2013年8月29日木曜日

南単于の侍子

 このごろ話題にあげている劉淵であるが、かれは曹魏・西晋の「侍子」として、朝廷に送られていたことが知られている。「侍子」というのはその語の通り、自分の子を派遣させて皇帝に侍らせることを言うのだが、要するに中国王朝の人質ということである。
 さて、この風習はじつは南匈奴時代から見えている。
単于歳尽輒遣奉奏、送侍子入朝、中郎将従事一人将領詣闕。漢遣謁者送前侍子還単于庭、交会道路。(『後漢書』伝79南匈奴伝)

南単于は年の終わり〔10月か12月?当時の年度末は10月〕に(朝廷に)政事の報告を上奏し、侍子を送って朝廷に入れさせる。その際は、使匈奴中郎将の従事(二人のうち)一人が侍子を連れて朝廷に送る。漢の側は謁者にこれまでの侍子を連れさせて単于庭〔西河郡美稷県に置かれていたという。オルドス地帯〕に帰らせる。(従事と謁者は)道路上で行き違う。
 「行き違う」と訳した「交会」であるが、道路上で従事がちゃんと新しい侍子を連れてきているか(またその逆)をお互い確認するということであろう。この風習がどの程度まで続いていたのかはわからないが、どうやら後漢順帝ころまでは侍子を中央に送るということはちゃんと行われていたようだ。
 というのも、去特若尸逐就単于・休利のときのことであるが、永和5年(西暦140)に句龍王・吾斯という者たちが大規模な反乱を起こしたのだけども、このときに使匈奴中郎将であった陳亀は、単于の監督不届きを厳しく責め立て、単于・休利とその弟であった左賢王を自殺させてしまった。その後、吾斯の反乱で騒がしくなってなかなか単于の後継者が立てられなかったが、漢和2年(143)にようやく新たな単于が立てられた。そのときのことは次のように記されている。
呼蘭若尸逐就単于兜樓儲先在京師、漢安二年立之。天子臨軒、大鴻臚持節拜授璽綬、引上殿。・・・遣行中郎将持節護送単于帰南庭。

呼蘭若尸逐就単于・兜楼儲はこれ以前より洛陽にいたが、漢安2年に単于に立てられた。その際、天子が前殿に出御し、大鴻臚が節を持って(南単于の?)印璽と綬(ひも)を授け、上殿に引率した。・・・使匈奴中郎将に節を持たせて単于・兜楼儲を護送させ、南単于庭に帰らせた。
 兜楼儲は侍子だったんでしょうね。で、次期単于候補だった左賢王も死んでしまったから、彼にその地位が回ってきたのかもしれない。

 ちなみに『後漢書』伝69儒林伝・上・序に次のような記述も見える。
復為功臣子孫・四姓末属別立校舍、搜選高能以受其業、自期門羽林之士、悉令通孝経章句。匈奴亦遣子入学。

(明帝は)功臣の子孫や四姓の末族のために別に校舎を立て、高い才能を有している人を探し求めて学業を受けさせ、期門や羽林の士以下は、全て『孝経』の章句を通読させ、匈奴も子を派遣して太学に入れさせた。
 この留学がどの程度まで行われていたのか、そもそもこの記事を真に受けてしまっていいのか、判断がつきかねるのだけども、なかなか興味を引く記事である。

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