2013年8月25日日曜日

去卑のその後と匈奴の分割(8月27日追記)

 前回の記事では後漢末の南匈奴・去卑を取り上げ、彼が匈奴単于の血統を引く人物である可能性が高いことを述べておいた。今回は去卑のその後、具体的には白波と献帝を護衛した後の動向について一瞥しておき、ついで匈奴分割の話をしておこうと思う。
 とりあえず『後漢書』伝79南匈奴伝を再度引用しておこう。
建安元年、献帝自長安東帰、右賢王去卑与白波賊帥韓暹等侍衛天子、拒撃李傕・郭汜。及車駕還洛陽、又徙遷許、然後帰国。〔謂帰河東平陽也。〕二十一年、単于来朝、曹操因留於鄴、〔留呼廚泉於鄴、而遣去卑帰平陽、監其五部国。〕而遣去卑帰監其国焉。

建安元年、献帝が長安から東に帰る際、右賢王の去卑は白波賊の頭領の韓暹らとともに天子に侍って護衛し、李傕や郭汜を撃退した。天子が洛陽に帰ると、今度は許に移り、そうしてからようやく去卑は国に帰った〔河東の平陽に帰ったのである――李賢注〕。建安21年、呼厨泉単于が後漢朝廷に朝見すると、曹操は鄴に留めさせておき〔呼厨泉を鄴に留めておいて、去卑を平陽に帰し、匈奴五部を監督させたのである――李賢注〕、去卑を帰して匈奴の国を監督させた。
 結論的に言うと、去卑に関する事跡はこれが全てである。これ以上の記述は無いため、献帝護衛後、あるいは匈奴本国監国の時期における彼の具体的な活動をうかがい知ることはできない。
 といっても、若干ながら付け加えるべき情報がないわけでもない。まず『三国志』巻28鄧艾伝を引いてみよう。
是時并州右賢王劉豹并為一部、艾上言曰、「戎狄獣心、不以義親、彊則侵暴、弱則内附、故周宣有玁狁之寇、漢祖有平城之囲。毎匈奴一盛、為前代重患。自単于在外、莫能牽制長卑。誘而致之、使来入侍。由是羌夷失統、合散無主。以単于在内、万里順軌。今単于之尊日疏、外土之威寖重、則胡虜不可不深備也。聞劉豹部有叛胡、可因叛割為二国、以分其勢。去卑功顕前朝、而子不継業、宜加其子顕号、使居雁門。離国弱寇、追録旧勲、此御辺長計也」。

この当時〔斉王芳の時期、『資治通鑑』は嘉平3年とする――筆者注〕、并州にいた〔匈奴の〕右賢王劉豹が民衆を併せて〔匈奴五部族の〕一部族として存在していた。鄧艾は上奏文をたてまつって述べた、「蛮族は野獣の心をもっていて、道義によってなつかせることができません。強いときは侵略をはたらき、弱いときは内属します。そのため周の宣王の時代には玁狁(匈奴の別称)の侵入があり、漢の高祖の時代には平城での〔匈奴の〕包囲がありました。匈奴がひとたび盛んになると、過去においてはいつも重大な災難をもたらしてきたのです。単于(匈奴の王号)が国境の外にいて、部族長や民衆に対する拘束力を失ってからは、うまく誘って〔国境内に〕招き寄せ、お側仕えとして参内させました。これがために羌族は統率力を失い、あるじもなく離合をくりかえしました。単于が国境内にいたことから、万里のかなたまで規範に従うことになりました。ところが今〔国境内にいる〕単于の権威は日に日に下ってゆき、外地〔にいる異民族〕の威光がしだいに重みを増しておりますれば、蛮族に対して充分に備えをしなければいけません。聞けば劉豹の部族に反乱が起こったとか。反乱につけこんで二国に分割してその勢力を割くべきかと存じます。去卑は前代(武帝の時代)に顕著な功績をあげながら、その子は残した功業を引き継いでおりません。どうかその子に高い称号を与えまして雁門に住まわせてくださいますように。〔匈奴を〕二国に分けて侵略者の力を弱め、昔の勲功に対してさかのぼって恩賞をとらすこと、それは国境地帯を統御するための長期的戦略であります」。(ちくま訳pp. 270-271)
 この鄧艾の進言によると、どうやらもうこの時期には去卑は亡くなっているようである。しかしその子は去卑を継いでいないという。ちなみに去卑の功績というのは、ちくま訳によると呼厨泉を入朝させたこと、もしくは匈奴本国の監督のことであるらしい。
 ところで、めざとい人であれば、この箇所に劉淵の父「劉豹」が登場していることに気付くであろう。同一人物と見なして構わないと思う。注意していただきたいのは、劉豹が単于の権威をモノともしない危険分子として鄧艾に見なされていることである。当然、彼は去卑や去卑の子にも権威を感じていなかったであろう。鄧艾はその危険分子・劉豹の勢力範囲を二つに分割するべきだと言い、おそらくは、その片方を去卑の子に統治させようとしていたのではないだろうか。そこまでは少し考えすぎかもしれない。
 しかしいったん、この話題はここまで。劉豹は反単于的人物であったと言うことだけ念頭に留めておいていただきたい。この鄧艾の進言に関して、より深く考えてみたい箇所が別にある。実はこの史料、けっこう読みにくい。とりわけ「自単于在外、莫能牽制長卑。誘而致之、使来入侍。」の箇所は、呼厨泉入朝のことを言っているのはわかるのだけども、どうも「長卑」の意味がわからない。他に用例もないのでお手上げである。ちくまは「部族長や民衆」、言ってみれば「高貴な人といやしい人」と訳しているようだ。なるほど、と思わせる翻訳である。
 ここで『三国志集解』を見てみると、次のようにある。
沈家本が言うに、「『長卑』というのはよくわからん。『去卑』の間違いなんじゃねえか」。わたくし〔盧弼のこと――筆者注〕が考えるに、後文で去卑が登場しているし、去卑とは別人なんじゃなかろうか(字の誤りとは考えにくい)。
 かの沈家本がわかんねえと言うんだから、オレがわかんないのも当然っすわな。しかし沈家本は「去卑」の誤字なんじゃないかと言うとんでもない指摘をしている。盧弼はそれを否定してはいるものの、人名として見なしているふしがある。あれ、ちくまは別に人名と見なしてないけども・・・。
 まあとりあえず沈家本の考えを採用してみようじゃありませんか。すると次のように原文が書き換わる。
毎匈奴一盛為前代重患自単于在外莫能牽制卑誘而致之使来入侍由是羌夷失統合散無主
 なぜ標点を省略したのかって? そもそも中華書局の標点に疑問があるからですよ。結論的に言うと、ここは中華書局が一か所「。」を打つべき個所を誤っている。次のように文章を読むべきだ。
毎匈奴一盛、為前代重患。自単于在外、莫能牽制去卑誘而致之、使来入侍。由是羌夷失統、合散無主。以単于在内、万里順軌。

匈奴はいったん盛んになるたびに、過去における重大な悩みとなっていた。匈奴単于が(朝廷の)外にいるようになって(参内しなくなって)以来、匈奴本国は統制できなくなっていた。去卑は単于を誘って招き寄せ、朝廷に入らせて側仕えさせるようにした。こうして羌(などの非漢族?)は統一を失い、統率者がいないままに合流したり解散したりしていたのだが、単于が朝廷内にいるようになると、天下は帰順した。
 かなりわたしなりの解釈が混じっているが、前漢・後漢の匈奴史をある程度踏まえて読んでみた。前漢・宣帝期、後漢・光武帝期の二人の呼韓邪単于が入朝して臣従の意を示したことで、匈奴が落ち着いて、漢朝との関係も比較的平和になったことを意識した文章だと思われる。あんまりごちゃごちゃ書くと長くなるので、色々は書きませんが、わたしはこのように読むのが正しいと思います。[1]
 すると大事なことが言われているじゃあありませんか。だって去卑が呼厨泉を入朝させた張本人ということになってるんですよ。
 じつはこのことに関しては、西晋の江統「徙戎論」(『晋書』巻56本伝所収)でも述べられているのだ。
中平中、以黄巾賊起、発調其兵、部衆不従、而殺羌渠。由是於彌扶羅求助於漢、以討其賊。仍値世喪乱、遂乗釁而作、鹵掠趙魏、寇至河南。建安中、又使右賢王去卑誘質呼廚泉、聴其部落散居六郡。

中平年間、黄巾賊が起こったことから、(匈奴単于は後漢を援護するために)兵を徴発したが、部衆は従わずに単于の羌渠を殺してしまった。こうしたことから、於弥扶羅〔於扶羅のこと――筆者注〕は漢に助けを求め、単于を殺害した者たちを討とうとした(が許されなかった)。すると(後漢末の)戦乱に出くわしたので、ついにその隙に乗じて反乱を起こし、趙魏で掠奪を行い、侵略は河南にまで及んだ。建安年間、また(朝廷は?)右賢王の去卑に呼厨泉を誘致させて(朝廷に)人質として差し出し、匈奴の部落が六郡に散居することを許した。
 そう言われると、去卑は献帝が許に移動するまで帝に付き従っていたのだから、曹操と面識があった可能性は否定できない。また呼厨泉が入朝すると曹操がそのまま鄴に留めたと言うことは、現在は匈奴本国から追放されている単于であるとはいえ、単于が再び権威や権力を取り戻して、朝廷にたてつくような勢力を得てしまうことを曹操は警戒していたということであり、それゆえに彼は単于を自らの手元に軟禁しておこうと考えたのだろう。そうした曹操の思惑通りに呼厨泉を誘い出したのが去卑ということになる。おまけに彼は、単于の血族であるにも関わらず、匈奴単于の復活を警戒していたと思われる曹操から、匈奴本国の監督を委任されているのである。要するに、去卑と曹操は裏で手を結んでいたのではなかろうか。そうして実現したのがこの呼厨泉の入朝=軟禁と去卑の監国だったというわけである。[追記]
 少し妄想を交えすぎたかもしれない。ただわたしは、おおよそこのような流れで理解して良いと思っている。わざわざ江統がウソをつく必要もないだろうし。鄧艾伝のあの箇所を、前述したように読むべきだと主張したのも、この「徙戎論」の記述を根拠の一つとしている。

 去卑が監国のために帰った後はどうであろうか。そもそも彼が監督を委任された「国」とは、羌渠を殺害し、於扶羅を追い出した部民たちの住む本国のことであったと思われる。これも前回に軽く触れたのだけど、もう一度このあたりの経緯を確認しておこう。
 単于羌渠、光和二年立。中平四年、前中山太守張純反畔、遂率鮮卑寇辺郡。霊帝詔発南匈奴兵、配幽州牧劉虞討之。単于遣左賢王将騎詣幽州。国人恐単于初兵無已、五年、右部○〔諡の言を酉にした字〕落与休著各胡白馬銅等十余万人反、攻殺単于。
 単于羌渠立十年、子右賢王於扶羅立。
 持至尸逐侯単于於扶羅、中平五年立。国人殺其父者遂畔、共立須卜骨都侯為単于、而於扶羅詣闕自訟。会霊帝崩、天下大乱、単于将数千騎与白波賊合兵寇河内諸郡。時民皆保聚、鈔掠無利、而兵遂挫傷。復欲帰国、国人不受、乃止河東。須卜骨都侯為単于一年而死、南庭遂虚其位、以老王行国事。(『後漢書』南匈奴伝)

 単于の羌渠は光和2年に立った。中平4年、もと中山太守の張純が反乱を起こすと、鮮卑を引き連れて辺郡を侵略した。霊帝は詔を下し、南匈奴の兵を徴発して、幽州牧の劉虞に配し、張純を討伐するよう命じた。羌渠単于は(それに従い、)左賢王に騎兵を統率させて幽州に行かせた。匈奴の国人は単于の徴兵が続くことを憂慮し、中平5年、右部○と休著各胡の白馬銅ら十余万人が反乱を起こし、単于を殺した。[2]
 単于の羌渠が立って十年で、その子の右賢王・於扶羅が立った。
 持至尸逐侯単于の於扶羅は中平5年に立った。匈奴の国人は於扶羅の父を殺してとうとう反乱を起こすと、共同で須卜骨都侯を単于に立てたので、於扶羅は朝廷に行って訴え出た。ちょうど霊帝が崩御して、天下が大混乱に陥ったので(於扶羅は相手にしてもらえず)、於扶羅単于は数千騎を率いて白波賊と合流し、河内などで暴虐をはたらいた。しかし当時の民衆たちはみな寄り集まって(自己防衛して)いたので、掠奪して得られるものはなく、(疲労などで)兵たちは使い物にならなくなっていった。再び国に帰りたいと思ったが、国人は受け入れなかったので、河東に駐留することにした。須卜骨都侯は単于になって一年で死んだが、南匈奴の単于は空位のままとなり、老王が国の政事を取り仕切った。
 この事件、じつはものすごい大事件である。曲がりなりにも約200年間「南匈奴」部族連合[3]のトップにあった単于=虚連題氏が、その連合下にある部族民たちから単于失格の烙印を押されて追放され、異性大臣・骨都侯の位にあった須卜氏を代わりに単于にしたというのだ。ちなみにこの須卜氏は呼延氏と並んで匈奴の「四姓」の一つである。わかりやすく言うと易姓革命のようなものが起こったのである。いままで、後漢の後期になるにつれて単于に対する反乱が起こったりと、たしかに単于の権威が低下しつつあったようだけども[4]、後漢末年にいたって、とうとうこんな結果になってしまったようである。
 於扶羅や去卑ら虚連題氏が全く手を出せなくなった匈奴本国は、どうなったのだろうか。「老王が取り仕切った」以上に明確な情報はあまりないのが現状である。わかることを述べておくと、曹操と袁紹が対立を鮮明にしていた時期においては、単于グループは袁紹に味方をしていたようである。建安11年、曹操が高幹を討伐すると、梁習を并州刺史に任じた(『三国志』巻15本伝)。梁習伝によると、当時の并州は荒れ放題だったが、梁習が武力制裁やらを加えることで平穏を取り戻したそうだ。こうして、
単于恭順、名王稽顙、部曲服事供職、同於編戸。

単于は帰順し、名王は額を下げ、部曲〔ちくまは部族民と訳す、ニュアンスとしてはおそらく妥当――筆者注〕は仕事を行うようになり、編戸〔戸籍が作られること、転じて一般農民を指す〕と同じように扱われた。
という風になったらしい。はたしてこの記述が単に単于グループに留まるのか、本国にまで関する記述と見て良いのか、よくわからない。まあたぶん単于グループも本国も、といった感じだろうか。どうも陳寿は匈奴本国と単于グループが乖離していたという点をあまり意識できていないようにも見えるのだが、どうだろう。
 この乖離状況を打ち破ったのが去卑であった。彼は(おそらく)曹操と手を組み、単于・呼厨泉を人質として差し出す代わりに、匈奴本国を支配する承認を得たのである。それはうまくいったのだろうか。まあ何も記述が残っていないので、推測の仕様がないが、逆に特記するほどの大事件もなかったということだろうか、まあ比較的順調だったのかもしれない。
 だが去卑の没後はどうもそういうわけにもいかなかったようだ。前掲鄧艾伝からうかがう限りでは、去卑の子は魏朝から何らかのお墨付きをもらっていたわけでもないし、匈奴本国でもあまり尊重されていなかったようだ。対して、匈奴本国で急速に勢力を伸ばしていたので劉豹のような匈奴劉氏であったと思われる。前掲鄧艾伝でも、単于の権威をカサにきない不穏分子として劉豹が言及されている点を指摘しておいた。なんだか劉豹は、単于と関係のある人物というより、敵対していた人物であったようにも見える。匈奴劉氏に関しては、『三国志』巻24孫礼伝にも、
時匈奴王劉靖部衆彊盛、而鮮卑数寇辺、乃以礼為并州刺史、加振武将軍・使持節・護匈奴中郎将。

当時、匈奴の王の劉靖の部族が勢い盛んで、かつ鮮卑がしばしば辺境を侵略していたので、孫礼を并州刺史とし、振武将軍・使持節・護匈奴中郎将を加えた。
とあるが、この記事は曹爽が誅殺される直前に置かれているので、正始末年~嘉平元年ころの話だと思われる。鄧艾伝の話は『資治通鑑』によると嘉平3年である。どうもこの時期くらいになると、匈奴本国は魏朝や単于のことをないがしろにし始めていくようだ。その指導者であったのが劉氏であったらしい。
 これに危険を感じた鄧艾は、その勢力を無理矢理二つに分割することで、勢力を削ごうとしたらしい。なんかコントロールできないよぉとか言っときながら分割は強行できるんだろうか?と思っちまうのだが、劉氏の側も曹魏から自立できるほどの力はなかったんだろうか? このあたりの事情はよくわからんのだが、どうも分割政策は実行できたらしい。というのも、さきの江統「徙戎論」のつづきに、
咸熙之際、以一部太強、分為三率。泰始之初、又増為四。・・・今五部之衆、戸至数万、人口之盛、過於西戎。

咸煕年間、一部が強大だったので、分割して三部とした。泰始の初めには、また分割数を増やして四部とした。・・・現在の匈奴五部の衆は、戸数数万にもいたり、人の多さは西戎以上となっている。
とあるからだ。おそらく、嘉平年間に二部に分割され、さらに曹魏末年の咸煕年間に三部、泰始に四部、そしてその後、「徙戎論」が書かれた恵帝中期ころには五部になっていたようである。すなわち、匈奴の五部分割とは曹魏から西晋にかけて、徐々に行われた政策であったことになる。
 それはおかしい!と思われた方もいると思う。通説、というより『晋書』巻101劉元海載記や『十六国春秋』前趙録では、五部分割は曹操によって行われた政策であると記述されているからだ。そしてこれを受けて、通説では曹操によって去卑が監国に帰された際に五部分割が実行に移され、劉氏=虚連題氏が五部の帥に任命されたと考えられてきた。
 しかしわたしは、鄧艾伝や「徙戎論」を重視して、去卑が帰された際は「六郡の散居」状態で五部分割などはなされず、その後劉氏の台頭に伴って、危機意識を増した曹魏・西晋が五部分割を実行したのだと考えておきたい。[5]
 もうこれまでの記述の様子からお分かりだと思うが、わたしは劉氏を単于一族=虚連題氏とは考えていない。おそらく劉氏は、単于一族=虚連題氏追放後の匈奴本国で力を握り、頭角を現した一族であると推測している。さらに言えば劉氏とは、南匈奴部族連合のオリジナルメンバーではなかった「屠各種」と呼ばれる人々であったと考えている。屠各種や、単于の子孫については・・・もう長く書きすぎてしまったのでまたの機会に。


――注――

[1]このことはちゃんと言っておこうと思いますが、鄧艾伝のこの箇所を記事のように読むべきだと言ったのはわたしが初めてではなく、すでに先行研究で指摘されています。たしか町田隆吉先生の「二・三世紀の南匈奴について――『晋書』巻101劉元海載記解釈試論」(『社会文化史学』17、1979)で言われてたと思う。町田先生の五胡に関する研究論文は、手に入りにくい雑誌や論文集に収録されているので、あまり広くは知られていないと思いますが、とてもすばらしい研究ばかりなので、機会がある人はぜひご覧になってください。五胡に直接興味があるわけではなくても、例えば前秦の護軍を考察した論文は、魏晋の護軍を考察するうえでの古典的論文にもなりますので。え?町田先生に媚びすぎ?いやいや、いくら魏晋の会の会長だからってなんかちょっと目をかけてほしいとか別にそういうわけじゃありませんよ、ええ、やめてくださいそういうの。[上に戻る]

[2]前回の記事では『晋書』劉元海載記や『十六国春秋』前趙録に従って黄巾の乱の直後に殺されたと述べていたけど、『後漢書』では黄巾の乱後の張純の乱のときに殺されたことになっていましたね。すみません。いちおうどちらでも、霊帝末年に単于が殺されたということで共通しているので、とりあえずそんな感じで許して。[上に戻る]

[3]後漢朝によって正式に承認された匈奴単于を中心とする部族連合のことを、わたしは南匈奴と呼ぶことにしている。[上に戻る]

[4]例えば永和5年の句龍王吾斯の反乱とか。吾斯は単于庭を包囲して攻め、しかも自分で勝手に単于を立ちゃったりしている。南匈奴史においてはけっこう重大な事件。[上に戻る]

[5]じゃあなんで『晋書』載記や『十六国春秋』前趙録は、曹操が五部分割したと記述しているのか、というと、どうもこれらは匈奴劉氏の王朝・漢や前趙で編纂された国史『漢趙記』に由来するらしい。後漢末年に自ら(劉豹)の系譜をつなげるなどといったイデオロギー的操作がこのような記述を生み出したのだろうと指摘されている。前掲町田論文参照。[上に戻る]


[追記]書き忘れてしまっていたが、去卑と曹操がグルであった可能性はすで内田吟風『北アジア史研究』によって指摘されている。わたしの独創でもないものを、さもわたしが思いついたかのように書いてしまったことは不適切でした。すみません。[上に戻る]

2 件のコメント:

  1.  せっかく読ませていただきましたので、若干何かテキトーなコメントを。前回劉淵の出自云々の話でわかるように匈奴の正式な力関係とか、まるで押さえてなかったわけです。というのも南匈奴以降勢力が安定しないのが常という感じを持っていたのでパワーバランスとか、その変化を正確に抑えることはあんまり意味が無いのかな?と軽視してました。二転三転するのが当たり前な混乱期ということで。天皇家が時間が経つとその子孫だらけになるように、単于の血統というのもいくらでもいそうですし。

     個人的には道教と異民族という観点からココらへん注目していて、曹操の都市計画、新王朝の前段階としての鄴という要素が重要かなと思っております。

     李典だったか李通だったか?一族部曲まるまる移住してきてそれを曹操が喜んだりやっぱり新しい自分の支配勢力に塗り替えるための計画があったと思うんですよね。呼廚泉の入朝というのはもちろん匈奴管理計画という性格があるのでしょうけど、それよりか鄴という新都市・重要拠点からの北や西の異民族をコントロールするそういう大まかな大戦略からみたほうが話が理解しやすいのかな?と思います。

     まあそういうこともあって、北からまるまる拉致ってきた烏桓とか西から彼ら匈奴の部落を住まわせるということにはかなり大きな意味があったと見ています。北朝でも一人一人に至る個人単位の管理、部落の解散というのは考えにくかったといいますから曹操の時代に同化政策が進んだというのもやはり考えにくいのでしょう。自己の部曲として組み込んだくらいなのでしょうか?さらにそこで彼らを管理するための装置として「道教」というものが重要になってくるわけで、もっと脚光を浴びていいんじゃないかな?と思うのですけど、あんまり取り上げられることがないみたいで残念ですね。丁度張魯とかその一族が漢中でやったみたいに漢人など異民族・出自にとらわれない、バラバラな部族であってもまとめ上げることが出来た「教団」の力をママ応用したはずなんですよね。張魯の没後一万戸待遇なんて破格中の破格ですからね。

     とまあそんな個人的な思いを勝手に述べたわけですが、南匈奴の誕生の経緯からして殆ど漢王朝下の異性諸侯王みたいな感じですから、そこまで警戒されるような勢力でなかった気がします。それこそ混乱に乗じて五胡のように北方に新王朝作っちゃうような勢力がない。内部がまとまってないところを見ても。曹操の軍事力見て普通にへへーとなった。まな板の鯉的な意味合いがある入朝かと。

     去卑と曹操が組んでいたといえば組んでいるんでしょうけど、去卑でないと曹操が望むような政策が取れない・曹操の意図が伝わらない、そういうコネ&キャリアの差というのが大きいのではないでしょうか?あの時代もう漢=魏が安定してきているので、その意思を汲み取れるような人物じゃないとまずいわけですから。呼廚泉のキャリアというか、あんま漢人&政治都の接点がないのでその漢=魏との意思疎通がこなせないという点が大きかったのでは?去卑と呼廚泉の対立と言えるかどうかわからないですけど、そう捉える可能性ともう一つ別に、単に年功序列・キャリアの長という観点から去卑に一旦呼廚泉が譲った。その後を呼廚泉が引き継ぐということだったかもしれません。去卑→呼廚泉という可能性があるかと。まあ、一旦譲られたものをホイホイ渡すかどうかと言われたらそこに疑問が残るので、最早諦めて去卑に屈服せざるを得なかったということかもしれませんが。まあ己にはわかりようがないので、考えうることをあげてみました。

     コントロールの話ですが、まあ漢・定住民は重要な貿易相手ですから、お前んとこのボスじゃ嫌だよ、ナンバーツーなら相手してやるよ(or安く売ってやる)的な例のあれでしょうね。そうやって内部対立を煽っていくという。

     いつか河東という地の重要性についてなんか書きたいと思っていましたが、大体匈奴とかなんかあるとそこに留まるんですよね。匈奴と漢の中継地点として面白そうな土地柄なんですよね。

     いくら曹操政権が強力でも、混乱期にあった匈奴を立てなおして統制つくようにして、さらに五分に分割と一気に出来たかな?という気はしますね。もっと後に再編がされたと見るほうが自然なんでしょうね。人口圧力が高まっていたことと晋の内乱が収まる気配がなかったことが劉淵何かを生んでいったってことでしょうかね。内乱がなくてもそれだけ人口増が続いていたのなら反乱は必定だったのかもしれませんね。

     名前の話ですが、日本が和=倭だったり、日巫女・日御子・日神子=卑弥呼みたいに(定説ではないですが)自分たちの自称を意味が良くない漢字を当てる傾向があちらさんにありますが、単于とか虚連題とか向こうの人にも自称には良い意味が込められているはずですが、どんないみがあるんでしょうね?匈奴とかどんな意味があるのか気になるところです。そういうのはもう殆どの国名とかで明らかになっているのでしょうか、無知なので知りませんが。

     何故か右賢王とか左賢王だけ「賢」といういい字を与えられているという不思議。向こうのナンバーツーを贔屓してやろうということなんでしょうかね。

     去にマイナスイメージがありそうな感じがしますが。長卑だと長にマイナスイメージが感じられないので人名になるのか?うーんってとこですね。年長のものと卑しいもの、身分の高い人から低い人までという意味を表すならもっと色んな所に出てきてもよさそうな言葉ですしね。単なる誤字なのでしょうか。

     なんか無駄に長くなりましたが、こんなところで。

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    1. コメントありがとうございます。

      >南匈奴以降勢力が安定しないのが常という感じを持っていたのでパワーバランスとか、その変化を正確に抑えることはあんまり意味が無いのかな?と軽視してました。二転三転するのが当たり前な混乱期ということで。天皇家が時間が経つとその子孫だらけになるように、単于の血統というのもいくらでもいそうですし。

       ミクロな視点で言えば、戦前の岡崎文夫『魏晋南北朝通史』以来、劉淵の系図には疑問が向けられていたので、そのあたりの血統関係を再検討するためにも動向をおさえておく必要がありますし、ひいては、匈奴五部の独立を理解するためにも五部の成立に関する歴史的背景を理解しておく必要があると思います。おおよその流れではおっしゃる通りの理解で問題ありませんが、それに肉付けしていく方法論が歴史的手法というものではないでしょうか。また、

      >南匈奴の誕生の経緯からして殆ど漢王朝下の異性諸侯王みたいな感じですから、そこまで警戒されるような勢力でなかった気がします。それこそ混乱に乗じて五胡のように北方に新王朝作っちゃうような勢力がない。内部がまとまってないところを見ても。曹操の軍事力見て普通にへへーとなった。まな板の鯉的な意味合いがある入朝かと。

      というのは少し違うかと思います。たしかに南匈奴(の単于)は後漢の諸侯的立場にあったと思われますが、後漢中期より単于や漢朝への反乱をよく起こしてますし、しかもそれらは山西省周辺の非漢族や烏桓、関西の羌族などと連合した大規模な騒動になることがしばしばですから、警戒していなかったというわけではないと思います。後漢は中期にオルドスを放棄して、南匈奴を山西省北部に移住させていますが、この措置は南匈奴の反乱に手を焼いた末の移住策、まあ監視しやすくしようとしたわけで、後漢からしてみればうるさすぎて厄介な存在になりつつあったと言ってもよいでしょう。で、後漢末になるとほかもどんどんうるさくなってきて余裕がなくなり、朝廷としてはほぼ放置状態、そこに袁紹らが利用しようとしたものと思われます。後漢の中期ころまでならしっかり於扶羅に対応しているはずです(似たようなケースが中期にあって、後漢は単于位の継承をめぐるもめごとに政治的・武力的介入を行い解決させたりしています)。
       ただおっしゃる通り、独立は実現できませんでした。というより、そこも正確に言うと、何度か自立は試みられていますが、成功しませんでした(安帝期に大反乱を起こした羌族もそうでした)。時期が下るにつれ、単于の求心力がなくなって連合のまとまりが喪失したこともそうですし、あるいは中国側もおさえこめるだけの力があったんでしょうかね。
       呼厨泉ら単于グループは、記事に書いたように、ボロボロになってしまっていましたから、曹操のような有力者にたてつくつもりなぞなかったことでしょう。


      >個人的には道教と異民族という観点からココらへん注目していて、曹操の都市計画、新王朝の前段階としての鄴という要素が重要かなと思っております。
       李典だったか李通だったか?一族部曲まるまる移住してきてそれを曹操が喜んだりやっぱり新しい自分の支配勢力に塗り替えるための計画があったと思うんですよね。呼廚泉の入朝というのはもちろん匈奴管理計画という性格があるのでしょうけど、それよりか鄴という新都市・重要拠点からの北や西の異民族をコントロールするそういう大まかな大戦略からみたほうが話が理解しやすいのかな?と思います。

       梁習伝なんかでは、単于の入朝=西方安定の象徴のように記述されいますし、そのような戦略のもとの匈奴対策であることはその通りでしょう。
       それにしても、鄴の都市プランや道教という視点はまったく欠けていました。非漢族と宗教という点で言えば、従来から注目されているのが仏教のほうなんですよね。石虎と仏図澄、姚氏と鳩摩羅什のような。とくに石虎の「中国の外からきた仏教のほうが親近感もてるわ」という発言が有名だし、かれらの宗教観の象徴のように見られますね。あと宗教的な関連で言いますと、孝文帝改革以前の拓跋氏は「西郊」という、代北時代に由来すると思われる独自の祭祀儀礼を行っていたことが知られていますが、要するに非漢族の人たちと道教とのつながりってあんまり聞いたことがないのです。太武帝と寇謙之くらいでしょうか。まあわたしがこの時代の宗教にうといせいもあるのですが。道教がおっしゃる通りの効果を持ち得たとすれば、おもしろいところですね。


      >去卑と曹操が組んでいたといえば組んでいるんでしょうけど、去卑でないと曹操が望むような政策が取れない・曹操の意図が伝わらない、そういうコネ&キャリアの差というのが大きいのではないでしょうか?あの時代もう漢=魏が安定してきているので、その意思を汲み取れるような人物じゃないとまずいわけですから。呼廚泉のキャリアというか、あんま漢人&政治都の接点がないのでその漢=魏との意思疎通がこなせないという点が大きかったのでは?去卑と呼廚泉の対立と言えるかどうかわからないですけど、そう捉える可能性ともう一つ別に、単に年功序列・キャリアの長という観点から去卑に一旦呼廚泉が譲った。その後を呼廚泉が引き継ぐということだったかもしれません。

       去卑と曹操の関係についてはおっしゃる通りでしょう。
       去卑と呼厨泉との関係性については、ないとは言い切れませんけども、そこまでいくと少し考えすぎな気もしてしまいます。


      >いつか河東という地の重要性についてなんか書きたいと思っていましたが、大体匈奴とかなんかあるとそこに留まるんですよね。匈奴と漢の中継地点として面白そうな土地柄なんですよね。

       河東やその北部の山西省のほうって、けっこう山がちな地形でもあるためか、反乱に適しているみたいなんですよね。北魏なんかでも得体のしれない集団(「山胡」とか)がこの当たりでゲリラ戦みたいなことしてますし、地勢的な特徴がまず挙げられるでしょうね。どういう記事を書かれるつもりなのか、気になります。


      >名前の話ですが、日本が和=倭だったり、日巫女・日御子・日神子=卑弥呼みたいに(定説ではないですが)自分たちの自称を意味が良くない漢字を当てる傾向があちらさんにありますが、単于とか虚連題とか向こうの人にも自称には良い意味が込められているはずですが、どんないみがあるんでしょうね?匈奴とかどんな意味があるのか気になるところです。

       非漢族にはあまり美しくない漢字を傾向があるのはたしかですが、全てが厳密にそうであったと考えるのは縛られすぎでしょう。高句麗とかいますしね(有名な話ですが、王莽は高句麗を下句麗に改めたりしています)。非漢族に関する固有名詞はおおよそ、その漢字表現が意味を持ち得ていたら漢訳表記、全く意味をなしていない漢字の並びであったら音写と考えてよいでしょう。
       また「単于」は『漢書』匈奴伝によると、正確な名称は「撐犁孤塗単于」。漢訳すると、「撐犁」は「天」、孤塗は「子」、単于は「広大」なんだそうで、「広大なる天子」という意味らしいです。音を漢字表記したのが「撐犁孤塗単于」ということでしょう。遊牧民には「テングリ」の思想があったそうなので、そこら辺と関係があるんでしょうね。「虚連題」は音写でしょう。ちなみに『漢書』だと、単于の姓は「攣鞮」となっています。先行研究によると、表記は変わっているが音的には通ずるらしいです。匈奴も音写、「フン」と音が似ているなんて言われますね。「虚連題」「匈奴」とも、匈奴の言語中における意味はわかっていません。
       左右賢王ですが、やはり『漢書』によると「匈奴は『賢』なることを『屠耆』と言う。そのため、つねに単于の太子を左屠耆王=左賢王としている(匈奴謂『賢』曰『屠耆』、故常以太子為左屠耆王)」とのことです。左右賢王は漢訳ということですね。なんでこれだけ漢訳されたのかはわかりませんが。

       ということなので、

      >去にマイナスイメージがありそうな感じがしますが。長卑だと長にマイナスイメージが感じられないので人名になるのか?うーんってとこですね。年長のものと卑しいもの、身分の高い人から低い人までという意味を表すならもっと色んな所に出てきてもよさそうな言葉ですしね。単なる誤字なのでしょうか。

       「長卑」という人名は有り得ないとまで考える必要はないと思います。
       鄧艾伝の該当箇所は、文章のリズムから考えても、中華書局の標点はあまりよろしくないんですよね。今回の記事のような、というより町田先生のような読み方だとリズムもいいし、意味も問題なく取れるし、ほかの史料で裏付けも取れるしで、なかなか良い案なんですよね。わたしとては誤写の可能性が高いと思います。

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