2013年10月20日日曜日

『宋書』百官志上訳注(3)――特進・将軍

 特進は前漢のときに置かれた官で、両漢と魏、晋では加官であり、車や服は本官(の規定)に従うものとされ、府吏や兵卒は置かれない。晋の恵帝の元康年間、特進の位〔朝位(=朝廷での席順)を指す。以下たんに「位」という場合は同じ〕を公の下、驃騎将軍の上に定めた。

 驃騎将軍は一人。漢の武帝の元狩二年、はじめて霍去病を驃騎将軍に登用した。西漢の制度では、大将軍、驃騎将軍の位は丞相の次であったに位置する[1]
 車騎将軍は一人。漢の文帝の元年、はじめて薄昭を車騎将軍に登用した。魚豢が言うには、「魏のときの車騎将軍は、都督となった場合、礼儀は四征将軍と同じになった。もし都督とならなければ、持節であったとしても、四征将軍に統属する。その場合、礼儀は前、後、左、右、雑号将軍と同じである。また散官として置かれてとくに職務がない場合は、逆に文官の規程に従うものとされ、位は三司の次となるに位置する」[2]。晋、宋の車騎将軍、衛将軍は、四征将軍の指揮下に置かれたことがなかった。
 衛将軍は一人。漢の文帝の元年、はじめて宋昌を衛将軍に登用した。この三号将軍の位は三司に次いだ〔三号将軍は驃騎、車騎、衛のこと? 驃騎は三司より上みたいな記述が見えていたが・・・〕。漢の章帝の建初三年、はじめて車騎将軍の馬防の位〔原文は「班」、班位のこと。班位は朝位に同じ〕を三司と同じにした。位が三司と同じとなったのは、これより始まったのである。漢末の奮威将軍、晋の江右将軍、輔国将軍はみな「大」を加えられると、礼遇は三司と同じとした〔原文「儀同三司」〕。江左以来、将軍で中軍将軍、鎮軍将軍、撫軍将軍、四鎮将軍以上、あるいは「大」を加えられた将軍、将軍以外の官で左右光禄大夫以上の官は、みな儀同三司となれるが、これら以下の官はなれなかった。

 持節都督は定員なし。前漢で使者を派遣したとき、はじめて(使者に)節を持たせた。光武帝の建武の初め、天下の四方を征伐したとき、はじめて臨時的に督軍御史を置いたが、征伐が終わると廃された。(後漢の)建安年間、魏武帝が丞相となると、はじめて大将軍を派遣して軍を監督させた。例えば建安二十一年に孫権を征伐して帰還した際、夏侯惇に二十六軍を監督させている。魏の文帝の黄初二年、はじめて都督諸州軍事を置き、(州都督は)刺史を兼任〔原文「領」〕することもあった。黄初三年、上軍大将軍の曹真が都督中外諸軍事、仮黄鉞となると、内外の諸軍(の全て)を統べた。明帝の太和四年、晋の宣帝が蜀を征伐したとき、大都督を加えられている。高貴郷公の正元二年、晋の文帝が都督中外諸軍事となり、ついで大都督が加えられた。
 晋のとき、都督諸軍事を一番上、監諸軍事をその下[3]、督諸軍事をさらにその下とした。(また)使持節を一番上、持節をその下、仮節をさらにその下とした。使持節は二千石以下を誅殺可能で、持節は官や位がない者を誅殺できるが、軍事の際ならば使持節と同じである。仮節は軍事の際に軍令に違反した者を誅殺できる。晋の江左以来、都督中外諸軍事がとりわけ重職で、王導だけがこれに就任した。宋氏の人臣では(都督中外諸軍事に就いた者は)いない。江夏王義恭は仮黄鉞になっている。仮黄鉞とは、指揮下の将軍を自由に誅殺することができるもので、人臣の通常の待遇ではない。

 征東将軍は一人。漢の献帝の初平三年、馬騰がこれに就いている。征南将軍は一人。漢の光武帝の建武年間、岑彭がこれに就いている。征西将軍は一人。漢の光武帝の建武年間、馮異がこれに就いている。征北将軍は一人[4]。魚豢が言うに、「四征将軍は魏武帝が置いた。秩は二千石。黄初年間、位は三公に次いだに位置した。漢の旧制では、諸征将軍は偏将軍、裨将軍、雑号将軍と同等であった」[5]
 鎮東将軍は一人。後漢末に魏武帝がこれに就いている。鎮南将軍は一人。後漢末に劉表がこれに就いている。鎮西将軍は一人。後漢の初平三年に韓遂がこれに就いている。鎮北将軍は一人[6]
 中軍将軍は一人。漢の武帝が公孫敖をこれに任命したが、当時では雑号将軍である。鎮軍将軍は一人。魏の陳群がこれに就いている。撫軍将軍は一人。魏は司馬宣王をこれに任命した。中軍、鎮軍、撫軍の三将軍は四鎮将軍と同等であった。
 安東将軍は一人。後漢末に陶謙がこれに就いている。安南将軍は一人[7]。安西将軍は一人。後漢末に段煨がこれに就いている。安北将軍は一人[8]。魚豢が言うに、「鎮北将軍、四安将軍は魏の黄初年間、太和年間に置かれた」。
 平東将軍は一人。平南将軍は一人。平西将軍は一人。平北将軍は一人。四平将軍は魏のときに置かれた。

 左将軍、右将軍、前将軍、後将軍。左将軍以下(この四つの将軍)は周末の官で、秦、漢ともにこれを継承して置いた。光武帝の建武七年に廃されたが、魏以来復置されている。
 征虜将軍、漢の光武帝の建武年間、はじめて祭遵がこれに就いている[9]。冠軍将軍、楚の懐王が宋義を卿子冠軍に任じている。冠軍の名称はこれが初めである。魏の正始年間、文欽を冠軍将軍、揚州刺史としている。輔国将軍、漢の献帝が伏完をこれに任命している[10]。宋の明帝の泰始四年、(輔国を)改称して輔師とし、後廃帝の元徽二年にまた輔国に戻った。龍驤将軍、晋の武帝がはじめて王濬をこれに就かせている 。
 東中郎将、漢の霊帝は董卓をこれに就かせている。南中郎将、漢の献帝の建安年間、臨淄侯曹植をこれに就かせている。西中郎将[11]。北中郎将、漢の建安年間、〔阝焉〕陵侯曹彰をこれに就かせている。およそこの四中郎将は、何承天によると、みな後漢に置かれたという[12][13]
 権威将軍、漢の光武帝の建武年間、耿弇を権威大将軍としている。振威将軍、後漢の初めに宋登がこれに就いている。奮威将軍、前漢のときに任千秋がこれに就いている。揚威将軍、魏が置いた。広威将軍、魏が置いた。建武将軍、魏が置いた。振武将軍、前漢末に王況がこれに就いている。奮武将軍、後漢末に呂布がこれに就いている。揚武将軍、光武帝の建武年間に馬成をこれに就かせている。広武将軍、江左が置いた。
 鷹揚将軍、漢の建安年間、魏武帝が曹洪をこれに就かせている。折衝将軍、漢の建安年間、魏武帝が楽進をこれに就かせている。軽車将軍、漢の武帝が公孫賀をこれに就かせている。揚烈将軍、建安年間に公孫淵に授けている。寧遠将軍、江左が置いた。材官将軍、漢の武帝が李息をこれに就かせている。伏波将軍、漢の武帝が南越を征伐した際に、はじめてこの将軍号が置かれ、路博徳をこれに就かせている。
 凌江将軍、魏が置いた。凌江将軍以下には、宣威、明威、驤威、厲威、威厲、威寇、威虜、威戎、威武、武烈、武毅、武奮、綏遠、綏辺、綏戎、討寇、討虜、討難、討夷、蕩寇、蕩虜、蕩難、蕩逆、殄寇、殄虜、殄難、掃夷、掃寇、掃虜、掃難、掃逆、厲武、厲鋒、虎威、虎牙、広野、横野、偏将軍、裨将軍の計四十号がある。威虜将軍、光武帝が馮俊をこれに就かせている。虎牙将軍、(光武帝が)蓋延をこれに就かせ、虎牙大将軍としている。横野将軍、(光武帝が)耿純をこれに就かせている。蕩寇将軍、漢の建安年間、満寵がこれに就いている。虎威将軍、于禁がこれに就いている。そのほかの将軍号は、あるいは後漢や魏が置いたものだが、現在では置かれたり置かれなかったりしている。
 前、後、左、右将軍以下からこの四十号将軍まで、四中郎将だけは各一人ずつ定員があるが、ほかはみな定員がなかった。車騎将軍以下で刺史または都督となり、かつ儀同三司になった将軍は、常備軍を加えられた府と同じように府官を設けるが、ただし都督であっても儀同三司でなければ、従事中郎を置かず、功曹一人を置く。(功曹は)府吏のこと(全般)を掌り、(位は)主簿の上、漢末の官である。東漢の司隷(校尉の属官)には功曹従事史がおり、州の治中従事史のような官であるが、(この都督府の功曹は)その形式を継承したのである。(また儀同三司でない都督の府には)功曹参軍が一人置かれる。「佐□」を掌り、(位は)記室令史の下、戸曹(属)の上であった[14]。(都督でなく)監諸軍事であれば、諮議参軍、記室令史を置かないが、ほかは同じである。宋の明帝以来、皇子・皇弟は都督でなくとも、記室参軍を置いた。小号将軍(低級な将軍)が大きな辺郡の太守となり、属吏を置く場合は、また(上述の府とは違って)長史を置くが、ほかは同じである。


――注――

[1]『太平御覧』巻238『応劭漢官儀』「漢興、置驃騎将軍、位次丞相」、同巻『韋昭辯釈名』「驃騎将軍、(車?)騎将軍、秩比三公。辯云、此二将軍、秩本二千石」。[上に戻る]

[2]魚豢の著作としては『魏略』『典略』がよく知られていよう。ここの沈約の引用も、どちらかからのものであると考えて差し支えない。『南斉書』巻16百官志・序に「魚豢中外官」という記述が見えるが、これは上記史書が百官志に相当する「中外官(志)」という項目を設けていたことを示しているものと解せられる。魚豢の中外官も含め、六朝時代に編纂された官制関連の書物に関しては中村圭爾「六朝における官僚制の叙述」(『東洋学報』91-2、2009年)が詳しい。[上に戻る]

[3]『太平御覧』巻240『沈約宋書』「監軍、蓋諸将出征、大将監領之」。おそらく百官志の佚文。意味がいまいちよくわからない(ので翻訳しない)。ここの「監軍」も本文の「監諸軍事」と同一なのか、いまいち心許ない。たぶん違う気もするが・・・。とりあえず『通典』巻29職官典11監軍の条から大事だと思われるところを引用しておく。「漢の武帝は監軍使者を置いた。光武帝は来歙に諸将を監督させた。後漢末、劉焉は監軍使者で益州牧を兼任した。魏と晋ではともに監軍が置かれた。はじめ、(新末後漢初の)隗囂は軍に軍師(という役職)を設けていた。魏武帝のとき、また師官を四人置いた。晋のとき、景帝の諱を避けて軍司に改称された。およそ、どの軍にも軍司を置き、常設としていたが、それは適宜、ものごとに対応させるためである。これもまた監軍の仕事なのである(漢武帝置監軍使者。光武以来歙監諸将。後漢末、劉焉以監軍使者、領益州牧。魏晋皆有之。初、隗囂軍中嘗置軍師。至魏武帝、又置師官四人。晋避景帝諱、改為軍司。凡諸軍皆置之、以為常員、所以節量諸宜、亦監軍之職也)(原注は全て省略)。原注には晋の監軍として「孟康持節監石苞諸軍事」が例に挙げられているけど、やっぱり『通典』の文を見る限りでは、「監諸軍事」と「監軍」は違うのかもね。
 なお、『通典』はさらに続けて、「宋斉以来、此官頗廃」とある。『宋書』に監軍使者等についての言及が見えないのは、宋以降廃れてしまった状況を反映しているからなのかもしれない。[上に戻る]

[4]他の将軍号と違って例示がなされていないが、『通典』巻29職官典11四征将軍の条の原注に次のようにある。「魏明帝太和中置、劉靖為之、許允亦為之」。[上に戻る]

[5]「四征将軍は魏武帝が置いた」というのは、漢代までは非常設であったけれども、魏武帝以降は常設の将軍となった、ということだろうか。将軍に秩(俸禄)が定められているのもかかる事情に由来しているものかもしれない。[上に戻る]

[6]征北将軍同様、例示がないので『通典』巻29職官典11四鎮将軍の条の原注から補足しておく。「魏明帝太和中置、劉靖、許允並為之」。[上に戻る]

[7]同じく『通典』巻29職官典11四安将軍の条の原注より補足。「光武元年、以岑彭為之、晋范陽王虓亦為之」。[上に戻る]

[8]同じく『通典』巻29職官典11四安将軍の条の原注より補足。「晋以郗鑒為之」。『通典』でもこれだけやな。[上に戻る]

[9]『太平御覧』巻239『沈約宋書』「征虜将軍は世よ金紫将軍と呼ばれた(征虜将軍世号金紫将軍)」。佚文? 百官志にはない記述。[上に戻る]

[10]『太平御覧』巻240『沈約宋書』「呉は輔呉将軍を置き、その位は三司に次いだ(呉置輔呉将軍、班亜三司)」。輔国将軍とは別格だが、名前が似てるのでここに注をつけておいた。おそらくこれも百官志の佚文だと思われる。[上に戻る]

[11]同じく『通典』巻29職官典11四中郎将の原注より補足。「晋以謝曼、桓沖為之」。これだけなんだよなあ・・・[上に戻る]

[12]暦の大家・何承天は劉宋文帝のときに『宋書』の編纂を命じられているが、沈約『宋書』巻100自序によれば、「宋の著作郎の何承天がはじめて『宋書』を編纂し、紀伝を創立しました。(ですが、その伝は)武帝功臣までにとどまっており、薄い書物でした。(何承天が自分で)記述した志は天文志と律暦志だけで、そのほかの志は全て奉朝請の山謙之に任せました(宋故著作郎何承天始撰宋書、草立紀伝、止於武帝功臣、篇牘未広。其所撰志、唯天文、律歴、自此外、悉委奉朝請山謙之)」とある。また同書巻11志序によれば、何承天の『宋書』の「志は十五篇あり、司馬彪の『続漢書』(のような志)をめざした。何承天の(書物からの)引用が広く行なわれているのは、このような編纂方針だからである(其志十五篇、以続馬彪漢志。其證引該博者、即而因之)」。沈約はこの何承天『宋書』の志をベースにして志の編集を行なったようなので、ここの何承天の引用も何承天『宋書』からのものなのであろう。[上に戻る]

[13]なお『通典』巻29職官典11四中郎将によると「江左になると(四中郎将)は徐々に要職となり、ある者は刺史を兼任し、ある者は持節でありながら中郎将に就いた(江左弥重、或領刺史、或持節為之)」。[上に戻る]

[14]原文「主佐□□記室下戸曹上」。二文字目の欠字は「在」だろう。[上に戻る]

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