2022年8月13日土曜日

唐修『晋書』と『世説新語』

 今般、サイトに山濤伝王戎伝楽広伝の訳をアップしたが、これにちなんで改めて表題の件について簡単に確認しておこうと思う。

 ずいぶん前にずいぶん古い文章で「唐の晋書は世説新語を採用していてけしからん」という旨を読み、「そうなのかなあ」と長いあいだ思っていた。
 そうではあるが、私はこの件にかんしてあまり業界の人と話したことがなかった。以前の専門が五胡十六国だったこともあって、十六国春秋とかの話はよくしていたのだが……。
 すでに専門の分野では周知の問題なのかもしれないが、私は唐の史官が世説新語を参照して採用したという考えは疑わしいと思っている。

 幸い、今回訳出した上の三人(+王衍と王澄)は『世説新語』にたくさん登場するため、その分だけ調べる機会も多かった。そしてやはり、「この三伝にかんしては唐の史官は世説新語の記述を採用していない」と結論せざるをえなかった。
 ただ、サイトの訳注にいちいち異同や出典を注記するのも煩瑣に思えたので(ただでさえ十分に煩瑣なのに……)、サイトの訳注ではこの件にかんしてあまり記載しなかった。
 そこでこのブログ記事で、『晋書』と『世説新語』の違いがよくわかる事例を手短に列記しておこうと考えたわけである。


(1)山濤
呉平之後、帝詔天下罷軍役、示海内大安、州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。帝嘗講武于宣武場、濤時有疾、詔乗歩輦従。因与盧欽論用兵之本、以為不宜去州郡武備、其論甚精。于時咸以濤不学孫呉、而闇与之合。帝称之曰、「天下名言也」。而不能用。及永寧之後、屡有変難、寇賊猋起、郡国皆以無備不能制、天下遂以大乱、如濤言焉。

呉が平定されたのち、武帝は天下に詔を下し、軍役(戦時の労役)を停止し、海内に平和を示し、すべての州郡から兵士を廃し、大郡には武吏百人、小郡には五十人を置くこととした。武帝が宣武場で軍事訓練を実施したとき、山濤はちょうど病気を患っていたが、詔を下し、歩輦(持ち上げたりかついだりして運ぶみこし)に乗せて随従させた。そして〔山濤は〕盧欽と用兵の本質について議論し、州郡から軍備を取り去るべきではなかったと主張し、その論はひじょうに精密であった。そのときに話を聞いていた面々はこう思った。山濤は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している、と。武帝は山濤の論を「天下の名言である」と称えたが、採用できなかった。〔恵帝の〕永寧年間以後になると、何度も事変が起き、寇賊が大量に沸き起こったが、どの郡国にも軍備がなかったために制圧できず、天下はとうとう大混乱に陥ってしまい、山濤の言ったとおりになったのである。

 これに類した話は『世説新語』識鑑篇、第四章に収められている。
晋武帝講武於宣武場、帝欲偃武修文、親自臨幸、悉召群臣。山公謂不宜爾、因与諸尚書言孫呉用兵本意、遂究論。挙坐無不咨嗟、皆曰、「山少傅乃天下名言」。後諸王驕汰、軽遘禍難。於是寇盜処処蟻合、郡国多以無備不能制服、遂漸熾盛。皆如公言。時人以謂山濤不学孫呉、而闇与之理会。王夷甫亦嘆云、「公闇与道合」。

晋の武帝が宣武場で軍事訓練を実施したときのこと。武帝は武装を廃し、文化事業を整備しようと思い、みずから訓練場にお出ましになり、群臣を全員召集した。山公は〔武帝の考えは〕適切ではないと思い、そこで尚書たちと『孫子』や『呉子』における用兵の本質について議論し、つきつめるまで論じた。一同の人々は誰もが感嘆し、みな言った、「山少傅〔の言論〕こそ天下の名言だ」。のちに諸王がおごり高ぶり、軽々しく変難を起こした。かくして盗賊があちこちで群がり集まったが、郡国の多くは武装がないために制圧できず、しだいに賊の勢力は増していったのであった。すべて山公の言葉どおりだったのである。世の人々はこう評したという、「山公は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している」。王衍もこう感嘆したのであった、「公は図らずも道と合致している」。

 違いは一目瞭然なので説明は不要であろう。
 ひとこと加えれば、ここで山濤のことを「山少傅」と称しているところがあるが、山濤伝によれば咸寧のはじめに太子少傅に就いている。それゆえ、この話は咸寧はじめのときである可能性がある。しかしいっぽう、『隋書』経籍志、集部、別集に「晋少傅山濤集」という文集が著録されている。すなわち「山少傅」という呼称は王導を「王丞相」、郗鑑を「郗太尉」と呼ぶような類いとも考えられる。「少傅就任前の話に少傅という呼称を使うなんて道理があるか!」と思う向きもあるだろうが、私も『世説新語』のそのあたりを徹底的に調べたわけではないものの、そういう正論がはたして『世説新語』に通じるのか疑問である。

 ここの劉孝標注には「竹林七賢論」と「名士伝」という佚書が引用されている。これも合わせて引いておこう。

「竹林七賢論」
咸寧中、呉既平、上将為桃林華山之事、息役弭兵、示天下以大安。於是州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。時京師猶講武、山濤因論孫呉用兵本意。濤為人常簡黙、蓋以為国者不可以忘戦、故及之。

永寧之後諸王構禍、狡虜欻起、皆如濤言。

「名士伝」
山濤居魏晋之間、無所標明。嘗与尚書盧欽言及用兵本意、武帝聞之、曰、「山少傅名言也」。

 『世説新語』本文は『晋書』本伝と違い、孫呉平定後だとは明言しておらず、盧欽と議論したとも書かれていなかったが、この二つの佚書にはそれぞれその旨が書かれていたらしい。
 ただし「竹林七賢論」は孫呉平定後の逸話とするが、山濤が盧欽と議論したとまでは書いていない。「名士伝」は盧欽と議論したことは書いているが、時機がいつなのかはわからない。

 時期は意外と大事で、というのも盧欽は咸寧四年に死去しているからである(武帝紀、盧欽伝)。したがって、じつは『晋書』本伝のように孫呉平定後に盧欽と議論するのはもともと不可能なのである。
 そうすると、「名士伝」は〈咸寧四年以前に山濤はたまたま盧欽と用兵について議論する機会があり、そのときの山濤の主張を耳にした武帝は「イイね」と言った〉と書かれているとも読め、孫呉平定とは関係がない話だと言えてしまうわけである。
 しかしそれだと、では「竹林七賢論」や『晋書』に言うような孫呉平定後の武備撤廃との絡みはいったい何であるのか。咸寧に用兵について論じて武帝からイイねされ、孫呉平定後もあらためて論じてやっぱりみんなからイイねされたというのだろうか。

 どうも山濤が用兵について見事な論を張ったという逸話にはさまざまなバリエーションがあったようである。ただ『晋書』本伝は盧欽の没年と矛盾しているので、これはダメなバージョンである。
 唐の史官がいろいろな史書からごちゃまぜに引っ張ってきたのか、依拠している晋史の記述をそのまま採用したのかはわからないが、少なくとも『世説新語』をそのまま採用した可能性はありえないだろう。


(2)王衍(王戎伝附伝)
衍嘗喪幼子、山簡弔之。衍悲不自勝、簡曰、「孩抱中物、何至於此」。衍曰、「聖人忘情、最下不及於情。然則情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。

王衍が幼児を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王衍は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王衍は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。しからば、情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。

 これに似た話は『世説新語』傷逝篇、第四章に収録されている。
王戎喪児万子、山簡往省之、王悲不自勝。簡曰、「孩抱中物、何至於此」。王曰、「聖人忘情、最下不及情。情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。

王戎が子供の万子を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王戎は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王戎は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。

 字句はほとんど変わらない。王衍が王戎になり、幼児が王万子(王戎の子)になっている以外は。
 ちなみに劉孝標の注に「一説にこの話は王衍が子を亡くして山簡が弔問したときのことという(一説是王夷甫喪子、山簡弔之)」とある。劉孝標の時代からすでに王戎の逸話か王衍の逸話かで分裂していたようだ。

 王戎の子の「万子」のプロフィールについて確認すると、同章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「戎子綏、……綏既蚤亡」とあり、劉孝標によれば「万子」というのは王綏という人物のことらしい。『世説新語』賞誉篇、第二九章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」には「王綏字万子、……年十九卒」とある。しかし『晋書』王戎伝には「子万、……年十九卒」とあり、名が万であったかのごとくである。このあたりはいろいろ混乱があるみたいだが、ともかく十九歳で早世した子供であるのは確かのようだ。
 また引用時に記述を省いたが、『晋書』王戎伝によるとこの子はひじょうに太っていたという。

 さて、この子供のことをはたして「まだ抱きかかえる年ごろの子供」と呼ぶだろうか。私には少し難しいように思う。つまり王戎が王綏(あるいは王万)を亡くしたときの逸話だとするとかなり不自然だと感じる。
 唐の史官も同様に思い、王衍説のほうを採用したのだろうか。言葉は悪いが、唐の史官がそのような細やかな配慮をするとはとても思えない。依拠した晋史の王衍伝に記載されていたからそのまま採用しただけのように思えてならない。
 ともかくこの箇所にかんしても、『世説新語』を意識しているわけではないと言えると思う。


(3)楽広
成都王穎、広之壻也、及与長沙王乂遘難、而広既処朝望、群小讒謗之。乂以問広、広神色不変、徐答曰、「広豈以五男易一女」。乂猶以為疑、広竟以憂卒。

成都王穎は楽広の婿であった。〔成都王が〕長沙王乂と仲たがいを起こしたため、楽広は朝廷の名士の地位にあったものの、小人たちが楽広のことを〔長沙王に〕讒言した。長沙王が楽広に事情を質問したところ、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「広(わたくし)、五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。長沙王はなおも疑念を抱いていたため、楽広はとうとう不安のあまりに卒してしまった。

 『世説新語』言語篇、第二五章に同様の話が記されている。
楽令女適大将軍成都王穎、王兄長沙王執権於洛、遂構兵相図。長沙王親近小人、遠外君子、凡在朝者、人懐危懼。楽令既允朝望、加有婚親、群小讒於長沙。長沙嘗問楽令、楽令神色自若、徐答曰、「豈以五男易一女」。由是釈然、無復疑慮。

楽広の娘は成都王穎に嫁ぎ、成都王の兄の長沙王乂は洛陽で朝政を握っていたが、とうとう二王は戦争を起こしてたがいにたがいを滅ぼそうとした。長沙王は小人を近づけ、君子を遠ざけていたので、朝廷に身を置いている者はみな不安を感じていた。楽広は朝廷の人望を集め、さらに〔成都王と〕姻戚関係にあったため、小人たちが〔楽広のことを〕長沙王に告げ口した。長沙王はあるとき、楽広に〔成都王と通じていないかと〕質問したが、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。これによって疑いが晴れ、二度と疑惑を向けられることはなかった。

 結末がまったく違うのがわかる。
 劉孝標注に引く「晋陽秋」には、長沙王と楽広との同様のやりとりを記したあと、「乂猶疑之、遂以憂卒」とあり、『晋書』本伝とまったく変わらない結末になっている。
 なお『資治通鑑考異』に引く「晋春秋」には「太安二年八月、楽広自裁」とあり、自殺と伝える史書もあったらしい。

 この箇所にかんしても『世説新語』を参照しているとは言いがたいように思われる。


***
 三つの例だけを簡単に見てきた。『晋書』と『世説新語』の違いが激しいところを挙げただけと言われればそのとおりである。『世説新語』とほとんど変わらない記述も一定数存在するからである。
 しかしながら、劉孝標注や『初学記』などの類書に引用された散佚晋史を見ると、先行晋史にも『世説新語』に類した話が確認できる。しかもその話が『世説新語』と微妙に異なっていることも決して珍しくはない。また『世説新語』に収められている話がすべて『晋書』に見えているわけでもない。

 ようするに、たとえ『晋書』と『世説新語』の記述が同じであったとしても、その取材源を『世説新語』だと考えるのは早計だと私は考える。『世説新語』以外の晋史にも同様の記述が存在する例がありふれているのに、どこに取材源として『世説新語』を挙げる必然性があるのか。『世説新語』から採った可能性はあるが、必然性はない。そのあたりはきちんとすべきである。
 と、とありあえず現在は考えることにする。私は不真面目でひとの議論はきちんと読んでいないので、この程度の事柄であればすでに誰かが言っているかもしれない。そこは今後きちんとします……。

 前回記事(「『魏書』僭晋司馬叡伝の史料的価値にかんする暫定的私見」)から引き続き、歴史的事実としての妥当性云々は措いて記述の成り立ちについて考えてみた。
 それはそれとして、『世説新語』を今回のような仕方で読んだりするのは何だか書物の意向に即していない気がするというかなんというか、ごめんなさいって気分になりますね。ごめん。。

2022年4月3日日曜日

『魏書』僭晋司馬叡伝の史料的価値にかんする暫定的私見

 かつて周一良氏は、『魏書』僭晋司馬叡伝を晋史諸書と比較すると孫盛『晋陽秋』および檀道鸞『続晋陽秋』とのみ合致していると指摘し、同伝はこの二つの晋史をもとに編集されたと論じた。そして魏収がこの二つの晋史を選んだのは、紀伝体よりも編年体のほうが記述材料のピックアップが容易だったからだろうと推測している(周一良「魏収之史学」、同氏『魏晋南北朝史論集』北京大学出版社、1997年、271-274頁)。

 筆者もこの結論に異論はないが、周氏の考証はやや簡略化されており、またもう少し踏み込んで言える事柄もあるように思われる。
 筆者は現段階で、同伝のなかの司馬叡(元帝)の箇所しか精査が終わっていないが、とりあえずこの段階でも言えそうなことを本記事でまとめおこうと考えたしだいである。

***
(1)『晋書』と主旨は同じだが微妙に記述がちがっているところ

(1-1)永昌元年の王敦挙兵
『魏書』司馬叡伝
王敦先鎮武昌、乃表於叡曰、「劉隗前在門下、遂秉権寵。今趣進軍、指討姦孽、宜速斬隗首、以謝遠近。朝梟隗首、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之訓、殷道復昌、賢智故有先失後得者矣」。敦又移告州郡、以沈充為大都督、護東呉諸軍。叡乃下書曰、「王敦恃寵、敢肆狂逆、方朕於太甲、欲見囚于桐宮。是可忍也、孰不可忍也。今当親帥六軍、以誅大逆」。叡光禄勲王含率其子瑜以軽舟棄叡、帰于武昌。

王敦はまず武昌に駐屯し、それから司馬叡に上表して言った、「劉隗は以前、門下に在任していましたため(侍中に就任していたことを指す)、とうとう権力と厚遇を得るにいたりました。いま、すみやかに軍を進め、悪人の討伐に向かう所存でありますが、どうかすみやかに劉隗の首を斬り、遠近に謝罪していただけませんか。朝に劉隗の首をさらせば、諸軍は夕にも退却します。むかし、太甲は湯王の典制を尊重することができず、だいなしにしてしまいましたが、幸いにも伊尹の訓戒を聴き入れましたため、殷の道はふたたび栄えたのでした。じつに、賢者や智者というものは、はじめに失敗しても、そのあとで成功するのです」。さらに王敦は州郡にも布告し、〔呉興で挙兵して王敦に呼応した〕沈充を大都督、護東呉諸軍とした。そこで司馬叡は書を下して言った、「王敦は寵遇を恃みに、あえて狂逆を起こし、朕を太甲になぞらえ、桐宮に幽閉しようとしている(桐宮は伊尹から追放された太甲が三年間過ごした場所)。これが見過ごせるものならば、見過ごせないことなどあろうか。いま、朕みずから六軍を率い、大逆人を誅罰しよう」。司馬叡の光禄勲で〔、王敦の兄で〕ある王含は子の王瑜を従え、軽舟(軽快な小舟)に乗って司馬叡を見捨て、武昌(王敦)に帰順した。

 ここで引用されている王敦の上表文は、『晋書』王敦伝に掲載されている上疏と部分的に合致している。さしあたり『魏書』司馬叡伝の文言に相当している箇所のみを掲げておこう。
劉隗前在門下、……遂居権寵、……。今輒進軍、同討姦孽、願陛下深垂省察、速斬隗首、則衆望厭服、皇祚復隆。隗首朝懸、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之勲、殷道復昌。……。

 『魏書』の「以謝遠近」と「賢智故有先失後得者矣」に相当する文言が見られない以外はだいたい同じである。

 次に沈充だが、『建康実録』中宗元皇帝に、
遣龍驤将軍沈充都督呉興等諸軍事。

とあり、内容としてはおおむね『魏書』と同じであろうが、表現にはかなりちがいがある。たほう、『晋書』には関連する記述を見いだせない。沈充の記述は『魏書』独自の情報とみなしてよさそうである。

 つづいて司馬叡の書(詔)は『晋書』王敦伝と『建康実録』中宗元皇帝にも掲載されている。
『晋書』王敦伝
帝大怒、下詔曰、「王敦憑恃寵霊、敢肆狂逆、方朕太甲、欲見幽囚。是可忍也、孰不可忍也。今親率六軍、以誅大逆。有殺敦者、封五千戸侯」。
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年正月
帝大怒、下詔曰、「王敦憑恃寵霊、敢肆狂逆、方朕太甲、欲見幽囚。是可忍也、孰不可忍也。朕将親御六軍、以誅大逆」。

 『建康実録』は『晋書』王敦伝にかなり近い。
 『魏書』司馬叡伝ふくめ、どれも似たような記載ではあるが、しいて言えば太甲の故事に関して「桐宮」を出しているか否かでちがいがあろう。

 王含の件については以下のとおり。
『晋書』王敦伝
敦兄含時為光禄勲、叛奔於敦。
『世説新語』言語篇、第三七章
王敦兄含、為光禄勲。敦既逆謀、屯拠南州、含委職奔姑孰。
鄧粲『晋紀』(『世説新語』言語篇、第三七章、劉孝標注引)
敦以劉隗為間己、挙兵討之、故含南奔武昌、朝廷始警備也。

 『魏書』司馬叡伝では、王含は子を連れて逃げたこと、そのさいに「軽舟」を用いたことが記されていたが、上の三つの引用文にはそのことまで記述されていない。

 さて、以上までに取りあげてきた事項を列記しよう。
   
司馬叡伝 晋書王敦伝 建康実録 世説新語 鄧粲晋紀
王敦の上表劉隗前在門下、遂秉権寵。今趣進軍、指討姦孽、宜速斬隗首、以謝遠近。朝梟隗首、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之訓、殷道復昌、賢智故有先失後得者矣 劉隗前在門下、……遂居権寵、……。今輒進軍、同討姦孽、願陛下深垂省察、速斬隗首、則衆望厭服、皇祚復隆。隗首朝懸、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之勲、殷道復昌。……。 昔太甲初雖不能遵明湯典、幸伊尹之勲、……。
沈充以沈充為大都督、護東呉諸軍。 遣龍驤将軍沈充都督呉興等諸軍事。
太甲の故事方朕於太甲、欲見囚于桐宮。 方朕太甲、欲見幽囚。 方朕太甲、欲見幽囚。
王含の逃亡 叡光禄勲王含率其子瑜以軽舟棄叡、帰于武昌。 敦兄含時為光禄勲、叛奔於敦。 王敦兄含、為光禄勲。敦既逆謀、屯拠南州、含委職奔姑孰。 含南奔武昌。

 ところどころで『魏書』にのみ見られる記述が存在するが、『晋書』などではそれらの記述が省かれて引用されたと想定することも可能である。
 あくまで個人的な感覚としては、これらの異同には引っかかりを覚えるものもある。だがこれらの材料のみでは、どれも引用・編集の過程で生じた異同にすぎない可能性を排除できない。

(1-2)謝鯤のエピソード
『魏書』司馬叡伝
敦将還武昌、其長史謝鯤曰、「公不朝、懼天下私議」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近入覲、主上側席待公、遅得相見、宮省穆然、必無不虞之慮。公若入朝、鯤請侍従」。敦曰、「正復殺君等数百、何損朝廷」。遂不朝而去。

王敦が武昌へ戻ろうとすると、王敦の長史の謝鯤が言った、「〔帰還にあたって、〕公が〔主上に〕朝見しなければ、天下に私議(王敦を排除する秘密の謀議)が起こってしまうのではないかと懸念します」。王敦、「君は〔入朝すれば〕事変が起きないことを保証できるというのか」。答えて言う、「鯤(わたし)は最近、入朝して〔主上に〕謁見いたしましたが、主上はかしこまりながら公をお待ちになっておられ、面会を希望しておられました。宮中は落ち着いた様子でしたし、きっと不慮の禍は起こらないでしょう。公が入朝なさるのでしたら、侍従いたしたく存じます」。王敦、「〔事変が起こったら〕もう一度君らを数百人殺せばいいだけだ。朝廷にへりくだる必要などあろうか」。けっきょく朝見せずに建康を離れた。

 『晋書』謝鯤伝にこれと似た話が収録されている。
敦既誅害忠賢、而称疾不朝、将還武昌。鯤喩敦曰、「公大存社稷、建不世之勲、然天下之心、実有未達。若能朝天子、使君臣釈然、万物之心、於是乃服。杖衆望以順群情、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載矣」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近日入覲、主上側席、遅得見公、宮省穆然、必無虞矣。公若入朝、鯤請侍従」。敦勃然曰、「正復殺君等数百人、亦復何損於時」。竟不朝而去。

 王敦の「君能保無変乎」という発言以降は字句もほぼ同じである。しかし、それ以前の記述には相違がある。とくに謝鯤の発言は、主旨としては同じだと言えようが、表現にはおおきなちがいがある。
 また『世説新語』規箴篇、第一二章だと次のようにある。
敦又称疾不朝、鯤諭敦曰、「近者明公之挙、雖欲大存社稷、然四海之内、実懐未達。若能朝天子、使群臣釈然、万物之心、於是乃服。仗民望以従衆懐、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載」。時人以為名言。

 こちらの謝鯤の発言は『晋書』にかなり近い。
 さらにこの章の劉孝標注には「晋陽秋」が引かれている。
既克京邑、将旋武昌、鯤曰、「不就朝覲、鯤懼天下私議也」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近日入覲、主上側席、遅得見公、宮省穆然、必無不虞之慮。公若入朝、鯤請侍従」。敦曰、「正復殺君等数百、何損於時」。遂不朝而去。

 『晋陽秋』での謝鯤の発言には『魏書』と同じ「天下私議」という表現が用いられている。それに、『晋書』と『世説新語』は前置きとして〈王敦は病気と称して朝見していなかった〉と説明しているが、『魏書』ではこの文言がなかった。それはたんに『魏書』では省略されただけだとも考えられるが、この『晋陽秋』においてもそのような前振りが確認できない。『世説新語』本文では仮病に触れられているのだから、劉孝標がわざわざ『晋陽秋』からそのくだりを省いて引用したとは考えにくいはずである。だから『晋陽秋』にも仮病の記述はなかった可能性が高いと言えるだろう。
  
司馬叡伝 晋書謝鯤伝 建康実録世説新語 晋陽秋
王敦の仮病敦将還武昌。 敦既誅害忠賢、而称疾不朝、将還武昌。 敦将還屯武昌、不朝而去。 敦又称疾不朝。 既克京邑、将旋武昌。
謝鯤の発言公不朝、懼天下私議。 公大存社稷、建不世之勲、然天下之心、実有未達。若能朝天子、使君臣釈然、万物之心、於是乃服。杖衆望以順群情、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載矣。 近者明公之挙、雖欲大存社稷、然四海之内、実懐未達。若能朝天子、使群臣釈然、万物之心、於是乃服。仗民望以従衆懐、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載。 不就朝覲、鯤懼天下私議也。

 謝鯤の逸話については、たとえば『魏書』と『晋書』で同じ晋史を下敷きにしていたが、編集過程で文言に省略およびアレンジが加えられてこのような相違の結果になった、というわけではないように思われる。『魏書』は『晋陽秋』に依拠し、『晋書』は『晋陽秋』とは別の晋史に依拠した。その結果、謝鯤の発言や話のあらすじにも微妙なちがいが生じた。そのように想定するのがよいと考える。

***
(2)『晋書』では伝えられていない情報

『魏書』司馬叡伝
初為王世子、又襲爵、拝散騎常侍、頻遷射声・越騎校尉、左・右軍将軍。

〔司馬叡は〕最初は琅邪王世子となり、〔その後、〕さらに爵(琅邪王)を継ぎ、散騎常侍に任じられ、射声校尉、越騎校尉、左軍将軍、右軍将軍と昇進を重ねた。

『晋書』元帝紀でのこれに相当する記述は次のとおり。
年十五、嗣位琅邪王。……元康二年、拝員外散騎常侍。累遷左将軍。

 ここの「累遷」とは「ポンポンと出世してゆき某官に昇進した」という意味で、某官にいたるまでに経た官歴を省いた書き方である。つまり『晋書』では員外散騎常侍から左将軍にいたるまでのキャリアが省略されており、詳細不明になってしまっている。
 それに対して『魏書』では、散騎常侍以降の官歴が列挙されている。こちらのほうも「頻遷」とあるので、キャリアの完全な記録ではなく、いくつか省略されたものと考えたほうがよさそうではあるが、そうであるにしても『晋書』では省かれてしまった官歴がきちんと記録されていると考えられるわけである(なお『魏書』司馬叡伝と『晋書』元帝紀とで官名に異同があるが、どちらが妥当なのかは不明。今回は取りあげないが、官の異同もひじょうに多い)。

 このように『魏書』には独自の情報がしばしば見えている。今度はこのことについて考察する。

(2-1)王敦挙兵時の石頭での攻防戦
『魏書』司馬叡伝
叡遣右将軍周札戍于石頭、札潛与敦書、許軍至為応。敦使司馬楊朗等入于石頭。札□見敦。朗等既拠石頭、叡征西将軍戴淵、鎮北将軍劉隗率衆攻之、戴淵親率士、鼓衆陵城。俄而鼓止息、朗等乗之、叡軍敗績。

司馬叡は右将軍の周札を派遣し、石頭に駐屯させたが、周札は秘密裏に王敦に書簡を送り、王敦軍が到着したら内応することを約束した。王敦は〔石頭に到着すると、周札が呼応して石頭を開門したので、〕司馬の楊朗らを石頭に入れさせた。周札は……(原文欠字)王敦に面会した。楊朗らが石頭を占領すると、司馬叡の征西将軍である戴淵と鎮北将軍の劉隗が軍を率いてこれを攻め、戴淵はみずから兵士を指揮し、太鼓を打って兵士を励まし、城壁をよじのぼらせようとした。〔しかし〕にわかに太鼓が鳴りやみ、攻撃が停止すると、楊朗らはこの隙に乗じ〔て反撃したため〕、司馬叡軍は敗北した。

 この引用文には『晋書』に見えない記録が含まれている。どこがそれに該当するかというと、すべてである。順を追って述べていこう。

 王敦が挙兵して建康に迫ったさい、石頭を守備していた周札が城門を開いて王敦軍を入れてしまったことは事実であり、『晋書』の諸紀伝にも記されている。
『晋書』元帝紀、永昌元年四月
敦前鋒攻石頭、周札開城門応之、奮威将軍侯礼死之。
『晋書』周処伝附札伝
王敦挙兵石頭、札開門応敦、故王師敗績。
『晋書』王敦伝
敦至石頭、欲攻劉隗、其将杜弘曰、「劉隗死士衆多、未易可克、不如攻石頭。周札少恩、兵不為用、攻之必敗。札敗、則隗自走」。敦従之。札果開城門納弘。諸将与敦戦、王師敗績。
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年四月
敦先鋒攻石頭軍、周札開城納賊、王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。

 このように周札が開門したことはあちこちに記されている。しかし、『魏書』のように周札が事前に王敦と通じていたとは書かれていない。むしろ王敦伝は〈王敦の将が「周札を攻めれば必ず破ることができるからまずはこちらを攻めるべきだ」と進言し、王敦がその策を採用したところ、周札は開城して王敦軍を入れた〉とあり、『魏書』の記載とは趣を異にしている。

 次に王敦の司馬の楊朗。この人物は『晋書』に見えない。『建康実録』にも記録はない。現在調べたところ、『世説新語』に三度登場を確認できるのみである(識鑑篇、第一三章、賞誉篇、第五八章、同、第六三章)。しかし劉孝標が引いている諸書を合わせて参照しても、このときの戦闘にかんする記述は残されていない。つまり彼が石頭戦でこのような活躍をしていたことは『魏書』司馬叡伝にのみ伝わっているのである。

 最後に石頭での攻防過程について。先に引用した文と一部重複するところもあるが、あらためて関連する記述を列挙しよう。
『晋書』元帝紀、永昌元年四月
敦拠石頭、戴若思、劉隗、帥衆攻之、王導、周顗、郭逸、虞潭等三道出戦、六軍敗績。
『晋書』王敦伝
諸将与敦戦、王師敗績。
『晋書』劉隗伝
及敦克石頭、隗攻之不抜。
『晋書』戴若思伝
尋而石頭失守、若思与諸軍攻石頭、王師敗績。
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年四月
王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。

 王師が敗北したことはあらゆる箇所に記されており、たとえばここには引用しなかった伝(周札伝、温嶠伝、刁協伝、周顗伝など)でも簡潔に〈王師は敗北した〉とのみ記されている。しかし、『魏書』が記しているような攻防の過程にかんしてはどこにもまったく描かれていない。石頭でこのような攻防があったことは『魏書』からのみ知れるのであり、貴重な記録である。

 ただし、貴重な情報であるのは確かなものの、信憑性はまた別問題である。というのも、さきほど軽く言及したように、周札の石頭開門をめぐっては『魏書』司馬叡伝と『晋書』王敦伝とで矛盾していると考えられるからである。
 残念ながら妥当性を判断する材料は残されていない。しいて言えば〈『魏書』司馬叡伝はプロパガンダのために作成されたのだから事実としては怪しい〉として『魏書』を退けることもできるかもしれない。しかし私は、そのような考え方は論点先取だと思う。プロパガンダ性というのは、史料の検証の結果として導き出されなければならない結論であって、史料の真偽性を判断する論拠にあらかじめそれを持ち出してしまうのは証明の手続きとして誤っている。
 そしてまた、魏収が石頭戦の経緯を改竄ないし捏造する必要性はあるのだろうか。プロパガンダを云々するのならば、この点が説明されなければならない。
   
司馬叡伝 晋書元帝紀 晋書王敦伝 晋書周札伝 晋書戴若思伝 建康実録
周処の開城叡遣右将軍周札戍于石頭、札潛与敦書、許軍至為応。 敦前鋒攻石頭、周札開城門応之、奮威将軍侯礼死之。 敦至石頭、欲攻劉隗、其将杜弘曰、「劉隗死士衆多、未易可克、不如攻石頭。周札少恩、兵不為用、攻之必敗。札敗、則隗自走」。敦従之。札果開城門納弘。 王敦挙兵石頭、札開門応敦。 敦先鋒攻石頭軍、周札開城納賊。
楊朗敦使司馬楊朗等入于石頭。
石頭での攻防戦朗等既拠石頭、叡征西将軍戴淵、鎮北将軍劉隗率衆攻之、戴淵親率士、鼓衆陵城。俄而鼓止息、朗等乗之、叡軍敗績。 敦拠石頭、戴若思、劉隗、帥衆攻之、王導、周顗、郭逸、虞潭等三道出戦、六軍敗績。 諸将与敦戦、王師敗績。 王敦挙兵石頭、札開門応敦、故王師敗績。 尋而石頭失守、若思与諸軍攻石頭、王師敗績。 王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。


(2-2)譙王承と王敦軍の戦闘
『魏書』司馬叡伝
敦遣従母弟南蛮校尉魏乂率江夏太守李恒攻承於臨湘、旬日城陷、執承送于武昌。敦従弟王廙使賊迎之、害于車中。

王敦は従母弟で南蛮校尉の魏乂をつかわし、江夏太守の李恒を統率させ、臨湘で譙王承を攻めさせた。旬日(約十日)で城は陥落し、〔魏乂は〕譙王を捕えて武昌へ送った。王敦の従弟の王廙は盗賊に譙王を襲撃させ、車中で殺させた。

 まず魏乂だが、彼は王敦の従母弟(母の姉妹の子で王敦より年少の関係)と続柄が記されている。
 しかしこの情報は『晋書』には存在しない。『晋書』宗室伝、譙剛王遜伝附承伝。
敦遣南蛮校尉魏乂、将軍李恒、田嵩等甲卒二万以攻承。

 このときの戦闘で譙王承に従った者が数人忠義伝に立伝されており、そのぶんだけ魏乂もよく登場しているが、やはり王敦との続柄までは記されていない。
 ところが『晋陽秋』には記されていたようなのである。『世説新語』仇隙篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」。
敦遣従母弟魏乂攻丞(「丞」は譙王承のこと)

 このように『魏書』の情報は、唐修『晋書』に相当する記述がないとしても、好き勝手にデタラメを書いているわけでは必ずしもない。唐修『晋書』があまり依拠しなかった晋史にもとづいた結果、唐修『晋書』には記されていない独自情報を含むことになったのではないだろうか。

 引き続きみていこう。『魏書』司馬叡伝では魏乂と李恒の上下関係が記されているが、さきに引いた『晋書』譙王承伝はじめ、ほかの列伝や史書にはこのことは記されていない。
 譙王軍と魏乂軍との攻防は「旬日」(約十日)と記されていた。しかし『晋書』譙王承伝には「相持百余日、城遂陥」とあり、「百余日」すなわち約三か月にも及んだという。『晋書』元帝紀によると譙王陥落は永昌元年四月であるから、『晋書』に従えば同年正月の王敦の挙兵前後から譙王と魏乂らは戦闘していたことになる。じっさい、『資治通鑑』はそのような繋年をしている。この齟齬にかんしては『晋書』が事実として妥当である可能性が高い。魏収が依拠した晋史に「旬日」と書かれていたか、魏収が晋史を誤読してしまったのではないかと想像している。
 そして譙王の最期だが、『晋書』譙王承伝には次のようにある。
乂檻送承、荊州刺史王廙承敦旨於道中害之。(中華書局は「乂檻送承荊州、刺史王廙……」と標点しているが、この読み方は妥当でないと思われるため、標点を改めて引用した。)

 細かいところではあるが、『魏書』司馬叡伝に比べて簡略化した書き方になっている。これに対し、『世説新語』仇隙篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」には、
王廙使賊迎之、薨於車。

とあり、『魏書』司馬叡伝とほぼ同じ記述になっている。よってこの箇所にかんしても、魏収がデタラメに書いたわけではなく、晋史に依拠した記述内容だったのではないかと思われるのである。
   
司馬叡伝 晋書譙王承伝 晋陽秋 建康実録
魏乂敦遣従母弟南蛮校尉魏乂率江夏太守李恒攻承於臨湘。 敦遣南蛮校尉魏乂、将軍李恒、田嵩等甲卒二万以攻承。 敦遣従母弟魏乂攻丞。
戦闘日数旬日城陷。 相持百余日、城遂陥。
譙王の最期〔魏乂〕執承送于武昌。敦従弟王廙使賊迎之、害于車中。 乂檻送承、荊州刺史王廙承敦旨於道中害之。 王廙使賊迎之、薨於車。


***
(3)『晋書』と矛盾している記述
 これまでもしばしば取り上げてきたが、『魏書』司馬叡伝には唐修『晋書』と矛盾している記述もしばしばみられる。本節ではこのことを中心に述べてみよう。

(3-1)永嘉年間に司馬叡に追加された食邑
『魏書』司馬叡伝
五年、進鎮東将軍、開府儀同三司、又以会稽戸二万増封、加督揚・江・湘・交・広五州諸軍事。

永嘉五年、鎮東将軍、開府儀同三司に進められ、さらに会稽の二万戸を封国に加増され、督揚・江・湘・交・広五州諸軍事を加えられた。

 『晋書』元帝紀にこれに相当する記述が残されている。
増封宣城郡二万戸、加鎮東大将軍、開府儀同三司。

 太字で強調しておいたように、『魏書』では「会稽戸二万」とあるのに対し、『晋書』では「宣城郡二万戸」とある。
 分量が大きくなるのでここでは詳しく考察しないが(拙訳サイトに訳注をアップしてあるので興味のある方はそちらを参照してほしい)、いちおういずれであっても不自然ではない。宣城のほうがやや妥当性が高いかと思うが、決定的な根拠があるわけではない。
 つまりここの「会稽戸二万」という記述はそう簡単に却下できるようなものではない。そして魏収がわざわざこの箇所を改竄ないし捏造するとも思えない。ということは、彼が依拠した晋史だとこのように書いてあったと想定するのが自然ではないだろうか。

(3-2)南郊を実施した年
『魏書』司馬叡伝
叡以晋王而祀南郊。其年、叡僭即大位、改為大興元年。

司馬叡は晋王の身分であるにもかかわらず、南郊の祭祀を実施した。その年、司馬叡は大位につき、大興元年と改めた。

 司馬叡は帝位につく前に南郊をおこなったという。なお即位は太興元年三月丙辰(十日)である。
 
建興五年(建武元年、西暦317年)三月 司馬叡、晋王に即位。承制して建武に改元
建武二年(太興元年、西暦318年)三月 愍帝の訃報が届き、司馬叡、皇帝に即位。太興に改元

 やはり分量の関係もあって、ここでは細かく立ち入ることはしないが、軽く問題に触れておこう。

 司馬叡が南郊を実施した年を調べてみると、太興元年とするものと同二年とするものがある。
 
太興元年 太興二年
魏書司馬叡伝
宋書礼志三
晋書礼志上
建康実録
資治通鑑
金子修一『中国古代皇帝祭祀の研究』

 歴史的事実としては太興二年、すなわち即位の翌年とするのが正しいと私も考えている。
 いちおう『魏書』司馬叡伝と同じ年とする史書もある点をどう考えるか、といったところだろう。

 次に月日の記載を確認してみると、『建康実録』が記述を欠いている以外、すべての史書が三月辛卯の日で一致している。
 しかし、じつはこれには問題があり、太興元年であろうと二年であろうと、三月に辛卯の日は存在しない。そこで『晋書』中華書局校勘記は佚書の記述を参照し、「三月」は「二月」の誤りである可能性を指摘している。二月ならば太興元年・二年ともに辛卯の日が存在する。
 この可能性は実際にはかなり低いと思うが、かりにこの説のとおりに三月ではなく二月が正しく、かつ年についても『宋書』のとおり太興元年が正しいとすれば……わかるだろうか。太興元年二月。司馬叡が皇帝位につくひと月前の時期に当たる。もしこのときに南郊を実施していたのなら、『魏書』司馬叡伝が記していることと符合してしまうわけである。これは逆に、『魏書』の記述を根拠に挙げ、〈年は『宋書』が正しく、月は中華書局校勘記の説が正しい〉と主張することが可能である、ということをも意味する。

 やや大仰に書いてきたが、そもそも私は太興元年説に反対なので、『魏書』の記述が歴史的事実として正しいとはまったく考えていない。だがここで問題なのは、歴史的事実としては何が正しいのかということではなく、魏収は何を参考にこのように記したのかというところにある。言い換えれば、魏収は事実をでっち上げて難癖をつけているわけではなく、魏収が依拠した晋史には太興元年二月と記されてあり、その記述を見て非難的論調の記述に書き換えたという可能性は想定しうるだろうか、ということだ。

 だからこの問題はとても重大なものと言えるのだが、やはり残念ながら現在は考える手だてがない。

***
中間整理
 これまでの検討をふまえ、いったん私の考えをまとめてみる。

◆孫盛『晋陽秋』との関係
 これまで、『魏書』司馬叡伝の記述を唐修『晋書』などの他書と比較し、独自の記述を多く含んでいることを示してきた。
 ここで取りあげてきたのは司馬叡伝のなかの一部でしかないが、(あくまで司馬叡の段落のみに限定すると)独自の記述は全体の大半を占めると言っても過言ではない。唐修『晋書』はもちろん、『世説新語』『建康実録』などとも似ていないのである。
 しかしそうしたなかにあって、孫盛『晋陽秋』の佚文とだけは異常な確率で一致している。これはかなり異様な事態だと感じる。周一良氏の指摘もふまえれば、『魏書』司馬叡伝(の司馬叡の箇所)は孫盛『晋陽秋』に依拠して作成されたと断定してよいと考える。

◆唐修『晋書』との関係
 司馬叡伝が孫盛『晋陽秋』に依拠しているということから、いろいろと言えることが増えてくる。
 重ねて確認するが、司馬叡伝は唐修『晋書』と似ていない。これが意味するのは、唐修『晋書』または唐修『晋書』が依拠した晋史には『晋陽秋』が反映されていない、ということだ。
 唐修『晋書』を読むうえで、これはひじょうに大事な情報になるだろう。

◆『建康実録』との関係
 私は以前、『建康実録』の東晋巻は『晋陽秋』などの編年体晋史をベースにしているのではないかと想像していた。
 しかし今回あらためて検討してみて、『建康実録』は司馬叡伝と似ていなかった。つまり『晋陽秋』にもとづいているわけではなさそうだった。
 かえって唐修『晋書』の帝紀や列伝と類似している箇所が多かったと感じた。そのいっぽうで独自の記述もしばしば見えるし、自注で何法盛『晋中興書』を引いていることもある(永昌元年に挿入の周顗伝)。
 思うに、許嵩は唐修『晋書』を下敷きに据え、紀伝体を編年体に整理しなおす作業をしつつ、さまざまな書物から情報を引いて付加し、独自の歴史叙述へ仕上げていったのではないか。許嵩はそれなりの労力をかけているし、それ相応のオリジナリティも出ているようだと思っている。

◆『資治通鑑』との関係
 今回はあまり『資治通鑑』を取りあげなかった。
 およそ確認したところでは、司馬光は一部で司馬叡伝の記述を採用しているものの、基本的には採択していないようであった。唐修『晋書』と異同がある箇所でも、とくにコメントをしないままに『晋書』を採用している。司馬叡伝の情報の価値を認めていないか、あるいは見落としてしまっていたのではないかと疑われる。

***
(4)魏収の加筆と修正
 司馬叡伝が『晋陽秋』に依拠しているとはいっても、しかしすべて『晋陽秋』からの抜粋で構成されているとはとうてい考えられないだろう。魏収の加筆や修正があってしかるべきである。加筆修正はどの程度にまで及ぶものだったのか。最後にこの問題について考えてみたい。

(4-1)表現の変更
『魏書』司馬叡伝
六月、王弥、劉曜寇洛陽、懐帝幸平陽、晋司空荀蕃、司隸校尉荀組推叡為盟主。於是輒改易郡県、仮置名号。江州刺史華軼、北中郎将裴憲並不従之。

永嘉五年六月、王弥と劉曜が洛陽を侵略し〔て落とし〕、懐帝が〔拉致されて〕平陽に行幸すると、晋の司空の荀藩と司隷校尉の荀組は司馬叡を盟主に推戴した。かくして、〔司馬叡は〕独断で郡県の官吏を改任し、かってに称号を授与したのである。江州刺史の華軼と北中郎将の裴憲はどちらも司馬叡に従わなかった。

 太字の箇所はたいへんな非難となっており、かえってうさんくささを感じさせる。
 しかし冷静になって客観的に考えてみると、ここで言われているのは「承制」(皇帝から委任を受けて統治を代行すること)なのではなかろうか。
 現に『晋書』華軼伝には、
尋洛都不守、司空荀藩移檄、而以帝為盟主。既而帝承制改易長吏、軼又不従命。

と、洛陽陥落後に司馬叡が「承制」したと明記されている。
 当然だが、司馬叡の承制は自称であろう。洛陽陥落後は司馬叡のほかにも、南陽王保、王浚、苟晞、劉琨が承制して地方官や将軍号の授与を裁量でおこなっているが、(きちんと調べてはいないけれど)みな承制は自称である。
 承制を自称する、すなわち皇帝から地方統治を委任されたと自称する。これはもちろん、みずからの命令が正当なものであることをアピールするためである。逆に言えば、承制でなければ正当性を欠いてしまうわけである。
 そしてまさに、司馬叡の承制に従わなかった者が上の引用文に見えている華軼である。
時天子孤危、四方瓦解、軼有匡天下之志、毎遣貢献入洛、不失臣節。謂使者曰、「若洛都道断、可輸之琅邪王、以明吾之為司馬氏也」。軼自以受洛京所遣、而為寿春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡県多諫之、軼不納、曰、「吾欲見詔書耳」。

 洛陽陥落前に「洛陽への道路が途絶すれば、洛陽への献賦を琅邪王へ転送しよう」と言っておきながら、陥落後も司馬叡には承服しなかったという華軼の本心は不可解だが、ともあれ、洛陽陥落前に彼が堅持していた主張は〈洛陽朝廷が健在なのにどうして琅邪王の命令に服従しなければならないのか〉というものだったと思われる。そして陥落後は〈琅邪王が晋朝の臨時のトップだと誰が決めたのか〉と固持し、司馬叡の命令を突っぱねていたのではなかろうか。
 このように、①司馬叡の承制はしょせん自称にすぎないこと、②実際に司馬叡の承制に正当性を認めなかった者が存在したことをふまえると、魏収が「輒」(独断で)とか「仮」(デタラメに)とか表現しているのも、あながち間違いとも言えないように思われる。むしろ西晋末における承制の一側面を的確に捉えている、いやもっと踏み込んで言えば本質を言い当てているようにさえ私には感じられる。
 実際のところ、司馬叡陣営からしてもこのときの承制の正当性を突かれるのは痛いにちがいない。魏収はその点を見逃さず、表現を改めたのだと考えられる。

 一見すると嘘らしい表現に思えた魏収の記述ではあったが、司馬叡の承制自称という歴史的事実を、それなりに妥当性をもつ一視点から表現しなおしたものであると私は考える。魏収は捏造したわけではなく、〈司馬叡が承制を自称した〉という晋史の記述にきちんともとづいていたのであろう。

(4-2)原作の編集
『魏書』司馬叡伝
僭晋司馬叡、字景文、晋将牛金子也。初晋宣帝生大将軍、琅邪武王伷、伷生冗従僕射、琅邪恭王覲。覲妃譙国夏侯氏、字銅環、与金姦通、遂生叡、因冒姓司馬、仍為覲子。由是自言河内温人。

僭晋の司馬叡は字を景文といい、晋の将の牛金の子である。もともと、晋の宣帝は大将軍の琅邪武王伷を生み、伷は冗従僕射の琅邪恭王覲を生んだのであった。覲の妃であった譙国の夏侯氏は字を銅環というが、牛金と姦通し、そのはてに叡を生んだ。そこで司馬氏になりすませ、覲の子としてしまったのである。かくして河内温県の出身だと自称しているわけである。

 よく知られたこのエピソードも魏収が創作したものではない。もっとも古く確認できるのは孫盛『晋陽秋』(『太平御覧』巻九八、東晋元皇帝)である。
又初、玄石図有牛継馬後。故宣帝深忌牛氏遂為二榼、共一口、以貯酒、帝先飲佳者、以毒者酖其将牛金。而恭王妃夏氏、通小吏牛欽而生元帝。亦有符云。

 沈約『宋書』符瑞志上にも同じあらすじでこの逸話が掲載されているが、そちらは干宝の著作から引用したものかもしれない。
 孫盛の上の引用文は、司馬叡が即位して晋を中興させる瑞祥や予言をたくさん列挙しているなかの一節である。つまり、孫盛はこのエピソードを司馬叡即位の予言・吉兆とみなしているのである。
 話の構造はこうなっている。曹魏の時代に玄石図という奇異な巨石が発見されたが、そこには動物の図像が描かれており、その動物配置が「牛継馬後(馬のうしろに牛がつづく)」というものであった。司馬懿はこれを司馬氏にとって不吉な予言と受け取り、牛金を謀殺することによってこの予言の実現を防いだ。しかしのち、琅邪王妃が牛氏と不倫し、とうとう司馬叡を生み、そして司馬叡は即位して晋を再興させた。まさしく玄石図の予言どおりである。と。(玄石図は津田資久「符瑞「張掖郡玄石図」の出現と司馬懿の政治的立場」(『九州大学東洋史論集』35、2007年)が詳しい。)

 いろいろと不可解に思うだろうが、ともかくこの話の意図は、司馬叡の即位は天の意志なのだと示すところに置かれている。東晋南朝においては、そのような文脈のエピソードとして意味をもち、流通していたと考えられる。
 ひるがえって魏収の記述を確認してみると、話のプロットがまったく異なっていることに気づく。玄石図と司馬懿のくだりが消失しているのである。
 魏収が依拠した晋史には玄石図と司馬懿のくだりが存在せず、それをそのまま魏収が引き写したのだ、という想定は可能であろうか。そもそも魏収が依拠した晋史は『晋陽秋』だと思われるのでかなり可能性の低い仮説だが、それとは別の観点からでも問題点を指摘できる。上で述べたように、少なくとも晋史においては、この逸話は司馬叡が即位する吉兆として意味づけられていた。そうした語りのなかでは、玄石図は不可欠な要素であり、これを省いてしまうと司馬叡の即位を予言する物語にならない。したがって、魏収が依拠した晋史がたとえ『晋陽秋』でなかったとしても、玄石図のくだりが存在しなかったとは考えられない。

 だが魏収から見れば、玄石図がどうこう、司馬懿が云々といった前振りはどうでもいい要素だろう。彼にとっては、この逸話がもつもうひとつの意味が重要なのであった。〈予言に合致しているとかそうなのかもしれないけど、ようするに司馬叡は実際は司馬氏ではなくて牛氏ってコトなんでしょ?〉――これこそ魏収が読み取ったこの逸話の意味である。彼は元来の文脈を意図的に無視して一部分だけを切り取って引用し、この逸話に原作とは別の意味をもたせて提示してみせたのだ。司馬叡は牛氏なのに司馬氏を騙ったヤツなのだ、だから彼が樹立した政権もしょせんは偽りの晋、すなわち「僭晋」にすぎない、と。

 魏収のやり方は元来の文脈を無視した切り取り引用であるのにちがいないが、しかし彼が逸話から読み取ったもうひとつの意味は、いちじるしい飛躍を必要とするような不当な物語解釈と言えるだろうか。とてもそういうふうには思えないだろう。確かに切り取ってはいるが、そもそも原作からして〈司馬叡はじつは牛氏である〉と言っているのだから、魏収の読み方は不正に当たらないはずである。原作に潜在的に存在していた意味を顕在化させたにすぎない。

 推測も多く交えたが、司馬叡が牛氏だとの逸話は魏収が創作した話ではない。元ネタは晋史にある。魏収は晋史に書かれてあるとおりには引用せず、元来の文脈を無視して切り取り、逸話に別の意味を付与した。しかしそうして提示された逸話の意味〈司馬叡は実際は牛氏である〉は、原作が潜在的にもっていた意味であって、いちじるしく不当なアレンジとも言いがたい。

(4-3)挿入・加筆の箇所
『魏書』司馬叡伝
遣使韓暢浮海来請通和。平文皇帝以其僭立江表、拒不納之。

〔司馬叡は〕使者の韓暢をつかわし、海を渡って〔わが国(拓跋氏)に〕来訪し、通好を求めた。平文帝は、司馬叡が僭越して江南に自立しているのを理由に、拒絶して受けつけなかった。

 司馬叡伝にはしばしばこの手の記録が記されている。ちなみにこの遣使は『魏書』序紀、平文帝五年に記録されている。
 どういう意図があるのかはわからないが、おそらく北魏側の記録にもとづいて魏収が挿入した文章であろう。
 また司馬叡伝には江南地方の風俗を悪しざまに記述した箇所があるが、おそらくそこも魏収が挿入した箇所だと思われる。


 以上、一部の記述を材料に考察してみた。あくまで一部を対象にしたものなので、臆断しているところも含まれているとは思うが、さしあたり次のようにまとめておきたい。
 依拠した晋史には含まれていなかった情報を、魏収がみずから挿入・加筆した部分は確かに存在する。ただ、そのような記述は分量的にはそれほど大きくないと思われる。
 司馬叡を非難するような表現や正当性に疑念を抱かせるような逸話も、基本的には依拠する晋史に元ネタが記されており、魏収はそれに即していた。そして司馬叡の正当性を相対化する視点に立って、元ネタの表現やプロットを改変したが、元ネタの晋史から大幅に逸脱しているとは言えない程度であると思われる。
 魏収の方針はあくまで晋史に依拠することに置かれており、ウソを捏造して混交するようなやり方は取っていなかったように思われる(言い換えればそれほどの手間ヒマをかけなかったのではないか)。そして晋史のなかに、ケチや難クセをつけられそうな記述や出来事があれば、その表現を改変して列伝に採用したのであろう。もし司馬叡伝に歴史的事実として妥当とは思えないような記述・情報があったとしても、それは依拠した晋史が誤っているか、魏収が誤読してしまったかのどちらかであって、魏収が故意にウソを書くことはなかったと思う。東晋にとって醜聞となるような出来事のみをピックアップし、いっぽうで東晋の国威が発揚したような出来事は一言も触れない。このような一貫した取捨判断にのっとって列伝を作成しているのであって、わざわざ虚偽情報をでっち上げる必要はなかったのではないかと思われる。
 現在のところ、私はこのように考えている。

***
結 論

・『魏書』司馬叡伝(の元帝の部分)は孫盛『晋陽秋』に依拠して作成されている。
・魏収はウソを捏造して混交するようなやり方は取らず、あくまで晋史(『晋陽秋』)の記述に即している。そして司馬叡の正当性に疑義を呈せるような記述や出来事があれば、その表現を改変して列伝に採用した。
・『魏書』司馬叡伝に歴史的事実として誤りと思われる情報があったとしたら、それは『晋陽秋』がまちがっているか、魏収が『晋陽秋』の記述を誤読してしまったかのどちらかであると思われる。魏収は故意にウソ情報を書くつもりはなく、東晋にとっての醜聞ばかりをピックアップし、東晋の国威が発揚したような出来事はまったく書かないという取捨方針で一貫していたと考えられる。
・唐修『晋書』は『魏書』司馬叡伝と類似していない。すなわち唐修『晋書』または唐修『晋書』が依拠した晋史には、『晋陽秋』が反映されていないと言える。
・『建康実録』も『魏書』司馬叡伝とは類似していない。『資治通鑑』は『魏書』司馬叡伝を参照している形跡があまり見られなかった。
・『魏書』司馬叡伝は、魏収による取捨判断が強く作用している点に注意が必要だが、個々の情報自体は孫盛『晋陽秋』に由来するものと考えられるため、晋代史を研究するうえでの第一級史料と言える。

 ここまでひとまずまとめたところで、私は武井彩佳『歴史修正主義』(中央公論新社、2021年)の一節を思い出した。
ホロコースト否定論には、事実も、矛盾のない筋の通る部分もある。むしろ五割は事実であり、三割は真偽のほどが明らかでなく、最後の二割が完全な嘘からなると言っても過言ではない。それゆえに、ホロコースト否定論者の主張を一〇〇%嘘であると言い切ることもできない。(91頁)

 私は当初、司馬叡伝をファクトチェックしてやろうというくらいのつもりでいた。
 いまから考えるとずいぶん驕った姿勢であったが、結果として魏収はウソを織り交ぜているとまでは言えなかった。私の力不足もあるかもしれない。魏収は比較的晋史に忠実で、捏造や改竄はしておらず、ただたんに悪意をもって難クセをつけているだけだし、実際のところ司馬叡陣営にとって痛いところを的確に突いているので不当な視点とも言いづらい。
 しかし、司馬叡伝全体を読むと「この東晋像は歪曲されている」と感じずにはいられない。
 個々の情報は虚偽ではないのに、全体で見ると歪曲されている。いわば、魏収はウソをつかずにウソをついている。事実以上に強力なプロパガンダは存在しないと言っているかのようだ。
 これはじつに興味深い。事実に即しているというだけではある種の「正しさ」は獲得できないということなのだろうか。いったい、魏収のどこがおかしいのだろうか。私は何を基準に「正しさ」を測っているというのか。そもそも魏収をおかしいと感じる自分はまったく歪んでいないのか。

 どこかおかしなところがあるとすれば、魏収の取捨選択の基準が公正ではないといったあたりに求められるのだろう。だが、私はそのあたりを明快に、論理的に、説明することができない。それをもどかしく思う。


※『世説新語』を調べるにあたっては、独寡さん(@Dokka_Satoru)「デイリー晋宋春秋」の世説新語索引をおおいに活用させていただきました。記して感謝申し上げます。

2021年10月3日日曜日

「任命された官職に父祖および本人の名が含まれていた場合は改選希望を申請できる」という晋代の慣例について

 タイトルの件について、晋代でよく知られている事例は王舒であろう。『晋書』巻76の本伝に次のようにある(以下、『晋書』を引用するときは書名省略)。

時将徴蘇峻、司徒王導欲出舒為外援、乃授撫軍将軍、會稽内史、秩中二千石。舒上疏辞以父名、朝議以字同音異、於礼無嫌。舒復陳音雖異而字同、求換他郡。於是改「會」字為「鄶」。舒不得已而行。

このころ(成帝はじめころ)、朝廷は蘇峻を中央に召そうとしていた。司徒の王導は王舒を地方に出して外援にしようとし、そこで王舒に撫軍将軍、會稽内史を授け、秩は中二千石とした。王舒は上疏し、父の名が「會」であるのを理由に辞退した。朝議が開かれ、「文字は同じだが発音は違うので、礼において問題はない」と判断された。王舒はふたたび陳述し、発音は違うが文字は同じなので、ほかの郡に変更してほしいと要望した。そこで朝廷は「會稽」の「會」の文字を「鄶」に変えた。王舒はしぶしぶ赴任した。

 蘇峻が乱を起こす二年前のことであったという。

 同様の問題は王舒の子の王允之のときにも発生したらしい。『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議に、

康帝咸康八年、詔以王允之為衛将軍、會稽内史。允之表郡与祖會同名、乞改授。詔曰、「祖諱孰若君命之重邪。下八座詳之」。給事黄門侍郎譙王無忌議以為、「春秋之義、不以家事辞王事、是上之行乎下也。夫君命之重、固不得崇其私。又国之典憲、亦無以祖名辞命之制也」。

康帝の咸康八年、詔が下り、王允之を衛将軍、會稽内史とした。王允之は上表し、郡と祖父の會が同名なので、改選を希望した。詔が下った、「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか。尚書八座にこの案件を下すので、議論して明らかにせよ」。給事黄門侍郎の譙王無忌の議、「春秋の義に、『私家の事情を理由に国家の仕事を辞退してはならない。これは、上位者が下位者に命じていることだからである』(公羊伝・哀公三年)とあります。そもそも君命の重大さと比べれば、私家の事情を重んじることなどできません。また、国家の法制にも、祖父の名を理由に君命を辞退してよいとの決まりはありません」。

とある。王舒伝附伝の允之伝によると、王允之は會稽内史に任命されたが、任地に到着する前に逝去したという。つまり、最終的に王允之は會稽内史を受け入れたということである。

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 これだけを見ると王舒父子がワガママを言っているように思えるが、実際は王舒や王允之が改選を希望しているのは正当な権利であったらしい。巻56、江統伝に次のような記事がある。

選司以統叔父春為宜春令、統因上疏曰、「故事、父祖与官職同名、皆得改選、而未有身与官職同名、不在改選之例。臣以為父祖改選者、蓋為臣子開地、不為父祖之身也。而身名所加、亦施於臣子。佐吏係属、朝夕従事、官位之号、発言所称、若指実而語、則違経礼諱尊之義、若詭辞避迴、則為廃官擅犯憲制。今以四海之広、職位之衆、名号繁多、士人殷富、至使有受寵皇朝、出身宰牧、而令佐吏不得表其官称、子孫不得言其位号、所以上厳君父、下為臣子、体例不通。若易私名以避官職、則違春秋不奪人親之義。臣以為身名与官職同者、宜与触父祖名為比、体例既全、於義為弘」。朝廷従之。

選司が江統の叔父の江春を宜春令とすると、江統は上疏して言った、「故事では、父祖の名と官職の名が同じである場合は、すべて改選が許されます。しかし、本人の名と官職の名が同じである場合〔に改選を許可したこと〕はこれまでなかったため、改選の事例に含まれていません。臣が考えますに、父祖と同名であるから改選するのは、臣子として土地を開拓するためであって、父祖のためではないと思われます。ところが、〔父祖の名を避けた官職を授けるさいに、〕自分の名が加わっている官職も臣子に授けています。佐吏や部下が終日のあいだ勤務するとき、〔府君の〕官職名は口に出してしまう言葉です。もし実際の官職名のとおりに言えば、尊貴をはばかるという礼典の義にもとってしまうことになりますし、言葉を変えて〔府君の名を〕避ければ、官を廃してほしいままに法制を犯してしまうことになります。いま、思いますに、四海は広大で、官職は数多く、名称は膨大におよび、士人は多数おります。〔士人のなかで〕恩恵を皇朝より授かり、宰牧(地方官の意)になった者がいたら、佐吏にその官名を呼ばせず、子孫にその官号を言わせないことになってしまいます。〔このように、本人と同名の官職を授けるというのは、〕上は君父を尊び、下は臣子であるという体例を通じなくさせているゆえんです。もし、私名を変えて官職名〔と同じになるの〕を避ければ、『人の親の名づけを奪わない』(穀梁伝・昭公七年)という春秋の義にそむいてしまいます。臣が考えますに、本人の名と官職の名が同じである場合は、〔官職名が〕父祖の名に抵触してしまっている場合と同例とするのがよいと存じます。そうすれば、体例が完全になり、義において広大となることでしょう」。朝廷はこれを聴き入れた。

 読みにくい記事で、かなり解釈を施してある。近日中に拙訳サイトで江統伝をアップする予定なので、解釈の詳細はそちらで参照してほしい。
 ここで確認しておきたいおおまかな文意は、「授けられた官職が父祖と同名であった場合、改選を許可されるという故事がある。しかし本人と同名であったケースについては故事のなかに含まれていない。本人と同名の場合も、父祖の場合と同様に扱い、改選を許可するのが理に適っている」というものである。 なおこの上疏は西晋の恵帝・元康七年ころのものである(『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議)。

 この記述により、王舒や王允之の要望は故事に沿ったものであることがわかるだろう。彼らがとりわけ家礼にこだわっていたからモンスターなクレームを出していたわけではないのである。
 もっとも、王舒父子に対する東晋朝廷の対応をみると、この「故事」が東晋でも継承されていたのかはやや疑わしくも思える。
 また江統は「故事」と言及しているので、これは規定のようなものというより慣例としておこなわれていた措置と言うべきだろう。康帝がハッキリさせるように命じているのも、法として明文化されていたわけではなかったからだと思われる。
 神矢法子氏によれば、漢魏の時代にはこのような措置は取られておらず、西晋になってからおこなわれるようになったのだという(神矢「晋時代における王法と家礼」、『東洋学報』60-1・2、1978年、24頁)。

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 さて、この問題はおそらくいろいろな角度から掘り下げることが可能だと思われるが、ここでは晋代における銓衡プロセスにしぼって考察を進めてみたい。
 まず参照したいのが巻106、石季龍載記上にみえる記述である。

季龍僭位之後、有所調用、皆選司擬官、経令僕而後奏行。不得其人、案以為令僕之負、尚書及郎不坐。至是、吏部尚書劉真以為失銓考之体而言之、季龍責怒主者、加真光禄大夫、金章紫綬。

石季龍が天王位を僭称して以後、調用する人材があるときには、すべて選司が擬官し、〔その案が〕尚書令と尚書僕射〔の承認〕を経てから〔石季龍に〕奏上し、施行された。〔しかし施行してみたところ、その官に〕適当な人物でなかった場合には、調べて(?)尚書令と尚書僕射の責任とし、吏部尚書と吏部曹の尚書郎は罪に問われなかった。このときになって、吏部尚書の劉真は、選挙の根本を失っていると考え、このことを上言した。石季龍は主者(選司=吏部曹)を叱責し、劉真に光禄大夫、金章紫綬をくわえた。

 これは後趙の選挙制であるものの、石勒や石虎は魏晋期の選挙制に範を取って制度構築しており、ここで言われている銓衡プロセスも晋代で取られていたものである可能性が高いと思われる。
 これによれば、吏部曹が銓衡案を作成し、その案が尚書令および僕射の承認を得られたら皇帝に奏上する、という手順をとる。
 拙訳サイトで「擬官」に付した注を引用してもう少し補足しておこう。

「擬官」は原文のまま。用例(といっても唐書だが)をみるかぎり、「その人物に適当な官職を挙げる」というニュアンスらしく思われる。陳の「用官式」では、まず吏部が叙任したい数十人の名を白牒に列記し、吏部尚書の承認と勅可を得られたら、今度は各人に適当な官を選定してそれを黄紙に記し、八坐の承認と奏可を得られたら施行、という手はずになっているが、この後半の黄紙あたりに相当する作業になるだろうか。王坦之伝には「僕射江虨領選、将擬為尚書郎。……虨遂止」という記述がみえるが、これは起家の例である。また山濤伝には「濤再居選職十有余年、毎一官缼、輒啓擬数人、詔旨有所向、然後顕奏、随帝意所欲為先」という記述もある。両方のケース、すなわち人事を施す人材をまず選考し、それから適当な官を選定するという場合と、官の欠員をうめるにふさわしい人材を選考するという場合と、どちらも最終的には黄紙に人名とその「擬官」を記すことになるのであろう。

 「用官式」については中村圭爾『六朝政治社会史研究』第六章が詳しい。
 上の注をじゃっかん訂正すると、山濤の場合、欠員が出たら適任の人材を数人みつくろって武帝に「啓」した、つまり私的に進言したものである。ゆえに、欠員が出たら人材をみつくろうという銓衡プロセスが吏部で一般的であったかは定かではない。あるいは、皇帝が補欠候補者を吏部に諮問し、それに応じて吏部が人材案を作成して奏し、勅可を仰ぐ、という手順だったのかもしれない。このあたり、今回は細かく詰めてもしかたがないのでこれくらいにしておく。

 さて、人事対象者の官職候補を選定するにも、官職の補欠者を決定するにも、どちらにせよ人材のプロフィールは吏部で精査するはずである。そのさい、父祖のキャリアもチェックされていた(川合安『南朝貴族制研究』第十章)。
 つまり、吏部は銓衡案を作成するにあたり、父祖の名を避けようと思えば避けれたはずである。現に川合氏は、吏部の銓衡時に姓譜が使用されていたと指摘し、その目的のひとつは父祖の諱を避けるためであったと述べている(同前、282頁)。避諱が強力なタブーとして機能していたのなら、銓衡時に父祖の諱を考慮するのは吏部の職務の一環とさえ言えるのだろう。
 しかし、現実には避けていないのではないか。だからこそ「故事」というものが存在するのだし、王舒父子のような問題が発生しているのである。
 避諱が銓衡時に考慮必須なタブーであったならば、こういう問題の発生は吏部の職務怠慢以外のなにものでもなく、叱責されねばならない過失に相当するはずだ。しかし、誰も吏部を責めていない。吏部の過失でこの問題が生じているとは誰も考えていないように思われるのである。
 はたして吏部は本当に父祖の名を配慮していたのであろうか。

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 いまいちど、江統伝の「故事」をよくみてほしい。「故事、父祖与官職同名、皆改選」。このうち、「皆改選」を私は「すべて改選が許されます」と訳した。
 読み過ぎになるかもしれないが、あくまで「得」であって、「必」や「当」でないことに注意を払いたい。父祖と同名であれば「改選しなければならない」「必ず改選する」「改選するべきである」とは言われていないのだ。「得」とは、改選の可能性を保証するという意味ではなかろうか。絶対に改選するわけではないが、改選希望の正当な理由として要望を受け入れる――こういう含意だと思われる。
 王舒のケースだと、朝廷の対応は明らかに小手先のもので、どうあっても改選するつもりがなかったようにみえる。ただ注意しなければならないのは、朝廷はいちおう、「父祖と同名になっている」という問題を解消するためにあれこれ処理しているところだ。「礼的に問題はない」との朝議や文字の改変などは、ようするに「王舒が嫌がっているような問題はこういうふうにすれば解決するよね?」と対応しているわけである。朝廷の姿勢はひじょうに不誠実にみえるものの、このことから考えれば、朝廷は官人の改選希望を無視することはできず、問題を解消するための努力義務を負っていたと言えよう。そして改選は、問題を解消するための手段(おそらく最終手段)のひとつにすぎなかったのではないだろうか。
 王允之の場合も、朝廷は詳議を開いて希望を通すことはできないとの結論を下しているので、やはり希望を無下にしているというわけではないと思われる。

 くわえて、王舒と王允之は改選希望を自己申告している。おそらく江統もそうである。逆に言えば、官人が申告しなければ問題は発生しない。ここからうかがうかぎり、官人は「嫌だったら言おう」、吏部ないし朝廷は「嫌だったら言っていいよ」というスタンスであったと思われる。つまり、吏部は父祖の名を配慮しない。官人もそれを理解していて、どうしても嫌な場合は申告の権利が保証されていたから改選希望を申請した。だから吏部の仕事に過失があるとは責めなかった。
 『梁書』巻25、徐勉伝にこのようにある(訳は川合氏前掲書、282頁)。

勉居選官、彝倫有序、既閑尺牘、兼善辞令、雖文案塡積、坐客充満、応対如流、手不停筆。又該綜百氏、皆為避諱。

徐勉は吏部尚書となって、一定の規則のもとに人事を行い、文書作成に習熟し、弁舌もたくみであったので、書類が積み重なり、順番待ちの客が満ち溢れても、応対は流れるようで、手も筆をやすめなかった。また百氏についての知識をそなえ、みなその父祖の諱を避けた。

 おそらくだが、避諱に配慮して官を選定できる吏部は有能な吏部とみなされていたのであろう。すなわち、一般的にはできなくてもよかったのではなかろうか。
 あるいは時代差もあるのかもしれない。東晋時代ではそれほど普及していたマナーではなかったが、時代が降るにつれ、常識のようなものになっていったという可能性も考慮できる。

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 以上をまとめると、

・吏部は銓衡時、父祖の名と官職の名が同じであるか否かには配慮しなかった。
・同名であるのが嫌な場合、官人は改選希望を自己申告することが許されていた。朝廷は、同名を理由とした官人の改選希望申請を官人の正当な権利として保証していた。
・しかし官人が申請したとしても、必ず改選されるとはかぎらなかった。朝廷はあくまで避諱の問題を解消すればよかったからであり、そのためならば改選でなくともよかったからである。
・朝廷は官人の申請を無下にできず、避諱問題を解消する努力義務を負っていた。

となる。やや強引な史料解釈もあるが、現状ではこういうふうに考えておきたい。
 なお六朝から唐宋にいたるまでの避諱の事例は趙翼『陔余叢考』巻31、避諱にいくつか挙げられている。この問題をとりあげた論考には野田俊昭「東晋時代における孝と行政」(『九州大学東洋史論集』32、2004年)もある。

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 ところで、この改選希望の故事をわかりやすく表現すると「改選の希望を申請してよい(改選するとは言っていない)」という構文になる。
 われわれには馴染みのある言語の使い方である。「社員は自由に有休を申請できます(無条件で承認するとは言っていない)」。まさにこれである。
 求人欄に「時給1100円」と書いてあったのに面接に行ったら「君は若いから1000円で大丈夫だ」と言われてしかたなくその条件で契約した。こういう経験は誰しももっているだろう。「時給1100円」という記載からは「(この条件で契約するとは言っていない)」という但し書きを読み取らねばならない。現代日本の労働者言語はハイコンテクストだと言われるゆえんであるが、晋代の官人、いや同志もなかなか大変だったようだ。
 とくに王舒の事例は同情ものだ。「申請していい」って言うからしたのにめんどくさそうに表面的な対応だけして「これでいいでしょ?」と言ってくるこの嫌な感じ。しぶしぶ赴任した王舒の気持ちが私にはよくわかる。

 康帝も注意が必要だ。彼の詔をあらためて引用しよう。「祖諱孰若君命之重邪」。私はこの文を「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか」と、疑問調で訳出した。『漢辞海』や『古代漢語虚詞詞典』で解説されているように、「孰若(いずレゾ)」は前の語句を否定して後ろの語句を肯定する比較の慣用句(AよりもBがよい)である。じつはこの文、『通典』の中華書局標点本は「邪」を反語で読んでいる。私は後文との兼ね合いもあって疑問のニュアンスで取ったものの、反語ふうに訳出してみたらこうなるだろう。「祖父の諱と君命、どちらが重要だというのか! 君命に決まっているだろう!」なんということだ。厚労省が定める「職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるもの」に明らかに抵触している。パワハラだ。
 しかもこの皇帝、康帝紀をみると礼を重んじた人物なのである。成帝崩御一周年を機に有司が喪の解除を要請すると「礼の軽減なんてとんでもない」と言っているのだ。そんなパーソナリティの皇帝でも「あれぇ~、家礼と君命、どっちが大事だったかなぁ~?」と言ってしまうのだから恐ろしい。さしづめ、社長は有休取りまくっているから自分だっていいだろうと思って申請してみたら露骨に嫌な顔をされてネチネチ言われる“例のアレ”といったところだ。

 まあ康帝には言いすぎたかもしれない。あまり真に受けないでください。


※有休だの時給だのの件はすべてフィクションです。現在勤務している会社で不利益な扱いを被ったことは一度もありません。