2016年6月13日月曜日

『宋書』百官志訳注(12)――中央軍

 領軍将軍は一人。内軍〔注 [2] を参照〕を管轄する。漢に南北軍がおり、京師を防衛していた。武帝は中塁都尉を置き、北軍営を管轄させた。光武帝は中塁校尉を廃して北軍中候を置き、五校尉〔屯騎校尉、歩兵校尉、越騎校尉、長水校尉、射声校尉〕の営を監督させた。魏武帝が丞相となると、武帝は丞相府に領軍将軍を設けたが、これは漢の制度の官ではない。文帝が魏王につくと、魏ははじめて領軍将軍を置き〔曹操の設けた領軍将軍はあくまで丞相府内の役職名にすぎなかったが、文帝はこれを朝臣の職として設置した、ということであろう〕、五校尉、中塁校尉、武衛将軍の三営を管轄させた。晋の武帝のはじめに廃され、中軍将軍の羊祜に二衛〔左衛将軍、右衛将軍〕・前後左右軍・驍騎の七軍の営兵を管轄させたが、すなわちこれは領軍将軍の職務である(中軍将軍の羊祜に領軍将軍の職務をおこなわせたのである)。羊祜が(中軍将軍から)転任すると、(中軍将軍に領軍将軍の役目も果たさせる)この方式をやめ、北軍中候が復置され(領軍将軍の職務を担うようになっ)た。北軍中候は丞を一人置いた。懐帝の永嘉年間、中領軍に改称された。元帝の永昌元年、北軍中候に戻された。まもなく領軍将軍に戻された。成帝のとき、またも北軍中候とされ、陶回をこれに任じた。まもなく領軍将軍とされた。領軍将軍は現在の南軍都督〔不詳、他に用例もわからず。唐の南衙に相当する組織のボスとか?〕のようなものである[1]
 護軍将軍は一人。外軍[2]を管轄する。秦のとき、護軍都尉がおり、漢はこれを継承した。陳平が護軍中尉となり。すべての諸将を統括した。したがって、(漢のときは)都尉を中尉としたのであろう。武帝の元狩4年には、護軍都尉を大司馬に所属させているので、このときには都尉に戻ったということだろう。『漢書』李広伝によると、李広は驍騎将軍となり、護軍将軍に所属していた。「護軍」とは諸将軍を護する(=統括する)ということなのだろう。哀帝の元寿元年、護軍都尉を司寇に改称した。平帝の元始元年、護軍都尉に改称された。東漢は(護軍を)廃した。後漢の班固は大将軍〔竇憲〕の中護軍となり、大将軍の幕府に所属していたが、(この中護軍は)漢朝の常職ではない。魏武帝が丞相となると、韓浩を護軍将軍とし、史渙を領軍将軍としたが、(いずれも)漢の制度の官職ではない。建安12年、護軍を中護軍に、領軍を中領軍に改称し、長史、司馬を置いた。魏のはじめ、中護軍を継承して護軍将軍が置かれ、武官の選挙を職務とし[3]、領軍将軍に所属していたが、晋のときは所属しなくなった。晋の元帝の永昌元年、護軍将軍を廃して領軍将軍に統合した。明帝の太寧2年、復置された。魏、江右では領軍将軍と護軍将軍はそれぞれ営兵を有していたが、江左以降では、領軍将軍に独自の営が置かれることはなく、二衛・驍騎・材官(将軍)の営を統率し、(一方で)護軍将軍は依然として独自の営を有していた。領軍、護軍の職は、「資」[4]が重い者は領軍将軍、護軍将軍となり、「資」が軽い者は中領軍、中護軍となった。属官には長史、司馬、功曹、主簿、五官がある[5]。詔命を受けて出征するさいは、(府に)参軍を置く。
 左衛将軍は一人。右衛将軍は一人。二衛将軍は宿衛する営兵を統率する。二漢と魏は設けていない。晋の文帝が相国となると、相国府に中衛将軍を置いた。武帝のはじめ、中衛を分割して左右衛将軍を置き、羊琇を左衛将軍に、趙序を右衛将軍にした[6]。江右のときは、長史、司馬、功曹、主簿が置かれていたが、江左では長史が廃された[7]
 驍騎将軍。漢の武帝の元光6年、李広が驍騎将軍となっている。魏のとき、驍騎将軍は内軍とされ、営兵が置かれた。功績が高い者がこの任に就いた[8]。以前では司馬、功曹、主簿がいたが、のちに(すべて)廃された。
 游撃将軍。漢の武帝のとき、韓説が游撃将軍となっている。
 これら(領軍・護軍・左衛・右衛・驍騎・游撃)が六軍である。
 左軍将軍、右軍将軍、前軍将軍、後軍将軍。魏の明帝のとき、左軍将軍が(記録に)見えているので、左軍将軍は魏の(設けた)職であろう。晋の武帝のはじめ、前軍将軍、右軍将軍を置き、泰始8年には後軍将軍を置いている[9]
 これら(左軍・右軍・前軍・後軍)が四軍である。
 左中郎将、右中郎将。秦の官である。漢は秦を継承して設け、五官中郎将とともに三署の郎を統括していた。魏では三署郎が置かれなかったが、この職はそのまま置かれていた。晋の武帝は廃した。宋の世祖(孝武帝)の大明年間に復置された[10]
 屯騎校尉、歩兵校尉、越騎校尉、長水校尉、射声校尉。この五校尉はみな漢の武帝が置いた[11]。屯騎校尉、歩兵校尉は上林苑の門の駐屯兵を統率した[12]。越騎校尉は来降して騎兵とされた越人を統率した。(また)一説によると、「体力が超越している」の意から(越騎の名前が)採られたという[13]。長水校尉は長水宣曲胡騎を統率した。長水は胡の部落名で、胡騎は宣曲観の下に駐屯していたのである。韋曜は「長水校尉は胡騎を統率する。厩が長水に近かったため、名称に取られたのである。長水とは関中の小河川の名前であろう」と言っている[14]。射声校尉は射声士を統率する。声(号令)を聞けば射撃したので、名称とされたのである[15]。漢の光武帝のはじめ、屯騎を驍騎、越騎を青巾に改称した。建武15年、旧称に戻した[16]。東漢の五校尉は(洛陽の)宿衛兵を統率した[17]
 游撃将軍から五校尉までの将は、魏晋より江左のあいだ、当初は(すべて前代以来)依然として営兵を有しており、みな司馬、功曹、主簿を置いていたが、のちに(官自体が?)廃された[18]。左右の中郎将はもともと営兵を有していなかった。五校尉は秩二千石。
 虎賁中郎将。『周礼』には虎賁氏が見えている[19]。漢の武帝の建元3年、(武帝が)はじめて忍びの外出をしようとして、体力のある兵士を選び、武器を持たせて警護させようとした。そのとき(兵士と)門で集合をしたので、(彼らを)期門と呼ぶようになった。(期門郎に)定員はなく、多いときは千人にいたった。平帝の元始元年、虎賁郎に改称され、中郎将を置いて統率させた。虎賁は当初、「虎奔」と表記されていたが、それは虎の奔走するさまを言っていたのである。王莽が輔政すると、いにしえには勇士の孟賁がいたので、(彼にちなんで)「奔」を「賁」とした[20]。秩は比二千石。
 宂従僕射。東漢に中黄門宂従僕射が置かれていたが、この官とは関係がない。魏のときにその名称(だけ)を継承して宂従僕射が置かれた[21]
 羽林監。漢の武帝の太初元年、建章営騎を設けた。護衛をさせ、期門に次ぐ兵士であった[22]。のちに羽林騎に改称し、令、丞を置いた。宣帝は中郎将〔羽林監督のために中郎から一人選んで中郎将にしたって意じゃないかしら〕と騎都尉に羽林を監督させた。これを羽林中郎将と呼ぶ。東漢ではまた、羽林左監、羽林右監を置き、魏の時代までそのままであった。晋は羽林中郎将を廃し、また監をひとつ廃して、ひとつだけ置いた。
 虎賁から羽林までは三将である。哀帝は(三将をすべて)廃した。宋の高祖の永初のはじめ、復置された。(三将は)江右では営兵を有していたが、江左では率いることはなかった。羽林監は秩六百石。
 積射将軍、強弩将軍。漢の武帝が路博徳を強弩校尉とし、李沮を強弩将軍とした。宣帝は許延寿を強弩将軍とした。強弩将軍は東漢のときに雑号将軍とされた。前漢から魏までは積射将軍は見えていない。晋の太康10年、射営、弩営を設立し、積射将軍、強弩将軍を設けて各営を統率させた[23]
 驍騎将軍から強弩将軍まで、以前はみなそれぞれ一人置かれていた。宋の太宗の泰始年間以降、多くは軍功をもってこれらの官職を得るようになり、現在ではみな定員はない。
 殿中将軍、殿中司馬督。晋の武帝のとき、殿内の宿衛兵は「三部司馬」と呼ばれた。(武帝は殿内の宿衛軍として三部司馬とは別に?)殿中将軍、殿中司馬督のふたつの官を創設し、(殿中将軍・司馬督を?)左右の二衛に分けて所属させた[24]。江右のはじめ、定員は十人であった。朝会や饗宴のさいは、殿中将軍は戎服(軍服)を着て、左右に直侍し、夜に門を開くときには、白虎幡を手にして監督した。晋の孝武帝の太元年間、選考規定を改め、門閥の者を充てることとした[25]。宋の高祖の永初のはじめ、二十人に増員した。その後、定員を超過して任命された者を殿中員外将軍、員外司馬督と呼ぶようになった。その後、どれも定員はなくなった。
 武衛将軍は定員なし。当初、魏王がはじめて武衛中郎将を置いたのだが、文帝が即位すると、(武衛中郎将を)(武)衛将軍〔原文「衛将軍」。「武」字が脱落したのだろうと判断し、補う〕に改称し、禁軍を統率させた。その職務は現在の左右二衛将軍と同じもので、(現在の武衛将軍の)職務とは異なっていた。晋氏は常設しなかった。宋の世祖(孝武帝)の大明年間、復置し、殿中将軍に代わってその職務を担当し、(位は?)員外散騎侍郎に比した。
 武騎常侍は定員なし。西漢の官である。天子が游猟したさい、つねに随従して猛獣を射た。後漢、魏、晋では置かれなかった。宋の世祖(孝武帝)の大明年間、復置された。奉朝請に比した。



――注――

[1]なお西晋時代の領軍将軍は閑職であったらしい。『北堂書鈔』巻64領軍将軍「伯従容養病」に引く『晋起居注』に「武帝太始四年、詔曰、尚書韓伯、陳疾解職、領軍閑、無上直之労、可得従容養病、更以伯為領軍、進丹陽尹」。まあ正確には「閑職」という表現では強すぎる?感じになってしまうのだが、この起居注では「上直」(宮殿?での宿直)の肉体労働がないから「閑」だと言っているにすぎず、別に権力がまったくないとか、やることがなんにもないとか、そういう意味での閑職ではない。[上に戻る]

[2]内軍と外軍については不詳。何茲全「魏晋的中軍」(『何茲全文集』第2巻、中華書局、2006年所収、初出はもっとずっと古いけど正確には調べていない)、越智重明「領軍将軍と護軍将軍」(『東洋学報』44-1、1961年)のでの解釈をごくおおざっぱにまとめると以下の表のとおり。

内 軍外 軍
何 氏洛陽城内外に宿衛・駐留する軍地方に出鎮する都督が率いる軍
越智氏洛陽城内に宿衛する軍洛陽城外の近辺に駐留する軍


  越智氏にとっての内・外軍は何氏からすればぜんぶ内軍になる次第。また内軍は「中軍」とも呼ばれていたことは越智氏が明確に指摘しているが、両氏とも内・外軍と都督中外諸軍事を結びつけて理解している。
 で、私も少し調べたりしたのだが、情報が少なすぎてなんともわからない。強いて言うと、注 [17] で説明するように、漢の中央軍は宮城の内側・外側でおおざっぱに区別されているっぽいし、それは唐でも同じだったようだし、魏晋の内・外軍にかんしてもじつは同様なんじゃないかと思ったりはしている。
 そのように考えた場合に問題になるのが、『宋書』巻57蔡廓伝の蔡廓の書簡中にある「今護軍総方伯、而位次故在持節都督下」という記述。「外軍は洛陽城近辺の軍団である」と主張した越智氏はこの記述を「宋になって護軍将軍の性質に変化が起こり、地方軍(方伯=州刺史=都督)にも支配力を及ぼすようになった」(大意)としている。あんまり具合が良い解釈にもみえる。
 こうなってくると何氏のように、外軍はもともと地方の都督諸軍事の軍であると考えたほうがすっきりしないだろうか(何氏は『宋書』のこの記述に言及していないが、念頭には置いていたのかもしれない)。
 しかしこれはこれで難点がある。『晋書』巻34武十三王伝・淮南王允伝「会趙王倫廃賈后、詔遂以允為驃騎将軍、開府儀同三司、侍中、都督〔揚江二州諸軍事〕如故、領中護軍。允性沈毅、宿衛将士皆敬服之」というものだ。なぜ淮南王が「宿衛将士」に「敬服」されたのか。それは彼が「領中護軍」であるから以外に考えがたいのではないだろうか。やはり護軍将軍は中央の宿衛軍を統べる将軍と考えるのが妥当ではないのだろうか。
 また楚王瑋の騒動のときのこと。『晋書』巻36張華伝「楚王瑋受密詔殺太宰汝南王亮、太保衛瓘等、内外兵擾、朝廷大恐、計無所出。華白帝以、瑋矯詔擅害二公、将士倉卒、謂是国家意、故従之耳。今可遣騶虞幡使外軍解厳、理必風靡。上従之、瑋兵果敗」とあり、楚王の動員している内・外軍に対して騶虞幡を使って矯詔を伝えれば外軍は解散できるぞ、と張華が献策している。しかしなぜ内軍はその対象に入らないのだろう。巻59楚王瑋伝によると、このとき楚王は「勒本軍、復矯詔召三十六軍」という。当時の楚王は領北軍中候、ようするに領軍将軍相当であるから、「本軍」とは「内軍」を指すのだろうと思われる。そして矯詔で召集した「三十六軍」こそ、張華が騶虞幡で解散できるとした「外軍」のはずである。内軍は自分の権限で動員できるが、外軍にかんしては部外なのでそうもいかない、そこで矯詔を使って召集した、というか矯詔でなければ集められなかった。張華はこの弱みを突き、少なくとも外軍は解散できる策を建てた、結果的には内軍も解散したけど。という内実なんじゃないか。
 こう考えていくと、何氏説に従ってここの「外軍」を理解するのは難しくないだろうか。楚王がすぐに呼べる「三十六軍」なんてどう考えたって洛陽ないし洛陽周辺に駐留していると考えるほかないと思うのだが・・・。
 何氏説の立場から反論しようと思えば、「淮南王允伝の記述は護軍将軍の率いる営が宿衛軍であるというだけで、外軍が宿衛軍であるとまでは言えない、護軍営が外軍であることを示せ」ってできるだろう。無理だわな。外軍と護軍営が別であることも示せないけどな。そんな意地悪な理屈を言い出さずとも、そもそも『宋書』蔡廓伝を突きつけられたら抵抗できないがな。でも蔡廓伝で言わんとしている文意って軍団の統率関係の話ではなくて(以下略)
 こういう感じにとくに根拠もないまま巡っていくのでわからないままとしておきます。[上に戻る]

[3]武官の選挙のことについて。『通典』巻34職官典16勲官の原注に長々と考察がおこなわれている。大意は「領軍将軍が選挙したって記述も一部にあるけど、護軍が領軍に統合されていたときのことだから」っていうもの。「歴代史籍皆云、護軍将軍主武官選、則領軍無主選之文。唯陶藻職官要録云、『領軍将軍主武官選挙』、而護軍不言主選。又引曹昭叔述孝詩叙曰、『余年三十、遷中領軍、総六軍之要、秉選挙之機』。以此為証。今按、漢高帝初、以陳平為護軍中尉、令已主武官選矣。故平有受金之讒。又魏略云、『護軍之官、総統諸将、主武官選、前後当此官者、不能止貨賂。故蒋済為護軍、時有謡曰、「欲求牙門、当得千匹。五百人督、得五百匹」。司馬宣王与済善、聞此声以問済、済無以解之。及夏侯玄代済、故不能止絶人事。及晋景帝代玄為中護軍、整頓法分、人莫敢犯者』。又王隠晋書曰、『景帝為中護軍、作選用之法、挙不越功、吏無私焉』。又晋起居注云、『武帝詔曰、「中護軍職典戎選、宜得幹才」。遂以羊琇為之」。宋志又云主武官選。按此、則護軍主選、明矣。而陶藻所言領軍主選、及昭叔之叙者、当因省併之際、為一之権宜、非歴代之恒制」。[上に戻る]

[4]「資」については過去記事の注 [1] をさしあたり。[上に戻る]

[5]『南斉書』巻16百官志「諸為将軍官、皆敬領、護。諸王為将軍、道相逢、則領、護譲道」。[上に戻る]

[6]中華書局版『晋書』巻24職官志「左右衛将軍、案文帝初置中衛及衛、武帝受命、分為左右衛、以羊琇為左、趙序為右」。「文帝が中衛と衛を設けた」なんて変な文だが、中華書局によると、宋本だけが「及」の下に「衛」字があり、ほかはないのだという。んで、文帝のときにはたしかに中衛将軍と衛将軍が並立していたからこれは宋本が正しいとしているのだが、それはいかがなものか・・・。それだと後ろの「分為左右」って何を分けたんですかね・・・。
 興味深いことに、銭大昕『廿二史考異』巻20でちょうどこの文が取り上げられているのだが、まず本文が「案文帝初置中衛、及武帝受命、分為左右衛」と引用されている。問題の箇所は「衛」字ではなく「魏」になっている。そんで銭氏は「此晋武帝事、非魏武帝也、魏字衍、文帝亦謂晋文帝、非魏文帝」と、「魏」はまちがいだし、衍字だ、とコメントしている。そういわれると、先の『晋書』の文も「衛」を消して「及」を「武帝受命」にくっつければすごく読みやすいわな。
 私の手元には、『晋書』は中華書局本と宋本しかないので、銭氏の閲覧したように作る本があるのか確認できないが、読みとしては銭氏のほうが納得できるものがある。『宋書』の記述とも対応するしね。[上に戻る]

[7]注 [24] でちょい触れるが、左衛の率いる軍(営兵)は熊渠虎賁、右衛は佽飛虎賁という名称であった?らしい。『晋書』職官志「左衛、熊渠武賁、右衛、佽飛武賁」。どっちも漢代から使われていたらしい強い意味のネーミング。唐でも南衙に衛士を送り出す折衝府の名称として使用されている。[上に戻る]

[8]『通典』巻28職官典10左右驍騎「晋領営兵、兼統宿衛」。[上に戻る]

[9]『太平御覧』職官部36後将軍引『晋起居注』「太始八年、置後軍将軍、掌宿衛」。[上に戻る]

[10]『通典』巻29職官典11中郎将「斉左右中郎将属西省」。西省は『宋書』百官志にも言及があり、中書侍郎が西省に勤務し、文書の作成を担ったという(訳注(11)、主に注の [11] あたりを参照)。そのときは言及しなかった(気づかなかった)のだが、『南斉書』百官志に「自二衛、四軍、五校已下、謂之西省、而散騎為東省」とあり、おそらく宿衛軍(四軍、五校尉らをそれに含めていいのか確証はないが)の勤務先?駐留地?宿泊場所?であったらしい。左右中郎将の「属西省」というのも、二衛らと同じく、ってことだろう。[上に戻る]

[11]『漢書』巻19百官公卿表・上によれば、武帝はこの五校尉のほかに三の校尉を設けている。
 中塁校尉。「掌北軍塁門内、外掌西域」。この記述は濱口重國氏によれば、北軍内の監査を職務とする、という意味である(「前漢の南北軍に就いて」、同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、東京大学出版会、1966年、pp. 259-260、初出は1939年)。『続漢書』百官志四・北軍中候によれば、光武帝のときに廃止。中塁校尉の職務は北軍中候が担うようになった。
 胡騎校尉。「掌池陽胡騎、不常置」。『続漢書』百官志四によると、後漢では置かれず、長水校尉に統合された。
 虎賁校尉。「掌軽車」。後漢では射声校尉に統合された。[上に戻る]

[12]屯騎校尉。「掌騎士」(『漢書』)、「掌宿衛兵」(『続漢書』)
 歩兵校尉。「掌上林苑門屯兵」(『漢書』)、「掌宿衛兵」(『続漢書』)[上に戻る]

[13]『漢書』百官公卿表「掌越騎」、『続漢書』百官志四「掌宿衛兵」。百官志本文に記載されている二説は、前者が如淳(の『漢書』注)、後者が晋灼(の『漢書』注)。『続漢書』百官志四の劉昭注「如淳曰、越人内附以為騎也。晋灼曰、取其材力超越也」。劉昭は「案紀、光武改青巾左校尉為越騎校尉。臣昭曰、越人非善騎所出、晋灼為允」。「越人が乗馬得意なワケねーだろ」という理屈をもちだして晋灼説を是とする。
 これに対し顔師古は「宣紀言、(応募)佽飛射士、胡越騎。又此有胡騎校尉。如説是」。宣帝紀には「胡と越の騎」とちゃんと記されているし、このうち「胡騎」は胡騎校尉が統べたであろうから、残る越騎は越騎校尉が率いたにちがいない、だから如淳が正しい、という感じのことを述べている。しかしその「越騎」が「越人の騎」であるとは限らないだろうから、決定打とは言えないような。
 感覚的には劉昭のほうが理に適っている気がするが、顔師古が前人の劉昭の解釈をまったく知らないなんて考えづらいし、師古がそれを採らなかったのにはなにか理由があるのだろう。確たる記述がないのでこれ以上考えようがない。[上に戻る]

[14]『漢書』百官公卿表「掌長水宣曲胡騎」、『続漢書』百官志四「掌宿衛」、また同司馬・胡騎司馬の本注に「掌宿衛、主烏桓騎」。匈奴であろうと烏桓であろうと、北方非漢族系で組織された騎兵部隊を率いたのであろう。なお『後漢書』紀1光武帝紀・下によれば、建武7年に射声校尉とともに廃され、建武15年に復置されている。
 百官志本文における名称の解説については、『続漢書』劉昭注「如淳曰、長水、胡名也。韋昭曰、長水校尉典胡騎、厩近長水、故以為名、長水蓋関中小水名」、『漢書』顔師古注「長水、胡名也。宣曲、観名也、胡騎之屯於宣曲者」を参照。
 如淳や韋昭は断片的にしかわからないが、『宋書』百官志と顔師古は「長水宣曲胡騎」でひとつの語とみなしているらしい様子だ。長水という胡で編成された騎馬部隊が宣曲に駐屯していたからだ、と。長水を胡名とするのは、『漢書』巻54李広伝「衛律者、父本長水胡人」などの記述を根拠にしているのだろう。
 対して韋昭は、長水を地名と考えている。濱口重國氏の紹介によると、長水は長安城の東を流れていた河川として実際に記録にあるらしい。ただ韋昭が宣曲をどう解していたかは不明で、長水と宣曲の関係をどう理解していたのかがわからないのが残念。なお濱口氏は、長水をめぐる二説を紹介したあとで「断定は避けて置き度い」と述べている(「前漢の南北軍に就いて」、pp. 264-265、注の31)。長水が実際にあったと確認できても、そんなんで解決にいたらないほど深い闇があることを詳述されているので興味がある方は参照ください。
 しかしそもそも、『宋書』百官志や顔師古の解釈は根本的なところで誤っているらしい。『漢書』の「長水宣曲胡騎」というのは「長水胡騎と宣曲胡騎」と読むのが正確なようである。詳しくは濱口氏「前漢の南北軍に就いて」、p. 255を参照のこと。[上に戻る]

[15]『漢書』百官公卿表「掌待詔射声士」。同顔師古注引服虔注「工射者也。冥冥中聞声則中之、因以名也」、同引応劭注「須詔所命而射、故曰待詔射也」。『続漢書』百官志四「掌宿衛兵」。長水校尉のところで述べたように、建武7年に配され、同15年に復置。[上に戻る]

[16]『後漢書』紀1光武帝紀・下によれば、建武9年3月「初置青巾左校尉官」、建武15年6月「復置屯騎、長水、射声三校尉官、改青巾左校尉為越騎校尉」。屯騎校尉が驍騎校尉に改称されたとの記事は検索するかぎり見つからないが、李賢は長水校尉らと同じく建武7年のことだと注している。[上に戻る]

[17]領軍将軍のところで、「漢代では京師を守る軍を南北軍と呼んだ」との記述があったが、ほかでもなくこの五校尉こそ、後漢時代における北軍であった。この注では漢代の南北軍を濱口重國「前漢の南北軍に就いて」および「両漢の中央諸軍に就いて」(同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、初出は1939年)に従って簡単にまとめておきたい。
 前漢では、衛尉の軍が南軍、中尉(のちに執金吾)の軍が北軍と呼ばれていた。この通称は、南軍の屯所が長安城西南にある宮城内に、北軍の屯所が長安城北部に設けられていたことによっているという。衛尉は宮城の門およびその内側を、中尉は宮城門外および長安城内を、それぞれ警護していた。この南北軍とは別に、宮殿の門およびその内側の警衛には郎中令(のちに光録勲)があたっている。また武帝はこのほかにもさまざまな特殊部隊を創設している。期門(のちに虎賁)、建章営騎(のちに羽林)はおもに外出時などにおける侍従部隊で、光録勲に属した。屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁・中塁の八校尉も武帝の創設である。これらを北軍に数える説もあるが、諸校尉の屯所はバラバラで、職務も統一されておらず(上林苑の門の警備や、池陽、宣曲など離宮の警備・・・)、諸校尉は「天子の私的な用に供した・・・天子の私的な部隊」とみなしておくのが穏当のようである(「両漢の中央諸軍に就いて」、p. 272)
 後漢では屯騎・歩兵・越騎・長水・射声の五校尉が北軍と呼ばれるようになり、北軍中候が北軍を監督した(ほかの三校尉については注 [10] 参照)。五校尉はこれまでの諸注でいちいち引用した『続漢書』にあるように、後漢では「宿衛兵」を率いており、前漢のような個別特殊部隊というわけではなさそうであるものの、具体的にどのあたりの警備を担当していたのはよくわからず、濱口氏は宮城外周の警衛を職務としていたのではないかと推測している。ほかにかんしては前漢と変わらず、執金吾が宮城外~洛陽城内、衛尉が宮城門~宮城内、光録勲が宮殿内の宿衛や外での侍従を管轄した。
 個人的には、宮殿周辺、宮城内、宮城外できれいに宿衛担当が分かれていることがポイント。魏晋時代の中央軍(要するに内軍と外軍)も同様の状況だった可能性があるかもしれないので。
 なお、すっかり忘れていたが後漢以後の五校尉の様子について(私の関心はほとんど晋にしか向かないので晋しか調べていません、悪しからず)。『太平御覧』巻242職官部40屯騎校尉に引く『司馬無忌譲屯騎校尉表』に「屯騎之任、職典禁旅、御衛事重、必宜其人、豈以微弱所可克堪」とあり、『晋書』巻37譙剛王遜伝附無忌伝によると、無忌は東晋・成帝の咸和年間に屯騎校尉に就任している。この表を奏するも認められずに結局就任したのであろうか。ともかく東晋のこの時期においても、屯騎校尉が「禁旅」を率いて「御衛」をおこなう官に位置づけられていることは確認できる。根拠があるわけではないが、それは西晋以来変わらずそうだったのではないか。また同『太平御覧』の引く『陶氏職官要録』に「屯騎、越騎、歩兵、長水、射声五校尉。案晋官、晋承漢置、以為宿衛官、各領千兵興寧三年、桓温奏省五校尉、永初元年、復置、以叙勲旧」とある。『晋書』巻8哀帝紀を調べてみると、「改左軍将軍為遊撃将軍、罷右軍、前軍、後軍将軍五校三将官」という記述が興寧2年2月の条に見えており、『職官要録』とは年代がじゃっかん違っているが、おそらく同一の出来事のことだろう。桓温の改革の一環で四軍三将といっしょに廃されたようだ。[上に戻る]

[18]原文「自游撃至五校魏晋逮于江左初猶領営兵並置司馬功曹主簿後省」。中華書局は「自游撃至五校、魏晋逮于江左、初猶領営兵、並置司馬、功曹、主簿、後省」と読み、私もその解釈に従っている。「後省」は直前の司馬などではなく、「自游撃至五校」を対象とする文として解した。
 この文の読解にあたって、参考にもなるし厄介にもなるのが『晋書』職官志の次の記述である。「屯騎歩兵越騎長水射声等校尉是為五校並漢官也魏晋逮于江左猶領営兵並置司馬功曹主簿後省左軍右軍前軍後軍為鎮衛軍其左右営校尉自如旧皆中領軍統之」。中華書局の読みは以下のとおり。「屯騎、歩兵、越騎、長水、射声等校尉、是為五校、並漢官也。魏晋逮于江左、猶領営兵、並置司馬、功曹、主簿。後省左軍、右軍、前軍、後軍為鎮衛軍、其左右営校尉自如旧、皆中領軍統之」。太字にした部分のうち、「魏晋」から「後省」までは『宋書』百官志とほぼ同じ文言である。つまり両者は同一の資料を参考にして記事を作成している可能性が高いと思われる。だが『晋書』は『宋書』と違って「後省」以後も文が続いており、『晋書』中華書局班は「後省」を五校尉ではなく四軍にかかるものであるととらえている。
 この中華書局『晋書』の読みが正しいのだとすれば、『宋書』百官志は本来「後省」以後に続けるべき文を省略してしまうという不完全な引用ないし誤読をしていることになる。逆に中華書局『宋書』からすれば、中華書局『晋書』の読み方こそ誤っていることになろう。
 先に触れたように、両者は同一の資料を参考にしていると思われるので、読み方がここまで違ってしまうのはおかしい。同一の資料を参考にしていても、『宋書』と『晋書』それぞれの記事作成者の資料の解釈が異なっていて、それが記事上に反映されているのかもしれないし、また『宋書』にかんしては伝承の過程で脱落が生じた可能性も排除できない。
 と風呂敷を広げてみたけれど、これはたためないです。いろいろと資料が足りなくてどちらの読み方を妥当とすべきかわからないです。なので本文は『宋書』だけで読むことにして、『晋書』から文を補ったり、というようなことはしないことにしました。長々と申しわけない・・・。ただ『晋書』の文は独自な情報でもあるため、いちおう『宋書』+『晋書』案(願望)を下に掲載。

游撃将軍から五校尉までの将は、魏晋より江左のあいだ、当初は(すべて前代以来)依然として営兵を有しており、みな司馬、功曹、主簿を置いていたが、のちに(官自体が?)廃された。左右の中郎将はもともと営兵を有していなかった。左軍、右軍、前軍、後軍は鎮衛軍と言い、左営と右営の校尉は旧来どおり設けられた〔鎮衛軍の営は左と右の二つ?があって、左右の営には部校尉が一人ずつ置かれた?ってことだろうか〕。すべて中領軍が統べた。五校尉は秩二千石。

  なお、越智氏は「左軍、右軍、前軍、後軍為鎮衛軍」の箇所について、「左軍」は衍であり、「興寧二年・・・に・・・右軍、前軍、後軍が(改めて)鎮衛軍となり依然として領軍将軍の支配下にあったとすべきだろう」(注 [2] 前掲越智論文、p. 19)と、前注で触れた桓温 = 哀帝時代の改革のことと読んでいるが、私は「鎮衛」を四軍の別称?のようなものと考えているので、従わない。[上に戻る]

[19]『周礼』夏官・虎賁氏「掌先後王而趨以卒伍〔鄭玄注:王出、将虎賁士、居前後。群行亦有局分〕。軍旅、会同、亦如之、舎則守王閑〔舎、王出、所止宿処。閑、梐枑〕。王在国則守王宮〔為周衛〕」。皇帝が出かけるときも出かけないときも護衛につくやつ。[上に戻る]

[20]『太平御覧』巻241職官部39虎賁中郎将引『応劭漢官儀』「虎賁中郎将、古官也。書称武王伐紂、戎車三百両、虎賁三百人、擒紂於牧之野。言其猛怒如虎之奔赴。平帝元始元年、更名虎賁郎。古有勇者孟賁、改奔為賁。中郎将、冠両鶡尾。鶡、鷙鳥中之異勁者也。毎所攫取、応爪摧碎。鶡尾、上党所貢」。[上に戻る]

[21]『続漢書』百官志三・少府・中黄門宂従僕射・本注「宦者。主中黄門宂従。居則宿衛、直守門戸、出則騎従、夾乗輿車」。職掌だけ見ると、ばっちり宿衛の官。「関係がない」というのは直接の継承関係にはない、宦官の官ではない、職務の類似関係から名前を拝借しただけ、ってことなのかな。[上に戻る]

[22]『続漢書』百官志二・光録勲・羽林中郎将・本注「常選漢陽、隴西、安定、北地、上郡、西河凡六郡良家補。本武帝以便馬従猟、還宿殿陛巌下室中、故号巌郎」、同劉昭注引『荀綽晋百官表注』「言其巌厲整鋭也」。[上に戻る]

[23]『太平御覧』職官部37積弩将軍引(無書名)「晋太康十年、立積弩、積射営各二千五百人、並以将軍領之」、同強弩将軍引『傅暢晋讃』「晋文王、晋台置強弩将軍、掌宿衛」。[上に戻る]

[24]三部司馬については、『晋書』職官志に「二衛始制、前駆、由基、強弩為三部司馬、各置督史」とあり、前駆司馬、由基司馬、強弩司馬を指す。『晋書』の文の読み方はイマイチわからないのだけど、左右衛が設けられたさいに、ほぼ同時に三部司馬が定められた、ということだろうか。『宋書』本文にあるように晋の殿中の宿衛軍であること、また『太平御覧』巻386人事部27健に引く『晋令』に「選三部司馬、皆限力挙千二百斤以上。前駆司馬、取便大戟。由基司馬、取能挽一石七斗以上弓」とあり、特殊な選抜で編成された軍であること、いずれにおいても漢代の虎賁や羽林に類似した部隊であるとみなしてよいと思われる。
 三部司馬の立場はやや特殊であったようだ。『晋書』巻40揚駿殿の武帝遺詔に「若止宿殿中、宜有翼衛、其差左右衛三部司馬各二十人、殿中都尉司馬十人、給駿」とあり、三部司馬が左右衛に所属しているっぽいように記されている。だが、彼らの立ち位置はそれほど単純でない。巻59趙王倫伝にはしばしば三部司馬が見えているが、たとえば趙王が賈后を廃する計画では、趙王は事前に殿中や左右衛の将校たちの協力を内密に得ている。宮中での行動には彼らの助けが不可欠であったのだろう。これはこれで興味深いことではあるが、しかし左右衛の部督の内応を得ているにもかかわらず、「至期、乃矯詔勅三部司馬曰、・・・於是衆皆従之」と、矯詔で三部司馬を動かしている。その後、趙王倫が帝に即くときには、「左衛王輿与前軍司馬雅等、率甲士入殿、譬喩三部司馬、示以威賞、皆莫敢違」と、趙王の即位に不満を抱かせぬよう、左衛将軍らが三部司馬を説得している。三部司馬は内軍となんらかの関係はあったのだろうが、こうした事例等を見ると皇帝の私兵的な側面があった集団だったのかもしれない。なお趙王のクーデター時には、「倫又矯詔開門夜入、陳兵道南、遣翊軍校尉、斉王冏将三部司馬百人、排閤而入」とあることから、三部司馬の駐留地は宮城外北であった可能性がある。

 百官志本文は、私が複雑に考えすぎているだけなのかもしれないが、意味が汲み取りづらく、訳文のような補足を加えつつ解釈しておいた。南朝の史書にしばしば右衛殿中将軍、左衛殿中将軍が登場しているので、殿中将軍が二衛に所属しているのは確かなのであろうが、本文で言っているのはそのことであるのかどうかは自信がない。
 なお『晋書』の前引の文にはさらに以下のような記述が続いている。「左衛、熊渠武賁、右衛、佽飛武賁。二衛各五部督。其命中武賁、驍騎、遊撃各領之。又置武賁、羽林、上騎、異力四部、并命中為五督。其衛鎮四軍如五校、各置千人。更制殿中将軍、中郎、校尉、司馬、比驍騎。持椎斧武賁、分属二衛。尉中武賁、持鈒冗従、羽林司馬、常従、人数各有差。武帝甚重兵官、故軍校多選朝廷清望之士居之」。不詳のところも多いので直訳気味に読んでみる。「左衛は熊渠虎賁、右衛は佽飛虎賁を率いる。左右衛はそれぞれ部督は五人。命中虎賁は驍騎将軍、游撃将軍が率いる。ほかに虎賁、羽林、上騎、異力の四部を置き、これらと命中部を合わせて五督という。衛鎮の四軍は五校尉と同様に各千人。また殿中将軍、殿中中郎将、殿中校尉、殿中司馬を設け、(殿中将軍の位は?)驍騎将軍に相当した。持椎斧虎賁は左右衛に分かれて所属した。殿中虎賁、持鈒冗従、羽林司馬、常従(虎賁?)の人員はそれぞれ等差が定められていた。武帝は兵官を非常に重視していたため、禁軍将校には朝廷の名声ある人士を抜擢して就けていた」。
 多くの固有名詞はよくわからないやつばかりなので措くが、問題になりそうなのが「二衛各五部督」の箇所。この「五部督」を、後文の虎賁+羽林+上騎+異力+命中=「五督」と同一とみなすべきか否か。同じと考えたいところだが、五督の一つである命中部が驍騎と游撃に率いられると記されているのに、さらに二衛にも統属するのかと思うとやや違和がなかろうか。あるいはこの五部を三部司馬+αと解釈することも可能だとは思うが、特に根拠なくそこまで踏み込むのは気が引ける。ということで、私は「二衛には部が五つある」の意味で解釈することにしました。
 なお、命中虎賁のような「――虎賁」というのは、虎賁中郎の営の虎賁というより、禁軍兵の一般的通称のように?使われているっぽい。『周礼』の影響だろうか。『晋書』巻26食貨志の戸調式にはいろいろな虎賁がみえているので引用だけしておく。「第九品及挙輦、跡禽、前駆、由基、強弩司馬〔三部司馬と同じような挙輦部、跡禽部というのもあったようだが他に用例はなし〕、羽林郎、殿中冗従武賁、殿中武賁、持椎斧武騎武賁、持鈒冗従武賁、命中武賁武騎、〔得衣食客〕一人」。[上に戻る]

[25]『北堂書鈔』巻64驍騎将軍「遷名家以参顧問」引『晋起居注』「殿中将軍、武帝太元中、募選名家、以参顧問、始用琅琊王茂之奏也」、『宋書』巻64裴松之伝「年二十、拝殿中将軍。此官直衛左右、晋孝武太元中、革選名家以参顧問、始用琅邪王茂之、会稽謝輶、皆南北之望」。裴松之伝から察するに、殿中軍は皇帝のボディーガード的なものだったのだろうか。三部司馬とは差別化されているはずだと思うから、三部司馬はこれとはまた別のかたちで帝に身近な警護を担当したのではないかなと。[上に戻る]