2013年10月12日土曜日

石勒ファミリー

 石勒、と言えば、西晋末期から五胡初期を代表する人物であるが、彼は「匈奴」劉氏や巴氐李氏と違い、族的なバックボーンが皆無なところから勢力を形成したことでも著名であろう。
 だが載記などを読んでみると、ちょくちょく石氏が出てきてるじゃん?ってなるじゃん? そこでね、今回は石勒時代の石氏たちの素性を詳しく調べてみた。これで石勒ファミリーの全貌がわかるね!

石虎
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石虎字季龍、勒之従子。勒父朱幼而子之、故或謂之為勒弟。晋永興中、与勒相之[1]。嘉平元年、劉琨送勒母王及虎于葛陂、時年十七。

石虎は字を季龍といい、石勒の従子である。石勒の父の周葛朱が幼少の石虎を子として養ったので、石勒の弟とも言われることがある。晋の永興年間、石勒と生き別れた。嘉平元年、劉琨が石勒の母の王氏と石虎を(石勒の駐留していた)葛阪に送った。そのとき、石虎は十七歳であった。
『世説新語』言語篇注引『趙書』[2]
虎字季龍、勒従弟也。
敦煌発見「晋史」残巻[3]
従子虎。
 「従弟」か「従子」かで記述に多少の違いがある。「従弟」とはおそらく、父方の兄弟の子でありかつ石勒より年少、ということであろう。石勒の父親がわざわざ引き取って育て、石勒の弟のようにしたというのもそれならうなずける。他方、「従子」とは父方・母方の兄弟姉妹の子を言うこともあるそうだ(『漢辞海』)そうなると「従弟」とほとんど同じ意味だね。ちがいます(2020/8/13)。まあ、こういう場合に各史料を整合的に突き合わせるのはあんまりよくないとは思うのだけど、とりあえず石勒より年少であり、石勒と父あるいは母を同じくする兄弟というわけではなさそう、ということだけおさえられればよろしい。

石会
『晋書』巻104石勒載記上
時胡部大張〔勹+背〕督・馮莫突等擁衆数千、壁于上党、・・・勒於是命〔勹+背〕督為兄、賜姓石氏、名之曰会、言其遇己也。

ときに、胡部大の張〔勹+背〕督や馮莫突らが数千の衆を擁して、上党に自衛拠点を築いた。・・・(ここにやって来た石勒は張〔勹+背〕督らを自分に従うよう説得し、成功すると、)石勒はこうして張〔勹+背〕督を兄(?)とし、石氏を賜い、「会」と名付けた。「石勒と出会った」ことを意味している。
 石勒が劉淵に帰順する直前のこと、石勒は上党にいた「胡部大」の張らを説得した、「オレはすごいから、オレに従え」。こうして張らは石勒の指揮下に入り、石勒はこの手勢を引き連れて劉淵のところへ行ったのだという。で、このときに「胡部大」の張に石氏を賜い、「オレと会ったのも運命なんやで」という意味で「会」の名を授け、石勒の兄弟としたのだそうだ。「胡部大」は詳しくわからんが、まあ胡族の親分とかそんなもんでしょう。唐長孺氏だったかは忘れたが、誰かが「烏丸には張姓が多い」とかいうことで、この胡部大の張は烏丸であろうとか推測していた気がする。記憶違いかもしれんが。

石生
『太平御覧』巻326所引『二石偽事』[4]
劉曜躬領将士二十七万、大挙征勒、勒養子生為衛将軍、領三千人、鎮洛金墉城。

劉曜はみずから将兵二十七万を統率し、全軍挙げて石勒を討とうとした。石勒は養子の石生を衛将軍とし、三千人を統率させて、洛陽の金墉城に駐屯させた。
敦煌発見「晋史」残巻
晋人則程遐・徐光・朱表・韓攬・郭敬・石生・劉徴、旧族見用者河東裴憲・穎川荀綽・北地傅暢・京兆杜憲・楽安任播・清河崔淵。
 興味深い事例。『二石偽事』によると養子として見えている。石勒載記・下などでも、石生は劉曜攻撃の先鋒に立ち、洛陽金墉城に駐留しているので、『二石偽事』の「養子生」は他書に見える石生と同一人物と考えてよいだろう。さらに敦煌「晋史」残巻には登用された「晋人」の一人に「石生」の名が挙がっているが、もしこの「石生」が「養子の石生」と同一であったとすれば、石生は石勒の養子となった晋人であることになる。なんとまあ!(ちなみに「晋史」残巻に挙がっている晋人のなかには有名人もいますね。石氏の外戚となる程遐、石勒の懐刀であり牛医の家から出た徐光、若き日の石勒を評価し援助していた郭敬、おそらく十八騎の一人で曹嶷を滅ぼしたあとに青州刺史として活躍した劉徴、などなど)
 また、『晋書』巻105石勒載記・下・附石弘載記に、石勒没後のこと、石虎が政権を握る中途におけることとして、
時石生鎮関中、石朗鎮洛陽、皆起兵於二鎮。

当時、石生は関中に出鎮し、石朗は洛陽に出鎮していたが、両者とも各鎮所で挙兵した。
とか、『宋書』巻24天文志二には、
其年七月、石勒死、彭彪以譙、石生以長安、郭権以秦州、並帰従。於是遣督護高球率衆救彪、彪敗救退。又石虎、石斌攻滅生、権。

咸和八年の七月、石勒が死ぬと、彭彪が譙で、石生が長安で、郭権が秦州で、みな(東晋に)帰順した。こうして、(晋の朝廷は)督護の高救に軍を統率させて派遣し、彭彪を救援しようとしたが、彭彪は(石虎に)敗れたたため、高救も退却した。また石虎、(虎の子の)石斌が石生と郭権を攻め滅ぼした。
とある。石勒晩年から石弘時期にかけての石虎が権力を手中にする時期においては、石生は長安に出鎮しており、石虎に対し反発の挙兵を実行している。出鎮ということはその周辺地域に関する大権を有していたのだろう、養子とはいえそれなりの権力を委託されていたようだ。なお、洛陽にいたという石朗は素性不明。

石聡
『晋書』巻63李矩伝
石勒遣其養子悤襲默。

石勒は養子の悤を派遣して郭黙を襲撃させた。
 この記事、石勒載記・下は「石聡」に作っている。まあ通じる字なので、同一人物と見なしてよろしかろう。ということで、石聡は養子。
 石聡も石生同様、石虎に反発したらしい。『晋書』巻7成帝紀・咸和八年(西暦333年)七月の条に、
石勒死、子弘嗣偽位、其将石聡以譙来降。

石勒が死に、子の弘があとを継いだ。後趙の将軍の石聡は譙を挙げて(晋に)来降した。
とあり、同様の記事は『晋書』巻78孔愉伝附坦伝にも、
咸康元年、石聡寇歴陽、王導為大司馬、討之、請坦為司馬。会石勒新死、季龍専恣、石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。

咸康元年(335年)、石聡が歴陽を侵略してきたので、王導を大司馬とし、討伐させることにした。王導は孔坦を司馬にしたいと要請した。たまたま石勒が死に、石虎が横暴に振るまったので、石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。
とある。前掲の史料に見えていた譙の彭彪も登場している。石聡も譙で降ったという先の『晋書』成帝紀の記事も重視すれば・・・譙の太守は彭彪だけども、石聡は譙に出鎮していたのかもしれないね。
 だがしかし、この二つの史料、おかしいと思いませんか? 年代合ってないじゃん・・・っていう。成帝紀によれば、石聡は咸和八年に降っているのに、孔坦伝では咸康元年に攻めてきて、そんときに降ったことになっている。咸康元年の攻撃は成帝紀にも記事があるが、そこでは石虎が攻めて来た、とあるのみ。また、当時歴陽太守であった袁耽の伝には、「咸康年間の初め、石虎が游騎十余を率いて歴陽に来た。袁耽はそのことを上奏して報告したが、騎馬が少ないことは言わなかった。当時、夷狄の侵略が激しく、朝廷も原野も危惧していたので、王導は宰相の重責をになうゆえにみずから討伐したいと願い出た(咸康初、石季龍游騎十余匹至歴陽、耽上列不言騎少。時胡寇強盛、朝野危懼、王導以宰輔之重請自討之)」とある(『晋書』巻83袁瓌伝附耽伝)。ほんとうに石聡が攻めて来たんだろうか? 石聡は咸康元年より前に降ったんじゃないだろうか? よくよく見れば、『宋書』天文志二の記事でも、彭彪は咸和八年に降ったことになっているじゃん、石聡も同時期に降ったんじゃねーの? 孔坦伝の記事うそくさくねーか?
 なんでこんなにこだわるかというと、じつはかなり重要な史料が『晋書』孔坦伝に掲載されているからだ。孔坦が石聡に送ったという書簡である。
石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。坦与聡書曰、「・・・将軍出自名族、誕育洪冑。遭世多故、国傾家覆、生離親属、仮養異類。雖逼偽寵、将亦何頼。聞之者猶或有悼、況身嬰之、能不憤慨哉。非我族類、其心必異、誠反族帰正之秋、図義建功之日也。・・・」。

石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。孔坦は石聡に書簡を送った。「・・・将軍は名族の出身でございまして、立派な家にてお育ちになられました。不運なことに、非常な時期に遭われまして、国は傾き、家は転覆し、親族とは生き別れ、一時的に異民族に養われたそうですね。(現在、将軍は)夷狄の恩寵に促されて(後趙に仕えて)いるとはいえ、どうしてやつらの恩寵が頼りになりましょうか。(将軍のような過去を)聞いただけの者でもいたましく思うもの、ましてやご自分の身に降りかかったことでありますれば、憤慨せずにおられましょうや。『我が族類でなければ、その心は必ず異なる』(『左伝』成公四年)と言われておりますが、まこと、(いまこそ)本来の族に戻り、正しきところに帰るべきときであり、義のために功績を打ち立てるべき日なのです。・・・」。
 このあとも孔坦は、「石聡よ、オレたちに味方しろ」「これから水陸一斉に北上すんぜ」などと述べている。なので、咸康元年の王導による撃退計画が立てられていたらしい様子がうかがえる。
 それにしても興味深い書簡じゃないですか。石聡が名族かどうかは世辞の可能性もあるので知らんが、もともとは晋人であったことが明記されてるやん! すげええええええ! ともろ手を挙げたいけれども、先に述べたように、そもそも石聡は咸康元年に降ったのだろうか? もしそうではなく、それ以前の咸和八年に降ったいたとすれば、この書簡も含む孔坦伝の記事はウソだらけっていうことになる。妙に生々しい書簡だから信じたいのだけど・・・あああああああああああああ
 強いて不思議なのが、この孔坦の書簡は降ってくる石聡に宛てたものというより、まだ後趙にいる石聡に離叛を促しているように読めるんだよね。咸和八年に降ると言っておきながら、行動には移さず、譙にずっと留まったまま晋の言うことを聞いていなかった、とかそういう感じだろうか。わからないねえ・・・。
 石聡だけ長くなってしまったが、結論としては、彼は石勒の養子であるということだけは確実なんだろう[追記1]

石肇
『太平御覧』巻499所引『趙書』(おそらく田融『趙書』)
石肇、前石之昆弟也。前石既貴、肇在軍中不能自達、人送詣前石、前石哀之、拝建威将軍。以肇無才力、毎高選参佐輔之。為娉広川劉典兄女、肇甚懼之。拝長楽太守、治官、毎入門、動称「阿劉、教可爾、不可爾」、時人以為嗤謡。

石肇は石勒の兄弟である。石勒が高貴になったあと、石肇は軍中において自力で動くことができず、石勒のもとまで人に送ってきてもらった。石勒は哀れんで、建威将軍を授けた。石肇は才能も武力もからきしなので、(石勒は)いつも有能な輔佐を選んで助けさせた。(また石勒は)石肇のために広川の劉典の兄の娘を嫁に取ったが、石肇は恐れおののくだけであった。長楽太守に任じられた。公務をこなしているときは、(役所の?)門に入るたび、いつも「劉や劉や、これでいいのか、よくないのか、教えておくれ」と言っていた。当時の人々はこれを笑い話とした。
 石肇の記述はこれだけ。載記にも登場しない。こんなんじゃ登場せんわな・・・。

石挺
敦煌発見「晋史」残巻
従弟挺。
 『晋書』載記にもしばしば登場する石挺は従弟である可能性がある[追記2]

石樸
『晋書』巻33石苞伝附樸伝
苞曾孫樸字玄真、為人謹厚、無他材芸、没於胡。石勒以与樸同姓、倶出河北、引樸為宗室、特加優寵、位至司徒。

石苞の曾孫の樸は字を玄真という。人となりは慎み深く、温厚であったが、ほかに才能はなかった。夷狄の支配におちいった。石勒は石樸と同姓であり、ともに河北出身であることから、樸を招きよせて宗室とし、特別に恩寵を加えた。司徒にまで至った。
 石苞は西晋時代の人。金持ちで有名だね。それにしても石勒の思考単純すぎだろ・・・。

石瞻
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石閔字永曽、虎之養孫也。父瞻字弘武、本姓冉、名良、魏郡内黄人也。・・・勒破陳午於河内、獲贍、時年十二。・・・勒奇之曰、「此児壮健可嘉」。命虎子之。

石閔は字を永曽といい、石虎の養孫〔養子の子〕である。父の瞻は字を弘武という。もとの姓は冉、名は良といい、魏郡内黄の人である。・・・石勒が乞活の陳午を河内で破ったとき、石瞻を捕えた。当時、石瞻は十二歳であった。・・・石勒は石贍を高く評価し、「この子は壮健で見どころがある」と言い、石虎に子とするよう命じた。
 ご存じ冉閔の父親。石勒ではなく石虎の養子だが、まあ同じようなもんでしょ、石勒の命令だしね。石瞻は劉曜との最終決戦の際に戦死したようである(『晋書』巻103劉曜載記)
 石瞻はもとの名が「良」であったためか、「石良」と記述されることもあったらしい。例えば『晋書』巻6明帝紀・太寧三年の条「石勒将石良寇兗州、刺史檀贇力戦、死之」は、石勒載記・下では「石瞻攻陷晋兗州刺史檀斌于鄒山、斌死之」と記されている。

 ほか、石弘、石宏、石恢が石勒の子っぽい。石斌は石勒の子なのか石虎の子なのか不明確でよくわからないwikiによると、石勒の子で石虎の養子になったらしいが)。素性が不明なのは石泰、石同、石謙、石堪、石他。石泰、石同、石謙は一度しか出てこないのでさっぱり。石他は途中で登場しなくなり、手がかりがない(太寧三年に劉曜軍と戦闘により戦死。『晋書』劉曜載記、『資治通鑑』巻93太寧三年の条)。石堪は石勒没後、石虎に反発して殺害される。数年前のわたしのメモには「義兄弟か養子」とあるのだが、何を根拠にしているのか自分でもわからない・・・[5][追記3]

 ということでね、わたしの感覚では石勒時代の石姓は擬似血縁者が多いと思う。わたしのピックアップの仕方が恣意的だと思う方もおられようが、仮にそうであったとしても、「匈奴」劉氏や巴氐李氏と比べると、異様なくらいに疑似血縁者が目立つはずだ。だって劉氏や李氏にそんな人たちがここまで見られただろうか?
 単に疑似血縁者に過ぎないと軽視できないのがミソである。石樸伝にあるように、彼らもみな「宗室」扱い。石生のように出鎮という大権を委ねられることさえあった。石勒は勢力形成・拡大する過程において、晋人などをみずからの宗室扱いとしながら血縁集団を創出したわけで、彼らを中核とした集団形成を企図していたのであろう。石勒が劉曜から独立する際に述べたと言う次の言葉も、かかる文脈から理解すべきかもしれない。
孤兄弟之奉劉家、於人臣之道過矣。若微孤兄弟、豈能南面称朕哉。(『晋書』石勒載記・下)

孤(わたし)の兄弟が劉家に奉仕すること、人臣の道を過ぎるほどであった。もし孤の兄弟がいなければ、どうして南面して朕と称せただろうか。
 最初にこれを読んだとき、えっ、おまえ言うほど兄弟いたっけ? って思ったんだけど、たぶん義兄弟・養子も含めた疑似血縁者のことを言ってたんだろうね[6]。こういう兄弟関係の原理って種族的・習俗的特徴なのだろうか[7]。あんまりよく知りませんが。そう言えば、唐後半期からの藩鎮の時代では、節度使と幕府官との仮父子関係が人間関係の原理として特徴的だと、どこかで聞いたことがある。そんで藩鎮といえば、やはりソグド系などの中央アジア諸族、北方諸族の人々が多く混じっていたことが近年指摘されている。なんか突っついてみると面白そうね。
 附言すれば、この「兄弟」の原理、石勒集団内部だけでなく、外部集団と関係を結ぶときにも持ち出されたらしい。
『魏書』巻1序紀・平文帝三年の条
石勒自称趙王、遣使乞和、請為兄弟。帝斬其使以絶之。

石勒が趙王を自称すると、使者を派遣して(拓跋氏と)和解を求め、兄弟の関係になるよう願い出た。平文帝はその使者を斬って絶交した。
『晋書』石勒載記・上
遣石季龍盟就六眷于渚陽、結為兄弟。

(石勒は)石虎を派遣して、段就六眷と渚陽で盟約を結ばせ、兄弟とさせた。
 せっかく父ちゃんが「兄弟になろう」と言っているのに、あろうことかそれを拒絶した拓跋氏はアホとしか言いようがない。拓跋氏は永遠に許されない。やつらを許すな!


――注――

[1]『晋書』巻106石季龍載記・上は「之」を「失」に作る。『十六国春秋』だと、「永興年間に石勒と知り合った」。載記なら「永興年間に石勒と生き別れた」。まあ載記のが妥当かなあ。ということで、「失」に字を改めて翻訳しました。[上に戻る]

[2]『趙書』は①前燕・田融撰と、②呉篤撰の二種あることが知られているが、多くは①を指す。『隋書』巻33経籍志二に「『趙書』十巻 一曰『二石集』、記石勒事。偽燕太傅長史田融撰」とある。[上に戻る]

[3]羅振玉『鳴沙石室佚書正続編』(北京図書館出版社、2004年)所収。20世紀初頭に敦煌で発見された写本。書名は無いが、東晋・元帝期の記事が編年体で記されており、羅振玉氏は東晋・鄧粲『晋紀』の写本と推定した。これに対し、周一良氏は鄧粲『晋紀』ではなく、東晋・孫盛『晋陽秋』であるとしている。周一良「乞活考――西晋東晋間流民史之一頁」(『周一良集』第壱巻、魏晋南北朝史論、遼寧教育出版社、1998年)参照。
 近年、岩本篤志氏がこの残巻を詳細に検討し、①唐修『晋書』よりは古いが、『資治通鑑』には影響を与えておらず、北宋期には散佚していた可能性がある、②『晋陽秋』である可能性を退けることはできないが、別の晋史である可能性が高い、などと述べておられる。岩本「敦煌・吐魯番発見「晋史」写本残巻考――『晋陽秋』と唐修『晋書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』2、2005年)。なお同論文には、岩本氏が校訂した敦煌発見「晋史」残巻のテキストも掲載されているので、参照されたい。[上に戻る]

[4]『隋書』巻33経籍志二に「『二石偽治時事』二巻 王度撰」とあり、『旧唐書』巻46経籍志・上には「『二石偽事』六巻 王度・隋翽等撰」とある。『隋書』によると、王度は「晋北中郎参軍」で、『二石伝』(二巻)という書物も編纂している。『史通』巻12古今正史には、「その後、前燕の太傅長史の田融、宋の尚書庫部郎の郭仲産、北中郎参軍の王度が二石〔石勒と石虎のこと。石勒を「前石」、石虎を「後石」とも言う〕の事跡を記述し、編集して『鄴都記』『趙記』などの書物を作った(其後燕太傅長史田融・宋尚書庫部郎郭仲産・北中郎参軍王度撰二石事、集為鄴都記・趙記等書)」と、後趙関連の史書を記述した人物として名が見えている。『晋書』巻95芸術伝・仏図澄伝だと、「著作郎王度」が石虎期の記事に見えており、このことから内田吟風氏は、王度は当初は後趙に仕えていたが、のちに東晋に降ったのだろうと推測している。隋翽については全くの不明。内田「五胡時代匈奴系諸国史の編纂とその遺文」(『龍谷史壇』79、1981年)参照。[上に戻る]

[5]wikiでも旧姓は田で、石勒の養子とある。少し調べてみたところ、『十六国春秋』にそのような記述があるらしい。が、わたしの持っている『十六国春秋輯補』および『十六国春秋纂録校本』にはかかる記述は見られなかった。『十六国春秋』はややこしい本で、北魏の崔鴻によって編纂された編年体の史書(記録により異同があるが、おおよそ百巻前後)なのだが、北宋~南宋くらいにいったん散佚し、明代に復元が試みられた(屠喬孫本)。ただこの屠本は現在ではあまり使われない。現在おもに使用されているのは、清の湯球が当時流伝していた『十六国春秋纂録』(十六巻。屠本より以前に成立していたらしいが、どういう経緯で編纂されたのかは全く不明。『隋書』経籍志に記載のある『(十六国春秋)纂録』のことだとか、後人が百巻本をコンパクトにしたものとか、載記をまとめただけだとか言われているが、詳しくはわからんらしい。孫啓治ら編『古佚書輯本目録 附考證』中華書局、1997年、p. 161参照。)を校訂した『十六国春秋纂録校本』、『纂録』をベースにしつつ、『十六国春秋』の佚文や『晋書』載記などで大幅に記述を補った『十六国春秋輯補』、の二つである。わたしが見落とした可能性もあるが、この二つでは石堪に関する記述を見つけることができなかった。屠本に書いてあるのだろうか? 今後機会があったら調べます。→[追記3]を参照。[上に戻る]

[6]あるいは、これまで一緒に苦楽をともにしてきた仲間たち全員のことを「兄弟」と言っているのだろうか。だとしたら石勒父ちゃんマジあったけえ・・・。[上に戻る]

[7]石氏はソグド(石国=タシュケント)出身のソグド人とする説もあったりする(譚其驤氏の論文、題名は忘れた。。ほか羯族にかんしては内田吟風氏など多くの先行研究がある)。たしかに「深目」などの身体的特徴は中央アジア種族と似ているのだけども、ソグド人と見てしまうよりも、中央アジア系との混血種族と見たほうが無難であるらしい(町田隆吉「西晋時代の羯族とその社会」、『史境』4、1982年。三﨑良章『五胡十六国』東方書店、2002年、p. 62)。あんまり羯族に関してはわたしも詳しく調べてないので、こんなことぐらいしか知らないです。[上に戻る]


[追記1]記事をアップした後、『資治通鑑』をめくっていたら、石勒の死没直後の咸和八年七月の条に「後趙の将軍の石聡と譙郡太守の彭彪が、それぞれ(晋に)使者を派遣して降服した。〔胡注:石聡はこのとき譙城に出鎮していたのである〕。石聡はもともと晋人であるが、姓を石氏に変えたのである。晋朝廷は督護の喬球を派遣して救援させようとしたが、到着しないうちに、石聡らは石虎に誅殺されてしまった(趙将石聡及譙郡太守彭彪、各遣使来降。〔聡時鎮譙城。〕聡本晋人、冒姓石氏。朝廷遣督護喬球救之、未至、聡等為虎所誅)」とあった。[上に戻る]

[追記2]『資治通鑑』巻95咸和八年の条の胡注に「挺、虎之子」とあったのを見落としていた。胡三省が何をもとに言っているのかは知らんが。[上に戻る]

[追記3]『資治通鑑』巻95咸和八年の条に「石堪はもともと田氏の子であったが、しばしば功績を立てたので、石勒は彼を養子とした堪本田氏子、数有功、趙主勒養以為子」とありました。申し訳ない、見落としていました。唐修『晋書』などには記載のない、『資治通鑑』だけの独自の五胡十六国情報はおおよそ『十六国春秋』が出典だと思われるので、『十六国春秋』に基づいて司馬光がかかる記述をした可能性が高いだろう。[上に戻る]

2013年10月8日火曜日

新・三国時代――後趙・東晋・成漢

 後趙の石勒と徐光とのあいだに交わされたというつぎの問答、なかなか面白くない?(『晋書』巻105石勒載記・下・附弘載記)
 遐退告徐光曰、「主上向言如此、太子必危、将若之何」。光曰、「中山常切歯於吾二人、恐非但国危、亦為家禍、当為安国寧家之計、不可坐而受禍也」。
 光復承間言於勒曰、「陛下廓平八州、帝有海内、而神色不悦者何也」。
 勒曰、「呉蜀未平、書軌不一、司馬家猶不絶於丹楊、恐後之人将以吾為不応符籙。毎一思之、不覚見於神色」。
 光曰、「臣以陛下為憂腹心之患、而何暇更憂四支乎。何則、魏承漢運、為正朔帝王、劉備雖紹興巴蜀、亦不可謂漢不滅也。呉雖跨江東、豈有虧魏美。陛下既苞括二都、為中国帝王、彼司馬家児復何異玄德、李氏亦猶孫権。符籙不在陛下、竟欲安帰。此四支之軽患耳。中山王藉陛下指授神略、天下皆言其英武亜於陛下、兼其残暴多姦、見利 忘義、無伊霍之忠。父子爵位之重、勢傾王室。観其耿耿、常有不満之心。近於東宮曲讌、 有軽皇太子之色。陛下隠忍容之、臣恐陛下万年之後、宗廟必生荊棘、此心腹之重疾也、惟陛下図之」。勒黙然、而竟不従。

 程遐は退出すると、徐光に告げた、「主上〔石勒〕がさきほど、かくかくしかじかと言っていたのだが〔程遐が石勒に石虎を排斥するよう進言したところ、石虎はそんなやつじゃない、自分は太子を輔佐させるつもりだと程遐の勧めを却下したこと〕、(こうであっては)太子〔石弘〕は必ず危険だ。どうしようか?」。徐光、「中山王〔石虎〕はつねに我々二人に歯ぎしりして(嫌って)いるから、(石虎が輔佐に就けば)おそらくたんに国家の危難であるだけでなく、我々の家の禍ともなろう。国と家を安寧させる計略を案じなければならん。ただ黙って禍を受けるわけにはいかぬ」。
 徐光は機会をうかがって再度、石勒に言った、「陛下は八州〔九州=天下の表現を踏まえれば、「天下の九分の八」の意か〕を平定し、帝王となって天下を保有しておりますのに、顔色が喜ばしくないのはどうしてでしょうか?」。
 石勒、「呉と蜀がまだ平定されておらず、文字と車輪の幅が統一されていないし、司馬家はなお丹楊に復興しているから、おそらく後世の人はわたしを(天の)予兆に応じた者ではないとみなすだろう。いつもこのことを考えているから、不覚にも顔色に出てしまったのだろう」。
 徐光、「臣が思いますに、陛下は腹心のやまいを心配する必要があるのであって、四肢のけがを心配するお時間なぞございません。どうしてでしょうか。魏は漢の暦運を継承した正朔の帝王でございます。劉備は巴蜀で漢を復興させたとはいえ、(魏が漢を継いでいる以上、)漢が滅んでいないとは言えません。呉が江東に割拠していたとはいえ、魏の有利な点〔魏が漢を継承していること〕を損なってはおりません。陛下はすでに二都〔洛陽・長安〕を手中におさめ、中国〔中原〕の帝王となっております。かの司馬家の小僧は劉玄徳とどこが違いましょうか。(巴蜀の)李氏も孫権のようなものです。予兆が陛下になければ、最終的にどこに帰結しようというのでしょう。呉蜀のことは四肢の軽いけがのようなものに過ぎません。中山王は陛下が神のような策略を授けたことに頼っているだけですが、天下の者はみな中山王の英略武勇は陛下に次ぐと言っておりまして、加えて残虐で邪悪な行ないが多く、利を見れば義を忘れるような者ですから、伊尹や霍光のような忠誠はないでしょう。(現在)親子で爵位は高く、権勢は王室を傾けるほどであります。(だというのに、)中山王が心を落ち着けていないさまを観察するに、つねに不満の心を抱いているのでしょう。最近では東宮で宴会を催しましたときに、皇太子を軽視する様子が見られました。陛下が我慢して中山王をお許しになっても、臣は陛下の万年のち、宗廟に必ずいばらが生えるであろうことを心配しております。これが腹心の重病であります。陛下はこのことだけをお考えください」。石勒は黙ったが、ついに従わなかった。
 石勒晩年のお話で、石虎の処遇がメインなわけですが、まあここはそんなんいいじゃない。そんなことよりも、ちゃっかり垣間見えている正統観、あるいは歴史観の方が面白いじゃないですか。
 つまり、徐光は後趙=曹魏=中原の帝王だと見る。自分たちは前代の王朝を正式に継承した正朔の帝王だと述べている。そうである以上、前王朝の残党(東晋=蜀漢)だとか、一地方の群雄(成漢=孫呉)が割拠しようが、自分たちの正統はまったく揺るがない。こんなやつら放っておいたって、自分たちの正統は何ら傷つかないから無視で構わん、そんなことより石虎が・・・。そういうロジックなわけだ。
 ここに見られるように、徐光は当時の時代状況を三国時代に擬えている。そう言われると確かに、かなり酷似している。大陸がおおよそ中原・呉・蜀の三つに分割されていて・・・端っこに小勢力(張氏前涼、鮮卑慕容氏)がいるのもどことなく似ている。
 それだけじゃない、劉備のように司馬睿が王朝の復興を掲げて一地方に中興するという政治的状況まで一緒なのだ。まさに三国時代の再来。
 この天下三分が解消されるのは東晋の永和三年(西暦347年)、桓温が漢の李勢を降し、益州を支配域におさめたときであった。以後、前秦に益州を奪われたり、譙縦が益州で自立したりすることはあったものの、基本的には江南王朝が益州を保有することになる。前・三国時代では中原王朝が四川を得て、江南を平定したのだが、今度の三国時代は江南が四川を得てしまったために、なまじ分裂がなかなか収束しなかったとさえ言えるかもしんない(適当
 そういうことなんでね、「三国志」の続編とでも銘打って、「趙・晋・成(漢)」の三国鼎立でだれか書いてみない?

2013年9月29日日曜日

『建康実録』の東晋巻について

 この記事では『建康実録』について書こうと思う。なお簡単な書誌情報については別途、記事(「『建康実録』概要」)を作成したので、そちらを参照されたい。
 さてこの『建康実録』、成立が唐中期とやや古いためもあってか、歴史学的にはそれほど参照されることがないものなのだが、史学史的に見ると、注目すべき価値を持っているものなのだ。
 例えば、劉宋の巻。『建康実録』の劉宋の巻は、簡単に通読しただけでも沈約『宋書』とはかなり雰囲気が異なっていることが明らかなのである。具体的に言うと、地の文に「裴子野曰」と裴子野なる人物の論が挿入されていたり、劉宋の巻末にはその裴子野の総論・自序があったりする。で、この裴子野という人は何ものかというと、かの裴松之を曾祖父に、裴駰(『史記集解』)を祖父にもつ史学の申し子なのだ(生没年=宋・泰始5年(西暦469年)―梁・中大通2年(530年))。やばいっすね。裴子野には『宋略』という著作があったことが知られている。
 『宋略』は沈約『宋書』をベースにしつつ、コンパクト、かつ簡潔にまとめ直したものらしいが、裴子野の独自色も強く表れていたらしく、沈約は『宋略』を見て「こりゃかなわん」と言ったとか[1]、劉知幾も「裴子野のが沈約のより断然良い」なんて言ったりしている[2]。現在は散佚してしまい、諸書に佚文があるのみで、輯本も作られてない[3]
 その裴子野の「論」「総論」「自序」もしくは佚文が『建康実録』の劉宋巻に引用されてるんですよ! まじ!
 そういうこともあってか、劉宋巻は裴子野『宋略』が底本と使用されて編集されたのだと古くから言われており、史料的価値が注目されてきたのです[4]。すでに史学史では『宋略』=底本説が通説っぽくなっているのだけども[5]、まあ昨年色々あって巻11武帝紀を徐爰『宋書』(佚文)、沈約『宋書』、李延寿『南史』と比較検討しながら読んだのだが、やはり『建康実録』の物語のプロットは独自なものがあって、『宋略』をベースにして編集をしているという説も、巻11に限って言えばその通りなんじゃないかと思う。

 と、長くなってしまったが、今回はこんなことを言いたかったのではない。あくまで東晋巻について書くつもりなのだ。
 わたしが注目したいのはつぎの記事。
是歳、散騎常侍領著作孫綽卒。
綽字興公、太原郡人也。馮翊太守楚之子。永嘉喪乱、幼与兄統相携渡江。・・・卒、時年五十八。
 この記事は巻8簡文帝紀の咸安元年(371年)の条にある。以前に六朝期の編年体史書は、紀年(「経」)の間に「伝」を挿入する形式であったことを指摘したが(「六朝期における編年体史書」)、この記事もその例に漏れず、孫綽死没の記事のあとに孫綽の簡潔な列伝が記されている。この『建康実録』の記事によると、孫綽は咸安元年に享年58で没したということになる。すると生年は建興2年(314年)になろう。
 それがいったい何だねと思われようが、じつは唐修『晋書』には孫綽の没年が記されていないのである。なので、孫綽の生年なぞわかりようがなかったのだが、『建康実録』によって判明したのだ。お手柄だね!
 それだけじゃない、孫綽の生年が判明したことでもう一つわかりそうなのが、孫盛の生没年だ。上掲の孫綽の略歴にもあるように、彼は「永嘉の乱」の際に兄の孫統と長江を渡った。「永嘉の乱」というと、なんとなく洛陽が陥落した永嘉5年(311年)のことであろうと考えてしまう。が、「永嘉の乱」というのは非常にあいまいな用語で、建興4年の長安陥落までを含めて「永嘉の乱」と言うこともある。まあそこら辺は機会があったら記事にしましょう。
 だが、孫綽の生年が上述したとおりであるとすれば、かれが永嘉5年に長江を渡ることは不可能であり、孫氏兄弟の渡江は建興2年以降となりそうだ。さらに重要なことに、この孫氏兄弟の渡江には従弟の孫盛が同行していた。孫盛はそのとき10歳であったという(『晋書』巻82孫盛伝)。もし孫子兄弟の渡江が永嘉5年であるとすれば、孫盛の生没年は太安元年(302年)―寧康元年(373年)と簡単に計算できるのだが・・・現に先行研究ではそのように推測されてきた[6]。だが孫綽の生年が上述の通りであるとすると、孫盛のそのような生没年推測は成り立たないことになるのだ。! なんとまあ、孫綽の生没年がわかるだけで色々わかること!
 しかし問題は、『建康実録』の記事は信頼できるのか、ということだ。なにしろ成立は唐代なのだ、この記事は信頼できんのだと一蹴しようと思えばできんこともなさそうである(というかされた)。
 が、どうであろう。冒頭でわざわざ、『建康実録』の劉宋巻は沈約『宋書』や李延寿『南史』とは別系統の史書・裴子野『宋略』をベースにしている可能性が高いと言ったのは、他の巻でもその可能性が考えられるのではないかと言いたかったからだ。安田二郎氏が『建康実録』独自の文を全く信頼ならないものではなく、佚書『宋略』に基づく貴重な史料だと見なしたように、上の孫綽の記事も信頼に足らぬ記事ではなく、何らかの佚書からの文章であると考えるべきでないだろうか。例えばそう、東晋・徐広『晋紀』だとか劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』だとか。わたしはそういう可能性で考えるべきだし、少なくとも、『建康実録』の文が全くデタラメであるという根拠がない限り、『建康実録』の独自情報は無視すべきでないと思う。

 そういうわけで、わたしは劉宋巻にはもう飽きてしまったのだけど、逆に東晋巻にはたいへん興味を持っていて、いつか唐修『晋書』だとかと色々比較して、『建康実録』をしっかり分析してみたいなあと考えたりしてます。おわり

――注――

[1]『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒、子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其敘事評論多善、約見而歎曰、『吾弗逮也』。蘭陵蕭琛・北地傅昭・汝南周捨咸称重之」。[上に戻る]

[2]『史通』内篇・叙事「夫識宝者稀、知音蓋寡。近有裴子野『宋略』・王劭『斉志』、此二家者、並長於叙事、無愧古人」、同書外篇・古今正史「世之言宋史者、以裴略為上、沈書次之」など。そもそも劉知幾さんは編年体が好きだし、沈約が嫌いだったようで所々で悪口言ってるし、まあそういうとこもあって、裴子野>沈約と評価している印象もある。[上に戻る]

[3]佚文に関してはつぎの通り。
「論」(「裴子野曰」)→『建康実録』(巻11・12・14に複数)、『資治通鑑』(巻128(二つ有)・132・133)、『通典』(巻14・16・141)、『文苑英華』(巻754)。『建康実録』以外は厳可均『全梁文』巻53に収録されている。これらはわたしが実見したものだけに限っているが、ほか『長短経』という唐代の書物にも裴子野の「論」が引用されているという。詳しくは、周斌「『長短経』所引『宋略』史論的文献価値」(『史学史研究』2003-4)を参照。また「総論」に関しては、蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)で詳細な校勘がなされている。
佚文→『建康実録』(巻13に4条)
 そもそも『宋略』に限った話ではないのだが、散佚した宋史に関しては全く輯本が無い(『古佚書輯本目録』および『六朝史学』「佚書輯本目録」を確認した限りでは。ただ実見はしていないのだけども、周斌氏によると、唐燮軍「也論裴子野的『宋略』」(『史学史研究』2002-3)が『宋略』の輯佚・校注を行なっているらしい)。『太平御覧』等には、徐爰『宋書』(孝武帝年間成立。沈約『宋書』のベースになったと言われている。『太平御覧』『芸文類聚』の皇帝略歴の項目には、沈約ではなくこれが引かれている。おそらく北斉『修文殿御覧』の影響だろう)、王琰『宋春秋』なんかが引用されているのだけどね。とはいっても、「旧晋史」と比べれば圧倒的に佚文は少ないし、いたしかたない。[上に戻る]

[4]王鳴盛『十七史商搉』巻64「建康実録」、『四庫全書総目』巻50など。安田二郎氏は『建康実録』にしか見られない文章に着目し、それが唐の許嵩が勝手に書き込んだものではなく、裴子野『宋略』独自の文だと解釈することで、土断の新解釈を示されている(安田二郎『六朝政治史の研究』第十章、京都大学学術出版会、2003年)。『建康実録』が『宋略』ベースであれば、いくら唐代成立の書物であるとはいっても、南朝史研究に棄ておけない史料となるのである。[上に戻る]

[5]唐燮軍氏は、原注もしくは地の文にしばしば沈約『宋書』がママ引用されていることを指摘し、完全に『宋略』ベースではないとする。唐燮軍「辨『建康実録』記宋史全据『宋略』為藍本」(『中国史研究』2005-2)参照。いやまあ、代々「藍本」(底本)とわざわざ言われてきたのは、あくまでベースって話では? そりゃ完全な丸写しをしているなんて誰も思ってないだろうし、許嵩なりのアレンジはあるでしょう。そこに沈約や李延寿の文章が混じっていたって、当然なんじゃないかな。
 しかしながら、わたしも少し慎重に考えた方が良いかもしれないと思っている。裴子野の引用状況にはばらつきがあるからだ。最初の武帝紀、文帝紀にはけっこう「論」が見られるのに、それ以降はぱったりしてしまう。いったいどういうことだろうか。まだちゃんと全面的に検討してないので、いずれちゃんと調べてみたいね。[上に戻る]

[6]蜂屋邦夫「孫盛の歴史評と老子批判」(『東洋文化研究所紀要』81、1980年)p. 22、松岡栄志「孫盛伝(晋書)――ある六朝人の軌跡」(伊藤漱平編『中国の古典文学――作品選説』東京大学出版会、1981年)p. 33、喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1989年)「前言」p. 6、長谷川滋成『孫綽の研究――理想の「道」に憧れる詩人』(汲古書院、1999年)pp. 16-19参照。長谷川氏は上掲の『建康実録』の記事を引いて、これだと孫盛が永嘉4年に渡江することは不可能になるとしつつも、『建康実録』の記事は信頼できないとして棄却している。
 対して、『建康実録』の情報を積極的に活用したのが王建国氏で、氏は孫氏の渡江を長安が陥落した建興4年(316年)にかけ、孫盛の生没年を永嘉元年(307年)―太元3年(378年)と推定している。王建国「孫盛若干生平事迹及著述考辨」(『洛陽師範学院学報』2006‐3)参照。まあ別に建興4年にかける必要もない気はするけど、『建康実録』を無視した説よりは支持できる。[上に戻る]

『建康実録』概要

 『建康実録』という史書をご存知だろうか。コアな方なら知っておられようが、あまり一般での知名度は高くないはずだ。
 『建康実録』は「六朝」の事跡を叙述した史書のことである。具体的には、孫呉(巻1~4)、東晋(5~10)、劉宋(11~14)、南斉(15・16)、(17・18)、(19・20)。基本的には編年体だが、劉宋以降は列伝が附され、南斉・梁は完全に紀伝体となっている。孫呉や東晋の巻では、原注のような形で佚書が引用されることもしばしばある(特に建康に関する情報が豊富なことで有名)[1]。撰者は「序」で、
①「南朝六代」「東夏之事」を記載範囲とする
②「六朝君臣」の事跡については、必ずしも完備を追求しない
③「土地山川」「城池宮苑」については、その場所を明示する
④異聞は煩瑣にならない程度に注記しておく
などと述べている。
 撰者は唐の許嵩。その事跡は不明だが、『建康実録』巻10恭帝紀の末尾にある「案、東晋元帝即位太興元年、至唐至徳元年、合四百四十年」という記載から、玄宗・粛宗期の人だと考えられている。この許嵩、どうも建康に居住して、六朝時代の史跡を実見している可能性が高いようである。先も少し触れたように、建康関連の情報が豊富であることや、山川や宮城の場所を明記するという編纂方針からしても、そのことが推測されようし、『宋史』芸文志によると、許嵩は『六朝宮苑記』という書物も作っているようなので、地理関連に関してはなかなか豊かな知識を持っているようだ。
 しかし、そういう特徴=長所があるとはいえ、『建康実録』の評価は低い。後世での評価の主なものを箇条書きにしてみると、
・編年体なのか紀伝体なのか。体裁の不統一はちょっとなぁ・・・(群斉読書志、四庫総目)
・佚書を豊富に引いているのはよろしい(四庫総目)
・列伝の取捨選択のバランス悪い、李延寿にはるかに及ばない(王鳴盛)
・南斉・梁・陳の記述にやる気を感じられない
 一番最後は誰が言っていたか忘れてしまったが、まさしくその通り。はじめの孫呉、東晋まではかなり力の入った記述なんですよ、原注もたくさんつけているし。ところが、劉宋くらいから雲行きが怪しい。なんかテキトーに書いてんじゃねえのコイツ?みたいな雰囲気が漂い始め、南斉・梁・陳に関しては、(正確に検討はしていないけど)「正史」の本紀・列伝をコピペしただけ。なんともお粗末。全体を細かく検討したというわけではないので、根拠があまりない推測になってしまうが、『建康実録』は未完の書なんじゃないか、と思うことがある。本来は編年体で統一するつもりだったが、途中でやる気がなくなったかなんかで、結局紀伝体(=編集途中)のまま放置してしまった、みたいな。あるいは南斉・梁・陳に関しては、手本となる良質な編年体史書が無かったとか? いやそうだったら、自分で編集して編年体にまとめればいいじゃん、って結局そうなるのだけど[2]

 つぎに本について少しまとめておこう。じつは『建康実録』、上述したように一つの史書としては非常に中途半端であったためか、北宋の中ごろに伝えられていた本はすでにボロボロで、欠損や錯簡がひどく、読むのも困難であったらしい。そこで北宋の嘉祐3年(西暦1058年)に校訂が行なわれ、翌年に完了し[3]、一応の版本ができた。この北宋嘉祐本は現存こそしていないものの、このあとに成立した本の系統の祖本であるらしい。もちろん、この北宋本で欠損や錯簡が完全に復元されたわけではない。最新の本でも残欠が残っていたり、読みづらい箇所が多々あったりするのも、北宋本以来、もうどうしようもないところなのだろう。
 現存で最も古い本は「紹興十八年(1148年)」の記載がある南宋紹興本(刊刻本)である。北宋本を継承したと思われるが、かなり誤りが多いらしい。その他にも色々本はあるのだけど、とりあえず現在最も利便な本は、張忱石氏が校訂した『建康実録』上・下(中華書局、1986年)である。これは清の光緒28年(1902年)に刊行された清光緒甘氏本を底本とし、その他現存する刊刻本・鈔本(写本)をほぼ全て参照して校勘、さらに正史や『資治通鑑』などの関連史書も利用して校訂したという。[4]
 要するに本にまで触れておいて何が言いたかったのかというと、『建康実録』は祖本となる北宋本以来、残欠や錯簡があり、不完全な書物である、ということが言いたかった。


――注――

[1]佚文の蒐集家として著名な厳可均、湯球も『建康実録』の佚文だけは蒐集していない。なので、「全文」や「八家旧晋書」の輯本だけで満足しないように。ちなみに最近出版された『三十国春秋輯本』(湯球輯、呉振清校注、天津古籍出版社、2009年)は、湯球が集め損ねた『建康実録』原注引用の『三十国春秋』を集め直してある。[上に戻る]

[2]安田二郎氏も、「体例の不純一つ取っても、もしも許嵩が再度見直して余裕をもって対処したら、調整、補訂が十分できるミスや欠陥だったのではないでしょうか。・・・何らかの切迫した事情があり、慌ただしく書かざるを得なかった書物ではないかと考えられてくるのです。」「序文で『歴史的事実は正史に質し』などと大書しているのに、実際には基礎的、基本的知識のないまま、しかも正史をきちんと読みもせず、ノリとハサミで大急ぎで書き上げた体の書物であり、第一次的草稿としか言いようのないように思われます。」と述べている。安田二郎「許嵩と『建康実録』」(『六朝学術学会報』7、2006年)pp. 127, 129 参照(強調は筆者)。[上に戻る]

[3]『建康実録』最後の巻である巻20の末尾に「江甯府嘉祐三年十一月開造『建康実録』、並按三国志、東西晋書并南北史校勘、至嘉祐四年五月畢工、凡ニ十巻、揔二十五万七千五百七十七字、計一千策」とある。『三国志』だとか他の史書を参照しつつ、校訂を行なったらしい。なお原文の書き方として、ここで言及されている「晋書」や「南北史」は、唐修『晋書』や李延寿の「南北史」を指す固有名詞ではなく、「西晋と東晋の史書ならびに南朝・北朝の史書」のことを言っているのかもしれない(そのように解釈すれば、沈約『宋書』、蕭子顕『南斉書』も「南北史」に含まれることになる)。[上に戻る]

[4]以上、『建康実録』の基礎的内容や版本情報は、張氏テキストの上巻「点校説明」を主に参照した。[上に戻る]

2013年9月23日月曜日

太宰と太師が並置できるってまじ?

 昨日の太宰に関する記事を出したあと、ツイッターで次のような指摘を頂いた。


 さっそく見てみると、『晋書』巻111慕容暐載記に以下のような記事がある。
升平四年、僭即皇帝位、大赦境内、改元曰建熙、立其母可足渾氏為皇太后。以慕容恪 為太宰・録尚書、行周公事。慕容評為太傅、副賛朝政。慕輿根為太師。・・・

升平四年、(慕容暐は)僭越にも皇帝の位についた。支配領域内に大赦を下し、建煕と改元し、母の可足渾氏を皇太后に立てた。慕容恪を太宰・録尚書とし、行周公事[1]とした。慕容評を太傅とし、朝政を輔佐させた。慕輿根を太師とした。・・・
 確かに並置されている・・・!
 そしてこの指摘を受けて思い出したのだが、匈奴劉氏の漢も太宰と太師が並置されているのだ。
粲誅其太宰・上洛王劉景、太師・昌国公劉顗、大司馬・済南王劉驥、大司徒・斉王劉勱等。(『晋書』巻102劉聡載記)

劉粲は太宰の上洛王劉景、太師の昌国公劉顗、大司馬の済南王劉驥、大司徒の斉王劉勱らを誅殺した。
 もうっ、匈奴ったらあほたむだなぁっ! くらいにしか思ってなかった。そりゃそうだろう、「太宰=太師の別称」説に立っていれば、こんなん無知にしか思えん。しかも非漢族政権ときたもんだから、まあ無知でもしょうがなかろうと考えてしまう。
 が、しかし先日の記事で指摘したように、『斉職儀』に記されている説=「太宰は単に『周礼』に従って置いただけで、諱を避けるために太師の代わりとして置いたわけではない」という話を信じれば、これら五胡政権の並置は何ら不思議なことではなくなるのだ。だって、そもそも太宰は太師の別称ではないし、太宰と太師とは全く別の独立した役職ということになるのだから。
 それに、つい五胡政権だから中国官制に無知だろうなんて思ってしまうけれど、こうした中国式制度の確立・整備をするためには、漢人知識人の力が必要だ。というか彼ら漢人ブレーンによってほとんど構築されているに違いなかろう。もし「太宰=太師」であるというのなら、彼ら漢人ブレーンがそんな単純なミスを犯すとも思えない。という風に考えると、「太宰=太師」説というのはかなり胡散臭く思えないだろうか。

 ということで、別に決定的な根拠があるわけではないが、わたしは「太宰とは、諱を避けるために太師の代わりとして置かれた官職である」という説を棄却し、「『周礼』に従って設けた官職であって、太師とは関係なく置かれた」説を採用しようと思う。沈約さん、あんたまちがってるで、あんたの採用した説が俗説なんや!(ドヤ


――注――

[1]周公のような権限あげますということ。周公は太宰であったと伝えられているから(『漢書』王莽伝・上、『宋書』百官志・上など)、その故事を意識して太宰と行周公事をセットで与えたのだろう。[上に戻る]

2013年9月22日日曜日

太宰ってさあ・・・

 Wikiより引用。
晋において再度太師、太傅、太保を置いたが、「師」が景帝司馬師の諱であることから避けて太師を太宰と称した。
 このWikiの記述は『宋書』百官志・上に基づいているようだ。本ブログの訳注より引用。
太宰は一人。周の武王のとき、周公旦が初めてこれに就任し、国の政治を掌り、六卿の第一位であった。秦、漢、魏は置かなかった。晋の初め、『周礼』に拠って三公を設置した。三公の官職では太師が第一位であったが、景帝の諱が「師」であったため、太宰を置いて太師の代わりとした。
 わたしもすっかりそうなんだろうと思っていた。けれど、訳注作成中に記事を整理していたところ、訳注でも紹介した『斉職儀』に次のようにあるじゃありませんか。
太宰品第一、金章紫綬、佩山玄玉。・・・秦漢魏無其職、晋武以従祖安平王孚為太宰。安平薨、省。咸寧四年又置。或謂、本太師之職、避景帝諱、改為大宰。〔或謂、太宰、周之卿位、〕晋武依周、置職以尊安平、非避諱也元興中、恭帝為太宰桓玄都督中外、博士徐豁議、太宰非武官、不応都督、遂従豁議。(『太平御覧』巻206引)

太宰の官品は一、金の章・紫色の綬で、山玄玉を佩く。・・・秦・漢・魏には置かれなかったが、晋の武帝は従祖の安平王孚を太宰とした。安平王孚が薨ずると、(太宰を)廃した。咸寧四年にまた置いた。一説に、元来は「太師」であったが、景帝の諱を避けて、「太宰」に改められたと言う。また別の一説に、太宰は周の卿であり、晋は周に倣って「太宰」を置き、安平王孚を(それに任じることで)尊重したのであって、諱を避けたわけではないと言う晋の元興年間、恭帝は太宰の桓玄を都督中外諸軍事にしようとしたが、博士の徐豁が議して、太宰は武官でないから都督中外諸軍事は相応しくないとしたため、ついに徐豁の議に従っ(て桓玄を都督中外にしなかっ)た
 諱を避けたわけでも何でもなく、単に西晋王朝の周回帰志向から太宰が置かれたという[1]まあたしかに、太(大)宰は『周礼』に出てくるが、太師は出てこない。(『周礼』にそのままの字句で登場こそしないが、春官に師氏があるのでこういうふうに言うのは問題ありであった。というわけで訂正する。――2016年8月9日)全くのデタラメとも言い難い。
 そもそもこの『斉職儀』とは何か。『隋書』経籍志二には二つの『斉職儀』が掲載されている。一つが南斉の王珪之の撰で五十巻、もう一つが撰者不明の五巻[2]。王珪之は琅邪王氏の一人で、『南斉書』巻52文学伝、『南史』巻24王准之伝に附伝が設けられており、それらに『斉職儀』編纂のことも明記してある。後者の撰者不明のやつは、五十巻本のダイジェスト版とかかもしれんね。
 内容については、次の『南斉書』の附伝の記述を参照いただきたい。
永明九年、其子中軍参軍顥上啓曰、「臣亡父故長水校尉珪之、藉素為基、依儒習性。以宋元徽二年、被敕使纂集古設官歴代分職、凡在墳策、必尽詳究。是以等級掌司、咸加編録、黜陟遷補、〔悉〕該研記、述章服之差、兼冠佩之飾。属値啓運、軌度惟新、故太宰臣淵奉宣敕旨、使速洗正、刊定未畢、臣私門凶禍。不揆庸微、謹冒啓上、凡五十巻、謂之斉職儀。仰希永升天閣、長銘祕府」。詔付祕閣。

永明九年(西暦491年)、王珪之の子である中軍参軍の顥が上申した、「臣の亡父である、もと長水校尉の珪之は、飾り立てずに本心のままに在り、儒学を拠りどころとして習慣にしていました。宋の元微二年(474年)、勅命を受け、過去に置かれた官職や歴代の職務(の変遷)をまとめること、古籍の記述にあるものはすべて、必ず網羅することを命じられました。こうして、(官職の)位の階級や職掌は、すべて記述され、(時代に伴う官の位の)上下の移動や変更、追加も万遍なく調査して記録し、(さらに官の)印章や服装の等級、冠と佩玉の装飾品(の差異)も記しましたちょうど革命の時期にあたり、車輪の幅と度量衡が改まり(天下が一新し)ましたので、もと太宰の褚淵が勅使を伝えて参りまして、急ぎ整理して校正するようにとのことでしたが、校正が終わらないうちに、臣の家に不幸が襲ってきたのでした。不才ではございますが、ここにつつしんで申し上げたく存じます。全てで五十巻、『斉職儀』と申します。永代まで朝廷の秘閣に所蔵されますことをお願い申し上げます」。詔が下り、秘閣に所蔵された。
 南斉の官職について述べたものではなく、南斉の時期に朝廷に収められたから『斉職儀』と名付けられたのだろう。内容や編纂方針としては『宋書』百官志とそれほど変わらないように思える。
 だとすれば不思議なのが、どうして沈約は先の太宰にまつわるエピソードを一つ採用、一つリジェクトしたのだろうか。沈約は建元四年(482年)に最初の『宋書』編纂の勅旨を下され、永明六年(488年)に本紀・列伝を完成させ、謹上した。志に関してはその後、梁の初めころに完成したと見られている(中華書局標点本の「出版説明」)。とすれば、沈約が『斉職儀』を見ていなかったということは考えにくい。むしろ、司馬彪『続漢書』の志の続編を目指して編纂された何承天『宋書』の志の、その後継たらんとする沈約であれば(『宋書』巻11志序)、宋一代に留まらない志の編纂を方針にしていたはずであって、歴代の沿革を概述したと言う『斉職儀』はまたとない手本に成り得たはずなのだから、参照しないというのは余計に考えにくいところがある。
 まあどこだったかは忘れてしまったが、博学の沈約さんは「俗説」と判断したものはわりと簡単に切ってしててしまったりしてるところがあるし、「太宰は諱を避けたわけではない」説もそういう感じで切り捨てられてしまったんだろうか。

 集めた史料を改めて見ていると、こういう発見がたまにあるもんだからなかなか。ブログのアクセス数的には『宋書』百官志訳注はオワ記事だけど、今回のこういう収穫があったので満足。


――注――

[1]小林聡先生、渡邉義浩先生などがそういった傾向を指摘・強調していたように思う。[上に戻る]

[2]『旧唐書』経籍志・上だと撰者が范曄になっているが、これはありえない、誤りだろう。范曄には『百官階次』という官職関連の著述がいちおうあるけどね。[上に戻る]