2013年11月10日日曜日

『宋書』百官志上訳注(4)――卿(太常)

 太常卿は一人。舜が帝位につくと、伯夷を秩宗とし、三礼をつかさどらせたが[1]、すなわちこれが現在の太常卿の職務に相当する[2]。周のときは宗伯といい、春官で、国家の礼を管轄した[3]。秦は奉常に改称し、漢はこれを継承した。景帝の中六年、太常に改称した[4]。応劭が言うに、「国家をして盛大に、かついつまでも存続せしめる〔原文「常存」〕、との意味から太常と言うのである」[5]。前漢では必ず、忠と孝に篤く、慎み深い列侯を太常に任じていたが、後漢では列侯に限定しなかった。[6]
 博士は、班固が言うには秦の官であるが、史臣〔「わたし」=沈約を意味する〕が案ずるに、戦国六国の時代にあちこちに博士がいる(から、班固は誤りであろう)。古今の事柄に通暁することを仕事としている。漢の武帝の建元五年、はじめて五経博士を置いた[7]。宣帝、成帝のとき、五経の学派が(武帝以来)徐々に増えていたので、一つの経ごとに博士を一人置いた。後漢のときには合計で十四人の博士がいた。『易』は施氏、孟氏、梁丘氏、京氏[8]、『尚書』は欧陽氏、大夏侯氏、小夏侯氏[9]、『詩』は斉詩、魯詩、韓詩[10]、『礼』は大戴氏、小戴氏[11]、『春秋(公羊伝)』は厳氏、顔氏[12]で、(学派ごとに)それぞれ一人の博士がいた。さらに(そのなかから)聡明で威厳がある者一人を博士祭酒とした[13]。魏と西晋では十九人置かれたが、東晋のはじめは減員されて九人となった。いずれの時代も、(博士たちが)どの経を担当していたのかは不明である。元帝の末年、『儀礼』と『春秋公羊伝』の博士を一人ずつ新たに置き、合計で十一人とした。のちにまた増置されて十六人となった。五経をそれぞれで分担するようにはならなくなったが、このような博士は(後述の国子博士と区別されて)太学博士と呼ばれるようになった。秩は六百石。
 国子祭酒は一人、国子博士は一人、国子助教は十人。『周易』、『尚書』、『毛詩』、『礼記』、『周官』〔周礼のこと〕、『儀礼』、『春秋左氏伝』、『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』をそれぞれ単独で一経、『論語』と『孝経』は二つ合わせて一経とし、合計で十経とし、助教が分担して教授した。「国子」とは、周の時代の名称に由来し、周では師氏が有していた官職が、現在の国子祭酒にあたる[14]。西晋のはじめに国子学が置かれ、生徒の教育を担うこととなり、太学を(国子学の)下に所属させた。晋のはじめは助教が十五人であったが、東晋以来、その定員は減らされた[15]。宋以来、もし国子学を開かなければ、助教は一人だけ置くこととした。ただし、祭酒と博士は常設とした[16][17]
 太廟令は一人。丞は一人。ともに前漢のときに置かれた。(ただし)西漢は「長」で、東漢は「令」であった。齋郎二十四人を統括する[18]
 明堂令は一人。丞は一人。丞は東漢のはじめに置かれ、令は宋の孝武帝の大明年間に置かれた。〔『続漢書』百官志二によると、後漢の明堂丞は明堂の警備をつかさどったという。たぶん後漢以後も同じだろう。〕
 太祝令は一人。丞は一人。祭祀の際に祝文を読んで神を送迎することをつかさどる。太祝は周の官である。西漢は太祝令、丞を置き、武帝の太初元年に廟祀(令)と改称し、東漢のときに太祝令に改称された。
 太史令は一人。丞は一人。三辰〔日・月・星(北斗七星)、つまり天文〕のこと、年月のこと、瑞祥・災異のことや、一年の終わりに新暦を奏上することを仕事とする。太史とは(もともと)三代の官であり、周のときは国家の六典〔周代における国を治めるための六つの法典。治典・教典・礼典・政典・刑典・事典(『漢辞海』)〕を定め、一年を正確にして物事に秩序を与え、国家に新暦を頒布することを職務とする[19]。また(周のときには)馮相氏がおり、天体移動の観測を担当し[20]、保章氏は天文現象の異常の観察をつかさどった[21]。現在の太史令は、周の太史・馮相・保章の三つの官職を合わせたものである。西漢は太史令と言った。東漢は丞二人、そのうちの一人は霊台[22]に配された。
 太楽令は一人。丞は一人。(祭祀や宮廷宴会をはじめ)音楽に関するあらゆることを管轄する。周のときは大司楽と言った。西漢は太楽令と言った。東漢は大予楽令と言った。魏は太楽令に戻した。
 陵令は陵ごとに一人。漢の官である[23]
 乗黄令は一人。天子の車および安車〔屋根付き馬車〕の馬を管理した。魏のときに置かれた[24]
 博士から乗黄令まではみな太常に所属する[25]


――注――

[1]『尚書』虞書舜典「帝曰、『咨四岳、有能典朕三礼』。僉曰、『伯夷』。帝曰、『俞、咨伯、汝作秩宗。夙夜惟寅、直哉惟清』」。[上に戻る]

[2]これだと簡潔すぎるので、『続漢書』百官志二・太常の条・本注より引用、「太常卿は儀礼や祭祀を担当する。祭祀のたびに、あらかじめその祭祀における礼儀の仔細を奏上(して天子にお知らせ)し、祭祀当日には、ぴったり付き添って(天子を)助ける。博士の試験選抜を実施した際は、(受験者の)合否を(天子に)奏上する。大射礼〔射礼の一つで、皇帝と選抜された群臣とで射撃を行なう儀礼〕、養老礼〔三老五更=老人で徳の高い者に酒食を振る舞う儀礼〕、大喪〔天子の葬儀〕のときは、その礼儀の仔細を奏上する。毎月、月末の前日には、帝陵と宗廟を視察する(掌礼儀祭祀。毎祭祀、先奏其礼儀、及行事、常賛天子。毎選試博士、奏其能否。大射、養老、大喪、皆奏其礼儀。毎月前晦、察行陵廟)」。あくまで後漢の話ではあるけど、そんなに大きな変化はないんじゃないかな。なにしろ、仕事はかなり専門的だし、ほかに官に実際上の仕事を奪われたなんてこともないと思う。おそらく。[上に戻る]

[3]『周礼』春官宗伯「乃立春官宗伯、使帥其属而掌邦礼、以佐王和邦国」。[上に戻る]

[4]『太平御覧』巻228『漢官典職』「恵帝改太常為奉常、景帝復為太常、蓋周官宗伯也」。これによると、前漢初期ですでに太常であったが、恵帝期に奉常にもどり、景帝がまた太常にしたらしいのだが・・・『漢書』の百官公卿表にもない話で、真偽は不明。[上に戻る]

[5]『後漢書』紀1光武帝紀・上・更始元年の条・李賢注引『応劭漢官儀』、「欲令国家盛大、社稷常存、故称太常」。沈約は『漢官儀』を引いたっぽいね。ただ、『漢書』巻19百官公卿表・上の師古注に「応劭曰、『常、典也、掌典三礼』」と応劭の別の名称解釈が見えている。さらに顔師古は応劭とは異なる解釈を示しており、王者は日月の絵が入った旗を有するが、これを立てるときは礼官が奉じて旗を持ったため、礼官を「奉常」と呼ぶようになった、のちに「太常」と改められたのは、尊大の意味を附したからだ、としている。[上に戻る]

[6]『太平御覧』巻228『漢官解詁』「太常は社稷の郊祀をつかさどり、その仕事は非常に重要で、職務は尊貴であるため、九卿の筆頭に置かれているのである(太常、社稷郊祀、事重職尊、故在九卿之首)」。また『太平御覧』巻228『斉職儀』「太常卿一人、品第三、秩中二千石、銀章〔青?〕綬、進賢両梁冠、絳朝服、佩水蒼玉」。  本文に記述はないが、六朝期には丞が置かれていたようである。『太平御覧』巻229太常丞に引く『(唐)六典』「太常丞二人、従有五品上。秦有奉常丞、漢因之、比千石。魏晋宋皆置一人(『唐六典』のテキストもってないんで、御覧からの引用で勘弁してください)、同巻『宋百官春秋』「太常丞は尚書郎と同等。銅印黄綬で、一梁冠。七品。帝陵や宗廟の不法を取り締まる(太常丞視尚書郎、銅印黄綬、一梁冠、品第七、掌挙陵廟非法)、同巻『陶氏職官要録』「晋と宋の九卿の丞は、みな進賢一梁冠、介幘、皂衣、銅印黄綬である。斉と梁では墨綬(晋宋九卿丞、皆進賢一梁冠、介幘、皂衣、銅印黄綬、斉梁墨綬)」。『宋百官春秋』にある太常丞の職務の記述は、『続漢書』百官志二・太常の条・劉昭注引『漢旧儀』と一致する。ただ『続漢書』本注によると、単に取り締まりだけでなく、祭祀関連の雑務や太常府の曹の総括も行なっていたらしい。太常府に置かれいた曹については、卿はみな仕事に応じて掾史を置いていたと『続漢書』太常条にあり、後漢ではとくだん決められた曹(掾史)が置かれていたわけではないようだ。
 ほか、太常の補佐官としては主簿がいたそうだ。『通典』巻25職官典7太常「主簿、漢有之、魏晋亦有焉」。[上に戻る]

[7]余談だが、近年では、武帝期に五経博士が置かれたとするのは後世の付会だと見る説が力をもっている。さしあたり、福井重雅『漢代儒教の史的研究――儒教の官学化をめぐる定説の再検討』(汲古書院、2006年)、溝口雄三・池田知久・小島毅共著『中国思想史』(東京大学出版会、2007年)、渡邉義浩『儒教と中国――「二千年の正統思想」の起源』(講談社、2010年)などを参照。[上に戻る]

[8]漢代の経学は、本文テキストおよびそのテキストの読み方(章句)=解釈が、学者のグループによって異なっていた。『易』も含め、わたしもそんなに詳しいわけではないのだが、以下若干の補足をしておく。
 『易』(『周易』)は本文にあたる「経」と、その解説にあたる「十翼(伝)」とから構成されたテキスト。本文で言及されている四氏はいずれも前漢の宣帝・元帝期に学官に立てられた学派で、施氏は施讐、孟氏は孟喜、梁丘氏は梁丘賀、京氏は京房を創始とする解釈集団である。みな今文学(漢代の隷書のテキスト)。のちに曹魏の王弼が古文易経(費氏)をテキストとし、老荘思想の観点から注をつけて以来、王弼注が盛行したために、漢代の今文学は廃れていった(高田真治「解説」〔『易経』上、岩波文庫、1969年〕)。現行の『易経』も王弼注本に基づく。
 博士に立てられるというのは、王朝から公認された学問集団であることを意味し、官学の頂点たる太学でその学派のテキストや章句を生徒(「諸生」や「博士弟子」などと呼ばれる)に教授した。ちなみに後文に見える学派もほぼ今文学で、要するに漢代の官学は今文学中心である。
 これら今文学集団は一つの経典だけ専門とし、章句中心の学問で、各学派の解釈を守旧することに力を向けていた。のち、古文(漢代以前の文字のテキスト)が在野の学者に普及し、複数の経典を兼修する風潮が広まると、今文学のかかる閉鎖的傾向には批判が強まり、経典横断的な読解と総合化・体系化が志向されるようになった(鄭玄が代表的。こうした学者のありかたは「通儒」とも呼ばれる)。さらに六朝になると、経学だけでも狭い!となり、経学・玄学(老荘)・仏教を横断した学問が士大夫たちの中心傾向となった(たとえば、曹魏の何晏『論語集解』は『論語』を老荘思想的に読解してみせるという天才的業績を残したし、東晋の袁宏は『後漢紀』において、孝や忠などの経学概念を老荘思想の概念・言語を用いて説明したりしている)
 後漢末から六朝期への学問思想の変遷については、吉川忠夫「六朝士大夫の精神生活」(同氏『六朝精神史研究』同朋舎、1984年)が好論。漢代の経学テキストなどは『漢書』巻30芸文志を参照、とくにちくまの訳注は意外と詳しいので、おススメ。また漢代の学術に関しては、清・皮錫瑞『経学歴史』(1907年)四章、東晋次『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、1995年)第三章、渡邉義浩『儒教と中国』序章などを参照しました。[上に戻る]

[9]欧陽氏は欧陽生、大夏侯は夏侯勝、小夏侯は夏候建にはじまる。今文のテキストとその章句。西晋末の永嘉の乱で、これら今文の学派はすべて失われた(『隋書』巻32経籍志一・書類)。一方、古文テキストはかなり事情が複雑。漢代の古文尚書経の伝来には様々な話が存在しており、たとえば、①漢武帝期に孔子旧宅から発見された古文尚書を孔安国が校訂したもの、②後漢の杜林がどこかから手に入れたもの、など。「隋志」が言うには、①と②はまったくの別物であるらしい。清の唐晏『両漢三国学案』巻四によれば、孔安国本のほうは後漢はじめころにはすでに失われており、後漢の古文といえば杜林本を指すのだそうだ。その後、「隋志」によると、西晋時代までは漢代の古文尚書の経文が残存していたようであるが、これも永嘉の乱あたりで失われたらしい(「隋志」はこの系統の古文尚書は伝わっていないと明記している)。東晋のときになって、梅賾という者が、孔安国の「伝」(解説)が附された古文尚書をゲットしたと奏上し、以後、尚書はこの「古文尚書」が使用されるようになり、現行の『尚書』もこのテクストが基となっている。が、どうも全篇にわたる孔安国伝および半分近くの篇は偽作であるようだ。でっちあげの作者も王粛、皇甫謐、梅賾など諸説あるが、よくわかっていないらしい。まあとにかく『尚書』のテクスト問題は相当めんどうなので、もう触れないでおきましょう。皮錫瑞『経学歴史』五章、野村茂夫「疑「偽古文尚書」考(上・中)」(『愛知教育大学研究報告(人文科学)』34、37、1985、1988年)参照。[上に戻る]

[10]斉の轅固のテキストと「伝」(解説)が斉詩、魯の申培のが魯詩、燕の韓嬰のが韓詩。韓詩の『伝』が現存しているが、そのほかは亡。いずれも今文学。現行の『詩経』は、毛氏の古文テキストとその「伝」が合成されたものである(「毛詩」と呼ばれるのはそのため)。[上に戻る]

[11]大戴は戴徳、小戴は戴聖。両者とも、古文礼のテキストに「記」(解説)を作った。戴徳の「記」は『大戴礼記』として、戴聖のは現行の『礼記』として、それぞれ現存。なお今文の礼経は『士礼』といい、現行の『儀礼』。[上に戻る]

[12]原文は「春秋、厳・顔」とあるのみだが、漢代に立てられた『春秋経』の博士は今文の『春秋公羊伝』なので、訳文のように補った。厳氏は厳彭祖、顔氏は顔安楽にはじまる公羊伝解釈グループ。ちなみに『左氏伝』は古文。『穀梁伝』は、皮錫瑞によると、清末当時においては今文説が主流で、一部に古文説もあったそうである。『公羊伝』は後漢末に何休が『春秋公羊解詁』を大成するなど、漢代を通じて盛んであったが、その後は『左氏伝』が主流を占めるようになり、漢代ほどの影響はなくなったようである。[上に戻る]

[13]『続漢書』百官志二「博士祭酒一人、六百石。本僕射、中興転為祭酒。博士十四人、比六百石。本注曰、易四、施・孟・梁丘・京氏。尚書三、欧陽・大小夏侯氏。詩三、魯・斉・韓氏。礼二、大小戴氏。 春秋二、公羊厳・顔氏。掌教弟子。国有疑事、掌承問対。本四百石、宣帝増秩」。『後漢書』列伝23朱浮伝・李賢注引『漢官儀』「博士、秦官也。武帝初置五経博士、後増至十四人。太常差選有聡明威重一人為祭酒、総領綱紀。其挙状曰、『生事愛敬、喪没如礼。通易・尚書・孝経・論語、兼綜載籍、窮微闡奧。隠居楽道、不求聞達。身無金痍痼疾、卅六属不与妖悪交通・王侯賞賜。行応四科、経任博士』。下言某官某甲保挙」。[上に戻る]

[14]『周礼』地官・師氏「師氏掌以媺詔王、以三徳教国子」。「国子」への教育が師氏の仕事だったようだ。[上に戻る]

[15]『晋書』巻24職官志によると、国子学が創立されたのは武帝の咸寧四年のこと。「晋初承魏制、置博士十九人。及咸寧四年、武帝初立国子学、定置国子祭酒、博士各一 人、助教十五人、以教生徒。博士皆取履行清淳、通明典義者、若散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子以上、乃得召試。及江左初、減為九人。元帝末、増儀礼・春秋公羊博士各一人、合為十一人。後又増為十六人、不復分掌五経、而謂之太学博士也。孝武太元十年、損国子助教員為十人」。
 また、これが一番のミソなのだが、国子学には入学制限がかけられていた。というのも、太学生があまりにも増加してしまったため、特別なエリートにはエリート専門の学校で教育させようとし、その目的に沿って設けられたのが国子学だというのである。『南斉書』巻9礼志・上「晋初太学生三千人、既多猥雑、恵帝時欲辯其涇渭、故元康三年始立国子学、官品第五以上得入国学。天子去太学入国学、以行礼也。太子去太学入国学、以歯讓也。太学之与国学、斯是晋世殊其士庶、異其貴賎耳。然貴賎士庶、皆須教成、故国学太学両存之也、非有太子故立也」。官品五品以上というのは父や祖父の官品が五品以上ということであろう。また、この記述によると、恵帝のときに国子学が開かれたことになっているが、Wikiに引く福原先生の研究によると、創立は武帝、開校は恵帝、ということなのだそうだ(今度ちゃんと確認します)。[上に戻る]

[16]劉宋期に国子学があまり振るわなかったらしいことは、『宋書』巻93隠逸伝・雷次宗伝「元嘉十五年、徴次宗至京師、開館於鷄籠山、聚徒教授、置生百余人。会稽朱膺之、潁川庾蔚之並以儒学、監総諸生。時国子学未立、上留心芸術、使丹陽尹何尚之立玄学、太子率更令何承天立史学、司徒参軍謝元立文学、凡四学並建」、『南史』巻22王曇首伝附倹伝「宋時国学頽廃、未暇修復、宋明帝泰始六年、置総明観以集学士、或謂之東観、置東観祭酒一人、総明訪挙郎二人、儒・玄・文・史四科、科置学士十人、其余令史以下各有差」などからもうかがえる。
 しかしそもそも、『宋書』巻14礼志一によると、東晋のときから大して運営されてなかった感じ。成帝の咸康三年に国子祭酒の袁瓌らが国子学再建を要請しているが、その上奏文をざっと見る限り、永嘉の乱以来、国子学は名目だけで実質的に機能していなかった様子である。ただこの上奏がきっかけで学生を募集したとのこと(でもみんな老荘ばっかり学んで儒学はそっちのけだったらしい)。のち、穆帝の永和八年、殷浩の北伐の際に国子学は廃止させられたという。このときの北伐は三呉を中心にして資金・物資をかなり厳しくかき集めたらしいので、資金削減のために廃止させられたのだろう。国子学は太元十年に復興されたが、東晋末までにまた廃せられたらしい。というのも、劉裕は即位すると国子学を再建しようとした、との記述があるからで、ということは当時、国子学は開かれていなかったことを意味していよう。ところが武帝は間もなく崩じてしまい、国子学の話は沙汰止み。くだって文帝が元嘉二十年に国子学を再建したが、二十七年に廃止された(附言しておくと、二十七年は北魏・太武帝の大規模な南征を受けた年。軍の出動に伴い、資金繰りのために百官の俸禄を減らしたことなどが記録されており、その一環で国子学も廃止だろうね)。そのあとの消息はちゃんと調べていないが、上に引いた『南史』王倹伝にあるように、明帝年間まで国子学は実質的に廃されたままで、国子祭酒=学長だけが存在する状態であったようだ。[上に戻る]

[17]なお本文で言及がないが、博士には太常博士というのもある。魏の文帝が置いた官で、皇帝の乗車の引率、王公らの諡号の決定を担当するという。『晋書』巻24職官志「太常博士、魏官也。魏文帝初置、晋因之。掌引導乗輿。王公已下応追諡者、則博士議定之」。[上に戻る]

[18]『太平御覧』巻229『宋書』「太廟令一人、主守宗廟、案行洒掃、衆事。領齋郎二十四人」。赤字は佚文。宗廟の警備と掃除が仕事なんだって。[上に戻る]

[19]『周礼』春官・大史「大史掌建邦之六典、以逆邦国之治。・・・正歳年以序事、頒之于官府及都鄙、頒告朔于邦国」。[上に戻る]

[20]『周礼』春官・馮相氏「馮相氏掌十有二歳、十有二月、十有二辰十日、二十有八星之位、辨其敘事、以会天位、冬夏致日、春秋致月、以辨四時之敘」。天体を観察して、天体の位置と年月との対応を計算する仕事なんだって。[上に戻る]

[21]『周礼』春官・保障氏「保章氏掌天星、以志星辰日月之変動。以観天下之遷、辨其吉凶」。天体の異常な動きを観察して記録し、吉凶をはかる、というお仕事。[上に戻る]

[22]『続漢書』百官志二「霊台とは、太陽、月、星の気を観察することを役割とし、明堂とともに太史令の管理下に置かれる(霊台掌候日月星気、皆属太史)」。[上に戻る]

[23]『太平御覧』巻229『斉職儀』「毎陵令一人、品第七、秩四百石、銅印墨綬、進賢一梁冠、絳朝服」。『宋書』だとこれだけしか書かれていないので、『続漢書』百官志二から補っておこう。後漢にはまず、園令が一つの陵に一人置かれ、陵墓と霊園の清掃を職務とする。丞と校長が一人ずつおり、校長は警備員みたいなもの。また食官令が一つの陵につき一人配され、毎月十五日・末日および季節ごとの祭祀を管轄している。後漢以後どうなったのかはよくわからないが、あるいは陵令一人でこれらすべてを担当していたのかもね。[上に戻る]

[24]『太平御覧』巻230『宋書』に「乗黄令、晋官也。乗輿金根車及安車追鋒諸衆車馬」。本文とはまったく異なる文章で、『御覧』引『宋書』は沈約のものではないのかもしれない。『通典』巻25職官典7・太僕卿・乗黄署に「後漢太僕有未央厩令。魏改為乗黄厩。乗黄、古之神馬、因以為名、晋以下因之。宋属太常」とあり、乗黄厩が設置されたのは曹魏のときであるから、『御覧』引『宋書』が「晋官」としているのは誤りだろう。乗黄厩令は東晋まで太僕に所属していたが、宋では太常に所属することになったらしい。乗黄の名称の由来については次も参照。『太平御覧』巻230『斉職儀』「乗黄令、獣名也。龍翼馬身、黄帝乗之而仙、後人以名厩」。[上に戻る]

[25]『宋書』には記録がないが、晋代には協律校尉という楽官も太常に所属していたらしい。『晋書』職官志「協律校尉、漢協律都尉之職也、魏杜夔為之。及晋、改為協律校尉」。
 もう一つ『宋書』に記録のない官が鼓吹令。『通典』巻25職官典7太常鼓吹署「後漢には承華令がおり、宮中の鼓吹楽(大まかに言えば、管楽器の簫・笳と打楽器の鼓で合奏した音楽のこと)を管轄していた。少府の所属。西晋は鼓吹令と丞を置いた。太常所属。元帝は太楽令と鼓吹令を廃したが、哀帝は鼓吹令を廃して太楽令を残した(後漢有承華令、典黄門鼓吹、属少府。晋置鼓吹令・丞、属太常。元帝省太楽并鼓吹、哀帝復省鼓吹存太楽)」。そのあとの記述は梁にまで飛んでしまうため、劉宋期がどうだったのかは知らない。てか太学令って東晋のときは廃されたりしてたんだね、書いとけよ沈約・・・
 最後に、『続漢書』百官志二には太常の所属の官として太宰令一人、丞一人が記録されており、祭祀の際に使用する食器の管理・陳列を職掌としていたという。が、『通典』にも『御覧』にも項目がないので、後漢以後どうなったのかは全然わからないよお・・・[上に戻る]




 当初はつづく光禄勲や衛尉も記事に含めるつもりだったのだけど、いろいろやっているうちに太常だけでやばくなってきたので今回のようになりました。ここまでやるつもりはなかったのだけど、やりはじめるとやらなければ気が済まなくて・・・。
 それにしても、経学の古文・今文とか『尚書』の真偽問題とか、テキストの継承関係とか、そうしうところの知識がかなり薄いことをとても痛感しました。家になんとか参考になる資料はないものかと漁ってみたものの、ないんだよなあ・・・。いままであんまり注意を向けてなかった分野なんだろうなあ、と反省しました。

 それは措いとくとして、今回訳注してみた太常の記事。おおよその傾向としては、太常は祭祀や儀礼に関する役所ですよね。音楽しかり、宗廟・明堂・帝陵しかり。最も形式を美しくしなければならん仕事なわけですね。そんだけでした。

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