2013年8月22日木曜日

後漢末の匈奴・去卑

 匈奴単于・於扶羅の叔父である去卑なる人物を、みなさんはご存じだろうか。次の史料を見てみよう。
『北史』巻53破六韓常伝
破六韓常、単于之裔也。初呼厨貌入朝漢、為魏武所留、遣其叔父右賢王去卑監本国戸。魏氏方興、率部南転、去卑遣弟右谷蠡王潘六奚率軍北禦。軍敗、奚及五子俱沒于魏、其子孫遂以潘六奚為氏。後人訛誤、以為破六韓。

破六韓常は(匈奴の)単于の子孫である。はじめ、呼厨貌が後漢朝に入朝したとき、魏武帝によってそのまま(鄴に)拘留され、(魏武帝は?)呼厨貌の叔父の去卑を匈奴本国に遣わし、本国の人びとを監督させた。拓跋氏が起こると、(去卑は)部民を率いて南に移動し、弟の右谷蠡王・潘六奚に軍を統率させて北方を防衛させた。(しかし)潘六奚の軍は敗れ、潘六奚とその五人の息子はみな拓跋氏に降った。その子孫はそのまま潘六奚を氏としたが、後世、なまって「破六韓」となった。
 北朝と言えば系譜の改竄が盛んに行われた時代として有名である。高さんとか李さんとか楊さんとか、挙げていくときりがない[1]。なのでこの系譜もまゆつばなのだけども、呼厨貌(泉)の叔父として去卑という人物が挙げられているのは注目に値する。というのもこの人物、たしかに『後漢書』『三国志』等に名前こそ散見するものの、匈奴単于とどういう関係にあったかが不明瞭だったからである。
 ためしに『後漢書』等から関連する記述を以下に列挙してみよう。
楊奉・董承引白波帥胡才・李楽・韓暹及匈奴左賢王去卑、率師奉迎、与李傕等戦、破之。(『後漢書』紀9献帝紀・興平2年11月の条)

楊奉と董承は、白波の頭領である胡才、李楽、韓暹、そして匈奴の左賢王・去卑を連れてきて、軍を統率して(献帝を)迎え、、李傕らと戦い、撃破した。

承・奉乃譎傕等与連和、而密遣間使至河東、招故白波帥李楽・韓暹・胡才及南匈奴右賢王去卑、並率其衆数千騎来、与承・奉共撃傕等、大破之、斬首数千級、乗輿乃得進。董承・李楽擁衛左右、胡才・楊奉・韓暹・去卑為後距。(『後漢書』伝62董卓伝)

董承と楊奉は李傕らをだまして彼らに協力しようと言いつつ、ひそかに使者を河東にやって、もと白波の頭領である李楽・韓暹・胡才、および南匈奴の右賢王・去卑を誘致した。彼らは数千騎の衆を引き連れて到来し、董承や楊奉らとともに李傕らを撃退し、斬首数千級を挙げた。こうして天子はようやく進むことができた。董承と李楽は天子の左右を守り、胡才・楊奉・韓暹・去卑はしんがりとなった。

建安元年、献帝自長安東帰、右賢王去卑与白波賊帥韓暹等侍衛天子、拒撃李傕・郭汜。及車駕還洛陽、又徙遷許、然後帰国。〔謂帰河東平陽也。〕二十一年、単于来朝、曹操因留於鄴、〔留呼廚泉於鄴、而遣去卑帰平陽、監其五部国。〕而遣去卑帰監其国焉。(『後漢書』伝79南匈奴伝)

建安元年、献帝が長安から東に帰る際、右賢王の去卑は白波賊の頭領の韓暹らとともに天子に侍って護衛し、李傕や郭汜を撃退した。天子が洛陽に帰ると、今度は許に移り、そうしてからようやく去卑は国に帰った〔河東の平陽に帰ったのである――李賢注〕。建安21年、呼厨泉単于が後漢朝廷に朝見すると、曹操は鄴に留めさせておき〔呼厨泉を鄴に留めておいて、去卑を平陽に帰し、匈奴五部を監督させたのである――李賢注〕、去卑を帰して匈奴の国を監督させた。

秋七月、匈奴南単于呼廚泉将其名王来朝、待以客礼、遂留魏、使右賢王去卑監其国。(『三国志』巻1武帝紀・建安21年の条)
 もう疲れたのでこのくらいにさせていただきたい。
 まず「左」賢王なのか「右」賢王なのかで史料に混乱があるが、もともとこの2字は誤写しやすい漢字なので、どっちかで誤写ったのだろう。どちらかと言うと「右」とする記述が多いようだ。右賢王より左賢王のほうが偉いし、次期単于候補はたいてい左賢王になるので、どっちなのかはけっこう大事な問題だったりするのだけども、この点はいったん保留しておこう。それよりもこれらの王位に就く者はみな「単于子弟」、すなわち単于の兄弟や子供たちであったという点に注意しておきたい。だとすると、賢王であった去卑は匈奴単于・於扶羅、あるいは呼厨泉の兄弟、もしくは子供であったことがわかるからだ。しかし、匈奴の王位にあった人たちを精査してみると、単于の「子弟」でない人が王であったりするので、この規則が本当に厳格に守られていたのか、疑問なしとは言えないのである。
 ところが、冒頭で引いた『北史』の記事によると、やっぱり呼厨貌(泉)の叔父とあるじゃあありませんか。しかもこいつら、系譜を改竄する連中なわけだけど、逆にそのことがこの系譜の権威性を証明していることに注意しておきたい。どこの馬の骨だからわかんねえ大野くんが、やっぱりどこの誰だかわかんねえ家の系譜を接合して、「どうだあ、オレは楽浪郡の李氏だぞお!」とか言っても、「大野くんとうとう頭が・・・」ってなるじゃない。つまり、少なくとも、去卑が南匈奴単于の血統を継ぐ人物であると見なされていたことは間違いないのである。[2]
 さて、上に掲げた史料によると、去卑はなぜだか白波賊と行動をともにしており、献帝東遷の際には、白波賊らとともに護衛につき、許まで付き従ったそうだ。そしてその後、単于の呼厨泉が鄴に留められるようになると、匈奴本国に派遣され、国を監督したと言う。どうやら呼厨泉と一緒に許昌か鄴に行き、去卑だけは国に帰されたようだ。しかも単于代行のようなお仕事まで任されたようである。

 どうして南単于の血統を引く去卑は白波賊と行動をともにしたのだろう。色々な史料を突き合わせたりすると、だいたい次のような事情があったらしい。
 後漢末、黄巾の乱が起こると、ときの匈奴単于・羌渠は子の於扶羅を後漢の援軍として派遣した。すると間もなく、どういう事情があったかはわからないが、羌渠は匈奴の国人たちに殺されてしまい、勝手に自分たちで単于を立ててしまった。一仕事を終えて戻ってきた於扶羅であったが、国に入れてもらえない。怒った於扶羅は、自らが正統な単于であると名乗り、後漢朝廷に何とかしてくれと訴えた。しかし何もしてくれない後漢朝廷。いじけた於扶羅は白波賊に合流、河内などで掠奪を働いたのち、河東(山西省南部。匈奴本国は山西省北部)に根城を置いた。於扶羅は興平二年に亡くなり、同年、弟の呼厨泉が後を継いで単于に立った。・・・[3]
 そうすると、去卑も於扶羅と一緒に派遣されていたか、羌渠が殺されたときに追放されて於扶羅に合流したかで於扶羅らと行動を共にし、於扶羅没後に呼厨泉が立った後も集団内に留まり、そのまま河東にいたのだろう。うろ覚えだが、河東は白波のアジトでもあったはずなので、於扶羅以来、南単于集団は白波とずっとお付き合いを続けていたのだろう。そうしているときにたまたま董承らから連絡があって、どういう理由でかは知らないが去卑が献帝の援軍に派遣されることになったという感じでしょう。
 冒頭の『北史』と合わせて考えると、去卑は於扶羅や呼厨泉の父の弟、すなわち羌渠の弟ということになろう[4]。『三国志』の時代に登場する数少ない南匈奴の要人として、ぜひ記憶にとどめおいてもらいたい。
 というのもこの去卑、実は呼厨泉入朝の裏で糸を引いていたらしいのと、この人物に着目することによって匈奴の五部分割の歴史が浮き彫りになるという、意外と外してはならない重要な人物だからである。これらの話についてはまた後ほど。[5]


――注――

[1]石見清裕『唐代の国際関係』(山川リブレット97、2009)によると、隋の楊氏はもともと普六茹氏で、唐の李氏は大野さんであったらしい。大野くんにはしっかりしてもらいたいね。[上に戻る]

[2]ちなみに、のちに赫連氏を名乗ることになる鉄弗・劉氏もまた、南単于の子孫かつ去卑の子孫を名乗っている(『魏書』巻95鉄弗・劉虎伝)。このことからも、去卑が南単于の血統にあることが確かめられよう。赫連勃勃はいちおう、匈奴単于の子孫ということになるわけである。劉虎らをふくむ匈奴劉氏の系図については、後日また取り上げたい(と思います)[上に戻る]

[3]町田隆吉「二・三世紀の南匈奴について――『晋書』巻101劉元海載記解釈試論」(『社会文化史学』17、1979)など参照。[上に戻る]

[4]ちなみに於扶羅の子が劉豹、豹の子がかの劉淵であるとされている。が、この系図はかねてから疑問が唱えられており、本当に劉淵が於扶羅の孫であったかはかなり疑わしいと考えられている。わたしも劉淵が於扶羅の孫だとは思っていないし、南単于の血統にも当たらない人物だろうと考えている。機会があれば記事にします。さしあたり三崎良章『五胡十六国――中国史上の民族大移動』(東方書店、2002)を参照のこと。[上に戻る]

[5]俺以外に去卑を記事にするやつなんておらんやろ、と余裕こきながらためしに検索してみたら、もうすでにWikiに項目が作られてるね。しかも詳しいわあ・・・[上に戻る]

0 件のコメント:

コメントを投稿