2013年12月28日土曜日

変人たちの列伝=独行列伝

『後漢書』列伝71独行列伝・序
 孔子は言った、「中庸を得た人と行動をともにできないのであれば、異常な理想家か偏狭な者と交わるべきだ」と。また「理想家はひたすら求めつづけ、偏狭な者は何もしないことを心得ている」とも言っている。これらの者たちはおよそ、完全なる道を失した者たちであり、かたよった端っこ(の一方)を採用しているのであろう。しかしながら、何もしないことを心得ているというのは、一方では(何もしないことをしなければならないという意味で)必ずしなければならないことがあるということだろう。ひたすら求めるとは言っても、一方では(あることだけを求めてほかのことはすべて投げうつという意味で)求めないということなのかもしれない。このように、心の尊重することがらはそれぞれ分かれているのであって、為すべきことと行なわざるべきこととは、(それぞれで)適切さが異なっているのである。
 中世の偏った行ないをする一介の人で、名声を立て方正を確立できた者は、これまた多かった。ある者は志の強さが金石のようで、強力な敵をも(ひるまずに)拒み、ある者は意志が厳冬の霜のように激しく、ちっぽけな信義にも喜びを感じた。また人と友好を結んで、昼夜心を共有する者たちもいれば、義を実践することにとりわけ厳しく、死と生が節義において等しくなるとみなす者もいた。その事跡はくまなく伝えられているわけではないとはいえ、まことにその風格の跡は慕うに足るものがある。しかし実際の事跡は特に整理されていないので、秩序を立てて記述することは難しく、(また)ちょっとした記録に特別なおもむきがあるのであって、独立させて列伝を立てる分量には不足している。彼らを捨ててしまえば事柄に遺漏があることになり、記録すれば体裁の秩序が失われてしまう。名実とも格別であるのに、その節義と行ないがともに絶えてしまうことを恐れるので、まとめあわせて独行の列伝をつくることとする。願わくは、欠文を補って、(前史の)遺漏を記録しておきたい。(孔子曰、「与其不得中庸、必也狂狷乎」。又云、「狂者進取、狷者有所不為也」。此蓋失於周全之道、而取諸偏至之端者也。然則有所不為、亦将有所必為者矣。既云進取、亦将有所不取者矣。如此、性尚分流、為否異適矣。中世偏行一介之夫、能成名立方者、蓋亦衆也。或志剛金石、而剋扞於強禦。或意厳冬霜、而甘心於小諒。亦有結朋協好、幽明共心。蹈義陵険、死生等節。雖事非通円、良其風軌有足懐者。而情迹殊雑、難為條品。片辞特趣、不足区別。措之則事或有遺、載之則貫序無統。以其名体雖殊、而操行俱絶、故総為独行篇焉。庶備諸闕文、紀志漏脱云爾。)

 范曄の論のなかでも名文として知られている(はずの)独行列伝・序を訳出してみました。できれば、わたしも普通の感覚なら記載しないような、クズみたいなものたちに価値を見出してみたいですね。

 本当は宋書百官志訳注の続きを更新しようと思ったのですが、光禄勲を調べたらたいへん面倒なことがわかったのでやめました。
 今年の更新はこれで最後です。ただの自己満足・虚栄心のかたまりのような文章ばかりでしたが、お読みいただいてありがとうございました。時々感想をいただけたりするのはとても嬉しかったですし、励みになりました。たとえ読者は少なくても、読んでくださる人を楽しませることができたら、それでわたしは満足でございます。
 どうぞ来年もご愛顧くださいますよう。

幸福のイメージのなかには、救済のイメージが、絶対に譲り渡せぬものとして共振している。歴史が事とする過去のイメージについても、事情は同じである。過去はある秘められた索引を伴っていて、それは過去に、救済(解放)への道を指示している。実際また、かつて在りし人びとの周りに漂っていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺(こだま)が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのない姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。だとすれば、私たちはこの地上に、期待を担って生きてきているのだ。だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。この要求を生半可に片づけるわけにはいかない。
――ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」テーゼⅡ

范曄やばない?

言葉によって意図が伝わり、文飾によって言葉が生きる。言葉にしなければ、意図は誰にも伝わらない。言葉にしても文飾がなければ、相手に伝わりはするが印象には残らない。(言以足志、文以足言。不言誰知其志。言之無文、行而不遠。)
――『春秋左氏伝』襄公25年


 ちょっと史通を読んでたら久々に書く気になったので。

『史通』巻四論賛
 司馬遷は自序伝の最後に一つずつ各巻を挙げ、それぞれの意図を書き記した。(司馬遷は散文体であったのだが、)やがて班固はそれを詩風の韻文体に改め、「述」と称した。范曄は「述」を「賛」に改めた。ほどなく、彼らの述や賛は史書の体例となり、巻ごとに一つ書かれるようになったが、事柄が多い巻は要約されて(相対的に)少ない文章となり、内容が空虚な巻は誇張されて(相対的に)多い文章となってしまっているので、形式と内実が乖離し、(巻の内容と賛の内容とで)詳細さと簡略さが符合していない。それに人の善悪や歴史上の褒貶を知ろうとするうえで、この形式を利用する必要もなかろう。
 とはいっても、班固は述をすべてまとめて叙伝のうちに記し、一貫した筋道を立てた形式にしたので、その文章は見やすくて読むに足る。范曄『後漢書』の賛は実際のところ(多くの部分を)班固に倣っているが、(ただ班固とは違い)賛を各本伝にくっつけ、各巻末に書いたので、巻の題目と乖離し(?)、ばらばらに置かれているので秩序もない。しかし、范曄以後の作者はこの間違いに気づかなかった。例えば蕭子顕『南斉書』、李百薬『北斉書』、それに大唐が新たに編纂した『晋書』は、すべて范曄の間違った体裁にもとづき、巻末に賛を置いている。そもそも、巻ごとに論を立てるだけでも煩雑このうえないのに、論に続けて賛を置くとなると、見苦しくてしょうがない。(馬遷自序伝後、歴写諸篇、各叙其意。既而班固変為詩体、号之曰述。范曄改彼述名、呼之以賛。尋述賛為例、篇有一章、事多者則約之使少、理寡者則張之令大、名実多爽、詳略不同。且欲観人之善悪、史之褒貶、蓋無仮於此也。然固之総述合在一篇、使其条貫有序、歴然可閲。蔚宗後書、実同班氏、乃各附本事、書於巻末、篇目相離、断絶失次。而後生作者不悟其非、如蕭・李、南・北斉史、大唐新修晋史、皆依范書誤本、篇終有賛。夫毎巻立論、其煩已多、而嗣論以賛、為黷弥甚。)
 
同巻序例
 孔安国は「序とは作者の意図を述べるためのものである」と言っている。思うに、『尚書』には典や謨(などの体裁の篇)があり、『詩』には比や興(などの比喩)が含まれているから、もし最初に序がなければ、それらの文章の意味をちょっとでも理解することが困難であったろう。そのため、篇ごとに序が書かれ、その意味が述べられたのである。くだって『史記』、『漢書』になると、事柄の記述が中心となったので(すべての巻に序をつくることはしなくなったが)、表、志、雑伝にかんしては、しばしば序を立て(それらを制作した意図を述べ)たのである。その文章は華美でありながらも史書の体裁を(壊さずに)兼ね備えており、述べていることは諸子百家のようであって、(序の設けられた列伝は)『尚書』の誥や誓(といった諸篇)、『詩』の風や雅に等しいと言えるだろう。・・・
 范曄にいたって、そうした書き方ははじめて改められ、史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった。范曄以後の作者もみなこれに倣った。かくして司馬遷、班固の方法はここに途切れ、精緻で隠微に富んだ書き方も廃れていった。例えば(『後漢書』の)后妃列伝、列女伝、文苑列伝、儒林列伝といった類の列伝においては、范曄は必ず序を立てた。いったい、世の作者というのは、前代の史書(の志や列伝)にはあるのに自分の書(の志や列伝)だけにはないことを恥じるものである。そのため、晋、宋から陳、隋にいたるまで、伝を書くたびに序を立て、序を書いた数で評価が決まるほどであった。そもそも、史書を書く根本というのは、過去のことを現在に伝えることなのであるが、前代の史書にすでに序があるというのに、どうして現代の作者たちも(わざわざ)序を書く必要があろうか。(ある志や雑伝を制作する意図はすでに前代によって明らかに述べられているではないか。)(ある志や列伝に)一番最初に立てられた序は、見るべきところがあろう。だが屋上屋に重ねたもの(、すなわちそれ以後に同じ題目の志や列伝に立てられた序)にかんしては、まったくの無駄である。(孔安国有云、序者所以叙作者之意也。竊以書典謨、詩含比興、若不先叙其意、難以曲得其情。故毎篇有序、敷暢厥義。降逮史漢、以記事為宗、至於表志雑伝、亦時復立序。文兼史体、状若子書、然可与誥誓相参、風雅斉列矣。・・・爰洎范曄、始革其流、遺棄史才、矜衒文彩。後来所作、他皆若斯。於是遷固之道忽諸、微婉之風替矣。若乃后妃・列女・文苑・儒林、凡此之流、范氏莫不列序。夫前史所有、而我書独無、世之作者、以為恥愧。故上自晋宋、下及陳隋、毎書必序、課成其数。蓋為史之道、以古伝今、古既有之、今何為者。濫觴肇迹、容或可観、累屋重架、無乃太甚。)

同巻題目
 前代の史書の列伝を見てみるに、巻の題名には一定の決まりがない。(ある程度の規則としては、)文字が簡単な人にかんしては姓名を書く、例えば司馬相如、東方朔。文字がめんどうな人にかんしては姓だけを書く、例えば毋将、蓋、陳、衛、諸葛。(同じ巻に列伝を立てる)人が多くなると、(同巻で)同姓の者がいる場合もでてくる。そのときはまとめ合わせて数を記す、例えば二袁、四張、二公孫。この規則に従えば、十分いきとどくであろう。
 (ところが)范曄の規則となると、人はすべて姓名をともに書くようになったので、短い行となった巻〔人が少ない巻〕がまばらにあり、字を通常より細くした巻〔人が多い巻〕がわらわらとあるありさま。子孫で附伝した者は(逐一)祖先の名の下に注記している。こんなものは世の公文書目録、薬草の解説に類するようなもので、これほどまでに細々としてうるさいものがあるだろうか。
 これ以降、多くの者は范曄に倣うようになった。魏収も范曄に従ったが、とてもひどいものである。・・・およそ、法律の文言が煩雑になること〔原文「滋章」〕は、古人の避けることであった。范曄や魏収のような題目の書き方は、「文言が煩雑になること」のひどい例ではなかろうか。(観夫旧史列伝、題巻靡恒。文少者則具出姓名、若司馬相如、東方朔是也。字煩者唯書姓氏、若毋将、蓋、陳、衛、諸葛伝是也。必人多而姓同者、則結定其数、若二袁、四張、二公孫伝是也。如此標格、足為詳審。至范曄挙例、始全録姓名、歴短行於巻中、叢細字於標外、其子孫附出者、注於祖先之下、乃類俗之文案孔目、薬草経方、煩碎之至、孰過於此。・・・自茲已降、多師蔚宗。魏収因之、則又甚矣。・・・蓋法令滋章、古人所慎。若范魏之裁篇目、可謂滋章之甚者乎。)
 劉知幾は范曄が大嫌いなようですが、いやでもこれ、けっこう范曄すごない? 史書の形式においては、「范曄的転回」とでも言うようなパラダイムシフトがあったことを暗に示しているよね。
 とりわけ、これまで書いてきた拙ブログの記事との関連で言えば、序例の「史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった」という記述であろう。これはまったく正しい。范曄自身、これは認めるところがあるのではないか。事実、「獄中与諸甥姪書」(『宋書』巻69范曄伝)で次のように范曄は述べている。
(わたしは)もともと史書に関心をもっておらず、いつも難しさを知るばかりであった。『後漢書』を執筆してからというもの、かえって要領をつかんだため、古今の著作や評論を読んでみたのだが、ほとんど満足できるものはなかった。班固の書が最も名声を得ているが、(わたしが思うに)気分のままに書いた文章で統一された規則がなく、(全体的には)優劣つけがたい。巻末の賛は道理においてほとんど得るところがないが、ただ志は悪くない。博識さではかなわないが、形式の秩序の点では(わたしも)劣らないだろう。わたしの書いた雑伝の論は、みな深みのある内容で、切れ味があるのは字句を圧縮したためだ。循吏列伝から六夷列伝の序や論は、筆が伸び伸びと走っており、まことに天下の名文だ。そのうちでも自信作となるのものは、あらゆる部分で賈誼の「過秦論」にひけをとらない。ためしに班固の文章とも比べてみても、たんに恥ずかしくないだけではない(優っている自信がある)。志も作成し、『漢書』が立てている志もすべて備えるつもりであった。(ついにそれはできなかったが、志に関連した)事柄の記述は、多くはないとはいえ、文を読めばできるだけわかるように、さしあたり記述してある。また、事柄に応じて巻内に論を立て、一代の得失を正すつもりであったのだが、結局完全には果たされないままとなってしまった。賛はわたしの文章のうちでも傑作で、ほとんど一字の無駄もなく、変幻自在で、様々な文体を混ぜ合わせており、わたしですらほめかたがわからない。この書物が広まれば、必ずこの価値がわかるものが出るだろう。帝紀や列伝の体裁規則はあらましを説明しただけではあるが、多くの箇所で細心の注意を払っている。いにしえより、これほどまでに体裁が整っていて思考が細密なものはなかろう。おそらく世の人々にはこの書の価値がわかるまい。多くの者はいにしえを尊重していまをいやしむからだ。人間の本性に合致するのは狂言であるというのも、これに由来する。(本未関史書、政恒覚其不可解耳。既造後漢、転得統緒、詳観古今著述及評論、殆少可意者。班氏最有高名、既任情無例、不可甲乙辨。後贊於理近無所得、唯志可推耳。博贍不可及之、整理未必愧也。吾雑伝論、皆有精意深旨、既有裁味、故約其詞句。至於循吏以下及六夷諸序論、筆勢縦論、実天下之奇作。其中合者、往往不減過秦篇。嘗共比方班氏所作、非但不愧之而已。欲遍作諸志、前漢所有者悉令備。雖事不必多、且使見文得尽。又欲因事就巻内発論、以正一代得失、意復未果。賛自是吾文之傑思、殆無一字空設、奇変不窮、同合異体、乃自不知所以称之。此書行、故応有賞音者。紀、伝例為挙其大略耳、諸細意甚多。自古体大而思精、未有此也。恐世人不能尽之、多貴古賤今、所以称情狂言耳。)
 見られるように、范曄は自己の『後漢書』について、文章のできの良さから自己評価を下している。なので、劉知幾が「文飾だけにこだわりやがった ks 野郎」と言うのは間違ってないと思う。
 それにしても范曄はちょっと気持ち悪いくらいの自信家ですね。でもその一方で引用文後半からうかがえるように、少しペシミズムというかニヒリズムというか、そんな感覚ももちあわせていたように感じられます。実際、范曄の列伝を読むと、彼はかなり鬱屈した人生を送っている(それは范曄がわがままなところにも起因すると思うけど)。自分が面白いと思ったことはとことんやるし、事実自分がやってきたことはすべて面白い、自分はやりたいことだけやるんだと、そういう自信のようなものを強く抱いている一方で、誰も理解者はいないだろうという、他者や社会への冷めた目線ももちあわせているわけで。そうなると、彼はますますやりたいことだけやって、自分のやっていることだけを面白いと思うのでしょうね。「努力やがんばりなんて自己満足でいいじゃん」と言う人もいますが、それは違うと思います。人生をかけてまで費やしたその先に自己満足しか得られなかったら、虚しいでしょ、そりゃ(とは言いつつ、わたしはそういうニヒリズムから出発しないといかんとも思います)。

 なんか話がそれてしまったが、「天下之奇作」(自称)たる『後漢書』の序や論は、じつはあんだけ范曄を嫌ってる劉知幾も評価しているんですわ(『史通』論賛)
陳寿以降、(論の体裁は)勝手気ままになって根本に立ち返ることをせず、たいてい、実質よりも華美で、道理は文飾より少なく、立派で美しい文章を自慢するばかりであった。そのうちでもよい者を選ぶとしたら、干宝、范曄、裴子野が最もよく、沈約、臧栄緒〔『晋書』〕、蕭子顕はその次によい。孫盛はダメにもほどがある。習鑿歯はたまにはよかろうもん。袁宏は玄学的な言葉の文飾に一生懸命で、謝霊運〔『晋書』〕は立派そうな論をおおげさに書いているが、「底のない玉製のさかずき」〔『韓非子』外儲説右上〕のようなもの、見た目は立派でもなんのありがたみもない、話にならん。王劭〔『斉志』〕は文意こそ簡明であるものの、言葉がきたなすぎる。かりに道理があったとしても、結局彼の文章は心に残るまい。孔子は「人の過ちを見てその人が仁者かどうかがわかる」と言っているが、王劭のような者のことを言うのだろう。(自茲以降、流宕忘返、大抵皆華多於実、理少於文、鼓其雄辞、誇其儷事。必択其善者、則干宝、范曄、裴子野是其最也、沈約、臧栄緒、蕭子顕抑其次也。孫安国都無足採、習鑿歯時有可観。若袁彦伯之務飾玄言、謝霊運虚張高論、玉巵無当、曾何足云。王劭志在簡直、言兼鄙野、苟得其理、遂忘其文。観過知仁、斯之謂矣。)
 というわけで、范曄の文章がよいことは劉知幾自身も認めていたようです。また最後の王劭に見られるように、きちんときれいな言葉で書くべきだ、っていうのは彼も意識していたようだ。まあというかこの時代の史書は「きれいに書く」ことは当然の通念だったと思うので、とくに不思議はないが(劉知幾はやりすぎるなと言っている)。
 最後に、范曄のいでたちについて。
范曄は身長七尺(=約170センチ)にも満たず、太っていて色黒で、眉とあごひげがなかった。(曄長不満七尺、肥黒、禿眉鬚。)
 うむ・・・なんか予想外な感じがしますね。

2013年12月3日火曜日

歴史の言語的想像力

要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
――H. White, Metahistory

「心に現われた考えを表現する」という言い方は、言葉で表現しようとするものが、ただ別の言語によってではあるが既に表現されている、そしてこの心に現われており、ただこの心的言語から話し言葉にそれを翻訳すればよい、と思わせる。しかし、「考えを言い表す云々」と我々が言うほとんどの場合に、それとは非常に違ったことが起こっている。ある言葉を模索している、といった場合に何が起きているかを考えてみたまえ。あれこれの語が浮かんでくる、私は拒否する、最後に一つの言葉が提案され、「これこそ私の意味したものだ」と言う具合だ。
――ウィトゲンシュタイン『青色本』


 歴史学における「想像力」を問題としたヘイドン・ホワイト。日本の学界では「物語(り)論」の祖のような扱いを受け、それなりに著名である。たしかに彼の名を一躍知らしめた著作Metahistoryにおいて、歴史著作を「筋立て」などの構造をもつ「物語(story)」と見なして分析する「形式論(Formalism)」を展開しているわけだが、その「物語」という表現にとらわれて彼の著作のポイントを見落としてはならない。
 だが、いずれにせよ、弁証法的な歴史説明は〔説明の対象性質に内在しているのではなく〕文脈のうちに展開されるのであり、ここで言う文脈とは、歴史の対象領域の型にかんする首尾一貫した観方、ぴったりしたイメージのことである。この文脈こそが個々の思考家が使用する表象概念に合理的な全体性をもたらす。この首尾一貫性と合理性こそ、歴史化の仕事に彼独自の文体的特徴を与えるのである。ここで問題となるのは、説明の首尾一貫性や合理性を支える要素を明らかにすることである。私のみるところ、本質的にそれらの要素は詩的なもの、とりわけ言語的なものであると思われる。
 歴史家は、表象や説明に利用する概念的道具を、歴史の対象領域の資料に適用するまえに、まず必ず歴史の対象領域をあらかじめ形象している。――換言すると、歴史家は心的に認識した対象によって歴史の対象領域を構築しているのだ。歴史家のこの詩的な活動は、言語的活動となんら変わらない。言語的活動は、ある領域が特定の領域として解釈されることに決定しているときになされる。すなわち、与えられた歴史の領域が解釈を受ける以前に、認識可能な形象が内包した場として、その領域はすでに解釈されていなければならない。ついで、領域にある形象は目・類・属・種として分類することが可能な現象だと見なされるようになる。ここからさらに、その形象は別の形象と関係づけられ、その関係づけの変化が「課題」を設定せしめ、その「課題」は叙述の筋や世界観の次元によってもたらされる「説明」によって解決されるのである。
   英語の拙訳でもうしわけないが、つまりは、歴史家の叙述に見られる説得力(首尾一貫性、合理性)は、あくまで説明がうまいかどうかといった言語的問題ですよということ(説得力はその説明の真偽に関係ない。ウソっぽい話でも論理的で合理的な筋を通すことはできるよね。例は挙げないけど想像はしてもらえると思う)。しかし、言語でいろいろ書く前に、歴史叙述の対象にしようとしている世界空間をすでに想像しているんじゃないか? ホワイトはそのように問う。あの出来事はこういう性質のものだ、一方であの出来事はさっきの出来事の付随的なやつだな、・・・云々。こうして様々な出来事が関係づけられ、歴史的な世界空間が頭のなかに創出される。ホワイトは、この記述前の作用を重視し、この作用を「想像力」とも「詩学」とも彼は呼ぶ。ミソとなるのは、記述に先行する作用でありながらも言語的な作用である、ということだろうか。
 要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
 ・・・過去に「実際にはなにが起こったのか」を形象するためには、歴史家はまずあらかじめ、文書に記録されたあらゆる出来事を、知識として認識可能な対象に形象しなければならない。この先行形象化活動は、詩的である。その活動が歴史家の歴史意識を未来予知的な歴史叙述に散りばめる限りで、または構造を構成する限りにおいて、すなわち「実際にはなにが起こったのか」を表象、説明する際に歴史家が用いる言語様式によって、構造がイメージづけされる限りにおいて、先行形象化活動は詩的なのである。
 現象は言語的に形象される。「~~は進歩と言うことができる」、「・・・は因果関係にあると言える」。ある現象の正しい言語表現はなにか、いや、ここで彼が述べているように、「その人にとって」適切と思える言語表現はなにか。まずはじめに、言語を使ってそのような想像がなされるのである(言語を抜きにした想像行為などありえない)。そのような意味で、まずなされるのは言語規則の構築なのだと彼は言う。現代のように先行研究のパラダイムにのっかっているとそんなことを意識することはまれだが、近代歴史学の祖たちをかえりみれば、たしかに彼らのやってきたことは言語表現の開発だと言ってもそれほどおかしくはない(六朝の「貴族」とかまさに)。歴史的な世界とは言語的に想像/創造されるのだ、端的に言うとそんな感じでしょうか。
 とまあ、これはわたしの拙い英語力と乏しい(英米)哲学の知識で読解したホワイトの主張なので、精確にはまちがっているかもしれません。ただ、今回わたしがこんなことを記事にしたのは、先日わたしが記事にしたテーマである「中国史学における文学性」を考えるうえで、多大な示唆を与えてくれると思うからです。

2013年12月2日月曜日

話し言葉と書き言葉の交錯

教養言語、文語はすべて、本の中に独自の存在領域を持つようになります。これは人の口という普通の領域から独立した、異なる伝播の領域です。本のための言語の用法が確立し、正書法と呼ばれる本のための文字表記のシステムが確立します。本が会話と同じくらい大きな役割を果たすのです。
――フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』



 六朝時代は言語に対する感性がとくだん研ぎ澄まされた時代。『世説新語』文学篇の以下の逸話は、中国における言語観をよく示しているんじゃなかろうか。
楽尚書令は清談を得意としていたが、文章を作るのは不得手であった。河南尹を辞退しようとしたとき、(文章の上手い)潘岳に(自分の代わりに辞退の旨を告げる)上表文を書いてくれないかと頼んだ。潘岳、「書きましょう。あなたのおっしゃりたいことを言ってください」。楽広は辞退する理由を言葉にしてみたが、二百語を数えるばかり。(ところが)潘岳はすぐに言葉を拾って組み合わせ、たちまち名文に仕上げてしまった。当時の人々はこう言いあったそうだ。「もし楽どのが潘どのの文章を利用できず、潘どのが楽どのの考えを得なかったら、あれを作るのは無理だったろうさ」(楽令善於清言、而不長於手筆。将譲河南尹、請潘岳為表。潘云、「可作耳、要当得君意」。楽為述己所以為譲、標位二百許語、潘直取錯綜、便成名筆。時人咸云、「若楽不仮潘之文、潘不取楽之旨、則無以成斯矣」)
 書き言葉と話し言葉の明確な技法の違い。同じ言語であってもそれぞれが創り出す世界はまったく違うのだと言わんばかりの言語世界観を見せてくれているじゃありませんか。話し言葉のほうが書き言葉よりより純粋なのだとかそういう優劣思想もここには見られないね。
 ここで范曄を挙げておこう。彼の最期の作品「獄中与諸甥姪書」(『宋書』巻69本伝)では以下のように自己の人生が回想されている。
 私は若いころ学問を怠けたために、一人前になるのが遅れ、三十歳ばかりになってようやく方針が定まったほどだ。それ以来、しだいに心境が変わり、すぐに老いがやってくるからと考え(学問に打ち込むようになっ)たが、いまだ完成していない。しばしば少し理解できたことがあっても、言葉では表現し尽くせなかった。(かといって、)注釈を調べない性格だったので、心中わだかまりがあっても、ちょっと悩んでは、(うまく表せずに)いらいらするといった状態だった。口弁も得意でなかったので、清談の業績もない。(そのため)理解できたことに関しては、すべて自分の胸中にしまい込むだけであった。
 文章はかえって上達するようになったのだが、才能に乏しく、発想も貧しかったので、筆を取るたびに書いた文章は、ほとんどすべて褒められたものでなく、いつも文士とされることが恥ずかしかった。(ところで、)文章の弊害としては、叙述が対象の描写に終始すること、心が修飾に集中すること、語の意味が文章全体の趣旨を損なうこと、韻の調整のために文意が変更させられることが挙げられる。たまに文章の上手い者がいても、おおよそこれらの弊害からは逃れられておらず、(そうであっては)うまい絵画のようなもので、とうとう(本当の文章を)得られない。(書くために書いたり、外観に専念したりして、内容をおろそかにしてはならない。)いつも思うに、(文章は)心をかこつけるものだから、まさに意図を第一とし、言葉に文飾を施してその意図を表現するべきだ。意図を第一とすれば、その文章の趣旨が必ずはっきりするし、文飾を施してその意図を表現すれば、その文章は印象に残る。こうしたことを踏まえた後で、(さらに修飾を加え)良い香りをただよわせ、美しい音色を響かせるようにするのである(吾少懶学問、晩成人、年三十許、政始有向耳。自爾以来、転為心化、推老将至者、亦当未已也。往往有微解、言乃不能自尽。為性不尋注書、心気悪、小苦思、便憒悶。口機又不調利、以此無談功。至於所通解処、皆自得之於胸懐耳。文章転進、但才少思難、所以毎於操筆、其所成篇、殆無全称者、常恥作文士。文患其事尽於形、情急於藻、義牽其旨、韻移其意。雖時有能者、大較多不免此累、政可類工巧図繢、竟無得也。常謂情志所託、故当以意為主、以文伝意。以意為主、則其旨必見、以文伝意、則其詞不流。然後抽其芬芳、振其金石耳)
 口下手な彼も文章は超一流の腕前にまでみがきあげたというところがわたしのお気に入りの箇所。なんかまあ、口頭でうまくしゃべれんだけで「コミュ障」とかいうことを言い出すどっかの社会がアレですね。
 ところで、さりげなく触れられているだけだが、韻=リズムのことが述べられている。この時代(に限らないが)、文章はすべて声に出して読まれるべきものであり、音読したときのリズム(韻)が美しくないと文章としてはイカンというわけだ。范曄は、リズムにとらわれ過ぎて文意がダメになってしまうというやり過ぎを批判していたわけです。
 文章はすべて声に出して読まれるべきだ、というこの発想。案外重要な考えだと思う。というのも、これは史書を読むときにも該当したようだからなのだ。
当時、『漢書』はたいへん尊重され、学者はみな暗誦したほどであった(当世甚重其書、学者莫不諷誦焉)
 『後漢書』伝30上・班彪伝附固伝にあるちょっとした記述だけど、「諷誦」(暗唱・朗読)は見逃せない記事なんじゃなかろうか。『漢書』という史書といえど、それは一種の文章作品としても愛好されたわけである。
 中国は「歴史」の国だとよく言われる。だが、すこぶる近代的な概念である「歴史」や「歴史学」を見かけだけ中国古代にあてはめるのは慎重になったほうがよいかもしれない。たしかに、中国では史書は古くから記述されてきたし、史学の伝統も長い。が、それら「史学」や「史書」はわたしたちが現代的に使用する「歴史学」や「歴史書」と同じようなニュアンスで表現して良いのだろうか。そこにわたしは違和感を覚えることがある。
 そんだけです。すんませんでした。

2013年11月21日木曜日

三十六国時代

 『太平御覧』は、引用する書物の表題を間違えることがよくある。今回は崔鴻『十六国春秋』と蕭方等(あるいは武敏之)『三十国春秋』をとりあげて、そのことを例示してみよう。

『太平御覧』巻35時序部20凶荒
崔鴻三十国春秋曰、諸州自建武元年十一月不雨雪、至十二年八月、穀價踴貴、金斤値米二升、民流散死者十有五六、百姓嗷然、人無生頼。
 あー、まあね、三十国春秋と十六国春秋ってなんかややこしいからね、わかるわかるーー ってわかんねえよ!!!!! どっちなんだよ! 崔鴻の『十六国春秋』なのかよ、『三十国春秋』なのかよ、どっちなんだよ! はっきりしろよ!!!![1]
 まあ、とにかくね、まざっちゃったんだろうね。だいたい似た時代を書いてるし、表題も似てるしね・・・。

『太平御覧』巻142皇親部8劉曜皇后
崔鴻三十国春秋前趙録曰、劉皇后、侍中暟女。年十三、長七尺八寸、手垂過膝、髮与身斉、姿色才徳,邁於列后。
 これはね、さすがに許そう。「前趙録」ってあるから十中八九、崔鴻『十六国春秋』を誤記して『三十国春秋』てしちゃったんだろうね。

『太平御覧』巻370人事部11手
三十六国春秋曰、劉淵父豹、母呼延氏、淵生而左手有文、曰淵、遂以命之。
 ふええぇぇえ・・・聞いたことがないよぉ・・・新しいよぉ・・・どっちかぜんぜんわかんないよぉ・・・
 もちろん『隋書』経籍志に記録はございません。書いた人物が完全にごちゃまぜになって、ミックスさせた表題にしてしまったんだろう。なんと迷惑なことを・・・




 少し真面目な話を最後に。『太平御覧』から佚文などを引用する場合、例えば『太平御覧』の巻いくついくつに引く某の『~~』、ってするじゃないですか。でも最初と最後の事例だと、そういうふうに引用しづらいよね。最初の方は撰者名を優先すればいいのか、書名を優先すればいいのかで判断がつきにくいし、仮についたとしても、「巻35に引く崔鴻の『十六国春秋』には・・・」って文章も書きづらい。だって巻35に引用してあるのは「三十国春秋」になってるわけだし。それともいちいち断り書きを書きます? 「『十六国春秋』(ただし表記は「三十国春秋」)」とか。めんどいね。最後のほうはもっとめんどいね。
 じつは便利な引用の仕方がある。わたしだったらこの箇所、「巻35に引く『崔鴻三十国春秋』には『~~』とあり・・・」と書いてしまう。以下も同様に、巻142所引「崔鴻三十国春秋前趙録」、巻370所引「三十六国春秋」、と表記してしまう。
 そう、完全に思考を停止して、書いてあることをそのまま全部「 」か『 』にくくっちまえばいんですよ。どちらかといえば「 」でくくるのがいいのかな。必ずこのような表記原則にしなければならないってわけではないんだけど、まあ上記のような面倒な事例があるので、こういう引用表記の仕方も念頭に置いておくと幅が広がるのではないかと思います(ちなみに本ブログで連載している宋書百官志訳注の場合、『太平御覧』から引用するときは基本的にこの表記原則に従い、『 』でくくっています)。


――注――

[1]ちなみに『三十国春秋』は武敏之のと梁・蕭方等らのがあるが、どちらも後漢末(=晋宣帝)から晋恭帝(=東晋末)までを叙述対象としていたらしい。晋を正統としながらも、劉淵ら五胡系諸国も記述していた(以上は清・湯球撰/呉振清校注『三十国春秋輯本』〔天津古籍出版社、2009年]の「序」を参照)。[上に戻る]

2013年11月17日日曜日

東晋・孝武帝の最期

『晋書』巻9孝武帝紀
既而溺于酒色、殆為長夜之飲。・・・醒日既少、而傍無正人、竟不能改焉。時張貴人有寵、年幾三十、帝戯之曰、「汝以年当廃矣」。貴人潛怒、向夕、帝醉、遂暴崩。

孝武帝は即位してすぐ酒や女に溺れるようになり、いっつも深夜まで飲んだくれていた。・・・日中に目が覚めることはまれで、わがまま放題、まったく改善の余地がなかった。当時、張貴人は孝武帝の恩寵を受けていたが、三十になりかかろうとしていた。孝武帝はふざけて「おまえも歳だしなあ! 貴人、やめよっか(クイッ」と言ったところ、張貴人、表情には出さないが内心怒り心頭。夜になり、帝が酔いつぶれると、とうとうにわかに孝武帝は崩じてしまった。
 ん? 最期の展開が急すぎてまったくついていけないんだが? いったい何が起こったんや・・・・
 と、このときの出来事を克明に記述した史書がある。宋の檀道鸞『続晋陽秋』である。その佚文(『太平御覧』巻99皇王部24孝武帝、引)をご覧いただこう。
初、帝耽於色。末年、殆為長夜之飲。醒治[1]既少、多居内殿、留連於盤鐏之間。時張貴人寵冠後宮、威行閫内、年幾三十。帝妙列伎楽、陪侍嬪少、乃笑而戯之、「汝已年廃矣、吾已属諸妹少矣」。貴人潜怒、上不覚。上稍酔臥、貴人遂令其婢蒙之以被、既絶。云以魘崩。

当初、孝武帝は女に夢中であったが、末年になると深夜まで飲んでばかりであった。日中に目が覚めることはまれで、一日の大半を宮殿で過ごし、ごちそうと酒に囲まれて暮らしていた。当時、張貴人が受けている恩寵は後宮トップで、その権威は後宮に行き渡っていたが、歳は三十になろうかというところであった。ある日の宴会、孝武帝は若い妓女や側室を侍らせると、ほくほくになって思わずにやけてしまい、張貴人に対し、「おまえは年寄りだしもうええわ、若いチャンネー集まったし」とふざけて言った。張貴人、あらわにはしないが内心は怒り狂う。が、孝武帝、気づかない。孝武帝が酔いつぶれ、倒れて寝はじめると、張貴人は介抱せず、下女をおおいかぶさせて、のしかからせたに布団で帝をくるませた〔原文「蒙之以被」の箇所。まちがえてました。申しわけない〕。ほどなく、孝武帝は息絶えてしまった窒息してしまった。張貴人は「悪夢にうなされてお亡くなりになりました」と報告した。
 ははあ、なるほどねえ。「暴崩」=「にわかに崩御した」との記述のウラには、じつはこんな経緯があったんですねえ。たまげたなあ・・・。
 しかし、なんでこれが唐修『晋書』だとああいう記述になっているんだろうか?
 それは唐修『晋書』の帝紀が何に基づいて編集されたか、に関係しているだろう。例えば東晋末に編纂された徐広『晋紀』。徐広の『晋紀』は国史として編纂されたが、おそらくそのゆえに、孝武帝のかかる最期は忌むべき、隠すべき秘事として扱われた蓋然性は高い。その意味で、「暴崩」なんていうあいまいだけど便利な記述は、徐広『晋紀』に由来していると言えなくもない。ただその場合、張貴人のエピソードを挿入する必要がないじゃんてなるけども。まあほかにも何法盛『晋中興書』もあるし、あるいは唐の史官が独自に編集してこのような記述を残したのかもしれないね(そうであったらなおさら、どうして隠したのかが気になるが)。



――注――

[1]「治」というのは意味が通じない。ここは『晋書』に従い、「日」に字を改めて訳出する。なお清・湯球『衆家編年体晋史』(喬治忠氏校注本)は「時」に釈字しているが、わたしの手元にある宋本『太平御覧』(影印本)を何度見たって「時」には読めない。[上に戻る]

2013年10月26日土曜日

西晋時代の人事運用の一例(『晋書』李重伝)

『晋書』巻46李重伝
 遷尚書吏部郎、務抑華競、不通私謁、特留心隠逸、由是群才畢挙、抜用北海西郭湯、琅邪劉珩、燕国霍原、馮翊吉謀等為秘書郎及諸王文学、故海内莫不帰心。
 時燕国中正劉沈挙霍原為寒素、司徒府不従、沈又抗詣中書奏原、而中書復下司徒参論。
 司徒左長史荀組以為、「寒素者、当謂門寒身素、無世祚之資。原為列侯、顕佩金紫、先為人間流通之事、晚乃務学、少長異業、年踰始立、草野之誉未洽、徳礼無聞、不応寒素之目」。
 重奏曰、「案如癸酉詔書、廉譲宜崇、浮競宜黜。其有履謙寒素靖恭求己者、応有以先之。如詔書之旨、以二品繫資、或失廉退之士、故開寒素以明尚徳之挙。司徒総御人倫、実掌邦教、当務峻準評、以一風流。然古之厲行高尚之士、或棲身巖穴、或隠跡丘園、或克己復礼、或耄期称道、出処黙語、唯義所在。未可以少長異操、疑其所守之美、而遠同終始之責、非所謂擬人必於其倫之義也。誠当考之於邦党之倫、審之於任挙之主。沈為中正、親執銓衡。陳原隠居求志、篤古好学、学不為利、行不要名、絶跡窮山、韞韣道芸、外無希世之容、内全遁逸之節、行成名立、搢紳慕之、委質受業者千里而応、有孫孟之風、厳鄭之操。始挙原、先諮侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼。去三年、諸州還朝、幽州刺史許猛特以原名聞、擬之西河、求加徴聘。如沈所列、州党之議既挙、又刺史班詔表薦、如此而猶謂草野之誉未洽、徳礼無聞、舍所徴検之実、而無明理正辞、以奪沈所執。且応二品、非所求備。但原定志窮山、修述儒道、義在可嘉。若遂抑替、将負幽邦之望、傷敦徳之教。如詔書所求之旨、応為二品」。
 詔従之。

 (李重は)尚書吏部郎に移った。体裁ばかりで浮薄な人(「浮華」)を抑え込むのに努め、私的な斡旋を行なわず、とりわけ隠逸の士に心を向けていたので、多くの有能な士が推挙された。(例えば)北海の西郭湯、琅邪の劉珩、燕国の霍原、馮翊の吉謀らを抜擢し、秘書郎や諸王の文学に就けた。かくして、天下の人々はみな(李重に)心服したのである。
 当時、燕国中正の劉沈が霍原を「寒素」に推挙したが、司徒府は(劉沈の推挙を)採用しなかった。劉沈は抗弁のため、中書省に出向いて霍原のことを報告したところ、中書省はもう一度司徒府に調査を命じた。
 司徒左長史の荀組の意見、「『寒素』とは、家柄が低く、その人個人も貧素で、家代々の『資』[1]がない者を対象としている。(だが)霍原は列侯で、金印紫綬を帯びている。当初は世間をさすらい歩き、年をとってからようやく勉学に打ち込み、成人になってからやっと立派な行ないをおさめ、三十歳を越えてようやく成果をあげた〔原文「年踰始立」。『論語』の「三十而立」を意識した表現〕。原野における(彼の)名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない。(霍原は)『寒素』の科目にふさわしくない(以上が司徒府の下した結論である)」。
 李重の意見、「癸酉詔書〔原文ママ。詔書はしばしば下された日の干支を頭に着けてこのように呼ばれる〕には、『廉潔の士は重用し、浮華の者は退けよ。履謙・寒素・靖恭・求己(の科目)にふさわしい者がおれば、彼らを優先的に登用せよ』とある。詔書の主旨をかんがみるに、二品の評定を『資』に関係させて下してしまうと、(『資』を有していない)廉潔の士を失うことになるから、(『資』がない人士を対象とした)寒素の科目を設けて徳を尊重する選挙であることを明確にしたのである。司徒は人材を総括し、国家の教化をつかさどるところ、まさに厳格な人物評定に努め、風俗を正すべきである。さればこそ、いにしえの行ないに励んだ高尚の士は、ある者はほら穴に隠棲し、ある者は田舎に隠退し、ある者は身を節制して礼に立ち返り、ある者は年老いてから道を主張した。(彼らが)仕えるか退くか、黙るか話すか(を決めた基準)は、ただ義があるかどうかだけであった。(だというのに、このたびの司徒府は、霍原が)時間をかけて立派な行ないをおさめたことを評価せず、彼が善しとして固持していることを疑い、しかも過去をさかのぼって(行動が)終始一貫していないあやまち〔行動が軽薄だということ。具体的な経歴で言うと、最初はぶらつき遊んでいて、あとになってから勉学したことを指すか〕と同一視しているが、(このような評定は)人物は必ず同輩たちの徳義によって測らねばならないという原則に反している。まさしく、人物は郷党の友人たちや推挙の保証人[2]によって審査しなければならない。(このたび保証人となっている)劉沈は中正であり、みずから選挙の公務を執っている。彼が述べるところによると、『霍原はひっそり隠居生活を送って志をめざし、いにしえを尊重して学問を好み、利益のために勉学せず、名声のために行ないをせず、交際を絶って山にこもり、道術を修め、外面は立身出世を望む様子もなく、内面は隠逸としての節義をまっとうせんとしている。振る舞いが完成し、名声が広まると、人士たちは彼を慕うようになり、(弟子入りのための)贈り物を渡して学問の指導を受けようとする者は、千里をものともせずにやって来ている。霍原には孫卿(荀子)や孟軻(孟子)〔原文「孫孟」。勘でこの二人だと思ったが、自信はない。後漢末~魏の時期に孫炎という学者がいたが、ああるいは孫炎を指すかも。その場合、孟が誰かという問題になるが〕のような風格があり、(漢の)鄭子真や厳君平[3]のような節操が備わっている。最初に霍原を推挙しようとしたとき、事前に侍中・領中書監の(張)華、さきの幽州大中正・後将軍の嬰、河南尹の軼に(可か不可かを)たずねた(ところ、了承を得ることができた)。また三年前、各州の刺史が朝廷に戻ったとき、幽州刺史の許猛は霍原の名声が高く、西河太守(の某)に匹敵するとし、特別に(朝廷に霍原を)招聘するよう求めている』ということだ。劉沈によれば、郷党の意見はすでに得ており、また幽州刺史も(癸酉?)詔書を(州内に)ふれまわって、(霍原の)推薦を上表していることになる。このようであるというのに、『原野における名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない』と言い、保証の根拠となる事実を棄ておき、しかも明白な論理も正確な陳述もなく、劉沈の推薦をむりやり否決している。それに、二品にふさわしいというのは、全ての面が備わっていることを求めるのではない。ただ、霍原は固い意志を抱いて山にこもり、儒学と道術を修得しており、その義は評価すべきである。もし(彼を登用せずに)おさえつけてしまえば、幽州の名望家を裏切り、徳を厚くする教化を損なうことになるだろう。癸酉詔書が要望する趣旨に従い、(霍原を)二品にすべきである」。
 詔が下り、李重の意見を採用した。
 なかなか興味深い記事である。まず人事選考の流れをまとめてみると、
  中正の選挙→司徒府の採決――(可)―→尚書吏部の選考? 
              ┖―(不可)―→不採用
                                       ┖→中書が仲介して関係各所(中正・尚書・司徒府)で再審査
という感じだろうか? 知らんけど。
 『宋書』百官志上訳注(2)の注20、24で言及したように、司徒府には左長史という特殊な長史が置かれ、「掌差次九品、銓衡人倫」(『通典』巻20)、すなわち九品官人における品の評定を職掌としていたらしい。

 それと「寒素」という選挙科目だけど、文脈からしてどうやら「二品」に相当するみたいだね。科目のある選挙って言ったら、いわゆる「孝廉」「茂才(秀才)」「賢良」をはじめとする漢代の選挙が想起される。漢代の選挙は、郡太守(郡太守の人物推挙は「孝廉」という科目)や州刺史(刺史の推挙は「秀才」という科目)や二千石以上の高官が、特定の秩石以下の人物を推薦する仕組みとなっている。太守(孝廉)や刺史(秀才)のような定期的に行なわれる場合と、皇帝が不定期に二千石以上高官に推挙を求める場合とがあった(賢良、方正など。この場合の選挙を「察挙」と呼ぶ)。孝廉や秀才などに推薦された人物は中央に行き、皇帝の策問(時事や経義などにかんする質問)に回答(「対策」と呼ぶ)し、この試験結果次第で、その後に任命される官職やコースに差がでるわけです(あやふな知識で話してます。専門書としては福井重雅先生の『漢代官吏登用制度の研究』創元社、1988年が詳しい。一般書ではちょっと・・・)
 かかる他薦式の選挙方式は魏晋以後も細々ながら継続していたことが諸史料に見えている。霍原がかつて幽州刺史に推薦されたという話も、「秀才」に選ばれたことを言ってるんじゃないかな。もっと具体的な例を述べてみよう。東晋時代のこと、東晋初期は戦乱直後ということで特別に孝廉や秀才に試験を課さずに官に命じていたけども、落ち着き始めると元帝は試験制度を復活させた。そうすると今度は孝廉、秀才に推挙されてもそれに応じない者が続出し、たまに中央に来る者はいても、「病気なんで」とか言って何とか試験をやりすごそうとする。孔坦が「時期が時期だし、もう少し落ち着いてから試験を再開した方がいいっすよ」と提案すると、元帝は五年間孝廉の試験を免除した。だが秀才に関しては試験が存続したので、湘州刺史の甘卓は秀才も試験をなくすよう求めたものの、却下された。のち甘卓は谷倹を秀才に推挙した。当時、秀才に挙げられた人物は試験を嫌がってみんな応じず、中央試験に行くものは誰もいなかった。ちなみに秀才は定期的に義務づけられているので、刺史は恒常的に人物を推挙しなければならんのである。ところが谷倹はそうした当時の風潮をものともせず、一人だけ試験を受けに都に行った。ほかに受験者は誰もいないので、試験を実施せずに谷倹は合格となった。だが谷倹はどうしても試験をやらせて欲しいと懇願し、試験を受け、好成績を収めて郎中就任というエリートコースを得たのであった。という長々としたエピソードがあります。(『晋書』巻70甘卓伝、同書巻78孔愉伝附坦伝)
 ついわきに逸れに逸れてしまったが、要するに言いたいことは、中正による九品官人の選挙にも、郡太守や州刺史の「孝廉」「察挙」同様、科目名があったのだろうか、ということです。あったのかな。よくわからないけど。中正が人物評価をしたためるときは、「輩」という推薦人物と同格と思われる人物のリストと[4]、「状」という簡潔な人物評=才能の評価を作成するのだけど[5]、その「輩」や「状」に「こいつは何品くらい」って書いてそれで終わり、みたいな選考じゃなかったんだね。「寒素」に厳密な条件があったことからして、「輩」や「状」を作成しつつ各科目に仕分けして推薦する仕事もあったのかな。
 ちなみに「寒素」の科目で検索してみると、陸機のような孫呉系人士や陶侃など、たしかに寒門っぽい人たちがこの科目に挙がっていたようだ。

 さらに気になるのが、中正が推薦する際、事前に三人の人物に聞き訪ねてお墨つきを得たという話だ。このうち、「侍中・領中書監華」は訳文で補っておいたように、おそらく張華を指すと思われる。他の二人、某嬰と某軼は不明。だがここで張華が登場している時点でどういうやつらなのかは推測がつく。張華といえばそう、本貫は范陽、すなわち幽州の出身なんですよこれが。そうすると後文のいくつかの箇所が色々と思い当たって来るよね。「郷党の意見ですでに了承されている」「幽州の名士たちに背くことになる」とか。そう、それらの文言は張華や某嬰、某軼をはじめとする幽州の名士にもうお墨つきをもらってるんだけど文句あんの? ってことを言っているのだろうね。中正が人物を推挙するにあたって、その州の著名人に意見を聞くことが、郷党の意見から了承を得ることになっているわけだ。他の州でも同様だったのかもしれないし、これが常制だったかもしれない。まあつまりね、先行研究で散々議論されていた「郷論」っていうのはこういうもんなんじゃないですかね。

 と、つい長くなってしまいました。この李重伝の記事、宮崎市定『九品官人法の研究』にも取り上げられていて(中公文庫版、pp. 121-122, 157-158)、それなりに知られてはいるのだけど、もっと注目されるべき史料だと思うんだよなぁ・・・。
 ちなみに霍原は『晋書』隠逸伝にも立伝されています。このときのお話も少し載っているよ。霍原はのち、幽州刺史・王浚に因縁をつけられて殺されてしまいました。


――注――

[1]『資』は原文のママ訳出した。官制用語。だがどうやら用語であるらしいということがわかっているだけで、なにをもって「資」と呼んでいるのかは明確ではない。中村圭爾氏は昇進ルートのランクのようなものを指すと解しておられるようである。つまり、同じ品でも官によって出世コース上の官とそうでない官があり、出世コースのルートにつけるかどうかはその人がこれまでどのような官歴をたどってきたかに依るが、その官歴の累積ポイントのようなものが「資」で、「資」が一定まで積もればルートのランクがアップする、といった感じのようだ。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。
 ただ、中村氏も言及しているが、「資」に関する熟語には「門資」「世資」、さらには今回取り上げた李重伝の記事にも「世祚之資」とあるように、明らかに家柄に関する何かを意味しているような場合がある、というか比較的そのような用例が多い印象がある。かりに「資」を上のようなものと考えてみると、個人だけに留まらず家ごとに「資」が累積していたことになる。その場合、どのように「資」は決まっていたのだろう? 父の官歴?
 「資」という語は劉寔「崇譲論」(『晋書』巻41本伝所載)、劉毅「八損論」(『晋書』巻45本伝所載)などにも見えており、西晋時代にはもう一般的な語であったようだ。わたしもよく見かけてきた語で、以前からとても気になっていた語なのだけど、申し訳ないが具体的なイメージがいまだにつかめない。中村氏が言うように、人事運用上で参照される「何か」であることはたしかなのだが・・・
 余談だが、北魏には「階」という制度があり、官職の成績や勤続年数、あるいは軍功によって累積するもので、官を得たり転任する場合は「階」を参考基準として人事の運用がなされたという(岡部毅史「北魏の「階」の再検討」、『集刊東洋学』83、2000年)。中村氏の「資」の解釈にどことなく似ている。[上に戻る]

[2]人物推薦の際に保証人がつくことは、戦国秦から行なわれていた制度である。詳しくは楯身智志「秦・漢代の「卿」――ニ十等爵制の変遷と官吏登用制度の展開」(『東方学』116、2008年)を参照。[上に戻る]

[3]原文「鄭厳」。人名なのはわかるけど、誰のことだかはよくわかりませんね。このような、六朝時代の漢文で出典を調べるとき、最も役に立つのが『文選』の唐・李善注である。李善はひたすら典拠を記述するというスタイルで注釈をつけたため、熟語の出典をはじめとして調べものをするときはホントに助かるんですよ。え? でも唐代の人物じゃん? は、何言ってんの? 李善なんて現代の我々よりうん百倍と教養あるんですけど。むしろ李善さんを呼び捨てにするのもためらわれると感じないの? じゃあさっそくこの「鄭厳」の出典について、李善さんのお言葉を賜わることといたしましょう。幸いなことに、李善さんは我々を見棄ててはいなかった。『文選』巻23諸州の嵇康「幽憤詩」に「仰慕鄭厳」という句があり、李善どのの注、「漢書曰、谷口有鄭子真、蜀有厳君平、皆脩身保性。成帝時、元舅王鳳以礼聘子真、子真遂不詘而終、君平卜筮於成都市、以為卜筮賤業、而可以恵衆、日閲数人、得百銭、足以自養、則閉肆下簾而授老子、年九十余、遂以其業終」。この文章は現行『漢書』巻72王貢両龔鮑伝の冒頭からの節略引用である。鄭子真は官に招かれても応じず、隠居して世を終えた人、厳君平は占いを仕事にしていたが、それで満ちるを知り、仕事のあとは『老子』の教授などをしながら生活し、そのまま天寿を全うしたという。[上に戻る]

[4]輩で著名な話が司馬炎と鄭黙の事例。司馬炎が魏末に中正の選挙を受けたときのこと、郡内では司馬炎の「輩」に相当する人物がいなかったため、州内に対象範囲を広げて「輩」を探したところ、鄭黙に決まったという(『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝)。選挙するにあたって、「コイツはこの人物と同等ですよ」みたいなね、なんかそういうのが必要だったらしい。[上に戻る]

[5]状については矢野主税「状の研究」(『史学雑誌』76-2、1967年)が詳しい。矢野氏が状の例として挙げるのが、列伝冒頭にあるリズミカルな標語。例えば「少有風鑑、識量清遠」(王導)、「風格峻整、動由礼節」(庾亮)など。また中村圭爾氏によれば、状には才能評価だけを記したものだけでなく、それに加えて品を記したものを指す場合があったが、西晋になるとさらに、その人個人の官歴の記録(「薄伐」と言う)も状に記録するようになったという。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。[上に戻る]

2013年10月12日土曜日

石勒ファミリー

 石勒、と言えば、西晋末期から五胡初期を代表する人物であるが、彼は「匈奴」劉氏や巴氐李氏と違い、族的なバックボーンが皆無なところから勢力を形成したことでも著名であろう。
 だが載記などを読んでみると、ちょくちょく石氏が出てきてるじゃん?ってなるじゃん? そこでね、今回は石勒時代の石氏たちの素性を詳しく調べてみた。これで石勒ファミリーの全貌がわかるね!

石虎
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石虎字季龍、勒之従子。勒父朱幼而子之、故或謂之為勒弟。晋永興中、与勒相之[1]。嘉平元年、劉琨送勒母王及虎于葛陂、時年十七。

石虎は字を季龍といい、石勒の従子である。石勒の父の周葛朱が幼少の石虎を子として養ったので、石勒の弟とも言われることがある。晋の永興年間、石勒と生き別れた。嘉平元年、劉琨が石勒の母の王氏と石虎を(石勒の駐留していた)葛阪に送った。そのとき、石虎は十七歳であった。
『世説新語』言語篇注引『趙書』[2]
虎字季龍、勒従弟也。
敦煌発見「晋史」残巻[3]
従子虎。
 「従弟」か「従子」かで記述に多少の違いがある。「従弟」とはおそらく、父方の兄弟の子でありかつ石勒より年少、ということであろう。石勒の父親がわざわざ引き取って育て、石勒の弟のようにしたというのもそれならうなずける。他方、「従子」とは父方・母方の兄弟姉妹の子を言うこともあるそうだ(『漢辞海』)そうなると「従弟」とほとんど同じ意味だね。ちがいます(2020/8/13)。まあ、こういう場合に各史料を整合的に突き合わせるのはあんまりよくないとは思うのだけど、とりあえず石勒より年少であり、石勒と父あるいは母を同じくする兄弟というわけではなさそう、ということだけおさえられればよろしい。

石会
『晋書』巻104石勒載記上
時胡部大張〔勹+背〕督・馮莫突等擁衆数千、壁于上党、・・・勒於是命〔勹+背〕督為兄、賜姓石氏、名之曰会、言其遇己也。

ときに、胡部大の張〔勹+背〕督や馮莫突らが数千の衆を擁して、上党に自衛拠点を築いた。・・・(ここにやって来た石勒は張〔勹+背〕督らを自分に従うよう説得し、成功すると、)石勒はこうして張〔勹+背〕督を兄(?)とし、石氏を賜い、「会」と名付けた。「石勒と出会った」ことを意味している。
 石勒が劉淵に帰順する直前のこと、石勒は上党にいた「胡部大」の張らを説得した、「オレはすごいから、オレに従え」。こうして張らは石勒の指揮下に入り、石勒はこの手勢を引き連れて劉淵のところへ行ったのだという。で、このときに「胡部大」の張に石氏を賜い、「オレと会ったのも運命なんやで」という意味で「会」の名を授け、石勒の兄弟としたのだそうだ。「胡部大」は詳しくわからんが、まあ胡族の親分とかそんなもんでしょう。唐長孺氏だったかは忘れたが、誰かが「烏丸には張姓が多い」とかいうことで、この胡部大の張は烏丸であろうとか推測していた気がする。記憶違いかもしれんが。

石生
『太平御覧』巻326所引『二石偽事』[4]
劉曜躬領将士二十七万、大挙征勒、勒養子生為衛将軍、領三千人、鎮洛金墉城。

劉曜はみずから将兵二十七万を統率し、全軍挙げて石勒を討とうとした。石勒は養子の石生を衛将軍とし、三千人を統率させて、洛陽の金墉城に駐屯させた。
敦煌発見「晋史」残巻
晋人則程遐・徐光・朱表・韓攬・郭敬・石生・劉徴、旧族見用者河東裴憲・穎川荀綽・北地傅暢・京兆杜憲・楽安任播・清河崔淵。
 興味深い事例。『二石偽事』によると養子として見えている。石勒載記・下などでも、石生は劉曜攻撃の先鋒に立ち、洛陽金墉城に駐留しているので、『二石偽事』の「養子生」は他書に見える石生と同一人物と考えてよいだろう。さらに敦煌「晋史」残巻には登用された「晋人」の一人に「石生」の名が挙がっているが、もしこの「石生」が「養子の石生」と同一であったとすれば、石生は石勒の養子となった晋人であることになる。なんとまあ!(ちなみに「晋史」残巻に挙がっている晋人のなかには有名人もいますね。石氏の外戚となる程遐、石勒の懐刀であり牛医の家から出た徐光、若き日の石勒を評価し援助していた郭敬、おそらく十八騎の一人で曹嶷を滅ぼしたあとに青州刺史として活躍した劉徴、などなど)
 また、『晋書』巻105石勒載記・下・附石弘載記に、石勒没後のこと、石虎が政権を握る中途におけることとして、
時石生鎮関中、石朗鎮洛陽、皆起兵於二鎮。

当時、石生は関中に出鎮し、石朗は洛陽に出鎮していたが、両者とも各鎮所で挙兵した。
とか、『宋書』巻24天文志二には、
其年七月、石勒死、彭彪以譙、石生以長安、郭権以秦州、並帰従。於是遣督護高球率衆救彪、彪敗救退。又石虎、石斌攻滅生、権。

咸和八年の七月、石勒が死ぬと、彭彪が譙で、石生が長安で、郭権が秦州で、みな(東晋に)帰順した。こうして、(晋の朝廷は)督護の高救に軍を統率させて派遣し、彭彪を救援しようとしたが、彭彪は(石虎に)敗れたたため、高救も退却した。また石虎、(虎の子の)石斌が石生と郭権を攻め滅ぼした。
とある。石勒晩年から石弘時期にかけての石虎が権力を手中にする時期においては、石生は長安に出鎮しており、石虎に対し反発の挙兵を実行している。出鎮ということはその周辺地域に関する大権を有していたのだろう、養子とはいえそれなりの権力を委託されていたようだ。なお、洛陽にいたという石朗は素性不明。

石聡
『晋書』巻63李矩伝
石勒遣其養子悤襲默。

石勒は養子の悤を派遣して郭黙を襲撃させた。
 この記事、石勒載記・下は「石聡」に作っている。まあ通じる字なので、同一人物と見なしてよろしかろう。ということで、石聡は養子。
 石聡も石生同様、石虎に反発したらしい。『晋書』巻7成帝紀・咸和八年(西暦333年)七月の条に、
石勒死、子弘嗣偽位、其将石聡以譙来降。

石勒が死に、子の弘があとを継いだ。後趙の将軍の石聡は譙を挙げて(晋に)来降した。
とあり、同様の記事は『晋書』巻78孔愉伝附坦伝にも、
咸康元年、石聡寇歴陽、王導為大司馬、討之、請坦為司馬。会石勒新死、季龍専恣、石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。

咸康元年(335年)、石聡が歴陽を侵略してきたので、王導を大司馬とし、討伐させることにした。王導は孔坦を司馬にしたいと要請した。たまたま石勒が死に、石虎が横暴に振るまったので、石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。
とある。前掲の史料に見えていた譙の彭彪も登場している。石聡も譙で降ったという先の『晋書』成帝紀の記事も重視すれば・・・譙の太守は彭彪だけども、石聡は譙に出鎮していたのかもしれないね。
 だがしかし、この二つの史料、おかしいと思いませんか? 年代合ってないじゃん・・・っていう。成帝紀によれば、石聡は咸和八年に降っているのに、孔坦伝では咸康元年に攻めてきて、そんときに降ったことになっている。咸康元年の攻撃は成帝紀にも記事があるが、そこでは石虎が攻めて来た、とあるのみ。また、当時歴陽太守であった袁耽の伝には、「咸康年間の初め、石虎が游騎十余を率いて歴陽に来た。袁耽はそのことを上奏して報告したが、騎馬が少ないことは言わなかった。当時、夷狄の侵略が激しく、朝廷も原野も危惧していたので、王導は宰相の重責をになうゆえにみずから討伐したいと願い出た(咸康初、石季龍游騎十余匹至歴陽、耽上列不言騎少。時胡寇強盛、朝野危懼、王導以宰輔之重請自討之)」とある(『晋書』巻83袁瓌伝附耽伝)。ほんとうに石聡が攻めて来たんだろうか? 石聡は咸康元年より前に降ったんじゃないだろうか? よくよく見れば、『宋書』天文志二の記事でも、彭彪は咸和八年に降ったことになっているじゃん、石聡も同時期に降ったんじゃねーの? 孔坦伝の記事うそくさくねーか?
 なんでこんなにこだわるかというと、じつはかなり重要な史料が『晋書』孔坦伝に掲載されているからだ。孔坦が石聡に送ったという書簡である。
石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。坦与聡書曰、「・・・将軍出自名族、誕育洪冑。遭世多故、国傾家覆、生離親属、仮養異類。雖逼偽寵、将亦何頼。聞之者猶或有悼、況身嬰之、能不憤慨哉。非我族類、其心必異、誠反族帰正之秋、図義建功之日也。・・・」。

石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。孔坦は石聡に書簡を送った。「・・・将軍は名族の出身でございまして、立派な家にてお育ちになられました。不運なことに、非常な時期に遭われまして、国は傾き、家は転覆し、親族とは生き別れ、一時的に異民族に養われたそうですね。(現在、将軍は)夷狄の恩寵に促されて(後趙に仕えて)いるとはいえ、どうしてやつらの恩寵が頼りになりましょうか。(将軍のような過去を)聞いただけの者でもいたましく思うもの、ましてやご自分の身に降りかかったことでありますれば、憤慨せずにおられましょうや。『我が族類でなければ、その心は必ず異なる』(『左伝』成公四年)と言われておりますが、まこと、(いまこそ)本来の族に戻り、正しきところに帰るべきときであり、義のために功績を打ち立てるべき日なのです。・・・」。
 このあとも孔坦は、「石聡よ、オレたちに味方しろ」「これから水陸一斉に北上すんぜ」などと述べている。なので、咸康元年の王導による撃退計画が立てられていたらしい様子がうかがえる。
 それにしても興味深い書簡じゃないですか。石聡が名族かどうかは世辞の可能性もあるので知らんが、もともとは晋人であったことが明記されてるやん! すげええええええ! ともろ手を挙げたいけれども、先に述べたように、そもそも石聡は咸康元年に降ったのだろうか? もしそうではなく、それ以前の咸和八年に降ったいたとすれば、この書簡も含む孔坦伝の記事はウソだらけっていうことになる。妙に生々しい書簡だから信じたいのだけど・・・あああああああああああああ
 強いて不思議なのが、この孔坦の書簡は降ってくる石聡に宛てたものというより、まだ後趙にいる石聡に離叛を促しているように読めるんだよね。咸和八年に降ると言っておきながら、行動には移さず、譙にずっと留まったまま晋の言うことを聞いていなかった、とかそういう感じだろうか。わからないねえ・・・。
 石聡だけ長くなってしまったが、結論としては、彼は石勒の養子であるということだけは確実なんだろう[追記1]

石肇
『太平御覧』巻499所引『趙書』(おそらく田融『趙書』)
石肇、前石之昆弟也。前石既貴、肇在軍中不能自達、人送詣前石、前石哀之、拝建威将軍。以肇無才力、毎高選参佐輔之。為娉広川劉典兄女、肇甚懼之。拝長楽太守、治官、毎入門、動称「阿劉、教可爾、不可爾」、時人以為嗤謡。

石肇は石勒の兄弟である。石勒が高貴になったあと、石肇は軍中において自力で動くことができず、石勒のもとまで人に送ってきてもらった。石勒は哀れんで、建威将軍を授けた。石肇は才能も武力もからきしなので、(石勒は)いつも有能な輔佐を選んで助けさせた。(また石勒は)石肇のために広川の劉典の兄の娘を嫁に取ったが、石肇は恐れおののくだけであった。長楽太守に任じられた。公務をこなしているときは、(役所の?)門に入るたび、いつも「劉や劉や、これでいいのか、よくないのか、教えておくれ」と言っていた。当時の人々はこれを笑い話とした。
 石肇の記述はこれだけ。載記にも登場しない。こんなんじゃ登場せんわな・・・。

石挺
敦煌発見「晋史」残巻
従弟挺。
 『晋書』載記にもしばしば登場する石挺は従弟である可能性がある[追記2]

石樸
『晋書』巻33石苞伝附樸伝
苞曾孫樸字玄真、為人謹厚、無他材芸、没於胡。石勒以与樸同姓、倶出河北、引樸為宗室、特加優寵、位至司徒。

石苞の曾孫の樸は字を玄真という。人となりは慎み深く、温厚であったが、ほかに才能はなかった。夷狄の支配におちいった。石勒は石樸と同姓であり、ともに河北出身であることから、樸を招きよせて宗室とし、特別に恩寵を加えた。司徒にまで至った。
 石苞は西晋時代の人。金持ちで有名だね。それにしても石勒の思考単純すぎだろ・・・。

石瞻
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石閔字永曽、虎之養孫也。父瞻字弘武、本姓冉、名良、魏郡内黄人也。・・・勒破陳午於河内、獲贍、時年十二。・・・勒奇之曰、「此児壮健可嘉」。命虎子之。

石閔は字を永曽といい、石虎の養孫〔養子の子〕である。父の瞻は字を弘武という。もとの姓は冉、名は良といい、魏郡内黄の人である。・・・石勒が乞活の陳午を河内で破ったとき、石瞻を捕えた。当時、石瞻は十二歳であった。・・・石勒は石贍を高く評価し、「この子は壮健で見どころがある」と言い、石虎に子とするよう命じた。
 ご存じ冉閔の父親。石勒ではなく石虎の養子だが、まあ同じようなもんでしょ、石勒の命令だしね。石瞻は劉曜との最終決戦の際に戦死したようである(『晋書』巻103劉曜載記)
 石瞻はもとの名が「良」であったためか、「石良」と記述されることもあったらしい。例えば『晋書』巻6明帝紀・太寧三年の条「石勒将石良寇兗州、刺史檀贇力戦、死之」は、石勒載記・下では「石瞻攻陷晋兗州刺史檀斌于鄒山、斌死之」と記されている。

 ほか、石弘、石宏、石恢が石勒の子っぽい。石斌は石勒の子なのか石虎の子なのか不明確でよくわからないwikiによると、石勒の子で石虎の養子になったらしいが)。素性が不明なのは石泰、石同、石謙、石堪、石他。石泰、石同、石謙は一度しか出てこないのでさっぱり。石他は途中で登場しなくなり、手がかりがない(太寧三年に劉曜軍と戦闘により戦死。『晋書』劉曜載記、『資治通鑑』巻93太寧三年の条)。石堪は石勒没後、石虎に反発して殺害される。数年前のわたしのメモには「義兄弟か養子」とあるのだが、何を根拠にしているのか自分でもわからない・・・[5][追記3]

 ということでね、わたしの感覚では石勒時代の石姓は擬似血縁者が多いと思う。わたしのピックアップの仕方が恣意的だと思う方もおられようが、仮にそうであったとしても、「匈奴」劉氏や巴氐李氏と比べると、異様なくらいに疑似血縁者が目立つはずだ。だって劉氏や李氏にそんな人たちがここまで見られただろうか?
 単に疑似血縁者に過ぎないと軽視できないのがミソである。石樸伝にあるように、彼らもみな「宗室」扱い。石生のように出鎮という大権を委ねられることさえあった。石勒は勢力形成・拡大する過程において、晋人などをみずからの宗室扱いとしながら血縁集団を創出したわけで、彼らを中核とした集団形成を企図していたのであろう。石勒が劉曜から独立する際に述べたと言う次の言葉も、かかる文脈から理解すべきかもしれない。
孤兄弟之奉劉家、於人臣之道過矣。若微孤兄弟、豈能南面称朕哉。(『晋書』石勒載記・下)

孤(わたし)の兄弟が劉家に奉仕すること、人臣の道を過ぎるほどであった。もし孤の兄弟がいなければ、どうして南面して朕と称せただろうか。
 最初にこれを読んだとき、えっ、おまえ言うほど兄弟いたっけ? って思ったんだけど、たぶん義兄弟・養子も含めた疑似血縁者のことを言ってたんだろうね[6]。こういう兄弟関係の原理って種族的・習俗的特徴なのだろうか[7]。あんまりよく知りませんが。そう言えば、唐後半期からの藩鎮の時代では、節度使と幕府官との仮父子関係が人間関係の原理として特徴的だと、どこかで聞いたことがある。そんで藩鎮といえば、やはりソグド系などの中央アジア諸族、北方諸族の人々が多く混じっていたことが近年指摘されている。なんか突っついてみると面白そうね。
 附言すれば、この「兄弟」の原理、石勒集団内部だけでなく、外部集団と関係を結ぶときにも持ち出されたらしい。
『魏書』巻1序紀・平文帝三年の条
石勒自称趙王、遣使乞和、請為兄弟。帝斬其使以絶之。

石勒が趙王を自称すると、使者を派遣して(拓跋氏と)和解を求め、兄弟の関係になるよう願い出た。平文帝はその使者を斬って絶交した。
『晋書』石勒載記・上
遣石季龍盟就六眷于渚陽、結為兄弟。

(石勒は)石虎を派遣して、段就六眷と渚陽で盟約を結ばせ、兄弟とさせた。
 せっかく父ちゃんが「兄弟になろう」と言っているのに、あろうことかそれを拒絶した拓跋氏はアホとしか言いようがない。拓跋氏は永遠に許されない。やつらを許すな!


――注――

[1]『晋書』巻106石季龍載記・上は「之」を「失」に作る。『十六国春秋』だと、「永興年間に石勒と知り合った」。載記なら「永興年間に石勒と生き別れた」。まあ載記のが妥当かなあ。ということで、「失」に字を改めて翻訳しました。[上に戻る]

[2]『趙書』は①前燕・田融撰と、②呉篤撰の二種あることが知られているが、多くは①を指す。『隋書』巻33経籍志二に「『趙書』十巻 一曰『二石集』、記石勒事。偽燕太傅長史田融撰」とある。[上に戻る]

[3]羅振玉『鳴沙石室佚書正続編』(北京図書館出版社、2004年)所収。20世紀初頭に敦煌で発見された写本。書名は無いが、東晋・元帝期の記事が編年体で記されており、羅振玉氏は東晋・鄧粲『晋紀』の写本と推定した。これに対し、周一良氏は鄧粲『晋紀』ではなく、東晋・孫盛『晋陽秋』であるとしている。周一良「乞活考――西晋東晋間流民史之一頁」(『周一良集』第壱巻、魏晋南北朝史論、遼寧教育出版社、1998年)参照。
 近年、岩本篤志氏がこの残巻を詳細に検討し、①唐修『晋書』よりは古いが、『資治通鑑』には影響を与えておらず、北宋期には散佚していた可能性がある、②『晋陽秋』である可能性を退けることはできないが、別の晋史である可能性が高い、などと述べておられる。岩本「敦煌・吐魯番発見「晋史」写本残巻考――『晋陽秋』と唐修『晋書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』2、2005年)。なお同論文には、岩本氏が校訂した敦煌発見「晋史」残巻のテキストも掲載されているので、参照されたい。[上に戻る]

[4]『隋書』巻33経籍志二に「『二石偽治時事』二巻 王度撰」とあり、『旧唐書』巻46経籍志・上には「『二石偽事』六巻 王度・隋翽等撰」とある。『隋書』によると、王度は「晋北中郎参軍」で、『二石伝』(二巻)という書物も編纂している。『史通』巻12古今正史には、「その後、前燕の太傅長史の田融、宋の尚書庫部郎の郭仲産、北中郎参軍の王度が二石〔石勒と石虎のこと。石勒を「前石」、石虎を「後石」とも言う〕の事跡を記述し、編集して『鄴都記』『趙記』などの書物を作った(其後燕太傅長史田融・宋尚書庫部郎郭仲産・北中郎参軍王度撰二石事、集為鄴都記・趙記等書)」と、後趙関連の史書を記述した人物として名が見えている。『晋書』巻95芸術伝・仏図澄伝だと、「著作郎王度」が石虎期の記事に見えており、このことから内田吟風氏は、王度は当初は後趙に仕えていたが、のちに東晋に降ったのだろうと推測している。隋翽については全くの不明。内田「五胡時代匈奴系諸国史の編纂とその遺文」(『龍谷史壇』79、1981年)参照。[上に戻る]

[5]wikiでも旧姓は田で、石勒の養子とある。少し調べてみたところ、『十六国春秋』にそのような記述があるらしい。が、わたしの持っている『十六国春秋輯補』および『十六国春秋纂録校本』にはかかる記述は見られなかった。『十六国春秋』はややこしい本で、北魏の崔鴻によって編纂された編年体の史書(記録により異同があるが、おおよそ百巻前後)なのだが、北宋~南宋くらいにいったん散佚し、明代に復元が試みられた(屠喬孫本)。ただこの屠本は現在ではあまり使われない。現在おもに使用されているのは、清の湯球が当時流伝していた『十六国春秋纂録』(十六巻。屠本より以前に成立していたらしいが、どういう経緯で編纂されたのかは全く不明。『隋書』経籍志に記載のある『(十六国春秋)纂録』のことだとか、後人が百巻本をコンパクトにしたものとか、載記をまとめただけだとか言われているが、詳しくはわからんらしい。孫啓治ら編『古佚書輯本目録 附考證』中華書局、1997年、p. 161参照。)を校訂した『十六国春秋纂録校本』、『纂録』をベースにしつつ、『十六国春秋』の佚文や『晋書』載記などで大幅に記述を補った『十六国春秋輯補』、の二つである。わたしが見落とした可能性もあるが、この二つでは石堪に関する記述を見つけることができなかった。屠本に書いてあるのだろうか? 今後機会があったら調べます。→[追記3]を参照。[上に戻る]

[6]あるいは、これまで一緒に苦楽をともにしてきた仲間たち全員のことを「兄弟」と言っているのだろうか。だとしたら石勒父ちゃんマジあったけえ・・・。[上に戻る]

[7]石氏はソグド(石国=タシュケント)出身のソグド人とする説もあったりする(譚其驤氏の論文、題名は忘れた。。ほか羯族にかんしては内田吟風氏など多くの先行研究がある)。たしかに「深目」などの身体的特徴は中央アジア種族と似ているのだけども、ソグド人と見てしまうよりも、中央アジア系との混血種族と見たほうが無難であるらしい(町田隆吉「西晋時代の羯族とその社会」、『史境』4、1982年。三﨑良章『五胡十六国』東方書店、2002年、p. 62)。あんまり羯族に関してはわたしも詳しく調べてないので、こんなことぐらいしか知らないです。[上に戻る]


[追記1]記事をアップした後、『資治通鑑』をめくっていたら、石勒の死没直後の咸和八年七月の条に「後趙の将軍の石聡と譙郡太守の彭彪が、それぞれ(晋に)使者を派遣して降服した。〔胡注:石聡はこのとき譙城に出鎮していたのである〕。石聡はもともと晋人であるが、姓を石氏に変えたのである。晋朝廷は督護の喬球を派遣して救援させようとしたが、到着しないうちに、石聡らは石虎に誅殺されてしまった(趙将石聡及譙郡太守彭彪、各遣使来降。〔聡時鎮譙城。〕聡本晋人、冒姓石氏。朝廷遣督護喬球救之、未至、聡等為虎所誅)」とあった。[上に戻る]

[追記2]『資治通鑑』巻95咸和八年の条の胡注に「挺、虎之子」とあったのを見落としていた。胡三省が何をもとに言っているのかは知らんが。[上に戻る]

[追記3]『資治通鑑』巻95咸和八年の条に「石堪はもともと田氏の子であったが、しばしば功績を立てたので、石勒は彼を養子とした堪本田氏子、数有功、趙主勒養以為子」とありました。申し訳ない、見落としていました。唐修『晋書』などには記載のない、『資治通鑑』だけの独自の五胡十六国情報はおおよそ『十六国春秋』が出典だと思われるので、『十六国春秋』に基づいて司馬光がかかる記述をした可能性が高いだろう。[上に戻る]

2013年10月8日火曜日

新・三国時代――後趙・東晋・成漢

 後趙の石勒と徐光とのあいだに交わされたというつぎの問答、なかなか面白くない?(『晋書』巻105石勒載記・下・附弘載記)
 遐退告徐光曰、「主上向言如此、太子必危、将若之何」。光曰、「中山常切歯於吾二人、恐非但国危、亦為家禍、当為安国寧家之計、不可坐而受禍也」。
 光復承間言於勒曰、「陛下廓平八州、帝有海内、而神色不悦者何也」。
 勒曰、「呉蜀未平、書軌不一、司馬家猶不絶於丹楊、恐後之人将以吾為不応符籙。毎一思之、不覚見於神色」。
 光曰、「臣以陛下為憂腹心之患、而何暇更憂四支乎。何則、魏承漢運、為正朔帝王、劉備雖紹興巴蜀、亦不可謂漢不滅也。呉雖跨江東、豈有虧魏美。陛下既苞括二都、為中国帝王、彼司馬家児復何異玄德、李氏亦猶孫権。符籙不在陛下、竟欲安帰。此四支之軽患耳。中山王藉陛下指授神略、天下皆言其英武亜於陛下、兼其残暴多姦、見利 忘義、無伊霍之忠。父子爵位之重、勢傾王室。観其耿耿、常有不満之心。近於東宮曲讌、 有軽皇太子之色。陛下隠忍容之、臣恐陛下万年之後、宗廟必生荊棘、此心腹之重疾也、惟陛下図之」。勒黙然、而竟不従。

 程遐は退出すると、徐光に告げた、「主上〔石勒〕がさきほど、かくかくしかじかと言っていたのだが〔程遐が石勒に石虎を排斥するよう進言したところ、石虎はそんなやつじゃない、自分は太子を輔佐させるつもりだと程遐の勧めを却下したこと〕、(こうであっては)太子〔石弘〕は必ず危険だ。どうしようか?」。徐光、「中山王〔石虎〕はつねに我々二人に歯ぎしりして(嫌って)いるから、(石虎が輔佐に就けば)おそらくたんに国家の危難であるだけでなく、我々の家の禍ともなろう。国と家を安寧させる計略を案じなければならん。ただ黙って禍を受けるわけにはいかぬ」。
 徐光は機会をうかがって再度、石勒に言った、「陛下は八州〔九州=天下の表現を踏まえれば、「天下の九分の八」の意か〕を平定し、帝王となって天下を保有しておりますのに、顔色が喜ばしくないのはどうしてでしょうか?」。
 石勒、「呉と蜀がまだ平定されておらず、文字と車輪の幅が統一されていないし、司馬家はなお丹楊に復興しているから、おそらく後世の人はわたしを(天の)予兆に応じた者ではないとみなすだろう。いつもこのことを考えているから、不覚にも顔色に出てしまったのだろう」。
 徐光、「臣が思いますに、陛下は腹心のやまいを心配する必要があるのであって、四肢のけがを心配するお時間なぞございません。どうしてでしょうか。魏は漢の暦運を継承した正朔の帝王でございます。劉備は巴蜀で漢を復興させたとはいえ、(魏が漢を継いでいる以上、)漢が滅んでいないとは言えません。呉が江東に割拠していたとはいえ、魏の有利な点〔魏が漢を継承していること〕を損なってはおりません。陛下はすでに二都〔洛陽・長安〕を手中におさめ、中国〔中原〕の帝王となっております。かの司馬家の小僧は劉玄徳とどこが違いましょうか。(巴蜀の)李氏も孫権のようなものです。予兆が陛下になければ、最終的にどこに帰結しようというのでしょう。呉蜀のことは四肢の軽いけがのようなものに過ぎません。中山王は陛下が神のような策略を授けたことに頼っているだけですが、天下の者はみな中山王の英略武勇は陛下に次ぐと言っておりまして、加えて残虐で邪悪な行ないが多く、利を見れば義を忘れるような者ですから、伊尹や霍光のような忠誠はないでしょう。(現在)親子で爵位は高く、権勢は王室を傾けるほどであります。(だというのに、)中山王が心を落ち着けていないさまを観察するに、つねに不満の心を抱いているのでしょう。最近では東宮で宴会を催しましたときに、皇太子を軽視する様子が見られました。陛下が我慢して中山王をお許しになっても、臣は陛下の万年のち、宗廟に必ずいばらが生えるであろうことを心配しております。これが腹心の重病であります。陛下はこのことだけをお考えください」。石勒は黙ったが、ついに従わなかった。
 石勒晩年のお話で、石虎の処遇がメインなわけですが、まあここはそんなんいいじゃない。そんなことよりも、ちゃっかり垣間見えている正統観、あるいは歴史観の方が面白いじゃないですか。
 つまり、徐光は後趙=曹魏=中原の帝王だと見る。自分たちは前代の王朝を正式に継承した正朔の帝王だと述べている。そうである以上、前王朝の残党(東晋=蜀漢)だとか、一地方の群雄(成漢=孫呉)が割拠しようが、自分たちの正統はまったく揺るがない。こんなやつら放っておいたって、自分たちの正統は何ら傷つかないから無視で構わん、そんなことより石虎が・・・。そういうロジックなわけだ。
 ここに見られるように、徐光は当時の時代状況を三国時代に擬えている。そう言われると確かに、かなり酷似している。大陸がおおよそ中原・呉・蜀の三つに分割されていて・・・端っこに小勢力(張氏前涼、鮮卑慕容氏)がいるのもどことなく似ている。
 それだけじゃない、劉備のように司馬睿が王朝の復興を掲げて一地方に中興するという政治的状況まで一緒なのだ。まさに三国時代の再来。
 この天下三分が解消されるのは東晋の永和三年(西暦347年)、桓温が漢の李勢を降し、益州を支配域におさめたときであった。以後、前秦に益州を奪われたり、譙縦が益州で自立したりすることはあったものの、基本的には江南王朝が益州を保有することになる。前・三国時代では中原王朝が四川を得て、江南を平定したのだが、今度の三国時代は江南が四川を得てしまったために、なまじ分裂がなかなか収束しなかったとさえ言えるかもしんない(適当
 そういうことなんでね、「三国志」の続編とでも銘打って、「趙・晋・成(漢)」の三国鼎立でだれか書いてみない?

2013年9月29日日曜日

『建康実録』の東晋巻について

 この記事では『建康実録』について書こうと思う。なお簡単な書誌情報については別途、記事(「『建康実録』概要」)を作成したので、そちらを参照されたい。
 さてこの『建康実録』、成立が唐中期とやや古いためもあってか、歴史学的にはそれほど参照されることがないものなのだが、史学史的に見ると、注目すべき価値を持っているものなのだ。
 例えば、劉宋の巻。『建康実録』の劉宋の巻は、簡単に通読しただけでも沈約『宋書』とはかなり雰囲気が異なっていることが明らかなのである。具体的に言うと、地の文に「裴子野曰」と裴子野なる人物の論が挿入されていたり、劉宋の巻末にはその裴子野の総論・自序があったりする。で、この裴子野という人は何ものかというと、かの裴松之を曾祖父に、裴駰(『史記集解』)を祖父にもつ史学の申し子なのだ(生没年=宋・泰始5年(西暦469年)―梁・中大通2年(530年))。やばいっすね。裴子野には『宋略』という著作があったことが知られている。
 『宋略』は沈約『宋書』をベースにしつつ、コンパクト、かつ簡潔にまとめ直したものらしいが、裴子野の独自色も強く表れていたらしく、沈約は『宋略』を見て「こりゃかなわん」と言ったとか[1]、劉知幾も「裴子野のが沈約のより断然良い」なんて言ったりしている[2]。現在は散佚してしまい、諸書に佚文があるのみで、輯本も作られてない[3]
 その裴子野の「論」「総論」「自序」もしくは佚文が『建康実録』の劉宋巻に引用されてるんですよ! まじ!
 そういうこともあってか、劉宋巻は裴子野『宋略』が底本と使用されて編集されたのだと古くから言われており、史料的価値が注目されてきたのです[4]。すでに史学史では『宋略』=底本説が通説っぽくなっているのだけども[5]、まあ昨年色々あって巻11武帝紀を徐爰『宋書』(佚文)、沈約『宋書』、李延寿『南史』と比較検討しながら読んだのだが、やはり『建康実録』の物語のプロットは独自なものがあって、『宋略』をベースにして編集をしているという説も、巻11に限って言えばその通りなんじゃないかと思う。

 と、長くなってしまったが、今回はこんなことを言いたかったのではない。あくまで東晋巻について書くつもりなのだ。
 わたしが注目したいのはつぎの記事。
是歳、散騎常侍領著作孫綽卒。
綽字興公、太原郡人也。馮翊太守楚之子。永嘉喪乱、幼与兄統相携渡江。・・・卒、時年五十八。
 この記事は巻8簡文帝紀の咸安元年(371年)の条にある。以前に六朝期の編年体史書は、紀年(「経」)の間に「伝」を挿入する形式であったことを指摘したが(「六朝期における編年体史書」)、この記事もその例に漏れず、孫綽死没の記事のあとに孫綽の簡潔な列伝が記されている。この『建康実録』の記事によると、孫綽は咸安元年に享年58で没したということになる。すると生年は建興2年(314年)になろう。
 それがいったい何だねと思われようが、じつは唐修『晋書』には孫綽の没年が記されていないのである。なので、孫綽の生年なぞわかりようがなかったのだが、『建康実録』によって判明したのだ。お手柄だね!
 それだけじゃない、孫綽の生年が判明したことでもう一つわかりそうなのが、孫盛の生没年だ。上掲の孫綽の略歴にもあるように、彼は「永嘉の乱」の際に兄の孫統と長江を渡った。「永嘉の乱」というと、なんとなく洛陽が陥落した永嘉5年(311年)のことであろうと考えてしまう。が、「永嘉の乱」というのは非常にあいまいな用語で、建興4年の長安陥落までを含めて「永嘉の乱」と言うこともある。まあそこら辺は機会があったら記事にしましょう。
 だが、孫綽の生年が上述したとおりであるとすれば、かれが永嘉5年に長江を渡ることは不可能であり、孫氏兄弟の渡江は建興2年以降となりそうだ。さらに重要なことに、この孫氏兄弟の渡江には従弟の孫盛が同行していた。孫盛はそのとき10歳であったという(『晋書』巻82孫盛伝)。もし孫子兄弟の渡江が永嘉5年であるとすれば、孫盛の生没年は太安元年(302年)―寧康元年(373年)と簡単に計算できるのだが・・・現に先行研究ではそのように推測されてきた[6]。だが孫綽の生年が上述の通りであるとすると、孫盛のそのような生没年推測は成り立たないことになるのだ。! なんとまあ、孫綽の生没年がわかるだけで色々わかること!
 しかし問題は、『建康実録』の記事は信頼できるのか、ということだ。なにしろ成立は唐代なのだ、この記事は信頼できんのだと一蹴しようと思えばできんこともなさそうである(というかされた)。
 が、どうであろう。冒頭でわざわざ、『建康実録』の劉宋巻は沈約『宋書』や李延寿『南史』とは別系統の史書・裴子野『宋略』をベースにしている可能性が高いと言ったのは、他の巻でもその可能性が考えられるのではないかと言いたかったからだ。安田二郎氏が『建康実録』独自の文を全く信頼ならないものではなく、佚書『宋略』に基づく貴重な史料だと見なしたように、上の孫綽の記事も信頼に足らぬ記事ではなく、何らかの佚書からの文章であると考えるべきでないだろうか。例えばそう、東晋・徐広『晋紀』だとか劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』だとか。わたしはそういう可能性で考えるべきだし、少なくとも、『建康実録』の文が全くデタラメであるという根拠がない限り、『建康実録』の独自情報は無視すべきでないと思う。

 そういうわけで、わたしは劉宋巻にはもう飽きてしまったのだけど、逆に東晋巻にはたいへん興味を持っていて、いつか唐修『晋書』だとかと色々比較して、『建康実録』をしっかり分析してみたいなあと考えたりしてます。おわり

――注――

[1]『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒、子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其敘事評論多善、約見而歎曰、『吾弗逮也』。蘭陵蕭琛・北地傅昭・汝南周捨咸称重之」。[上に戻る]

[2]『史通』内篇・叙事「夫識宝者稀、知音蓋寡。近有裴子野『宋略』・王劭『斉志』、此二家者、並長於叙事、無愧古人」、同書外篇・古今正史「世之言宋史者、以裴略為上、沈書次之」など。そもそも劉知幾さんは編年体が好きだし、沈約が嫌いだったようで所々で悪口言ってるし、まあそういうとこもあって、裴子野>沈約と評価している印象もある。[上に戻る]

[3]佚文に関してはつぎの通り。
「論」(「裴子野曰」)→『建康実録』(巻11・12・14に複数)、『資治通鑑』(巻128(二つ有)・132・133)、『通典』(巻14・16・141)、『文苑英華』(巻754)。『建康実録』以外は厳可均『全梁文』巻53に収録されている。これらはわたしが実見したものだけに限っているが、ほか『長短経』という唐代の書物にも裴子野の「論」が引用されているという。詳しくは、周斌「『長短経』所引『宋略』史論的文献価値」(『史学史研究』2003-4)を参照。また「総論」に関しては、蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)で詳細な校勘がなされている。
佚文→『建康実録』(巻13に4条)
 そもそも『宋略』に限った話ではないのだが、散佚した宋史に関しては全く輯本が無い(『古佚書輯本目録』および『六朝史学』「佚書輯本目録」を確認した限りでは。ただ実見はしていないのだけども、周斌氏によると、唐燮軍「也論裴子野的『宋略』」(『史学史研究』2002-3)が『宋略』の輯佚・校注を行なっているらしい)。『太平御覧』等には、徐爰『宋書』(孝武帝年間成立。沈約『宋書』のベースになったと言われている。『太平御覧』『芸文類聚』の皇帝略歴の項目には、沈約ではなくこれが引かれている。おそらく北斉『修文殿御覧』の影響だろう)、王琰『宋春秋』なんかが引用されているのだけどね。とはいっても、「旧晋史」と比べれば圧倒的に佚文は少ないし、いたしかたない。[上に戻る]

[4]王鳴盛『十七史商搉』巻64「建康実録」、『四庫全書総目』巻50など。安田二郎氏は『建康実録』にしか見られない文章に着目し、それが唐の許嵩が勝手に書き込んだものではなく、裴子野『宋略』独自の文だと解釈することで、土断の新解釈を示されている(安田二郎『六朝政治史の研究』第十章、京都大学学術出版会、2003年)。『建康実録』が『宋略』ベースであれば、いくら唐代成立の書物であるとはいっても、南朝史研究に棄ておけない史料となるのである。[上に戻る]

[5]唐燮軍氏は、原注もしくは地の文にしばしば沈約『宋書』がママ引用されていることを指摘し、完全に『宋略』ベースではないとする。唐燮軍「辨『建康実録』記宋史全据『宋略』為藍本」(『中国史研究』2005-2)参照。いやまあ、代々「藍本」(底本)とわざわざ言われてきたのは、あくまでベースって話では? そりゃ完全な丸写しをしているなんて誰も思ってないだろうし、許嵩なりのアレンジはあるでしょう。そこに沈約や李延寿の文章が混じっていたって、当然なんじゃないかな。
 しかしながら、わたしも少し慎重に考えた方が良いかもしれないと思っている。裴子野の引用状況にはばらつきがあるからだ。最初の武帝紀、文帝紀にはけっこう「論」が見られるのに、それ以降はぱったりしてしまう。いったいどういうことだろうか。まだちゃんと全面的に検討してないので、いずれちゃんと調べてみたいね。[上に戻る]

[6]蜂屋邦夫「孫盛の歴史評と老子批判」(『東洋文化研究所紀要』81、1980年)p. 22、松岡栄志「孫盛伝(晋書)――ある六朝人の軌跡」(伊藤漱平編『中国の古典文学――作品選説』東京大学出版会、1981年)p. 33、喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1989年)「前言」p. 6、長谷川滋成『孫綽の研究――理想の「道」に憧れる詩人』(汲古書院、1999年)pp. 16-19参照。長谷川氏は上掲の『建康実録』の記事を引いて、これだと孫盛が永嘉4年に渡江することは不可能になるとしつつも、『建康実録』の記事は信頼できないとして棄却している。
 対して、『建康実録』の情報を積極的に活用したのが王建国氏で、氏は孫氏の渡江を長安が陥落した建興4年(316年)にかけ、孫盛の生没年を永嘉元年(307年)―太元3年(378年)と推定している。王建国「孫盛若干生平事迹及著述考辨」(『洛陽師範学院学報』2006‐3)参照。まあ別に建興4年にかける必要もない気はするけど、『建康実録』を無視した説よりは支持できる。[上に戻る]

『建康実録』概要

 『建康実録』という史書をご存知だろうか。コアな方なら知っておられようが、あまり一般での知名度は高くないはずだ。
 『建康実録』は「六朝」の事跡を叙述した史書のことである。具体的には、孫呉(巻1~4)、東晋(5~10)、劉宋(11~14)、南斉(15・16)、(17・18)、(19・20)。基本的には編年体だが、劉宋以降は列伝が附され、南斉・梁は完全に紀伝体となっている。孫呉や東晋の巻では、原注のような形で佚書が引用されることもしばしばある(特に建康に関する情報が豊富なことで有名)[1]。撰者は「序」で、
①「南朝六代」「東夏之事」を記載範囲とする
②「六朝君臣」の事跡については、必ずしも完備を追求しない
③「土地山川」「城池宮苑」については、その場所を明示する
④異聞は煩瑣にならない程度に注記しておく
などと述べている。
 撰者は唐の許嵩。その事跡は不明だが、『建康実録』巻10恭帝紀の末尾にある「案、東晋元帝即位太興元年、至唐至徳元年、合四百四十年」という記載から、玄宗・粛宗期の人だと考えられている。この許嵩、どうも建康に居住して、六朝時代の史跡を実見している可能性が高いようである。先も少し触れたように、建康関連の情報が豊富であることや、山川や宮城の場所を明記するという編纂方針からしても、そのことが推測されようし、『宋史』芸文志によると、許嵩は『六朝宮苑記』という書物も作っているようなので、地理関連に関してはなかなか豊かな知識を持っているようだ。
 しかし、そういう特徴=長所があるとはいえ、『建康実録』の評価は低い。後世での評価の主なものを箇条書きにしてみると、
・編年体なのか紀伝体なのか。体裁の不統一はちょっとなぁ・・・(群斉読書志、四庫総目)
・佚書を豊富に引いているのはよろしい(四庫総目)
・列伝の取捨選択のバランス悪い、李延寿にはるかに及ばない(王鳴盛)
・南斉・梁・陳の記述にやる気を感じられない
 一番最後は誰が言っていたか忘れてしまったが、まさしくその通り。はじめの孫呉、東晋まではかなり力の入った記述なんですよ、原注もたくさんつけているし。ところが、劉宋くらいから雲行きが怪しい。なんかテキトーに書いてんじゃねえのコイツ?みたいな雰囲気が漂い始め、南斉・梁・陳に関しては、(正確に検討はしていないけど)「正史」の本紀・列伝をコピペしただけ。なんともお粗末。全体を細かく検討したというわけではないので、根拠があまりない推測になってしまうが、『建康実録』は未完の書なんじゃないか、と思うことがある。本来は編年体で統一するつもりだったが、途中でやる気がなくなったかなんかで、結局紀伝体(=編集途中)のまま放置してしまった、みたいな。あるいは南斉・梁・陳に関しては、手本となる良質な編年体史書が無かったとか? いやそうだったら、自分で編集して編年体にまとめればいいじゃん、って結局そうなるのだけど[2]

 つぎに本について少しまとめておこう。じつは『建康実録』、上述したように一つの史書としては非常に中途半端であったためか、北宋の中ごろに伝えられていた本はすでにボロボロで、欠損や錯簡がひどく、読むのも困難であったらしい。そこで北宋の嘉祐3年(西暦1058年)に校訂が行なわれ、翌年に完了し[3]、一応の版本ができた。この北宋嘉祐本は現存こそしていないものの、このあとに成立した本の系統の祖本であるらしい。もちろん、この北宋本で欠損や錯簡が完全に復元されたわけではない。最新の本でも残欠が残っていたり、読みづらい箇所が多々あったりするのも、北宋本以来、もうどうしようもないところなのだろう。
 現存で最も古い本は「紹興十八年(1148年)」の記載がある南宋紹興本(刊刻本)である。北宋本を継承したと思われるが、かなり誤りが多いらしい。その他にも色々本はあるのだけど、とりあえず現在最も利便な本は、張忱石氏が校訂した『建康実録』上・下(中華書局、1986年)である。これは清の光緒28年(1902年)に刊行された清光緒甘氏本を底本とし、その他現存する刊刻本・鈔本(写本)をほぼ全て参照して校勘、さらに正史や『資治通鑑』などの関連史書も利用して校訂したという。[4]
 要するに本にまで触れておいて何が言いたかったのかというと、『建康実録』は祖本となる北宋本以来、残欠や錯簡があり、不完全な書物である、ということが言いたかった。


――注――

[1]佚文の蒐集家として著名な厳可均、湯球も『建康実録』の佚文だけは蒐集していない。なので、「全文」や「八家旧晋書」の輯本だけで満足しないように。ちなみに最近出版された『三十国春秋輯本』(湯球輯、呉振清校注、天津古籍出版社、2009年)は、湯球が集め損ねた『建康実録』原注引用の『三十国春秋』を集め直してある。[上に戻る]

[2]安田二郎氏も、「体例の不純一つ取っても、もしも許嵩が再度見直して余裕をもって対処したら、調整、補訂が十分できるミスや欠陥だったのではないでしょうか。・・・何らかの切迫した事情があり、慌ただしく書かざるを得なかった書物ではないかと考えられてくるのです。」「序文で『歴史的事実は正史に質し』などと大書しているのに、実際には基礎的、基本的知識のないまま、しかも正史をきちんと読みもせず、ノリとハサミで大急ぎで書き上げた体の書物であり、第一次的草稿としか言いようのないように思われます。」と述べている。安田二郎「許嵩と『建康実録』」(『六朝学術学会報』7、2006年)pp. 127, 129 参照(強調は筆者)。[上に戻る]

[3]『建康実録』最後の巻である巻20の末尾に「江甯府嘉祐三年十一月開造『建康実録』、並按三国志、東西晋書并南北史校勘、至嘉祐四年五月畢工、凡ニ十巻、揔二十五万七千五百七十七字、計一千策」とある。『三国志』だとか他の史書を参照しつつ、校訂を行なったらしい。なお原文の書き方として、ここで言及されている「晋書」や「南北史」は、唐修『晋書』や李延寿の「南北史」を指す固有名詞ではなく、「西晋と東晋の史書ならびに南朝・北朝の史書」のことを言っているのかもしれない(そのように解釈すれば、沈約『宋書』、蕭子顕『南斉書』も「南北史」に含まれることになる)。[上に戻る]

[4]以上、『建康実録』の基礎的内容や版本情報は、張氏テキストの上巻「点校説明」を主に参照した。[上に戻る]

2013年9月23日月曜日

太宰と太師が並置できるってまじ?

 昨日の太宰に関する記事を出したあと、ツイッターで次のような指摘を頂いた。


 さっそく見てみると、『晋書』巻111慕容暐載記に以下のような記事がある。
升平四年、僭即皇帝位、大赦境内、改元曰建熙、立其母可足渾氏為皇太后。以慕容恪 為太宰・録尚書、行周公事。慕容評為太傅、副賛朝政。慕輿根為太師。・・・

升平四年、(慕容暐は)僭越にも皇帝の位についた。支配領域内に大赦を下し、建煕と改元し、母の可足渾氏を皇太后に立てた。慕容恪を太宰・録尚書とし、行周公事[1]とした。慕容評を太傅とし、朝政を輔佐させた。慕輿根を太師とした。・・・
 確かに並置されている・・・!
 そしてこの指摘を受けて思い出したのだが、匈奴劉氏の漢も太宰と太師が並置されているのだ。
粲誅其太宰・上洛王劉景、太師・昌国公劉顗、大司馬・済南王劉驥、大司徒・斉王劉勱等。(『晋書』巻102劉聡載記)

劉粲は太宰の上洛王劉景、太師の昌国公劉顗、大司馬の済南王劉驥、大司徒の斉王劉勱らを誅殺した。
 もうっ、匈奴ったらあほたむだなぁっ! くらいにしか思ってなかった。そりゃそうだろう、「太宰=太師の別称」説に立っていれば、こんなん無知にしか思えん。しかも非漢族政権ときたもんだから、まあ無知でもしょうがなかろうと考えてしまう。
 が、しかし先日の記事で指摘したように、『斉職儀』に記されている説=「太宰は単に『周礼』に従って置いただけで、諱を避けるために太師の代わりとして置いたわけではない」という話を信じれば、これら五胡政権の並置は何ら不思議なことではなくなるのだ。だって、そもそも太宰は太師の別称ではないし、太宰と太師とは全く別の独立した役職ということになるのだから。
 それに、つい五胡政権だから中国官制に無知だろうなんて思ってしまうけれど、こうした中国式制度の確立・整備をするためには、漢人知識人の力が必要だ。というか彼ら漢人ブレーンによってほとんど構築されているに違いなかろう。もし「太宰=太師」であるというのなら、彼ら漢人ブレーンがそんな単純なミスを犯すとも思えない。という風に考えると、「太宰=太師」説というのはかなり胡散臭く思えないだろうか。

 ということで、別に決定的な根拠があるわけではないが、わたしは「太宰とは、諱を避けるために太師の代わりとして置かれた官職である」という説を棄却し、「『周礼』に従って設けた官職であって、太師とは関係なく置かれた」説を採用しようと思う。沈約さん、あんたまちがってるで、あんたの採用した説が俗説なんや!(ドヤ


――注――

[1]周公のような権限あげますということ。周公は太宰であったと伝えられているから(『漢書』王莽伝・上、『宋書』百官志・上など)、その故事を意識して太宰と行周公事をセットで与えたのだろう。[上に戻る]

2013年9月22日日曜日

太宰ってさあ・・・

 Wikiより引用。
晋において再度太師、太傅、太保を置いたが、「師」が景帝司馬師の諱であることから避けて太師を太宰と称した。
 このWikiの記述は『宋書』百官志・上に基づいているようだ。本ブログの訳注より引用。
太宰は一人。周の武王のとき、周公旦が初めてこれに就任し、国の政治を掌り、六卿の第一位であった。秦、漢、魏は置かなかった。晋の初め、『周礼』に拠って三公を設置した。三公の官職では太師が第一位であったが、景帝の諱が「師」であったため、太宰を置いて太師の代わりとした。
 わたしもすっかりそうなんだろうと思っていた。けれど、訳注作成中に記事を整理していたところ、訳注でも紹介した『斉職儀』に次のようにあるじゃありませんか。
太宰品第一、金章紫綬、佩山玄玉。・・・秦漢魏無其職、晋武以従祖安平王孚為太宰。安平薨、省。咸寧四年又置。或謂、本太師之職、避景帝諱、改為大宰。〔或謂、太宰、周之卿位、〕晋武依周、置職以尊安平、非避諱也元興中、恭帝為太宰桓玄都督中外、博士徐豁議、太宰非武官、不応都督、遂従豁議。(『太平御覧』巻206引)

太宰の官品は一、金の章・紫色の綬で、山玄玉を佩く。・・・秦・漢・魏には置かれなかったが、晋の武帝は従祖の安平王孚を太宰とした。安平王孚が薨ずると、(太宰を)廃した。咸寧四年にまた置いた。一説に、元来は「太師」であったが、景帝の諱を避けて、「太宰」に改められたと言う。また別の一説に、太宰は周の卿であり、晋は周に倣って「太宰」を置き、安平王孚を(それに任じることで)尊重したのであって、諱を避けたわけではないと言う晋の元興年間、恭帝は太宰の桓玄を都督中外諸軍事にしようとしたが、博士の徐豁が議して、太宰は武官でないから都督中外諸軍事は相応しくないとしたため、ついに徐豁の議に従っ(て桓玄を都督中外にしなかっ)た
 諱を避けたわけでも何でもなく、単に西晋王朝の周回帰志向から太宰が置かれたという[1]まあたしかに、太(大)宰は『周礼』に出てくるが、太師は出てこない。(『周礼』にそのままの字句で登場こそしないが、春官に師氏があるのでこういうふうに言うのは問題ありであった。というわけで訂正する。――2016年8月9日)全くのデタラメとも言い難い。
 そもそもこの『斉職儀』とは何か。『隋書』経籍志二には二つの『斉職儀』が掲載されている。一つが南斉の王珪之の撰で五十巻、もう一つが撰者不明の五巻[2]。王珪之は琅邪王氏の一人で、『南斉書』巻52文学伝、『南史』巻24王准之伝に附伝が設けられており、それらに『斉職儀』編纂のことも明記してある。後者の撰者不明のやつは、五十巻本のダイジェスト版とかかもしれんね。
 内容については、次の『南斉書』の附伝の記述を参照いただきたい。
永明九年、其子中軍参軍顥上啓曰、「臣亡父故長水校尉珪之、藉素為基、依儒習性。以宋元徽二年、被敕使纂集古設官歴代分職、凡在墳策、必尽詳究。是以等級掌司、咸加編録、黜陟遷補、〔悉〕該研記、述章服之差、兼冠佩之飾。属値啓運、軌度惟新、故太宰臣淵奉宣敕旨、使速洗正、刊定未畢、臣私門凶禍。不揆庸微、謹冒啓上、凡五十巻、謂之斉職儀。仰希永升天閣、長銘祕府」。詔付祕閣。

永明九年(西暦491年)、王珪之の子である中軍参軍の顥が上申した、「臣の亡父である、もと長水校尉の珪之は、飾り立てずに本心のままに在り、儒学を拠りどころとして習慣にしていました。宋の元微二年(474年)、勅命を受け、過去に置かれた官職や歴代の職務(の変遷)をまとめること、古籍の記述にあるものはすべて、必ず網羅することを命じられました。こうして、(官職の)位の階級や職掌は、すべて記述され、(時代に伴う官の位の)上下の移動や変更、追加も万遍なく調査して記録し、(さらに官の)印章や服装の等級、冠と佩玉の装飾品(の差異)も記しましたちょうど革命の時期にあたり、車輪の幅と度量衡が改まり(天下が一新し)ましたので、もと太宰の褚淵が勅使を伝えて参りまして、急ぎ整理して校正するようにとのことでしたが、校正が終わらないうちに、臣の家に不幸が襲ってきたのでした。不才ではございますが、ここにつつしんで申し上げたく存じます。全てで五十巻、『斉職儀』と申します。永代まで朝廷の秘閣に所蔵されますことをお願い申し上げます」。詔が下り、秘閣に所蔵された。
 南斉の官職について述べたものではなく、南斉の時期に朝廷に収められたから『斉職儀』と名付けられたのだろう。内容や編纂方針としては『宋書』百官志とそれほど変わらないように思える。
 だとすれば不思議なのが、どうして沈約は先の太宰にまつわるエピソードを一つ採用、一つリジェクトしたのだろうか。沈約は建元四年(482年)に最初の『宋書』編纂の勅旨を下され、永明六年(488年)に本紀・列伝を完成させ、謹上した。志に関してはその後、梁の初めころに完成したと見られている(中華書局標点本の「出版説明」)。とすれば、沈約が『斉職儀』を見ていなかったということは考えにくい。むしろ、司馬彪『続漢書』の志の続編を目指して編纂された何承天『宋書』の志の、その後継たらんとする沈約であれば(『宋書』巻11志序)、宋一代に留まらない志の編纂を方針にしていたはずであって、歴代の沿革を概述したと言う『斉職儀』はまたとない手本に成り得たはずなのだから、参照しないというのは余計に考えにくいところがある。
 まあどこだったかは忘れてしまったが、博学の沈約さんは「俗説」と判断したものはわりと簡単に切ってしててしまったりしてるところがあるし、「太宰は諱を避けたわけではない」説もそういう感じで切り捨てられてしまったんだろうか。

 集めた史料を改めて見ていると、こういう発見がたまにあるもんだからなかなか。ブログのアクセス数的には『宋書』百官志訳注はオワ記事だけど、今回のこういう収穫があったので満足。


――注――

[1]小林聡先生、渡邉義浩先生などがそういった傾向を指摘・強調していたように思う。[上に戻る]

[2]『旧唐書』経籍志・上だと撰者が范曄になっているが、これはありえない、誤りだろう。范曄には『百官階次』という官職関連の著述がいちおうあるけどね。[上に戻る]

2013年9月15日日曜日

後漢の駅吏?(五一広場東漢簡より)

 最近、長沙から後漢時代の簡牘が出土したそうだ。あの走馬楼とかなり近い地点であるらしい。
 『文物』(2013・6)に掲載されている発掘簡報によると、2010年、地下鉄建設のため下水管移動工事をしてたら、穴倉(?)が出てきて、そこから簡牘が見つかったそうだ。まだ整理中とのことで、総枚数は不明とのことだが、一万枚前後はあるという。簡牘のほかにも磚や木器が出土しているとのこと。
 簡牘は様々な形状のものが出土しており、なかにはけっこう大型な木牘もある。掲載されている図版を見ると、いくつかに編綴痕も見えている(J1③:325-1-12A、J1③:201-30)。多くが木製で、保存状態が良く、文字が見やすいうえ、多くの簡牘に紀年が記されているから時期も判明したそうで、最も早い年号は後漢・章帝の章和四年(西暦90年)、下限は安帝の永初五年(112年)。おおよそこの時期の簡牘群であるらしい。その多くは官文書であり、だいたいどういう感じの内容が多いかまでまとめてくれているのだが、長くて読む気がせんので、興味のある方はご自分で買ってみてね☆

 わたしは簡牘が読めない人間なのだけど、とりあえず字面だけでも眺めてみると、少し興味深いものがあった。
案(?)都郷利里大男張雄、南郷匠里舒俊、逢門里朱循、東門里楽竟、中郷泉陽里熊趙皆坐。雄賊曹掾、俊・循吏、竟驂駕、趙駅曹史駅卒李崇当為屈甫証。二年十二月卅一日、被府都部書、逐召崇不得。雄・俊・循・竟典主者掾史、知崇当為甫要証、被書召崇、皆不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月壬辰朔十二日壬寅、直符戸曹史盛劾、敢言之。謹移獄、謁以律令従事、敢言之。(J1③:281-5A)
 訳は載せません(察してください)。簡報の解釈も参照すると、大意は次の通り。
 永初二年十二月三十一日、長沙太守府は駅卒の李崇を重要証人として呼び出す指令書を下した(何についての証人なのかは知らん[1])。しかし、李崇を連れてくる仕事を担当すべきであった、賊曹掾の張雄、吏の舒俊と朱循、驂駕の楽竟、駅曹史の熊趙は指令が下っていることを知っておきながら、仕事をしなかった。永初三年正月十二日、この件について、直符戸曹史の盛という人が彼らを弾劾し、罰するよう要請した。
 わたしが注目したのは駅に関する肩書が見えている点だ。従来、駅については体系的な史料がなく、どういう人たちが駅で働いていたのかとかそういったこともあまりわからなかったのである。まず駅の役人から考えてみよう。『続漢書』輿服志の劉昭注に、
臣昭案、東晋猶有郵駅共置、承受傍郡県文書。有郵有駅、行伝以相付。県置屋二区。有承駅吏、皆條所受書、毎月言上州郡。『風俗通』曰、「今吏郵書掾・府督郵、職掌此」。
と、東晋時代までは「駅吏」がいたような感じの記述が残されている。「駅吏」というのは「駅に勤務している役人」といった感じで、肩書でもなんでもないと思われるので、あまりロクな史料ではないようだが、まあとりあえず役人が管理しているようだということは確認できそうだ。
 さらに西北辺境の簡牘を見てみると、「駅小史」[2]とか「駅佐」(懸泉漢簡91DXF⑬C:34)が見えている。しかしこれらはあくまで西北辺境の話、特殊な話なのだから一般化が難しい。実際、前漢後期ころと考えられている尹湾漢簡では、亭や郵については記述があるのに、駅については何も書かれていない。そもそも駅なんていう組織[3]自体、辺境地域にしか存在しなかったんじゃないかと勘繰りたくなってくる。
 が、先に掲げた東漢簡には「駅曹史」とあるじゃありませんか。官制にあんま精通していないわたしには、この「駅曹史」が郡吏なのか県吏なのかはわかりませんが、駅で曹が設けられていたというのはじつに興味深い。やはり内郡にも駅は存在した。ちなみに時期は少し下るが、西晋・恵帝年間ころのものと思われる郴州晋簡は、長沙より南の桂陽郡における上計文書らしいと考えられているが、公表されている簡には(湖南省文物考古研究所・郴州市文物処「湖南郴州蘇仙橋遺址発掘簡報」、『湖南考古輯刊』8、岳麓書社、2009年)
都郵南到穀駅廿五里、吏黄明、士三人、主。(1-26)

和郵到両橋駅一百廿里、吏李頻、士四人、主。(2-384)
というものがある。わたしはこれらを以下のように読んでいる。
都郵の南のほう二十五里で穀駅に行き着く。(穀駅は)吏の黄明と三人の士によって管理されている。

和郵から百二十里で両橋駅に行き着く。(両橋駅は)吏の李頻と四人の士によって管理されている。
 さらに郴州晋簡には次のような簡もある。
松泊郵南到徳陽亭廿五里、吏区浦、民二人、主。(2-166)

松泊郵の南のほう二十五里で徳陽亭に行き着く。(徳陽亭は)吏の区浦と二人の民によって管理されている。
 駅には「士」が、亭には「民」が配置されていることになっているのだが、どうやらこれは偶然ではなく、そのように規則化されていたらしいふしがある。というのも、
卅六尉健民・郵亭津民。(1-56)
とあるように、郵や亭には民があったことは書かれているが、ここに駅が含まれていないからである。すなわち、駅の「士」とは「民」の言い換え表現とかそんなんではなく、意図的に「士」と書いている可能性が高い。当該時代の「士」と言えば、いわゆる「兵戸」や兵士を意味する用例が多いことを考えると、駅で働く人間が「士」であるのは当然と言われれば当然かもしれない。「二年律令」などを参照するに、郵人(民)の業務は文書の伝達とか、宿泊する官吏の接待とか、雑務であるのに対し、駅の役割は不明瞭な点が多いとはいえ、馬を使用した伝達業務を主としたことは確かであると思われる。つまり、馬に乗れないと話にならんのだ。そんじょそこらの民を連れてきて訓練するより、もともと乗れるやつ、乗れる資質(期待値)が高そうなやつを引っ張ってきた方が効率良いに決まっている。郴州晋簡で、郵や亭には民が勤務しているのに対し、駅では士である事情は、このように考えることができるのではないだろうか。

 わたしは郴州晋簡の「駅士」の前身にあたる人はいるだろうか、と気になり、漢簡を多少調べたことがある。管見の限り、「駅士」は見つからなかった。が、おそらく「駅士」と同様の働きをしているんじゃないかと思われる「駅騎」という人たちを、懸泉漢簡から多数見つけることができた。一例挙げると、懸泉漢簡Ⅴ1612④:11A(胡平生・張徳芳編『敦煌懸泉漢簡釈粹』上海古籍出版社、2001年)
皇帝橐書一封、賜敦煌太守。元平元年十一月癸丑夜幾少半時、県(懸)泉駅騎伝受万年駅騎広宗、到夜少半時付平望駅騎
 また、居延漢簡には次のような記録も見えている。居延漢簡EPT49‐29(『居延新簡』中華書局、1994年)
〼□分、万年駅卒徐訟行封橐一封、詣大将軍、合檄一封、付武彊駅卒 無印
 なんと、ここには「駅卒」が見えているのだ。そう、すでに遠い昔の話になってしまったが、今回ピックアップした東漢簡にも「駅卒」が見えているのである。なのでちょっとテンション上がったのだ。

 しかし、駅騎と駅卒は何が違うのだろう? 両者は同一だとする理解が一般的なように見受けられるが[4]、わたしにはそう言い切るのには少し抵抗がある。特に根拠という根拠はないんですが・・・。じつは、いちおうわたしが見た限りでは、「駅卒」の事例は上の居延漢簡以外に見つからなかったのです。事例が少ないから、もう少し慎重に考えておきたいという程度のことです。そう思ってた時に、東漢簡に「駅卒」が出てきたもんだから、おお!となりましたわ。まあ何をやってたのかはわからんが[5]

 ということでね、ほんの少しだけですが、東漢簡を見た感想を述べてみた次第です。ちなみに、先の東漢簡の話の後日談を伝える簡も公表されています。
臨湘耐罪大男都郷利里張雄、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷匠里舒俊、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷逢門里朱循、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷東門里楽竟、年卅歳。
臨湘耐罪大男中郷泉陽里熊趙、年廿六歳。
皆坐吏不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月十二月系。(J1③:201-30)
 臨湘は長沙郡の属県。耐は、ひげを剃り落として髪は残す二年以上の強制労働刑を言う(濱口重國「漢代に於ける強制労働刑その他」、同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、東大出版会、1966年、注27〔pp. 654-656〕)[6]。あんまりここら辺は知識もあやふやなんですが、まあ臨湘で強制労働に就いたということでしょう。弾劾された正月十二日の日付があるところをみると、弾劾即判決ということなのだろうか。そうか、かわいそう、でもないけど・・・。


――注――

[1]発掘簡報によると、どうもこの文書は前半部分が欠けているようなので、どういう事情があったのかは詳しくわからんみたいだ。[上に戻る]

[2]懸泉漢簡ⅡT0214③:57(張経久・張俊民「敦煌漢代懸泉置遺址出土的“騎置”簡」、『敦煌学輯刊』2008-2)

元康二年四月戊申昼七時八分、県(懸)泉訳(駅)小史寿肩受平望訳(駅)小史奉世、到昼八時付万年訳(駅)小史識寛。
 居延漢簡413‐3(謝桂華・李均明・朱国炤『居延漢簡釈文合校』文物出版社、1987年)
●凡出粟三十三石 給卒・駅小史十人三月食。
 わたしが見つけられたのはこんなもん。[上に戻る]

[3]燧に駅馬が備わっていることを示す簡牘史料があるため、燧の外部に駅馬を備えた駅という建造物が存在したというより、駅馬管理や駅馬を利用した文書伝達業務を管轄した組織のことを駅と呼んでいたと、わたしは考えている。冨谷至「漢代の地方行政――漢簡に見える亭の分析」(同氏『文書行政の漢帝国』名古屋大学出版会、2010年)も参照。[上に戻る]

[4]前掲張経久・張俊民論文、鷹取祐司「秦漢時代の文書伝送方式――以郵行・以県次行・以亭行」(『立命館文学』619、2010年)[上に戻る]

[5]ついでながら駅騎について補足しておくと、張氏、鷹取氏によれば、駅騎は文書伝達業務、駅馬の飼育を行っていたようである。[上に戻る]

[6]完城旦(四年刑)、鬼薪(三年刑)、隷臣(三年刑)、司寇(二年刑)。以上の強制労働刑は耐=ひげを剃り落とす処分もあったということになる。なので、濱口氏によれば、こられの刑を「丁寧に記述」すれば、「耐為司寇」などとなる、とのことである。刑罰に関しては、その後の研究で修整された箇所もあるかもしれんが、わたしはあまり把握してないので申し訳ないが濱口氏の研究で良しとさせていただく。[上に戻る]

2013年9月8日日曜日

劉氏の系図への疑義――「匈奴」劉氏と屠各種(1)

 これまで、二回にわたって後漢末の匈奴・去卑について、記事を書いてきた。そのうちの二回目の記事の末尾で、屠各種について少し触れておいた。今回はその屠各種についてまとめようと思います。ほんとに学説史をまとめた程度のものですが、補足としての意味合いも兼ねて記事にしたんですわ。

 さて、わたしは、劉淵は於扶羅の孫ではないし、そもそも劉氏は南単于の血統に当たらないといったような話をしてきた。しかし、その点に関して、十分な根拠を示していなかったと思う。劉氏が南単于に反抗的な一族であることは論じたものの、だからといって劉氏は南単于の一族でないということが証明されたわけではない。今回は、わたしがある程度受け入れ、劉氏は南匈奴ではないと考えるようにいたった根拠の一つにあたる、「屠各種は南匈奴ではない」説を紹介しようと思う。

 まず『晋書』巻97四夷伝・北狄匈奴伝を引用しておこう。
北狄以部落為類、其入居塞者有屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黒狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀頼種・鍾跂種・大楼種・雍屈種・真樹種・力羯種、凡十九種、皆有部落、不相雑錯。屠各最豪貴、故得為単于、統領諸種。其国号有左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左於陸王・右於陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左独鹿王・右独鹿王・左顕禄王・右顕禄王・左安楽王・右安楽王、凡十六等、皆用単于親子弟也。其左賢王最貴、唯太子得居之。其四姓、有呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏。而呼延氏最貴、則有左日逐・右日逐、世為輔相。卜氏則有左沮渠・右沮渠。蘭氏則有左 当戸・右当戸。喬氏則有左都侯・右都侯。又有車陽・沮渠・余地諸雑号、猶中国百官也。其国人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。

北狄は部落をもって類をなしている。(北狄の中で)中国に入居した類は、屠各種、鮮支種、寇頭種、烏譚種、赤勒種、捍蛭種、黒狼種、赤沙種、鬱鞞種、萎莎種 、禿童種、勃蔑種、羌渠種 、賀頼種、鍾跂種、大樓種、雍屈種、真樹種、力羯種 、以上十九種である。みな部落を有し、互いに入り乱れることはなかった。屠各種はもっとも権力をもった貴種であり、ゆえに単于となることができ、諸々の種族を統率していた。匈奴の国の称号には左賢王、右賢王、左奕蠡王、右奕蠡王、左於陸王、右於陸王、左漸尚王、右漸尚王、左朔方王、右朔方王、左独鹿王、右独鹿王、左顕禄王、右顕禄王、左安楽王、右安楽王、以上十六等級あり、みな単于の親族子弟を任用した。この中でも左賢王が最も貴く、唯一太子だけが就くことができた。匈奴の四姓に、呼延氏、卜氏 、蘭氏、喬氏がある。呼延氏が最も貴く、左日逐、右日逐の称号を有し、代々単于の補佐を務めている。卜氏は左沮渠、右沮渠を有し、蘭氏は左当戸、右当戸を有し、喬氏は左都侯、右都侯を有している。また、車陽、沮渠、余地といった雑号があり、それらはちょうど中国の百官と同様な称号である。匈奴の国人のなかに、綦毋氏、勒氏がいる。ともに勇敢で強く、よく反乱を起こした。武帝のとき、騎督の綦毋俔邪という者がいた。呉の討伐に功績があり、昇進して赤沙都尉となった。[1]
 うえの記事を素直に読めば、匈奴単于の一族は「屠各種」と呼ばれる部族に属していたことになる。だから劉氏=屠各種=南単于の一族、という理解が成り立っていた。しかし、本当にそう考えて良いのか。以下はこのような理解に異議を申し立てた学者たちの説を整理してみる。
 劉氏は南単于の一族ではない、という説は、近代歴史学においては戦前から唱えられていた。劉氏の系統に疑問を呈したのは岡崎文夫氏である。岡崎氏は、劉氏は元来の南単于の一族ではなく、後漢~魏晋のころに台頭した「屠各種」と種族に属する一族ではないか、と述べている[2]

 この岡崎氏の疑問は、あくまで疑問に留められており、真剣に考証した内容ではない。ただこの岡崎氏の疑問に触発され、劉氏の正体を突き止めようとしたのが唐長孺氏である。[3]
 唐氏の議論は多岐に渡るが、ここでは二点に渡って整理しておく。まず一点目に、唐氏は系図がおかしいと指摘する。『晋書』劉元海載記の次の記述をご覧いただきたい。
於扶羅死、弟呼廚泉立、以於扶羅子豹為左賢王、即元海之父也。・・・豹妻呼延氏、魏嘉平中祈子於龍門、・・・自是十三月而生元海、左手文有其名、遂以名焉。・・・後秦涼覆没、・・・会豹卒、以元海代為左部帥。太康末、拝北部都尉。

(中平5年=西暦188年に)於扶羅が死ぬと、弟の呼廚泉が立ち、於扶羅の子の豹を左賢王とした。 劉豹がすなわち劉淵の父である。・・・劉豹の妻は呼延氏で、魏の嘉平年間(249-253年)に龍門で子を(妊娠することを)天に祈ると、・・・これより十三ヵ月後に元海が生まれ 、左手に(あった)文字にその名が記されていたため、そのまま(淵と)名づけた。・・・のちに秦州、涼州で(起こった反乱により)軍隊が壊滅状態となったとき〔禿髪樹機能の反乱のこと。咸寧5年=279年ころか〕、・・・たまたま(父の)劉豹が卒し、(晋は)劉淵を(劉豹の)代わりとして左部帥とした。太康年間(280-289年)の末、北部都尉を拝命した。
 年号=西暦年に注目して欲しい。単純に数えただけでも、劉豹は100歳を越えてそうであることにお気づきだろうか。劉豹が没したのは禿髪樹機能の反乱後のこと、とりあえず280年ころとしておこうか。一方、劉豹は188年に左賢王になったことになっているが、そういう地位に就くためにはいっぱしの年齢である必要があろう。仮に若く見積もって、これを15歳のこととする。とすると、彼の生年は数え年でさかのぼって、174年となる。かなりギリギリのラインで生没年を見積もってみても100歳を越えてしまった。なんというジジイ。
 それだけではない。このジジイが劉淵を得たのが、249-253年のころなのだ。つまり、さきの年齢で仮定してみれば、70歳を越えてようやく劉淵を子に得たことになる。なんというクソジジイ。ちなみに劉淵には、兄に劉延年、弟に劉雄という人物がいることがわかっている[4]。劉淵のあとにも子を産んだのか、お盛んなやつめ。
 わたしはこの唐氏の指摘を読むまで、こんな系譜上の違和感に全く気付かなかった。もう驚いたのなんの。
 また、唐氏は言及していないが、もう一人怪しい人物がいる。
 こういう場合、図にしてみる、というのは本当に価値があることである。漢字の羅列では見えづらかったものが見やすくなってくるからだ。ということで、先日の記事を見返していただきたい。どう見てもおかしい人物がいないだろうか。そう、劉宣である。劉宣は劉淵の「従祖」とある。劉淵の祖父の兄弟という意味である。劉淵の祖父は於扶羅たちであるが・・・こんな後漢末のやつらと同世代だと!? おいおいよお、劉宣が他界したのは永嘉二年=308年だぜ!?[5] 劉豹が没しておよそ20年して没しているということは、どういうことなんだ、もう算数とかめんどくさいからやんないけどけっこう長生きしてるってことじゃん? けっこうというか異常と言うべきだろうか?
 いやー、すごいすなあ、劉氏は。こんだけ長生きな一族だとは恐るべし。なんていうことを言いたいのではもちろんない。いくらなんでもこの系図には無理があるんじゃないの、というより改竄されてるんじゃないの、ということが言いたいのである。『三国志』にすでに劉豹が登場することからして、曹魏後期ころに劉豹が存在したのは確実だ。その劉豹の子が劉淵、劉豹のおじが劉宣であるという続柄も確実であると仮定して特に問題ない。劉豹と劉宣の活動年代が後漢末まで引き延ばされてしまうから問題が起きてしまうのである。そこら辺で系図の改竄がなされている可能性が高いのではなかろうか。

 と、まあ自分の意見や感想も混じり混じりになってしまったが、唐氏は劉豹の活動年代が不自然であることを指摘し、劉豹が無理矢理後漢末にまで引き延ばされている形跡を指摘したのである。

 もう一つの唐氏の重要な論点は、「屠各種」についての議論である。

 が、なんかもう書くの疲れし、けっこう長くなったから「屠各種」についてはまた気が向いたら。


――注――

[1]ちなみに、後述する唐長孺氏は、この『晋書』北狄匈奴伝の記述は、劉宋・何法盛『晋中興書』からコピペした記事であると指摘している。というのも、『晋中興書』の佚文に「胡俗、其入居塞者、有屠各種最豪貴、故得為単于、統領諸種」と、類似したものが見られるからである(『文選』巻44所収陳琳「為袁紹檄予州」の李善注引)[上に戻る]

[2]岡崎文夫『魏晋南北朝通史』(弘文堂、1932年)内篇第二章第二節pp. 139-140. 内篇なので、東洋文庫版にも記述があるはず。[上に戻る]

[3]唐長孺「魏晋雑胡考」(同氏『魏晋南北朝史論叢』生活・読書・新知三聯書店、1955年)[上に戻る]

[4]劉延年については『元和郡県図志』巻13「大干城在文水県西南十一里、本劉元海築令兄延年鎮之、胡語長兄為大干、因以為名」。
劉雄については『金石録』巻20「偽漢司徒劉雄碑」に「偽漢劉雄碑其額題『漢故使持節・侍中・太宰・司徒公・右部魏成献王之碑』。碑云、『公諱雄、字元英、高皇帝之胄。孝宣皇帝玄孫、値王莽簒竊、遠遁辺朔、為外国所推、遂号単于。累葉相承家雲中、因以為桑梓焉。』雄、劉元海弟也」。[上に戻る]

[5]『資治通鑑』巻86・永嘉2年10月の条「丙午、漢都督中外諸軍事・領丞相・右賢王宣卒」。この記事は『資治通鑑』にしか見えない。日付まである詳細な記事であることからすると、北魏・崔鴻『十六国春秋』あたりから取ってきたものと思われる。[上に戻る]

2013年8月29日木曜日

南単于の侍子

 このごろ話題にあげている劉淵であるが、かれは曹魏・西晋の「侍子」として、朝廷に送られていたことが知られている。「侍子」というのはその語の通り、自分の子を派遣させて皇帝に侍らせることを言うのだが、要するに中国王朝の人質ということである。
 さて、この風習はじつは南匈奴時代から見えている。
単于歳尽輒遣奉奏、送侍子入朝、中郎将従事一人将領詣闕。漢遣謁者送前侍子還単于庭、交会道路。(『後漢書』伝79南匈奴伝)

南単于は年の終わり〔10月か12月?当時の年度末は10月〕に(朝廷に)政事の報告を上奏し、侍子を送って朝廷に入れさせる。その際は、使匈奴中郎将の従事(二人のうち)一人が侍子を連れて朝廷に送る。漢の側は謁者にこれまでの侍子を連れさせて単于庭〔西河郡美稷県に置かれていたという。オルドス地帯〕に帰らせる。(従事と謁者は)道路上で行き違う。
 「行き違う」と訳した「交会」であるが、道路上で従事がちゃんと新しい侍子を連れてきているか(またその逆)をお互い確認するということであろう。この風習がどの程度まで続いていたのかはわからないが、どうやら後漢順帝ころまでは侍子を中央に送るということはちゃんと行われていたようだ。
 というのも、去特若尸逐就単于・休利のときのことであるが、永和5年(西暦140)に句龍王・吾斯という者たちが大規模な反乱を起こしたのだけども、このときに使匈奴中郎将であった陳亀は、単于の監督不届きを厳しく責め立て、単于・休利とその弟であった左賢王を自殺させてしまった。その後、吾斯の反乱で騒がしくなってなかなか単于の後継者が立てられなかったが、漢和2年(143)にようやく新たな単于が立てられた。そのときのことは次のように記されている。
呼蘭若尸逐就単于兜樓儲先在京師、漢安二年立之。天子臨軒、大鴻臚持節拜授璽綬、引上殿。・・・遣行中郎将持節護送単于帰南庭。

呼蘭若尸逐就単于・兜楼儲はこれ以前より洛陽にいたが、漢安2年に単于に立てられた。その際、天子が前殿に出御し、大鴻臚が節を持って(南単于の?)印璽と綬(ひも)を授け、上殿に引率した。・・・使匈奴中郎将に節を持たせて単于・兜楼儲を護送させ、南単于庭に帰らせた。
 兜楼儲は侍子だったんでしょうね。で、次期単于候補だった左賢王も死んでしまったから、彼にその地位が回ってきたのかもしれない。

 ちなみに『後漢書』伝69儒林伝・上・序に次のような記述も見える。
復為功臣子孫・四姓末属別立校舍、搜選高能以受其業、自期門羽林之士、悉令通孝経章句。匈奴亦遣子入学。

(明帝は)功臣の子孫や四姓の末族のために別に校舎を立て、高い才能を有している人を探し求めて学業を受けさせ、期門や羽林の士以下は、全て『孝経』の章句を通読させ、匈奴も子を派遣して太学に入れさせた。
 この留学がどの程度まで行われていたのか、そもそもこの記事を真に受けてしまっていいのか、判断がつきかねるのだけども、なかなか興味を引く記事である。

2013年8月27日火曜日

趙王倫たむぅ・・・

 昨日、ある方と八王のことに話が及んだので、ついでながら簡単に八王の列伝をパラパラめくりなおしているとき、なかなか面白い話が趙王倫の列伝にあることを思い出したので、ちょっと書いてみた。
『晋書』巻59趙王倫伝
倫・秀並惑巫鬼、聴妖邪之説。秀使牙門趙奉詐為宣帝神語、命倫早入西宮。又言宣帝於北芒為趙王佐助、於是別立宣帝廟於芒山。謂逆謀可成。・・・使楊珍昼夜詣宣帝別廟祈請、輒言宣帝謝陛下、某日当破賊。拝道士胡沃為太平将軍、以招福祐。秀家日為淫祀、作厭勝之文、使巫祝選択戦日。又令近親於嵩山著羽衣、詐称仙人王喬、作神仙書、述倫祚長久以惑衆。

趙王倫と孫秀はともに巫術に傾倒し、妖邪の話を聞き入れていた。孫秀は牙門の趙奉に偽らせて宣帝の神託をでっちあげさせ、倫に早く西宮に入るよう命じさせた。また宣帝が北芒で趙王の助けとなるとも喧伝し、そのために宣帝廟を別に芒山に建てた。(こうして)簒奪の計略は万全だと考えた。・・・(斉王冏らが義軍を挙げて攻めてくると、趙王倫は)楊珍を昼夜、宣帝別廟に行かせて祈祷させていたが、楊珍は毎回、宣帝は陛下〔趙王倫のこと〕に謝しており〔原文「謝」は「わびる」の意でも「感謝する」の意でも取れるが、どちらが妥当か判断できない〕、某日に必ず賊を滅ぼすと言っていると報告した。道士の胡沃を太平将軍に任命し、吉を呼び込もうとした。孫秀の家では毎日淫祀〔妖しげな祭祀。みだらなパーティのことではない〕を行い、呪いで打ち負かすための文を作成し、巫祝〔シャーマン〕に決戦の日を選ばせた。また近親の者に嵩山で羽衣を着させると、偽らせて仙人の王喬だと自称させた。(この者に)神仙書を作成させ、倫の天命が長いことを記し、人々を惑わせた。
 趙王倫らはかなりシャーマニズムに傾倒していたようなのだが、彼らがやけに宣帝に頼っていることは興味深い。「天下は高祖の天下なり」ならぬ「天下は宣帝の天下なり」という正当観がにじみでている。宣帝を晋朝の起源におくかどうかは、国史編纂問題も含めて一悶着あったはずなのだが、結局は漢の高祖と同じような扱いに落ち着いたということだろう。

 もう一つ目立つのが、趙王倫の懐刀・孫秀であろう。ここに見えている孫秀の妖しげな行為、じつは道教と関連が深いものかもしれない。それは道士とか仙人とかまじないがでてきているから、というのもまあそうだけど、彼と同族の子孫がかの東晋末に道教教団を率いて組織的反乱を起こした孫恩なのだ。彼ら琅邪・孫氏は長江に渡ってから道教を信奉したのではなく、すでに西晋時代から、一族を挙げて信仰していたのだろう。
 琅邪というと、あの琅邪・王氏も道教を奉じていたことで知られている[1]。琅邪とは離れるが高平・郗氏も道教を奉じている者たちがいたようだ[2]。これよりさきは深く調べてないのでもうこの位にしておく。今回は単に西晋時代時点で、一族こぞって道教を奉じていた家がわりとあったかもしんないということだけが言いたかった。


――注――

[1]『晋書』巻80王羲之伝附凝之伝「王氏は代々、張氏の五斗米道を信奉していたが、王羲之の子の凝之はとりわけ信仰心が篤かった。孫恩が反乱を起こして会稽を攻めたとき、(会稽内史であった凝之の)部下たちは守りを固めることを願い出た。凝之は彼らの意見を聴き入れず、部屋に閉じ籠って祈祷した。部屋から出てくると、部下たちに『大道に祈っておいたので、鬼兵が助けてくださるだろう。賊など勝手に滅びるわい』と言った。こうして守りを固めておかなったために、とうとう孫恩に殺されてしまった(王氏世事張氏五斗米道、凝之彌篤。孫恩之攻会稽、僚佐請為之備。凝之不従、方入靖室請祷、出語諸将佐曰、『吾已請大道、許鬼兵相助、賊自破矣』。既不設備、遂為孫恩所害)」。吉川忠夫『王羲之――六朝貴族の世界』(岩波現代文庫、2010年)が詳しく書いているので、興味のある方はぜひ。[上に戻る]

[2]郗鑒の子の愔と曇は「天師道」を奉じていたが、愔の子・超は「仏」を奉じていたらしい(『晋書』巻67郗鑒伝附超伝、同巻77何充伝)。ちなみに王羲之の最初の奥さんは郗鑒の娘で、あるいは両家には道教的なつながりがあったんじゃなかろうかという指摘を何かの文章で見かけたことがある(てきとうですいません)。[上に戻る]

2013年8月25日日曜日

台湾の古代中国史研究

 今日、昼過ぎから少し神保町を散策して、サマーセール中の東方書店さん、内山書店さんなどを回ってみた。南宋・張敦頤『六朝事迹編類』(張忱石点校、中華書局、2012年)、陳・顧野王『輿地志輯注』(顧恒一ほか輯注、上海古籍出版社、2011年)のほか、マイケル・ダメット『思想と実在』(金子洋之訳、春秋社、2010年)、中山康雄『現代唯名論の構築――歴史の哲学への応用』(春秋社、2009年)を購入。中山氏の著作はダントーや野家啓一氏にも言及しているのだが、恥ずかしながら今日手に取るまでこの本の存在は全く知らなかった。反省。
 それともう一冊、わりと面白そうな本を買った。林素娟『美好与醜悪的文化論述――先秦両漢観人・論相中的礼儀・性別与身体観』(台湾学生書局、2011年)というもの。総頁414。5000円近くしたのだけども、日本の古代中国史研究でこんな感じの(挑戦的な)テーマはあんまり見かけないし、面白そうだから購入した。目次を眺めてみると、儒教や方術の身体観や、美的感覚、女性に対する美醜観が論じられている様子。古代史というと、金太郎飴のようにだいたいが国家ガー政治ガーばっかり論じる傾向にあるけども、本書のように「感覚」を問題に設定するのは現代チックな感じがして、いったいどういう議論をしているんだろうかと気になる[1]
 そんなことを期待しながら冒頭のほうを少しめくってみると、モーリス・アルヴァックス、ガダマー、ポンティといった名前が。ほかにもフーコー、ヘイドン・ホワイト、ポランニー、ブルデュー、とよく知られた人たちが引用されている。少し古い世代の人たちとはいえ、古代史ではめずらしい引用の顔ぶれ。参考文献を見ると、私も知らない欧米人の著作が並んでいる。
 ここで思い出したのが、廖宜方『唐代的歴史記憶』(台大出版中心、2011年)という著作。昨年お世話になった研究書なのだけど、最近何かといろんなジャンルで見かける「記憶」をテーマにしている。導論では、モーリス・アルヴァックスの「集合的記憶」とか、ハーマンらの「トラウマ」の研究成果、さらにはドイツのヤン・アスマンとアライダ・アスマンを中心とした研究グループ「文化的記憶論Cultural memory studies」を引きつつ、「歴史記憶」という新たな概念の理論構築を試みている。残念ながらその理論構築はうまくいっていないと思われるが[2]、本書を通してアライダ・アスマンらやクリフォード・ギアツを知るきっかけになったので、けっこう感謝している[3]
 なんかよく知らんのだけど、台湾だとこういう研究傾向にあるのだろうか。ずいぶん現代チックになったというか。こういう研究はたいてい、周囲からは冷ややかに見られるし、うすっぺらい研究だと見なされがちであるが、わたしはこんな傾向のほうが面白いと思っているので、いいぞもっとやれ!的な。ただまあ、あちら側の思想をそのまま輸入したようなやつはやめていただきたいが。


――注――

[1]アラン・コルバンだっけ?「におい」の歴史とやらを書いたのは。ほかにもいわゆる「アナール」には身体に関する歴史を書いた誰かがいたような気がする。[上に戻る]

[2]わたしが見るところ、廖氏はCultural memory studiesへの理解が浅い。このグループは、過去とは「記憶の再構築作用のように」再構築される、という構築主義的スタンスに立っているのであり、その様相を「記憶」の言語(想起、保持、忘却)を用いることで記述しようという方法論なのである。だからこの方法論においては、文化=メディア(書物、祭日、身振りなど)として保存された過去の情報は、歴史であろうと神話、物語であろうと、その都度の集団や個人によって再構築された過去なのだ、という理解である。だとすると、「歴史記憶」という言語表現はそれ自体でもはやおかしさを感じさせる。「歴史についての記憶」とでも言いたいのだろうか。それは「記憶のように構築された歴史」ということであろうか。そうだとすると、「文化的記憶」と何が違うのだろうか。わざわざ「歴史記憶」という、そもそも定義すら明確に行い得ていない言語を導入する必要がどこにあるのか。という具合でわたしは廖氏の方法は上手くいっていないと考えています。が、このような議論をしようとしたことに関しては、非常に好感をもっています。[上に戻る]

[3]アライダ・アスマン『想起の空間――文化的記憶の形態と変遷』(安川晴基訳、水声社、2007年、原著は1999年)、クリフォード・ギアツ『文化の解釈学』Ⅰ・Ⅱ(吉田禎吾ほか訳、岩波書店、1987年、原著は1973年)。エストリッド・エル氏が執筆した「文化的記憶論」の手引論文では、「文化的Cultural」という言葉は、カルチュラル・スタディーズのような意味合いではなく、文化人類学的な意味で使用している、と述べられており、ギアツの『文化の解釈学』を参照するように注記されている。このエル氏の論文を読んでわたしはギアツをかじりはじめた。Astrid Erll, “Cultural Memory Studies: An Introduction” (In A. Erll & A. Nünning eds., Cultural Memory Studies: An International and Interdisciplinary Handbook, Berlin and New York: Walter de Gruyter, 2008) を参照。[上に戻る]

去卑のその後と匈奴の分割(8月27日追記)

 前回の記事では後漢末の南匈奴・去卑を取り上げ、彼が匈奴単于の血統を引く人物である可能性が高いことを述べておいた。今回は去卑のその後、具体的には白波と献帝を護衛した後の動向について一瞥しておき、ついで匈奴分割の話をしておこうと思う。
 とりあえず『後漢書』伝79南匈奴伝を再度引用しておこう。
建安元年、献帝自長安東帰、右賢王去卑与白波賊帥韓暹等侍衛天子、拒撃李傕・郭汜。及車駕還洛陽、又徙遷許、然後帰国。〔謂帰河東平陽也。〕二十一年、単于来朝、曹操因留於鄴、〔留呼廚泉於鄴、而遣去卑帰平陽、監其五部国。〕而遣去卑帰監其国焉。

建安元年、献帝が長安から東に帰る際、右賢王の去卑は白波賊の頭領の韓暹らとともに天子に侍って護衛し、李傕や郭汜を撃退した。天子が洛陽に帰ると、今度は許に移り、そうしてからようやく去卑は国に帰った〔河東の平陽に帰ったのである――李賢注〕。建安21年、呼厨泉単于が後漢朝廷に朝見すると、曹操は鄴に留めさせておき〔呼厨泉を鄴に留めておいて、去卑を平陽に帰し、匈奴五部を監督させたのである――李賢注〕、去卑を帰して匈奴の国を監督させた。
 結論的に言うと、去卑に関する事跡はこれが全てである。これ以上の記述は無いため、献帝護衛後、あるいは匈奴本国監国の時期における彼の具体的な活動をうかがい知ることはできない。
 といっても、若干ながら付け加えるべき情報がないわけでもない。まず『三国志』巻28鄧艾伝を引いてみよう。
是時并州右賢王劉豹并為一部、艾上言曰、「戎狄獣心、不以義親、彊則侵暴、弱則内附、故周宣有玁狁之寇、漢祖有平城之囲。毎匈奴一盛、為前代重患。自単于在外、莫能牽制長卑。誘而致之、使来入侍。由是羌夷失統、合散無主。以単于在内、万里順軌。今単于之尊日疏、外土之威寖重、則胡虜不可不深備也。聞劉豹部有叛胡、可因叛割為二国、以分其勢。去卑功顕前朝、而子不継業、宜加其子顕号、使居雁門。離国弱寇、追録旧勲、此御辺長計也」。

この当時〔斉王芳の時期、『資治通鑑』は嘉平3年とする――筆者注〕、并州にいた〔匈奴の〕右賢王劉豹が民衆を併せて〔匈奴五部族の〕一部族として存在していた。鄧艾は上奏文をたてまつって述べた、「蛮族は野獣の心をもっていて、道義によってなつかせることができません。強いときは侵略をはたらき、弱いときは内属します。そのため周の宣王の時代には玁狁(匈奴の別称)の侵入があり、漢の高祖の時代には平城での〔匈奴の〕包囲がありました。匈奴がひとたび盛んになると、過去においてはいつも重大な災難をもたらしてきたのです。単于(匈奴の王号)が国境の外にいて、部族長や民衆に対する拘束力を失ってからは、うまく誘って〔国境内に〕招き寄せ、お側仕えとして参内させました。これがために羌族は統率力を失い、あるじもなく離合をくりかえしました。単于が国境内にいたことから、万里のかなたまで規範に従うことになりました。ところが今〔国境内にいる〕単于の権威は日に日に下ってゆき、外地〔にいる異民族〕の威光がしだいに重みを増しておりますれば、蛮族に対して充分に備えをしなければいけません。聞けば劉豹の部族に反乱が起こったとか。反乱につけこんで二国に分割してその勢力を割くべきかと存じます。去卑は前代(武帝の時代)に顕著な功績をあげながら、その子は残した功業を引き継いでおりません。どうかその子に高い称号を与えまして雁門に住まわせてくださいますように。〔匈奴を〕二国に分けて侵略者の力を弱め、昔の勲功に対してさかのぼって恩賞をとらすこと、それは国境地帯を統御するための長期的戦略であります」。(ちくま訳pp. 270-271)
 この鄧艾の進言によると、どうやらもうこの時期には去卑は亡くなっているようである。しかしその子は去卑を継いでいないという。ちなみに去卑の功績というのは、ちくま訳によると呼厨泉を入朝させたこと、もしくは匈奴本国の監督のことであるらしい。
 ところで、めざとい人であれば、この箇所に劉淵の父「劉豹」が登場していることに気付くであろう。同一人物と見なして構わないと思う。注意していただきたいのは、劉豹が単于の権威をモノともしない危険分子として鄧艾に見なされていることである。当然、彼は去卑や去卑の子にも権威を感じていなかったであろう。鄧艾はその危険分子・劉豹の勢力範囲を二つに分割するべきだと言い、おそらくは、その片方を去卑の子に統治させようとしていたのではないだろうか。そこまでは少し考えすぎかもしれない。
 しかしいったん、この話題はここまで。劉豹は反単于的人物であったと言うことだけ念頭に留めておいていただきたい。この鄧艾の進言に関して、より深く考えてみたい箇所が別にある。実はこの史料、けっこう読みにくい。とりわけ「自単于在外、莫能牽制長卑。誘而致之、使来入侍。」の箇所は、呼厨泉入朝のことを言っているのはわかるのだけども、どうも「長卑」の意味がわからない。他に用例もないのでお手上げである。ちくまは「部族長や民衆」、言ってみれば「高貴な人といやしい人」と訳しているようだ。なるほど、と思わせる翻訳である。
 ここで『三国志集解』を見てみると、次のようにある。
沈家本が言うに、「『長卑』というのはよくわからん。『去卑』の間違いなんじゃねえか」。わたくし〔盧弼のこと――筆者注〕が考えるに、後文で去卑が登場しているし、去卑とは別人なんじゃなかろうか(字の誤りとは考えにくい)。
 かの沈家本がわかんねえと言うんだから、オレがわかんないのも当然っすわな。しかし沈家本は「去卑」の誤字なんじゃないかと言うとんでもない指摘をしている。盧弼はそれを否定してはいるものの、人名として見なしているふしがある。あれ、ちくまは別に人名と見なしてないけども・・・。
 まあとりあえず沈家本の考えを採用してみようじゃありませんか。すると次のように原文が書き換わる。
毎匈奴一盛為前代重患自単于在外莫能牽制卑誘而致之使来入侍由是羌夷失統合散無主
 なぜ標点を省略したのかって? そもそも中華書局の標点に疑問があるからですよ。結論的に言うと、ここは中華書局が一か所「。」を打つべき個所を誤っている。次のように文章を読むべきだ。
毎匈奴一盛、為前代重患。自単于在外、莫能牽制去卑誘而致之、使来入侍。由是羌夷失統、合散無主。以単于在内、万里順軌。

匈奴はいったん盛んになるたびに、過去における重大な悩みとなっていた。匈奴単于が(朝廷の)外にいるようになって(参内しなくなって)以来、匈奴本国は統制できなくなっていた。去卑は単于を誘って招き寄せ、朝廷に入らせて側仕えさせるようにした。こうして羌(などの非漢族?)は統一を失い、統率者がいないままに合流したり解散したりしていたのだが、単于が朝廷内にいるようになると、天下は帰順した。
 かなりわたしなりの解釈が混じっているが、前漢・後漢の匈奴史をある程度踏まえて読んでみた。前漢・宣帝期、後漢・光武帝期の二人の呼韓邪単于が入朝して臣従の意を示したことで、匈奴が落ち着いて、漢朝との関係も比較的平和になったことを意識した文章だと思われる。あんまりごちゃごちゃ書くと長くなるので、色々は書きませんが、わたしはこのように読むのが正しいと思います。[1]
 すると大事なことが言われているじゃあありませんか。だって去卑が呼厨泉を入朝させた張本人ということになってるんですよ。
 じつはこのことに関しては、西晋の江統「徙戎論」(『晋書』巻56本伝所収)でも述べられているのだ。
中平中、以黄巾賊起、発調其兵、部衆不従、而殺羌渠。由是於彌扶羅求助於漢、以討其賊。仍値世喪乱、遂乗釁而作、鹵掠趙魏、寇至河南。建安中、又使右賢王去卑誘質呼廚泉、聴其部落散居六郡。

中平年間、黄巾賊が起こったことから、(匈奴単于は後漢を援護するために)兵を徴発したが、部衆は従わずに単于の羌渠を殺してしまった。こうしたことから、於弥扶羅〔於扶羅のこと――筆者注〕は漢に助けを求め、単于を殺害した者たちを討とうとした(が許されなかった)。すると(後漢末の)戦乱に出くわしたので、ついにその隙に乗じて反乱を起こし、趙魏で掠奪を行い、侵略は河南にまで及んだ。建安年間、また(朝廷は?)右賢王の去卑に呼厨泉を誘致させて(朝廷に)人質として差し出し、匈奴の部落が六郡に散居することを許した。
 そう言われると、去卑は献帝が許に移動するまで帝に付き従っていたのだから、曹操と面識があった可能性は否定できない。また呼厨泉が入朝すると曹操がそのまま鄴に留めたと言うことは、現在は匈奴本国から追放されている単于であるとはいえ、単于が再び権威や権力を取り戻して、朝廷にたてつくような勢力を得てしまうことを曹操は警戒していたということであり、それゆえに彼は単于を自らの手元に軟禁しておこうと考えたのだろう。そうした曹操の思惑通りに呼厨泉を誘い出したのが去卑ということになる。おまけに彼は、単于の血族であるにも関わらず、匈奴単于の復活を警戒していたと思われる曹操から、匈奴本国の監督を委任されているのである。要するに、去卑と曹操は裏で手を結んでいたのではなかろうか。そうして実現したのがこの呼厨泉の入朝=軟禁と去卑の監国だったというわけである。[追記]
 少し妄想を交えすぎたかもしれない。ただわたしは、おおよそこのような流れで理解して良いと思っている。わざわざ江統がウソをつく必要もないだろうし。鄧艾伝のあの箇所を、前述したように読むべきだと主張したのも、この「徙戎論」の記述を根拠の一つとしている。

 去卑が監国のために帰った後はどうであろうか。そもそも彼が監督を委任された「国」とは、羌渠を殺害し、於扶羅を追い出した部民たちの住む本国のことであったと思われる。これも前回に軽く触れたのだけど、もう一度このあたりの経緯を確認しておこう。
 単于羌渠、光和二年立。中平四年、前中山太守張純反畔、遂率鮮卑寇辺郡。霊帝詔発南匈奴兵、配幽州牧劉虞討之。単于遣左賢王将騎詣幽州。国人恐単于初兵無已、五年、右部○〔諡の言を酉にした字〕落与休著各胡白馬銅等十余万人反、攻殺単于。
 単于羌渠立十年、子右賢王於扶羅立。
 持至尸逐侯単于於扶羅、中平五年立。国人殺其父者遂畔、共立須卜骨都侯為単于、而於扶羅詣闕自訟。会霊帝崩、天下大乱、単于将数千騎与白波賊合兵寇河内諸郡。時民皆保聚、鈔掠無利、而兵遂挫傷。復欲帰国、国人不受、乃止河東。須卜骨都侯為単于一年而死、南庭遂虚其位、以老王行国事。(『後漢書』南匈奴伝)

 単于の羌渠は光和2年に立った。中平4年、もと中山太守の張純が反乱を起こすと、鮮卑を引き連れて辺郡を侵略した。霊帝は詔を下し、南匈奴の兵を徴発して、幽州牧の劉虞に配し、張純を討伐するよう命じた。羌渠単于は(それに従い、)左賢王に騎兵を統率させて幽州に行かせた。匈奴の国人は単于の徴兵が続くことを憂慮し、中平5年、右部○と休著各胡の白馬銅ら十余万人が反乱を起こし、単于を殺した。[2]
 単于の羌渠が立って十年で、その子の右賢王・於扶羅が立った。
 持至尸逐侯単于の於扶羅は中平5年に立った。匈奴の国人は於扶羅の父を殺してとうとう反乱を起こすと、共同で須卜骨都侯を単于に立てたので、於扶羅は朝廷に行って訴え出た。ちょうど霊帝が崩御して、天下が大混乱に陥ったので(於扶羅は相手にしてもらえず)、於扶羅単于は数千騎を率いて白波賊と合流し、河内などで暴虐をはたらいた。しかし当時の民衆たちはみな寄り集まって(自己防衛して)いたので、掠奪して得られるものはなく、(疲労などで)兵たちは使い物にならなくなっていった。再び国に帰りたいと思ったが、国人は受け入れなかったので、河東に駐留することにした。須卜骨都侯は単于になって一年で死んだが、南匈奴の単于は空位のままとなり、老王が国の政事を取り仕切った。
 この事件、じつはものすごい大事件である。曲がりなりにも約200年間「南匈奴」部族連合[3]のトップにあった単于=虚連題氏が、その連合下にある部族民たちから単于失格の烙印を押されて追放され、異性大臣・骨都侯の位にあった須卜氏を代わりに単于にしたというのだ。ちなみにこの須卜氏は呼延氏と並んで匈奴の「四姓」の一つである。わかりやすく言うと易姓革命のようなものが起こったのである。いままで、後漢の後期になるにつれて単于に対する反乱が起こったりと、たしかに単于の権威が低下しつつあったようだけども[4]、後漢末年にいたって、とうとうこんな結果になってしまったようである。
 於扶羅や去卑ら虚連題氏が全く手を出せなくなった匈奴本国は、どうなったのだろうか。「老王が取り仕切った」以上に明確な情報はあまりないのが現状である。わかることを述べておくと、曹操と袁紹が対立を鮮明にしていた時期においては、単于グループは袁紹に味方をしていたようである。建安11年、曹操が高幹を討伐すると、梁習を并州刺史に任じた(『三国志』巻15本伝)。梁習伝によると、当時の并州は荒れ放題だったが、梁習が武力制裁やらを加えることで平穏を取り戻したそうだ。こうして、
単于恭順、名王稽顙、部曲服事供職、同於編戸。

単于は帰順し、名王は額を下げ、部曲〔ちくまは部族民と訳す、ニュアンスとしてはおそらく妥当――筆者注〕は仕事を行うようになり、編戸〔戸籍が作られること、転じて一般農民を指す〕と同じように扱われた。
という風になったらしい。はたしてこの記述が単に単于グループに留まるのか、本国にまで関する記述と見て良いのか、よくわからない。まあたぶん単于グループも本国も、といった感じだろうか。どうも陳寿は匈奴本国と単于グループが乖離していたという点をあまり意識できていないようにも見えるのだが、どうだろう。
 この乖離状況を打ち破ったのが去卑であった。彼は(おそらく)曹操と手を組み、単于・呼厨泉を人質として差し出す代わりに、匈奴本国を支配する承認を得たのである。それはうまくいったのだろうか。まあ何も記述が残っていないので、推測の仕様がないが、逆に特記するほどの大事件もなかったということだろうか、まあ比較的順調だったのかもしれない。
 だが去卑の没後はどうもそういうわけにもいかなかったようだ。前掲鄧艾伝からうかがう限りでは、去卑の子は魏朝から何らかのお墨付きをもらっていたわけでもないし、匈奴本国でもあまり尊重されていなかったようだ。対して、匈奴本国で急速に勢力を伸ばしていたので劉豹のような匈奴劉氏であったと思われる。前掲鄧艾伝でも、単于の権威をカサにきない不穏分子として劉豹が言及されている点を指摘しておいた。なんだか劉豹は、単于と関係のある人物というより、敵対していた人物であったようにも見える。匈奴劉氏に関しては、『三国志』巻24孫礼伝にも、
時匈奴王劉靖部衆彊盛、而鮮卑数寇辺、乃以礼為并州刺史、加振武将軍・使持節・護匈奴中郎将。

当時、匈奴の王の劉靖の部族が勢い盛んで、かつ鮮卑がしばしば辺境を侵略していたので、孫礼を并州刺史とし、振武将軍・使持節・護匈奴中郎将を加えた。
とあるが、この記事は曹爽が誅殺される直前に置かれているので、正始末年~嘉平元年ころの話だと思われる。鄧艾伝の話は『資治通鑑』によると嘉平3年である。どうもこの時期くらいになると、匈奴本国は魏朝や単于のことをないがしろにし始めていくようだ。その指導者であったのが劉氏であったらしい。
 これに危険を感じた鄧艾は、その勢力を無理矢理二つに分割することで、勢力を削ごうとしたらしい。なんかコントロールできないよぉとか言っときながら分割は強行できるんだろうか?と思っちまうのだが、劉氏の側も曹魏から自立できるほどの力はなかったんだろうか? このあたりの事情はよくわからんのだが、どうも分割政策は実行できたらしい。というのも、さきの江統「徙戎論」のつづきに、
咸熙之際、以一部太強、分為三率。泰始之初、又増為四。・・・今五部之衆、戸至数万、人口之盛、過於西戎。

咸煕年間、一部が強大だったので、分割して三部とした。泰始の初めには、また分割数を増やして四部とした。・・・現在の匈奴五部の衆は、戸数数万にもいたり、人の多さは西戎以上となっている。
とあるからだ。おそらく、嘉平年間に二部に分割され、さらに曹魏末年の咸煕年間に三部、泰始に四部、そしてその後、「徙戎論」が書かれた恵帝中期ころには五部になっていたようである。すなわち、匈奴の五部分割とは曹魏から西晋にかけて、徐々に行われた政策であったことになる。
 それはおかしい!と思われた方もいると思う。通説、というより『晋書』巻101劉元海載記や『十六国春秋』前趙録では、五部分割は曹操によって行われた政策であると記述されているからだ。そしてこれを受けて、通説では曹操によって去卑が監国に帰された際に五部分割が実行に移され、劉氏=虚連題氏が五部の帥に任命されたと考えられてきた。
 しかしわたしは、鄧艾伝や「徙戎論」を重視して、去卑が帰された際は「六郡の散居」状態で五部分割などはなされず、その後劉氏の台頭に伴って、危機意識を増した曹魏・西晋が五部分割を実行したのだと考えておきたい。[5]
 もうこれまでの記述の様子からお分かりだと思うが、わたしは劉氏を単于一族=虚連題氏とは考えていない。おそらく劉氏は、単于一族=虚連題氏追放後の匈奴本国で力を握り、頭角を現した一族であると推測している。さらに言えば劉氏とは、南匈奴部族連合のオリジナルメンバーではなかった「屠各種」と呼ばれる人々であったと考えている。屠各種や、単于の子孫については・・・もう長く書きすぎてしまったのでまたの機会に。


――注――

[1]このことはちゃんと言っておこうと思いますが、鄧艾伝のこの箇所を記事のように読むべきだと言ったのはわたしが初めてではなく、すでに先行研究で指摘されています。たしか町田隆吉先生の「二・三世紀の南匈奴について――『晋書』巻101劉元海載記解釈試論」(『社会文化史学』17、1979)で言われてたと思う。町田先生の五胡に関する研究論文は、手に入りにくい雑誌や論文集に収録されているので、あまり広くは知られていないと思いますが、とてもすばらしい研究ばかりなので、機会がある人はぜひご覧になってください。五胡に直接興味があるわけではなくても、例えば前秦の護軍を考察した論文は、魏晋の護軍を考察するうえでの古典的論文にもなりますので。え?町田先生に媚びすぎ?いやいや、いくら魏晋の会の会長だからってなんかちょっと目をかけてほしいとか別にそういうわけじゃありませんよ、ええ、やめてくださいそういうの。[上に戻る]

[2]前回の記事では『晋書』劉元海載記や『十六国春秋』前趙録に従って黄巾の乱の直後に殺されたと述べていたけど、『後漢書』では黄巾の乱後の張純の乱のときに殺されたことになっていましたね。すみません。いちおうどちらでも、霊帝末年に単于が殺されたということで共通しているので、とりあえずそんな感じで許して。[上に戻る]

[3]後漢朝によって正式に承認された匈奴単于を中心とする部族連合のことを、わたしは南匈奴と呼ぶことにしている。[上に戻る]

[4]例えば永和5年の句龍王吾斯の反乱とか。吾斯は単于庭を包囲して攻め、しかも自分で勝手に単于を立ちゃったりしている。南匈奴史においてはけっこう重大な事件。[上に戻る]

[5]じゃあなんで『晋書』載記や『十六国春秋』前趙録は、曹操が五部分割したと記述しているのか、というと、どうもこれらは匈奴劉氏の王朝・漢や前趙で編纂された国史『漢趙記』に由来するらしい。後漢末年に自ら(劉豹)の系譜をつなげるなどといったイデオロギー的操作がこのような記述を生み出したのだろうと指摘されている。前掲町田論文参照。[上に戻る]


[追記]書き忘れてしまっていたが、去卑と曹操がグルであった可能性はすで内田吟風『北アジア史研究』によって指摘されている。わたしの独創でもないものを、さもわたしが思いついたかのように書いてしまったことは不適切でした。すみません。[上に戻る]

2013年8月22日木曜日

後漢末の匈奴・去卑

 匈奴単于・於扶羅の叔父である去卑なる人物を、みなさんはご存じだろうか。次の史料を見てみよう。
『北史』巻53破六韓常伝
破六韓常、単于之裔也。初呼厨貌入朝漢、為魏武所留、遣其叔父右賢王去卑監本国戸。魏氏方興、率部南転、去卑遣弟右谷蠡王潘六奚率軍北禦。軍敗、奚及五子俱沒于魏、其子孫遂以潘六奚為氏。後人訛誤、以為破六韓。

破六韓常は(匈奴の)単于の子孫である。はじめ、呼厨貌が後漢朝に入朝したとき、魏武帝によってそのまま(鄴に)拘留され、(魏武帝は?)呼厨貌の叔父の去卑を匈奴本国に遣わし、本国の人びとを監督させた。拓跋氏が起こると、(去卑は)部民を率いて南に移動し、弟の右谷蠡王・潘六奚に軍を統率させて北方を防衛させた。(しかし)潘六奚の軍は敗れ、潘六奚とその五人の息子はみな拓跋氏に降った。その子孫はそのまま潘六奚を氏としたが、後世、なまって「破六韓」となった。
 北朝と言えば系譜の改竄が盛んに行われた時代として有名である。高さんとか李さんとか楊さんとか、挙げていくときりがない[1]。なのでこの系譜もまゆつばなのだけども、呼厨貌(泉)の叔父として去卑という人物が挙げられているのは注目に値する。というのもこの人物、たしかに『後漢書』『三国志』等に名前こそ散見するものの、匈奴単于とどういう関係にあったかが不明瞭だったからである。
 ためしに『後漢書』等から関連する記述を以下に列挙してみよう。
楊奉・董承引白波帥胡才・李楽・韓暹及匈奴左賢王去卑、率師奉迎、与李傕等戦、破之。(『後漢書』紀9献帝紀・興平2年11月の条)

楊奉と董承は、白波の頭領である胡才、李楽、韓暹、そして匈奴の左賢王・去卑を連れてきて、軍を統率して(献帝を)迎え、、李傕らと戦い、撃破した。

承・奉乃譎傕等与連和、而密遣間使至河東、招故白波帥李楽・韓暹・胡才及南匈奴右賢王去卑、並率其衆数千騎来、与承・奉共撃傕等、大破之、斬首数千級、乗輿乃得進。董承・李楽擁衛左右、胡才・楊奉・韓暹・去卑為後距。(『後漢書』伝62董卓伝)

董承と楊奉は李傕らをだまして彼らに協力しようと言いつつ、ひそかに使者を河東にやって、もと白波の頭領である李楽・韓暹・胡才、および南匈奴の右賢王・去卑を誘致した。彼らは数千騎の衆を引き連れて到来し、董承や楊奉らとともに李傕らを撃退し、斬首数千級を挙げた。こうして天子はようやく進むことができた。董承と李楽は天子の左右を守り、胡才・楊奉・韓暹・去卑はしんがりとなった。

建安元年、献帝自長安東帰、右賢王去卑与白波賊帥韓暹等侍衛天子、拒撃李傕・郭汜。及車駕還洛陽、又徙遷許、然後帰国。〔謂帰河東平陽也。〕二十一年、単于来朝、曹操因留於鄴、〔留呼廚泉於鄴、而遣去卑帰平陽、監其五部国。〕而遣去卑帰監其国焉。(『後漢書』伝79南匈奴伝)

建安元年、献帝が長安から東に帰る際、右賢王の去卑は白波賊の頭領の韓暹らとともに天子に侍って護衛し、李傕や郭汜を撃退した。天子が洛陽に帰ると、今度は許に移り、そうしてからようやく去卑は国に帰った〔河東の平陽に帰ったのである――李賢注〕。建安21年、呼厨泉単于が後漢朝廷に朝見すると、曹操は鄴に留めさせておき〔呼厨泉を鄴に留めておいて、去卑を平陽に帰し、匈奴五部を監督させたのである――李賢注〕、去卑を帰して匈奴の国を監督させた。

秋七月、匈奴南単于呼廚泉将其名王来朝、待以客礼、遂留魏、使右賢王去卑監其国。(『三国志』巻1武帝紀・建安21年の条)
 もう疲れたのでこのくらいにさせていただきたい。
 まず「左」賢王なのか「右」賢王なのかで史料に混乱があるが、もともとこの2字は誤写しやすい漢字なので、どっちかで誤写ったのだろう。どちらかと言うと「右」とする記述が多いようだ。右賢王より左賢王のほうが偉いし、次期単于候補はたいてい左賢王になるので、どっちなのかはけっこう大事な問題だったりするのだけども、この点はいったん保留しておこう。それよりもこれらの王位に就く者はみな「単于子弟」、すなわち単于の兄弟や子供たちであったという点に注意しておきたい。だとすると、賢王であった去卑は匈奴単于・於扶羅、あるいは呼厨泉の兄弟、もしくは子供であったことがわかるからだ。しかし、匈奴の王位にあった人たちを精査してみると、単于の「子弟」でない人が王であったりするので、この規則が本当に厳格に守られていたのか、疑問なしとは言えないのである。
 ところが、冒頭で引いた『北史』の記事によると、やっぱり呼厨貌(泉)の叔父とあるじゃあありませんか。しかもこいつら、系譜を改竄する連中なわけだけど、逆にそのことがこの系譜の権威性を証明していることに注意しておきたい。どこの馬の骨だからわかんねえ大野くんが、やっぱりどこの誰だかわかんねえ家の系譜を接合して、「どうだあ、オレは楽浪郡の李氏だぞお!」とか言っても、「大野くんとうとう頭が・・・」ってなるじゃない。つまり、少なくとも、去卑が南匈奴単于の血統を継ぐ人物であると見なされていたことは間違いないのである。[2]
 さて、上に掲げた史料によると、去卑はなぜだか白波賊と行動をともにしており、献帝東遷の際には、白波賊らとともに護衛につき、許まで付き従ったそうだ。そしてその後、単于の呼厨泉が鄴に留められるようになると、匈奴本国に派遣され、国を監督したと言う。どうやら呼厨泉と一緒に許昌か鄴に行き、去卑だけは国に帰されたようだ。しかも単于代行のようなお仕事まで任されたようである。

 どうして南単于の血統を引く去卑は白波賊と行動をともにしたのだろう。色々な史料を突き合わせたりすると、だいたい次のような事情があったらしい。
 後漢末、黄巾の乱が起こると、ときの匈奴単于・羌渠は子の於扶羅を後漢の援軍として派遣した。すると間もなく、どういう事情があったかはわからないが、羌渠は匈奴の国人たちに殺されてしまい、勝手に自分たちで単于を立ててしまった。一仕事を終えて戻ってきた於扶羅であったが、国に入れてもらえない。怒った於扶羅は、自らが正統な単于であると名乗り、後漢朝廷に何とかしてくれと訴えた。しかし何もしてくれない後漢朝廷。いじけた於扶羅は白波賊に合流、河内などで掠奪を働いたのち、河東(山西省南部。匈奴本国は山西省北部)に根城を置いた。於扶羅は興平二年に亡くなり、同年、弟の呼厨泉が後を継いで単于に立った。・・・[3]
 そうすると、去卑も於扶羅と一緒に派遣されていたか、羌渠が殺されたときに追放されて於扶羅に合流したかで於扶羅らと行動を共にし、於扶羅没後に呼厨泉が立った後も集団内に留まり、そのまま河東にいたのだろう。うろ覚えだが、河東は白波のアジトでもあったはずなので、於扶羅以来、南単于集団は白波とずっとお付き合いを続けていたのだろう。そうしているときにたまたま董承らから連絡があって、どういう理由でかは知らないが去卑が献帝の援軍に派遣されることになったという感じでしょう。
 冒頭の『北史』と合わせて考えると、去卑は於扶羅や呼厨泉の父の弟、すなわち羌渠の弟ということになろう[4]。『三国志』の時代に登場する数少ない南匈奴の要人として、ぜひ記憶にとどめおいてもらいたい。
 というのもこの去卑、実は呼厨泉入朝の裏で糸を引いていたらしいのと、この人物に着目することによって匈奴の五部分割の歴史が浮き彫りになるという、意外と外してはならない重要な人物だからである。これらの話についてはまた後ほど。[5]


――注――

[1]石見清裕『唐代の国際関係』(山川リブレット97、2009)によると、隋の楊氏はもともと普六茹氏で、唐の李氏は大野さんであったらしい。大野くんにはしっかりしてもらいたいね。[上に戻る]

[2]ちなみに、のちに赫連氏を名乗ることになる鉄弗・劉氏もまた、南単于の子孫かつ去卑の子孫を名乗っている(『魏書』巻95鉄弗・劉虎伝)。このことからも、去卑が南単于の血統にあることが確かめられよう。赫連勃勃はいちおう、匈奴単于の子孫ということになるわけである。劉虎らをふくむ匈奴劉氏の系図については、後日また取り上げたい(と思います)[上に戻る]

[3]町田隆吉「二・三世紀の南匈奴について――『晋書』巻101劉元海載記解釈試論」(『社会文化史学』17、1979)など参照。[上に戻る]

[4]ちなみに於扶羅の子が劉豹、豹の子がかの劉淵であるとされている。が、この系図はかねてから疑問が唱えられており、本当に劉淵が於扶羅の孫であったかはかなり疑わしいと考えられている。わたしも劉淵が於扶羅の孫だとは思っていないし、南単于の血統にも当たらない人物だろうと考えている。機会があれば記事にします。さしあたり三崎良章『五胡十六国――中国史上の民族大移動』(東方書店、2002)を参照のこと。[上に戻る]

[5]俺以外に去卑を記事にするやつなんておらんやろ、と余裕こきながらためしに検索してみたら、もうすでにWikiに項目が作られてるね。しかも詳しいわあ・・・[上に戻る]