しておきたい箇所がひとつある。そう、いちばん最後の南康国の吏からかさぶたを強制徴収したっていうところ。王歆之は原文では「素軽(もとヨリかろンズ)」とあるが、おそらく彼は南康相の時代、この劉邕の行動を見て引いてしまったのではないだろうか。こいつようこんな効率的なシステムつくりやがったな、みたいな。

 なんか『宋書』っておもしろエピソードを積極的に、というかむしろそれだけを集めて収録している感がある。



――注――

[1]「贈物を贈る」の箇所の原文は「致敬」。『宋書』百官志の参軍の箇所にも用例がある訳注(2)の注[26]が付いている箇所)。百官志の箇所は当初、「敬礼する」くらいの意味で理解していたのだが、『続漢書』百官志二・謁者僕射の本注の劉昭注に引く『蔡質漢儀』に「謁者僕射が尚書令と会ったさいはたがいに拱手の礼をかわすが敬はない(見尚書令、対揖無敬)」と見え、たんに「敬礼」と訳すのは皮相的な解釈になる場合があるようだ。ということで、「敬」は具体的に「贈物」を指すと現在では考えている。本文のこの箇所も、違和感は残るものの、とりあえずその解釈に従って訳出した。
 またこのときの改革を『通典』巻31職官典13・歴代王侯封爵は「不得追敬、不得称臣、止宜云下官而已」と記述している。訳してみると、「餞別を贈ることと臣と称すことを禁じ、たんに下官とだけ言うようにした」。「敬」周辺の記述が本文と違いそうだ。[上に戻る]

[2]そうしたことを主眼とする研究ではないが、例えば阿部幸信「漢初「郡国制」再考」(『日本秦漢史学会会報』9、2008)。氏は「実態はともかくとして、建国当初の漢朝が諸侯王を自らの「内」のものとして観念して」おらず、諸侯王は「「外」の分子とみなされていた」ことを指摘し、「漢朝は、「内」に諸侯王を抱えこんでいたのではなく、「外」に置いた諸侯王と天下を「共同所有」していた」のであり、「「天下安定」下の支配階層が形成していた秩序は、いわば、構成員が共通の利害や目的において結ばれた社会すなわち「連合体」としての性質を帯びていた、といえる。このようにいうとき、現実に漢朝から諸侯王に対して加えられていた各種の制約も、それは他の利害から独立した支配―被支配関係にかかるものとして読まれるべきではなく、「共通の利害や目的」を維持し再生産するのに有益であるとみなされる限りにおいて受容されていたにすぎない」と論じている(pp. 53-65)[上に戻る]

[3]徐冲「漢唐間の君臣関係と「臣某」形式に関する一試論」(『歴史研究』44、2006)pp. 41-45。氏が根拠として挙げる史料のひとつが『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝「朝廷は、東宮属官は(太子に対して)陪臣と称するべきだとしたが、鄭黙は上言して、「・・・東宮の属官はみな朝廷から任命されたものですから、(辟召で任命される)藩国の場合と同様にするべきではありません」。(朝廷以太子官属宜称陪臣、黙上言、「・・・宮臣皆受命天朝、不得同之藩国」。)」。「藩国」は諸侯王のことを指すであろうから、諸侯王の場合は陪臣が「称臣」していたということですな。[上に戻る]

[4]川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大――魏晋南北朝』(講談社、2005年)。「孝武帝は自己に権力を集中し、中央集権を進めた皇帝として知られているが、そのような権力集中を行うとすれば、当然その手足となって働いてくれる人々が必要となる。こうした為政者の欲求と庶民層の台頭が一致したところに、・・・孝武帝以降の南朝において顕著に見られる恩倖政治が出現する」(p. 146)。余談にすぎないが、最近戸川貴行氏は、孝武帝の政治をたんなる自己顕示欲に発するものではなく、南朝政権そのものの正統性と伝統の創出という観点から理解されるべきものであることを論じている。戸川『東晋南朝における伝統の創造』(汲古書院、2015)。孝武帝って概説書だと兄弟とか殺しまくったやべーやつとしか言及されていないからいちおう。彼は彼なりに画期的なことやろうとしてたんだよって。[上に戻る]




2015年7月5日日曜日

『芸文類聚』に見える人物優劣論――曹丕の「周成漢昭論」と張輔の「曹操劉備論」



 『芸文類聚』って、正史などの文献史料では見ることができないマニアックでおもしろい文章がたくさん収められているんですよ。
 今回はそのなかでも三国志関係のものを二つ紹介してみようかなって。『芸文類聚』は詳しく調べてみるとおもしろいよ!っていう布教的なのをしたくて。
 本記事においては(というか私は基本的に)『芸文類聚』は1980年に中文出版社から出版された活字本を使用する。この活字本は南宋の紹興年間に刊行されていた刻本を底本に、明代の数種類の刻本を利用して校訂したものである。


 さて、最初に取り上げたいのは『芸文類聚』巻12・帝王部2・漢昭帝に引用されている曹魏・文帝の「周成漢昭論」。周の成王と漢の昭帝はどっちが優れているだろうっていう、そんなことを論じています。
 とても気になりませんか? 私はとても気になってしまって、とても興奮してしまいました。どうして彼はこんなしょーもなくてどーでもいいことを論じているんでしょう? どうして彼はこんなことに頭を使ってしまったのだろう? いったい何が彼をここまで衝き動かしてしまったのか・・・いや馬鹿にしているわけではないんですが(失礼)、多少知的に飾り立てて言ってみれば、彼がこのような言論を発した当時の言論状況・文脈みたいなものは何であったのでしょう。この二人を比較するということは、当時においてはそれほど重い意味を有していたことなのでしょうか。

 そうしたことを念頭に置きつつ、見てみましょう(「周成漢昭論」は『太平御覧』巻89・皇王部14・孝昭皇帝にも引用されているが、引用文にさしたる違いはないので、『芸文類聚』をもとに訳文を作成する)。

ある者たちは周の成王を漢の昭帝と比較しているが、みな成王が優れ、昭帝が劣っていると論じている。(しかし)私は以下のように考える。周の成王は前代の聖王〔原文「上聖」、後文とのつながりから勘案して、成王の父・武王を指していると考えられる〕のうるわしい気を(受け継いで)身に備え、賢母〔一説に成王の母は邑姜という、『史記集解』に引用された服虔の左伝注によると太公望の娘〕から妊娠中の教育をほどこされ[1]、周公が太傅、召公が太保、呂尚が太師となっ(て幼少で即位した成王を助け)た[2]。すでにしゃべれるようになったのに行人〔使者を職務とする官〕が代弁して話し、もう自分で靴がはけ(自分の意志で歩け)るのに相者〔帝王のお付役みたいな〕が付き添って歩くちやほやぶりで[3]、目は立派なものに慣れ、耳は美しい音を満足に聴くほど。奥深い流れに身をひたし、清らかな風で沐浴するとはこのことである。それでも(成王には)問題があった。管叔と蔡叔の讒言を聴きいれて周公を東に左遷したため、天は怒って(大風を起こして秋の稲をすべてなぎ倒し、王の過ちに対する)咎を示した。(周公が武王の病の快癒を祈って身代わりになろうとした儀式のさいの告文を入れた)金縢〔金属製の封緘〕の箱を開いて(告文を知り)、(はじめた知ったものなのでその詳細について)史官(?)に聴き、そうしてようやく(周公の真実の忠誠を)悟ったのである[4]。周公の聖徳を解さず、金縢の箱に入っていた告文を信頼する、なんと道理に暗いことか。一方、昭帝はというと、そもそも父は武王(のような人)でないし、母は邑姜(のような人)でもない。保育したのは蓋長公主〔武帝の娘で蓋侯の妻、のちに燕王や上官桀らと謀叛を企図した〕で、補佐役だったのは上官桀と霍光である。聖人の気を受け継いではいないし、胎児のときに教育を受けていないし、保育した者に仁や孝の性質が備わっていないし、補佐した者に国家を栄えさせる政治的手腕もない。つまり、宮中で生まれ、婦人の手で育てられたのだが、徳と性は完成され、振る舞いと身体はともに成熟したわけで、年齢27の若年にして聡明であり、霍光を批判する燕王の上書が嘘だと見ぬき、霍光の忠誠を解していた。金縢の箱を開き、史官を信じてからようやく理解したなどというようなことが昭帝にあっただろうか。昭帝も成帝も同じ年齢で即位し〔『漢書』によると昭帝は8歳で即位〕、代が改まっても教化が維持され、臣が一新しても政治はよくおさまり、音楽を改定しても唱和の調和が取れていたが、漢ばかりが劣っていたわけではなく、周ばかりが優れていたわけではない。(或方周成王於漢昭帝、僉高成而下昭、余以為周成王体上聖之休気、稟賢妣之貽誨、周召為保傅、呂尚為太師、口能言則行人称辞、足能履則相者導儀、目厭威容之美、耳飽仁義之声、所謂沈漬玄流、而沐浴清風者矣。猶有咎悔、聆二叔之謗、使周公東遷、皇天赫怒、顕明厥咎、猶啓諸金縢、稽諸国史、然後乃悟、不亮周公之聖徳、而信金縢之教言、豈不暗哉。夫孝昭父非武王、母非邑姜、養惟蓋主、相則桀光、体不承聖、化不胎育、保無仁孝之質、佐無隆平之治、所謂生於深宮之中、長於婦人之手、然而徳与性成、行与体并、年在二七、早智夙達、発燕書之詐、亮霍光之誠、豈将有啓金縢、信国史、而後乃寤哉。使夫昭成均年而立、易世而化、貿臣而治、換楽而歌、則漢不独少、周不独多也。)

 間接的に霍光と上官桀をディスるのやめろ! と思ったのは私だけではないはずだ。
 さて、曹丕はどうしてこの二人を比較したのだろう。彼の論述によると、彼以外にも二人を比較する風潮があったみたいだが。
 ということで探してみると、なんと早いことにすでに後漢初期の班固によって比較がなされているんですね。『漢書』巻7昭帝紀・賛曰、

むかし、周の成王は幼児にして王位を継いだが、(在位中に)管叔と蔡叔など四国による流言の事件があった。昭帝も幼年で帝位につき、やはり(在位中に)燕王、蓋長公主、上官桀の謀叛があった。(それでも)成王は周公を疑わず、昭帝は霍光に政治を任せた。成王も昭帝も時期に適した判断をしたので名声を立てたのである。なんと立派なことか。(昔周成以孺子継統、而有管、蔡四国流言之変。孝昭幼年即位、亦有燕、蓋、上官逆乱之謀。成王不疑周公、孝昭委任霍光、各因其時以成名、大矣哉。)

 もしかするとこれより早い漢代の記述もあるかもしれないが、まあ班固の時点ですでに見えているってことが確認できればいいでしょう。まして『漢書』なんだから、後漢・魏・晋の知識人ならみんな読んでいるだろう。
 で、注意してほしいのだが、班固においては確かに二人は比較されている。だが優劣を定めるための比較ではない。昭帝は成王に似ていると論じるために比較しているのだ。
 曹丕の論を読んだあとでは実感が湧かないだろうが、実際、周の成王は評判の高い君主である。周朝安定の基礎は彼が築いたんだみたいな、そんな感じの言説もどっかにあったような気もするくらいわりかし褒められている。昭帝を成王になぞらえるのは、昭帝に高い評価を与えているということなんですよ。漢の臣下だし漢の国史を書いているわけだから当然のことですが。

 ところで、『芸文類聚』(および『太平御覧』)には丁儀の「周成漢昭論」も引用されている。内容は大したことはなくて、曹丕と同じく昭帝の方がスゲェと言っている感じ。問題としている論点も曹丕と同じなんで、媚びているとまでは言えないかもしれんが、意識はしているでしょう、ともかく両者の「周成漢昭論」は時期を同じくして出されたものだろう。丁儀は文帝即位まもなく誅殺されているので、曹丕の論も即位前のものと見て良いのではないでしょうか。

 これらの点を確認したうえで曹丕の論をちょい掘り下げてみよう。曹丕の論は二つの点で「開かれている」ように思われる。
 まず漢の皇帝を遠慮なく論評している点。班固の場合、彼は昭帝を褒めたい前提で比較をしているに過ぎない、なので比較といってもあっさいよね。もちろん、漢の臣だからといって漢の皇帝を批判してはならん道理はなく、武帝なんか前漢のころからえらい評価の分かれる皇帝でよく知られている。しかし、わざわざ成王と第三者的観点から比較をおこない、「うん、昭帝陛下は大したことはありませんね!」なんて言い出す漢臣がいるとも思えない。
 それに比べ曹丕の場合、結論的には昭帝を高く買っているが、彼なりの基準を持ち出して比較的公平に評価を下そうとしている。というか、班固と比較する目的が明らかに異なっている。彼の場合は政治的目的があるように見えないのである。
 班固の時代においてはおそらく許されなかったであろう、こうした比較の議論も、後漢末の時代においてはそうした方向へと開かれていた。魏晋時代といえば、儒教から解放され比較的自由な学問的精神が芽生えていたと主張されることがある。この曹丕の論もそうした傾向の一端なのだ! ・・・なんてもちろん、無条件でそうは思いません。曹丕に政治的な意図がなかったとしても、それでもこの論が後漢末に語られたということは高度に政治的意味を有すると思う。いまだ漢の時代であるはずなのに、その漢の皇帝を政治的に扱うつもりがなく、自らの知的関心に基づいて議論の素材にしてしまう――私はとても政治的な意義を認めてしまうのですがどうでしょうか。

 もうひとつ興味深い点が、周を無条件に良いとしないところ。前述したが、成王は決して評判の低い王ではない。まして周ときたら理想視される王朝。そういう政治的に慎重に扱われるところを彼は平気で自分の議論の材料に使ってしまうんですね。
 こういったあたりに彼のしたたかさがあるような気がしてならんですが、ちょっと深読みしすぎだろうか。あまり深刻に考えんほうがいいかもしれん。


 さて、もうひとつ論を取りあげて終わりです。西晋の張輔という人の「名士優劣論」というやつで、曹操と劉備を比較したものです。『芸文類聚』巻22・人部6・品藻に引用されている。『太平御覧』巻447・人事部88・品藻下にも引用されており、双方での字句の異同が激しいが、『芸文類聚』のほうが情報量が多いので、『類聚』をベースにして部分的に『太平御覧』で補っておきたい。『御覧』から補った箇所は[ ]で示す。

世の人々はみな、魏武帝は中原を支配していたから劉備より優れていると言い合っている。(しかし)私は劉備のほうが優れていると思う。(なぜかを以下に述べよう。)そもそも戦乱を収める君主というのは、将を確保することに第一義を認めるものである。自分ひとりだけで奮戦してもどうにもならないからだ。世の人々は、劉備は呂布に奇襲されて武帝のもとへ逃亡し、また大軍を起こして長江を下ったのに陸孫にボロ負けしたと(強調)している。しかし、呂布に奇襲され(敗走し)たといっても、武帝が徐栄に大敗して、馬を失い身体に傷を負ったときの危機的状況と比べたらマシである。劉備は徐州に戻っても勢力を安定させることができないままで、荊州にいたときは、劉表親子が彼の作戦を採用せず、曹操に降ってしまった。彼の手勢の歩兵と騎兵は数千にも満たず、武帝の大軍によって敗走させられた。しかしこれも、武帝が呂布の騎兵に捕まり、(そこからなんとか逃れると)火を突っ切っ(て門から逃げ)た急場と比べてればマシである[5]。陸孫にボロカスにされたのだって、武帝が張繍に苦しめられ、単独で逃亡し、二人の子〔曹昂と曹安民?〕を失ったのと比べればマシである。[もし漢の高祖が彭城で(項羽に急襲されたときに)戦死していたら、世の人々は彼を項羽に遠く及ばないと評しただろう。(それと同様に)武帝が宛で戦死していたら、張繍に及ばない人物だと評されていたであろう。]しかも(武帝は)他人の才能を嫌い、残忍な振る舞いを平気でおこない、他人を親任することがない。董昭や賈詡はいつも愚かなフリを装うことで禍から逃れることができ、荀彧や楊脩のような者たちは多く殺されてしま[い、孔融や桓瞱らは恨みを買ってしまったので殺されてしま]った[6]。[有能な将軍に戦争を任せることができず、]30余年の軍事活動のあいだ、必ず自ら軍を統率し、功臣や参謀は諸侯に封じられることもなかった。仁愛は親族に加えられず、恩恵は人民に行き渡らなかった。劉備は威厳を備えながら配慮深さもあり、勇敢でありながら義を重んじ、度量は寛大で遠謀を抱いていたが、武帝がどうしてこれに匹敵しようか。諸葛亮は政治に精通し、機会に明るく、王佐の才と言える人材である。劉備は強大な勢力を張っていたわけではないが、この諸葛亮の忠誠を得ていたのである。張飛と関羽はどちらも傑物だが、服従させて自在に用いていた。いったい、その主君の明暗は人材を用いることができるかどうか、有能無能は部下を使うことができるかどうかにかかっている〔原文「明闇不相為用、能否不相為使」、よく読めないのだが、訳文のようなニュアンスだろうと思うので意訳した。音韻かなんかで、文末にくるはずの「不」を真ん中に移したのかな?〕。武帝は安定して強大な勢力を有していたにもかかわらず、人材を(十分に)用いることができなかった。まして、(劉備のような)不安定な情況で、弱小の勢力しか抱えていない土地であればなおさら(活用することができなかった)であろう。もし劉備が中原を支配していれば、周王朝の興隆にも匹敵する(繁栄を得た)であろうし、その場合、(彼のもとに参じた英傑は)諸葛亮、張飛、関羽の三傑にとどまらなかったであろう。(世人見魏武皇帝処有中土、莫不謂勝劉玄徳也。余以玄徳為勝。夫撥乱之主、先以能收相獲将為本、一身善戦、不足恃也。世人以玄徳為呂布所襲、為武帝所走、挙軍東下、而為陸遜所覆。雖曰為呂布所襲、未若武帝為徐栄所敗、失馬被創之危也。玄徳還拠徐州、形勢未合、在荊州、景叔父子不能用其計、挙州降魏、手下歩騎、不満数千、為武帝大衆所走、未若武帝為呂布北騎所禽、突火之急也。為陸遜所覆、未若武帝為張繍所困、挺身逃遁、以喪二子也。[若令高祖死於彭城、世人方之不及項羽遠矣。武帝死于宛下、将復謂不及張繍矣。]然其忌克、安忍無親、董公仁賈文和、恒以佯愚自免、荀文若楊徳祖之徒、多見賊害、[孔文挙桓文林等以宿恨見殺。良将不能任、]行兵三十余年、無不親征、功臣謀士、曾無列土之封、仁愛不加親戚、恵沢不流百姓、豈若玄徳威而有思、勇而有義、寬弘而大略乎。諸葛孔明、達治知変、殆王佐之才、玄徳無強盛之勢而令委質、張飛関羽、皆人傑也、服而使之。夫明闇不相為用、能否不相為使。武帝雖処安強、不為之用也、況在危急之間、勢弱之地乎。若令玄徳拠有中州、将与周室比隆、豈徒三傑而已哉。)

 この張輔という人、『晋書』巻60にも立伝されていて、「管仲鮑叔論」など様々な比較論を著しているらしい。伝には「管仲鮑叔論」と「司馬遷班固論」の(おそらく)一部が引用されている。『太平御覧』の引用の仕方を見ると「名士優劣論」という題の文章のなかに「管仲鮑叔論」や「司馬遷班固論」が収録されている、すなわち「誰と誰との比較論」が集積されているのが「名士優劣論」で、『類聚』や『御覧』はそのうちの一部を引用しているようだ。『隋書』経籍志によると『張輔集』という書があったらしいので、そこに「名士優劣論」が収められていたのだろう。
 『晋書』張輔伝にも「曹操劉備論」について言及があるのだが、

魏の武帝は劉備に匹敵しないこと、楽毅は諸葛亮に劣ることを論じているが、文字が多いのでここに掲載しない。(論魏武帝不及劉備、楽毅減於諸葛亮、詞多不載。)

と、列伝では割愛されている。しかし上記のように、『芸文類聚』には全文ではないが長文で引用されているので、論の骨格も明瞭に見て取れるようになっている。ありがたいことです。ちなみに『芸文類聚』の同じ箇所には張輔の「司馬遷班固論」、「楽毅諸葛亮論」も引用されている。
 さて、私が曹丕の論で展開した推測を適用すればこの張輔も「したたかだ!」ということになるわけですが、時代の雰囲気はちょい違うよね、たぶんそうだよね。後漢末は400年つづいた漢朝がとうとう終わってしまうんじゃないかという、なんというかいろいろな意味で新鮮な時期であったと思う、曹丕の論はそうした時期に漢の神聖性を剥落させてしまうような効能があった(かもしれない)。西晋時代も新しい時代の到来を予感させるものではあったが、漢魏革命、魏晋革命と二度の王朝革命を経験したあとの時代となると、まあそこまで深い意義を読み出そうとしなくてかまわないんじゃなかろうか。
 しかし、論の当否はわりとどっちでもいいんですが、場合によってはこの論って危なくないか、政治的に。魏を貶めるのはかまわんのですよ、場合によっては「ダメな魏に代わって晋が天命を受けたのだ」って話にもつながるからね。そっちではなくて劉備側の評論。彼は、劉備はスゲェと言い、劉備のもとに集まった部下も有能なのがいたと言っているだけで、蜀漢の政治的正当性/正統性を認めているわけではない。でも、ifとはいえ、「劉備が中原を支配していたら周に匹敵したであろうに」なんてうっかり口に出していいもんでもないでしょう。
 彼は西晋恵帝期を中心に官として活動しており、晩年は河間王顒に仕えている。王朝に比較的近いところにいた人物と見てよいのではないか。そんな彼の論にしてはあまり穏やかじゃない気がするんだよなあ・・・。


 以上二つの論を見てきました。わかったことは、私はこの時代を「政治に憚って自由にモノが言えなかった時代」とすぐ想定してしまうことですね。あまり過度にそういう見方をしてはいけないのかもしれない。自戒。



――注――

[1]原文は「稟賢妣之貽誨」。「貽誨(おしエヲのこス)」は子孫のために残した教訓のような意味であり、また『春秋左伝』昭公十年の疏に「生母を母と言い、死母を妣と言う」ともあり、そのためここの文章は「産後まもなく死去した母が遺した教育マニュアルをほどこされて」、のように読むこともできるだろう。ただし、成王の母に関する逸話として『大戴礼記』保傅篇に「周后妃任成王於身、立而不跂、坐而不差、独処而不倨、雖怒而不詈、胎教之謂也」とあり、要約すると妊婦が行動をつつしみ、品行を良くすることによって、胎児に良い影響を与えるという教育術があり、それを「胎教」と呼ぶのだそうだが、成王の母はこの「胎教」を実行した代表的な人であったようだ。管見の限り、成王の母の死没状況は具体的に記されておらず、不明。成王の母の教育となるとこの「胎教」が知られているくらいである。「誨」は「教」と意味が通じるので特に気にしなくて良いが、原文の「貽」は「胎」の誤字なのかもしれない(もっとも、誤字といっても底本では「胎」かもしれないが。つまり校訂者の釈字ミスかもね)。ともかく、訳文では文帝の意に背く可能性もあるが、「胎教」の意で訳出をしてみた。[上に戻る]

[2]原文「周召為保傅、呂尚為太師」。「保傅」は具体的な官名ではなく、もりやく一般の意で取ることも可能だが、『漢書』巻48賈誼伝の賈誼の上疏に「昔者成王幼在繈抱之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師」とあるのを踏まえ、具体的官名として訳出した。[上に戻る]

[3]原文「口能言則行人称辞、足能履則相者導儀」。『淮南子』主術訓の「口能言而行人称辞、足能行而相者先導」が出典だろう。董仲舒の『春秋繁路』離合根篇にも「足不自動而相者導進、口不自言而擯者賛辞」と似たような表現があり、当該箇所の日本語訳を参照して訳出した。坂本具償・財木美樹「『春秋繁露』訳注稿正貫・愈序・離合根・立元神・保位権篇」(『高松工業高等専門学校研究紀要』38、2003年、CiNiiオープンアクセスPDF)pp. 85-88。[上に戻る]

[4]語られている周公の逸話に関しては、原話は『尚書』金縢篇に見える。「史官」のところで(?)をつけたのは、原文では「問諸国史」となっているが、『尚書』や『史記』魯周公世家では「諸史」すなわち史官に問うたと記されているからで、原文の「国史」は「諸史」と同一の意を有しているのか、それとも異なっているのか判別ができない。「国史」の文を尊重したとしても意味を取りにくいので、ここでは「史官」と訳出させてもらった。後文にもう一度出てくる「史官」も原文は「国史」。
 周公のこのときの話は様々なバージョンがあったらしく、史料間で細部の情報が異なることがある。武王が死んだとき成王は何歳であったか、周公はいつ東にいったのか、天の災異と金縢開封は周公没後か否か、等々。特に最後の点は訳出にも多少影響がありそうな問題で、『史記』魯周公世家では周公没後として語られているが、司馬貞は「『尚書』では没後として書かれていない!」と反対をぶつけており、『漢書』の顔師古注を見る限り、顔師古も金縢開封を周公没以前のものとして認識しているようである。しかし、『洪範五行伝』(『後漢書』伝51周挙伝・李賢注引)も『史記』と同様の記述をしているようだし、さらに肝心の『尚書』は司馬貞が主張しているほど明確な記述ではなく、没後でも没前でも解釈できるし、『漢書』『後漢書』等の故事の引用例もこれまたどちらでも解釈できる。要するに没後か没前はこの説話においてはそれほど重要な要素ではなく、「金縢を開いてからようやく周公を信じるようになった、そんで天の怒りもおさまった」、このプロットだけが重要だったみたいだ。なので、曹丕もそれほどこの点は気にしていないのではないかと思っています。訳文も没後没前は明言しておかずにしておきます。[上に戻る]

[5]私は調べないとわからなかったので注をつけておきます。これは張邈と結託して兗州を強襲し、濮陽にこもった呂布を曹操が攻囲したときの話である。詳しい話は武帝紀の裴松之注に引く『献帝春秋』に見える。ちくま訳から引用(p. 30)、「太祖が濮陽を包囲すると、濮陽の豪族田氏が内通して来たので、太祖は城に入ることができた。その〔侵入した〕東門に火を放ち、引き返す意志のないことを示した。戦闘になり、軍は敗れた。呂布の騎兵は太祖を捕えたが彼だと知らずに訊ねた、「曹操はどこにいる。」太祖、「黄色の馬に乗って逃げて行くのがそうです。」呂布の騎兵はそこで太祖を放置して黄色の馬に乗った者を追いかけた。門の火はなお盛んであったが、太祖は火を突いて城を出た」。[上に戻る]

[6]桓瞱、字は文林。『後漢書』伝27桓栄伝に附伝されている。本伝中には曹操との関係が特に記されていないのだが、あるブログ記事http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-56.htmlによると、『三国志』武帝紀・建安25年の条の裴注に引く『曹瞞伝』に見える桓邵なる人物と同一人物でないかとの指摘が研究者によってなされているらしい。桓邵は若年時代の曹操を侮蔑していたために曹操の恨みを買ってしまい、後年謝罪したが許してもらえず、誅殺されたという。その研究者の本を所有していないので、どういう根拠でそのような主張をしているかは不明だが、そうだったらまさにぴったりという感じ。[上に戻る]