2013年10月8日火曜日

新・三国時代――後趙・東晋・成漢

 後趙の石勒と徐光とのあいだに交わされたというつぎの問答、なかなか面白くない?(『晋書』巻105石勒載記・下・附弘載記)
 遐退告徐光曰、「主上向言如此、太子必危、将若之何」。光曰、「中山常切歯於吾二人、恐非但国危、亦為家禍、当為安国寧家之計、不可坐而受禍也」。
 光復承間言於勒曰、「陛下廓平八州、帝有海内、而神色不悦者何也」。
 勒曰、「呉蜀未平、書軌不一、司馬家猶不絶於丹楊、恐後之人将以吾為不応符籙。毎一思之、不覚見於神色」。
 光曰、「臣以陛下為憂腹心之患、而何暇更憂四支乎。何則、魏承漢運、為正朔帝王、劉備雖紹興巴蜀、亦不可謂漢不滅也。呉雖跨江東、豈有虧魏美。陛下既苞括二都、為中国帝王、彼司馬家児復何異玄德、李氏亦猶孫権。符籙不在陛下、竟欲安帰。此四支之軽患耳。中山王藉陛下指授神略、天下皆言其英武亜於陛下、兼其残暴多姦、見利 忘義、無伊霍之忠。父子爵位之重、勢傾王室。観其耿耿、常有不満之心。近於東宮曲讌、 有軽皇太子之色。陛下隠忍容之、臣恐陛下万年之後、宗廟必生荊棘、此心腹之重疾也、惟陛下図之」。勒黙然、而竟不従。

 程遐は退出すると、徐光に告げた、「主上〔石勒〕がさきほど、かくかくしかじかと言っていたのだが〔程遐が石勒に石虎を排斥するよう進言したところ、石虎はそんなやつじゃない、自分は太子を輔佐させるつもりだと程遐の勧めを却下したこと〕、(こうであっては)太子〔石弘〕は必ず危険だ。どうしようか?」。徐光、「中山王〔石虎〕はつねに我々二人に歯ぎしりして(嫌って)いるから、(石虎が輔佐に就けば)おそらくたんに国家の危難であるだけでなく、我々の家の禍ともなろう。国と家を安寧させる計略を案じなければならん。ただ黙って禍を受けるわけにはいかぬ」。
 徐光は機会をうかがって再度、石勒に言った、「陛下は八州〔九州=天下の表現を踏まえれば、「天下の九分の八」の意か〕を平定し、帝王となって天下を保有しておりますのに、顔色が喜ばしくないのはどうしてでしょうか?」。
 石勒、「呉と蜀がまだ平定されておらず、文字と車輪の幅が統一されていないし、司馬家はなお丹楊に復興しているから、おそらく後世の人はわたしを(天の)予兆に応じた者ではないとみなすだろう。いつもこのことを考えているから、不覚にも顔色に出てしまったのだろう」。
 徐光、「臣が思いますに、陛下は腹心のやまいを心配する必要があるのであって、四肢のけがを心配するお時間なぞございません。どうしてでしょうか。魏は漢の暦運を継承した正朔の帝王でございます。劉備は巴蜀で漢を復興させたとはいえ、(魏が漢を継いでいる以上、)漢が滅んでいないとは言えません。呉が江東に割拠していたとはいえ、魏の有利な点〔魏が漢を継承していること〕を損なってはおりません。陛下はすでに二都〔洛陽・長安〕を手中におさめ、中国〔中原〕の帝王となっております。かの司馬家の小僧は劉玄徳とどこが違いましょうか。(巴蜀の)李氏も孫権のようなものです。予兆が陛下になければ、最終的にどこに帰結しようというのでしょう。呉蜀のことは四肢の軽いけがのようなものに過ぎません。中山王は陛下が神のような策略を授けたことに頼っているだけですが、天下の者はみな中山王の英略武勇は陛下に次ぐと言っておりまして、加えて残虐で邪悪な行ないが多く、利を見れば義を忘れるような者ですから、伊尹や霍光のような忠誠はないでしょう。(現在)親子で爵位は高く、権勢は王室を傾けるほどであります。(だというのに、)中山王が心を落ち着けていないさまを観察するに、つねに不満の心を抱いているのでしょう。最近では東宮で宴会を催しましたときに、皇太子を軽視する様子が見られました。陛下が我慢して中山王をお許しになっても、臣は陛下の万年のち、宗廟に必ずいばらが生えるであろうことを心配しております。これが腹心の重病であります。陛下はこのことだけをお考えください」。石勒は黙ったが、ついに従わなかった。
 石勒晩年のお話で、石虎の処遇がメインなわけですが、まあここはそんなんいいじゃない。そんなことよりも、ちゃっかり垣間見えている正統観、あるいは歴史観の方が面白いじゃないですか。
 つまり、徐光は後趙=曹魏=中原の帝王だと見る。自分たちは前代の王朝を正式に継承した正朔の帝王だと述べている。そうである以上、前王朝の残党(東晋=蜀漢)だとか、一地方の群雄(成漢=孫呉)が割拠しようが、自分たちの正統はまったく揺るがない。こんなやつら放っておいたって、自分たちの正統は何ら傷つかないから無視で構わん、そんなことより石虎が・・・。そういうロジックなわけだ。
 ここに見られるように、徐光は当時の時代状況を三国時代に擬えている。そう言われると確かに、かなり酷似している。大陸がおおよそ中原・呉・蜀の三つに分割されていて・・・端っこに小勢力(張氏前涼、鮮卑慕容氏)がいるのもどことなく似ている。
 それだけじゃない、劉備のように司馬睿が王朝の復興を掲げて一地方に中興するという政治的状況まで一緒なのだ。まさに三国時代の再来。
 この天下三分が解消されるのは東晋の永和三年(西暦347年)、桓温が漢の李勢を降し、益州を支配域におさめたときであった。以後、前秦に益州を奪われたり、譙縦が益州で自立したりすることはあったものの、基本的には江南王朝が益州を保有することになる。前・三国時代では中原王朝が四川を得て、江南を平定したのだが、今度の三国時代は江南が四川を得てしまったために、なまじ分裂がなかなか収束しなかったとさえ言えるかもしんない(適当
 そういうことなんでね、「三国志」の続編とでも銘打って、「趙・晋・成(漢)」の三国鼎立でだれか書いてみない?

0 件のコメント:

コメントを投稿