2026年7月25日土曜日

張軌伝の「受叔父錫官五品」について

 『晋書』張軌伝に次のような記述がある。

泰始初、受叔父錫官五品。

 さっぱり読めない。この文はいったいどういう意味なのか。本記事はこの文の読み方をめぐるちょっとしたメモである。

***
 和刻本と矢野主税『魏晋百官世系表』は「錫」字を人名と解している。確かにそう読めそうである。
 だが、「叔父の張錫の官五品を受ける」とは、それはそれでどういう意味なのか。その点に関する両者の理解のありかたはうかがえないのでわからない。

 そういうわけなので、筆者があれこれ推測しながら検証してみると、まずそもそも直感的に「官五品」というフレーズが不自然である。中央研究院の漢籍電子文献で「官○品」で検索してもらえるとわかるが、「京官五品以上」とか「文武官五品」とか「百官九品」とか、そんなふうな用例ばかりが検出される。まずこの時点で少し違和感を抱いてしまう。
 かりにこの違和感を措くとして、じゃあ「官五品」を「五品の官」と解釈するとしよう。例えば日本語版のWikiが「恩蔭(任子)制度により叔父から五品官(九品官人法による官職)を継承した」(2026/7/25閲覧)とするがごとくである。しかしこの解釈は明確に問題がある(じつは、ここの文を五品起家の意味で読もうとすると後文と食い違ってしまうので、その点でこの理解の仕方はそもそも論外なのだが、いまはこの点に関しては度外視しておく)。
 問題の文が要するに「張軌は任子によって五品の官を受け継いだ」という意味なのだとすると、それは張軌が五品で起家したということになるわけである。だが、五品で起家できるのは基本的に郷品一品、すなわち超名門の子弟のみである。いくらなんでも張軌が郷品一品であったわけがなく、五品官で起こったなどということはありえない。
 おまけに、張軌は255年生まれで、泰始(265年~)のはじめの時点では10代の前半であり、とても起家の年齢に達しているとは言いがたい。こうした点から考えて、「任子によって叔父の五品の官を受け継いだ」という読み方は疑問が大きいのである。

 それならば、「官五品」を「郷品五品」と読めばいいのではないか、と考えるであろう。しかし、個人的にこれまで史料を見てきたかぎり、現代のわれわれが言うところの「郷品」が「官○品」と書かれている例を私は知らない。基本的に「二品」とか「五品」とかいうふうに、端的に記すケースが多い印象である。いわゆる郷品は人物に付されている品級なのだから、それを指すのに「官」字を用いることがそもそもおかしいように思われる。
 そして郷品を受け継ぐことなどできるのであろうか……。門資とか任子とかはあるので、まったくないのではないのかもしれないが……。
 また、前述したように、張軌はこのとき10代前半であり、官僚生活をはじめる年齢には達していなかったように思われる。にも関わらず、郷品のみ受け継ぐというのもおかしな話に感じられる。

***
 以上をまとめていくと、「官五品」という言い方がなんかヘンだし、そもそもそれが何を意味しているのかも、官品だろうと郷品だろうとおかしいんじゃないか、ということになる。
 そこで私が考えるのは、「錫」を叔父の名と読むのではなく、「錫官五品」とひとまとまりに区切ってみてはどうか、という読み方である。
 といっても、「錫官」にはまったく用例がない。ので、ちょっとひねって「錫」を「賜」で読んでみてはどうか。じつに、「賜官」は零細ながら用例が存在するのである。

傅玄伝
玄復上疏曰、「……前皇甫陶上事、欲令賜拝散官皆課使親耕、天下享足食之利。……王人賜官、冗散無事者、不督使学、則当使耕、無縁放之使坐食百姓也。今文武之官既衆、而拝賜不在職者又多、……」。

良吏伝、鄧攸伝
攸七歳喪父、尋喪母及祖母、居喪九年、以孝致称。……少孤、与弟同居。初、祖父殷有賜官、勅攸受之。後太守勧攸去王官、欲挙為孝廉、攸曰、「先人所賜、不可改也」。

 とくに鄧攸伝を見ていこう(傅玄の上疏はいまいち読めないのでね)
 鄧攸伝によれば、鄧攸の祖父には「賜官」があり、鄧攸はそれを受けとった。この「賜官」は後文で「王官」とも呼ばれている。そしてこの「賜官」=「王官」に留まるかぎり、孝廉の推挙を受けることができなかったらしい。
 加えて興味深いのが、鄧攸がこのときに置かれていた境遇である。彼は幼くして両親と祖母を亡くした。おそらく祖父も故人であったのだろう。つまり、彼は幼少でありながら扶養者を亡くしてしまった。そうした彼の境遇を憐れんで、祖父の「賜官」を受けるよう命じられたのではないだろうか。つまり、ここで「賜官」は、生計能力を欠いた功労者の子孫の生活を保障するために、恩遇として受け継がれているのではないかと想像されるのである。
 前述で指摘したように、張軌も「錫官」を受けた時点では10代前半であった。ということは、彼が「錫官」すなわち「賜官」を受けたのも、鄧攸と同じような意味あいがあったのではないだろうか。

 さて、この「賜官」ないし「王官」に関して、傅玄の上疏は正確に読みかねるところがあるものの、いくぶん特徴をうかがえるような記述が見られる。つまり「王人賜官」のことを「賜拝散官」「冗散無事」「拝賜不在職」などとも呼称しており、「賜官」=「王官」には具体的な職務がなかったらしいのである。あるいは「賜官」は、後世の散官に相当する官全般を指しているのかもしれない。
 このように「賜官」は特定の職務がない官であったならば、さきほど「生活保障の意味があったのではないか」とする推測を補強してくれるであろう。いまだ職務に堪えない年齢でも問題はなく、かつ俸禄があり、税制もよくわからないけど何か特権とかあったのではないか。

 こうした手がかりをもとに推測を重ねてみよう。
 張軌の叔父や鄧攸の祖父は「賜官」を授けられていた。これは特定の職務がないけれども、彼らの生活を保障してくれる官で、思うに彼らの功労を嘉して一種の年金としてそのような官を賜わったのではないかと思われる。張軌の叔父の「賜官」は官品五品相当であったのだろう。
 さてしかし、そうした彼らの子孫は幼くして扶養者を亡くしてしまい、生計に支障が生じてしまった。そこで朝廷は、かつて二人の先輩に授けた「賜官」を、恩遇としてその子孫にも受け継がせ、生活を保護したのではないだろうか。
 張軌や鄧攸は、「賜官」を受け継いだといっても、上記のような経緯により生活を保障するための恩遇として授けられたものであって、官界における地位・身分を表示するものではなかったはずであり、当然、起家とも別であったにちがいない。現に張軌はのちに別の官職で起家しており、幼少期における「賜官」継受は起家と見なされていない。こうしたあたりの事情が、王官から去らなければ孝廉に推挙できない、ということに何らかの影響を与えているのかもしれないが、この点はよく明らかにできない。

***
 以上より、張軌伝の当該の記述は次のような事情を述べたものであったと解釈しておきたい。

泰始のはじめ、孤独となった張軌は、かつて叔父に授けられた五品の賜官を受け継ぎ、生活を保護された。

 しかし、私は先行研究をまったく調べずにここまで推測してきたので、あるいは先行研究によってすでに詳しく考察されているのかもしれない。
 もしそういうものがあれば教えてくれると助かります……!

2025年12月29日月曜日

今年の振り返りと来年の抱負


今年に入ってから、晋書の翻訳をいったんまとめてみようかなと思うようになった。電子でも紙でも自費出版的な。いまのところKindleが有力候補。

それで、今年は「どうしてもこの列伝は訳出しておかないと!」と思っているものに優先的に取りかかり、今年いっぱいで訳せたものでひと区切り。年が明けてからは訳稿を見直していって26年中に自費出版できるようにしよう、と目論んでいたのであった。

今年中に更新したい ・帝紀=読み直し(廃帝まで済) ・列伝=愍懐太子、巻61はマスト。可能なら傅咸、閻纘、潘岳、陸機・陸雲、周処、史家列伝。 さすがに全部は難しそうかな😢 この一年で更新できた分で何らか形にまとめてみたい

↑そういう意気込みを語っていた時期

そういう計画を立てていたのだが、なかなかうまくいかなかった。
なので、年内という自己設定した締め切りは少し延ばして、残り巻82(史官の伝)、周処伝、劉弘伝、陸機・陸雲伝を訳し終えてから自費出版に取り掛かることにした。夏くらいに訳し終わりそうだな…。

計画どおりに進められなかったのにはいくつか理由がある。

まず原稿の仕事が入った。
こんな自分に声がかかるなんてありがたい話。たぶん来年3月くらいに出版になるのかな。ちょっとした小文です。
編集上の連絡がうまくいってないかもしれないので、自分の校正が反映されないまま刊行されるのではないかとドキドキしている。

これの執筆に当たって、ちょっと必要そうだと思ったので社会科学の方法論の議論や統計学を勉強した。統計学は想像していた以上に職人芸だったし、教科書ですら難しすぎて読むのがきつかった…。統計学の教科書とはちょっと違うけど、久米郁男『原因を推論する』林岳彦『はじめての統計的因果推論』大塚淳『統計学を哲学する』は自分にはかなりわかりやすくて、これらがよい助けになった。ありがとうございました。
ともあれ、これの勉強にまあまあ時間を要したのがひとつ。

次に、今年度から職場の労働組合の委員長に就いた。これがなかなか大変だった。
うーん、なんというかまあ、うーん……。なんだかんだみんないい大人なんだし、必要な場面では責任感をもって動いたり意見を出したりするもんだろうって思ってたんだけど、そうではなかったという失望感というか悲しみというか。

やってよかったって思えた事案もあったのだが、全体を通して言えばかなり疲弊した。急な事案が入った場合、どういうふうに組合を動かしていくのかっていうのは前例のない話なわけだからイチからプランを練らないといけないし、そのために組合員にどういうふうに訴えかけるのかとかそういう理屈の部分を考えておかないといけないし、会社の歴史や法律的な知識とかも調べないといけないし、説明用に資料も作ったりしないといけないし、会社にはどういうふうに当たろうかとか考えておかないといけないし、それに自分が委員長だとはいえ、他の役員からも意見を吸い上げながらやらないとたんなる独裁になっちゃうからそこらへんも気を配らないといけないし。まあ、やっぱりちょっと疲れた。

ぜんぶ自分でやるのではなく、うまく他人に頼らないといけないってのはわかってるし、積極的に頼ってるんだけど、その他人に頼るのさえ、「どういうふうに切り出して頼もうか」って考え込んで悩んじゃうからストレスかかる。自分から委員長をやるって就いたからある程度は仕方ないと思ってるし、そういう覚悟を決めているつもりでいるので、そういうことは組合内にこぼさないようにしているし、そういう姿勢も見せないようにしているが。
ストレスのあまり、リアルの先輩方や先生方に盛大に愚痴をぶちまけてしまっていて大変申しわけなく思っております…。

とはいえ、よい経験になっているのは確か。特に労働法の勉強はしてよかった。来年以降も継続して勉強しようかなと考えています。

そんなこんなで、今年度は組合の業務に時間と労力を割かざるをえず、晋書の計画に支障が出てしまった。

あとはちょっとゲーム(エルデンリング ナイトレイン)をやりすぎたね。
組合が~とかわめいておきながら500時間超ゲームしてるからね。我ながら「がっつりゲームやってるやんけ」ってつっこんでしまうわ。




組合は幸い、今年度で委員長は終わり。年度内に残された業務も今月でほぼ片づいたし、年明けからはけっこう軽くなるかなと思う。
ナイトレインはまだまだぜんぜん飽きないので、そこはちょっと理性と相談しないといけないが、とりあえず年が明けてからは晋書のほうにより力を割くように努めて、自費出版に向かっていきたいですね。来年の目標はそんなところ。
というわけで、今年もありがとうございました。

2025年3月27日木曜日

翻訳を出しました

 拙訳が公刊されました。
王明珂・著/長谷川大和・訳「「民族」の建設は容易だが、「市民」の創造は困難である――辺境をどのように見て、いかに理解するか」、『史滴』第46号、2024年12月、pp. 104-140

 




 原著論文は王明珂「建”民族”易、造”国民”易――如何観看与了解辺疆」(『文化縦横』2014-3、北京、pp. 20-30)です。文化縦横のHPで全文が公開されていますので、関心のある方はそちらで原文をご確認してみてください。
 この論文はのちに同氏『華夏辺縁――歴史記憶与族群認同』(上海人民出版社、2020年)に「代序」と改題のうえ収録されています。

 拙訳は数年後にPDFがフリーで公開されるようですが、現在は紙でしか閲覧できません。
 もしご所望の方がいらっしゃいましたら紙の抜き刷りを郵送で贈呈しますので、何らかの形でご連絡いただければと思います。

 数年前に論文を書いたときと同じく、今回も仕事と両立して時間を確保するのにやはり難儀してしまいました。正直、ちょっと厳しいですね……。

 それはともあれとして、今回の翻訳は誤訳・誤解は含まれているとは思いますけど、やれるだけのことはやれたし、言いたいことは全部書けたので、その意味ですっごいスッキリしていて何の悔いもありません。間違っているところは自分の限界です。

 ご興味ある方は読んでみてください。