2013年10月26日土曜日

西晋時代の人事運用の一例(『晋書』李重伝)

『晋書』巻46李重伝
 遷尚書吏部郎、務抑華競、不通私謁、特留心隠逸、由是群才畢挙、抜用北海西郭湯、琅邪劉珩、燕国霍原、馮翊吉謀等為秘書郎及諸王文学、故海内莫不帰心。
 時燕国中正劉沈挙霍原為寒素、司徒府不従、沈又抗詣中書奏原、而中書復下司徒参論。
 司徒左長史荀組以為、「寒素者、当謂門寒身素、無世祚之資。原為列侯、顕佩金紫、先為人間流通之事、晚乃務学、少長異業、年踰始立、草野之誉未洽、徳礼無聞、不応寒素之目」。
 重奏曰、「案如癸酉詔書、廉譲宜崇、浮競宜黜。其有履謙寒素靖恭求己者、応有以先之。如詔書之旨、以二品繫資、或失廉退之士、故開寒素以明尚徳之挙。司徒総御人倫、実掌邦教、当務峻準評、以一風流。然古之厲行高尚之士、或棲身巖穴、或隠跡丘園、或克己復礼、或耄期称道、出処黙語、唯義所在。未可以少長異操、疑其所守之美、而遠同終始之責、非所謂擬人必於其倫之義也。誠当考之於邦党之倫、審之於任挙之主。沈為中正、親執銓衡。陳原隠居求志、篤古好学、学不為利、行不要名、絶跡窮山、韞韣道芸、外無希世之容、内全遁逸之節、行成名立、搢紳慕之、委質受業者千里而応、有孫孟之風、厳鄭之操。始挙原、先諮侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼。去三年、諸州還朝、幽州刺史許猛特以原名聞、擬之西河、求加徴聘。如沈所列、州党之議既挙、又刺史班詔表薦、如此而猶謂草野之誉未洽、徳礼無聞、舍所徴検之実、而無明理正辞、以奪沈所執。且応二品、非所求備。但原定志窮山、修述儒道、義在可嘉。若遂抑替、将負幽邦之望、傷敦徳之教。如詔書所求之旨、応為二品」。
 詔従之。

 (李重は)尚書吏部郎に移った。体裁ばかりで浮薄な人(「浮華」)を抑え込むのに努め、私的な斡旋を行なわず、とりわけ隠逸の士に心を向けていたので、多くの有能な士が推挙された。(例えば)北海の西郭湯、琅邪の劉珩、燕国の霍原、馮翊の吉謀らを抜擢し、秘書郎や諸王の文学に就けた。かくして、天下の人々はみな(李重に)心服したのである。
 当時、燕国中正の劉沈が霍原を「寒素」に推挙したが、司徒府は(劉沈の推挙を)採用しなかった。劉沈は抗弁のため、中書省に出向いて霍原のことを報告したところ、中書省はもう一度司徒府に調査を命じた。
 司徒左長史の荀組の意見、「『寒素』とは、家柄が低く、その人個人も貧素で、家代々の『資』[1]がない者を対象としている。(だが)霍原は列侯で、金印紫綬を帯びている。当初は世間をさすらい歩き、年をとってからようやく勉学に打ち込み、成人になってからやっと立派な行ないをおさめ、三十歳を越えてようやく成果をあげた〔原文「年踰始立」。『論語』の「三十而立」を意識した表現〕。原野における(彼の)名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない。(霍原は)『寒素』の科目にふさわしくない(以上が司徒府の下した結論である)」。
 李重の意見、「癸酉詔書〔原文ママ。詔書はしばしば下された日の干支を頭に着けてこのように呼ばれる〕には、『廉潔の士は重用し、浮華の者は退けよ。履謙・寒素・靖恭・求己(の科目)にふさわしい者がおれば、彼らを優先的に登用せよ』とある。詔書の主旨をかんがみるに、二品の評定を『資』に関係させて下してしまうと、(『資』を有していない)廉潔の士を失うことになるから、(『資』がない人士を対象とした)寒素の科目を設けて徳を尊重する選挙であることを明確にしたのである。司徒は人材を総括し、国家の教化をつかさどるところ、まさに厳格な人物評定に努め、風俗を正すべきである。さればこそ、いにしえの行ないに励んだ高尚の士は、ある者はほら穴に隠棲し、ある者は田舎に隠退し、ある者は身を節制して礼に立ち返り、ある者は年老いてから道を主張した。(彼らが)仕えるか退くか、黙るか話すか(を決めた基準)は、ただ義があるかどうかだけであった。(だというのに、このたびの司徒府は、霍原が)時間をかけて立派な行ないをおさめたことを評価せず、彼が善しとして固持していることを疑い、しかも過去をさかのぼって(行動が)終始一貫していないあやまち〔行動が軽薄だということ。具体的な経歴で言うと、最初はぶらつき遊んでいて、あとになってから勉学したことを指すか〕と同一視しているが、(このような評定は)人物は必ず同輩たちの徳義によって測らねばならないという原則に反している。まさしく、人物は郷党の友人たちや推挙の保証人[2]によって審査しなければならない。(このたび保証人となっている)劉沈は中正であり、みずから選挙の公務を執っている。彼が述べるところによると、『霍原はひっそり隠居生活を送って志をめざし、いにしえを尊重して学問を好み、利益のために勉学せず、名声のために行ないをせず、交際を絶って山にこもり、道術を修め、外面は立身出世を望む様子もなく、内面は隠逸としての節義をまっとうせんとしている。振る舞いが完成し、名声が広まると、人士たちは彼を慕うようになり、(弟子入りのための)贈り物を渡して学問の指導を受けようとする者は、千里をものともせずにやって来ている。霍原には孫卿(荀子)や孟軻(孟子)〔原文「孫孟」。勘でこの二人だと思ったが、自信はない。後漢末~魏の時期に孫炎という学者がいたが、ああるいは孫炎を指すかも。その場合、孟が誰かという問題になるが〕のような風格があり、(漢の)鄭子真や厳君平[3]のような節操が備わっている。最初に霍原を推挙しようとしたとき、事前に侍中・領中書監の(張)華、さきの幽州大中正・後将軍の嬰、河南尹の軼に(可か不可かを)たずねた(ところ、了承を得ることができた)。また三年前、各州の刺史が朝廷に戻ったとき、幽州刺史の許猛は霍原の名声が高く、西河太守(の某)に匹敵するとし、特別に(朝廷に霍原を)招聘するよう求めている』ということだ。劉沈によれば、郷党の意見はすでに得ており、また幽州刺史も(癸酉?)詔書を(州内に)ふれまわって、(霍原の)推薦を上表していることになる。このようであるというのに、『原野における名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない』と言い、保証の根拠となる事実を棄ておき、しかも明白な論理も正確な陳述もなく、劉沈の推薦をむりやり否決している。それに、二品にふさわしいというのは、全ての面が備わっていることを求めるのではない。ただ、霍原は固い意志を抱いて山にこもり、儒学と道術を修得しており、その義は評価すべきである。もし(彼を登用せずに)おさえつけてしまえば、幽州の名望家を裏切り、徳を厚くする教化を損なうことになるだろう。癸酉詔書が要望する趣旨に従い、(霍原を)二品にすべきである」。
 詔が下り、李重の意見を採用した。
 なかなか興味深い記事である。まず人事選考の流れをまとめてみると、
  中正の選挙→司徒府の採決――(可)―→尚書吏部の選考? 
              ┖―(不可)―→不採用
                                       ┖→中書が仲介して関係各所(中正・尚書・司徒府)で再審査
という感じだろうか? 知らんけど。
 『宋書』百官志上訳注(2)の注20、24で言及したように、司徒府には左長史という特殊な長史が置かれ、「掌差次九品、銓衡人倫」(『通典』巻20)、すなわち九品官人における品の評定を職掌としていたらしい。

 それと「寒素」という選挙科目だけど、文脈からしてどうやら「二品」に相当するみたいだね。科目のある選挙って言ったら、いわゆる「孝廉」「茂才(秀才)」「賢良」をはじめとする漢代の選挙が想起される。漢代の選挙は、郡太守(郡太守の人物推挙は「孝廉」という科目)や州刺史(刺史の推挙は「秀才」という科目)や二千石以上の高官が、特定の秩石以下の人物を推薦する仕組みとなっている。太守(孝廉)や刺史(秀才)のような定期的に行なわれる場合と、皇帝が不定期に二千石以上高官に推挙を求める場合とがあった(賢良、方正など。この場合の選挙を「察挙」と呼ぶ)。孝廉や秀才などに推薦された人物は中央に行き、皇帝の策問(時事や経義などにかんする質問)に回答(「対策」と呼ぶ)し、この試験結果次第で、その後に任命される官職やコースに差がでるわけです(あやふな知識で話してます。専門書としては福井重雅先生の『漢代官吏登用制度の研究』創元社、1988年が詳しい。一般書ではちょっと・・・)
 かかる他薦式の選挙方式は魏晋以後も細々ながら継続していたことが諸史料に見えている。霍原がかつて幽州刺史に推薦されたという話も、「秀才」に選ばれたことを言ってるんじゃないかな。もっと具体的な例を述べてみよう。東晋時代のこと、東晋初期は戦乱直後ということで特別に孝廉や秀才に試験を課さずに官に命じていたけども、落ち着き始めると元帝は試験制度を復活させた。そうすると今度は孝廉、秀才に推挙されてもそれに応じない者が続出し、たまに中央に来る者はいても、「病気なんで」とか言って何とか試験をやりすごそうとする。孔坦が「時期が時期だし、もう少し落ち着いてから試験を再開した方がいいっすよ」と提案すると、元帝は五年間孝廉の試験を免除した。だが秀才に関しては試験が存続したので、湘州刺史の甘卓は秀才も試験をなくすよう求めたものの、却下された。のち甘卓は谷倹を秀才に推挙した。当時、秀才に挙げられた人物は試験を嫌がってみんな応じず、中央試験に行くものは誰もいなかった。ちなみに秀才は定期的に義務づけられているので、刺史は恒常的に人物を推挙しなければならんのである。ところが谷倹はそうした当時の風潮をものともせず、一人だけ試験を受けに都に行った。ほかに受験者は誰もいないので、試験を実施せずに谷倹は合格となった。だが谷倹はどうしても試験をやらせて欲しいと懇願し、試験を受け、好成績を収めて郎中就任というエリートコースを得たのであった。という長々としたエピソードがあります。(『晋書』巻70甘卓伝、同書巻78孔愉伝附坦伝)
 ついわきに逸れに逸れてしまったが、要するに言いたいことは、中正による九品官人の選挙にも、郡太守や州刺史の「孝廉」「察挙」同様、科目名があったのだろうか、ということです。あったのかな。よくわからないけど。中正が人物評価をしたためるときは、「輩」という推薦人物と同格と思われる人物のリストと[4]、「状」という簡潔な人物評=才能の評価を作成するのだけど[5]、その「輩」や「状」に「こいつは何品くらい」って書いてそれで終わり、みたいな選考じゃなかったんだね。「寒素」に厳密な条件があったことからして、「輩」や「状」を作成しつつ各科目に仕分けして推薦する仕事もあったのかな。
 ちなみに「寒素」の科目で検索してみると、陸機のような孫呉系人士や陶侃など、たしかに寒門っぽい人たちがこの科目に挙がっていたようだ。

 さらに気になるのが、中正が推薦する際、事前に三人の人物に聞き訪ねてお墨つきを得たという話だ。このうち、「侍中・領中書監華」は訳文で補っておいたように、おそらく張華を指すと思われる。他の二人、某嬰と某軼は不明。だがここで張華が登場している時点でどういうやつらなのかは推測がつく。張華といえばそう、本貫は范陽、すなわち幽州の出身なんですよこれが。そうすると後文のいくつかの箇所が色々と思い当たって来るよね。「郷党の意見ですでに了承されている」「幽州の名士たちに背くことになる」とか。そう、それらの文言は張華や某嬰、某軼をはじめとする幽州の名士にもうお墨つきをもらってるんだけど文句あんの? ってことを言っているのだろうね。中正が人物を推挙するにあたって、その州の著名人に意見を聞くことが、郷党の意見から了承を得ることになっているわけだ。他の州でも同様だったのかもしれないし、これが常制だったかもしれない。まあつまりね、先行研究で散々議論されていた「郷論」っていうのはこういうもんなんじゃないですかね。

 と、つい長くなってしまいました。この李重伝の記事、宮崎市定『九品官人法の研究』にも取り上げられていて(中公文庫版、pp. 121-122, 157-158)、それなりに知られてはいるのだけど、もっと注目されるべき史料だと思うんだよなぁ・・・。
 ちなみに霍原は『晋書』隠逸伝にも立伝されています。このときのお話も少し載っているよ。霍原はのち、幽州刺史・王浚に因縁をつけられて殺されてしまいました。


――注――

[1]『資』は原文のママ訳出した。官制用語。だがどうやら用語であるらしいということがわかっているだけで、なにをもって「資」と呼んでいるのかは明確ではない。中村圭爾氏は昇進ルートのランクのようなものを指すと解しておられるようである。つまり、同じ品でも官によって出世コース上の官とそうでない官があり、出世コースのルートにつけるかどうかはその人がこれまでどのような官歴をたどってきたかに依るが、その官歴の累積ポイントのようなものが「資」で、「資」が一定まで積もればルートのランクがアップする、といった感じのようだ。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。
 ただ、中村氏も言及しているが、「資」に関する熟語には「門資」「世資」、さらには今回取り上げた李重伝の記事にも「世祚之資」とあるように、明らかに家柄に関する何かを意味しているような場合がある、というか比較的そのような用例が多い印象がある。かりに「資」を上のようなものと考えてみると、個人だけに留まらず家ごとに「資」が累積していたことになる。その場合、どのように「資」は決まっていたのだろう? 父の官歴?
 「資」という語は劉寔「崇譲論」(『晋書』巻41本伝所載)、劉毅「八損論」(『晋書』巻45本伝所載)などにも見えており、西晋時代にはもう一般的な語であったようだ。わたしもよく見かけてきた語で、以前からとても気になっていた語なのだけど、申し訳ないが具体的なイメージがいまだにつかめない。中村氏が言うように、人事運用上で参照される「何か」であることはたしかなのだが・・・
 余談だが、北魏には「階」という制度があり、官職の成績や勤続年数、あるいは軍功によって累積するもので、官を得たり転任する場合は「階」を参考基準として人事の運用がなされたという(岡部毅史「北魏の「階」の再検討」、『集刊東洋学』83、2000年)。中村氏の「資」の解釈にどことなく似ている。[上に戻る]

[2]人物推薦の際に保証人がつくことは、戦国秦から行なわれていた制度である。詳しくは楯身智志「秦・漢代の「卿」――ニ十等爵制の変遷と官吏登用制度の展開」(『東方学』116、2008年)を参照。[上に戻る]

[3]原文「鄭厳」。人名なのはわかるけど、誰のことだかはよくわかりませんね。このような、六朝時代の漢文で出典を調べるとき、最も役に立つのが『文選』の唐・李善注である。李善はひたすら典拠を記述するというスタイルで注釈をつけたため、熟語の出典をはじめとして調べものをするときはホントに助かるんですよ。え? でも唐代の人物じゃん? は、何言ってんの? 李善なんて現代の我々よりうん百倍と教養あるんですけど。むしろ李善さんを呼び捨てにするのもためらわれると感じないの? じゃあさっそくこの「鄭厳」の出典について、李善さんのお言葉を賜わることといたしましょう。幸いなことに、李善さんは我々を見棄ててはいなかった。『文選』巻23諸州の嵇康「幽憤詩」に「仰慕鄭厳」という句があり、李善どのの注、「漢書曰、谷口有鄭子真、蜀有厳君平、皆脩身保性。成帝時、元舅王鳳以礼聘子真、子真遂不詘而終、君平卜筮於成都市、以為卜筮賤業、而可以恵衆、日閲数人、得百銭、足以自養、則閉肆下簾而授老子、年九十余、遂以其業終」。この文章は現行『漢書』巻72王貢両龔鮑伝の冒頭からの節略引用である。鄭子真は官に招かれても応じず、隠居して世を終えた人、厳君平は占いを仕事にしていたが、それで満ちるを知り、仕事のあとは『老子』の教授などをしながら生活し、そのまま天寿を全うしたという。[上に戻る]

[4]輩で著名な話が司馬炎と鄭黙の事例。司馬炎が魏末に中正の選挙を受けたときのこと、郡内では司馬炎の「輩」に相当する人物がいなかったため、州内に対象範囲を広げて「輩」を探したところ、鄭黙に決まったという(『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝)。選挙するにあたって、「コイツはこの人物と同等ですよ」みたいなね、なんかそういうのが必要だったらしい。[上に戻る]

[5]状については矢野主税「状の研究」(『史学雑誌』76-2、1967年)が詳しい。矢野氏が状の例として挙げるのが、列伝冒頭にあるリズミカルな標語。例えば「少有風鑑、識量清遠」(王導)、「風格峻整、動由礼節」(庾亮)など。また中村圭爾氏によれば、状には才能評価だけを記したものだけでなく、それに加えて品を記したものを指す場合があったが、西晋になるとさらに、その人個人の官歴の記録(「薄伐」と言う)も状に記録するようになったという。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。[上に戻る]

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