孔子は言った、「中庸を得た人と行動をともにできないのであれば、異常な理想家か偏狭な者と交わるべきだ」と。また「理想家はひたすら求めつづけ、偏狭な者は何もしないことを心得ている」とも言っている。これらの者たちはおよそ、完全なる道を失した者たちであり、かたよった端っこ(の一方)を採用しているのであろう。しかしながら、何もしないことを心得ているというのは、一方では(何もしないことをしなければならないという意味で)必ずしなければならないことがあるということだろう。ひたすら求めるとは言っても、一方では(あることだけを求めてほかのことはすべて投げうつという意味で)求めないということなのかもしれない。このように、心の尊重することがらはそれぞれ分かれているのであって、為すべきことと行なわざるべきこととは、(それぞれで)適切さが異なっているのである。
中世の偏った行ないをする一介の人で、名声を立て方正を確立できた者は、これまた多かった。ある者は志の強さが金石のようで、強力な敵をも(ひるまずに)拒み、ある者は意志が厳冬の霜のように激しく、ちっぽけな信義にも喜びを感じた。また人と友好を結んで、昼夜心を共有する者たちもいれば、義を実践することにとりわけ厳しく、死と生が節義において等しくなるとみなす者もいた。その事跡はくまなく伝えられているわけではないとはいえ、まことにその風格の跡は慕うに足るものがある。しかし実際の事跡は特に整理されていないので、秩序を立てて記述することは難しく、(また)ちょっとした記録に特別なおもむきがあるのであって、独立させて列伝を立てる分量には不足している。彼らを捨ててしまえば事柄に遺漏があることになり、記録すれば体裁の秩序が失われてしまう。名実とも格別であるのに、その節義と行ないがともに絶えてしまうことを恐れるので、まとめあわせて独行の列伝をつくることとする。願わくは、欠文を補って、(前史の)遺漏を記録しておきたい。(孔子曰、「与其不得中庸、必也狂狷乎」。又云、「狂者進取、狷者有所不為也」。此蓋失於周全之道、而取諸偏至之端者也。然則有所不為、亦将有所必為者矣。既云進取、亦将有所不取者矣。如此、性尚分流、為否異適矣。中世偏行一介之夫、能成名立方者、蓋亦衆也。或志剛金石、而剋扞於強禦。或意厳冬霜、而甘心於小諒。亦有結朋協好、幽明共心。蹈義陵険、死生等節。雖事非通円、良其風軌有足懐者。而情迹殊雑、難為條品。片辞特趣、不足区別。措之則事或有遺、載之則貫序無統。以其名体雖殊、而操行俱絶、故総為独行篇焉。庶備諸闕文、紀志漏脱云爾。)
范曄の論のなかでも名文として知られている(はずの)独行列伝・序を訳出してみました。できれば、わたしも普通の感覚なら記載しないような、クズみたいなものたちに価値を見出してみたいですね。
本当は宋書百官志訳注の続きを更新しようと思ったのですが、光禄勲を調べたらたいへん面倒なことがわかったのでやめました。
今年の更新はこれで最後です。ただの自己満足・虚栄心のかたまりのような文章ばかりでしたが、お読みいただいてありがとうございました。時々感想をいただけたりするのはとても嬉しかったですし、励みになりました。たとえ読者は少なくても、読んでくださる人を楽しませることができたら、それでわたしは満足でございます。
どうぞ来年もご愛顧くださいますよう。
幸福のイメージのなかには、救済のイメージが、絶対に譲り渡せぬものとして共振している。歴史が事とする過去のイメージについても、事情は同じである。過去はある秘められた索引を伴っていて、それは過去に、救済(解放)への道を指示している。実際また、かつて在りし人びとの周りに漂っていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺(こだま)が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのない姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。だとすれば、私たちはこの地上に、期待を担って生きてきているのだ。だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。この要求を生半可に片づけるわけにはいかない。
――ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」テーゼⅡ
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