2013年9月15日日曜日

後漢の駅吏?(五一広場東漢簡より)

 最近、長沙から後漢時代の簡牘が出土したそうだ。あの走馬楼とかなり近い地点であるらしい。
 『文物』(2013・6)に掲載されている発掘簡報によると、2010年、地下鉄建設のため下水管移動工事をしてたら、穴倉(?)が出てきて、そこから簡牘が見つかったそうだ。まだ整理中とのことで、総枚数は不明とのことだが、一万枚前後はあるという。簡牘のほかにも磚や木器が出土しているとのこと。
 簡牘は様々な形状のものが出土しており、なかにはけっこう大型な木牘もある。掲載されている図版を見ると、いくつかに編綴痕も見えている(J1③:325-1-12A、J1③:201-30)。多くが木製で、保存状態が良く、文字が見やすいうえ、多くの簡牘に紀年が記されているから時期も判明したそうで、最も早い年号は後漢・章帝の章和四年(西暦90年)、下限は安帝の永初五年(112年)。おおよそこの時期の簡牘群であるらしい。その多くは官文書であり、だいたいどういう感じの内容が多いかまでまとめてくれているのだが、長くて読む気がせんので、興味のある方はご自分で買ってみてね☆

 わたしは簡牘が読めない人間なのだけど、とりあえず字面だけでも眺めてみると、少し興味深いものがあった。
案(?)都郷利里大男張雄、南郷匠里舒俊、逢門里朱循、東門里楽竟、中郷泉陽里熊趙皆坐。雄賊曹掾、俊・循吏、竟驂駕、趙駅曹史駅卒李崇当為屈甫証。二年十二月卅一日、被府都部書、逐召崇不得。雄・俊・循・竟典主者掾史、知崇当為甫要証、被書召崇、皆不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月壬辰朔十二日壬寅、直符戸曹史盛劾、敢言之。謹移獄、謁以律令従事、敢言之。(J1③:281-5A)
 訳は載せません(察してください)。簡報の解釈も参照すると、大意は次の通り。
 永初二年十二月三十一日、長沙太守府は駅卒の李崇を重要証人として呼び出す指令書を下した(何についての証人なのかは知らん[1])。しかし、李崇を連れてくる仕事を担当すべきであった、賊曹掾の張雄、吏の舒俊と朱循、驂駕の楽竟、駅曹史の熊趙は指令が下っていることを知っておきながら、仕事をしなかった。永初三年正月十二日、この件について、直符戸曹史の盛という人が彼らを弾劾し、罰するよう要請した。
 わたしが注目したのは駅に関する肩書が見えている点だ。従来、駅については体系的な史料がなく、どういう人たちが駅で働いていたのかとかそういったこともあまりわからなかったのである。まず駅の役人から考えてみよう。『続漢書』輿服志の劉昭注に、
臣昭案、東晋猶有郵駅共置、承受傍郡県文書。有郵有駅、行伝以相付。県置屋二区。有承駅吏、皆條所受書、毎月言上州郡。『風俗通』曰、「今吏郵書掾・府督郵、職掌此」。
と、東晋時代までは「駅吏」がいたような感じの記述が残されている。「駅吏」というのは「駅に勤務している役人」といった感じで、肩書でもなんでもないと思われるので、あまりロクな史料ではないようだが、まあとりあえず役人が管理しているようだということは確認できそうだ。
 さらに西北辺境の簡牘を見てみると、「駅小史」[2]とか「駅佐」(懸泉漢簡91DXF⑬C:34)が見えている。しかしこれらはあくまで西北辺境の話、特殊な話なのだから一般化が難しい。実際、前漢後期ころと考えられている尹湾漢簡では、亭や郵については記述があるのに、駅については何も書かれていない。そもそも駅なんていう組織[3]自体、辺境地域にしか存在しなかったんじゃないかと勘繰りたくなってくる。
 が、先に掲げた東漢簡には「駅曹史」とあるじゃありませんか。官制にあんま精通していないわたしには、この「駅曹史」が郡吏なのか県吏なのかはわかりませんが、駅で曹が設けられていたというのはじつに興味深い。やはり内郡にも駅は存在した。ちなみに時期は少し下るが、西晋・恵帝年間ころのものと思われる郴州晋簡は、長沙より南の桂陽郡における上計文書らしいと考えられているが、公表されている簡には(湖南省文物考古研究所・郴州市文物処「湖南郴州蘇仙橋遺址発掘簡報」、『湖南考古輯刊』8、岳麓書社、2009年)
都郵南到穀駅廿五里、吏黄明、士三人、主。(1-26)

和郵到両橋駅一百廿里、吏李頻、士四人、主。(2-384)
というものがある。わたしはこれらを以下のように読んでいる。
都郵の南のほう二十五里で穀駅に行き着く。(穀駅は)吏の黄明と三人の士によって管理されている。

和郵から百二十里で両橋駅に行き着く。(両橋駅は)吏の李頻と四人の士によって管理されている。
 さらに郴州晋簡には次のような簡もある。
松泊郵南到徳陽亭廿五里、吏区浦、民二人、主。(2-166)

松泊郵の南のほう二十五里で徳陽亭に行き着く。(徳陽亭は)吏の区浦と二人の民によって管理されている。
 駅には「士」が、亭には「民」が配置されていることになっているのだが、どうやらこれは偶然ではなく、そのように規則化されていたらしいふしがある。というのも、
卅六尉健民・郵亭津民。(1-56)
とあるように、郵や亭には民があったことは書かれているが、ここに駅が含まれていないからである。すなわち、駅の「士」とは「民」の言い換え表現とかそんなんではなく、意図的に「士」と書いている可能性が高い。当該時代の「士」と言えば、いわゆる「兵戸」や兵士を意味する用例が多いことを考えると、駅で働く人間が「士」であるのは当然と言われれば当然かもしれない。「二年律令」などを参照するに、郵人(民)の業務は文書の伝達とか、宿泊する官吏の接待とか、雑務であるのに対し、駅の役割は不明瞭な点が多いとはいえ、馬を使用した伝達業務を主としたことは確かであると思われる。つまり、馬に乗れないと話にならんのだ。そんじょそこらの民を連れてきて訓練するより、もともと乗れるやつ、乗れる資質(期待値)が高そうなやつを引っ張ってきた方が効率良いに決まっている。郴州晋簡で、郵や亭には民が勤務しているのに対し、駅では士である事情は、このように考えることができるのではないだろうか。

 わたしは郴州晋簡の「駅士」の前身にあたる人はいるだろうか、と気になり、漢簡を多少調べたことがある。管見の限り、「駅士」は見つからなかった。が、おそらく「駅士」と同様の働きをしているんじゃないかと思われる「駅騎」という人たちを、懸泉漢簡から多数見つけることができた。一例挙げると、懸泉漢簡Ⅴ1612④:11A(胡平生・張徳芳編『敦煌懸泉漢簡釈粹』上海古籍出版社、2001年)
皇帝橐書一封、賜敦煌太守。元平元年十一月癸丑夜幾少半時、県(懸)泉駅騎伝受万年駅騎広宗、到夜少半時付平望駅騎
 また、居延漢簡には次のような記録も見えている。居延漢簡EPT49‐29(『居延新簡』中華書局、1994年)
〼□分、万年駅卒徐訟行封橐一封、詣大将軍、合檄一封、付武彊駅卒 無印
 なんと、ここには「駅卒」が見えているのだ。そう、すでに遠い昔の話になってしまったが、今回ピックアップした東漢簡にも「駅卒」が見えているのである。なのでちょっとテンション上がったのだ。

 しかし、駅騎と駅卒は何が違うのだろう? 両者は同一だとする理解が一般的なように見受けられるが[4]、わたしにはそう言い切るのには少し抵抗がある。特に根拠という根拠はないんですが・・・。じつは、いちおうわたしが見た限りでは、「駅卒」の事例は上の居延漢簡以外に見つからなかったのです。事例が少ないから、もう少し慎重に考えておきたいという程度のことです。そう思ってた時に、東漢簡に「駅卒」が出てきたもんだから、おお!となりましたわ。まあ何をやってたのかはわからんが[5]

 ということでね、ほんの少しだけですが、東漢簡を見た感想を述べてみた次第です。ちなみに、先の東漢簡の話の後日談を伝える簡も公表されています。
臨湘耐罪大男都郷利里張雄、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷匠里舒俊、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷逢門里朱循、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷東門里楽竟、年卅歳。
臨湘耐罪大男中郷泉陽里熊趙、年廿六歳。
皆坐吏不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月十二月系。(J1③:201-30)
 臨湘は長沙郡の属県。耐は、ひげを剃り落として髪は残す二年以上の強制労働刑を言う(濱口重國「漢代に於ける強制労働刑その他」、同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、東大出版会、1966年、注27〔pp. 654-656〕)[6]。あんまりここら辺は知識もあやふやなんですが、まあ臨湘で強制労働に就いたということでしょう。弾劾された正月十二日の日付があるところをみると、弾劾即判決ということなのだろうか。そうか、かわいそう、でもないけど・・・。


――注――

[1]発掘簡報によると、どうもこの文書は前半部分が欠けているようなので、どういう事情があったのかは詳しくわからんみたいだ。[上に戻る]

[2]懸泉漢簡ⅡT0214③:57(張経久・張俊民「敦煌漢代懸泉置遺址出土的“騎置”簡」、『敦煌学輯刊』2008-2)

元康二年四月戊申昼七時八分、県(懸)泉訳(駅)小史寿肩受平望訳(駅)小史奉世、到昼八時付万年訳(駅)小史識寛。
 居延漢簡413‐3(謝桂華・李均明・朱国炤『居延漢簡釈文合校』文物出版社、1987年)
●凡出粟三十三石 給卒・駅小史十人三月食。
 わたしが見つけられたのはこんなもん。[上に戻る]

[3]燧に駅馬が備わっていることを示す簡牘史料があるため、燧の外部に駅馬を備えた駅という建造物が存在したというより、駅馬管理や駅馬を利用した文書伝達業務を管轄した組織のことを駅と呼んでいたと、わたしは考えている。冨谷至「漢代の地方行政――漢簡に見える亭の分析」(同氏『文書行政の漢帝国』名古屋大学出版会、2010年)も参照。[上に戻る]

[4]前掲張経久・張俊民論文、鷹取祐司「秦漢時代の文書伝送方式――以郵行・以県次行・以亭行」(『立命館文学』619、2010年)[上に戻る]

[5]ついでながら駅騎について補足しておくと、張氏、鷹取氏によれば、駅騎は文書伝達業務、駅馬の飼育を行っていたようである。[上に戻る]

[6]完城旦(四年刑)、鬼薪(三年刑)、隷臣(三年刑)、司寇(二年刑)。以上の強制労働刑は耐=ひげを剃り落とす処分もあったということになる。なので、濱口氏によれば、こられの刑を「丁寧に記述」すれば、「耐為司寇」などとなる、とのことである。刑罰に関しては、その後の研究で修整された箇所もあるかもしれんが、わたしはあまり把握してないので申し訳ないが濱口氏の研究で良しとさせていただく。[上に戻る]

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