さて、わたしは、劉淵は於扶羅の孫ではないし、そもそも劉氏は南単于の血統に当たらないといったような話をしてきた。しかし、その点に関して、十分な根拠を示していなかったと思う。劉氏が南単于に反抗的な一族であることは論じたものの、だからといって劉氏は南単于の一族でないということが証明されたわけではない。今回は、わたしがある程度受け入れ、劉氏は南匈奴ではないと考えるようにいたった根拠の一つにあたる、「屠各種は南匈奴ではない」説を紹介しようと思う。
まず『晋書』巻97四夷伝・北狄匈奴伝を引用しておこう。
北狄以部落為類、其入居塞者有屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黒狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀頼種・鍾跂種・大楼種・雍屈種・真樹種・力羯種、凡十九種、皆有部落、不相雑錯。屠各最豪貴、故得為単于、統領諸種。其国号有左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左於陸王・右於陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左独鹿王・右独鹿王・左顕禄王・右顕禄王・左安楽王・右安楽王、凡十六等、皆用単于親子弟也。其左賢王最貴、唯太子得居之。其四姓、有呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏。而呼延氏最貴、則有左日逐・右日逐、世為輔相。卜氏則有左沮渠・右沮渠。蘭氏則有左 当戸・右当戸。喬氏則有左都侯・右都侯。又有車陽・沮渠・余地諸雑号、猶中国百官也。其国人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。うえの記事を素直に読めば、匈奴単于の一族は「屠各種」と呼ばれる部族に属していたことになる。だから劉氏=屠各種=南単于の一族、という理解が成り立っていた。しかし、本当にそう考えて良いのか。以下はこのような理解に異議を申し立てた学者たちの説を整理してみる。
北狄は部落をもって類をなしている。(北狄の中で)中国に入居した類は、屠各種、鮮支種、寇頭種、烏譚種、赤勒種、捍蛭種、黒狼種、赤沙種、鬱鞞種、萎莎種 、禿童種、勃蔑種、羌渠種 、賀頼種、鍾跂種、大樓種、雍屈種、真樹種、力羯種 、以上十九種である。みな部落を有し、互いに入り乱れることはなかった。屠各種はもっとも権力をもった貴種であり、ゆえに単于となることができ、諸々の種族を統率していた。匈奴の国の称号には左賢王、右賢王、左奕蠡王、右奕蠡王、左於陸王、右於陸王、左漸尚王、右漸尚王、左朔方王、右朔方王、左独鹿王、右独鹿王、左顕禄王、右顕禄王、左安楽王、右安楽王、以上十六等級あり、みな単于の親族子弟を任用した。この中でも左賢王が最も貴く、唯一太子だけが就くことができた。匈奴の四姓に、呼延氏、卜氏 、蘭氏、喬氏がある。呼延氏が最も貴く、左日逐、右日逐の称号を有し、代々単于の補佐を務めている。卜氏は左沮渠、右沮渠を有し、蘭氏は左当戸、右当戸を有し、喬氏は左都侯、右都侯を有している。また、車陽、沮渠、余地といった雑号があり、それらはちょうど中国の百官と同様な称号である。匈奴の国人のなかに、綦毋氏、勒氏がいる。ともに勇敢で強く、よく反乱を起こした。武帝のとき、騎督の綦毋俔邪という者がいた。呉の討伐に功績があり、昇進して赤沙都尉となった。[1]
劉氏は南単于の一族ではない、という説は、近代歴史学においては戦前から唱えられていた。劉氏の系統に疑問を呈したのは岡崎文夫氏である。岡崎氏は、劉氏は元来の南単于の一族ではなく、後漢~魏晋のころに台頭した「屠各種」と種族に属する一族ではないか、と述べている[2]。
この岡崎氏の疑問は、あくまで疑問に留められており、真剣に考証した内容ではない。ただこの岡崎氏の疑問に触発され、劉氏の正体を突き止めようとしたのが唐長孺氏である。[3]
唐氏の議論は多岐に渡るが、ここでは二点に渡って整理しておく。まず一点目に、唐氏は系図がおかしいと指摘する。『晋書』劉元海載記の次の記述をご覧いただきたい。
於扶羅死、弟呼廚泉立、以於扶羅子豹為左賢王、即元海之父也。・・・豹妻呼延氏、魏嘉平中祈子於龍門、・・・自是十三月而生元海、左手文有其名、遂以名焉。・・・後秦涼覆没、・・・会豹卒、以元海代為左部帥。太康末、拝北部都尉。年号=西暦年に注目して欲しい。単純に数えただけでも、劉豹は100歳を越えてそうであることにお気づきだろうか。劉豹が没したのは禿髪樹機能の反乱後のこと、とりあえず280年ころとしておこうか。一方、劉豹は188年に左賢王になったことになっているが、そういう地位に就くためにはいっぱしの年齢である必要があろう。仮に若く見積もって、これを15歳のこととする。とすると、彼の生年は数え年でさかのぼって、174年となる。かなりギリギリのラインで生没年を見積もってみても100歳を越えてしまった。なんというジジイ。
(中平5年=西暦188年に)於扶羅が死ぬと、弟の呼廚泉が立ち、於扶羅の子の豹を左賢王とした。 劉豹がすなわち劉淵の父である。・・・劉豹の妻は呼延氏で、魏の嘉平年間(249-253年)に龍門で子を(妊娠することを)天に祈ると、・・・これより十三ヵ月後に元海が生まれ 、左手に(あった)文字にその名が記されていたため、そのまま(淵と)名づけた。・・・のちに秦州、涼州で(起こった反乱により)軍隊が壊滅状態となったとき〔禿髪樹機能の反乱のこと。咸寧5年=279年ころか〕、・・・たまたま(父の)劉豹が卒し、(晋は)劉淵を(劉豹の)代わりとして左部帥とした。太康年間(280-289年)の末、北部都尉を拝命した。
それだけではない。このジジイが劉淵を得たのが、249-253年のころなのだ。つまり、さきの年齢で仮定してみれば、70歳を越えてようやく劉淵を子に得たことになる。なんというクソジジイ。ちなみに劉淵には、兄に劉延年、弟に劉雄という人物がいることがわかっている[4]。劉淵のあとにも子を産んだのか、お盛んなやつめ。
わたしはこの唐氏の指摘を読むまで、こんな系譜上の違和感に全く気付かなかった。もう驚いたのなんの。
また、唐氏は言及していないが、もう一人怪しい人物がいる。
こういう場合、図にしてみる、というのは本当に価値があることである。漢字の羅列では見えづらかったものが見やすくなってくるからだ。ということで、先日の記事を見返していただきたい。どう見てもおかしい人物がいないだろうか。そう、劉宣である。劉宣は劉淵の「従祖」とある。劉淵の祖父の兄弟という意味である。劉淵の祖父は於扶羅たちであるが・・・こんな後漢末のやつらと同世代だと!? おいおいよお、劉宣が他界したのは永嘉二年=308年だぜ!?[5] 劉豹が没しておよそ20年して没しているということは、どういうことなんだ、もう算数とかめんどくさいからやんないけどけっこう長生きしてるってことじゃん? けっこうというか異常と言うべきだろうか?
いやー、すごいすなあ、劉氏は。こんだけ長生きな一族だとは恐るべし。なんていうことを言いたいのではもちろんない。いくらなんでもこの系図には無理があるんじゃないの、というより改竄されてるんじゃないの、ということが言いたいのである。『三国志』にすでに劉豹が登場することからして、曹魏後期ころに劉豹が存在したのは確実だ。その劉豹の子が劉淵、劉豹のおじが劉宣であるという続柄も確実であると仮定して特に問題ない。劉豹と劉宣の活動年代が後漢末まで引き延ばされてしまうから問題が起きてしまうのである。そこら辺で系図の改竄がなされている可能性が高いのではなかろうか。
と、まあ自分の意見や感想も混じり混じりになってしまったが、唐氏は劉豹の活動年代が不自然であることを指摘し、劉豹が無理矢理後漢末にまで引き延ばされている形跡を指摘したのである。
もう一つの唐氏の重要な論点は、「屠各種」についての議論である。
が、なんかもう書くの疲れし、けっこう長くなったから「屠各種」についてはまた気が向いたら。
――注――
[1]ちなみに、後述する唐長孺氏は、この『晋書』北狄匈奴伝の記述は、劉宋・何法盛『晋中興書』からコピペした記事であると指摘している。というのも、『晋中興書』の佚文に「胡俗、其入居塞者、有屠各種最豪貴、故得為単于、統領諸種」と、類似したものが見られるからである(『文選』巻44所収陳琳「為袁紹檄予州」の李善注引)。[上に戻る]
[2]岡崎文夫『魏晋南北朝通史』(弘文堂、1932年)内篇第二章第二節pp. 139-140. 内篇なので、東洋文庫版にも記述があるはず。[上に戻る]
[3]唐長孺「魏晋雑胡考」(同氏『魏晋南北朝史論叢』生活・読書・新知三聯書店、1955年)[上に戻る]
[4]劉延年については『元和郡県図志』巻13「大干城在文水県西南十一里、本劉元海築令兄延年鎮之、胡語長兄為大干、因以為名」。
劉雄については『金石録』巻20「偽漢司徒劉雄碑」に「偽漢劉雄碑其額題『漢故使持節・侍中・太宰・司徒公・右部魏成献王之碑』。碑云、『公諱雄、字元英、高皇帝之胄。孝宣皇帝玄孫、値王莽簒竊、遠遁辺朔、為外国所推、遂号単于。累葉相承家雲中、因以為桑梓焉。』雄、劉元海弟也」。[上に戻る]
[5]『資治通鑑』巻86・永嘉2年10月の条「丙午、漢都督中外諸軍事・領丞相・右賢王宣卒」。この記事は『資治通鑑』にしか見えない。日付まである詳細な記事であることからすると、北魏・崔鴻『十六国春秋』あたりから取ってきたものと思われる。[上に戻る]
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