2013年8月27日火曜日

趙王倫たむぅ・・・

 昨日、ある方と八王のことに話が及んだので、ついでながら簡単に八王の列伝をパラパラめくりなおしているとき、なかなか面白い話が趙王倫の列伝にあることを思い出したので、ちょっと書いてみた。
『晋書』巻59趙王倫伝
倫・秀並惑巫鬼、聴妖邪之説。秀使牙門趙奉詐為宣帝神語、命倫早入西宮。又言宣帝於北芒為趙王佐助、於是別立宣帝廟於芒山。謂逆謀可成。・・・使楊珍昼夜詣宣帝別廟祈請、輒言宣帝謝陛下、某日当破賊。拝道士胡沃為太平将軍、以招福祐。秀家日為淫祀、作厭勝之文、使巫祝選択戦日。又令近親於嵩山著羽衣、詐称仙人王喬、作神仙書、述倫祚長久以惑衆。

趙王倫と孫秀はともに巫術に傾倒し、妖邪の話を聞き入れていた。孫秀は牙門の趙奉に偽らせて宣帝の神託をでっちあげさせ、倫に早く西宮に入るよう命じさせた。また宣帝が北芒で趙王の助けとなるとも喧伝し、そのために宣帝廟を別に芒山に建てた。(こうして)簒奪の計略は万全だと考えた。・・・(斉王冏らが義軍を挙げて攻めてくると、趙王倫は)楊珍を昼夜、宣帝別廟に行かせて祈祷させていたが、楊珍は毎回、宣帝は陛下〔趙王倫のこと〕に謝しており〔原文「謝」は「わびる」の意でも「感謝する」の意でも取れるが、どちらが妥当か判断できない〕、某日に必ず賊を滅ぼすと言っていると報告した。道士の胡沃を太平将軍に任命し、吉を呼び込もうとした。孫秀の家では毎日淫祀〔妖しげな祭祀。みだらなパーティのことではない〕を行い、呪いで打ち負かすための文を作成し、巫祝〔シャーマン〕に決戦の日を選ばせた。また近親の者に嵩山で羽衣を着させると、偽らせて仙人の王喬だと自称させた。(この者に)神仙書を作成させ、倫の天命が長いことを記し、人々を惑わせた。
 趙王倫らはかなりシャーマニズムに傾倒していたようなのだが、彼らがやけに宣帝に頼っていることは興味深い。「天下は高祖の天下なり」ならぬ「天下は宣帝の天下なり」という正当観がにじみでている。宣帝を晋朝の起源におくかどうかは、国史編纂問題も含めて一悶着あったはずなのだが、結局は漢の高祖と同じような扱いに落ち着いたということだろう。

 もう一つ目立つのが、趙王倫の懐刀・孫秀であろう。ここに見えている孫秀の妖しげな行為、じつは道教と関連が深いものかもしれない。それは道士とか仙人とかまじないがでてきているから、というのもまあそうだけど、彼と同族の子孫がかの東晋末に道教教団を率いて組織的反乱を起こした孫恩なのだ。彼ら琅邪・孫氏は長江に渡ってから道教を信奉したのではなく、すでに西晋時代から、一族を挙げて信仰していたのだろう。
 琅邪というと、あの琅邪・王氏も道教を奉じていたことで知られている[1]。琅邪とは離れるが高平・郗氏も道教を奉じている者たちがいたようだ[2]。これよりさきは深く調べてないのでもうこの位にしておく。今回は単に西晋時代時点で、一族こぞって道教を奉じていた家がわりとあったかもしんないということだけが言いたかった。


――注――

[1]『晋書』巻80王羲之伝附凝之伝「王氏は代々、張氏の五斗米道を信奉していたが、王羲之の子の凝之はとりわけ信仰心が篤かった。孫恩が反乱を起こして会稽を攻めたとき、(会稽内史であった凝之の)部下たちは守りを固めることを願い出た。凝之は彼らの意見を聴き入れず、部屋に閉じ籠って祈祷した。部屋から出てくると、部下たちに『大道に祈っておいたので、鬼兵が助けてくださるだろう。賊など勝手に滅びるわい』と言った。こうして守りを固めておかなったために、とうとう孫恩に殺されてしまった(王氏世事張氏五斗米道、凝之彌篤。孫恩之攻会稽、僚佐請為之備。凝之不従、方入靖室請祷、出語諸将佐曰、『吾已請大道、許鬼兵相助、賊自破矣』。既不設備、遂為孫恩所害)」。吉川忠夫『王羲之――六朝貴族の世界』(岩波現代文庫、2010年)が詳しく書いているので、興味のある方はぜひ。[上に戻る]

[2]郗鑒の子の愔と曇は「天師道」を奉じていたが、愔の子・超は「仏」を奉じていたらしい(『晋書』巻67郗鑒伝附超伝、同巻77何充伝)。ちなみに王羲之の最初の奥さんは郗鑒の娘で、あるいは両家には道教的なつながりがあったんじゃなかろうかという指摘を何かの文章で見かけたことがある(てきとうですいません)。[上に戻る]

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