2018年9月14日金曜日

晋時代の「自随」と「送故」

 以下の話はひどい勘違いにもとづく妄想である可能性が否めないのだが、気が向いたのでメモも兼ねてまとめておく。

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『晋書』巻66陶侃伝附陶称伝

称東中郎将、南平太守、南蛮校尉、仮節。・・・咸康五年、庾亮以称為監江夏・随・義陽三郡軍事、南中郎将、江夏相、以本所領二千人自随

陶称は東中郎将、南平太守、南蛮校尉、仮節であった。・・・咸康5年、庾亮は陶称を監江夏・随・義陽三郡軍事、南中郎将、江夏相とし、陶称がもともと統率していた二千人を「自随」とさせた。

『晋書』巻81桓宣伝附桓伊伝

桓沖卒、遷都督江州・荊州十郡・豫州四郡軍事、江州刺史、将軍如故、仮節。・・・在任累年、徴拝護軍将軍、以右軍府千人自随、配護軍府。

桓沖が没すると、桓伊は都督江州・荊州十郡・豫州四郡軍事、江州刺史に転任し、右軍将軍はもとのとおりそのまま帯び、仮節を与えられた。・・・数年在任すると、都に召喚されて護軍将軍に任命された。右軍府の千人を「自随」とし、護軍府に編入した。

 上のように訳してよいのか心もとないが、ともかく引用したふたつの文には「自随」という語が見えている。
 これはおそらく、字義どおりに読めば「自発的に付き従う」こと、つまり「ボスが異動になったからオレたちも異動するんだ」ということだろう。「以兵自随」とある場合、「兵を率いてみずから従軍する(のを願い出た)」と読むのがふつうだと思うが、上記のふたつ、とくに後者はそのように読めない。そこで先に述べたとおりに解してみる次第。

 この語はタームのように用いられていたようにも見えるのだが、確証はないのでその点は措く。
 かりに、前述したとおりの意で読めるのだとしたら、これは前任者の徳を表現しているのであろう。もちろん実際には「オレたちファミリーだろ?」(威圧)、とまではいかなくとも、自発的というほどでも強制的というわけでもなく、といったところでないか。

 こういうふうに「自随」を想像していくと、晋代のある慣習が想起される。「送故迎新」というやつである。この慣習にかんする史料としてよく知られている、范寧の議論を見てみよう(『晋書』巻75范汪伝附寧伝)[1]

地方の鎮が離任するさいは、みな精兵や武器を割譲して送故にしています。(送故される)米や布のたぐいは数えきれません。監察官は容認しており、いままで糾弾したことがありません。なかには(送故を受け取らずに)潔白な者もいますが、そのゆえに(受け取らなかったために)顕彰されたこともありません。兵を送る場合は、多いときは千余家にものぼり、少ないときでも数十戸におよびます。兵力は(?)個人の一門に編入され、さらに官の食糧や布を(個人の)資産にしてしまっているのです。兵役が終わっているのに、法を曲げて良民を服役させ、際限なく引き連れていって(兵員を?)補充しています。もしこの者が功績を挙げた臣であるのならば、すでに封国を授けられているにもかかわらず、どうして封国の外にさらに吏や兵を置いているのでしょうか。考えますに、送故の規則に抑制をかけ、三年を限度にするのがよいでしょう。(方鎮去官、皆割精兵器仗以為送故、米布之属不可称計。監司相容、初無弾糾。其中或有清白、亦復不見甄異。送兵多者至有千余家、少者数十戸。既力入私門、復資官廩布。兵役既竭、枉服良人、牽引無端、以相充補。若是功勲之臣、則已享裂土之祚、豈応封外復置吏兵乎。謂、送故之格宜為節制、以三年為断。)

 文中の「送故之格」という表現は「送故」が法制化されていたことをにおわせてはいるが、「送故」が取り締まられていない状況を范寧が好ましく思っていないことからして、慣習的なものと見なしておくのが穏当だと思う。
 説明されているように、「送故」では兵が送られる、というより兵をそのまま連れて行ってしまう場合もあったようである。

 ここで挙げたいのが劉毅である。東晋末、豫州刺史、江州都督であった彼は、義煕8年、劉道規に代わって荊州刺史に転任した(『宋書』巻2武帝紀中)。なんと劉毅は、江陵への出鎮にあたり、豫州と江州の兵や吏を連れて行ったのだという。『文館詞林』巻662宋・傅亮「東晋安帝征劉毅詔一首」に次のようにある。

すでに(荊州刺史に赴任し)江州都督の職務を解かれ、江州は管轄下でないというのに、(江州の)軍を(荊州の府に)移し、租税の運搬を強奪し、旧来の兵を追い出し、自分の徒党を厚遇している。(江州と豫州の)ふたつの西方の府の、一万に満ちるほどの文武の吏は、みなもとの任地から移して(荊州府に入れ、)留めたままでいるのに、まったく申し出がない。(既解督任、江州非復所統、撥徙兵衆、略取租運、駆斥旧戍、厚樹親党。西府二局、文武盈万、悉皆割留、曾無片言)[2]

 さらに『宋書』武帝紀中では次のように記されている。

及西鎮江陵、豫州旧府、多割以自随

劉毅が西に行き、江陵に駐屯すると、前職の豫州の府から多くの人員を割譲して「自随」とした。

 兵らの割譲は「自随」であったようだ。

 史料中に明言がないため、劉毅のこの行動が「送故」であったとは断言できない。

 が、関係あるってことにしておこう。そうしないと話が進まないからね。

 つまり、「送故」の名目で「送兵」といっても、それは一方で「自随」でもあったと考えられるのである。そうだとすれば、「送故」は慣習といっても、それは前任者の徳を表現するために、「自発的に」なされたものという名分を有していることになろう。西晋末から東晋初ころの状況を述べたと思われる虞預の議論に次のようにある(『晋書』巻82虞預伝)

このごろの長吏(地方の行政長官)の多くは出入りが激しく、送故と迎新が道路で交錯するありさまです(?)。迎えを受ける者は船や馬が少ないことだけを心配し、送り出される者は吏や卒がいつも少ないことだけを不満に思っています。贅沢をきわめて費用をかけることを忠義と言い、煩瑣なことを省いて簡潔に従うのを薄俗と呼び、ますますたがいにまねしあい、(そうした風習に)移り変わって(もとに)戻ろうとしません(?)。恒久の対策があるとはいえ、遵守されることはありません。(自頃長吏軽多去来、送故迎新、交錯道路。受迎者惟恐船馬之不多、見送者惟恨吏卒之常少。窮奢竭費謂之忠義、省煩従簡呼為薄俗、転相放效、流而不反、雖有常防、莫肯遵修。)

 「吏卒之常少」は、「送故」として送られる吏や卒を指すのだろうと読んでみた。いまいち自信がないが。
 「見送者」がそれの少ないのを「恨」むのは、みずからに徳がそなわっていないのを外に示してしまうようなものだからであろう。

***
 さて、ここで話はまた冒頭に戻るというか一転するのだが、桓伊について気になることがある。
 護軍将軍への転任にあたって、前職の右軍府の兵士らが「自随」したというのだが、その右軍府の兵士らはいったいどこにいたのだろうか。
 いうまでもなく、右軍将軍は内号将軍、宿衛の将軍であって、その営兵はもちろん宿衛の士である。
 江州刺史でもあった桓伊はマジで州に赴任しているっぽいのだが、右軍の兵士も江州に駐留していたのだろうか。それとも右軍府だけはそのまま都に留め置かれていたのだろうか。そもそも内号将軍が同時に方伯に出るというのはなんなのだろうか。

 気が向いたらちゃんと調べてみようと思うが、とりあえず中央研究院の漢籍電子文献を使って「右軍」で検索をかけてみた。すると、王羲之は会稽内史、右軍将軍であったそうだ。ふつうにあることだったのかな。
 だがもちろん、右軍は宿衛の軍である。『晋書』巻63郭黙伝。

(郭黙は)召されて右軍将軍に任命された。郭黙は辺境の将軍になるのを望んでおり、宿衛は希望していなかった。(右軍への)召喚に応ずるにあたって、平南将軍の劉胤に言った、「私は胡の防衛に適しているのに(その任に)用いられない。右軍将軍は禁兵を統率する職であるが、辺境で事件が起こったときは出征にかりだされ、そのときになってはじめて(兵士が)与えられるのであって、将軍と兵士のあいだに基盤がないのだから、(たがいへの)信頼がなく、このさまで敵にあたろうものなら、敗北を逃れるのは難しいだろう。・・・」(徴為右軍将軍。黙楽為辺将、不願宿衛。及赴召、謂平南将軍劉胤曰、「我能御胡而不見用。右軍主禁兵、若疆埸有虞、被使出征、方始配給、将卒無素、恩信不著、以此臨敵、少有不敗矣。・・・」)

 郭黙の言葉を上のように読めるのかひじょうに自信がないが、右軍将軍が都において宿衛を務める職であったのは確かであろうし、右軍の営兵も基本的には中央にいたのだろう。両者の関係については郭黙の言葉をヨリ厳密に読んでみなければならないが。

 という、そういう覚書でした。なんか感覚やら言語力やら思考力やら集中力やら、さまざまなものの衰えをすごく感じる。



――注――

[1]陳先生か周先生か唐先生か、どなたかに関連する研究があったはずなのだが思い出せないし、いますぐがんばって探そうという気にならないので先行研究は引用できなくてすいません。。[上に戻る]

[2]なお『晋書』巻85劉毅伝に「毅至江陵、乃輒取江州兵及豫州西府文武万余、留而不遣」とあり、表現が類似していることから、この列伝の文は詔をふまえて練られた可能性がある。したがって、『晋書』で江州のほうだけ「兵」がついている点や、「豫州西府」と記されている点について、詔を雑に圧縮したために生じた表現と見なし、重視しない。『文館詞林』所収の詔を引用するゆえんである。[上に戻る]


2018年6月17日日曜日

王敦と劉隗の応酬

 晋書・劉隗伝に記されているエピソード。
 王敦が劉隗に「君や周生(顗)と協力してがんばりたい」(大意)って書簡を送ったら、劉隗から

魚相忘於江湖、人相忘於道術。竭股肱之力、効之以忠貞、吾之志也。

って返答がきて王敦がキレたというのだが、どうして王敦がキレたのかわからなくてこっちがキレそうになっていた。
 で、多少はまとまりがついたので、せっかくだし久々にブログにしてみた。

 胡三省によると、「魚相忘於江湖、人相忘於道術」は荘子・大宗師篇にもとづいた表現であるらしい。「湖が枯れて陸に上がった魚はたがいに水分をかけあったりするが、それよりも湖でたがいの存在を忘れて気遣わずにいるのがよい。人は天子を褒めたり批判したりするが、それよりも善悪を忘れて道と一体化しているのがよい」というのが該当箇所の文意だが、郭象は「魚は不足があるとたがいを思いやるが、余裕があれば気遣わない。褒めたり批判したりするのも不足に起因しているので、充足したら善悪など忘れる」と注している。
 めんどくさいので原文は引用しないが、たしかに胡三省の言うとおり、ここを意識した言葉であろう。さらに郭注で示される解釈はポイントっぽい気がするので、これを踏まえるのがよさそう。
 また、江湖の魚も道の人も、どちらも自分(あるいは東晋)を指すと思われる(とくに前者はぴったりの比喩だ)。

 うしろの「竭股肱之力、効之以忠貞」にかんしては、胡三省は晋の荀息という大夫の言葉だと言っている。左伝・僖公九年にたしかに見え、さらに荀息は「忠とは云々、貞とは云々」ということも語っているので、これにもとづけば「之を効すに忠と貞を以てす」と読むのがよいのだろう。
 ただ、同様の言葉は諸葛亮が劉備臨終時にも言っており、そっちを意識したのかもね(ちなみに文言上では左伝ではなく蜀書と一致している)。
 問題は、どっちにしてもそれらの歴史的な文脈を有した典故表現なのかがわからないこと。
 現段階ではわかんないので、典故とはみなさなかった。胡三省が典故と言っているから言及した。

 で、以上をまとめてみた試案は以下のとおり。

江湖の魚は他の魚を気にしていませんし(足りているのであなたのお気遣いやご協力は不要です)、
道のうちにある人は善悪を気にしません(不満はないので誰それが嫌いとかくだらない話ですね)。
全力で忠と貞を尽くすことが私の志です(あなたが嫌いだから行動しているのではなく、ただ忠誠を尽くしているだけです、そしてあなたは険悪な二人とも協力して力を尽くしたいと言っているのですが、私ははじめから力を尽くすことしか考えておらず、険悪とか和解とかどうでもいいです)。

 こういう意味なら王敦はキレるよね、というのを意識して考えてみた。
 つまり、王敦は劉隗に「和解しようよ」って言ったんじゃないかって読み方になる。
 頭の中で整理してこんな感じで多少は納得したけど、あまりにうがった読み方な気もするし、けどこいつら知識人だしなあ・・・。別案あったら教えてください。