2013年9月29日日曜日

『建康実録』概要

 『建康実録』という史書をご存知だろうか。コアな方なら知っておられようが、あまり一般での知名度は高くないはずだ。
 『建康実録』は「六朝」の事跡を叙述した史書のことである。具体的には、孫呉(巻1~4)、東晋(5~10)、劉宋(11~14)、南斉(15・16)、(17・18)、(19・20)。基本的には編年体だが、劉宋以降は列伝が附され、南斉・梁は完全に紀伝体となっている。孫呉や東晋の巻では、原注のような形で佚書が引用されることもしばしばある(特に建康に関する情報が豊富なことで有名)[1]。撰者は「序」で、
①「南朝六代」「東夏之事」を記載範囲とする
②「六朝君臣」の事跡については、必ずしも完備を追求しない
③「土地山川」「城池宮苑」については、その場所を明示する
④異聞は煩瑣にならない程度に注記しておく
などと述べている。
 撰者は唐の許嵩。その事跡は不明だが、『建康実録』巻10恭帝紀の末尾にある「案、東晋元帝即位太興元年、至唐至徳元年、合四百四十年」という記載から、玄宗・粛宗期の人だと考えられている。この許嵩、どうも建康に居住して、六朝時代の史跡を実見している可能性が高いようである。先も少し触れたように、建康関連の情報が豊富であることや、山川や宮城の場所を明記するという編纂方針からしても、そのことが推測されようし、『宋史』芸文志によると、許嵩は『六朝宮苑記』という書物も作っているようなので、地理関連に関してはなかなか豊かな知識を持っているようだ。
 しかし、そういう特徴=長所があるとはいえ、『建康実録』の評価は低い。後世での評価の主なものを箇条書きにしてみると、
・編年体なのか紀伝体なのか。体裁の不統一はちょっとなぁ・・・(群斉読書志、四庫総目)
・佚書を豊富に引いているのはよろしい(四庫総目)
・列伝の取捨選択のバランス悪い、李延寿にはるかに及ばない(王鳴盛)
・南斉・梁・陳の記述にやる気を感じられない
 一番最後は誰が言っていたか忘れてしまったが、まさしくその通り。はじめの孫呉、東晋まではかなり力の入った記述なんですよ、原注もたくさんつけているし。ところが、劉宋くらいから雲行きが怪しい。なんかテキトーに書いてんじゃねえのコイツ?みたいな雰囲気が漂い始め、南斉・梁・陳に関しては、(正確に検討はしていないけど)「正史」の本紀・列伝をコピペしただけ。なんともお粗末。全体を細かく検討したというわけではないので、根拠があまりない推測になってしまうが、『建康実録』は未完の書なんじゃないか、と思うことがある。本来は編年体で統一するつもりだったが、途中でやる気がなくなったかなんかで、結局紀伝体(=編集途中)のまま放置してしまった、みたいな。あるいは南斉・梁・陳に関しては、手本となる良質な編年体史書が無かったとか? いやそうだったら、自分で編集して編年体にまとめればいいじゃん、って結局そうなるのだけど[2]

 つぎに本について少しまとめておこう。じつは『建康実録』、上述したように一つの史書としては非常に中途半端であったためか、北宋の中ごろに伝えられていた本はすでにボロボロで、欠損や錯簡がひどく、読むのも困難であったらしい。そこで北宋の嘉祐3年(西暦1058年)に校訂が行なわれ、翌年に完了し[3]、一応の版本ができた。この北宋嘉祐本は現存こそしていないものの、このあとに成立した本の系統の祖本であるらしい。もちろん、この北宋本で欠損や錯簡が完全に復元されたわけではない。最新の本でも残欠が残っていたり、読みづらい箇所が多々あったりするのも、北宋本以来、もうどうしようもないところなのだろう。
 現存で最も古い本は「紹興十八年(1148年)」の記載がある南宋紹興本(刊刻本)である。北宋本を継承したと思われるが、かなり誤りが多いらしい。その他にも色々本はあるのだけど、とりあえず現在最も利便な本は、張忱石氏が校訂した『建康実録』上・下(中華書局、1986年)である。これは清の光緒28年(1902年)に刊行された清光緒甘氏本を底本とし、その他現存する刊刻本・鈔本(写本)をほぼ全て参照して校勘、さらに正史や『資治通鑑』などの関連史書も利用して校訂したという。[4]
 要するに本にまで触れておいて何が言いたかったのかというと、『建康実録』は祖本となる北宋本以来、残欠や錯簡があり、不完全な書物である、ということが言いたかった。


――注――

[1]佚文の蒐集家として著名な厳可均、湯球も『建康実録』の佚文だけは蒐集していない。なので、「全文」や「八家旧晋書」の輯本だけで満足しないように。ちなみに最近出版された『三十国春秋輯本』(湯球輯、呉振清校注、天津古籍出版社、2009年)は、湯球が集め損ねた『建康実録』原注引用の『三十国春秋』を集め直してある。[上に戻る]

[2]安田二郎氏も、「体例の不純一つ取っても、もしも許嵩が再度見直して余裕をもって対処したら、調整、補訂が十分できるミスや欠陥だったのではないでしょうか。・・・何らかの切迫した事情があり、慌ただしく書かざるを得なかった書物ではないかと考えられてくるのです。」「序文で『歴史的事実は正史に質し』などと大書しているのに、実際には基礎的、基本的知識のないまま、しかも正史をきちんと読みもせず、ノリとハサミで大急ぎで書き上げた体の書物であり、第一次的草稿としか言いようのないように思われます。」と述べている。安田二郎「許嵩と『建康実録』」(『六朝学術学会報』7、2006年)pp. 127, 129 参照(強調は筆者)。[上に戻る]

[3]『建康実録』最後の巻である巻20の末尾に「江甯府嘉祐三年十一月開造『建康実録』、並按三国志、東西晋書并南北史校勘、至嘉祐四年五月畢工、凡ニ十巻、揔二十五万七千五百七十七字、計一千策」とある。『三国志』だとか他の史書を参照しつつ、校訂を行なったらしい。なお原文の書き方として、ここで言及されている「晋書」や「南北史」は、唐修『晋書』や李延寿の「南北史」を指す固有名詞ではなく、「西晋と東晋の史書ならびに南朝・北朝の史書」のことを言っているのかもしれない(そのように解釈すれば、沈約『宋書』、蕭子顕『南斉書』も「南北史」に含まれることになる)。[上に戻る]

[4]以上、『建康実録』の基礎的内容や版本情報は、張氏テキストの上巻「点校説明」を主に参照した。[上に戻る]

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