2013年9月29日日曜日

『建康実録』の東晋巻について

 この記事では『建康実録』について書こうと思う。なお簡単な書誌情報については別途、記事(「『建康実録』概要」)を作成したので、そちらを参照されたい。
 さてこの『建康実録』、成立が唐中期とやや古いためもあってか、歴史学的にはそれほど参照されることがないものなのだが、史学史的に見ると、注目すべき価値を持っているものなのだ。
 例えば、劉宋の巻。『建康実録』の劉宋の巻は、簡単に通読しただけでも沈約『宋書』とはかなり雰囲気が異なっていることが明らかなのである。具体的に言うと、地の文に「裴子野曰」と裴子野なる人物の論が挿入されていたり、劉宋の巻末にはその裴子野の総論・自序があったりする。で、この裴子野という人は何ものかというと、かの裴松之を曾祖父に、裴駰(『史記集解』)を祖父にもつ史学の申し子なのだ(生没年=宋・泰始5年(西暦469年)―梁・中大通2年(530年))。やばいっすね。裴子野には『宋略』という著作があったことが知られている。
 『宋略』は沈約『宋書』をベースにしつつ、コンパクト、かつ簡潔にまとめ直したものらしいが、裴子野の独自色も強く表れていたらしく、沈約は『宋略』を見て「こりゃかなわん」と言ったとか[1]、劉知幾も「裴子野のが沈約のより断然良い」なんて言ったりしている[2]。現在は散佚してしまい、諸書に佚文があるのみで、輯本も作られてない[3]
 その裴子野の「論」「総論」「自序」もしくは佚文が『建康実録』の劉宋巻に引用されてるんですよ! まじ!
 そういうこともあってか、劉宋巻は裴子野『宋略』が底本と使用されて編集されたのだと古くから言われており、史料的価値が注目されてきたのです[4]。すでに史学史では『宋略』=底本説が通説っぽくなっているのだけども[5]、まあ昨年色々あって巻11武帝紀を徐爰『宋書』(佚文)、沈約『宋書』、李延寿『南史』と比較検討しながら読んだのだが、やはり『建康実録』の物語のプロットは独自なものがあって、『宋略』をベースにして編集をしているという説も、巻11に限って言えばその通りなんじゃないかと思う。

 と、長くなってしまったが、今回はこんなことを言いたかったのではない。あくまで東晋巻について書くつもりなのだ。
 わたしが注目したいのはつぎの記事。
是歳、散騎常侍領著作孫綽卒。
綽字興公、太原郡人也。馮翊太守楚之子。永嘉喪乱、幼与兄統相携渡江。・・・卒、時年五十八。
 この記事は巻8簡文帝紀の咸安元年(371年)の条にある。以前に六朝期の編年体史書は、紀年(「経」)の間に「伝」を挿入する形式であったことを指摘したが(「六朝期における編年体史書」)、この記事もその例に漏れず、孫綽死没の記事のあとに孫綽の簡潔な列伝が記されている。この『建康実録』の記事によると、孫綽は咸安元年に享年58で没したということになる。すると生年は建興2年(314年)になろう。
 それがいったい何だねと思われようが、じつは唐修『晋書』には孫綽の没年が記されていないのである。なので、孫綽の生年なぞわかりようがなかったのだが、『建康実録』によって判明したのだ。お手柄だね!
 それだけじゃない、孫綽の生年が判明したことでもう一つわかりそうなのが、孫盛の生没年だ。上掲の孫綽の略歴にもあるように、彼は「永嘉の乱」の際に兄の孫統と長江を渡った。「永嘉の乱」というと、なんとなく洛陽が陥落した永嘉5年(311年)のことであろうと考えてしまう。が、「永嘉の乱」というのは非常にあいまいな用語で、建興4年の長安陥落までを含めて「永嘉の乱」と言うこともある。まあそこら辺は機会があったら記事にしましょう。
 だが、孫綽の生年が上述したとおりであるとすれば、かれが永嘉5年に長江を渡ることは不可能であり、孫氏兄弟の渡江は建興2年以降となりそうだ。さらに重要なことに、この孫氏兄弟の渡江には従弟の孫盛が同行していた。孫盛はそのとき10歳であったという(『晋書』巻82孫盛伝)。もし孫子兄弟の渡江が永嘉5年であるとすれば、孫盛の生没年は太安元年(302年)―寧康元年(373年)と簡単に計算できるのだが・・・現に先行研究ではそのように推測されてきた[6]。だが孫綽の生年が上述の通りであるとすると、孫盛のそのような生没年推測は成り立たないことになるのだ。! なんとまあ、孫綽の生没年がわかるだけで色々わかること!
 しかし問題は、『建康実録』の記事は信頼できるのか、ということだ。なにしろ成立は唐代なのだ、この記事は信頼できんのだと一蹴しようと思えばできんこともなさそうである(というかされた)。
 が、どうであろう。冒頭でわざわざ、『建康実録』の劉宋巻は沈約『宋書』や李延寿『南史』とは別系統の史書・裴子野『宋略』をベースにしている可能性が高いと言ったのは、他の巻でもその可能性が考えられるのではないかと言いたかったからだ。安田二郎氏が『建康実録』独自の文を全く信頼ならないものではなく、佚書『宋略』に基づく貴重な史料だと見なしたように、上の孫綽の記事も信頼に足らぬ記事ではなく、何らかの佚書からの文章であると考えるべきでないだろうか。例えばそう、東晋・徐広『晋紀』だとか劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』だとか。わたしはそういう可能性で考えるべきだし、少なくとも、『建康実録』の文が全くデタラメであるという根拠がない限り、『建康実録』の独自情報は無視すべきでないと思う。

 そういうわけで、わたしは劉宋巻にはもう飽きてしまったのだけど、逆に東晋巻にはたいへん興味を持っていて、いつか唐修『晋書』だとかと色々比較して、『建康実録』をしっかり分析してみたいなあと考えたりしてます。おわり

――注――

[1]『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒、子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其敘事評論多善、約見而歎曰、『吾弗逮也』。蘭陵蕭琛・北地傅昭・汝南周捨咸称重之」。[上に戻る]

[2]『史通』内篇・叙事「夫識宝者稀、知音蓋寡。近有裴子野『宋略』・王劭『斉志』、此二家者、並長於叙事、無愧古人」、同書外篇・古今正史「世之言宋史者、以裴略為上、沈書次之」など。そもそも劉知幾さんは編年体が好きだし、沈約が嫌いだったようで所々で悪口言ってるし、まあそういうとこもあって、裴子野>沈約と評価している印象もある。[上に戻る]

[3]佚文に関してはつぎの通り。
「論」(「裴子野曰」)→『建康実録』(巻11・12・14に複数)、『資治通鑑』(巻128(二つ有)・132・133)、『通典』(巻14・16・141)、『文苑英華』(巻754)。『建康実録』以外は厳可均『全梁文』巻53に収録されている。これらはわたしが実見したものだけに限っているが、ほか『長短経』という唐代の書物にも裴子野の「論」が引用されているという。詳しくは、周斌「『長短経』所引『宋略』史論的文献価値」(『史学史研究』2003-4)を参照。また「総論」に関しては、蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)で詳細な校勘がなされている。
佚文→『建康実録』(巻13に4条)
 そもそも『宋略』に限った話ではないのだが、散佚した宋史に関しては全く輯本が無い(『古佚書輯本目録』および『六朝史学』「佚書輯本目録」を確認した限りでは。ただ実見はしていないのだけども、周斌氏によると、唐燮軍「也論裴子野的『宋略』」(『史学史研究』2002-3)が『宋略』の輯佚・校注を行なっているらしい)。『太平御覧』等には、徐爰『宋書』(孝武帝年間成立。沈約『宋書』のベースになったと言われている。『太平御覧』『芸文類聚』の皇帝略歴の項目には、沈約ではなくこれが引かれている。おそらく北斉『修文殿御覧』の影響だろう)、王琰『宋春秋』なんかが引用されているのだけどね。とはいっても、「旧晋史」と比べれば圧倒的に佚文は少ないし、いたしかたない。[上に戻る]

[4]王鳴盛『十七史商搉』巻64「建康実録」、『四庫全書総目』巻50など。安田二郎氏は『建康実録』にしか見られない文章に着目し、それが唐の許嵩が勝手に書き込んだものではなく、裴子野『宋略』独自の文だと解釈することで、土断の新解釈を示されている(安田二郎『六朝政治史の研究』第十章、京都大学学術出版会、2003年)。『建康実録』が『宋略』ベースであれば、いくら唐代成立の書物であるとはいっても、南朝史研究に棄ておけない史料となるのである。[上に戻る]

[5]唐燮軍氏は、原注もしくは地の文にしばしば沈約『宋書』がママ引用されていることを指摘し、完全に『宋略』ベースではないとする。唐燮軍「辨『建康実録』記宋史全据『宋略』為藍本」(『中国史研究』2005-2)参照。いやまあ、代々「藍本」(底本)とわざわざ言われてきたのは、あくまでベースって話では? そりゃ完全な丸写しをしているなんて誰も思ってないだろうし、許嵩なりのアレンジはあるでしょう。そこに沈約や李延寿の文章が混じっていたって、当然なんじゃないかな。
 しかしながら、わたしも少し慎重に考えた方が良いかもしれないと思っている。裴子野の引用状況にはばらつきがあるからだ。最初の武帝紀、文帝紀にはけっこう「論」が見られるのに、それ以降はぱったりしてしまう。いったいどういうことだろうか。まだちゃんと全面的に検討してないので、いずれちゃんと調べてみたいね。[上に戻る]

[6]蜂屋邦夫「孫盛の歴史評と老子批判」(『東洋文化研究所紀要』81、1980年)p. 22、松岡栄志「孫盛伝(晋書)――ある六朝人の軌跡」(伊藤漱平編『中国の古典文学――作品選説』東京大学出版会、1981年)p. 33、喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1989年)「前言」p. 6、長谷川滋成『孫綽の研究――理想の「道」に憧れる詩人』(汲古書院、1999年)pp. 16-19参照。長谷川氏は上掲の『建康実録』の記事を引いて、これだと孫盛が永嘉4年に渡江することは不可能になるとしつつも、『建康実録』の記事は信頼できないとして棄却している。
 対して、『建康実録』の情報を積極的に活用したのが王建国氏で、氏は孫氏の渡江を長安が陥落した建興4年(316年)にかけ、孫盛の生没年を永嘉元年(307年)―太元3年(378年)と推定している。王建国「孫盛若干生平事迹及著述考辨」(『洛陽師範学院学報』2006‐3)参照。まあ別に建興4年にかける必要もない気はするけど、『建康実録』を無視した説よりは支持できる。[上に戻る]

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