2013年11月17日日曜日

東晋・孝武帝の最期

『晋書』巻9孝武帝紀
既而溺于酒色、殆為長夜之飲。・・・醒日既少、而傍無正人、竟不能改焉。時張貴人有寵、年幾三十、帝戯之曰、「汝以年当廃矣」。貴人潛怒、向夕、帝醉、遂暴崩。

孝武帝は即位してすぐ酒や女に溺れるようになり、いっつも深夜まで飲んだくれていた。・・・日中に目が覚めることはまれで、わがまま放題、まったく改善の余地がなかった。当時、張貴人は孝武帝の恩寵を受けていたが、三十になりかかろうとしていた。孝武帝はふざけて「おまえも歳だしなあ! 貴人、やめよっか(クイッ」と言ったところ、張貴人、表情には出さないが内心怒り心頭。夜になり、帝が酔いつぶれると、とうとうにわかに孝武帝は崩じてしまった。
 ん? 最期の展開が急すぎてまったくついていけないんだが? いったい何が起こったんや・・・・
 と、このときの出来事を克明に記述した史書がある。宋の檀道鸞『続晋陽秋』である。その佚文(『太平御覧』巻99皇王部24孝武帝、引)をご覧いただこう。
初、帝耽於色。末年、殆為長夜之飲。醒治[1]既少、多居内殿、留連於盤鐏之間。時張貴人寵冠後宮、威行閫内、年幾三十。帝妙列伎楽、陪侍嬪少、乃笑而戯之、「汝已年廃矣、吾已属諸妹少矣」。貴人潜怒、上不覚。上稍酔臥、貴人遂令其婢蒙之以被、既絶。云以魘崩。

当初、孝武帝は女に夢中であったが、末年になると深夜まで飲んでばかりであった。日中に目が覚めることはまれで、一日の大半を宮殿で過ごし、ごちそうと酒に囲まれて暮らしていた。当時、張貴人が受けている恩寵は後宮トップで、その権威は後宮に行き渡っていたが、歳は三十になろうかというところであった。ある日の宴会、孝武帝は若い妓女や側室を侍らせると、ほくほくになって思わずにやけてしまい、張貴人に対し、「おまえは年寄りだしもうええわ、若いチャンネー集まったし」とふざけて言った。張貴人、あらわにはしないが内心は怒り狂う。が、孝武帝、気づかない。孝武帝が酔いつぶれ、倒れて寝はじめると、張貴人は介抱せず、下女をおおいかぶさせて、のしかからせたに布団で帝をくるませた〔原文「蒙之以被」の箇所。まちがえてました。申しわけない〕。ほどなく、孝武帝は息絶えてしまった窒息してしまった。張貴人は「悪夢にうなされてお亡くなりになりました」と報告した。
 ははあ、なるほどねえ。「暴崩」=「にわかに崩御した」との記述のウラには、じつはこんな経緯があったんですねえ。たまげたなあ・・・。
 しかし、なんでこれが唐修『晋書』だとああいう記述になっているんだろうか?
 それは唐修『晋書』の帝紀が何に基づいて編集されたか、に関係しているだろう。例えば東晋末に編纂された徐広『晋紀』。徐広の『晋紀』は国史として編纂されたが、おそらくそのゆえに、孝武帝のかかる最期は忌むべき、隠すべき秘事として扱われた蓋然性は高い。その意味で、「暴崩」なんていうあいまいだけど便利な記述は、徐広『晋紀』に由来していると言えなくもない。ただその場合、張貴人のエピソードを挿入する必要がないじゃんてなるけども。まあほかにも何法盛『晋中興書』もあるし、あるいは唐の史官が独自に編集してこのような記述を残したのかもしれないね(そうであったらなおさら、どうして隠したのかが気になるが)。



――注――

[1]「治」というのは意味が通じない。ここは『晋書』に従い、「日」に字を改めて訳出する。なお清・湯球『衆家編年体晋史』(喬治忠氏校注本)は「時」に釈字しているが、わたしの手元にある宋本『太平御覧』(影印本)を何度見たって「時」には読めない。[上に戻る]

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