【考察】三正説と王朝のシンボルカラー

 王朝のシンボルカラーといえば、往々五行(五徳)説と関連して理解される。火徳であれば赤、土徳であれば黄、金徳であれば白・・・。
 いま調べていることの関連で、王朝が使用する旗の色を探索しているのだが、やはり五行説にもとづいて決定されているのであろうと予想していた。
 だが、曹魏時代の事例を調べていると、それほど単純な話ではないことがわかった。シンボルカラーの決定には五行とは別の「三正」説が影響を与えていたのである。
 この「三正」とは、具体的には夏正(人正)、殷正(地正)、周正(天正)を指す。「正」は「正月」、つまり暦における歳の最初の月を意味し、それぞれどの月を正月と定めるかが異なっているのだ(下記の表を参照)。そして三正も五行説同様に循環すると考えられていた。夏正の王朝の次は殷正、その次は周正、その次は夏正、・・・という具合に。

子の月丑の月寅の月
夏正11月12月正月
殷正12月正月2月
周正正月2月3月

 三正説のミソは、たんに正月の月だけでなく、王朝のシンボルカラーもセットで定まると見なされていたことだ。たとえば『礼記』檀弓には次のようにある([ ]は鄭玄注)。

夏后氏尚黒以建寅之月為正、物生、色黒。大事斂用昏[昏時亦黒、此大事謂喪事也]、戎事乗驪[戎兵也、馬黒色曰驪、爾雅曰騋牝、驪牡玄]、牡用玄[玄黒類也]殷人尚白以建丑之月為正、物牙、色白。大事斂用日中[日中時亦白]、戎事乗翰[翰、白色馬也、易曰白馬翰如]、牲用白。周人尚赤以建子之月為正、物萌、色赤。大事斂用日出[日出時亦赤]、戎事乗騵[騵駠馬白腹]、牲用騂[騂赤類]

 夏は寅の月を正月としたが、寅の月は万物が成長しきって姿をあらわすころで、そのときの色は黒、ゆえに万事にわたって黒を尊んだ。殷は丑の月を正月としたが、丑の月は万物が成長しているころで、その色は白・・・。周は子の月を正月としたが、子の月は万物が芽をあらわしはじめたばかりのころで、その色は赤・・・。なのだそうだ。

 ほぼ同様の考えは『公羊伝』隠公元年の何休注にも見える。

王者受命、必徙居処、改正朔、易服色、殊徽号、変犧牲、異器械、明受之於天、不受之於人。夏以斗建寅之月為正、平旦為朔、法物見、色尚黒。殷以斗建丑之月為正、鶏鳴為朔、法物牙、色尚白。周以斗建子之月為正、夜半為朔、法物萌、色尚赤。

 さかのぼってみると、『白虎通』ですでに議論されている(『白虎通疏証』巻8三正篇「論三正之義」)

十一月之時、陽気始養根株黄泉之下、万物皆赤、赤者盛陽之気也、故周為天正、色尚赤也。十二月之時、万物始牙而白、白者陰気、故殷為地正、色尚白也。十三月之時、万物始達、孚甲而出、皆黒、人得加功、故夏為人正、色尚黒。尚書大伝曰、「夏以孟春月為正、殷以季冬為正、周以仲冬為正。夏以十三月為正、色尚黒、以平旦為朔。殷以十二月為正、色尚白、以鶏鳴為朔。周以十一月為正、色尚赤、以夜半為朔。・・・」。

 参考までにほかからも引いておくと、緯書『楽稽曜嘉』(『宋書』巻14礼志一の高堂隆の詔に引用)に、

夏以十三月為正、法物之始、其色尚黒。殷以十二月為正、法物之牙、其色尚白。周以十一月為正、法物之萌、其色尚赤。

とか。

 上の引用にまま見られる「犠牲」や「器械」の色を変えるというのは、『礼記』大伝の記述に基づいていると考えられる。

聖人南面而治天下、必自人道始矣。立権度量、考文章、改正朔、易服色、殊徽号、異器械、別衣服、此其所得与民変革者也[権、秤也。度、丈尺也。量、斗斛也。文章、礼法也。服色、車馬也。徽号、旌旗之名也。器械、礼楽之器及兵甲也。衣服、吉凶之制也]

 革命のたびに度量衡や正朔、礼制や旗を変更する、という記述だが、ここに正朔を改めると文言があることを手がかりに、各制度の変更とは犠牲だとか旗の色を三正に合わせた色に変更することである、っていう解釈が生まれたものと考えられる。

***
 さて、五行説に基づくにしろ三正説に基づくにしろ、革命時に自己のカラーを決定する必要があるというわけなのだが、このプロセスでもめた形跡を見せているのが曹魏朝である。『宋書』巻14礼志一に記述群が見られるので、以下、読解を進めてみたい。

魏の文帝は漢から受禅したものの、夏正が天の運行に適していると考えていた。そのため、黄初元年に(次のような)詔を下した。「孔子は『夏の暦を使い、殷の車に乗り、周の冠をかぶり、音楽は舜の舞を用いる』〔『論語』衛霊公篇〕と言った。これは、聖人は各朝代のよいところを集約し、後王のために(?)法を定める、ということである。(また)『左伝』に『夏の暦は天の運行に適している』〔昭公17年〕とある。朕は堯と舜の美徳を受け継ぎたいと思うが、正朔にかんしては舜夏の故事に従いたい。(『礼記』大伝が言うところの)徽号〔鄭玄によると旗の一種〕、器械〔鄭玄によると楽器と兵器〕、音楽、服色〔鄭玄によると車を引く馬の色を指すのだが、この文脈ではたんに朝服の色か〕、祭祀に使う絹帛を変更するという点については、五行循環の規則どおり土徳に合わせよ。四季の末の月(の土用)では、服を18日間黄色とする。歳末は丑の月とし〔12月を丑とし、正月を寅とする、要するに夏正〕、犠牲の色は白とする。節の飾りは赤とせよ、ただし節幡〔旗の布地ってことだろうか〕のみ黄色とせよ。その他、郊祀、朝会、四時の服装は漢制に、宗廟での服装は周制に倣え」。(魏文帝雖受禅于漢、而以夏数為得天、故黄初元年、詔曰、「孔子称『行夏之時、乗殷之輅、服周之冕、楽則韶舞』。此聖人集群代之美事、為後王制法也。伝曰『夏数為得天』。朕承唐虞之美、至於正朔、当依虞夏故事。若殊徽号、異器械、制礼楽、易服色、用牲幣、自当随土徳之数。每四時之季月、服黄十八日、臘以丑、牲用白、其飾節旄自当赤、但節幡黄耳。其余郊祀天地朝会四時之服、宜如漢制。宗廟所服、一如周礼」。)

 整理してみると・・・

正 月 = 寅 月 = 夏 正
歳 末 = 丑 月 = 夏 正
服色ほか= 土 徳 = 黄 色
犠 牲 = 白 色 = 殷 正
旗飾り = 赤 色 = 周or漢?
節 幡 = 黄 色 = 土 徳

 なんだか一貫性がなさすぎないだろうか。そのためだろう、こののち、ちょい議論が加えられた。

尚書令の桓階らが上奏した。「三正循環の義に従えば、わが国家は漢氏の人正(夏正)のあとを受け継ぐのですから、地正(殷正)に当たります。ゆえに犠牲は白色を用いるべきです。しかしいま、漢の十三月を正月とする人正にそのまま従うのですから、犠牲の色だけ変えるわけにはいきません。いま、新たに皇帝の系統を立てたのですから、古典や先代の制度を調べ、(適切に)天命に従うべきであります。にもかかわらず、告朔〔暦の布告〕や犠牲をすべて改めなければ、それは革命の義を明らかにすることにはなりません」。文帝の詔。「服色は上奏のとおりとせよ。そのほかはすべて舜が堯を継いだときのようにせよ。ただし歳末は丑の月とする。(夏正は)聖人の制度だからである」。(尚書令桓階等奏、「拠三正周復之義、国家承漢氏人正之後、当受之以地正、犧牲宜用白、今従漢十三月正、則犧牲不得独改。今新建皇統、宜稽古典先代、以従天命、而告朔犧牲、壱皆不改、非所以明革命之義也」。詔曰、「服色如所奏。其余宜如虞承唐、但臘日用丑耳、此亦聖人之制也」。)

 白状すると、前の引用もここの引用も、何を言っているのかよくわかっていないところが多い。
 桓階の上奏文には省略されている部分があるのは明白だが(文帝が言及している「服色」についての陳述がない)、それにしたって彼らの主張はどういう主旨なのだろうか。ぜんぶ白色=殷正にしてしまえ、ということなのだろうか。少なくとも、殷正に改めることを勧めているように読めるがどうだろう。
 それに対する文帝の詔もよくわからない箇所が多いのだが、一つひとつ読んでみよう

 まず「服色如所奏」だが、前述のとおり引用されている桓階の奏文には見られないのでどういう意味なのかわからない。おそらく桓階らの奏議には「殷正を採用し、犠牲は白とし、服色は~を尊び・・・」と提案もされていたのだろう。
 そこで「服色」それ自体をまず考えてみたい。
 前引の文帝詔の文中訳注で言及したが、『礼記』大伝の鄭玄注は経文の「服色」を「車馬」と解している。前引の『礼記』檀弓には三朝が軍用馬の色を三正に合わせた記述が見えているので、それを踏まえてかかる解釈を施したのであろうか。
 だが、だからといって文帝らが鄭玄のような意味で「服色」を使用していたかというと、そうではない可能性が高い。後述することになる明帝の改革で、

服色尚黄、犠牲用白、戎事乗黒首之白馬。(『宋書』礼志一)

とあり、「戎事」の馬は『礼記』檀弓の記述に従い三正色に合わせている。それとは別に「服色」は五行に従っているのだから、この場合の明帝は鄭玄の『礼記』大伝注とは異なる意味で「服色」を使用しているとみることができるのではないだろうか。そもそも他の用例をみても、むしろ鄭玄のようなひねった解釈でこの語を使用している例はあまりないように思われる。要するに文帝らはたんに「服の色」のことを言っているのだと考えられる。
 次に問題なのは、何の服の色なのか、ということだ。結論から言うと、それは平時着用する朝服の色のことであり、色を「尚ぶ」とは基本着の色を黄色にする、のようなイメージであると私は考えている。
 服の色ということで関連する記述をみていくと、例えば『晋書』巻19礼志・上に次のような記述がある。

漢の制では〔『通典』は「後漢」に作る〕、太史令は毎年その年の暦を奉じる。(その暦の)立春、立夏、大暑、立秋、立冬に先立って、その五つの節気(に入ること)を読みあげるならわしであった[追記1]。皇帝の服装は五つの節気に色を合わせていたのである。(読みあげるときは)皇帝は玉座に座り、尚書令以下は各自の席に座る。尚書三公曹の郎が時候を告げる文書を置いた机をささげ持って入場し、席に就くと平伏して読みあげる。読み終わると、皇帝は一卮の酒を下賜する。魏でもこの礼を毎回実施していた。明帝の景初元年[1]、中書通事郎[2]が上申した、「(漢のときとはちがって)近ごろでは立春、立夏、立秋、立冬の四時を読むだけで、黄色を着る時候を読みあげませんが、その理由がわかりません」。散騎常侍、領太史令の高堂隆の見解、「五行において黄色とは、中央に配される土の気を指す。(土の気は四時において)四季それぞれの(季節末の)18日間に盛んとなるが、(法則上では)土の気は火の気から生じるため、火の気の夏の終わりに黄色の服を着るのであって、ほかの季節(の土用の18日間)は着ないのだ。(すなわち、黄色の服を着るのは季節に合わせるのではなく五行の気の盛衰に合わせた慣例なのだ。)時候の読みあげは四季に合わせたものであって、五行の気の変遷を読みあげるものではない。そのため黄色の服を着る期間は時候にならないのだ」。これは魏では大暑令が読みあげられなかったということである。(漢儀、太史每歳上其年暦。先立春、立夏、大暑、立秋、立冬常読五時令、皇帝所服、各隨五時之色。帝升御坐、尚書令以下就席位、尚書三公郎以令置案上、奉以入、就席伏読、訖、賜酒一卮。魏氏常行其礼。魏明帝景初元年、通事白曰、「前後但見読春夏秋冬四時令、至於服黄之時、独闕不読、今不解其故」。散騎常侍領太史令高堂隆以為、「黄於五行、中央土也。王四季各十八日、土生於火、故于火用事之末服黄、三季則否。其令則隨四時、不以五行為令也、是以服黄無令」。斯則魏氏不読大暑令也。)

 参考になるのは『白虎通』(『白虎通疏証』巻4五行)である。いちいち引用することは避けるが、そこでの議論をまとめると以下の通り。

五行方角十二支季節精獣
寅・卯・辰青龍太昊
巳・午・未朱鳥炎帝
西申・酉・戌白虎少昊
亥・子・丑玄武顓瑣
中央黄帝


 四時とは五行の気の盛衰のこと、「木王」=木の気が盛んになると春になる云々。
 土は特殊な地位を占めており、五行のなかで「最尊」であるとされる。土王は特定の季節を構成しないが、ある特殊な時期を現象させると考えられていた。それは「土用」というものである。
 木王、火王、金王、水王はそれぞれ72日間つづく。72日を過ぎると次の気に交替する準備期間に入る。この準備期間の時期こそ土王の時期であり、18日間カウントされていた。72日と土用18日、計90日でひとつの季節となる。『白虎通』では、この土用の時期は土の気が次の気を生じさせるための手助けをするのだと論じられている。
 というわけで、五行はそれぞれ1年で72日配されるが(土=18日×4)、土王は「不名時」、「尊不任職、君不居部、故時有四」というわけで、あえて季節に数えなかったそうだ。『白虎通』の記述一本でなんでもかんでも押し通すことはできないのだが、それでもこの文献の議論を前提にすれば高堂隆らの意見はずっと理解しやすくなる。

 大暑というのは二十四節気の一つで、おおよそ夏の末の土用に該当する。漢では大暑に入るとこれを読みあげて、それに合わせた服を着たというのだから、夏の土用18日でのみ皇帝は黄色を着たのだろう。
 魏でも変わらずその慣習は続いていたが、大暑を読みあげることはなくなった。これをめぐる問答が上引の高堂隆らのアレなわけで、高堂隆は、土王は四季それぞれに配されているのにどうして夏の土用しか黄色にしないかというと、それは火から土が生まれるという循環法則に従っているからだとしたうえで、そもそも五行の移りを読む行事じゃないし(そうするんだったら四季の土用ぜんぶ読まないといけないし)、と回答しているのだろうと読むことができる。
 余談だが、文帝の最初の詔では四季のそれぞれの土用で黄色の服を着るよう定められていた。しかし高堂隆の意見から察するに、明帝時期には大暑しか着用していなかったようである。なんらかの変更があったのかもしれないが、詳しくはわからない。この変更が「服色如所奏」のことを指しているとも考えられなくもないだろうが、私はそう考えていない。

 ここで気になるのは、この決まりは皇帝に限定されていたのかということだ。というのも、『晋書』巻25輿服志、『宋書』巻18礼志五には冠服規定が記述されているが[3]、その記述をみていくと服飾にランクがあることがわかる。最上が五時朝服、次が四時朝服、次が朝服・・・とつづいている。
 この場合の「朝服」とは袍、単衣、靴など一連の服飾具を指すが[4]、各ランクでちがっているのは袍の種類である。朝服の場合は絳(赤)一着のみだが、四時は赤・黄・青・黒、五時は四時+白の袍が規定されている。『宋書』礼志五によれば、この五時朝服等々の呼称は晋以降らしいが、『晋書』輿服志では「魏已来」としている。
 どうして四時で四季に配色される白が欠けるのかはわからないが、それは措いておくとして、四時/五時の袍には五行が配色されていると見なせるだろう。そして各色の袍の用途はやはり皇帝と同様、時節ごとに着替えたからではないか。そして皇帝が着替えた服も袍に相当する上着のようなものだったのではないだろうか。

 このことを示唆させてくれるのが司馬彪『続漢書』礼儀志である。上の、漢代には五時に合わせて服を着替えたとの記述に関連する情報が記されているのだ。点々となるが引用しよう。

立春之日、夜漏刻未尽五刻、京師百官皆衣青衣、郡国県道官下至斗食令史皆服青幘・・・至立夏。・・・
立夏之日、夜漏刻未尽五刻、京師百官皆衣赤、至季夏衣黄、郊。・・・
先立秋十八日、郊黄帝。是日夜漏刻未尽五刻、京師百官皆衣黄。・・・
立秋之日、夜漏刻未尽五刻、京師百官皆衣白、施皁領縁中衣、迎気白郊〔秋=西方を象徴する帝=白帝を祀るということ。以下同〕。礼畢、皆衣絳、至立冬。・・・
立冬之日、夜漏刻未尽五刻、京師百官皆衣皁、迎気於黒郊。礼畢、皆衣絳、至冬至絶事。・・・
諸五時変服、執事者先後其時皆一日。

 京師の百官が四立+季夏土用の節気祭祀で、節気に合わせた色の服を着たとの記述。「執事」、つまり祭祀の補佐をする者は終日その色の服を着たとのことなので、参列するだけの者については、立秋や立冬の箇所にあるように「祭祀が終わったらみな赤に着替えた」と考えられる。ただし『宋書』巻18礼志五には、

漢制、祀事五郊〔四立+季夏土用に各節気を象徴する帝を祀ること〕、天子与執事所服各如方色、百官不執事者、自服常服以従也。常服、絳衣也。

とあり、参列しただけの者はそもそも着替えず、赤い「常服」を着たそうだ。どちらが正確なのかは決しかねる。
 それで何の服の色を着替えたのか、というのは私が検索したかぎりではわからないのだが、晋代のあの五時朝服、四時朝服から類推して、上着に相当する部分、上に着る服に相当するのではないだろうか。色の変化が一目で見られる部分でなければわざわざ色を変える意味がないだろう。

 あわせて、上記の漢の服制にはもうひとつ留意しておきたい部分がある。「常服」という、おそらくは普段着用する服ぐらいの意味だろうが、その色が赤色であったらしいことだ。このことは『後漢書』紀1光武帝紀・上・建武2年の条に、

始正火徳、色尚赤。

とある記述との関連を思わせる。服色に関する記述としては、蔡邕と唐の李賢の次のような見識を見出せる。

漢承周後、当就夏正、以十二月為年首、而秦以十月為年首、高祖又以十月至覇上、因而不改、至武帝太初始改焉。賈誼、公孫臣等議以漢土徳、服色尚黄、至光武中、乃黜黄而尚赤。(『文選』巻48班固「典引」蔡邕注)

漢初土徳、色尚黄、至此始明火徳、幑幟尚赤、服色於是乃正。(『後漢書』光武帝紀・上・建武2年の条・注)

 漢の「服色」が赤であった、というのは後々戻ってくる論点になる。

 以上、かなり本筋から逸れてしまった。私が導き出したいのは、とくにたいした根拠はないのだが、まず「服色」のうちの色とは、五時色=五行色のことを指しているのではないだろうか。三正=黒・白・赤のどれかではなくて。上で見てきたように、漢の朝服の制では三正色ではなく五行色に合わせており、服色を変更するとなった場合、服色は五行色のほうが親和性もあるし、五行色をベースに考案していったほうが馴染みも深かったのではないだろうか。緯書になるが、『春秋感精符』に「受天命而王者、必調六律而改正朔、受五気而易服色、法三正之道也」という記述も見える(『緯書集成』p. 745)
 ではそのようなものだと考えたとして、服色を「易」(変える)とか「尚」(尊ぶ)とはどういうことなのだろうか。これも推測だが、「常服」の色を、五行色のうち、自王朝の五行を尊重して特定の一色に変更する、ということではないだろうか。その服は上記のような袍であるかもしれないし、褠(たぶんシャツみたいなもの・・・)とかかもしれないが、ともかく朝廷で日常的に着用する服で、なるべく上に着るものであるはずではないだろうか。

 これらもまたそうだと仮定しておこう。では結局、文帝の「服色如所奏」とは何であるのか。
 文帝の最初の詔では服色を土徳に合わせるよう命じている。次の詔ではそうではないカラーに変更したということなのだろうか。
 私はそうではなく、「服色如所奏」とは「黄色にせよ」との意味だと解したい。
 それでは前の詔と何にも変わっていないではないかと思われるだろうが、理屈は通じていると考えている。
 まず文帝の詔は返答の詔である。誰に対する返答かというと、桓階らに対してのものだ。ほかにも奏文があった可能性はあるが、とりあえずここでは桓階らだけを考えてみようではないか。
 桓階らの意図は、少なくとも殷正に変更してしまえという類のものだと前述した。こここそ最大のポイントである。彼らは「革命」の意義を明らかにするために、漢朝の礼制から変えるべきところはすべて一新しろと言っているのである。
 となれば、「服色」についても、まず彼らが提案したのは漢のものとは異なるカラーでなければならない。さらに、上述の私の仮定に従えば、その色は三正色ではなく五行色であり、曹魏の五行=土行の黄色であったということになるだろう。
 文帝の「服色如所奏」とは、そうした彼らの提案に対する返答であり、「おまえたちの提案どおり、漢制の赤から変更して黄とする」ということを意味しているはずである、と私は解したい。

 この解釈の妥当性は、つづく「其余宜如虞承唐」という文言の解釈とうまい具合にいくかどうかにかかってくるだろう。というわけで、順番どおりに次はこの文言について考えてみよう。
 これは文帝の最初の詔のうちでも、「朕承唐虞之美、至於正朔、当依虞夏故事」と関連する記述が引用されていた。いったいこれらの故事は何なのか。
 ヒントは『三国志』巻25辛毗伝に見えている。

文帝踐阼、・・・時議改正朔。毗以魏氏遵舜禹之統、応天順民。至於湯武、以戦伐定天下、乃改正朔。孔子曰「行夏之時」、左氏伝曰「夏数為得天正」、何必期於相反。帝善而従之。

 辛毗は、曹魏は虞夏の革命に連なっている(=禅譲革命である)ことを確認しつつ、湯王や武王は戦争によって革命したため、正を改めたのだ、我々が無理に夏正を改める必要はない、ということを主張しているように読み取れる。
 もう少し掘り下げてみよう。『礼記正義』『左伝正義』にはこの故事に関する興味深い記述が残されている。

『礼記』檀弓・孔穎達疏
〔礼〕三正記云、「正朔三而改、文質再而復」。以此推之、自夏以上、皆正朔三而改也。鄭注尚書三帛「高陽氏之後用赤繒、高辛氏之後用黒繒、其余諸侯用白繒」。如鄭此意、卻而推之、舜以十一月為正、尚赤。堯以十二月為正、尚白、故曰「其余諸侯用白繒」。高辛氏以十二月為正、尚黒、故云「高辛氏之後用黒繒」。高陽氏以十一月為正、尚赤、故云「高陽氏之後用赤繒」。帝少皡以十二月為正、尚白。黄帝以十三月為正、尚黒。神農以十一月為正、尚赤。女媧以十二月為正、尚白。伏犧以上未有聞焉。・・・鄭康成之義、自古以来、皆改正朔。若孔安国、則改正朔、殷周二代、故注尚書「湯承堯舜禅代之後、革命創制、改正易服」。是従湯始改正朔也。

『春秋左氏伝』隠公元年・孔穎達疏
言「王正月」者、王者革前代、馭天下、必改正朔、易服色、以変人視聴。夏以建寅之月為正、殷以建丑之月為正、周以建子之月為正、三代異制、正朔 不同、故礼記檀弓云「夏后氏尚黒、殷人尚白、周人尚赤」。鄭康成依拠緯候、以正朔三而改、自古皆相変、如孔安国、以自古皆用建寅為正、唯殷革夏命、而用建丑。周革殷命、而用建子。杜無明説、未知所従。

 めんどうなので翻訳しない。要点は、①鄭玄は禅譲だろうと放伐だろうとそんなの関係なく、革命のたびに三正循環に従って正朔を改めていたと主張し、禹以前の堯も帝嚳(高辛)も顓頊(高陽)も、みーんな変えていたんだぞって考えていたらしいこと[5]、②それに対し孔安国は、夏殷革命、殷周革命時は正朔が変更されたが、夏以前はみーんな「建寅」(=夏正)であったと主張しているそうである。
 『左伝正義』で言及がある、鄭玄が依拠したとされる「緯候」とは、おそらく緯書『尚書中候』のことだろうと思われる(『緯書集成』、p. 417)

高陽氏尚赤、以十一月為正、薦玉以赤繒。高辛氏尚黒、以十三月為正、薦玉以黒繒。陶唐氏尚白、以十二月為正、薦玉以白繒。有虞氏尚赤、以十一〔原文「二」だが、編者注および『通典』中華書局校勘記に従い「一」に改める〕月為正。夏后氏尚黒、以建寅為正。

 ちなみに『隋書』経籍志によると鄭玄は『尚書中候』に注しているらしい。
 また『礼記正義』で言われている孔安国の『尚書』注(伝)は湯誓篇の次のものであろう。

湯承堯舜禅代之後、順天応人、逆取順守而有慙徳、故革命創制、改正易服、変置社稷。

 しかし、『尚書』現行本の孔安国伝は六朝時代の偽作であるので、こうした孔伝的経典理解が漢魏時代にどうであったのかはわからない(辛毗は偽孔伝的解釈に近いので、こうした考えが漢魏に存在しなかったとは言えない)。だが偽孔伝以外にも、たとえば『尚書』舜典の孔穎達疏に、

鄭玄以為、帝王易代、莫不改正、堯正建丑、舜正建子、此時未改堯正、故云「正月上日」、即位乃改堯正、故云「月正元日」、故以異文。先儒王粛等以為、惟殷周改正、易民視聴、自夏已上、皆以建寅為正、此篇二文、不同史異辞耳。孔意亦然。

とあり、これによると、王粛が鄭玄の三正解釈に異を唱えているようで、その内容は「殷と周の革命時は正朔を変えたが、夏以前はずっと『建寅』(夏正)であった」というもの。末尾に偽孔伝と同様の主張であると指摘されているが、むしろ偽孔伝が王粛をベースに作成されたと考えるべきなのだろうか。
 王粛の鄭玄嫌いは有名だが、『三国志』の列伝によると、彼は賈逵と馬融の学問を好んでいたという。もしかすると彼らの時点でそうした解釈が現れたのかもしれないが、ともに散佚しているので不明。『玉函山房』で馬融の『尚書』注、『礼記』注をざっと見たが、佚文のなかにはたぶんそういったものはなかった。
 孔疏には「王粛等」とあるので、王粛のほかにもたぶんいたんだろうと思うけど、いまのところはわからない。
 列伝によると王粛は黄初年間に起家しているので、彼の経典解釈が漢魏交替時に影響をもったとは考えがたい。似た解釈をしている先学がすでにあったか、あるいは巷間に流布していたかかる言説を王粛が取り込んだか、詳しいことはなんとも言えない。わからんの連呼ですまない。
 まとめると、堯、舜、禹の革命時にも三正説に従った正朔変更があった派(鄭玄)となかった派(王粛、偽孔伝)で解釈が分かれており、辛毗や文帝は後者の観点から「故事」を語っていると考えられる。
 そうして正朔を変更しないのであれば、服色その他の制度を変える必要はないのである、というのは偽孔伝にて明示されている見解であるが、たしかに正朔の変更がないのであれば尚色の変更もないし、『礼記』大伝に記される各制度の変更も必要がなくなる。史料はやや不足気味ではあるものの、なかった派から帰結される「故事」とは、前代の正朔を変更しない=色を変更しない=各制の変更をしない、ということになるのではないか。
 この解釈で文帝の文言を解してみると、「服色についてはお前たちの上奏どおりに変更する。だがその他については故事に倣って前代(漢代)のまま変更しない」となるだろう。どうであろう、先の「服色如所奏」解釈と齟齬をきたすなく意味を取れると思うのだが。

 しかし次の「但臘日用丑耳、此亦聖人之制也」はどう理解できるだろう。「但」と、逆接の語で前文に接続されているのだが、「臘日用丑」は「夏正を採用する」と言っている、つまり漢代のままなのであり、前文の「故事」に倣った結果、当然そうなるはずのことだ。だのにどうして「但」となるのか。
 これは文帝の夏正に対する姿勢を考えれば良い。最初の詔で、彼は『左伝』を引きながら夏正採用の適切を論じていた。この箇所だって、夏正のことを「聖人之制」と表現している。
 彼の考えでは、自然の運行に適っている夏正はいかなる革命であっても変更する必要はない制度、王朝交代の規則を超越してその正当性が担保されているもの、そうであったのではないか。
 最初の詔では、夏正が自然に適切な正朔であること、かつ「故事」に倣うことをもって、漢代のまま夏正を継ぐと述べていた。それが今回の詔では、自分は「故事」に倣うから夏正を採用するのではないこと、夏正はどのような革命であろうと変更する必要のない「聖人之制」だからこそ聖人を継いで夏正にするのだということ、そう主張を微修正、というより前回よりも夏正採用の意思を強く表現したと考えられる。
 桓階を否定するどころの話ではない。桓階は革命を明らかにするために三正を変更せよと迫った。しかし文帝は、そもそも正朔を変更するという行為自体がおかしいこと、どの正を変更せずとも革命の義にはなんら影響しないこと、そう返答して桓階らの要求をほぼ一蹴してしまったわけである。三正説自体が文帝には理解できなかったわけだ。他面、正朔を変更しないからもろもろも変更しないというのは三正説に則っているからこそとも言えるわけだが、三正循環を否定していることに変わりはなかろう。

 長々となったが、文帝の返答は以下のように解釈できるはずである。

服色については、お前たちの上奏どおり(黄色に)変更する。その他については堯舜交替の故事に倣って変更せず、漢代のまま継承する。しかし夏正を採用することについては、故事に倣って漢代を継承するからではなく、夏正が聖人の制度だから採るのである。(服色如所奏。其余宜如虞承唐、但臘日用丑耳、此亦聖人之制也。)

 さて、この一連のやりとりをどう眺めたら良いだろう。
 つれづれに論点を挙げてみると、まず桓階らが正朔変更に積極的であったことは注意に値する。もちろん、文帝や辛毗らのように反対派も力をもっていたわけだが、ともかく積極的に唱えた革新グループも看過しえない影響を有していたわけである。
 対して文帝のスタンスは、当初の方針はバラバラ気味であった。彼はいろいろなところに配慮したあまり、ああいう折衷案を作成したのではなかろうか。何を五行色として、何を三正色とするか、どうそれを理論づけるか・・・そもそも経書には三代の三正色のみが記述されている(はず)なので、五行色の扱いに苦心したのではないだろうか[6]
 その案が革新派に批判されると、今度の彼は彼なりの一貫した方針をもって革新の主張を退けた。桓階らとは対極的な極端、すなわち「何も変更しない」という方針である。
 文帝のこの保守的なスタンスは彼が当初より腹蔵していたものだったとも考えられる。とくに正朔についてはそうだろう。彼の理性が正朔変更はまずいと警告を発していたはずなのだ。
 だがその他、旗とか犠牲とか、そのあたりはどうだろう、やはり当初から何も手を加えるつもりはなかったのだろうか。どちらかと言えば私は、そうしたところまで変更しないとした超保守姿勢は結果的に生じたものであると考えている。まあ、くだけた表現で彼の心中を代言してみると、「うるせーなあ、正朔なんか変えたらやべーだろうが、だからその他で妥協しようとしてんじゃんか、おめーらがそれで許せねーというならもうめんどくせー、何もしねー、おわり」じゃないですかね・・・。

***
 文帝だけでずいぶんな分量になってしまったが、これ以降はそうでもないはずである。というわけで、次に明帝期を見ていく。
 で、この明帝はというと、正朔を改めることしか考えていなかった。『宋書』礼志一から詔を引用しよう。

黄初以来、諸儒共論正朔、或以改之為宜、或以不改為是、意取駁異、于今未決。朕在東宮時聞之、意常以 為夫子作春秋、通三統、為後王法。正朔各従色、不同因襲。自五帝三王以下、或父子相継、同体異徳。或納大麓、受終文祖。或尋干戈、従天行誅。雖遭遇異時、步驟不同、然未有不改正朔、用服色、表明文物、以章受命之符也。由此言之、何必以不改為是邪。

 もうめんどうなので以下は翻訳しません。黄初以来、儒者の間で正朔を改めるべきかどうかが議論されてきたが、決着はついていない、しかし正朔を改めることなく天命を新たに受けたことを示すなんて間違っているのではないかね。だから改めないのが正しいなんておかしいと思うんだけどどうなのよ。意見聞かせてチョ。っていうのがこの詔の大要になる。まあ、はじめから結論決まっている感じですね・・・。
 それは措いて。当然、改正賛成派と反対派で分かれた。『宋書』の記述によると、賛成派は高堂隆、司馬懿、衛臻、薛悌、劉放、刁幹、秦静、趙怡、季岐。反対派は繆襲、王粛、魏衡、黄史嗣。「故事」でさんざん言及した王粛が反対派に名を連ねているのは当然のこと。
 そのうちの一人、高堂隆の議が『宋書』に引用されているのだが、ここで全文引用するのはひかえたい。彼は経書緯書の記述をとにかく集めて、

以前検後、謂軒轅、高辛、夏后氏、漢皆以十三月為正。少昊、有唐、有殷皆以十二月為正。高陽、有虞、有周皆以十一月為正。後雖百世、皆以前代三而復也。

という結論を引き出し、改正すべしと主張する。先の「故事」の考察を想い起してほしいが、高堂隆は辛毗や王粛らの解釈には従わず、鄭玄と同じ理解を示し、必ず正朔は改めるのだとしているわけだ(『三国志』高堂隆伝も参照)
 他の賛成派の意見を見ることはできないが、他の人物たちにしても、その主旨は革命の義を明らかにするに尽きるだろう。それ以外に何か論点あるだろうか。
 対して反対派だが、こちらはいっさい議が引用されていないのでわからない。ひとつは王粛に代表されるように、経学的に改正は不当であると反論できるだろう。また実際上の問題からしても不都合だとも言えるだろう、夏正がいちばん無難で適切だという具合に。想像にすぎないが、おおよそそういうところに落ち着くのではないか。
 そんで明帝の下した結論というと、当然ながら「改正すべし」。『宋書』にはそのとき(青龍5年)に下した詔を引用されている。『三国志』の明帝紀では省略されている詔なので貴重?といえば貴重だが、もう疲れてきているのでポイントだけ引用する。

雖炎、黄、少昊、顓頊、高辛、唐、虞、夏后、世系相襲、同気共祖、猶予昭顕所受之運、著明天人去就之符、無不革易制度、更定礼楽、延羣后、班瑞信、使之煥炳可述于後也。至于正朔之事、当明示変改、以彰異代、曷疑其不然哉。文皇帝踐阼之初、庶事草創、遂襲漢正、不革其統。朕在東宮、及臻在位、每覧書籍之林、総公卿之議。夫言三統相変者、有明文。云虞夏相因者、無其言也。暦志曰、「天統之正在子、物萌而赤。地統之正在丑、物化而白。人統之正在寅、物成而黒」。但含生気、以微成著。故太極運三辰五星於上、元気転三統五行於下、登降周旋、終則又始、言天地与人所以相通也。仲尼以大聖之才、祖述堯舜、範章文武、制作春秋、論究人事、以貫百王之則。故於三微之月、每月称王、以明三正迭相為首。夫祖述堯舜、以論三正、則其明義、豈使近在殷周而已乎。朕以眇身、継承洪緒、既不能紹上聖之遺風、揚先帝之休徳、又使王教之弛者不張、帝典之闕者未補、亹亹之徳不著、亦悪可已乎。今推三統之次、魏得地統、当以建丑之月為正。考之群芸、厥義彰矣。改青龍五年春三月為景初元年孟夏四月。服色尚黄、犧牲用白、戎事乗黒首之白馬、建大赤之旗、朝会建大白之旗。春夏秋冬孟仲季月、雖与正歳不同、至於郊祀迎気、礿、祀、烝、嘗、巡狩、蒐田、分至啓閉、班宣時令、中気晚早、敬授民事、諸若此者、皆以正歳斗建為節。此暦数之序、乃上与先聖合符同契、重規疊矩者也。今遵其義、庶可以顕祖考大造之基、崇有魏維新之命。

 すいません、結局全体の八割くらい引用してしまって。
 ①経学的に根拠がないってのがかえって間違っている、どの革命時にも三正原理が機能しているのは明確に記述があるが、なかったとする記述はない、と。たしかに、緯書が中心とはいえ、緯書には堯舜などでも改正していることが明記されているのだから、ここは王粛らの弱みとも言える。また明帝は、孔子が堯や舜を祖述して三正循環の論を固めたという例を根拠に挙げている。なおこの明帝の例示の典拠は現在調査中。
 ②そうして彼は殷正を導入し、服色、犠牲、馬の色、旗の色を変更した、と。

 たぶん三正を実際にやっちゃったのは彼が最初なので、予想される混乱を回避するための方策もいろいろと講じたのであろうと想像される。
 青龍5年春の3月が景初元年孟夏の4月に変わる、ということは、明帝は四時を「○月」で区別したということである。

春 = 正月、2月、3月
夏 = 4月、5月、6月
秋 = 7月、8月、9月
冬 = 10月、11月、12月

 こういうふうにね。それまでの四時の区切りと比べ1か月早くなるわけだから、こいつは迷惑だ。
 とくに大きな影響が出るのは季節ごとにおこなわれる祭祀や行事だが、こちらになると夏正の暦に従ってやるのだという。たとえば夏正で春三月に実施されていた祭事は、以後は孟夏四月におこなわれる、春の祭事としてね。暦を変えたって、農業の段取りまで変わるわけがないからねえ。明帝なりに農事に配慮してこうしたんだろうが、こいつぁ迷惑だ。そんなんするなら四時の区分を夏正の区分というか、十二支の月区分に合わせたほうがよかないですかね・・・十二支月なら整合性もあるだろうし・・・。これからは12月、正月、2月が春だぞ、と。
 こうやってごちゃごちゃやっているのは、三正説は「正朔変えてました、それぞれで正月ちがいました」とあるだけで、それに伴うもろもろの問題にどう対応していたのかがまったく記されていないために、明帝らで対策、というより三正を変更するとはそもそもどのようなことなのかを拵えなければならなかったということを意味している。だから明帝の四時区分方法とか祭事対策は彼らが編み出したものであって、そうであるからもしかするともっと簡便な方法を創造できたのかもしれない。

 それで色なんですが、じつはこれ、裴松之が『三国志』明帝紀で解説してくれているので私が労をかける必要はそれほどない。

臣松之按、魏為土行、故服色尚黄。行殷之時、以建丑為正、故犧牲旂旗一用殷礼。礼記云、「夏后氏尚黒、故戎事乗驪、牲用玄。殷人尚白、戎事乗翰、牲用白。周人尚赤、戎事乗騵、牲用騂」。鄭玄云、「夏后氏以建寅為正、物生色黒。殷以建丑為正、物牙色白。周以建子為正、物萌色赤。翰、白色馬也。易曰『白馬翰如』」。周礼巾車職「建大赤以朝、大白以即戎」、此則周以正色之旗以朝、先代之旗即戎。今魏用殷礼、変周之制、故建大白以朝、大赤即戎。

 服色が黄色なのは土徳に合わせている。
 犠牲の色が白なのは殷正。
 軍馬が白なのも殷正。
 軍事の旗が赤なのは前代王朝(漢)のカラーだから。『周礼』春官・巾車の「建大白以即戎」という記述に従っている。周が軍旗を白にしているのは前代の殷のカラーだからだと解したそうだ。鄭玄も「大白」は殷の正色のことだと注している。それなら曹魏は戎旗を黒(=夏正)にすべきじゃんと言いたくなるのだが、漢は自らの正色に黒を用いていなかったから赤にしたとか、そんな事情だろうか。
 朝会の旗が白なのは殷正。

 おっ、色についてはかなり一貫して定まっているじゃあないか。これで正月も殷正なのだから、きれいに殷正でそろっている。
 服色で黄色を採用しているように、五行カラーも決して軽視しているわけではないのだが、経典では古王朝のカラーが三正色で記されることが多いはずなので、それで経典に合わせようとするとどうしても殷正カラー多めになってしまうのではと思われる。
 まあ細かいところはわからないのでともかく、曹魏のカラーは黄と白だったのだ、明帝にとっては。

 こうして明帝念願の改革が実現されたわけだが、彼は景初3年正月に早くも崩じてしまった。すると同年12月、「正月が一周忌では正月行事ができない。でもここで夏正に戻せば正月が1か月先になるから、来月に明帝陛下を偲んで、再来月に正月行事できるぞ、こいつはもう戻すしかありませんな」、と朝臣らで議論がまとまり、夏正に戻ってしまった(詳しくは『宋書』礼志一を参照)
 夏正に戻ることで、服色や旗がどうなったのかは記述がなく不明である。こうなってしまっては白を自王朝のカラーにする必要性も薄まっただろうから、改革前=文帝の方針に戻った可能性はなくはない。

 言っておくが、彼の正朔改正改革には高堂隆や司馬懿らも賛成していた。なかには明帝に媚びただけの者もいるだろうが、高堂隆なんかはとてもそんなつもりではなく、本気に彼の信念から改正を訴えている。
 先に注意を呼びかけていたように、文帝期にも桓階らのような一派は影響力をもっていたはずである。つまり曹魏における正朔改正派は持続的に存在していたし、明帝の改革だってまったくの不支持だらけというわけでは決してないのだ。
 ところが明帝が崩じてしまうと、かくもあっさり戻ってしまった。やってみたらこんな難しいものだとは思わなかった、そんなところなのだろうか。

***
 つづいて晋の武帝。『宋書』礼志一より。

泰始二年九月、群公奏、「唐堯、舜、禹不以易祚改制。至於湯武、各推行数。宣尼答為邦之問、則曰行夏之時、輅冕之制、通為百代之言。蓋期於従政済治、不繋於行運也。今大晋継三皇之蹤、踵舜禹之迹、応天従民、受禅有魏、宜一用前代正朔服色、皆如有虞遵唐故事、於義為弘」。奏可。孫盛曰、「仍旧、非也。且晋為金行、服色尚赤、考之天道、其違甚矣」。及宋受禅、亦如魏晋故事。

 『通典』からも引いておこう(巻55礼典15歴代所尚)

武帝泰始二年、散騎常侍傅玄上議、「帝王受命、応暦禅代、則不改正朔、遭変征伐則改之。舜正月上日、受終於文祖、無改正之文、唐虞正朔皆同、明矣。至殷周革命、乃改。魏受漢禅、亦已不改、至於服色、皆従其本、唯節幡用黄。大晋以金徳王天下、順五行三統之序矣」。詔從之。

 群公の議も傅玄の議も、ともにあの「故事」を共通の根拠として、晋朝も魏から禅譲を受けた革命であるから、正朔を改める必要はないことを説く。群公の議ではさらに、服色についても変更せず、「前代」を継承するよう述べている。そしてこの両者の議が採用されたのだそうだ。
 ここで注意に値するのは群公の議の「宜一用前代正朔服色」という記述。ここの「前代」は通常に考えると曹魏を指すと考えられるだろう。
 しかし、『宋書』は議の末尾に孫盛のコメントを引用しているが(『通典』によるとこれは『晋陽秋』の論であるらしい)、そのなかに「晋為金行、服色尚赤」とあり、晋が「前代」の服色として継承・採用したのは赤色であったことがわかる。これは明らかに曹魏ではなく漢の服色のはずである。
 また服以外のことについても『晋書』輿服志に言及がある。

魏景初元年、改正朔、易服色、色尚黄、牲用白、戎事乗黒首白馬、建大赤之旂、朝会則建大白、行殷之時也。泰始二年、有司奏、「宜如有虞遵唐故事、皆用前代正朔服色、其金根、耕根車、並以建赤旗」。帝従之。

 ここの「有司奏」はおそらく『宋書』の群公の議に相当すると思われ、この文の末尾の「其金根、耕根車、並以建赤旗」は『宋書』では省略されてしまったのではないかと考えられる。金根車と耕根車のときは赤い旗を立てたのだという。ちょい車は私も知識不足なのだが、ともに天子の乗る車で、金根が通常に乗る車、耕根が天子が自ら耕作をするとき(藉田なんかだろう)に使用したらしい。

 だいぶ前に魏晋の四時朝服、五時朝服について触れたが、そのとき、四時/五時朝服と対比的な意味での朝服は赤の袍一色であったと述べた。晋朝の服であるのに、どれか一色を選ぶとなったらなぜか赤であるのだ[7]。朝服ではない下位の官についても、絳科単衣、絳褠と、やはり赤が基調なのである。
 以前よりこのことは気になっていたのだが・・・上記史料の記述の意味が解釈できたことで、なんとなく得心がいった。すなわち、晋朝は「前代」=漢の服色である赤を継承して採用したからなのだ。
 もちろん、だからといって晋朝の服制が漢のそれそのままであるとは限らない。そうであったとも言えるかもしれないし、あるいは晋朝によって構築された漢制という意味あいにすぎないのかもしれない。
 また曹魏明帝の没後、服色や旗がどうなったかは判然としないと前述したが、この晋朝時期の記述をもって、明帝没後に曹魏も漢制や文帝の制に戻ったのだと主張することはできない。晋の武帝のときになって、「故事」理論でいくのなら漢制を採用しないといかんなあ、という次第で漢制が復元されたのだとも考えられるからだ。

 晋朝でどうして漢の色がそのまま尊ばれたのか。群公の議も傅玄の議も、漢が偉かったからだ、なんて感情はまったく見せていない。そんなつもりで継承を主張しているのではない。それはたんに三正原理に従った改正をおこないたくないという消極的な理由から生じた結果であると思われる。
 彼らが改正をしない根拠として持ち出したのは、曹魏文帝と同様、あの「故事」であった。この「故事」は禅譲革命であるかぎり正朔変更の必要はないとするものであった。この理論に従う以上、彼らの禅譲革命の起点となる漢朝が特別な位置を占めるのは必然である、議の「前代」が曹魏であるというのはまったく考えられない。こういうふうに解釈を進めていくのが穏当だと思うが、どうであろうか。

***
 私が今回確認したかったことは、ただ革命時に三正原理が色の決定にいかなる作用を及ぼしたか、ということである。けっこう大きかったように見えますね。
 三正原理に従った正朔の改正はこの後あったのだろうか、ということも一言しかるべきであろうが、もうここいらで疲れたので。ざっと見た感じ、改正は基本やってなかったはず。武則天ぐらいじゃなかったか。まあやらんだろう。晋の武帝の選択は、曹魏明帝の改革が失敗に終わったことへの反省であるとみなすことができる。一度挫折してしまった試みが復活するのは容易でないはずだ。

 曹魏明帝、彼のやりかたはあんまりいい方法であったとは個人的には思えないのだが、それは措いてともかく、彼がポスト漢朝としての新しい王朝の形式をつくることに腐心していたことは確かであろう。
 文帝にしたって、その意思がまったくなかったとは言えない。
 だが試みは明らかに失敗した。文帝は「故事」という理論で何もしないことを正当化することにしたし、明帝の改革はすぐに撤回されてしまった。
 晋の武帝期では、もはや三正原理に沿って改正をおこなうこと自体を忌避するために「故事」理論を掲げているようにさえ思える。それは明帝改革失敗の記憶がまだ残っていたからなのかもしれない。
 しかし皮肉なことに、三正の改革が失敗したことがその後の王朝の形式をつくりだした。禅譲革命であるかぎり、正朔や服色もろもろは変更せずとも正当であること、そしてその起点は漢であること。
 漢は敬意を払われた結果、起源に据えられたのではない。彼らの禅譲革命がつづくかぎり、物語は漢を起点としつづけなければならなかった。
 これは一端から眺めたときの解釈であるにすぎない。このあとの時代がどうなのか、ってのも問題ですな。関連研究文献も先の課題ということでご容赦。



――注――

[1]以下の通事郎と高堂隆との問答は、『宋書』巻15礼志二所掲、元嘉6年の有司の奏文中では『魏台雑訪』からの引用となっている。『旧唐書』経籍志では「魏台雑訪議」、高堂隆撰。[上に戻る]

[2]漢制では尚書三公郎が読んでいたのに、どうして魏では中書の通事郎が出てくるのかというと、中書が尚書の仕事をしはじめたらしいことと関係があるのかもしれない。『宋書』百官志訳注(11)参照。ただし魏以降では三公郎が読んでいるっぽい?ので、上記の推測はあまり確かでない。[上に戻る]

[3]小林聡氏は、礼志五の冠服規定を西晋泰始年間の規定であろうと想定している。「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察――『宋書』礼志にみえる規定を中心として」(『史淵』130、1930年)。[上に戻る]

[4]小林聡氏「朝服は中衣・単衣・袍という衣服だけではなく、冠幘や舃(靴の一種)をはじめとする、全身にまとう服飾の一セットを指していた」(「晋南朝における冠服制度の変遷と官爵体系――『隋書』礼儀志の規定を素材として」、『東洋学報』77-3・4、1996年、p. 12)。[上に戻る]

[5]メモ。鄭玄の『尚書』注とされている「高陽氏之後・・・」と同様の主旨の記述が、緯書『礼稽命徴』中にも見えている(安居香山・中村璋八輯、呂宗力・欒保群編『緯書集成』河北人民出版社、1994年、p. 513)。「天子、三公、諸侯、皆以三帛以薦玉。三帛者、高陽氏之後而用赤繒、高辛氏之後用黒繒、其余用白繒」(編者(=非輯者)は、この文は礼記正義・檀弓の疏に尚書の文として引用されていると注しているが、尚書の文ではなく鄭玄注が正確である)。この文には後漢初の宋均の注が附されており、「其余」とは「堯、舜」のことだと解釈している。とすれば、宋均はこの点で鄭玄の解釈と異なっているわけだ。『礼稽命徴』には、「三皇三正、伏羲建寅、神農建丑、黄帝建子。至禹建丑、宗伏羲。・・・」という記述もある。[上に戻る]

[6]五行理論は前漢を通じて整備されてゆき、本文中で言及したように、後漢初に漢は土徳ではなく火徳に正式に定まった。これによって三代王朝の五行も自動に決まるわけで、(秦はスキップして)周が木(=青)、殷が水(=黒)、夏が金(=白)となった。となると、三正色とぜんぜん接点がなくなってしまう、しかし経書には三正色以外の手がかりがない・・・となったところから、なんとかこじつけようとする理屈が生み出されたのであろう。緯書『春秋感精符』に「周以天統、服色尚赤者、陽道尚左、故天左旋。周以木徳王、火是其子、火色赤、左行、用其赤色也。殷以水徳王、金是其母、金色白、故右行、用其白色。夏以人統、服色尚黒者、人亦尚左。夏以金徳王、水是其子、水色黒、故左行、用其黒色」(『緯書集成』pp. 745-46)とあり、三代の五行も五行のうちの赤・白・黒のいずれかに関係あるから・・・と論じているわけだが、これは三代がたまたま、本当にたまたまこういう三正と五行の組み合わせだからこそ成り立つ話であってね・・・。夏正で火徳のときとかどうするん・・・あっ・・・。曹魏は殷正・土徳だから、土徳のうしろに白の金徳が控えているので、ここにあるような屁理屈でなんとかいけなくもないけれども。『感精符』はいつごろから流布していたのかわからないが、漢代には読まれていたのではないかな、たぶん。ともかくこういう記述から察しておきたいのは、五行理論が整備されてくると、王朝のシンボルカラーに五行色をきちんと位置づけなければならなくなった、という点。[上に戻る]

[7]「〔『晋書』輿服志の〕『常服絳衣』は・・・『常服』や『常朝服』を意味していたと考えられる。・・・『宋書』の印綬冠服規定中に頻繁に見える『絳朝服』も同じことを意味しているであろう。つまり、三段階の最下位の『朝服』は外面的な色だけ見れば赤い衣服、すなわち朱服であったわけである」(前掲、小林聡「晋南朝における冠服制度の変遷と官爵体系」、pp. 16-17)[上に戻る]




[追記1]参考。『礼記』月令「以立春、先立春三日、大史謁之天子曰、某日立春、盛徳在木」、「以立夏、先立夏三日、大史謁之天子曰、某日立夏、盛徳在火」、「以立秋、先立秋三日、大史謁之天子曰、某日立秋、盛徳在金」、「以立冬、先立冬三日、太史謁之天子曰、某日立冬、盛徳在水」。[上に戻る]


[注記] 本記事は2015年12月29日に本ブログに投稿した記事「「三正」説と王朝のシンボルカラー――曹魏朝は何色か。」を独立させたものである。(2017年5月12日)

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