2014年11月30日日曜日

西晋時代の軍隊に非漢族兵士はどのように組み込まれたのか?



 『晋書』巻48段灼伝より、西晋の段灼が晩年に武帝に奉じたという上表を取り上げます。
 時期はおそらく武帝の天下統一から間もないころだと思われれる。
 どうしても死ぬ前に、武帝にモノ申しておいてオレはできるやつなんだぜってアピールをしたかった統治術の心得を五つの方面から進言したというやつで、以下は「信頼はちゃんと固めようね」っていうポイントについて意見している箇所からの引用。
四つ目に、法令や賞罰は信頼が肝要でございます。・・・わたくしが以前に西郡太守であったころ、(涼)州に己未詔書が下されました。詔書には「(このたびの遠征は)羌胡にとって路程が遠く(嫌がる者が多いだろうから)、行きたいという者だけを募集せよ。強制してはならぬ」とございました。わたくしは詔書の命令を承ると、恩賞を明示したうえで公募し、応じて来た者の人名を箇条書きにして征西将軍に申告しました。そもそも晋人であれば、わたくしみずからが壮健な者を選抜して、法に則って徴発することができますが、羌胡についてはというと、恩賞が出なければ(ここから南の)金城や河西まで行こうとする者はおりません。(そのため)以前より、軍を起こして黄河を渡るたびに必ず(羌胡のあいだで)変事が起こったのです。(そこで)もとの涼州刺史の郭綏はなるべく正直な者を兵に加え、励ましをかけて(精神的距離を埋め)、必ず大きな褒賞を与えると約束したのでした。かくして募集に応じた者たちは、この恩に感激し、かつ褒賞を得ようとつとめたので、ついに天下第一の功績をあげたのです。現在の州郡の都督や将軍はすべて(このときに)封爵を与えられ、羌胡のつわものたちは王や侯になり、みなが叙勲を得たのでした。(其四曰、法令賞罰、莫大乎信。・・・臣前為西郡太守、被州所下己未詔書、「羌胡道遠、其但募取楽行、不楽勿強」。臣被詔書、輒宣恩広募、示以賞信、所得人名即條言征西。其晋人自可差簡丁強、如法調取、至於羌胡、非恩意告諭、則無欲度金城河西者也。自往毎興軍渡河、未曾有変、故刺史郭綏勧帥有方、深加奨励、要許重報。是以所募感恩利賞、遂立績効、功在第一。今州郡督将、並已受封、羌胡健児、或王或侯、不蒙論敘也。)
 さて、ここで述べられている経験談をもうちょい掘り下げてみよう。

 まず地理関係から。西郡は涼州の属郡。なので文中の「州」は涼州を指すだろう。
 わたしのもてるすべての技術を用いて表現すると・・・

     ・張掖
     
       ・西郡
       
         ・武威    【涼州】
     ・西平          ↑
   ―――――――――――――黄河
         ・金城      ↓
                 【秦州】

 すまん、こんな感じで許してくれ頼む
 だからその、西郡は涼州のうちでは東側で、金城は涼州の南の境界のそば、黄河のすぐ南にあるのです。

 つづいて人名。
 郭綏はほかの箇所に見えず。まあいいでしょう。
 見るからに征西将軍のほうが大事でしょ。こいつは誰を指しているのか。

 まず挙げたくなるのは鄧艾。というのも、この段灼、以前は鄧艾の部下で、けっこう彼に心酔しているらしいのである。引用した上表とは別の、彼の提出した上書には「故征西」として鄧艾のことも言及されているし、鄧艾の可能性を考えたくなるのだが・・・鄧艾ではないと思う。

 いやなんというか、魏の時代の話をしている感じではないと思うんだよね。冒頭で説明したけど、これ晋の武帝に奉じた文章だから。「己未詔書」ってのは、魏の時代に下された詔書ってのではなくて、「陛下はこういう詔書を下されましたよね」って意味なんじゃないか。なお「己未」の干支は詔書が下された日付を指しています、年月ではありません、というふうにわたしは教わっています。
 それと文中の「晋人」。原本ママの表現だとすれば、「一般人民だったらこうしたんですけど、非漢族はできませんでした」と言っているわけだから、己未詔書の指令が下されたのは一般人民が「晋人」と呼称される時代=晋の時代と考えるべきではないだろうか。

 というような諸々の理由につき、わたしは「征西」を鄧艾と解釈しません。晋の武帝治下における征西将軍だと思います。
 じゃあ該当者には誰がいるのか。一人おるわけです。そいつは司馬懿の息子のうちでも秀才と評判の司馬駿。武帝紀によると、彼は咸寧2年10月に鎮西大将軍から征西大将軍へと昇格している。
 もうちょい詳しい経歴を『晋書』巻38宣五王伝・扶風王駿伝から一瞥しておこう。
汝陰王の駿は鎮西大将軍、使持節、都督雍凉等州諸軍事に異動し、汝南王の亮と交代して関中に出鎮した。・・・咸寧年間のはじめ、羌の樹機能らが反乱を起こしたので、駿は征伐軍を派遣し、3000あまりの首級を挙げた。征西大将軍、開府儀同三司に昇進し、持節と都督は以前のままとされた。また、駿に詔が下り、7000人の軍隊を派遣し、涼州の屯田兵と交代させるよう命じられた。樹機能や侯弾勃らは交代以前に屯田兵を拉致しようと目論んだが、駿は(それを察したので)平虜護軍の文俶に涼州・秦州・雍州の軍を統率させ、各所の屯田地に進ませて樹機能らを威圧させた。すると樹機能は手勢の20部(の首長?)と侯弾勃を(文俶のもとへ)つかわし、(彼らに自分を)後ろ手で縛らせ、降服した。(首長らは)人質となる子弟を入れた。(遷鎮西大将軍、使持節、都督雍涼等州諸軍事、代汝南王亮鎮関中。・・・咸寧初、羌虜樹機能等叛、遣衆討之、斬三千余級。進位征西大将軍、開府辟召儀同三司、持節都督如故。又詔駿遣七千人代涼州守兵。樹機能、侯弾勃等欲先劫佃兵、駿命平虜護軍文俶督涼秦雍諸軍各進屯以威之。機能乃遣所領二十部及弾勃面縛軍門、各遣入質子。)
 ちょうどぴったりな感じのことが書いてあるね! すなわち、文鴦が司馬駿の命令を受け、涼州や秦州などの兵士を率いて樹機能を討ちにいったというのだ。
 ただし、駿伝では直接的戦闘があったとは記されていない。これでは「功績第一!」という段灼のアレをどう捉えたらよいのか。見栄? と言っても、相手は皇帝なわけで、世辞にしたってバレバレなウソをつくのもねー。
 ここの事柄について、武帝紀を見てみると、
咸寧3年3月、平虜護軍の文俶が樹機能らを征伐し、すべて撃破した。(三月、平虜護軍文淑討叛虜樹機能等、並破之。)
とあって、なんかいかにも「戦闘がありました」みたいな記述になっているので、本当には戦闘があったのかもしれない。といっても、これだけではちょっと苦しいね。

 とりあえず、征西将軍指揮下の軍事行動であることと涼州軍が参加していたことが明記されているので、有力な候補として留めておこう。

 別の軍事行動としては、これ以後におこなわれた二度のものが挙げられる。

 まず咸寧5年の軍事行動。
 この年の正月、涼州刺史の楊欣が禿髪樹機能に殺害されると、武帝は征伐隊として馬隆を中央から派遣、馬隆は12月に樹機能を斬っている。
 段灼が言っているのはこのときの戦闘のことではないか、とも思えるかもしれないが、史料的にそれを言うのはかなり難しい。
 一つに、さきに説明したように、このときは涼州刺史が亡くなっている。もっとも、没して間もなくに武帝が後任を任命したり、涼州の郡守が臨時代行(「守」)した可能性も考えられるので、刺史はそれほど大きな障害にはならない。
 むしろ問題はこのときの軍編成である。『晋書』巻57馬隆伝によると、このとき馬隆が率いたのは都で募集した3500人。そいつを率いて西行してゆき、樹機能を平定したという。馬隆伝にはそれだけしか書いておらず、このときに関西の都督の司馬駿がどの程度介入・援助したのかはまったく記述がない。それは駿伝にしたって同じ。
 それにこの戦闘の功績第一は馬隆および彼の直接指揮下の軍というのが当時の共通認識だろうから、そこで段灼が「涼州軍が一番!」ってやるのはさすがにいろいろとまずい。
 こんな大事な戦闘に駿が関与していないとは考えがたいのだが、記述がない以上、どうにも手の出しようがない。

 というわけなので、否定することもできないのだが、積極的な根拠もないので、有力候補とはいいがたい。

 次に挙げられるのは太康年間はじめになされた馬隆の征討なんだが・・・これは挙げてはみたけどかなり可能性は低い。
 馬隆伝によると、当時、西平太守であった馬隆が「南虜」を討ったというのだが・・・地理的に金城は関係なさそうだし、馬隆の郡守としての軍事行動だろうから、これに西郡太守の段灼が関わっていた可能性はかなり低い。とりあえず挙げるだけ挙げてみただけ・・・。

 これら以外にも記録に残っていない軍事行動があるだろうけども、残っている情報で考えるならば、司馬駿伝記載の咸寧2年のものが該当する可能性が高い、と言えるだろう。
 仮にそうだとすれば、なかなか興味深い事例じゃないですか。夷には夷をもって制すんでしょうか? それとも兵士が不足していたとか? 司馬駿伝の記事によれば、咸寧2年段階では涼州には守備兵=屯田兵が常駐していたみたいだけど、多くの人員はそれに充てられていて緊急編成軍には組み込めなかったとか?
 いずれにせよ、段灼の上表が樹機能のときのことを語っているのならば、当時の朝廷がどういう対策で臨もうとしていたかをうかがい知れる貴重な史料になりますね。

 ただ、私が一番気になっている問題はこの記事が指している事件のことじゃないんです。
 「羌胡」の語句なんです。これ、字義通りに受け取っていいんでしょうか?
 すなわち、羌と胡(匈奴)って言うけど、あのあたりは鮮卑もソグド人も・・・って、そんな細かいことはどうでもいいんです。
 そんなことではなくて、「羌胡」ってのは実は「無籍者」(籍に登録していない者)を指しているんじゃない?と解釈してみたいんだということ。

 段灼の「羌胡」に言及している箇所、どうも論点がおかしいように感じないだろうか?
 段灼は、晋人なら法に従って徴発できんだけど、羌胡は金城まで行きたがらないから面倒なんだよなー、と言っている。
 ちょっと待ってくれ。「行きたがらないから徴発できない」のならば、それは晋人にだって適用されるぞ。
 晋人は法の点から話をしていたのに、羌胡になると感情の点から問題が述べられている。論点がずらされていないか?
 いや、これはずれていないのだ、と解することも可能である。すなわち、「晋人の徴発は法的正当性があるので、有無を言わさず連れていけるが、羌胡については徴発に法的正当性がないので、無理に連れていこうとすると大きな反感を買ってしまう、だから詔書で合法性を確保しつつ、恩賞で釣るしかない」。こういうことを実は言っているんじゃないか。
 仮にこのように考えられるとして、さらにつっこんで考察していけば、晋人の兵役の合法性を保障しているのは、彼らが兵役・徭役負担者名簿に登録されていること(「傅籍」という)に存すると思われるのであり、だとすれば、兵役の合法/非法の境界は晋人/非漢族の区別というより、官庁保管の名簿に登録されているか/いないかの区分に合致しているのではないか。

 ということを思い立ち、非漢族の税役体系を調べつつ、一般編戸の税役徴収における理念的部分を勉強していましたが・・・
 断念しました・・・。
 まあ、、、無理くりに言おうとすれば言えなくはなさそうなんだけど、調べれば調べるほど、非漢族の税役はよくわからんのよね。

 私は当初、次のようなことを考えていました。
 一般的な兵役は一定年齢・身長に達した男子が登録される特定の名簿から選抜されるのであり、男子が一定年齢に達したかどうかを把握するためにはその男子があらかじめ官庁保管の名簿(「戸籍」あるいは「名籍」)に登録されている必要がある、また一つの戸から一人を徴兵する制度であったと考えられる、要するに兵役は彼が編戸であること(戸籍に登録されていること)を前提に構築されている、
 これに対し非漢族は、布やその他の貢納物の納付が地域ごと便宜的に定められており、兵役や徭役に相当するものはこれらの貢納の代替(「義従」)としておこなわれていた可能性がある、またこれらの納付に際し、一般的には首長が人数分をまとめて納付していたと思われる、官庁が名籍を作成・保管していた可能性は否定できないが、いわゆる「戸籍」は存在しなかったと考えるべきである、というのも、「戸」が形成されれば爵が賜与され、耕作地と家屋が支給され、里の責任者に自己申告して官庁に報告し、県の役人も数年に一度顔を確認しながら戸籍記録を改めたり等々、「戸」を形成するというのは思った以上に面倒な手続きやら何やらがついてくるのであり、それらを非漢族にまで一々やっていたとは思えないし、爵の賜与対象とも考えられない(段灼の上表にある「或王或侯」とは封地が実際的にも観念的にも存在しない称号としての意味あいしかない)、以上より、そもそも編戸ではない非漢族には編戸と同様の兵役負担が存在せず、非漢族と地方官庁があらかじめ合意を得ている場合を除いて、兵役を負担する義務はない、そのため臨時的に合法性を確保したり、代替の恩賞措置を取るなどの手続きが必要となる。

 以上のような仮説を立てていたんですが、まあこれがなかなか厄介というか面倒というか・・・
 編戸については山田勝芳氏や鷲尾祐子氏などを参照しているんで、私の誤読でない限りはそんなに外れていないと思うんですが、いかんせん、そもそもの知識が乏しいだけに、非漢族のケースをどう考えたらいいのかわからんのよね。
 調べれば調べるほどよくわからん事例があるし・・・。
 例えば、張家山漢簡の「奏讞書」に徴兵されたけども途中で逃亡した蛮の男子の案件が記されているけど、そのときの蛮夷の言い分「首長が特殊な待遇を受けており、毎年銭を納めることで租税と労役の税分を負担していたものだから、兵役に関しても免除されていると思っていた」、官吏の言い分「銭の納付で税と徭役を負担していることに定まっているけど、蛮夷律に徴兵するなって書いてないし、違反とは言えないね」、というその理屈は通じていいのかって感じなんだが(詳しくは『宋書』百官志訳注(6)の注[2]、それはともかくも、この事例は、非漢族はやっぱり税役の負担の仕方が特殊であり、それはそもそも非漢族が編戸ではない=戸を形成していないからなんだろうという上記の仮説を傍証しているかのように見えるが、だが一方、徴兵が可能であったということは兵役負担者を記録する特定名簿に記録されていたということでもあるのではないだろうか、そうなるとどういうことなんだ、非漢族も登録されていたのか? これ以上はもう考えたくありません。

 それに、魏晋だとあの「兵戸」っていう特殊な兵役制度もあるじゃん? いや兵戸があったとしても臨時兵役や徭役はあったと思うんだけど(もっとも、後漢は銭納での代替が一般的だったらしいが)、そもそも同時に税の徴収単位も変わったとかなんとか言うじゃない(戸調式ってやつ)、あんまり学んでこなかったとこだから詳しくは知らんのだけど。

 だからまあ、気づいちゃったよね、「あ、これ手に負えないな」って。

 この段灼の上表、樹機能の乱の知られざる裏側かもしれないという以上に、当時の徴兵の仕方をうかがわせてくれる史料としておもしろかったし、この簡単な記述には深い法的背景があるんじゃないかと予感させてくれたが、あまりにも深かったよ、闇が。

 でもやっぱり、「羌胡」っていうのは無籍っていうかゴロツキっていうか、そういう情景しかイメージできないんだよなあ・・・。
 もちろん非漢族にも告示はしたんだけうけどさ、ってかこの地域って後漢ころは「義従胡」がたくさんいたらしいからプロフェッショナルやつが多かったんだろうけどさ、そこらをぶらついてる、明らかに役所の登録から漏れているだろう流人に「おいそこの、ちょっとやってこうぜ」みたいな、そんなスカウトをやって集める――ってのはさすがに手間がかかって人件費がやばいことになるからやんないだろうけど、そういう人たちも全然応募して問題なかったと思うし、実際告示の板なんかにも「腕に自身のある羌胡求む」みたいな限定はしなかったっしょ、たぶん。    

2014年11月24日月曜日

で、尚書って何してたとこなの



 先日、『宋書』百官志の訳注で尚書の項目をアップしたところなのだが、よく考えたら尚書ってとこがそもそも何をするとこなのか/しているとこなのか、よく理解していないことに気づいた。
 それでまあ、主に漢代だけども、尚書関係の研究論文を取り寄せたりして、基礎的なところから勉強しようとしたんですね。

 しかし、結局全然わからなかった。
 と、そう言ってしまっては一向に身動きが取れずこの気持ちの悪さを中和することもできないので、とりあえずはつれづれに書きなぐってみることにする。


 尚書の基本的な業務は公務文書の伝達・取次であるらしい。
 それだけ。
 え・・・

 想像力を働かせて考えてみる。
 彼らが取次いでいた文書は皇帝と官庁の間を行き交う文書である。
 なんでその、要するに皇帝の書記官だよね。官庁から来た文書をそのたびごとにいちいち皇帝が受け取るのもめんどくさいし、官庁に渡すときもいちいち訪問しに行ったのでは皇帝の権威って何なんだろうね。
 だから書記官を置いておいて、彼を窓口にしておく。官庁から来た文書はとりあえず全部この窓口に集めておいて、一定程度集まったら皇帝に届けに行くとか、そんな感じなんじゃないの。逆もまた然り、だろうか。
 漢代は尚書が少府に所属していたってのも、やっぱり皇帝の書生というか小間使いというか、皇帝の業務や生活を補助する官であったことを暗に示しているよね。

 以上を踏まえてまず触れてみたいのは、「領尚書事」というやつ。
 周知のように、前漢の霍光に由来し、「尚書事」を「領」(代行)することによって、強大な権力を把握した。
 なんで強大な権力を握ったのだろう? 西嶋定生氏は次のように説明している。
当時の上奏文はかならず正副二通を必要とし、上奏がなされると、尚書はまずその副本を被見して、これを皇帝に取り次ぐべきかどうかを取捨選択した。当然、尚書の意にそわない上奏は、その段階で破棄されることになる。また詔書の下達を職務とすることによって、国家の枢機にふれるために、しだいに実質的な権限をもつこととなり、ついには政策の立案と事実上の決定とが尚書の手によって行われることとなった。このようにして、少府の一属官にすぎない尚書は重要な職責をもつ官職に転化した。(西嶋『秦漢帝国――中国古代帝国の興亡』講談社学術文庫、1997年、p. 288、原著は1974年)
 古いし概説書だが、手元に新しいものがないんで仕様がない[1]
 この記述、論理的に理解できない箇所がある。
 まず「政策の立案」という部分だが、仮に尚書が検閲の職務をなしていたとすれば、たしかに政策の「決定」に彼らが関与するようになるのは比較的自然のように思える。
 だが、検閲が仕事の官がどうして政策の企画立案まで行うようになるのだろう。検閲とはそもそも次元の異なる役割だと思うのだが。それともあれか、上奏される企画がことごとく皇帝や自分たちの意に沿わないから「もうオレたちでやってやんよ」ってなったわけか。ただの伝達係が?

 それから詔書の下達をやるから機密に触れるようになって~というやつ、これもよくわからん。結局その情報は官庁にも行くから尚書だけ特別とも言えないんじゃないの・・・。
 尚書はどの官庁の機密情報も握ってるから!っていうのならわかるが。でも、機密に触れるようになったから要職になったというロジックはわかるにしても、どうしてそれで「実質的な権限」をもつようになったのか。

 漢代の尚書研究は基本的に、魏晋南北朝や唐代に見られるような、執行権力組織としての尚書を念頭に置いていると思う。だからわざわざ、ここで尚書が行政権力を握りはじめた起源を説明しようと試みているようだが、残念ながら、私にはあまり合理的に見えない。逆に、論理が飛躍していることから見ても、前漢の尚書が魏晋・唐代の尚書になるためにはなんらかの飛躍が必要であったのだ、というのは言葉遊びがすぎるが、上述のようなロジックで安住してはいけないほど、かなり謎は深いと見るべきである。

 という疑問はじつは脇道で、ここで話題にしたかったのは「領尚書事」です。
 前述したように、これは「尚書事」を「領」=代行/兼任するという意味だと思われる。
 なるほど、そうなると霍光は幼少の昭帝の犬となって文書を運びまわっていたわけですね。

 そんなわけがありませんね。
 何が言いたいかというと、従来「尚書事」は「尚書の業務」を指していると解釈されてきたと思うが、それでは単に文書の取次を代行でやるようになったという意味だ。どうして霍光のような高官がそんなことをわざわざやらねばならんのかね。
 いやそんなことはない! 西嶋氏が言っているように、上奏の検閲権があって自由に上奏の取り下げまでできたんだ! だから「尚書の仕事」は莫大な権力を伴うんだ!
 という反論は容易に予想される。ではそこで、西嶋氏(および西嶋氏が拠ったと思われる先学)が根拠としてきた史料を見てみよう(『漢書』巻74魏相伝)
(魏相が河南太守になってから)数年後、宣帝が即位すると、魏相を中央に召して大司農に任じ、ついで御史大夫に移った。四年後、大将軍の霍光が没した。宣帝は霍光の功績と人徳をかんがみ、子の禹を右将軍に、兄の子の楽平侯山を領尚書事とした。平恩侯の許伯が封事を上奏した機会をとらえて、魏相は進言した、・・・。また漢の慣習では、上書するときは必ず二枚作成し、そのうち一つを控えとする。領尚書事は(上書を受け取ったら)まず控えの封を切って(内容をチェックし)、内容がよくなければ却下し、上書を皇帝に奏しなかった。魏相はこれまた許伯の上奏の機会を利用して進言し、控えの封を切る手続きを廃し、秘密を防ぐよう提案した。宣帝は良い進言とし、詔書を下して魏相を給事中とし、すべて魏相の意見に従った。(数年、宣帝即位、徴相入為大司農、遷御史大夫。四歳、大将軍霍光薨、上思其功徳、以其子禹為右将軍、兄子楽平侯山復領尚書事。相因平恩侯許伯奏封事、・・・。又故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、領尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏。相復因許伯白、去副封以防雍蔽。宣帝善之、詔相給事中、皆従其議。)
 関連して『漢書』巻68霍光伝も見ておこう。
霍光が没すると、宣帝はみずから朝政を執るようになり、御史大夫の魏相が給事中となった。・・・ちょうど魏相は丞相となると、しばしば宣帝のくつろぎのときに謁見し、政事の案件について言上した。平恩侯の許伯と侍中の金安上らも宮中に出入りして(進言して)いた。当時、霍山は依然として領尚書事であったが、宣帝は官吏と人民に封事で上奏させ、尚書を関与させずに(自分のところへ文章を運ばせたので)、朝臣は単独で謁見して言上することができるようになった。ゆえに霍氏はこの事態を苦々しく感じていた。(光薨、上始躬親朝政、御史大夫魏相給事中。会魏大夫為丞相、数燕見言事。平恩侯与侍中金安上等徑出入省中。時霍山自若領尚書、上令吏民得奏封事、不関尚書、群臣進見独往来、於是霍氏甚悪之。)
 これらの史料を見て「やっぱりそうじゃないか、尚書はとんでもないとこじゃないか!」と思うのは軽率である。
 よく見てみると、魏相伝で問題に挙げられているのは「尚書」じゃないか。・・・おかしくない?
 尚書が上書を自分の裁量で進めたり退いたり~って業務をやっているんだったら、「領」の字は明らかにいらないよね・・・。
 でまあ、『漢書』の用例から見ると、「領尚書」は領尚書事を指しているのだろうと。
 とすると、上の文章は、領尚書事はそういうことをやっているとは言えても、尚書がそういうことをやっているとは言えないじゃん。
 それにまあ、尚書が仮に上のようなことを職務として遂行していたとして、「領尚書事」って言い方はやっぱりおかしいと思わない?
 だってそうであるなら、尚書令か僕射か知らんけど、尚書の官に就任するか兼任するか、その官に就けばそれでいいやんね。どうして「領」の対象が尚書の官ではなく「尚書の事」なのだろう。
 つまり、尚書の官を「領」しても上のようなことはできんのだが、「尚書の事」を「領」すればできるという、そういう話なんじゃないの?

 それでも、霍光伝の記事を見ると、やっぱり領尚書ってのは尚書の業務を代行しているもので、それは文書の検閲って意味なんじゃないの? って思えてくるかもしれない。
 これについては、米田健志氏の「尚書事」解釈を参照し、考えてみよう[2]
 氏は、「尚書事」の「領」(代行)っていうのは、言い換えれば「皇帝の代行」でしょ、と解している。
 どういうことかというと、「尚書の業務」(取次)を代行ってのはいくらなんでもわりにあわない、「領尚書事」が意味しているのは、尚書から送られてくる文書を決裁すること、すなわち皇帝の文書業務を代行するってことなんじゃなかろうか、という具合だ。
 重要なのは、「尚書事」を「尚書の業務」ではなく「尚書から送られてくる文書の仕事」の意味に解したこと。ちょっと無理矢理に聞こえる気もするかもしれないが、『宋書』百官志などの史書に「尚書奏事」という用語が見え、文脈的に「尚書から上奏されてきた文書の案件」の意であるらしいことを踏まえると、米田氏の「尚書事」解釈はこじつけでも何でもなく、妥当であるとすら言えるだろう[3]
 こういうふうに「尚書事」を理解すれば、霍光伝の記事だって、尚書から文書が送られてこなければ領尚書は何もできんのも当然じゃん、ってうまく解釈できるね。

 以上、「領尚書事」について述べてきたが、私は米田氏の解釈が妥当なんじゃないかと思っている。
 だとするとですよ、じゃあなんで尚書は行政権を手中にするようになったの?
 上述までの解釈に基づけば、尚書には上奏して検閲し、それを決裁する裁量は有していなかったことになる。いやさすがにそれはちょい言い過ぎで、封を切って検閲くらいはやってたんじゃないかと思う。けど取り下げなどの裁量まではもってなかったんじゃないかぁ。
 それに前述したけど、そういう権限をもっていたからといって、魏晋以後のような行政府としての機能に一直線に進展しないよね。繰り返すけど、決定権があることと政策の企画を立てることは別の仕事だよやっぱり。

 私は、直感的なものにすぎないが、このヒントは尚書のもう一つの要務、公文書の起草にあるように思う。
 この職掌も先学で言及こそされてきたが、これまた米田氏が言うように、従来は文書伝達業務が権力の強化に寄与したのだろうと考えられ、過度に注目されてきた結果、ついつい視野から外れてしまってきた感がある。
 しかし、尚書の本質部分はむしろこっちの仕事なんじゃないかとすら私は思っている。
 『宋書』百官志を訳注してて感じたことなんだけど、要するに尚書台って作家集団みたいなところだと思うんだよね。作文技術で雇われてる。実際、尚書の下っ端である尚書郎は作文能力の試験に合格しないとダメだからね。
 ランサーズのようなフリーランスの求人サイトで作文の仕事を探してみたことがある人は感覚的にわかってくれると思うんだが、例えば皇帝が「こういう詔書下してぇー下してぇーわ」と思ったとするじゃない? そしたら尚書令だか僕射だか、まあそいつらに言うわけ。そんでその依頼がその分野を得意とする部署の尚書郎に発注され、彼は皇帝の要望をもとに、うまーく文飾とかを散りばめて「いかにもプロっぽい人が書いた文章」ないし「一般官僚が読んでも不自然に思わない文章」なんかを作成して納品、で、おそらくその部署のボス(列曹尚書、僕射)がそれをチェックし、晴れて下されるわけ。
 かなり妄想が入ってしまったが、作文の求人でもよく、「物件を紹介する文章を依頼します。以下の要領は守ったうえで、あなたの作文能力を振るってください!」とか、そんな感じの案件あるじゃない。あれと同じようなもんだと私は思ってるんです。自分で書くのはめんどいからその能がある人、時間がある人にやらせようっていうね。

 と、やや大書してしまったが・・・
 そもそも作文は尚書に当初から課せられていた職務だったのだろうか? という疑問も一方では抱いている。
 だって尚書の人員は成帝の建始四年まで一人で、そのときになってようやく五人に増やされた程度ですよ?
 それまで詔書の起草は尚書一人でやってたってことになるんですがそれは・・・ありえますよね、皇帝が自分ですべて書くとも思えないし。
 人員が増加されたのは、識字率の増加っていうか、文書による行政の新党具合なり緻密化なりと関連があるかもしれない。つまり発行する文書や届く上書が多くなりすぎて尚書令一人(もしくは皇帝)では担当できなくなったとか、そういう背景なのかもしれない。
 なんでまあ、作文がはじめから尚書の職掌だったかはわからんけど、皇帝の実務的に考えても、はやくに尚書に委託された職務だったんじゃないかなと思っています。

 そんでどうしてこれにフォーカスしたのかっていうと、そいつは尚書がどの範囲の公文書まで作成していたのかってところがポイントだと思うからですよ。
 まず「詔令」、すなわち皇帝が下達する文書は尚書の筆に成ったと考えられる。
 そこはいいんですよ、先行研究でも(いろいろややこしい経緯はあったらしいが)確認されているからね。
 問題は「章奏」、すなわち朝臣から皇帝へ進められる文書なわけです。
 さすがにそれらは尚書が作ってねーだろw
 と思われるでしょう。魏相伝を見る限りでも、上書をしたい朝臣は自分で二通作成して持参せねばならんようだから(もちろん、やっぱり自分で書く必要はなく、府に書記官がいればそいつに書かせればよかろう)。
 でも、唐代の成立ではあるけど、次の『通典』の記述はどうしても気になる。
(尚書郎は)文書の作成を職掌とする。五十歳未満の孝廉合格者から登用するが、(その際には)まず箋や奏などの上書文作成を試験に出し、出来の良い者を選抜する(主作文書起草、取孝廉年未五十、先試箋奏、選有吏能者為之)
   ここで上書文の作成を試験に出しているってことは、尚書郎はそういう文書を書く機会が多かったことを示しているんじゃ、ってどうしても自分は思っちまいます。

 これだけでは根拠があるとは言えないし、現実的でもないわけだが、仮に尚書がそういう上書の文書まで作成を担当していたらどうだろう。官庁から「こういう感じの政策考えてるんだけど~」って来たら、尚書は「じゃあオレたちで書いてみるわ」みたいなそんな感じ? なんか尚書、ずいぶん偉くなった感じだよね。
 そうなんです、ここで想定している尚書は魏晋以後の尚書です。
 魏晋以後の尚書は、官庁から上書が届いたら、それをいったんチェックし、問題がなかったら皇帝のところへいき、そこで読み上げるような、そういう政策企画の伝達係ではなく、自分たちで政策企画の上書を作成し、皇帝のところへ(中書を介して)届けた。
 いや当然っちゃ当然ですけど、「上書を作成するのはだれか」って視点から尚書のことを考えたことはいままでなかったんですわ。
 この転換が案外大事なんじゃないかと思ったのは、本ブログで訳出した李重伝を読みなおしたとき。西晋の李重は尚書吏部郎に就任すると、何人もの人材を見いだしつつ、不適切な人間は要職に就けなかったと褒められている。
 いや、おかしくない? 彼はたかが尚書郎ですよ。『宋書』百官志をご覧ください。そこで描かれているのは漢代、しかも少なくとも後漢中期以降だとは思うけど、その時期の尚書郎は五日間宿直して文書(詔書など?)を作成するとか、皇帝のとこへいって上書を読み上げるとか、読むときはフリスク噛んでなければならないとか、そんな仕事ですよ。
 それがどうして李重みたいなことできんの、どうしてここまで変わってんの、ってあらためて考えたわけだけど、いやでも、と思ったわけです。公文書を作成している点では変わらないんだろうなと。
 だからまあ、私的にはですね、尚書が行政権を握りはじめたのはどういう経緯で~って議論は次のように問題を絞るべきだと思う。
 「官庁(いわゆる外朝)が本来作成すべき文書まで尚書が担当しはじめるのようになったのはいつか」。
 尚書による案件の判断がよく重視されるけど、これまた繰り返すが、その権限じゃあ行政までいかないと思うんで。
 この件は皇帝がどういう経緯で尚書に詔令の作成を委ねるようになったのかという事柄と相通じていることかもしれないが、どうだろう。
 こう釘を刺しておくのは、尚書が作成するようになったからといって、それがただちに尚書の行政権掌握を意味するのではないからだ。最初は作成の手間を省くために尚書に委ねただけだったのかもしれない。結果的に行政権の把握までいたっただけかもしれん。

 と、こんなに長く書くつもりはなかったんだけども、ついこんなことに・・・。
 自分でも何に引っ掛かりを覚えているのか、いまいち整理できてないんですね。書いてるうちにある程度まとまるだろうかと期待していたのだが、そんなことはなかった。
 あと、あんまり挟めなかったけど、尚書の時代的変化というか、時間的要素はもっと考慮すべきかもしれない。尚書関連で比較的整っているのは、じつは『宋書』百官志の記述なんですよね。しかしあれは蔡質(蔡邕の叔父)の『漢官典儀』や応劭『漢官儀』あたりが元ネタっぽいので、後漢後期の尚書と考えた方がよさそうなんだ。だから、それ以前の尚書は用例を見ていきながら考えるしかなさそうだね。
 悔しく思うのは、この時期の宮城の風景というか、尚書をはじめとする官僚たちの仕事の場がイメージできないこと。つくづく、これが頭に浮かばないのがなあと。言うて現代の官僚も何してんのか知らんけどね。

 ついでに、後漢の尚書もちょい調べた限りで触れておく。
 わたしが目にした限りで、重要だと思われたのは『後漢書』伝36陳寵伝。
陳寵は三度官を異動して、章帝のはじめ、列曹尚書となった。当時、永平の故事を受け継いだ時代だったので、文吏による政治は依然として厳格で細かく、尚書の決裁も徐々に重要な仕事になりつつあった。(三遷、粛宗初、為尚書。是時承永平故事、吏政尚厳切、尚書決事率近於重。)
 「永平」は明帝の元号。光武帝と明帝は実務(法律とか文書業務に明るい官吏、このような吏を「文吏」と呼ぶ)を重視し、みずから積極的に関与した皇帝として知られている[4]。よっぽど厳しかったらしくて、後漢書を見るともう、明帝といったら苛酷って言葉が出るくらい。
 尚書といえば、やっぱり文書に関わるところだから、それと関連して重視されはじめたのだろうけども、「尚書の決裁」と訳した「尚書決事」とは一体何を指しているのか、もうちょい慎重に考えるべきだろうか・・・。
 合わせて関係ありそうなのが後漢末の仲長統『昌言』法誡篇(『後漢書』伝39仲長統伝引)
光武帝は数代の間(劉氏が)権力を失ったことを反省し、強大な臣が天命を強奪したことに憤っていた。そこで曲がったものを元に戻そうとするあまりに度がすぎてしまい、政治を臣下に委ねず、三公を設置したところで(彼らに政治をおこなわせず)、政治は尚書台に帰した。以後、三公はポストが存在するだけとなった。(光武皇帝愠数世之失権、忿彊臣之竊命、矯枉過直、政不任下、雖置三公、事帰台閣。自此以来、三公之職、備員而已。)
 文中、「尚書台」と訳した「台閣」は必ずしも尚書台を意味するのではないという指摘もあるのだが、ここは文脈的にも尚書台で構わんと思う、というかじゃないと通じないと思う。
 そんでこれに関連するのが、陳寵の子・忠の伝に見える記述。
当時〔安帝の時代〕、三公の職務は責任が軽く、重要な事柄はもっぱら尚書に任されていた。しかし災異が起こると、そのたびに三公が罷免されていた〔天人感応説〕。陳忠は、この有様は国家のかつての体制ではないと考え、上疏して諌めた、「・・・漢の故事では、丞相が要請した事柄は必ず採用されていました。ところが現在の三公は名ばかりで実質がなく、選挙や賞罰はすべて尚書に決定されています。尚書の現在の職責は三公より重く、陵遅〔ゆっくり徐々に衰えること、陳忠の別の上書の用例を参照すると和帝時代以降というニュアンスっぽい〕以来、このような傾向が徐々に進行して久しいものがございます。・・・」。(時三府任軽、機事専委尚書、而災眚変咎、輒切免公台。忠以為非国旧体、上疏諌曰、「・・・漢典旧事、丞相所請、靡有不聴。今之三公、雖当其名而無其実、選挙誅賞、一由尚書、尚書見任、重於三公、陵遅以来、其漸久矣。・・・」。)
 こっちだと「陵遅」以後、たぶん和帝以後?だけども、とりあえず章帝以後に尚書重視の傾向が顕著になったと言っているね。
 なんだ、前漢の尚書とはもう全然違うんだろうなってのは感じるよね。そのきっかけが「諸功臣・外戚への権力集中を抑制しながら、文吏的官僚を駆使して法による皇帝一元支配の樹立を図った」光武帝・明帝の「統治理念」(東氏前掲書、p. 49)なのか、章帝以後の幼帝即位なのか、それはちょっとわからないが。
 もう一つ後漢の尚書で大事なのが録尚書事。こいつについては伝66陳蕃伝が興味深いかも。
永康元年、桓帝が崩御した。竇皇后が臨朝し、詔を下した、「・・・陳蕃を太傅とし、録尚書事とする」。ときに、(国家は)皇帝の崩御という事態に直面しながら、後継者はまだ決まらない状態であった。尚書官は権勢を誇っていた官〔宦官?〕を恐れ、病気と称して出勤しなかった。陳蕃は書簡を送って彼らを批判した、「いにしえの人は主君が崩じても自身は生きて職務を全うし、節義を立てたのだ。現在、皇帝はまだ決まらず、政治は日増しに緊迫している。諸君らよ、父たる帝を失った苦しみから逃れ、ベッドで休んでいる場合かね。その程度の義で仁者たることはできぬぞ」。尚書らは恐々としながらも、みな出勤して政務を執った。(永康元年、帝崩。竇后臨朝、詔曰、「其以蕃為太傅、録尚書事」。時新遭大喪、国嗣未立、諸尚書畏懼権官、託病不朝。蕃以書責之曰、「古人立節、事亡如存。今帝祚未立、政事日蹙、諸君柰何委荼蓼之苦、息偃在牀。於義不足、焉得仁乎」。諸尚書惶怖、皆起視事。)
 この事例から判断すると、録尚書事は尚書たちの元締めみたいな立場だったんだろうな。
 領尚書事が前述したような理解で大過ないのであれば、じゃあ後漢の録尚書事は何なのって当然なるわけで。後漢の尚書は何をしていたのかを究明しつつ、調べなければいかんだろう。


 尚書について思ったことを思ったままに書きなぐってみました。


――注――

[1]さすがにこれだけでは不安なので、図書館で新しい概説書を確認してみた。以下の通り。

尚書とは少府の属官で官秩は低いが、詔書の下達や上奏の皇帝への取次ぎなど行政上最重要の文書を扱うことを職務としていた。したがって、幼帝を身近に輔佐するという実務を通して実質的には政策の立案権をも把握しうる地位にあったのである。(『世界歴史体系 中国史1 先秦―後漢』山川出版社、2003年、pp. 418-419、執筆:太田幸男氏)

尚書の職務を兼ねて国政に関与うるという独裁権力は、前漢昭帝のときの霍光に始まっていた。(鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産――秦漢帝国』講談社、2004年、p. 311)
 そんなに西嶋氏と違ってなかった。[上に戻る]

[2]米田健志「前漢後期における中朝と尚書――皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64-2、2005年)、なお『東洋史研究』なのでCiNiiからPDFで閲覧可能。[上に戻る]

[3]たしか米田氏も引用していたが、次の『漢書』巻74丙吉伝の記述もかかる「尚書事」解釈の根拠となりうるだろう。「霍氏が誅殺されると、宣帝はみずから政治を執り、尚書事をみた(及霍氏誅、上躬親政、省尚書事」。みずから政治を執ること(親政)と尚書事の遂行がセットになっていることから考えると、ここの「尚書事」は「尚書から送られてくる文書案件」の意で、それを「省(み)る」=処理するということなのだろう。霍山が領尚書事であった際は宣帝単独でおこなうことはできなかったが、領尚書事がいなくなったことで、誰も介さずに皇帝だけで決定することができるようになった、ということを記述しているんではなかろうか。[上に戻る]

[4]東晋次『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、1995年)第1章第1節参照。[上に戻る]

2014年11月16日日曜日

『宋書』百官志訳注(9)――尚書

 尚書はいにしえの官である。舜が(堯を代行して)帝位につくと、龍〔人名〕を納言に命じたが、すなわち納言が尚書の職務に相当する[1]。(また)『周礼』には司会なる官が記述されているが、鄭玄は、現在〔後漢〕の尚書にあたると注している。秦のとき、少府が所属の吏四人を派遣して殿中におらせ、文書の発布を担当させたので、(その任にあたった者を)尚書と呼んだ。(これが尚書の起源である。)「尚」は「主」〔つかさどる〕の意味である[2]
 漢のはじめ、尚冠、尚衣、尚食、尚浴、尚席、尚書が置かれたが、これを六尚と言った。(これらの官のもとをたどると、)戦国の時代、すでに尚冠、尚衣に相当する官は置かれている。(一方で)秦のときになって、(はじめて)尚書令、尚書僕射、尚書丞が置かれた。漢のはじめは(六尚は)みな少府に所属しており、東漢でもなお文官として(少府に)所属していた。いにしえは武官を重視し、射撃を得意とする者に(官僚の)仕事をさせたので、「僕射」が名称になったのである。僕射は射撃の仕事に従事する者という意味である[3]

 秦の時代、左右曹諸吏がいたが、この官に定まった職務はなく、将軍・大夫以下、みなに与えられる加官であった[4]。漢の武帝のとき、左右曹諸吏に尚書奏事〔尚書が奏上する事案〕を分担して検討〔原文「分平」〕させた〔尚書から上達されてきた奏文を検討し、皇帝の判断に資する意見を出す、あるいは皇帝に代行して決済する、ということか〕。昭帝が即位すると、霍光が領尚書事となった〔「領」は原文ママ。おそらく兼任とか代行の意〕。成帝のはじめ、王鳳が録尚書事となった〔「録」は原文ママ。おそらく統べるとかそんな意味〕。東漢では皇帝が即位するたび、太傅を置いて録尚書事としていたが、(その者が)薨じたら廃していた[5]。晋の康帝のとき、何充の「譲録表〔録尚書を固辞する上表〕」に、「(晋の)咸康年間、分割して三録〔原文ママ〕を置き、王導がそのうちの一つを録し、荀崧、陸曄がそれぞれ録六條事〔原文ママ〕でした」とある[6]。であれば、(この場合の「三録」とは合計で)二十四條あるようだ。(というのも、)十二條だけであれば、荀崧、陸曄でそれぞれ「録六條」なのであるから、王導が何を管轄することになるだろうか。(あるいは)もし王導が三録全体を統括する立場にいて、(その下に)荀崧、陸曄が分担していたと解釈したら、それはそれで「王導がそのうちの一つを録す(導録其一)」とは言えないはずである。その後、(晋では)つねに二録が置かれていたが、そのたびに「それぞれ六條事を掌らせた」と言っているから、(二録の場合は)十二條だけであろう。十二條が何であるかはわからない[7]。江右〔西晋〕では四録があったので、四人が参録であったことになる〔「参録」は原文ママ。「録尚書事に加わる」の意で「参録尚書事」とよく表現される〕。江右の張華、江左の庾亮はともに「経関尚書七條」〔原文ママ〕に就いているのだが、ともにどのようなものだったのかはわからない[8]。(そのほか)のちに何充は録を解任されたが、その後「参関尚書」というものになっている[9]
 録尚書事はあらゆる事柄を管轄した。『尚書』舜典「納于大麓」の王粛注に(「麓」を「録」と解したうえで、)「堯は舜を顕貴の官に登用し、天下の政治を大録させた」とある(が、まさに録尚書事にも当てはまる)[10]。およそ重号将軍[11]や刺史であれば、みな属官の任用を自分の裁量ででき、(皇帝直任官の)任命や(属官に)節を与えることができなかったのみで(それだけで権限が非常に大きく、これに録尚書事を加えると内外の要事を一手に握ることになるので)、宋の孝建年間、権力を朝廷の外〔地方に出鎮する将軍や刺史〕に与えたくなかった孝武帝は、録尚書事を廃した。(しかし)大明年間の末年に復置された。以後、置かれたり置かれなかったりした。

 漢の献帝の建安四年、執金吾の栄郃を尚書左僕射、衛臻を右僕射とした。僕射が二つに分けて置かれたのは、これが最初である[12][13]

 漢の成帝の建始四年、はじめて(列曹)尚書〔曹は部署のこと。当該、あるいは当該のものを含めた複数の曹を統べるのが列曹尚書〕を置き、定員は四人[14]、丞も増員して四人とした。(四つの)列曹尚書は、一つめを常侍曹と言い、公卿に関する文書を担当する。二つめを二千石曹と言い、郡国の二千石(守相)の文書を管轄する[15]。三つめを民曹と言い、吏民の上書をつかさどる。四つめを客曹と言い、外国の夷狄の文書を専門とする。(のちに)光武帝は二千石曹を二つに分け、また客曹を南主客曹と北主客曹に分け、常侍曹を吏曹に改称し[16]、合計で六曹尚書とした。丞(の定員)を二人減らし、左右丞だけを置いた[17]。(その後、後漢末の)応劭『漢官儀』に、「尚書令、左丞は綱紀を総括し〔原文「総領綱紀」。綱紀は秩序とかそんな意、ここのも直訳すれば「全体の秩序」ってところで、尚書のボスだということ〕、すべての事柄を管理する[18]。僕射、右丞は銭や穀物の給付に関する文書をつかさどる[19]。三公尚書は二人、年末の成績集計に関する文書が担当。吏曹尚書は選挙や斎戒祭祀。二千石曹尚書は水害、火災、盗賊、訴訟、罪罰。客曹尚書は羌や胡(匈奴?)の朝会、法駕〔天子の車、転じて天子のこと〕が外出した際の護駕。民曹尚書は公共施設の修復、土木工事、塩池、天子の猟囿。このうちでも吏曹尚書〔選挙など〕は重役なので、飛び級の昇進〔原文「超遷」〕を遂げることが多い」とある[20]。この記述からすると、漢末の列曹尚書の名称と職務は光武帝のときとは異なっている。
 魏の時代に吏部、左民、客曹、五兵、度支の五曹の列曹尚書があった。晋のはじめは吏部、三公、客曹、駕部、屯田、度支の六曹尚書があった。武帝の咸寧二年、駕部尚書を廃したが、四年に復置した。太康年間、吏部、殿中、五兵、田曹、度支、左民の六曹の列曹尚書が置かれている(のが確認できる)。恵帝の時代には、また右民尚書があった(ことが見えている)。(恵帝のときも)列曹尚書は六人だったので、右民尚書が置かれたときにどの列曹尚書が廃されたのかはわからない。江左では祠部[21]、吏部、左民、度支、五兵があり、合計で五曹尚書であった。宋の武帝のはじめ、(五曹に)都官尚書を増置し、(また)もし右僕射がおれば、祠部尚書を置かないこととした。孝武帝の大明二年、吏部尚書を二人置き、五兵尚書を廃したが、のちに吏部尚書は一つとされた。順帝の昇明元年、五兵尚書を復置した。

 尚書令は(国家の)枢要を統べ、僕射、列曹尚書は諸曹を分担して管轄する。(宋では?)左僕射は殿中と主客の二曹を統べる。吏部尚書は吏部・刪定・三公・比部の四曹を、祠部尚書は祠部・儀曹の二曹を、度支尚書は度支・金部・倉部・起部の四曹を、左民尚書は左民・駕部の二曹を、都官尚書は都官・水部・庫部・功論の四曹を、五兵尚書は中兵・外兵の二曹を統べる。以前は(中兵、外兵のほかに)騎兵、別兵、都兵があり、そのため「五兵」と言っていたのである。五尚書、二僕射、一令、これを総称して「八坐」と言う[22]。もし宗廟や宮殿を建造する必要が出たら起部尚書を置くが、仕事が終われば廃した。

 漢の成帝が四人の列曹尚書を置いたときに、尚書郎を置いたとの記述は見られない。『漢儀』によると、(後漢の?)尚書郎は四人である。一人は匈奴単于の営部(単于庭?)を、一人は羌夷と吏民を、一人は戸籍や田畑を、一人は財政や輸送を、それぞれ担当していたという[23]。匈奴単于は、宣帝の時代に帰順していたが、成帝のときに単于は北方に帰っていった。尚書郎一人が匈奴単于の営部に関する文書を管轄していたと言うが、この郎を置いたのはおそらく光武帝のときで、管轄していた匈奴とは、(漢の領域内に移住していた)南単于のことであろう。『漢官(儀?)』によると、(後漢末は)郎を三十六人置いたらしいが、どの皇帝のときに増員されたのかはわからない。しかし列曹尚書一つにつき六人の郎を率いていたのだろう。
 (尚書郎は)文書の起草を職務とする[24]。郎中となって一年経てば〔原文「歳満」〕、侍郎となった[25]。尚書寺は建礼門内にあった[26]。尚書郎が宮中に入って仕事をする際、官が青縑〔おそらく絹製の青い衣服のこと〕と白綾被〔模様入りの白い掛け布団〕を給付するが、別に綿製の肌着をその代わりとすることもあった。(ほかに)帷帳(とばり)、氈褥〔フェルト製の敷物〕、通中枕〔アレです、中が空洞みたいになってるあの枕〕を給付し、(さらに)太官が食事を、湯官が餅餌〔麦や米の粉を練ってつくった食物〕や熟した果実類〔原文「五敦果実之属」。『漢語大詞典』によると、「五敦(=熟)」には煮て味つけするという意味があり、本文のこの箇所を用例としているが、ここは単純に解してよいように思う〕を給付する[27]。(さらに)尚書伯使一人、女侍二人、みな容姿端麗な者を選んでつけさせ、(女侍には)香をたく器を持たせ、着衣を助けさせる[28]。(尚書郎は)明光殿〔場所不詳〕で奏上をおこなうが、(明光?)殿は胡粉〔白い粉〕で壁を塗装し、いにしえの賢人や烈士が描かれている。丹朱で床を彩色しているので、この場所を「丹墀(たんち)」とも呼ぶ。尚書郎は口に鶏舌香を含むが、これは皇帝に奏上して応対する際に、息に香りをつけさせるためである。奏上するときには黄門侍郎〔天子の左右に侍る官〕と互いに拱手の礼をおこなう[29]。黄門侍郎が奏上やめと宣言してから退出する〔原文「黄門侍郎称已聞、乃出」、読めません〕。天子は五時〔春、夏、季夏、秋、冬のこと〕の朝服を尚書令、僕射に下賜するが、それに対して丞、郎は毎月、赤い柄の大きな筆を一セット(二本)、隃麋〔漢代、右扶風の県名〕の墨一つを下賜した[30]
 魏の時代、殿中、吏部、駕部、金部、虞曹、比部、南主客、祠部、度支、庫部、農部、水部、儀部、三公、倉部、民曹、二千石、中兵、外兵、別兵、都兵、考功、定科の計二十三曹の郎があった。青龍二年、戦争があったので、尚書令の陳矯が都官、騎兵の二曹の郎の設置を上奏し、合計で二十五曹となった。
 西晋では直事、殿中、祠部、儀曹、吏部、三公、比部、金部、倉部、度支、都官、二千石、左民、右民、虞曹、屯田、起部、水部、左主客、右主客、駕部、車部、庫部、左中兵、右中兵、左外兵、右外兵、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、北主客、南主客の三十四曹の郎があった。のちに運曹が置かれ、合計で三十五曹となった。
 江左のはじめ、直事、右民、屯田、車部、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、運曹の十の曹に郎が置かれず、主客、中兵、外兵はそれぞれ郎を一人だけ置き(左右を併せたので)、残ったのは十七曹であった[31]。康帝、穆帝以降、虞曹、二千石の二曹にも郎が置かれなかったが、なお殿中、祠部、吏部、儀曹、三公、比部、金部、倉部、度支、都官[32]、左民、起部、水部、主客、駕部、庫部、中兵、外兵の十八曹に郎があった。のちにまた主客、起部、水部を廃し、(最終的に)残ったのは十五曹である[33]
 宋の武帝のはじめ、これに加えて騎兵、主客、起部、水部の四曹に郎を置き、合計で十九曹となった。文帝の元嘉十年、また儀曹、主客、比部、騎兵の四曹の郎を廃した。十一年、みな復置した。十八年、刪定曹郎を増し、位は左民曹郎の上としたが、(刪定曹郎とは)魏の時代の定科曹郎のようなものであろう。三十年、また功論曹郎を置き、位は都官の下、刪定の上とした。また文帝のとき、騎兵を廃した。現在(宋)では合計で二十曹郎である。
 三公、比部には法制文書を管轄させている。度支は会計文書を担当した。「支」は「派」〔つかわし出す、みたいな〕、「度」は「景」〔意味不詳〕のことである。都官は軍隊の刑罰の文書をつかさどる。そのほかの曹の担当は、それぞれその名称のとおりである。

 漢の制度では、公卿・御史中丞以下の官が尚書令、僕射、丞、郎と偶然すれ違いそうになったら、みな車を避けてあらかじめ直接出くわすことをせず、台官〔尚書台の官の意〕が通過すれば、ようやく動くことができた。現在の尚書官は、朝廷に上るときと朝廷から下るときには、通行人と会うことが禁止されているが、それはちょうどその漢の制度のようなものである。また、漢の制度では、丞、郎が列曹尚書に面会するときは列曹尚書を「明時」と呼び、郎が左右の丞に会うときは左右丞を「左君」、「右君」と呼んだ[34]

 郎以下の官には、都令史、令史、書令史、書吏幹がいる。東漢では尚書令史十八人、晋のはじめでは正令史百二十人、書令史百三十人。晋から現在(宋)まで、減ったり増えたりしており、記録を定めがたい[35]。『漢儀』によると丞相令史があったというから、おそらく令史は前漢の官なのであろう[36]。西晋に尚書都令史の朱誕がいるので、都令史は最初に置かれてから久しいようだ〔都令史はおそらく令史のボスを指す〕[37]。令史は尚書同様、担当の曹ごとに分かれる。

 西晋の八坐・丞・郎は、朝と日暮れに都座〔政事の会議場〕で会議していたが、江左では朝だけとなった。八坐・丞・郎が新たに任命された際は(全員が)都座に集まり、礼を交わす。転任したときには交際を解いた。これも漢の旧制である。現在では八坐が交際を解くだけで、丞・郎が交際を解くことはなくなった 。尚書令は千石、僕射と列曹尚書は六百石、丞・郎は四百石[38]

 武庫令は一人。兵器(の管理)を職掌とする。秦の官である。二漢のとき、執金吾に所属していた。晋のはじめ、執金吾を廃したので、現在にいたるまで尚書庫部の所属である[39]
 車府令は一人。丞は一人。秦の官である。二漢、魏、晋ではみな太僕に所属していた。(東晋の哀帝のときに)太僕が廃されると、尚書駕部に所属した。
 上林令は一人。丞は一人。西漢では上林に八の丞、十二の尉、十の池監がいた。丞・尉は水衡都尉に所属していた。池監は少府に所属していた。東漢では上林苑令、丞が各一人あり、少府に所属していた[40]。江左では置かれなかった。宋の孝武帝の大明三年に復置され、尚書の殿中曹と少府の両方に(?)所属していた。
 材官将軍は一人。司馬は一人。土木工事の職人を管轄する。漢の左右校令がこの職務であった。魏は右校(の代わりに?)材官校尉を置き、天下の材木(事業)を管轄させた。江左では材官校尉を改称して材官将軍とし、また左校令を廃した。現在(=宋)、材官将軍は尚書の起部曹と領軍将軍に所属している[41]



―――注―――

[1]『漢書』巻19百官公卿表・上・応劭注「龍とは舜の臣の名前である。納言は現在(後漢)の尚書に相当し、王のノドと舌をつかさどる(龍、臣名也。納言、如今尚書、管王之喉舌也」、『太平御覧』巻212引『漢官儀』「尚書は堯・舜の時代の官が起源である。『尚書』に『龍が納言となった』とあり、『詩』に『仲山甫は王のノドと舌だ』とあるが、ともにこの官のことを言っている。秦はこの官を尚書に改名したが、漢もこの官を重視した。機密を管理する(尚書、唐虞官也、書曰『龍作納言』、詩云『仲山甫王之喉舌』、秦政改称尚書、漢亦尊此官、典機密也)」、同書同巻引『漢官解詁』「(尚書は)堯・舜の時代は納言と呼ばれ、『周礼』では内史と記されている。機密を管理する官で、(天子や朝廷の)号令が発せられるところでもある(唐虞曰納言、周官為内史、機事所総、号令攸発)」。
 王のノドや舌である、という比喩は『漢官解詁』末尾の「号令が発せられるところ(号令攸発)」の一文から理解できよう。後文の注などで説明を加えていくように、尚書は詔書や上奏などの文書を伝送していた機関のみならず、文書の作成(詔書)をもおこなっていたところでもある。それはたんに下書きを清書するといったような事務ではなく、文章になっていないある政事内容・判断を文章化するのだから、当然それには比喩などをはじめとした高度な文飾表現の技法が求められるだろう。もちろん、実際の作成業務は下っ端(尚書郎)の担当だが、ともかく、尚書によって、天子の詔書は形をなし、公表されるわけなのだから、これなしではなにも言葉を発することができないというわけだ。上述の比喩はこうした役割を言っている。尚書は作文技術でメシを食っていたとも言えよう。[上に戻る]

[2]『太平御覧』巻212引『韋昭辯釈』「尚、上也、言最在上揔領之也、辯云、尚、猶奉也、百官言事当省案平処奉之、故曰尚書、尚食・尚方亦然」。[上に戻る]

[3]『太平御覧』巻211引『謝霊運晋書』「古者重武事、貴射御、取其捷御如僕、各置一人、尚書六人、謂之八座、参摂百揆、出納王命、古元凱之任也」。[上に戻る]

[4]「左右曹諸吏」は原文ママ。『漢書』百官公卿表・上に「侍中左右曹諸吏散騎中常侍、皆加官。・・・侍中、中常侍得入禁中、諸曹受尚書事、諸吏得挙法」とあり、「左右曹諸吏」で一つの官名のようにも読めるが、後文で加官を説明する際に、尚書の奏事を担当する「諸曹」と弾劾をつかさどる「諸吏」とに分割して説明されており、「左右曹諸吏」は「左右曹と諸吏」と読むべきであるようだ。諸吏も尚書の奏事を評議する職掌をになっていたことについては、米田健志「前漢後期における中朝と尚書――皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64-2、2005年)を参照。[上に戻る]

[5]『晋書』巻24職官志「録尚書、案漢武時、左右曹諸吏分平尚書奏事、知枢要者始領尚書事。張安世以車騎将軍、霍光以大将軍、王鳳以大司馬、師丹以左将軍並領尚書事。後漢章帝以太傅趙憙、太尉牟融並録尚書事。尚書有録名、蓋自憙・融始、亦西京領尚書之任、猶唐虞大麓之職也。和帝時、太尉鄧彪為太傅、録尚書事、位上公、在三公上、漢制遂以為常、毎少帝立則置太傅 録尚書事、猶古冢宰総己之義、薨輒罷之。自魏晋以後、亦公卿権重者為之」。
上で言及されている「尚書」の起源について、班固『漢書』ではたしかに王鳳を「尚書」と記述している。いわゆる二十四史の記述で検索するかぎり、『晋書』の指摘どおり、初出は後漢の趙憙と牟融である。『晋書』職官志は荀綽『晋百官表注』や傅暢『晋公卿礼秩』をもとに編纂されたと思われるが、沈約は何に拠って本文のような記述をしたのだろうか。これまでもたびたび指摘してきたつもりだが、沈約の百官志は何承天の『宋書』をベースにしている可能性が高いので何承天がこの記述を残した可能性も考えられるわけだが、いずれにしろ、荀綽『晋百官表注』や傅暢『晋公卿礼秩』が優先度の高い参考書であったわけではないのかもしれない。
 ついでなので、「領」と「録」はどう違うのかということについて。鎌田重雄氏は「領」は尚書の職務を全体統括すると捉え、後漢の「録」は前漢の「領」が法制化したものだと述べており、実質的な差異はないものと考えているようである。鎌田「漢代の尚書官――領尚書事と録尚書事を中心として」(『東洋史研究』26-4、1968年)参照。
 これに対し冨田健之氏は、「領」の事例を検討したうえで、「領」は皇帝がおこなう上奏の決裁など(=「尚書事」)を助けるだけで、尚書の組織や業務を掌握する身分ではなく、この点において、尚書組織の掌握者として行政を取り仕切る後漢の「録」とは異なると論じている。冨田健之「漢時代における尚書体制の形成とその意義」(『東洋史研究』45-2、1986年)。
 この「領」の理解は米田論文([4]前掲)もおそらくだいたい同じで、「尚書事」を「領(代行する)」とは、尚書の業務(文書の伝送・作成)を代行するのではなく、尚書から送られてきた文書を皇帝に代わって決裁する、と理解している。
 こうした領尚書事の姿の一端を示す史料としてしばしば引用されるのが、『漢書』巻74魏相伝「漢の慣習では、上書するときは必ず二枚作成し、そのうち一つを控えとする。尚書事は(上書を受け取ったら)まず控えの封を切って(内容をチェックし)、内容がよくなければ却下し、上書を皇帝に上奏しない(故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏)」。
 という具合に仮説が提出されている。とくに冨田説は氏の全体的な主張から理解する必要があるのだが、つまり「尚書事」の内容が「領」と「録」では異なっていると見ているのだ。「領」で代行するのは尚書の業務ではなく皇帝の尚書関連業務であり、「録」が管轄するのは尚書の業務になっているが、両者のやっていることに懸隔の差異があるのではない。こうした主張の基礎になっているのは、尚書の業務内容が時代を降るにつれて徐々に変化したということ、尚書が上書の内容を判断しはじめるようになった(から「録」すれば行政の中心になることができた)、ということである。近年ではこのような尚書像事態に疑問が向けられているが(後述)、それにともなって「録尚書」の新しい解釈が出てきたというわけでもない(管見の限り)。しいて言えば、後漢の「録」も冨田説の「領」と同じ意味なんじゃない?くらいは言えるかもしれん。[上に戻る]

[6]咸康ではなく咸和の誤りだろう。荀崧は咸和三年に、陸曄は咸和年間に没したことが各列伝に見えている。王導と陸曄は明帝の遺詔・顧命を受けたメンバーで、その際に録尚書事を与えられたことが確認できる(王導は成帝紀、陸曄は列伝)。荀崧は顧命こそ受けていないようだが、明帝崩御時に録尚書に任じられ、王導らとともに幼少の成帝を支えたという。というふうに、何充の言うとおりに確認はできたが、「六條事」の記述は確認ができなかった。[上に戻る]

[7]誰かわかる人がいたら、沈約がどういう計算で24にいたったのかを教えてくれないか・・・。
 まず沈約によれば、「三録」というのは條を均等に三等分したのではない。もしそうであれば3×6條で18條となるわけだが、それだったら王導だけ「録其一」と書くのは不自然である。「三録」は「三人の録尚書」をたんに意味しているだけだろう。沈約はこのように理解しているはずで、わたしもそれほど異論がない。
 で、沈約は当時の王導の立場も踏まえてのことだろうが、何充のあの表現は「荀崧と陸曄の録より王導の担当のほうが多い」と解釈しているようで、それがなぜか「王導の担当分は荀崧と陸曄の二人分に相当する」と計算したようだ。どうしてそうなった。
 なお、東晋は「二録」で、置くたびに「六條事」と言っているから全部で十二條だ、という話は、かなり怪しいにもかかわらず、ありうる。中央研究院で検索してみればわかるように、東晋穆帝以後は「録尚書六條事」がかなり目立つし、きっちり確認はしていないが、二人の録尚書を常任させている(一人が亡くなったら一人を追加で任命する)。なのでまあ、ありうる。
 でもそんなことはどうでもよくて、本当に24なのかが気になって仕方がない。なぜなの?
 ところでこの疑問とは別に、そもそも「六條」は何を指しているのかという問題も出てくる。矢野主税氏は「六條」は「六曹」のことと解し、要するに尚書のなかの六つの部署(「六曹」)を管轄するとしている。また、「録尚書事」は「録尚書○條事」と「総録」の二種があり、後者は全体統括者としてランクが高いが、東晋時代の尚書の曹は総数6(=列曹4~5+僕射1~2)だったので(したがって、矢野氏は沈約の12條解釈を退け、二人で六曹を担当したのだと解釈している)、「六條事」も実質的には全体の統括をおこなっていたと、かなり曖昧な結論を出している。どうしてそうなったかというと、史料の表記の仕方が混乱気味で、同一人物について、あっちでは「録尚書」、こっちには「総録」、そっちには「録六條」となってしまっている場合があり、よくわからんのである。なお、「録尚書六條事」は東晋時代には官名の一つとして定着しているフシがある。実際に「六條」を担当していかは別として。矢野主税「録尚書事と吏部尚書」(『史学研究』100、1967年)。
 すっきりしない部分が残るとはいえ、「條」の解釈についてはおおむね矢野氏の線で理解するほうがよさそうである。となると、二人いるから全体で十二條というのは軽率な計算になるだろう。[上に戻る]

[8]張華については、『太平御覧』巻210引『傅暢故事』「何劭、王戎、張華、裴楷、楊済、和嶠為愍懐太傅、通省尚書事。張華為光録大夫、尚書七條事、皆諮而後行」とある。庾亮は唐修『晋書』列伝に「録尚書事」になったと記されている。[上に戻る]

[9]唐修『晋書』列伝によると、二度「録尚書」になっている。[上に戻る]

[10]『太平御覧』巻210引『沈約宋書』「公で尚書事を録すのはいにしえの制度である。王粛は『尚書』舜典の『納于大麓』を解釈し、『堯は舜を顕貴の官に登用し、天下の政治を大録させた』と読んでいる(のがその証左である)。考えるに、漢は(当初)諸吏に尚書奏事を担当させていたが、のちに霍光を大司馬大将軍の位につかせたまま尚書奏事をおこなわせた。(以降、公の身分でもって尚書事をつかさどるのが通常となった。)諸公録尚書事、古制也、王粛解尚書『納于大麓』曰、『堯納舜於尊顕之官、使大録万機之政』。案漢氏諸吏平尚書奏事、後霍光以大司馬・大将軍平尚書事」。赤字は佚文?[上に戻る]

[11]時代は降るが、梁・天監七年の令では、いわゆる「四征将軍」あたりまでの上位の将軍号が「重号将軍」に分類されている。晋制でいうと四平将軍あたり以上に当たる。だいたい「三品将軍」や「金紫将軍」のことを指すと考えても良いかもしれない。[上に戻る]

[12]『続漢書』百官志3・本注「(尚書僕射は)尚書全般の業務を担当し、尚書令が不在の場合は章奏の上奏や詔令の下達などあらゆる仕事をおこなう(署尚書事、令不在則奏下衆事)」、同劉昭注引『蔡質漢儀』「僕射は(もともと)門を閉じることを職掌としていたが、(のちに)食糧や貨幣の支給関連の業務を担当するようになった(僕射主封門、掌授廩仮銭穀」、同劉昭注「臣昭案、献帝分置左右僕射、建安四年以栄邵為尚書左僕射、是也」。
 職掌に挙げられている「食糧や貨幣の支給関連の業務を担当する掌授廩仮銭穀」は本文でのちに引く『漢官儀』にも記されている。また曹魏以降は選部(吏部)尚書を兼任することもあったらしい。『太平御覧』巻211引『斉職儀』「魏朝以尚書僕射毛玠領選部曹。晋武以僕射領吏曹。後依擬至今或領焉」。
 左右の関係については、『晋書』職官志「尚書僕射の服飾、秩石、印綬は尚書令と同じである。調べてみるに、漢はもともと尚書僕射を一人置いていただけだが、漢の献帝の建安四年に執金吾の栄郃を尚書左僕射を置いた。尚書僕射が左右に分かれて置かれたのが、これが最初である。魏、西晋、東晋まで、(尚書僕射は)廃されたり置かれたり一定しなかったが、二人置く場合は左右を置き、一人だけ置く場合はたんに尚書僕射と呼んだ。(左右の僕射はいるけども)尚書令が不在の場合は左僕射が尚書省の主任となり、もし(尚書令が不在でさらに)左右の僕射も不在の場合は、尚書僕射を置き、左僕射の仕事を担当させる(服秩印綬与令同。案漢本置一人、至漢献帝建安四年、以執金吾栄郃為尚書左僕射、僕射分置左右、蓋自此始。経魏至晋、迄於江左、省置無恒、置二、則為左右僕射、或不両置、但曰尚書僕射。令闕、則左為省主、若左右並闕、則置尚書僕射以主左事」。これによると左僕射のがえらかったらしい。
 ただ宋代では事情が違ったようで、『通典』に「宋の尚書僕射は右が優越して左が下位であり、右僕射は尚書令と左僕射の中間に位置した。僕射は法令を護持するのが仕事で、二人置かれた場合は左右とも法令の護持をなした。また列曹尚書と同様、曹の管轄もおこない、不法の摘発も職務とした(宋尚書僕射勝右減左、右居二者之間。僕射職為執法、置二則為左右執法。又与尚書分領諸曹、兼掌弾挙)」。[上に戻る]

[13]尚書令については特別に言及がないが、要するに尚書のボス以外に書くことが特にないのだろうと思われる。尚書令は漢代以来、千石、銅印墨綬、魏以降はその秩石印綬に似合わず三品、この官位は劉宋でも同様。なお『続漢書』百官志3・本注には「武帝は宦官を(尚書に)登用し、(尚書令を)中書謁者令に改称した。(しかし)成帝は士大夫を(尚書令に)登用し、名称を旧来のもの(=尚書)に戻した。(尚書令)は官吏の任命や上奏、(天子の)令の下達などの文書業務全般を職掌とした(武帝用宦者、更為中書謁者令、成帝用士人、復故。掌凡選署及奏下尚書曹文書衆事)」ともあり、武帝のときは宦官を就けていたらしい。
 魏晋のころの尚書令に関する佚文に、『太平御覧』巻210引『晋公卿礼秩』「尚書令、拝受命、皆策命、薨則於朝堂発哀、古之冢宰、以在端右故也」がある。
 よく知られているように、尚書は後漢ころから権力が目立つようになり、魏晋になると尚書省が九卿に代わって実質的な行政機関となったとされている。『通典』は「後漢の政務はすべて尚書に集まり、三公はたんに決まった仕事を受けるだけであった(後漢衆務、悉帰尚書、三公但受成事而已)」、「魏晋以降、尚書の職務は枢要を担うようになり、大小あらゆる業務が尚書令と尚書僕射に帰した(魏晋以下、任総機衡、事無大小、咸帰令僕)」と記述している。この尚書省も中書省が出てくると、これまた権力が剥落していったようで、『通典』に「魏は中書省を設け、中書監と中書令を置くと、中書が枢要の職務を遂行するようになり、尚書の権力は徐々に失われていった(魏置中書省、有監・令、遂掌機衡之任、而尚書之権漸減矣)」。
 研究上においても、これまでは上述の理解に沿って尚書の研究がおこなわれてきており、例えば冨田健之氏は漢代にかけて徐々に尚書を中心とした国政運営が形成されたことを論じているが(「後漢前半期における皇帝支配と尚書体制」〔『東洋学報』81-4、2000年〕など。氏は尚書中心の行政運営を「尚書体制」と呼んでいる)、近年では尚書の役割を必要以上に強調し過ぎているとの批判が出てきており、例えば渡邉将智氏は、尚書の業務はあくまで文書の伝達であって政策形成に直接関与するものではなく、政策形成をおこなう公・卿などの官衙、それに可否をくだす皇帝とのあいだを動くのであって、それぞれが連携して動くことで政策が実現されるのだという、全体的な観点から尚書の位置づけを試みており、尚書一極支配の視点を相対化している。かかる視点は宮崎市定氏の「連合艦隊」という比喩を想起させるもので、傾聴すべき見解であると同時に、妥当な意見であると思われる。渡邉「後漢洛陽城における皇帝・諸官の政治空間」(『史学雑誌』119-12、2010年)など、また米田論文([4]前掲)も参照。
 しかし、魏晋から東晋にかけて、その肝心の公卿の仕事がほとんどなくなっていくというのも事実らしいので、後代になってどうして尚書が台頭して卿は相対的に低くなったのか、高望みではあるが、そのあたりの展望も聞きたいところである。[上に戻る]

[14]『漢書』では、成帝ははじめ五人を設けたとの記述があり、その五人は常侍曹、二千石曹、戸曹、主客曹、三公曹としている。『漢書』巻10成帝紀・建始四年「四年春、罷中書宦官、初置尚書員五人」、同師古注「漢旧儀云、『尚書四人為四曹、常侍尚書主丞相御史事、二千石尚書主刺史二千石事、戸曹尚書主庶人上書事、主客尚書主外国事。成帝置五人、有三公曹、主断獄事』」。
 同様の記述をするのが『続漢書』百官志3・劉昭注引蔡質『漢儀』「(四曹のうちの一つは?)毎年の成績集計を管理する。三公尚書は二人で、三公の文書を担当する。吏曹尚書は選挙や祭祀を担当し、三公曹に所属する。霊帝の末年、(吏曹は選部に改められ、)梁鵠が選部尚書となった(典天下歳尽集課事。三公尚書二人、典三公文書。吏曹尚書典選挙齋祀、属三公曹。霊帝末、梁鵠為選部尚書)」。
 対して『晋書』職官志では、五人=僕射一人+列曹四人とし、のちに三公曹が加わって五曹になったと記している。「至成帝建始四年、罷中書宦者、又置尚書五人、一人為僕射、而四人分為四曹。・・・後成帝又置三公曹、主断獄、是為五曹」。鎌田氏や冨田氏をはじめ、先行研究ではこの『晋書』の記述を妥当と見ている。とすれば、本文の記述も妥当なんだね。なお三公曹の職掌については史料間で異同が生じているが、ようわからん。[上に戻る]

[15]『続漢書』百官志3・劉昭注引『漢旧儀』「亦云主刺史」。[上に戻る]

[16]『続漢書』百官志3・劉昭注引『蔡質漢儀』「常侍曹は常侍、黄門、御史関連の文書を担当する。光武帝は常侍曹を吏曹に改称した(主常侍黄門御史事、世祖改曰吏曹)」。常侍曹の記述は本文および『漢旧儀』([14]前引)と異なっている。整理すると、
 『宋書』『漢旧儀』→常侍曹:公卿  三公曹:断獄
 『漢儀』→常侍曹:侍官 三公曹:三公関連
 どうなんでしょう。[上に戻る]

[17]四曹から光武帝の改革にいたるまでの記述は『続漢書』本注の記述とほぼ同じ。[上に戻る]

[18]『続漢書』百官志3・本注「尚書左丞は吏と民からの上奏と騶伯史〔詳細不明〕を担当した(左丞主吏民章報及騶伯史)」。また晋代の左丞については、『太平御覧』巻213引『晋書百官表志注』「尚書左丞が担当するのは、尚書台内の禁令管理、宗廟や祭祀、朝廷の礼制、弾劾(?)、官吏の任命、近侍的案件に関する文書の検討、官吏の休暇についてである(左丞主台内禁令、宗廟祠祀、朝儀射制、弾案、選用署吏、稽近道、文書給仮)」。この記述は『晋書』職官志と多少の字の違いはあるものの、ほぼ同じ文章なのだが(というか『晋書』が『百官表注』を引用している)、『御覧』に引く『百官表注』のほうがより節略が少なく、正確に文意を読み取ることができるので、ここでは『百官表注』のほうを引用した。[上に戻る]

[19]『続漢書』百官志3・本注「尚書右丞は印綬の授与、筆記用具などの道具類の在庫関係を担当する(右丞仮署印綬、及紙筆墨諸財用庫藏)」、同劉昭注引『蔡質漢儀』「尚書右丞は尚書僕射と食糧や貨幣の支給関連の業務を担当し、尚書左丞と合わせてあらゆる事柄を管轄する(右丞与僕射対掌授廩仮銭穀、与左丞無所不統)」。
 [18]の左丞もそうだが、『宋書』本文は蔡質『漢儀』や応劭『漢官儀』と親和的だが、司馬彪の本注とはかなり食い違っている、というより司馬彪だけなんか違う。珍しい・・・かも。
 晋代の右丞については、『太平御覧』巻213引『晋書百官表志注』「尚書右丞が担当するのは、尚書台内の倉庫や建物(の管理)、(各所に支給する)道具の在庫整理と民への食糧支給、徴税、刑罰、武器、長期的案件に関する文書の検討、章・表・奏の上奏文書である(右丞主台内庫蔵廨舍、量物用多少、及廩賜民戸、租布、刑獄兵器、稽遠道文書、章表奏事)」。『晋書』職官志との関係は[18]と同様。宋代については『通典』「宋の尚書右丞は晋の制度を継承しつつ、さらに貨幣と穀物も担当するようになった(宋因之、而右丞亦主銭穀)」。
 なお『太平御覧』巻213引『宋書百官志』に「晋宋の時代、尚書左丞は尚書台内の禁令、宗廟や祭祀、朝廷の礼制、官吏の任命関連の文書を担当し、(さらに)不法を摘発し、いみはばかることがなかった(晋宋之世、左丞主台内禁令、宗廟祠祀、朝儀礼制、選用署吏、糺諸不法、無所廻避)」、同引同書に「尚書右丞は尚書台内の倉庫、用具類、建物、刑罰、武器関連の文書を担当した(右丞掌台内庫蔵、凡諸器物、廨舎、刑獄兵器)」と、ほぼ『晋書』職官志の記述と重なる文章が引用されている(『初学記』巻11にも同じく引用)。佚文の可能性あり。[上に戻る]

[20]ここに引用された応劭『漢官儀』の記述は『続漢書』百官志3・劉昭注に引く蔡質『漢儀』と重なるものが多い。[上に戻る]

[21]『晋書』職官志「祠部尚書は右僕射と職務が重なっているので、つねに置かれるわけではなく、(置かれない場合は)右僕射に職務を担当させる。右僕射が不在の場合は、祠部尚書に右僕射の仕事をおこなわせる(祠部尚書常与右僕射通職、不恒置、以右僕射摂之、若右僕射闕、則以祠部尚書摂知右事)」。[上に戻る]

[22]『太平御覧』巻210引『斉職儀』「秦漢の時代、政治は公や卿が担い、尚書の仕事はといえば、(尚書令は)上奏や(天子の)令に封をしたり(?)、文書(作成)の補助といった業務で、僕射は門の開閉管理、尚書令が不在の場合は僕射が代わりにおこなった。(降って)魏は尚書八座の官を重視したので、尚書の仕事が秦漢の六卿に等しくなった。かつて舜は八元八凱の賢人を登用し、朝命を隆盛させたが、現在(南斉?)では尚書八座をその(八)元(八)凱になぞらえ、賢人や有能な者が(正しく)要務を担うこと、かつての舜の時代の再現であると言い合っている(秦漢之世、委政公卿、尚書之職、掌封奏令賛文書、僕射主開閉、令不在則僕射奏下其事。魏氏重内職八座、尚書任同六卿、舜挙八元八凱、以隆唐朝、今号八座為元凱、謂賢能用事義如昔也)」。[上に戻る]

[23]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎四人、一主匈奴単于営部、一主羌夷吏民、一主天下戸口・田墾作、一主銭帛・貢献・委輸」。ここに引用された『漢儀』の文章とほぼ同じ。[上に戻る]

[24]『通典』「(尚書郎は)文書の作成を職掌とする。五十歳未満の孝廉合格者から登用するが、(その際には)まず箋や奏などの上奏文作成を試験に出し、出来の良い者を選抜する(主作文書起草、取孝廉年未五十、先試箋奏、選有吏能者為之」。
 記憶が曖昧だが、漢代、郡国から孝廉に察挙された者は、光禄勲所属下の三署の郎中に任命され、そこでしばらく勤務したのち、県令などの官へ移っていき、出世街道を進んでいったはずである。三署郎中ではなくいきなり尚書郎に任命された者は、とびきり優秀か、文書の作成業務に優れていたか、どっちかだろうけど詳しくはわからない。なお、ここでは尚書郎の候補者に五十歳未満の孝廉しか書かれていないが、[25]で引用する『漢儀』にあるように、エリート官僚の卵として三署で育成された郎中もまた、尚書郎の候補者だった。
 ここで言われている文書の作成とは、あらかじめできあがっている文章の下書きを清書するとかそういうものではなく、内容は決まっているが表現は決まっていないもの、文章になっていないものを綺麗な文章に仕上げるのが彼らの仕事だったのではないかと想像される。文章の作成能力が試験されたのはそのためだろう。字が書ければそれで十分ではなかったのだ。彼らの作成する文章には詔や令、すなわち皇帝が下す文章がまず挙げられるが、そのほかの文章、例えば官僚から皇帝に奉ずる章・表・奏はさすがに彼らが作成したものではないだろう、それらに関しては官僚から提出された文章の伝送、校閲に限られていた・・・はずだと思うのだが、上引の『通典』には「箋」や「奏」の作成を試験に出してるんだよね・・・。勉強不足なのでそこまではわかりません。[上に戻る]

[25]『続漢書』百官志3・劉昭注引『蔡質漢儀』「尚書郎は三署〔五官中郎、左中郎、右中郎のこと〕の郎が尚書台の試験を受けて選抜される。就任当初は守尚書郎と呼ばれるが、一年経つと尚書郎、三年経つと侍郎と呼ばれるようになる(尚書郎初従三署詣台試、初上台称守尚書郎、中歳満称尚書郎、三年称侍郎」。『通典』はこの文章につづけて、「五年で大県の県令に異動する。県令となって任期が満了し、(つづけて?)県令を希望する者には(?)、(朝廷の)三万銭と三台〔尚書台、御史台、謁者台〕の保有している銭を天子から下賜したが、その他の官(を希望した者)の場合は下賜しなかった。吏部曹の郎は激務だったが、飛び級で昇進する者が多かった。鄭弘は僕射に就くと、尚書台の(郎の)職務は重要なのだが俸禄が低く、活き活きと働いている者がいない、(五年勤務した)尚書郎を二千石に就けて欲しい、と上奏した。これ以後、二千石に就けられるようになった五歳遷大県。其遷為県令、県令秩満自占県、詔書賜銭三万与三台租銭、余官則否。吏部典劇、多超遷者。鄭弘為僕射、奏以台職任尊而賞薄、人無楽者、請使郎補二千石、自此始也)」。
 引用文末尾のことにかんして、前引の『蔡質漢儀』に、尚書郎は「二千石や刺史に飛び級で昇進する(劇遷二千石或刺史)」とあるので、刺史になることもあったらしい。優秀なやつは守相か刺史、一般的には県令、ということなのだろう。[上に戻る]

[26]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎は文書の作成を職掌とする。仕事の際は建礼門内の尚書台に五日間宿直する(尚書郎、主作文書起草、夜更直五日於建礼門内)」、『通典』「尚書八座は(天子から?)決定した政務を知らされると、それを郎に下し、詔書を書かせ、それを発布する(八座受成事、決於郎、下筆為詔策、出言為詔命)」。
 渡邉氏の宮城図([13]前掲論文)によると、後漢の尚書台は洛陽宮城の南宮に復元されている。[上に戻る]

[27]『漢書』百官公卿表・上・師古注「太官主膳食、湯官主餅餌」。太官、湯官とも前後漢では少府の属官だが、魏晋では異動を重ね、劉宋期には太官が門下省の所属(『宋書』百官志・下に記述有)、湯官はわからん状態。[上に戻る]

[28]『後漢書』列伝31鍾離意伝李賢注引『蔡質漢儀』「尚書郎入直台中、官供新青縑白綾被、或錦被、昼夜更宿、帷帳画、通中枕。臥旃蓐、冬夏隨時改易。太官供食、五日一美食、下天子一等。尚書伯使一人、女侍二人、皆選端正者。伯使従至止車門還、女侍吏絜被服、執香鑪燒燻、従入台中、給使護衣服」。本文よりやや詳しくなった感じの記述。また本文では名前だけ出てた伯使についてもちゃんと書かれている。「止車門」は宮城と禁中の境になる門のことらしい。伯使は基本的に尚書郎にずっと侍っているが、尚書郎が皇帝に上奏する際、禁中に入ることは許されなかった、ということだろうか。後漢洛陽城の宮城図については、[13]前掲の渡邉論文を参照。[上に戻る]

[29]『初学記』巻11引応劭『漢官儀』「尚書郎含鶏舌香、伏奏事、黄門郎対揖跪受、故称尚書郎懐香握蘭、趨走丹墀」。[上に戻る]

[30]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎、給青縑・白綾被以錦被、帷帳・氈褥・通中枕、太官供食、湯官供〔麦+并〕餌・五熟果実、下天子一等級、尚書史二人、女侍史二人、選端正従直、女侍執香鑪焼薫、従入台護衣、奏事明光殿、省皆胡粉塗画古賢人・烈女、郎握蘭含香、趣走丹墀、奏事黄門郎、与対揖、天子五時賜服、若郎処曹二年、賜遷二千石・刺史」。本文のここの記述とほぼ同じ。どうやらこの箇所の本文は蔡質『漢儀』([28])や応劭『漢官儀』を引き写した内容であるらしい。[上に戻る]

[31]中華書局の校勘記も指摘しているが、ここの「十七曹」は計算としても数が合ってないし、後文の記述とも齟齬が生じる。[上に戻る]

[32]『通典』によれば、桓玄が即位した際に賊曹に改称された。[上に戻る]

[33]『通典』「魏の黄初年間以降、秘書が中書に改称され、中書に通事郎が置かれ、詔書(などの文書)の起草を担当するようにな(り、尚書の仕事が奪われた形にな)ったが、それでも尚書郎は依然、二十三人置かれていた。しかし漢代のような職務ではなかった。・・・(魏の時代は)尚書郎が一人欠員になるたび、孝廉で作文能力のある者五人を試験し、合格者の姓名を封をした上奏文で天子に報告し、欠員を埋める。晋の尚書郎は、爽快な美男子が選抜されたので、将来の大臣と呼ばれていた。・・・晋代は三十五の曹が置かれていたが、郎中は二十三人だったので、一人が複数の曹を担当していた。・・・東晋以後、尚書郎の官資(ランク?)は下がった(魏自黄初、改秘書為中書、置通事郎、掌詔草、而尚書郎有二十三人、非復漢時職任。・・・毎一郎缼、白試諸孝廉能結文案者五人、謹封奏其姓名以補之。晋尚書郎、選極清美、号為大臣之副。・・・為三十五曹、置郎中二十三人、更相統摂。・・・自過江之後、官資小減」。
 どう仕事が変化したのかはわからない。[上に戻る]

[34]『続漢書』百官志3・尚書僕射・劉昭注引『蔡質漢儀』「公、卿、将軍、大夫、校尉が(宮中の)複道〔二階建式の通路〕で尚書僕射・左右丞・郎、御史中丞・侍御史に偶然すれちがいそうになったときは、車をわきに避けて道を空ける。衛士が尚書台・御史台の官とすれ違わないように調整し、台官が通り過ぎてから進むことができる凡三公・列卿・将・大夫・五営校尉行復道中、遇尚書僕射・左右丞・郎・御史中丞・侍御史、皆避車豫相迴避。衛士伝不得迕台官、台官過後乃得去)」、同尚書郎・劉昭注引『蔡質漢儀』「御史中丞が尚書丞・郎と偶然すれちがいそうになったときは、車をわきに避けて、朝笏を手にしてその場に止まり、拱手の礼をとる。尚書丞・郎は車に座ったまま、手を挙げて返礼する。車が遠くに行ってから、ようやく進むことができる。列曹尚書が左右の丞に報告するときは(?)、『あえて詔書律令の通りに申し上げます』と必ず言う。尚書郎が左右の丞に会うときは、互いに拱手の礼をとるが、敬意の品物を贈る必要はなく、(丞のことを)左君、右君と呼んだ。丞と郎が列曹尚書に会うときは、朝笏を持って互いに拱手の礼をとり、(列曹尚書のことを)明時と呼ぶ。(丞と郎が?)尚書令と僕射に会うときは、朝笏を持って拝礼し、祝いのあいさつを述べ、互いに拱手の礼をかわす御史中丞遇尚書丞・郎、避車執板住揖、丞・郎坐車挙手礼之、車過遠乃去。尚書言左右丞、敢告知如詔書律令。郎見左右丞、対揖無敬、称曰左右君。丞・郎見尚書、執板対揖、称曰明時。見令・僕射、執板拜、朝賀対揖)」。
 『漢儀』の文章について、想定されているシチュエーションは複道での接触なわけだが、後漢洛陽宮城における複道は北宮と南宮を結ぶ通路であったらしい。尚書が禁中に入れることは注[28]で示唆したおいたし、渡邉将智氏もまたそのように指摘しているが、これに対して公卿などの官は皇帝からのお呼び出しがない限り、基本的には禁中に入ることができないものと考えられる。つまり、複道で出会うケースは稀であると想定される。
 また後漢の尚書台が南宮にあったらしいことは前述したが([26]および渡邉[13]前掲論文)、尚書が複道を恒常的に使用していたのだとすれば、尚書は複道を渡って南宮から北宮に行き、皇帝から上奏の決済判断、皇帝への上奏をおこなっていたと考えることもできよう。[上に戻る]

[35]『太平御覧』巻213引『斉職儀』「自魏晋宋斉、正令史・書令史、皆有品秩、朱衣執板、進賢一梁冠」。[上に戻る]

[36]『太平御覧』巻213引『漢官儀』「『蒼頡篇』〔漢代に広く流通した字の教科書〕を修得した者は蘭台令史に任命され、そこから一年で尚書令史に、さらに一年で尚書郎に昇進し、その後は尚書郎同様、県令になる。尚書郎と尚書令史は仕事を分担しておこなう。尚書令史が僕射と列曹に会うときは、朝笏を持って拝礼し、丞・郎に会うときは朝笏を持って拱手の礼をとる能通蒼頡史篇、補蘭台令史、満歳補尚書令史、満歳為尚書郎、出亦与郎同、宰百里、郎与令史分職受書、令史見僕射・尚書、執板拝、見丞・郎、執板揖)」、まあここで言われている『漢儀』の文章とは違うけど、関連があるってことで。『通典』「(尚書令史は)すべて蘭台や符節台で熟練した者を就けさせる。尚書郎は当初、尚書令史とともに文書業務を担当しており、同じ仕事をおこなっていた。尚書郎に欠員が出ると、長く務めている令史を郎に任ずる。光武帝が(令史には)孝廉を登用するように定めると、孝廉たちは(令史に就くことを)恥とした。漢代では、任期が来ると尚書郎は県令に任じられ、令史は県丞や県尉に任じられた。・・・(晋のときに)賈充が尚書令となると、彼は目の病気だったので、省事〔「事を省(み)る」の意〕の吏四人を設けたいと上表した。以後、尚書は省事を置くようになった。省事の官品と職掌は令史と同じである(皆選蘭台符節簡練有吏能者為之、其尚書郎初与令史皆主文簿、其職一也。郎缼、以令史久次者補之。光武始革用孝廉、孝廉耻焉。旧制、尚書郎限満補県長、令史補丞尉。・・・賈充為尚書令、以目疾、表置省事吏四人、尚書置省事、自此始也、其品職与諸曹令史同)」。[上に戻る]

[37]『通典』巻22・職官典4・歴代都事主事令史「晋には尚書都令史が八人置かれていた。秩は二百石、左右の丞とともに尚書台の業務全般を職掌とする。宋と斉では八人、梁では五人で、五都令史と言われた。職掌は晋代と変わらない(晋有尚書都令史八人、秩二百石、与左右丞総知都台事。宋斉八人、梁五人、謂之五都令史、職与晋同)」。都令史は令史のボスみたいな官だと思ってたけど、その理解でいいのかどうか、この記述では判断しにくいね。[上に戻る]

[38]『通典』「この組織を総称して尚書台と言う。あるいは中台とも呼ぶ。重要な案件は八座全員の連名で合意を取るが、もし合意が取れない場合、(賛成できない八座の者は)異議を申し立てることができる。・・・宋では尚書寺と言った。建礼門の内側に位置していた。尚書省、内台とも呼んだ。八座が尚書寺に出勤するときは、その門生も入ることができるのだが、制限人数は官によって違っている。ただし門生のなかに士〔貴族?みたいな?〕を含むことはできない。すべての尚書官は、重罪の場合は免官とし、小さな罪の場合は追放となる。追放されて百日の間、補充の人員が見つからなければ、復帰が許可される。尚書令と僕射は、御史中将と同様、分道制〔他の官僚とは違う道路を使用しなければならないことか、[34]参照〕を適用された。尚書令と僕射はそれぞれ威儀〔禁軍の兵士?〕十八人を支給した。晋以降、八座や尚書郎が上奏業務をおこなうことは少なくなった(総謂之尚書台、亦謂之中台。大事八座連名、而有不合、得建異議。・・・宋曰尚書寺、居建礼門内、亦曰尚書省、亦謂之内台。毎八座以下入寺、門生随入者各有差、不得雑以人士。凡尚書官、大罪則免、小罪遣出。遣出者百日無代人、聴還本職。其令及二僕射出行分道之制、与中丞同。令・僕各給威儀十八人。自晋以後、八座及郎中多不奏事)」。
 尚書寺があったとされる建礼門は建康宮城の東端にあったらしい。宮城図は渡辺信一郎『中国古代の王権と天下秩序――日中比較史の視点から』(校倉書房、2003年)p. 152などを参照。
 なお、上の『通典』の文章はやけに宋代の内容が詳しい。『太平御覧』巻212を見ると、「宋書曰、尚書官大罪則免、小罪則出、出者百日無代人、聴還本職」と、『通典』とほぼ同一の文章が見えており、上引の『通典』の文章は『宋書』百官志の佚文である可能性が高いと思われる。
 また『通典』にも記録されていない規定として、『太平御覧』巻212引『宋志』に、「尚書令(?)が三公に面会する際、および尚書丞と郎が尚書令・僕射・列曹に面会する際は、どちらも門の外で車から下り、くつをはいたまま門をまたぎ、そうしてからくつを脱いでしまう(令朝士詣三公、尚書丞郎詣令・僕射・尚書、並門外下車、履度門閫、乃納履)」というものがある(どの場所(門)での面会のことなのかはよくわからない)。こちらも百官志の佚文である可能性がある。[上に戻る]

[39]『通典』巻25職官典7・衛尉卿・武庫令「両漢曰武庫令、属執金吾。・・・魏晋因之、晋後属衛尉。宋斉武庫令丞、属尚書庫部」。本文の説明と若干異なる。[上に戻る]

[40]『続漢書』百官志三・少府卿・上林苑令「天子の苑囿に生息している動物を管理する。また、しばしば民の住居があるので、その場合は住居管理もおこなう。(官吏が?住民が?)動物を捕獲した場合は太官に送る(主苑中禽獣、頗有民居、皆主之、捕得其獣送太官)」。[上に戻る]

[41]ここの材官将軍は雑号将軍のそれとはおそらく別であろう。・・・おそらく。
『通典』巻27職官典9・将作監・左右校署に「魏は左校と右校を材官(校尉)に合併した。晋では左校、右校は少府に所属していた。宋以後は左校の令と丞が置かれていた(魏併左校・右校於材官、晋左右校属少府、宋以後並有左校令・丞)」とあり、本文の説明とはだいぶ異なっている。どちらが妥当か判断がつきにくい。[上に戻る]