だが載記などを読んでみると、ちょくちょく石氏が出てきてるじゃん?ってなるじゃん? そこでね、今回は石勒時代の石氏たちの素性を詳しく調べてみた。これで石勒ファミリーの全貌がわかるね!
石虎
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石虎字季龍、勒之従子。勒父朱幼而子之、故或謂之為勒弟。晋永興中、与勒相之[1]。嘉平元年、劉琨送勒母王及虎于葛陂、時年十七。『世説新語』言語篇注引『趙書』[2]
石虎は字を季龍といい、石勒の従子である。石勒の父の周葛朱が幼少の石虎を子として養ったので、石勒の弟とも言われることがある。晋の永興年間、石勒と生き別れた。嘉平元年、劉琨が石勒の母の王氏と石虎を(石勒の駐留していた)葛阪に送った。そのとき、石虎は十七歳であった。
虎字季龍、勒従弟也。敦煌発見「晋史」残巻[3]
従子虎。「従弟」か「従子」かで記述に多少の違いがある。「従弟」とはおそらく、父方の兄弟の子でありかつ石勒より年少、ということであろう。石勒の父親がわざわざ引き取って育て、石勒の弟のようにしたというのもそれならうなずける。他方、「従子」とは父方・母方の兄弟姉妹の子を言うこともあるそうだ(『漢辞海』)。
石会
『晋書』巻104石勒載記上
時胡部大張〔勹+背〕督・馮莫突等擁衆数千、壁于上党、・・・勒於是命〔勹+背〕督為兄、賜姓石氏、名之曰会、言其遇己也。石勒が劉淵に帰順する直前のこと、石勒は上党にいた「胡部大」の張らを説得した、「オレはすごいから、オレに従え」。こうして張らは石勒の指揮下に入り、石勒はこの手勢を引き連れて劉淵のところへ行ったのだという。で、このときに「胡部大」の張に石氏を賜い、「オレと会ったのも運命なんやで」という意味で「会」の名を授け、石勒の兄弟としたのだそうだ。「胡部大」は詳しくわからんが、まあ胡族の親分とかそんなもんでしょう。唐長孺氏だったかは忘れたが、誰かが「烏丸には張姓が多い」とかいうことで、この胡部大の張は烏丸であろうとか推測していた気がする。記憶違いかもしれんが。
ときに、胡部大の張〔勹+背〕督や馮莫突らが数千の衆を擁して、上党に自衛拠点を築いた。・・・(ここにやって来た石勒は張〔勹+背〕督らを自分に従うよう説得し、成功すると、)石勒はこうして張〔勹+背〕督を兄(?)とし、石氏を賜い、「会」と名付けた。「石勒と出会った」ことを意味している。
石生
『太平御覧』巻326所引『二石偽事』[4]
劉曜躬領将士二十七万、大挙征勒、勒養子生為衛将軍、領三千人、鎮洛金墉城。敦煌発見「晋史」残巻
劉曜はみずから将兵二十七万を統率し、全軍挙げて石勒を討とうとした。石勒は養子の石生を衛将軍とし、三千人を統率させて、洛陽の金墉城に駐屯させた。
晋人則程遐・徐光・朱表・韓攬・郭敬・石生・劉徴、旧族見用者河東裴憲・穎川荀綽・北地傅暢・京兆杜憲・楽安任播・清河崔淵。興味深い事例。『二石偽事』によると養子として見えている。石勒載記・下などでも、石生は劉曜攻撃の先鋒に立ち、洛陽金墉城に駐留しているので、『二石偽事』の「養子生」は他書に見える石生と同一人物と考えてよいだろう。さらに敦煌「晋史」残巻には登用された「晋人」の一人に「石生」の名が挙がっているが、もしこの「石生」が「養子の石生」と同一であったとすれば、石生は石勒の養子となった晋人であることになる。なんとまあ!(ちなみに「晋史」残巻に挙がっている晋人のなかには有名人もいますね。石氏の外戚となる程遐、石勒の懐刀であり牛医の家から出た徐光、若き日の石勒を評価し援助していた郭敬、おそらく十八騎の一人で曹嶷を滅ぼしたあとに青州刺史として活躍した劉徴、などなど)。
また、『晋書』巻105石勒載記・下・附石弘載記に、石勒没後のこと、石虎が政権を握る中途におけることとして、
時石生鎮関中、石朗鎮洛陽、皆起兵於二鎮。とか、『宋書』巻24天文志二には、
当時、石生は関中に出鎮し、石朗は洛陽に出鎮していたが、両者とも各鎮所で挙兵した。
其年七月、石勒死、彭彪以譙、石生以長安、郭権以秦州、並帰従。於是遣督護高球率衆救彪、彪敗救退。又石虎、石斌攻滅生、権。とある。石勒晩年から石弘時期にかけての石虎が権力を手中にする時期においては、石生は長安に出鎮しており、石虎に対し反発の挙兵を実行している。出鎮ということはその周辺地域に関する大権を有していたのだろう、養子とはいえそれなりの権力を委託されていたようだ。なお、洛陽にいたという石朗は素性不明。
咸和八年の七月、石勒が死ぬと、彭彪が譙で、石生が長安で、郭権が秦州で、みな(東晋に)帰順した。こうして、(晋の朝廷は)督護の高救に軍を統率させて派遣し、彭彪を救援しようとしたが、彭彪は(石虎に)敗れたたため、高救も退却した。また石虎、(虎の子の)石斌が石生と郭権を攻め滅ぼした。
石聡
『晋書』巻63李矩伝
石勒遣其養子悤襲默。この記事、石勒載記・下は「石聡」に作っている。まあ通じる字なので、同一人物と見なしてよろしかろう。ということで、石聡は養子。
石勒は養子の悤を派遣して郭黙を襲撃させた。
石聡も石生同様、石虎に反発したらしい。『晋書』巻7成帝紀・咸和八年(西暦333年)七月の条に、
石勒死、子弘嗣偽位、其将石聡以譙来降。とあり、同様の記事は『晋書』巻78孔愉伝附坦伝にも、
石勒が死に、子の弘があとを継いだ。後趙の将軍の石聡は譙を挙げて(晋に)来降した。
咸康元年、石聡寇歴陽、王導為大司馬、討之、請坦為司馬。会石勒新死、季龍専恣、石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。とある。前掲の史料に見えていた譙の彭彪も登場している。石聡も譙で降ったという先の『晋書』成帝紀の記事も重視すれば・・・譙の太守は彭彪だけども、石聡は譙に出鎮していたのかもしれないね。
咸康元年(335年)、石聡が歴陽を侵略してきたので、王導を大司馬とし、討伐させることにした。王導は孔坦を司馬にしたいと要請した。たまたま石勒が死に、石虎が横暴に振るまったので、石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。
だがしかし、この二つの史料、おかしいと思いませんか? 年代合ってないじゃん・・・っていう。成帝紀によれば、石聡は咸和八年に降っているのに、孔坦伝では咸康元年に攻めてきて、そんときに降ったことになっている。咸康元年の攻撃は成帝紀にも記事があるが、そこでは石虎が攻めて来た、とあるのみ。また、当時歴陽太守であった袁耽の伝には、「咸康年間の初め、石虎が游騎十余を率いて歴陽に来た。袁耽はそのことを上奏して報告したが、騎馬が少ないことは言わなかった。当時、夷狄の侵略が激しく、朝廷も原野も危惧していたので、王導は宰相の重責をになうゆえにみずから討伐したいと願い出た(咸康初、石季龍游騎十余匹至歴陽、耽上列不言騎少。時胡寇強盛、朝野危懼、王導以宰輔之重請自討之)」とある(『晋書』巻83袁瓌伝附耽伝)。ほんとうに石聡が攻めて来たんだろうか? 石聡は咸康元年より前に降ったんじゃないだろうか? よくよく見れば、『宋書』天文志二の記事でも、彭彪は咸和八年に降ったことになっているじゃん、石聡も同時期に降ったんじゃねーの? 孔坦伝の記事うそくさくねーか?
なんでこんなにこだわるかというと、じつはかなり重要な史料が『晋書』孔坦伝に掲載されているからだ。孔坦が石聡に送ったという書簡である。
石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。坦与聡書曰、「・・・将軍出自名族、誕育洪冑。遭世多故、国傾家覆、生離親属、仮養異類。雖逼偽寵、将亦何頼。聞之者猶或有悼、況身嬰之、能不憤慨哉。非我族類、其心必異、誠反族帰正之秋、図義建功之日也。・・・」。このあとも孔坦は、「石聡よ、オレたちに味方しろ」「これから水陸一斉に北上すんぜ」などと述べている。なので、咸康元年の王導による撃退計画が立てられていたらしい様子がうかがえる。
石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。孔坦は石聡に書簡を送った。「・・・将軍は名族の出身でございまして、立派な家にてお育ちになられました。不運なことに、非常な時期に遭われまして、国は傾き、家は転覆し、親族とは生き別れ、一時的に異民族に養われたそうですね。(現在、将軍は)夷狄の恩寵に促されて(後趙に仕えて)いるとはいえ、どうしてやつらの恩寵が頼りになりましょうか。(将軍のような過去を)聞いただけの者でもいたましく思うもの、ましてやご自分の身に降りかかったことでありますれば、憤慨せずにおられましょうや。『我が族類でなければ、その心は必ず異なる』(『左伝』成公四年)と言われておりますが、まこと、(いまこそ)本来の族に戻り、正しきところに帰るべきときであり、義のために功績を打ち立てるべき日なのです。・・・」。
それにしても興味深い書簡じゃないですか。石聡が名族かどうかは世辞の可能性もあるので知らんが、もともとは晋人であったことが明記されてるやん! すげええええええ! ともろ手を挙げたいけれども、先に述べたように、そもそも石聡は咸康元年に降ったのだろうか? もしそうではなく、それ以前の咸和八年に降ったいたとすれば、この書簡も含む孔坦伝の記事はウソだらけっていうことになる。妙に生々しい書簡だから信じたいのだけど・・・あああああああああああああ
強いて不思議なのが、この孔坦の書簡は降ってくる石聡に宛てたものというより、まだ後趙にいる石聡に離叛を促しているように読めるんだよね。咸和八年に降ると言っておきながら、行動には移さず、譙にずっと留まったまま晋の言うことを聞いていなかった、とかそういう感じだろうか。わからないねえ・・・。
石聡だけ長くなってしまったが、結論としては、彼は石勒の養子であるということだけは確実なんだろう[追記1]。
石肇
『太平御覧』巻499所引『趙書』(おそらく田融『趙書』)
石肇、前石之昆弟也。前石既貴、肇在軍中不能自達、人送詣前石、前石哀之、拝建威将軍。以肇無才力、毎高選参佐輔之。為娉広川劉典兄女、肇甚懼之。拝長楽太守、治官、毎入門、動称「阿劉、教可爾、不可爾」、時人以為嗤謡。石肇の記述はこれだけ。載記にも登場しない。こんなんじゃ登場せんわな・・・。
石肇は石勒の兄弟である。石勒が高貴になったあと、石肇は軍中において自力で動くことができず、石勒のもとまで人に送ってきてもらった。石勒は哀れんで、建威将軍を授けた。石肇は才能も武力もからきしなので、(石勒は)いつも有能な輔佐を選んで助けさせた。(また石勒は)石肇のために広川の劉典の兄の娘を嫁に取ったが、石肇は恐れおののくだけであった。長楽太守に任じられた。公務をこなしているときは、(役所の?)門に入るたび、いつも「劉や劉や、これでいいのか、よくないのか、教えておくれ」と言っていた。当時の人々はこれを笑い話とした。
石挺
敦煌発見「晋史」残巻
従弟挺。『晋書』載記にもしばしば登場する石挺は従弟である可能性がある[追記2]。
石樸
『晋書』巻33石苞伝附樸伝
苞曾孫樸字玄真、為人謹厚、無他材芸、没於胡。石勒以与樸同姓、倶出河北、引樸為宗室、特加優寵、位至司徒。石苞は西晋時代の人。金持ちで有名だね。それにしても石勒の思考単純すぎだろ・・・。
石苞の曾孫の樸は字を玄真という。人となりは慎み深く、温厚であったが、ほかに才能はなかった。夷狄の支配におちいった。石勒は石樸と同姓であり、ともに河北出身であることから、樸を招きよせて宗室とし、特別に恩寵を加えた。司徒にまで至った。
石瞻
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石閔字永曽、虎之養孫也。父瞻字弘武、本姓冉、名良、魏郡内黄人也。・・・勒破陳午於河内、獲贍、時年十二。・・・勒奇之曰、「此児壮健可嘉」。命虎子之。ご存じ冉閔の父親。石勒ではなく石虎の養子だが、まあ同じようなもんでしょ、石勒の命令だしね。石瞻は劉曜との最終決戦の際に戦死したようである(『晋書』巻103劉曜載記)。
石閔は字を永曽といい、石虎の養孫〔養子の子〕である。父の瞻は字を弘武という。もとの姓は冉、名は良といい、魏郡内黄の人である。・・・石勒が乞活の陳午を河内で破ったとき、石瞻を捕えた。当時、石瞻は十二歳であった。・・・石勒は石贍を高く評価し、「この子は壮健で見どころがある」と言い、石虎に子とするよう命じた。
石瞻はもとの名が「良」であったためか、「石良」と記述されることもあったらしい。例えば『晋書』巻6明帝紀・太寧三年の条「石勒将石良寇兗州、刺史檀贇力戦、死之」は、石勒載記・下では「石瞻攻陷晋兗州刺史檀斌于鄒山、斌死之」と記されている。
ほか、石弘、石宏、石恢が石勒の子っぽい。石斌は石勒の子なのか石虎の子なのか不明確でよくわからない(wikiによると、石勒の子で石虎の養子になったらしいが)。素性が不明なのは石泰、石同、石謙、石堪、石他。石泰、石同、石謙は一度しか出てこないのでさっぱり。石他は途中で登場しなくなり、手がかりがない(太寧三年に劉曜軍と戦闘により戦死。『晋書』劉曜載記、『資治通鑑』巻93太寧三年の条)。石堪は石勒没後、石虎に反発して殺害される。数年前のわたしのメモには「義兄弟か養子」とあるのだが、何を根拠にしているのか自分でもわからない・・・[5][追記3]。
ということでね、わたしの感覚では石勒時代の石姓は擬似血縁者が多いと思う。わたしのピックアップの仕方が恣意的だと思う方もおられようが、仮にそうであったとしても、「匈奴」劉氏や巴氐李氏と比べると、異様なくらいに疑似血縁者が目立つはずだ。だって劉氏や李氏にそんな人たちがここまで見られただろうか?
単に疑似血縁者に過ぎないと軽視できないのがミソである。石樸伝にあるように、彼らもみな「宗室」扱い。石生のように出鎮という大権を委ねられることさえあった。石勒は勢力形成・拡大する過程において、晋人などをみずからの宗室扱いとしながら血縁集団を創出したわけで、彼らを中核とした集団形成を企図していたのであろう。石勒が劉曜から独立する際に述べたと言う次の言葉も、かかる文脈から理解すべきかもしれない。
孤兄弟之奉劉家、於人臣之道過矣。若微孤兄弟、豈能南面称朕哉。(『晋書』石勒載記・下)最初にこれを読んだとき、えっ、おまえ言うほど兄弟いたっけ? って思ったんだけど、たぶん義兄弟・養子も含めた疑似血縁者のことを言ってたんだろうね[6]。こういう兄弟関係の原理って種族的・習俗的特徴なのだろうか[7]。あんまりよく知りませんが。そう言えば、唐後半期からの藩鎮の時代では、節度使と幕府官との仮父子関係が人間関係の原理として特徴的だと、どこかで聞いたことがある。そんで藩鎮といえば、やはりソグド系などの中央アジア諸族、北方諸族の人々が多く混じっていたことが近年指摘されている。なんか突っついてみると面白そうね。
孤(わたし)の兄弟が劉家に奉仕すること、人臣の道を過ぎるほどであった。もし孤の兄弟がいなければ、どうして南面して朕と称せただろうか。
附言すれば、この「兄弟」の原理、石勒集団内部だけでなく、外部集団と関係を結ぶときにも持ち出されたらしい。
『魏書』巻1序紀・平文帝三年の条
石勒自称趙王、遣使乞和、請為兄弟。帝斬其使以絶之。『晋書』石勒載記・上
石勒が趙王を自称すると、使者を派遣して(拓跋氏と)和解を求め、兄弟の関係になるよう願い出た。平文帝はその使者を斬って絶交した。
遣石季龍盟就六眷于渚陽、結為兄弟。せっかく父ちゃんが「兄弟になろう」と言っているのに、あろうことかそれを拒絶した拓跋氏はアホとしか言いようがない。拓跋氏は永遠に許されない。やつらを許すな!
(石勒は)石虎を派遣して、段就六眷と渚陽で盟約を結ばせ、兄弟とさせた。
――注――
[1]『晋書』巻106石季龍載記・上は「之」を「失」に作る。『十六国春秋』だと、「永興年間に石勒と知り合った」。載記なら「永興年間に石勒と生き別れた」。まあ載記のが妥当かなあ。ということで、「失」に字を改めて翻訳しました。[上に戻る]
[2]『趙書』は①前燕・田融撰と、②呉篤撰の二種あることが知られているが、多くは①を指す。『隋書』巻33経籍志二に「『趙書』十巻 一曰『二石集』、記石勒事。偽燕太傅長史田融撰」とある。[上に戻る]
[3]羅振玉『鳴沙石室佚書正続編』(北京図書館出版社、2004年)所収。20世紀初頭に敦煌で発見された写本。書名は無いが、東晋・元帝期の記事が編年体で記されており、羅振玉氏は東晋・鄧粲『晋紀』の写本と推定した。これに対し、周一良氏は鄧粲『晋紀』ではなく、東晋・孫盛『晋陽秋』であるとしている。周一良「乞活考――西晋東晋間流民史之一頁」(『周一良集』第壱巻、魏晋南北朝史論、遼寧教育出版社、1998年)参照。
近年、岩本篤志氏がこの残巻を詳細に検討し、①唐修『晋書』よりは古いが、『資治通鑑』には影響を与えておらず、北宋期には散佚していた可能性がある、②『晋陽秋』である可能性を退けることはできないが、別の晋史である可能性が高い、などと述べておられる。岩本「敦煌・吐魯番発見「晋史」写本残巻考――『晋陽秋』と唐修『晋書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』2、2005年)。なお同論文には、岩本氏が校訂した敦煌発見「晋史」残巻のテキストも掲載されているので、参照されたい。[上に戻る]
[4]『隋書』巻33経籍志二に「『二石偽治時事』二巻 王度撰」とあり、『旧唐書』巻46経籍志・上には「『二石偽事』六巻 王度・隋翽等撰」とある。『隋書』によると、王度は「晋北中郎参軍」で、『二石伝』(二巻)という書物も編纂している。『史通』巻12古今正史には、「その後、前燕の太傅長史の田融、宋の尚書庫部郎の郭仲産、北中郎参軍の王度が二石〔石勒と石虎のこと。石勒を「前石」、石虎を「後石」とも言う〕の事跡を記述し、編集して『鄴都記』『趙記』などの書物を作った(其後燕太傅長史田融・宋尚書庫部郎郭仲産・北中郎参軍王度撰二石事、集為鄴都記・趙記等書)」と、後趙関連の史書を記述した人物として名が見えている。『晋書』巻95芸術伝・仏図澄伝だと、「著作郎王度」が石虎期の記事に見えており、このことから内田吟風氏は、王度は当初は後趙に仕えていたが、のちに東晋に降ったのだろうと推測している。隋翽については全くの不明。内田「五胡時代匈奴系諸国史の編纂とその遺文」(『龍谷史壇』79、1981年)参照。[上に戻る]
[5]wikiでも旧姓は田で、石勒の養子とある。少し調べてみたところ、『十六国春秋』にそのような記述があるらしい。が、わたしの持っている『十六国春秋輯補』および『十六国春秋纂録校本』にはかかる記述は見られなかった。『十六国春秋』はややこしい本で、北魏の崔鴻によって編纂された編年体の史書(記録により異同があるが、おおよそ百巻前後)なのだが、北宋~南宋くらいにいったん散佚し、明代に復元が試みられた(屠喬孫本)。ただこの屠本は現在ではあまり使われない。現在おもに使用されているのは、清の湯球が当時流伝していた『十六国春秋纂録』(十六巻。屠本より以前に成立していたらしいが、どういう経緯で編纂されたのかは全く不明。『隋書』経籍志に記載のある『(十六国春秋)纂録』のことだとか、後人が百巻本をコンパクトにしたものとか、載記をまとめただけだとか言われているが、詳しくはわからんらしい。孫啓治ら編『古佚書輯本目録 附考證』中華書局、1997年、p. 161参照。)を校訂した『十六国春秋纂録校本』、『纂録』をベースにしつつ、『十六国春秋』の佚文や『晋書』載記などで大幅に記述を補った『十六国春秋輯補』、の二つである。わたしが見落とした可能性もあるが、この二つでは石堪に関する記述を見つけることができなかった。屠本に書いてあるのだろうか? 今後機会があったら調べます。→[追記3]を参照。[上に戻る]
[6]あるいは、これまで一緒に苦楽をともにしてきた仲間たち全員のことを「兄弟」と言っているのだろうか。だとしたら石勒父ちゃんマジあったけえ・・・。[上に戻る]
[7]石氏はソグド(石国=タシュケント)出身のソグド人とする説もあったりする(譚其驤氏の論文、題名は忘れた。。ほか羯族にかんしては内田吟風氏など多くの先行研究がある)。たしかに「深目」などの身体的特徴は中央アジア種族と似ているのだけども、ソグド人と見てしまうよりも、中央アジア系との混血種族と見たほうが無難であるらしい(町田隆吉「西晋時代の羯族とその社会」、『史境』4、1982年。三﨑良章『五胡十六国』東方書店、2002年、p. 62)。あんまり羯族に関してはわたしも詳しく調べてないので、こんなことぐらいしか知らないです。[上に戻る]
[追記1]記事をアップした後、『資治通鑑』をめくっていたら、石勒の死没直後の咸和八年七月の条に「後趙の将軍の石聡と譙郡太守の彭彪が、それぞれ(晋に)使者を派遣して降服した。〔胡注:石聡はこのとき譙城に出鎮していたのである〕。石聡はもともと晋人であるが、姓を石氏に変えたのである。晋朝廷は督護の喬球を派遣して救援させようとしたが、到着しないうちに、石聡らは石虎に誅殺されてしまった(趙将石聡及譙郡太守彭彪、各遣使来降。〔聡時鎮譙城。〕聡本晋人、冒姓石氏。朝廷遣督護喬球救之、未至、聡等為虎所誅)」とあった。[上に戻る]
[追記2]『資治通鑑』巻95咸和八年の条の胡注に「挺、虎之子」とあったのを見落としていた。胡三省が何をもとに言っているのかは知らんが。[上に戻る]
[追記3]『資治通鑑』巻95咸和八年の条に「石堪はもともと田氏の子であったが、しばしば功績を立てたので、石勒は彼を養子とした(堪本田氏子、数有功、趙主勒養以為子)」とありました。申し訳ない、見落としていました。唐修『晋書』などには記載のない、『資治通鑑』だけの独自の五胡十六国情報はおおよそ『十六国春秋』が出典だと思われるので、『十六国春秋』に基づいて司馬光がかかる記述をした可能性が高いだろう。[上に戻る]
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