【考察】晋朝の騶虞幡、白虎幡

 八王の乱のときのこと。

楚王瑋受密詔殺太宰汝南王亮、太保衛瓘等、内外兵擾、朝廷大恐、計無所出。華白帝以「瑋矯詔擅害二公、将士倉卒、謂是国家意、故従之耳。今可遣騶虞幡使外軍解厳、理必風靡」。上従之、瑋兵果敗。――『晋書』巻36張華伝

楚王瑋が密詔を受けて太宰の汝南王亮、太保の衛瓘らを殺害すると、内軍も外軍[1]も混乱状態になった。朝廷はこの事態を重く見たが、対応策がわからなかった。そこで張華は皇帝に、「楚王は矯詔〔皇帝からの詔と偽ること〕して好き勝手に汝南王と太宰太保を殺害しました。将や士卒は(この事態に)狼狽し、これが国家の意思なのだろうと思っているので楚王に従っているにすぎません。そこで騶虞幡を送り出して、外軍の戒厳を解除させましょう。風が吹くようにうまくいくことでしょう」。恵帝はその案を採用してみると、楚王の軍ははたして逃げ出した。

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帝用張華計、遣殿中将軍王宮齎騶虞幡麾衆曰、「楚王矯詔」。衆皆釈杖而走。瑋左右無復一人、窘迫不知所為、惟一奴年十四、駕牛車将赴秦王柬。――『晋書』巻59楚王瑋伝

恵帝は張華の案を採用して殿中将軍の王宮に騶虞幡を持たせた。王宮は兵たちの前でそれを振り、「楚王は詔を偽っている」と言った。兵たちは武器を捨てて逃げた。楚王のまわりには一人もいなくなり、どうしていいのかわからなくなった。だが14歳の奴が一人だけ残っており、楚王は彼に牛車を操縦させて秦王柬のもとへ行こうとした。

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及瑋之誅二公也、乂守東掖門。会騶虞幡出、乂投弓流涕曰、「楚王被詔、是以従之、安知其非」。――『晋書』巻59長沙王乂伝

楚王が汝南王と太宰太保の二人を殺害すると、長沙王は東掖門を守備した。ちょうど騶虞幡が出てきたので、長沙王は弓を投げ捨て、涙を流して言った、「楚王には詔を下されていたと思ったから従ったのだ、どうしてそれが偽りだったとわかるだろうか」。

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王輿屯雲龍門、使倫為詔曰、「吾為孫秀等所誤、以怒三王。今已誅秀、其迎太上復位、吾帰老于農畝」。伝詔以騶虞幡勅将士解兵。――『晋書』巻59趙王倫伝

王輿は雲龍門に駐屯すると、趙王に詔を書かせた、「私は孫秀らのために道を誤り、三王を怒らせてしまった。いま、すでに孫秀を誅殺した。太上皇〔恵帝のこと〕をお迎えして復位いたせ。私は田舎で余生を過ごす」。詔を伝達させ、騶虞幡で将や士卒の武装を解かせた。

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冏令黄門令王湖悉盗騶虞幡、唱云、「長沙王矯詔」。乂又称、「大司馬謀反、助者誅五族」。――『晋書』巻59斉王冏伝

斉王は黄門令の王湖に騶虞幡を盗ませ、「長沙王は詔を偽っている」と言わせた。長沙王も「斉王が謀反を起こした。王に協力した者は五族を誅滅する」と宣告した。

 これらに頻出する「騶虞幡(すうぐはん)」とはなんだか特殊な意味のある旗(「幡」)のように見える。福原啓郎氏は次のように説明している。

騶虞幡とは『資治通鑑』の胡三省の注によれば、「晋の制度には白虎幡と騶虞幡がある。白虎は猛威にして殺すことをつかさどるが故に戦闘を督促す。騶虞は仁獣であるが故に戦闘を解除す」[2]と説明があり、また趙翼の『廿二史箚記』には「晋の制度では騶虞幡を最も重んじた。危機的な状況に至るごとにあるいは用いて皇帝の旨を伝え、あるいは用いて戦闘をやめさせた。これを見た者はたちまち恐れひれ伏して決して動こうとはしない。・・・他の王朝ではこれを用いたという記事は見当たらない」とある。すなわち騶虞幡は本来は戦争における旗指物の一種で皇帝の意思として戦闘を停止させる場合に使うものであり、それがさらに非常時の際に皇帝の意思を伝える手段としても利用されたのである。そもそも武帝は軍事を重視し、蜀漢滅亡後、陳勰に諸葛亮の兵法などを習得させたが、白虎幡・騶虞幡を使って軍隊を整然と統率するのもそのときに採用され、張華は真の皇帝の意思を目に見える形であるものとしてその場面を思い出したのであろう。(『西晋の武帝 司馬炎』白帝社、1995年、pp. 203-04)

淮南王允に内応した陳徽の兄で中書令の陳準は淮南王允に味方して勝たせようと考え、恵帝に「白虎幡をつかわして戦闘をやめさせるのがよろしいかと存じます」と言上した。実は戦闘をやめさせる天子の意思を伝えるのは仁獣を縫い取った騶虞幡であり、白虎幡は逆に戦闘を鼓舞するための旗指物であった。陳準は、恵帝が暗愚で両者の区別が理解できないのを利用して、故意にそういったのである[3](同上、p. 241)

騶虞幡は皇帝の分身として、より皇帝の意思を体する点では詔勅を凌ぐ権威を有していた。それ故に騶虞幡は八王の乱において楚王瑋のクーデター以後にも、・・・登場する。ところがこうして騶虞幡がクーデターのたびごとに利用されるにつれ騶虞幡そのものがもっていた効力が薄まり、・・・ついに騶虞幡に代って皇帝である恵帝自身が前面にかつぎだされるという事態にまでエスカレートした。(「西晋代宗室諸王の特質――八王の乱を手掛りとして」、『史林』68-2、1985年、p. 112)

 要約すると、福原氏は胡三省と趙翼の見解に拠って、騶虞幡とは「本来・・・戦闘を停止させる場合に使うもの」であり、したがって、ひいては「非常時」における「皇帝の分身」ともなった、と解しているようである。また胡三省は、晋代には騶虞幡のほかに白虎幡なるものがあり、2種類の幡が用法に応じて使用されていたと論じているが、福原氏もその考えに同意しているようである。

 本記事では、福原氏や胡三省の述べる騶虞幡の「本来」の役割は誤りであることを示し、騶虞幡の適切な記号的意味(使用法)を論じる。

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 西晋の崔豹『古今注』輿服篇[4]の次の記述を核に考察を進めていきたい。

信幡、古之徽号也、所以題表官号、以為符信、故謂信幡。乗輿則画為白虎、取其義而有威信之徳也。魏朝有青龍幡、朱鳥幡、玄武幡、白虎幡、黄龍幡五、以詔四方。東方郡国以青龍、南方郡国以朱鳥幡、西方郡国以白虎幡、北方郡国以玄武幡、朝廷畿内以黄龍幡、亦以騏驎幡。高貴郷公討晋文王、自秉黄龍幡以麾是也。今晋朝唯用白虎幡。信幡用鳥書、取其飛騰軽疾也。一曰、以鴻雁、燕鳦者、有去来之信也。

信幡とはいにしえの徽号〔後述〕のようなものである。というのも、信幡には官名や称号を記し、そうして公文書の保証書〔原文「信」〕としての役割を果たすからで、なので(そのような旗を)「信幡」と呼ぶのである。天子の車には(目印として?)天子の信幡には白虎が描かれているが、それは白虎の象徴的意味である威と信の徳をあらわしているのである〔この一文、読みなおした(2018/5/29)。こうすると、以下の論述も破綻ないし組みなおしが必要になるのだが、後日調整する〕。曹魏では青龍幡、朱鳥幡、玄武幡、白虎幡、黄龍幡の五種類があり、四つの方角を象徴していた。東方の郡国が用いる信幡は青龍幡、南方は朱鳥幡、西方は白虎幡、北方は玄武幡で、畿内では黄龍幡あるいは騏驎幡が用いられた。高貴郷公が晋の文王を討とうとしたときは、みずから黄龍幡を手にして振っていた。現在、晋では白虎幡のみを用いている。信幡は鳥書体〔書体の一種〕で記すが、それは鳥が飛ぶように軽快に行けという意味が込められている。また一説に、雁や燕のような渡り鳥のように、行って戻ってきたことを知らせてくれるという意味があるそうだ。

 私も以下、『古今注』にならって「信」として使用される旗を「信幡」と表記することにする。
 たとえば命令書だとか詔だとかを伝令の使者に持たせて派遣させるじゃない、そのときに受け取る相手側に対し、「この文書はちゃんとこういう責任がある地位から出たものですよ、この使者もその責任者がたしかに派遣したものですよ、だからこの文書はウソじゃないですよ」という保証を与えるもの、それが「信幡」というわけである。
 信幡には、まず鳥書体で官名やらが記され、その信幡がどこの地位を保証しているのかを示しているわけだが、曹魏はさらに責任者のいる方角に応じて聖獣を描かせたらしい。東方の郡国が文書の責任者である場合は青龍幡、・・・中央政府・皇帝が責任者である場合は黄龍幡、と。このような措置が曹魏独自のものなのかは史料が少なくてわからないが、ともかく信幡に記されている官名を見ずとも図像を見ればだいたいどこから来た信幡なのかがわかるというわけだ。図像に従って信幡にカラーも施されていたんじゃないだろうか。

 というわけでまず確認しておきたいのは、信幡は使者が伝えてきた命令とか文書の出所、責任を保証するために使用するもの、ということ。

 次に考えてみたいのは「現在、晋では白虎幡のみを用いている(今晋朝唯用白虎幡)」という記述。
 二つの論点が挙げられる。①曹魏の5種類の信幡との関係はどうなっているのだろうか。曹魏の白虎幡のみが残って他は廃止なのか、それともすべて白虎に改められたのか、等々。②騶虞幡はどうなっているのだろうか。『古今注』は白虎幡の1種類しかないと説明しているが、前引した胡三省は白虎と騶虞の2種類があると解している。どう考えればよいのだろう。

 まず②から考えてみたい。
 そもそも騶虞とは何であろうか。『毛詩』召南・騶虞の毛伝に興味深い記述がある。

義獣也、白虎黒文、不食生物、有至信之徳、則応之。

騶虞とは義獣のことである。白い虎で黒の模様がある。生物を食べない。高い信の徳を有する人物がおれば、それに呼応して出現する。

 つまり鳳凰とか龍とか麒麟とかと同類の瑞獣というわけですな。「至信」の徳の象徴的動物、というのはまた意味ありげである。
 生物を食わないというたいへん仁の心に通じたシンボルであるために、前引した胡三省のような解釈が生まれたのだろう。すなわち、仁獣の騶虞を描いた騶虞幡は「殺すな」という意味があるのだと。
 しかし、そういうシンボル的な意味は正直どうでもいいように思われないだろうか。いや考慮しなくていいと言っているのではなくて、最初に注意しなければならないことは、騶虞は黒模様をもった「白虎」だという記述ではないか。騶虞幡も白虎幡も、どちらも描かれている瑞獣は白虎なんじゃないか、つまり騶虞幡と白虎幡って別々のものなんじゃなくて同じものではないのか。
 これを裏づけてくれるような史料がある。『太平御覧』巻341兵部72幡に引用された佚書の記述だ。

晋諸公賛曰、楚王瑋矯詔、害汝南王亮。其夜、帝臨東堂、張華唱議、乃遣左右以白虎幡麾之、然後衆散。


王隠晋書曰、河間王伐斉王冏、火焼観閣及千秋神虎二宮門。冏盗白虎幡、唱云、「長沙王矯詔」。長沙更以白〔虎?〕幡唱称大司馬謀反。

 これを冒頭で引用した唐修『晋書』の記事と比べてみよう。

張華伝――楚王瑋受密詔殺太宰汝南王亮、太保衛瓘等、内外兵擾、朝廷大恐、計無所出。華白帝以「瑋矯詔擅害二公、将士倉卒、謂是国家意、故従之耳。今可遣騶虞幡使外軍解厳、理必風靡」。上従之、瑋兵果敗。


斉王冏伝――冏令黄門令王湖悉盗騶虞幡、唱云、「長沙王矯詔」。乂又称、「大司馬謀反、助者誅五族」。

 唐修『晋書』の「騶虞幡」が王隠『晋書』と『晋諸公讃』では「白虎幡」と記述されているのだ!
 なお王隠の『晋書』は東晋の穆帝期ころ、まあ東晋の初期~中期くらいに成ったと考えられている(曹書傑「王隠家世及其『晋書』」、『史学史研究』1995‐2)。現在は佚書。『晋書』巻82王隠伝によれば、もともと彼の父が西晋時代から晋史の執筆準備をはじめていたのだが、完成させずに没してしまったために王隠がそれを継いで完成させたそうだ。おそらく父の影響があったためであろうが、彼は西晋の事跡に詳しかったのだという。『晋書』は東晋以前の晋がおそらくメイン内容であったと思われるが、邱敏氏は佚文のなかに東晋の元帝、明帝、成帝時期のものも含まれていることを指摘している(『六朝史学』南京出版社、2003年、p. 74)
 もうひとつの『晋諸公讃』の撰者は傅暢といい、『晋書』巻47傅玄伝に附伝がある。伝によれば傅暢が石勒の支配下に入ってから完成したものである。傅暢は東晋成帝の咸和5年に没しているので、それ以前の成立となる。
 要するに、両書とも同時代に成立した書物なのだ。しかも西晋時代を経験した西晋ヲタたちの手がけけたものなので、これらの記述を無下に扱うことはできないだろう。
 またこれから詳述していくことになるが、騶虞幡は唐修『晋書』にしか記述が見えず、後世の史料では白虎幡しか見えていない。だが後世の白虎幡の用法は騶虞幡とそれほど変わっていない。それに唐修『晋書』のなかで騶虞幡と白虎幡が同時に登場して使い分けられていたりだとか、両者が異なることを示す記述を見出すことはできない。

 以上、私は騶虞幡と白虎幡は同一のものであると考える。後世史料を参照すると「白虎幡」と呼ぶのが一般的であったようだが、唐修『晋書』では「騶虞幡」と呼ばれることもある、と。

 つづいて上記の①の問題に進んでみよう。
 曹魏時代の他の信幡はどうなってしまったのだろうか、晋朝の白虎幡とはどういう関係にあるのだろうか。
 まず曹魏の白虎幡だけが残って他は廃止、という可能性はないだろう。上引してきたように、騶虞幡=白虎幡は西方の郡国から出されているのではなく、天子から出ている。したがって西方の郡国が使用する信幡のみが晋朝で使用されたと考えることはできない。
 次に考えられるのは、青龍幡はじめ方角による図像の区別がなくなり、五つすべての図像が白虎になった、というもの。しかしその可能性も低いと思われる。
 本記事冒頭の史料を思い出してほしい。仮に晋朝では五つの信幡すべてに白虎を描いていたとする。とすると、冒頭の史料のいくつかは解釈不能になるのではないだろうか。たとえば、楚王が言っていることは「矯詔」である=詔を偽っている、と宣言することができるのは、原則皇帝のみのはずである。詔を発することができるのは皇帝なのだから、皇帝や皇帝の意を受けた者でなければ、「あいつの詔はウソだ、こっちのが本当だ」なんて言えるはずがない。
 そのように伝えた使者の言葉が兵士たちに信頼されたのは、白虎が描かれた信幡によって担保されていたからであろう。つまり白虎の信幡は天子の使者・伝言であることを確かに保証するものだからこそ、かかる効果を発揮したはずである。
 要するに、晋朝では五つすべての図像が白虎に変更されたのではなく、四方の郡国専用の信幡からは聖獣が消え(あるいは信幡自体がなくなり?)、中央政府=皇帝専用の信幡のみが聖獣を残された、と考えられる。
 どうして曹魏では西方を象徴する聖獣にすぎなかった白虎がいきなり中央に?、と思われるであろう。
 晋朝における信幡の変更について、要点をややずらして考えなおしてみよう。この変更の重要なポイントは、曹魏の黄龍幡が白虎幡に変更されたことにあるとみることができるのではないだろうか。
 どうして西方の白虎が中央に採用されたのか。その手がかりは動物ではなく色にある。

 王朝のシンボルカラーについては三正説の考察記事にまとめたので詳しくはそちらをご参照いただくとして、ここでは要点だけをかいつまんで進めていきたい。
 まず曹魏の五つの信幡であるが、四方専用の信幡はそれぞれ東西南北の方角を象徴する聖獣が充てられている。もちろん聖獣の色も方角に該当する五行の色となっている。中央が使用した黄龍幡と騏驎幡については、中央を象徴する聖獣はとくに定まったものを知らないが、中央は土行=黄色であったのは前回まとめたとおりである。麒麟の色は鋭意調査中なので今回は措かせてほしいが、黄龍はもちろんその字のとおり。
 このように曹魏の五つの信幡は五つの方角に合わせた色の聖獣が配されていたと考えられる。
 そして偶然のことではあったが、曹魏は土徳の朝であったため、中央の黄色は同時に自身の王朝カラーでもあったことになる。
 次に晋朝だが・・・晋は土徳のあとなので金徳であった。そのカラーは白。
 以上を踏まえて推測するに、晋朝は曹魏の四方専用の信幡を廃し、中央の信幡のみを維持することに決めたさい、曹魏では中央の信幡が同時に王朝のカラーでもあったという性格を切り抜いて、中央用の信幡の色を自朝のカラーに変更したのではないだろうか。その結果、白の聖獣(白虎)が描かれた信幡となったのではないだろうか。

 次に『古今注』冒頭で言及されていた「徽号」を考察してみよう。
 「徽号」とは経書に見える語であるが、崔豹はどのような意図でもって信幡を「徽号」に喩えたのだろうか。実はこの問題、信幡の聖獣やカラーが変更されたことと無関係とは言えないのである。以下、そのことも脇目に見つつ資料を整理してみたい。
 まず『礼記』大伝篇。

立権度量、考文章、改正朔、易服色、殊徽号、異器械、別衣服、此其所得与民変革者也。

(聖人が新たに南面すると)度量衡を定め、礼を調べなおし、暦を改正し、車を引く馬を変更し、徽号を変え、礼楽の道具や兵器を一新し、吉礼凶礼の作法を改めた。これらは(聖人が新たに立ったさいに)民の意志に沿って変更してよいものである。〔筆者注――訳文は鄭玄注に従って作成している〕

 ここの文は、聖人が立つごとに=天命が革まるごとに変革しても良いものを変革する、という主旨で、「徽号」も変革してよいもののひとつとして挙げられている。では「徽号」とは具体的に何であると解釈されていたのだろうか。
 『古今注』は「所以題表官号、以為符信」と記述しており、旗に記された称号を「徽号」とみなしているような節がある。実際、後漢の盧植は「徽号」を旗に記された称号のことであると解釈しているらしい。彼のおそらく『礼記』注と思われる佚文に次のようにある(『通典』巻55礼典15歴代所尚・原注引)

徽、章也。号所以書之於綏、若夏、則書其号為夏也。

「徽」とはしるしのことである。「号」とあるのは、称号を旗に記すからであり、例えば夏王朝なら「夏」と記す。

 たぶんこんな感じのことを言っていると思う。
 『古今注』引用文の末尾には書体の話になっているので、晋朝の白虎幡にも「晋」とかのような称号が記されていたのではないだろうか。

 もうひとつ、「徽号」の解釈で触れておきたい説がある。鄭玄である。
 鄭玄は『礼記』大伝篇の「徽号」について、「旗の種類(旌旗之名)」と注しているのみである。孔穎達の疏には「徽号、旌旗也。周大赤、殷大白、夏大麾〔夏が定めたとされる旗。黒色と推定。『周礼』春官・巾車職の鄭玄注参照〕、各有別也」とあり、旗は旗でも、三代それぞれのシンボルカラー(三正色)が採用された旗であったと解釈している。
 しかしこの孔穎達の解釈は、鄭玄注の解釈としては疑問が残る。鄭玄が旗の種類としての「徽号」を解するさいに、それを色と関連づけて解釈していたとは考えづらいのである。というのも、『周礼』春官・司常職に、

司常掌九旗之物名。各有属以待国事。日月為常、交龍為旂、通帛為旜、雑帛為物、熊虎為旗、鳥隼為旟、亀蛇為旐、全羽為旞、析羽為旌。及国之大閲、賛司馬頒旗物。王建大常、諸侯建旂、孤卿建旜、大夫士建物、師都建旗、州里建旟、県鄙建旐、道車載旞、斿車載旌。

司常は九旗の物と名をつかさどる。九旗にはそれぞれ「属」があり、それによって国事を担当している。日月が描かれているのは常、二匹の龍が交差しているものは旂、通帛は旜、雑帛は物、熊と虎は旗、鳥と隼は旟、亀と蛇は旐、全羽は旞、析羽は旌。仲冬の大閲〔仲冬に戦争がないときにおこなわれる、軍を検閲する軍礼〕のさいには、司馬を補佐して九旗を頒布する。王は常、諸侯は旂、卿は旜、大夫と士は物、郷大夫と遂大夫は旗、州長と里宰は旟、県正と鄙師は旐、道車(象路)〔朝と日暮れ、宮中に出入するための車〕には旞、斿車(木路)〔田園行に使う車〕には旌。〔筆者注――訳文は鄭玄注に従って作成している〕

と、周の九旗の制の記述が見え、旗の使用者に応じて旗の図像が定まっている旨の記述らしいのだが、ここの鄭玄注を見てみよう。

「物名」者、所画異物則異名也。「属」謂徽識也、大伝謂之徽号。今城門僕射所被及亭長著絳衣、皆其旧象。通帛謂大赤、従周正色、無飾。雑帛者以帛素飾其側、白殷之正色。全羽、析羽、皆五采、繋之於旞旌之上、所謂注旄於干首也。凡九旗之帛皆用絳。

本文の「物名」とは、図像が異なれば旗の名称が異なる(ので、「九の旗の物と名を掌る」という)ことである。本文の「属」は徽識のことを指す。『礼記』大伝ではこれを「徽号」と呼んでいる。いま(後漢)、城門僕射と(城門)亭長[5]が赤い服を着るのは、どちらもかつての徽識の名残である。「通帛」は周の正色に従った真っ赤なもので、飾りがない旗のこと。「雑帛」は、真っ白の絹で(赤の)布地の周囲を縁取った旗のこと。白は殷の正色である。全羽、析羽はともに五色の羽のことで、それを旞、旌の先につける。『爾雅』が言う「旗竿の先端に牛の尾をつける」旗である。九旗の絹〔旗の布地〕はすべて赤色を用いる。〔筆者注――訳文の作成にあたっては賈公彦の解釈を多く参考にしている〕

 鄭玄の理解では、「徽号」(徽識)とは旗の用途を区別するためのマークを指す。鄭玄によれば周の旗はすべて赤色ではあるけれども、色が徽号であるのではない。
 この説に従えば、「徽号を変革する」とは、旗のシンボルマークを変更する、ということになるだろう。色を三正説に従って変えるのではなく。曹魏や晋朝の信幡に聖獣があしらわれていたのは、かかる『周礼』の解釈を意識していたからではないだろうか。

 崔豹らがどういう意味でもって「徽号」を使用しているのかはっきりしないのは大問題というか致命的なのだが、『古今注』が白虎幡を「古之徽号」と喩えたのは、大雑把に言うと白虎幡は「用途を示すためのマークがあしらわれた旗なんだよ」ってことを言いたかったからであろう。そのマークには称号(盧植説)とエンブレム(鄭玄説)双方がミックスされ、現実化されたのではないか。うち、エンブレムに自王朝のカラー(=白)を採用したのはリップサービスといったところだろう。経書の「徽号を変革する」ってそういうことなんじゃないって理解したのでは?

 ついでに白虎幡の旗の色、布地の色はどうであったのかというと・・・これまた当てずっぽうな推測だが、たぶん赤じゃないですか。三正説の考察記事に詳述したとおり、晋朝は漢のシンボルカラー(赤色)を変更せずに継承し、朝服の基本色を赤としていたのだが、『晋書』輿服志に金根車と耕根車には赤い旗をつけたそうで。これら以外の旗には言及がないのでわからないが、ほかの旗も赤色を使ってたのでは?
 正月を漢朝のまま変更しないからカラーも漢朝のままにする、ってことをしておきながら徽号はちゃっかり変更するってなんかおかしい感じはするのだけど、自分の史料の解釈がどこかでおかしくなっているのかもしれない。「徽号」の王粛説があったら知りたい。

***
 ここまででいったん整理しておこう。

・晋朝における騶虞幡と白虎幡は同一のものである。
・騶虞幡=白虎幡は文書・命令の責任を保証する旗(「信幡」)であった。
・晋朝では聖獣を描いた信幡は騶虞幡=白虎幡のみが使用され、かつそれは中央政府・皇帝専用の信幡であった。

 要するに騶虞幡=白虎幡に福原氏や胡三省が「本来」の役割とみなした意味――戦闘を停止させる旗――はまったくない。騶虞幡=白虎幡は「信幡」なのであって、この旗自体にそれほど限定的かつ具体的な意味があったのではない。そうではなく、使者の伝える言葉や情報がたしかに皇帝から発したものだと保証を与えるものとして、かの八王の乱のときに振られていたのである[6]
 その点では、福原氏が延長的な意味として述べられていた「皇帝の分身」という意味のほうが「本来」の適切な意義であっただろう。

***
 今度は晋朝以後の用例もいくつか検討していく。
 とはいっても、上記の「白虎幡は皇帝専用の信幡だ」という主張を以下の引用史料に適用しても問題はない、というやりかたで進めていくのでそこのところはご了承いただきたい。

 最初に『晋書』巻24職官志。

陳勰為文帝所待、特有才用、明解軍令。帝為晋王、委任使典兵事。及蜀破後、令勰受諸葛亮囲陣用兵倚伏之法、又甲乙校標幟之制、勰悉闇練之。遂以勰為殿中典兵中郎将、遷将軍、久之。武帝毎出入、勰持白獣幡在乗輿左右、鹵簿陳列斉粛。太康末、武帝嘗出射雉、勰時已為都水使者、散従。車駕逼暗乃還、漏已尽、当合函、停乗輿、良久不得合、乃詔勰合之。勰挙白獣幡指麾、須臾之間而函成。皆謝勰閑解、甚為武帝所任。

陳勰という者が文帝に遇せられていたが、この者はとりわけ才覚を有しており、とくに軍令に詳しかった。文帝が晋王になると、彼に軍事を任せた。蜀漢を滅ぼすと、文帝は陳勰に諸葛亮の布陣、用兵、戦法と、整列(?)〔原文「甲乙校」〕や旗の合図の方法を研究させた。陳勰はすべて自然と習熟した。そうして文帝は陳勰を殿中典兵中郎将とし、ついで(殿中?)将軍〔殿中将軍は宮殿内の宿衛を職務とする、殿中中郎将も名称からして同様の職掌〕に移り、長く務めた。武帝が宮殿から出入りするたび、陳勰は白虎幡を手にして車の左右に侍り、天子の行列は(彼の指揮で)厳粛としていた。太康年間の終わりごろ、武帝が雉狩りに出かけたとき、陳勰は当時(殿中将軍から異動して)都水使者〔西晋時代、黄河の堤防管理や漕運を管轄〕であったが、散官として(?)武帝に付き従った。武帝は日が暗くなってからようやく帰路に就いたが、水時計の水はすでになくなり(日没の時間になり)、函箱陣を布くべき頃合となったので、車を停めたところが、しばらくたっても整わなかった。そこで武帝は陳勰に指揮を任せたところ、陳勰は白虎幡を振りあげて合図を送っただけで、すぐに陣が整った。付き添いの者はみな陳勰の練達ぶりに(己れの未熟さを)恥じ入り、とりわけ武帝の信頼を得るようになった。

 原文では「白獣幡」となっているが、唐の高祖・李淵の祖父・李虎の諱を避けているのであろう、「白虎幡」を指していると考えられる。
 文中の「成函」とは、周一良氏によると「函箱陣」を布くという意で、皇帝の車を中心にして四方を囲む陣形をとることである[追記3]。旗の達人であった陳勰は旗を振るだけで合図を送ることができた。白虎幡を振ったというのは、自分の指令は本来の役職からすれば出すことができない性質の不適当なものに該当するが、しかし自分のこの指令は皇帝からの命令と同等に受け取るように、というような意味あいなのではなかろうか。当然、胡三省のような「戦闘を督促する」という解釈ではこの文は読めないだろう。

 南朝でも用例が散見する。たとえば夜間の開門に関連して『宋書』巻63王曇首伝に見えている。

元嘉4年、車駕出北堂、嘗使三更竟開広莫門、南台云、「応須白虎幡、銀字棨」。不肯開門。尚書左丞羊玄保奏免御史中丞傅隆以下。曇首継啓曰、「既無墨勅、又闕棨、雖称上旨、不異単刺。元嘉元年、2年〔『太平御覧』巻341に引く『宋書』は「元嘉元年二月」に作る。そっちのほうが良さそうな気もするが、とりあえず中華書局本のママとしておく〕、雖有再開門例、此乃前事之違。今之守旧、未為非礼。但既拠旧史、応有疑却本末、曾無此状、猶宜反咎。其不請白虎幡、銀字棨、致門不時開、由尚書相承之失、亦合糾正」。上特無所問、更立科條。

元嘉4年、文帝が北堂に外出したときのこと、(帰りが遅くなったため、)三更(真夜中)を過ぎようというときになって広莫門〔建康宮城東北の門〕を開けさせようとした〔あるいはこの箇所、「北堂に出かけようと思って、三更過ぎに門を開けさせようとした」とも読める〕。すると御史台は「白虎幡と銀字棨が必要です」と返答して、(皇帝一行がその二つを示さなかったので)開けようとしなかった。(のちに)尚書左丞の羊玄保は御史中丞の傅隆以下を罷免するよう上奏した。王曇首はそれにつづくかたちで上申した。「墨勅〔手詔の意?〕もなく、さらに白虎幡と銀字棨もなかったのであれば、仮に陛下のご意向であると言ったところで、根拠に欠けた言葉でしかありません。元嘉元年と2年に門を開いた事例が二度あるとはいえ、これは誤っている措置です(ので尚書の要求の根拠にはなりません)。旧習を守ったこのほどの措置は、非礼などではありません。(もっと)前代までの記録(の事例)に依拠したために、混乱して本末を転倒させた〔白虎幡などがないのに夜間に開門した〕のだろうかと思ったのですが、これまでの記録にそのような事例は一度もございません。むしろ(前代の記録上では、白虎幡などなしに開門した場合は)咎めるのが適切なのです。白虎幡と銀字棨を確認せずに時間外に開門させたのは、尚書がそれを認めた過ちに起因しているのですから、このことも一緒に誤りを正すべきです」。文帝は不問としたが、あらためて法に条文を設けた。

 銀字棨の説明は省略(よくわからないから)。白虎幡が皇帝の命令の担保になっていることがこの記述で明言されている(なお『南史』では「白獣幡」に書き換えられている)。
 なお『宋書』巻40百官志・下に殿中将軍の職掌として、「朝会宴饗、則将軍戎服、直侍左右、夜開城諸門、則執白虎幡監之」とあり、若干読みにくいが、「皇帝にいつでも侍っており、外出した皇帝の帰りが遅くなり、夜間に門を開けるときには、白虎幡を手に取って開門を指示する」という意味だろう。
 ところで、この記述でほかに興味深いのは、劉宋でも白虎幡が皇帝の信幡として使用されていることだ。上述したように、私の推測では、白虎、というより白のエンブレムは晋朝だからこそ意味をもつものであるはずである。しかし、晋朝以後の王朝に関しては、自王朝の五行カラーに合わせて変更してもかまわないのではないか。前回記事で詳述したように、晋南朝では三正色に変更を加えなかったであろうが、五行の循環説には従っていたので、五行色は各王朝でオリジナルに有していたはずである。

 劉宋の事例では、末年の桂陽王の挙兵の際にも白虎幡が見えている。『南斉書』巻22予章文献王伝に「桂陽之役、太祖出頓新亭塁、板嶷為寧朔将軍、領兵衛従。休範率士卒攻塁南、嶷執白虎幡督戦、屢摧却之」とあり、建康で桂陽王軍を迎え撃った蕭道成軍の蕭嶷は白虎幡を手にして戦闘したのだというが、これは自軍が皇帝の命を受けており、相手軍はそうではないことを示すためだと考えられる。

 『南斉書』には南斉末年の事例もひとつある。巻38蕭赤斧伝附穎冑伝に、東昏侯の意を受け、雍州刺史蕭衍(のち梁武帝)の牽制のために地方に出ることになった劉山陽は中央を離れるさい、「朝廷以白虎幡追我、亦不復還矣」と語ったという。これは「皇帝の命を受けた者たちが自分を討ちに来る」、すなわち「役目を果たしたら今度は自分が皇帝の敵になるだろうから、もうここには戻ってこれまい」と言っているのだろう。

 『梁書』の武帝紀にも南斉末年のこととしてひとつ用例があるが、これは前記『南斉書』予章文献王伝と同一の文脈で使用されている。

 さらに北魏でもいくつか用例がある。いくつか挙げておくと、『北史』巻16臨淮王譚伝附孚伝に、柔然の阿那瓌が北方に入塞して食料援助を要請したので、孚を使わして援助させることにしたところ、「孚持白武幡労阿那瓌於柔玄懐荒二鎮間」とあり、孚は白虎幡を手にして赴いたことが記されている。自分の伝える命が皇帝から発せられていることを担保するために、要するに自分は確かに皇帝から遣わされた使者なのだと示すために幡を手にするのだと思われる。『魏書』巻48高允伝附綽伝にも「大乗賊起於冀州、都督元遙率衆討之、詔綽兼散騎常侍、持節、以白虎幡軍前招慰」とあり、詔によって使者を命じられた者がやはり白虎幡を持って赴いている。
 また『魏書』巻51封勅文伝に、籠城した反乱軍を包囲した勅文が「以白虎幡宣告賊衆曰、「若能帰降、原其生命」。応時降者六百余人」と、白虎幡を手にして投降を呼びかけている。投降を許すのは皇帝の意であるのだ、と明示するためだろう。
 ほかにも用例は見えるが、これまで挙げた使用例とそれほど変わらないと思うので、これくらいで。要するに北朝でも白虎幡が皇帝の信幡として使用されていたということだ。

***
 これまでみてきたように、南朝でも北朝でも白虎幡は皇帝の信幡として使用されていた。気になる事柄である。
 白虎は晋の五行色を意識して採択されたエンブレムであった、と私は推測しているわけだが、その論理で考えれば、南北朝にとって白虎はそこまで重宝する記号ではない。
 晋朝にとって重要だったのは「白」というカラーだったのであって、「白虎」そのものが重要だったのではない。シンボルカラーとしての「白」は、晋朝の独自性、唯一性を示しているからだ。
 対して、南北朝にとって、「白」というカラー自体にそれほどの象徴性があったとは思えない。そうではなく、「白虎」というシンボルそれ自体に意味があったのではないだろうか。「白虎」のエンブレムがついた旗は皇帝専用の信幡である、といった具合に。
 晋と南北朝とで、白虎幡制度の運用に変更が加えられたわけではない。その点では何も変わりなく、史料を読むうえでもとくに差し支えはない。
 しかし、「白虎」というエンブレムからどのような意味を読み取るか、どこに価値を認めるかには大きな差があったと私は考える。「白虎」の意味の変化――意味の忘却と創作、「白」に込められていたシンボル性は忘れられ、「白虎」それ自体にいつのまにか別のシンボル性が付与される。
 晋代、信幡における「白虎」は晋朝(の皇帝)の隠喩であった。のち、そこからは晋朝という唯一性が消去され、「天子一般」の隠喩へと普遍化された。そのような意味変化が、表面上に変化の見られない制度の裏でひそかにあったのではないだろうか。

 余談。五胡時代の白虎幡に関する記述もひとつ残っている。『太平御覧』巻341に引く『石虎鄴中記』に、

勒為石虎諱、呼白虎幡為天鹿幡。

とあり、石勒は石虎の名を避けて白虎幡を天鹿幡と呼んだのだという。
 この書き方からすると、エンブレムは白虎のままで名称を変えただけのように思われ、南北朝同様にやはり白虎幡をそのまま継承しているように読めるのだが、天鹿について『宋書』巻29符瑞志・下に「純霊之獣也。五色光耀洞明、王者道備則至」とあり、また孟康の『漢書』注によると、ユニコーンみたいなやつのことを言うらしく、とても白虎とは似つかないように思われるので、エンブレム自体を変更している可能性が高い。
 『宋書』の記述によると、天鹿は五色の聖獣となるはずだろう。つまり石勒は、エンブレムに自王朝の五行色を象徴する聖獣をほどこすのではなく、五行色全部を体現する聖獣をあしらうという離れ業をやってのけたのである。
 こいつ・・・よくわかってるな。



――注――

[1]原文は「内外兵」だが、後文の張華の発言中の「外軍」を勘案してこのように訳してみた。『宋書』巻40百官志・下に、領軍将軍は「内軍」を、護軍将軍を「外軍」を掌る、とあり、内軍と外軍は名詞ないし用語であったと考えられる。詳しくは百官志訳注の注 [2] を参照。[上に戻る]

[2]原文は次のとおり。「晋制、有白虎幡、騶虞幡。白虎威猛主殺、故以督戦。騶虞仁獣、故以解兵」。『資治通鑑』巻82元康元年六月の条。[上に戻る]

[3]ここの歴史記述で拠っている史料はおそらく次の『資治通鑑』の記述および胡三省の注であろう。巻83永康元年八月の条「中書令陳淮、徽之兄也、欲応允、言於帝曰、『宜遣白虎幡以解闘』」、胡注「白虎幡以麾軍進戦、非以解闘也。陳準蓋以帝庸愚。故請似白虎幡麾軍、欲倫兵見之、以為允之攻倫、出於帝命、将自潰也。否則何以応允」。もちろん、この白虎と騶虞を意図的に混同させたんだという理解は、「白虎幡は戦闘を督促する旗である」との解釈を前提にした胡氏独自の理解であって、『晋書』にそういった旨の記述があるわけではない。[上に戻る]

[4]『古今注』のテキストについては以前のブログ記事の注[1]を参照のこと。[上に戻る]

[5]原文では「亭長」とあるのみだが、前文の「城門僕射」につづく文であることと、『後漢書』伝19耿弇伝の李賢注に引く『続漢書』に「城門亭長」が見えていることから、鄭玄注で言っているのは「城門亭長」のことであると解しておく。また城門僕射についてであるが、孫詒譲が『続漢書』輿服志の却非冠に見える「宮殿門吏僕射」のことではないかと推測しているらしい(goushuさんありがとうございます!https://twitter.com/goushuouji/status/697134256703672320)。[上に戻る]

[6]Twitterで検索してみたところ、騶虞幡と白虎幡が同一のものであるとの指摘は1994年に李歩嘉氏という研究者によってなされているらしい。未読なので内容はわからず。もしかすると本記事で述べたことはすべて既述済みかも。そうだったらすんません。[上に戻る]

[追記1]Twitterで先行研究をご教示いただきました。大渕貴之『唐代勅撰類書初探』(研文出版、2014年)のpp. 89-92、および津田資久「書評 福原啓郞著 魏晉政治社會史硏究」(『東洋史研究』72-1、2013年)にて、白虎が避諱によって騶虞に置き換えられた、と指摘されているそうです。きんごさんcharankeさん、ありがとうございます! 近日中に内容を確認してしかるべき追記を施します。(2016年2月22日)

[追記2]先行研究を確認。大渕氏は『芸文類聚』での避諱事例を検討するなかで、白虎が騶虞に置換される工夫がとられている、と論じておられる。津田氏の引用する李氏の論文(李歩嘉「白虎幡考辨」、『文史』40、1994年)では、やはり騶虞が白虎の避諱であることが指摘されている。また『古今注』の文も引用しながら白虎幡の使用法も検討され、総じて天子の命令を伝達するのが役目であり、具体的には戦闘の停止、投降の呼びかけ、軍の慰撫、督戦であるとしている。後趙の天鹿幡は、避諱のためにそう呼ばれることもあった、と呼称の置き換え程度にしか考えていないようである。論文末尾の「唐代では幡、伝教幡、信幡などと呼ばれるようになったが、それらは白虎幡と継承関係にある」との指摘は興味深い。隋以降の用例はあまり調べていないので。ただ白虎幡については、史料が不足気味とはいえ、もう少し突っ込んだ解釈が可能ではないかとも思う。曹魏から晋への信幡の変化にも言及こそすれ、特別な意義は認めていないようである。私は、本記事で述べたような白虎幡の意義をめぐる解釈について(エンブレムとかカラーのシンボル性)、いまのところは変更を加えません。(2016年2月27日)

[追記3]周一良「従礼儀志考察官制」(『周一良集』第1巻、遼寧敎育出版社、1998年、初出は1982年)。私の当初の訳・解釈では、「函谷関を閉じること」としていたが、これは完全なる誤りであった。周氏は礼志に「作函」という記述があること、「函箱陣」という用例があることなどを指摘してかかる主張をされておられるが、正しい理解であろうと思う。全面的に記述を改めさせてもらった。(2016年2月27日)[上に戻る]


[注記] 本記事は2016年2月21日に投稿した記事「晋朝の騶虞幡、白虎幡について」に一部修正を施したものである。長文かつ力作(のつもり)ゆえ、投稿記事から独立させることにした。(2017年5月12日)

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