2017年8月14日月曜日

論語集解序

◎『古注十三経』(明・永懐堂本)所収の論語集解の訳。
◎邢昺『論語注疏』を多く参照した。参照したらなるべくその旨を注記するが、しないこともあるかもしれない。
◎ほか、ネット上で公開されている皇侃『論語義疏』もそこそこに参照した。

論語序


 叙に述べる劉向の録に言う[1]、「漢の中塁校尉の向、申し上げます。魯論語、20篇。すべて孔子の弟子たちが師のすぐれた言葉を記録したものです。太子太傅の夏侯勝、前将軍の蕭望之、丞相の韋賢と子の玄成らはこれを授受していました」。「斉論語、22篇。(そのうちの)20篇については、(魯論と篇名は共通していますが)篇のなかの章(段落)と句(文言)は魯論よりも少し多くなっています。琅邪の王卿、膠東の庸生、昌邑中尉の王吉はみなこれを伝えていました」。つまり、(論語には)魯論語と斉論語があった。(また劉向の録によると?)漢の魯共王のとき、王が孔子の家屋を王宮にしようと思い、解体したところ、古文の論語を発見した。斉論語には問王篇、知道篇という篇があり、これが魯論語より多い2篇だが、古論語にもこの2篇はなかった。(古論語は)堯曰篇の「子張問」の章を独立させて1篇とし、子張篇が2つあった。そのため、全21篇となる。篇の順番は斉論語、魯論語と違っている。安昌侯の張禹はもともと魯論語を伝授されていたのだが、同時に斉論語の読み方も研究しており、すぐれている説があれば採用していた。(そうしてできあがった彼独自の論語を)「張侯論」と呼び、世で重んじられた。包氏と周氏の章句〔読み方、文意の取り方。皇侃「章句者注解。因為分断之名也」〕はこの張侯論にもとづいている。古論語には、博士の孔安国の注釈〔「訓解」。皇侃「訓亦注也」〕があるのみだが、広まらなかった。漢の順帝のとき、南郡太守の馬融が張侯論〔皇侃に由る〕の注釈〔「訓説」。字義を説き明かすこと〕を著した。漢末に大司農の鄭玄が、魯論での篇と章の区切りにもとづきつつ、斉論、古論と比べながら注を記した。近年ではもと司空の陳羣、太常の王粛、博士の周生烈が注釈〔「義説」。疏に「注をつくって義を説き明かすので義説という」〕を著している〔皇侃によれば三人とも張論〕。かつては、師の説を学んで、またそれを授けていくのであって、賛成しかねる箇所があってもその部分の(自分の)注釈を記すことはなかった。その後になって(包氏、周氏のように)注釈が書かれるようになり、現在ではその数も多くなってきた。目にする説で同じものはないし、各人の説にはそれぞれ長短がある。いま、学者たち〔具体的には孔安国、包氏、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王粛、周生烈〕のすぐれた説を収集し、(そのまま引用するときには)その姓名を記し、微妙なところがある説は多く手を加えて注とした[2]。これを「論語集解」と名づける[3]
 光録大夫、関内侯の臣、孫邕、光録大夫の臣、鄭沖、散騎常侍、中領軍、安郷亭侯の臣、曹羲、侍中の臣、荀顗、尚書、附馬都尉、関内侯の臣、何晏、献上いたします。



―――注―――

[1]原文「叙曰」。邢昺の疏(以下、たんに「疏」)によると、「序と叙は音も意味も同じ。曰は発語の辞」。邢昺はそう言っているが、ここの「叙」は劉向の録を指すのだろう。つまり劉向の引用は冒頭からはじまる。劉向の録は「目」(篇目)と「叙」(序)からなり、そのゆえにこの録を「叙録」等々と呼ぶこともあったらしい(余嘉錫『目録学発微』古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹訳、平凡社・東洋文庫、2013年、pp. 41-43参照)。録の冒頭が「――劉向言」ではじまることは、余氏前掲書や厳可均『全漢文』巻37収録の佚文を参照。どこまでが劉向からの引用なのかは最初に更新したときから悩んでおり、まえは「中尉王吉以教授」までとしていたのだが、今回は篇目の次第を云々しているところ全部とした。変だけど劉向の録は魯論と斉論で別個につくられていたであろうと思ったので本文のような感じでわけた(2018/01/02修正)。[上に戻る]

[2]ここは集解の体例を述べた大事なところ。疏が具体的でわかりやすいので以下に引用。「学者たちのすぐれた説を収集して記録し、剽窃でないことを示す。そのため、それぞれで『その姓名を記す』のである。集解の注に『包曰』『馬曰』とあるのがこれである。本文の注では姓のみを書いているのに、序では『名』と言っているが、これは姓を記すことによってその人を名づける(示す)という意味であって、名前のほうの意味ではない。『微妙なところがある』というのは、学者たちの説に疑問があることである。『多く手を加えた』というのは、すぐれた説はそのまま記録して改変することをせず、疑問のある説は多く改変したということである。注の最初に『包曰』『馬曰』となかったり、学者の注の引用のあとにつづけて『一曰』とあるのは、どれも何氏のものであり、そこから下は先学の説を改変したものであることを示している」。

 ところで、邢昺のこの記述は歴史的にも興味深いものである。というのも、邢昺は「序だと姓名を記すと言っているのに実際には姓しか書いていないのはなぜか」という問いを提出して、序の字義を解説しているが、私の見ている永懐堂本も邢昺が例に引いているとおり、姓しか書いていない。
 ところが邢昺に先立って論語集解の疏を著した梁の皇侃の『論語義疏』では、集解の注に「馬融曰」「王粛曰」とバッチリ名も書いて引用してある。皇侃の義疏は中国では佚してしまい、日本に伝存していたものが逆輸入されたそうなのだが(詳しいことは知らない・・・)、学而篇第1章の包氏注への皇侃の疏に「何氏の集解ではすべて人名で呼んでいるのに、包氏だけ『包氏』としている。包氏の名は咸である。何氏の(父の)諱なので避けているのだ」とあるとおり、元来の論語集解の体裁は、ちゃんと姓名を書いて引用していたのであろう(ちなみに包氏の名が咸であるという根拠はよくわからない。周氏のほうは、皇侃も「まったくわからない」らしいのに)。
 いつ、どうして、論語集解で引用されている注が「姓のみ」になってしまったのかはちゃんと研究を読んでいないのでわからないけれど、少なくとも邢昺の時点では、集解の注は名を省略して姓のみにするタイプの本が広くおこなわれていて、邢昺もそれを参照したのであろう。上の引用文はそういう事情をうかがわせるのだ。いい加減な解説でゴメンナサイ[上に戻る]

[3]疏「杜預の春秋左氏伝も『集解』と言っているが、あちらは『春秋の経と伝(注釈=左氏伝)とを集めまとめ、その解釈を著した』という意味である。こちらのほうは『学者たちの解釈を収集して論語を解き明かした』という意味である。ともに『集解』と言っていても、このように意味はちがう」。[上に戻る]