2013年12月3日火曜日

歴史の言語的想像力

要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
――H. White, Metahistory

「心に現われた考えを表現する」という言い方は、言葉で表現しようとするものが、ただ別の言語によってではあるが既に表現されている、そしてこの心に現われており、ただこの心的言語から話し言葉にそれを翻訳すればよい、と思わせる。しかし、「考えを言い表す云々」と我々が言うほとんどの場合に、それとは非常に違ったことが起こっている。ある言葉を模索している、といった場合に何が起きているかを考えてみたまえ。あれこれの語が浮かんでくる、私は拒否する、最後に一つの言葉が提案され、「これこそ私の意味したものだ」と言う具合だ。
――ウィトゲンシュタイン『青色本』


 歴史学における「想像力」を問題としたヘイドン・ホワイト。日本の学界では「物語(り)論」の祖のような扱いを受け、それなりに著名である。たしかに彼の名を一躍知らしめた著作Metahistoryにおいて、歴史著作を「筋立て」などの構造をもつ「物語(story)」と見なして分析する「形式論(Formalism)」を展開しているわけだが、その「物語」という表現にとらわれて彼の著作のポイントを見落としてはならない。
 だが、いずれにせよ、弁証法的な歴史説明は〔説明の対象性質に内在しているのではなく〕文脈のうちに展開されるのであり、ここで言う文脈とは、歴史の対象領域の型にかんする首尾一貫した観方、ぴったりしたイメージのことである。この文脈こそが個々の思考家が使用する表象概念に合理的な全体性をもたらす。この首尾一貫性と合理性こそ、歴史化の仕事に彼独自の文体的特徴を与えるのである。ここで問題となるのは、説明の首尾一貫性や合理性を支える要素を明らかにすることである。私のみるところ、本質的にそれらの要素は詩的なもの、とりわけ言語的なものであると思われる。
 歴史家は、表象や説明に利用する概念的道具を、歴史の対象領域の資料に適用するまえに、まず必ず歴史の対象領域をあらかじめ形象している。――換言すると、歴史家は心的に認識した対象によって歴史の対象領域を構築しているのだ。歴史家のこの詩的な活動は、言語的活動となんら変わらない。言語的活動は、ある領域が特定の領域として解釈されることに決定しているときになされる。すなわち、与えられた歴史の領域が解釈を受ける以前に、認識可能な形象が内包した場として、その領域はすでに解釈されていなければならない。ついで、領域にある形象は目・類・属・種として分類することが可能な現象だと見なされるようになる。ここからさらに、その形象は別の形象と関係づけられ、その関係づけの変化が「課題」を設定せしめ、その「課題」は叙述の筋や世界観の次元によってもたらされる「説明」によって解決されるのである。
   英語の拙訳でもうしわけないが、つまりは、歴史家の叙述に見られる説得力(首尾一貫性、合理性)は、あくまで説明がうまいかどうかといった言語的問題ですよということ(説得力はその説明の真偽に関係ない。ウソっぽい話でも論理的で合理的な筋を通すことはできるよね。例は挙げないけど想像はしてもらえると思う)。しかし、言語でいろいろ書く前に、歴史叙述の対象にしようとしている世界空間をすでに想像しているんじゃないか? ホワイトはそのように問う。あの出来事はこういう性質のものだ、一方であの出来事はさっきの出来事の付随的なやつだな、・・・云々。こうして様々な出来事が関係づけられ、歴史的な世界空間が頭のなかに創出される。ホワイトは、この記述前の作用を重視し、この作用を「想像力」とも「詩学」とも彼は呼ぶ。ミソとなるのは、記述に先行する作用でありながらも言語的な作用である、ということだろうか。
 要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
 ・・・過去に「実際にはなにが起こったのか」を形象するためには、歴史家はまずあらかじめ、文書に記録されたあらゆる出来事を、知識として認識可能な対象に形象しなければならない。この先行形象化活動は、詩的である。その活動が歴史家の歴史意識を未来予知的な歴史叙述に散りばめる限りで、または構造を構成する限りにおいて、すなわち「実際にはなにが起こったのか」を表象、説明する際に歴史家が用いる言語様式によって、構造がイメージづけされる限りにおいて、先行形象化活動は詩的なのである。
 現象は言語的に形象される。「~~は進歩と言うことができる」、「・・・は因果関係にあると言える」。ある現象の正しい言語表現はなにか、いや、ここで彼が述べているように、「その人にとって」適切と思える言語表現はなにか。まずはじめに、言語を使ってそのような想像がなされるのである(言語を抜きにした想像行為などありえない)。そのような意味で、まずなされるのは言語規則の構築なのだと彼は言う。現代のように先行研究のパラダイムにのっかっているとそんなことを意識することはまれだが、近代歴史学の祖たちをかえりみれば、たしかに彼らのやってきたことは言語表現の開発だと言ってもそれほどおかしくはない(六朝の「貴族」とかまさに)。歴史的な世界とは言語的に想像/創造されるのだ、端的に言うとそんな感じでしょうか。
 とまあ、これはわたしの拙い英語力と乏しい(英米)哲学の知識で読解したホワイトの主張なので、精確にはまちがっているかもしれません。ただ、今回わたしがこんなことを記事にしたのは、先日わたしが記事にしたテーマである「中国史学における文学性」を考えるうえで、多大な示唆を与えてくれると思うからです。

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