2013年6月20日木曜日

晋南朝の「増位」(4)

〈前回まで〉
①晋南朝期を通じ、皇帝が「文武」の官僚に対し、一律に「位」を加増する事例が見えている。
②「増位」は「おめでたいこと」があった場合に行われていた。
③「位」は官位(官品)、爵、郷品、班位(朝位)のいずれかを指している可能性があるが、わからない。

 「位」とは何か。もはや私の手にあまる問題である。そこで先行研究を探してみた。探し得た限り、閻歩克「魏晋的朝班・官品和位階」が「増位」について考察している研究である。閻歩克先生と言えば、知る人ぞ知る官制研究の大家である。

 さて「増位」について何と言っているのか。かなり簡潔に関係する部分をまとめてみると、こんな具合である。すなわち、「増位」における「位」は官僚個人に加えられるものであることは間違いない。まず考えられるのは「増位」=「増秩」である。諸葛恢伝に「進其位班」が「増秩中二千石」と言い換えられている。しかし魏晋南朝期の「増位」と「増秩」は明確に区別されており、同一のこととは見なせない、諸葛恢伝の「位班」は具体的な何かを指しているのではなく、「官位」の汎称なのだろう。
 次に「増位」=「増朝位」とも解釈できるが、全員一律に席次を昇格させると、かえって意味が失われており、考え難い
 したがって、「合理的に考えるに、加増された「位」とは官僚個人の官簿に記載され、一種の選挙資格を形づくるものに過ぎないのだろう」(p.57)。ここからはちょっとよくわからない点も多いのだが、閻先生が引用している中村圭爾先生の論文も参照しながら補足すると、次のような序列体系を想定しているようだ。魏晋以降は「階級」という制度があり、官僚の任官や昇進コースを決める序列である、「一階」増えるとワンランク上の官に就けるようになる。個人の「階級」は「牒」と呼ばれる文書の記載されている。「増位」とは「牒」に記入されている「階級」を加増することである。

 途中で論文読むのがしんどくなったのもあるが、閻先生の「階級」に関する議論は説明不足な印象がある。具体的に細かい話は措いといて、閻先生は「増秩」や「増朝位」の可能性を明確に否定し、「郷品」のようなものを加増したのだと理解しておられるようだ(私は閻先生の著作を読んだことがないので、ウワサ程度に聞いたくらいだが、たしか閻先生は「郷品」という概念(用語)を採用してなかった気がする、『品位与職位』とか読めばそんな議論になってるかもしんないけどわかんない)。

 さてまあ・・・どうなのでしょう?率直に言ってわかりません。たしかに「増位一階」のような文言はあった気がするので、可能性がないとは言い切れませんが。


 という具合でね、このネタは完全に暗礁に乗り上げたわけです。実はこのネタ、私が昨年の3月ころに構想した修士論文の原案だったのです。この「増位」、そして朝位や秩石の意味を魏晋南朝~隋唐期にかけて俯瞰してみよう、なんて考え付いて、史料集めや関連研究を漁っていたのですが、どうもこいつはダメだと気付き、4月ころには放棄してしまいました。この度の一連の連載はそのときに集めたデータや、発表用に作った仮レジュメを基にしたものです。今回見直してたらまた何か思いつくだろうか、とひそかに期待してましたが、さっぱりなんですわ。
 というわけでこのネタは終わり。

【参考】
 閻歩克「魏晋的朝班・官品和位階」(『中国史研究』2000年第4期)
 中村圭爾「初期九品官制における人事」(川勝義雄ほか編『中国貴族制社会の研究』京都大学人文科学研究所、1987年、同氏『六朝政治社会史研究』汲古書院、2013年に再録)


これまでの連載記事一覧
官の「位」について
晋南朝の「増位」(1)
晋南朝の「増位」(2)
晋南朝の「増位」(3)

2013年6月9日日曜日

晋南朝の「増位」(3)

〈前回までのおさらい〉
①晋南朝期を通じ、皇帝が「文武」の官僚に対し、一律に「位」を加増する事例が見えている。
②「増位」は「おめでたいこと」があった場合に行われていた。

 今回は「位」について考えてみよう。具体的には「位」という字の当該時期における用例を調べてみることで、「増位」の「位」の指示対象を検討してみようということだ。
 私が見るところ、以下の4つの用例が重要だと思われる。

①官品(官位)
『晋書』巻6明帝紀
進(陶)侃征南大将軍・開府儀同三司。
よく見かける用例。何も意識しなければ「官位」と翻訳するような事例ではないだろうか。具体的には官品だとか官相互における序列のようなものであろう。
(※例えば、晋官品によると尚書令と尚書僕射はともに三品であるが、序列は尚書令のほうが上である。このような意味における「序列」は④の用例とも強く関わる)
 より明確に官品を指す用例としては、『南斉書』巻56倖臣伝・序に、
晋令、舎人居九品。
とある。

②爵
『晋書』巻6元帝紀
年十五、嗣琅邪王。
『晋書』巻35裴秀伝
有二子、濬・頠。濬嗣、至散騎常侍、早卒。濬庶子憬、不恵、別封高陽亭侯、以濬少弟頠嗣。
漢文で「爵位」とあったら「爵と位」と読んでしまいがちだが、「位」はこのように、爵を意味する場合もあった。

③品(いわゆる郷品)
『宋書』巻43徐羨之伝
初、高祖議欲北伐、朝士多諌、唯羨之黙然。或問何独不言、羨之曰、「至二品、官為二千石、志願久充」。

 「「位」は二品、官は二千石にまでなったし、もう満足じゃけえ」という徐羨之の発言。この時の彼の官は太尉(劉裕)左司馬(七品)、兼任で鷹揚将軍(五品)、琅邪内史(五品)を領していたと思われえる。「二千石」は琅邪内史を指すのだろう。
 では二品とは?官品二品の官に就任していないのだから、ここの品はいわゆる「郷品」のことを指すと見られる。とはいっても、中華書局校勘記を参照すると、「二品」は「五品」の誤りである可能性もあるため、「郷品」であるとは確言できない。

④班位(朝位とも言う)
『宋書』巻39百官志・上
漢東京大将軍自為官、位在三司上。魏明帝青龍三年、晋宣帝自大将軍為太尉、然則大将軍在三司下矣。其後又在三司上。晋景帝為大将軍、而景帝叔父孚為太尉、奏改大将軍在下、後還復旧。
訳しておくとこんな感じ。「後漢のときに大将軍が常設官となって以来、その「位」は三公の上に置かれていた。曹魏の明帝の青龍三年、晋の宣帝が大将軍から太尉に移った。さすれば、(この時期は)大将軍が三公より下に置かれていたのだろう。その後、再び三公の上とされた。晋の景帝が大将軍になったとき、景帝の叔父の孚が太尉であったので、(景帝は)大将軍を三公の下に置くよう上奏し(、許可され)た。その後、もとに戻された」。
 この場合における「位」は官を所有する個人ではなく、官自体の「位」である。このような「位在○○上/下」という記載は慣例的な表現であり、結論的に言うと、このような場合の「位」は班位を指すと考えられる。もう一例引用(『晋書』巻24百官志)。
特進、漢官也。二漢及魏晋以加官従本官車服、無吏卒。太僕羊琇遜位、拝特進、加散騎常侍、無余官、故給吏卒車服。其余加特進者、唯食其禄賜、位其班位而已、不別給特進吏卒車服、後定令。特進品秩第二、位次諸公、在開府驃騎下
「特進は漢代の官である。両漢、曹魏、晋においては加官であったので、(特進に任じられた者は、)本官の馬車・服装の規定に従い、(特進の)属吏・兵卒はいなかった。(西晋時代、)太僕の羊琇が「位」を辞そうとしたとき(=引退しようとしたとき)、特進に任じられ、散騎常侍を加えられたが、他に官を有さなかったので(、本官に相当する官が無かった。そこで特別に)、属吏・兵卒・馬車・服を給った。(これは特殊な事例であったので、)他に特進を加えられた者は、単に俸禄を食み、班位を定められただけで、属吏などが支給されることはなかった。後に(このことは)令に定められた。特進の官品は二、位は公の下、開府驃騎将軍の上である」。

 最後に「品秩」と「位」が弁別されているように、「位」は官品とは別の序列規定である。そしてこの「位」こそ「班位」ではないか、というのが私の想定である。班位とは宮中の席次のことである。

 仮に「位」=「班位」として、「官品」とは別だとすれば、何を基準として序列を成していたのだろうか。漢代では綬制(紫綬、青綬など)と朝位が対応しているそうだ(阿部幸信「漢代における朝位と綬制について」、『東洋学報』82-3、2000)。魏晋でもそうかもしれない。
 晋南朝の印綬冠服規定については、小林聡先生が研究を進めているが、それによると印綬冠服の序列は官品、爵と対応する場合もあるが、秩石と対応する場合も見出されるという。つまりまあ、秩石を参考にして「班位」を規定した可能性を考慮しても良いかもしれないのだ。
 現にこの時代の官の序列は官品には一元化できないものがある。尚書令は官品は三品と、非常に高いのだが、秩石と印綬は漢代のまま変わらず、千石、銅印墨綬であった。同じく三品の「九卿」は中二千石、銀章青綬である。そんな具合で考えると、しばしば史上に見える「増秩」についても視野に収める必要がありそうだ。
 
 かなりくどくどしくなってしまったが、班位(朝位)とは朝会のような礼的な場における官の序列のことである。班位は従来、あまり言及されることもないし、あまりピンとくる序列規定ではないと思われるので、くどい話になってしまった。


 では「増位」の「位」とはどれだろうか?
 私は当初、④だと思っていた。といっても積極的な理由はなく、消去法である。文武官の官品をホイホイと、しかも一律に加増するっておかしいじゃん?なんか無理っぽいじゃない。郷品もそんな簡単に上げれんやろー、と。爵はどうだろう、違う気がするが。というような具合で班位だろう、と考えた。仮にそうでなくとも、この時期の班位や秩石に関する本格的研究は無いのだし、なんとかひねればネタになるだろう、という期待感もあって、④を想定した。
 が、いま考えてみると、これもどうだろう。みんなの席次が一律に上がるって何も増えてないのと同じだし、意味あるのだろうか。

 難しい。

最終回(晋南朝の「増位」(4))

2013年6月8日土曜日

デカルトと漱石

デカルト『方法序説』第二部
私は気がついたのである、私どもを説得するのは確実な認識であるよりは、まさにそれ以上に慣習と実例であると。しかしそれにもかかわらず、多数の声というものが、少しく発見しがたい真理に対しては、証明として何ら妥当するものでないと。なぜならかかる真理は全民衆によってよりは、ただひとりの人間によって発見されるというのがはるかに真実に近いらしいから。他のさまざまな意見に比べてみて、これぞと思えるような意見を有する人を私は一人として択ぶことができなかった。そこで私はやむをえず自分を自分自身で導こうと企てなければならなかった。
夏目漱石「私の個人主義」(講演録)
私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込めれた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。・・・私は出来るだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出るわけには参りません。この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付りそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。詰らないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。・・・私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。

 漱石先生よぉ、「自己本位」とか言っときながら?デカルト?ぱくってないっすかあ?お前ら同じやんけ。読んだんやろ?『方法序説』?どーも、オメェはキナクセーと思ってたんだッ

 いやそんな漱石をまじめに研究するつもりもないのでそんなことはどうでもいい。やけにフッサールとかウィトゲンシュタインにかぶって見えたってどうでもよい。
 漱石は漱石で良い。平易な日本語であるのが良い。

 「引用」というのが一つの概念のように使われることがある(デリダが言い出したってじっちゃんが言ってた)。個人の信じている真理や生きかたというのも、実はその人の独創というより、誰かのものを「引用」したもの、平たく言えば真似たものだ、みたいなことである(おそらく)。
 ロラン・バルトも「作者の死」のなかで、文学の「書き手」とは「様々な言語を寄せ集めた辞書のようなものだ」と言っていたはずだが、だいたいこの考えとも共通する。

 漱石もデカルトのような人を引用したのかもしれない。そのデカルトも誰かを引用した。デリダだってバルトだって、引用しているのだろう。しかし引用の仕方、あるいは読み方は必ずしも同じでない。多くの引用をどのように組み合わせるかもそうだろう。
 だいたいそんなことを思いながら『方法序説』を読んだんですわ。

2013年6月6日木曜日

くずし字

 学部生のとき、日本史専攻の友人と話していたところ、何でも日本史研は年末だか年度末だかにある施設を貸し切って終日そこに閉じ籠り、くずし字文書解読合宿をやるのだとかいうことを言った。うわーさすが日本史研、キチってるなー、とか思ったものだが、気になったついでに「くずし字ってどうやって読んでるの?」と聞いてみた。
1時間くらいじーっと眺めて、「あ、この字かもしんねえ」って感じるところがあったら、くずし字辞典を開いて確認して、どうも違う感じだったらまた1時間くらい眺めて考える。
だいたいこんな風なことを言っていた。なんと非効率的で非科学的な・・・。かつてウィトゲンシュタインはこんなことを言っていた(『論理哲学論考』6-52)。
たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。
この言述にもう1つ付け加えることができる、「くずし字も科学では解決できません」 。
 思えば、簡牘史料を使い始めた当初、先輩から「ひえん君、ちゃんと木簡の写真図版も見て、文字を確認しないとダメだよ」と言われ、純粋無垢な私は「はいっ!」と意気込んで木簡の図版をチェックしたものである。そしてその度に、「どうして二匹のミミズが「爲」という字になるんだよ、おかしい!社会は理不尽だ、不公平だ、滅んでしまえ!」と思ったものである。
 まあとにかくアレだね、簡牘の釈字をやってる人は本当にすごい。本当にこの仕事をやっている人には頭が上がらぬ。

 どうしてこんな話になったかというと、いまくずし字を読む仕事をしていて、それでそん時に上の日本史研の友人の言葉が思い出されたという、そんな話。

2013年6月2日日曜日

晋南朝の「増位」(2)

 「増位」が行われる場面を検討してみよう。

①皇帝即位
『晋書』巻7成帝紀
太子即皇帝位、大赦、増文武位二等、賜鰥寡孤老帛、人二匹。
②立皇太子
『晋書』巻9孝武帝紀
立皇子徳宗為皇太子、大赦、増文武位二等、大酺五日、賜百官布帛各有差。
③立皇后
『晋書』成帝紀
立皇后杜氏、大赦、増文武位一等。
④皇帝元服
『晋書』巻8穆帝紀
帝加元服、告于太廟、始親万機。大赦、改元、増文武位一等。
⑤ 改元
『宋書』巻7前廃帝紀
改元為景和元年。文武賜位二等。
⑥大赦
『宋書』巻9後廃帝紀
是日解厳、大赦天下、文武賜位一等。
⑦南郊
『宋書』巻5文帝紀
車駕親祠南郊、大赦天下。文武賜位一等、孤老六疾不能自存者、人賜穀五斛。

 と、代表的なものを挙げてみた。ほかにも反乱が討伐された後とか嘉禾が出たときとかにも行われている。
 またもちろん、全ての事例が截然と分類できるわけでもない。大赦、改元、即位、みたいな事例もあるし、⑦なんかは大赦に伴って「増位」が行われたのかもしれない。
 いずれにせよ、「おめでたいこと」があったときに行われる慣例であったようだ。

続きはこちら(晋南朝の「増位」(3))