2014年11月30日日曜日

西晋時代の軍隊に非漢族兵士はどのように組み込まれたのか?



 『晋書』巻48段灼伝より、西晋の段灼が晩年に武帝に奉じたという上表を取り上げます。
 時期はおそらく武帝の天下統一から間もないころだと思われれる。
 どうしても死ぬ前に、武帝にモノ申しておいてオレはできるやつなんだぜってアピールをしたかった統治術の心得を五つの方面から進言したというやつで、以下は「信頼はちゃんと固めようね」っていうポイントについて意見している箇所からの引用。
四つ目に、法令や賞罰は信頼が肝要でございます。・・・わたくしが以前に西郡太守であったころ、(涼)州に己未詔書が下されました。詔書には「(このたびの遠征は)羌胡にとって路程が遠く(嫌がる者が多いだろうから)、行きたいという者だけを募集せよ。強制してはならぬ」とございました。わたくしは詔書の命令を承ると、恩賞を明示したうえで公募し、応じて来た者の人名を箇条書きにして征西将軍に申告しました。そもそも晋人であれば、わたくしみずからが壮健な者を選抜して、法に則って徴発することができますが、羌胡についてはというと、恩賞が出なければ(ここから南の)金城や河西まで行こうとする者はおりません。(そのため)以前より、軍を起こして黄河を渡るたびに必ず(羌胡のあいだで)変事が起こったのです。(そこで)もとの涼州刺史の郭綏はなるべく正直な者を兵に加え、励ましをかけて(精神的距離を埋め)、必ず大きな褒賞を与えると約束したのでした。かくして募集に応じた者たちは、この恩に感激し、かつ褒賞を得ようとつとめたので、ついに天下第一の功績をあげたのです。現在の州郡の都督や将軍はすべて(このときに)封爵を与えられ、羌胡のつわものたちは王や侯になり、みなが叙勲を得たのでした。(其四曰、法令賞罰、莫大乎信。・・・臣前為西郡太守、被州所下己未詔書、「羌胡道遠、其但募取楽行、不楽勿強」。臣被詔書、輒宣恩広募、示以賞信、所得人名即條言征西。其晋人自可差簡丁強、如法調取、至於羌胡、非恩意告諭、則無欲度金城河西者也。自往毎興軍渡河、未曾有変、故刺史郭綏勧帥有方、深加奨励、要許重報。是以所募感恩利賞、遂立績効、功在第一。今州郡督将、並已受封、羌胡健児、或王或侯、不蒙論敘也。)
 さて、ここで述べられている経験談をもうちょい掘り下げてみよう。

 まず地理関係から。西郡は涼州の属郡。なので文中の「州」は涼州を指すだろう。
 わたしのもてるすべての技術を用いて表現すると・・・

     ・張掖
     
       ・西郡
       
         ・武威    【涼州】
     ・西平          ↑
   ―――――――――――――黄河
         ・金城      ↓
                 【秦州】

 すまん、こんな感じで許してくれ頼む
 だからその、西郡は涼州のうちでは東側で、金城は涼州の南の境界のそば、黄河のすぐ南にあるのです。

 つづいて人名。
 郭綏はほかの箇所に見えず。まあいいでしょう。
 見るからに征西将軍のほうが大事でしょ。こいつは誰を指しているのか。

 まず挙げたくなるのは鄧艾。というのも、この段灼、以前は鄧艾の部下で、けっこう彼に心酔しているらしいのである。引用した上表とは別の、彼の提出した上書には「故征西」として鄧艾のことも言及されているし、鄧艾の可能性を考えたくなるのだが・・・鄧艾ではないと思う。

 いやなんというか、魏の時代の話をしている感じではないと思うんだよね。冒頭で説明したけど、これ晋の武帝に奉じた文章だから。「己未詔書」ってのは、魏の時代に下された詔書ってのではなくて、「陛下はこういう詔書を下されましたよね」って意味なんじゃないか。なお「己未」の干支は詔書が下された日付を指しています、年月ではありません、というふうにわたしは教わっています。
 それと文中の「晋人」。原本ママの表現だとすれば、「一般人民だったらこうしたんですけど、非漢族はできませんでした」と言っているわけだから、己未詔書の指令が下されたのは一般人民が「晋人」と呼称される時代=晋の時代と考えるべきではないだろうか。

 というような諸々の理由につき、わたしは「征西」を鄧艾と解釈しません。晋の武帝治下における征西将軍だと思います。
 じゃあ該当者には誰がいるのか。一人おるわけです。そいつは司馬懿の息子のうちでも秀才と評判の司馬駿。武帝紀によると、彼は咸寧2年10月に鎮西大将軍から征西大将軍へと昇格している。
 もうちょい詳しい経歴を『晋書』巻38宣五王伝・扶風王駿伝から一瞥しておこう。
汝陰王の駿は鎮西大将軍、使持節、都督雍凉等州諸軍事に異動し、汝南王の亮と交代して関中に出鎮した。・・・咸寧年間のはじめ、羌の樹機能らが反乱を起こしたので、駿は征伐軍を派遣し、3000あまりの首級を挙げた。征西大将軍、開府儀同三司に昇進し、持節と都督は以前のままとされた。また、駿に詔が下り、7000人の軍隊を派遣し、涼州の屯田兵と交代させるよう命じられた。樹機能や侯弾勃らは交代以前に屯田兵を拉致しようと目論んだが、駿は(それを察したので)平虜護軍の文俶に涼州・秦州・雍州の軍を統率させ、各所の屯田地に進ませて樹機能らを威圧させた。すると樹機能は手勢の20部(の首長?)と侯弾勃を(文俶のもとへ)つかわし、(彼らに自分を)後ろ手で縛らせ、降服した。(首長らは)人質となる子弟を入れた。(遷鎮西大将軍、使持節、都督雍涼等州諸軍事、代汝南王亮鎮関中。・・・咸寧初、羌虜樹機能等叛、遣衆討之、斬三千余級。進位征西大将軍、開府辟召儀同三司、持節都督如故。又詔駿遣七千人代涼州守兵。樹機能、侯弾勃等欲先劫佃兵、駿命平虜護軍文俶督涼秦雍諸軍各進屯以威之。機能乃遣所領二十部及弾勃面縛軍門、各遣入質子。)
 ちょうどぴったりな感じのことが書いてあるね! すなわち、文鴦が司馬駿の命令を受け、涼州や秦州などの兵士を率いて樹機能を討ちにいったというのだ。
 ただし、駿伝では直接的戦闘があったとは記されていない。これでは「功績第一!」という段灼のアレをどう捉えたらよいのか。見栄? と言っても、相手は皇帝なわけで、世辞にしたってバレバレなウソをつくのもねー。
 ここの事柄について、武帝紀を見てみると、
咸寧3年3月、平虜護軍の文俶が樹機能らを征伐し、すべて撃破した。(三月、平虜護軍文淑討叛虜樹機能等、並破之。)
とあって、なんかいかにも「戦闘がありました」みたいな記述になっているので、本当には戦闘があったのかもしれない。といっても、これだけではちょっと苦しいね。

 とりあえず、征西将軍指揮下の軍事行動であることと涼州軍が参加していたことが明記されているので、有力な候補として留めておこう。

 別の軍事行動としては、これ以後におこなわれた二度のものが挙げられる。

 まず咸寧5年の軍事行動。
 この年の正月、涼州刺史の楊欣が禿髪樹機能に殺害されると、武帝は征伐隊として馬隆を中央から派遣、馬隆は12月に樹機能を斬っている。
 段灼が言っているのはこのときの戦闘のことではないか、とも思えるかもしれないが、史料的にそれを言うのはかなり難しい。
 一つに、さきに説明したように、このときは涼州刺史が亡くなっている。もっとも、没して間もなくに武帝が後任を任命したり、涼州の郡守が臨時代行(「守」)した可能性も考えられるので、刺史はそれほど大きな障害にはならない。
 むしろ問題はこのときの軍編成である。『晋書』巻57馬隆伝によると、このとき馬隆が率いたのは都で募集した3500人。そいつを率いて西行してゆき、樹機能を平定したという。馬隆伝にはそれだけしか書いておらず、このときに関西の都督の司馬駿がどの程度介入・援助したのかはまったく記述がない。それは駿伝にしたって同じ。
 それにこの戦闘の功績第一は馬隆および彼の直接指揮下の軍というのが当時の共通認識だろうから、そこで段灼が「涼州軍が一番!」ってやるのはさすがにいろいろとまずい。
 こんな大事な戦闘に駿が関与していないとは考えがたいのだが、記述がない以上、どうにも手の出しようがない。

 というわけなので、否定することもできないのだが、積極的な根拠もないので、有力候補とはいいがたい。

 次に挙げられるのは太康年間はじめになされた馬隆の征討なんだが・・・これは挙げてはみたけどかなり可能性は低い。
 馬隆伝によると、当時、西平太守であった馬隆が「南虜」を討ったというのだが・・・地理的に金城は関係なさそうだし、馬隆の郡守としての軍事行動だろうから、これに西郡太守の段灼が関わっていた可能性はかなり低い。とりあえず挙げるだけ挙げてみただけ・・・。

 これら以外にも記録に残っていない軍事行動があるだろうけども、残っている情報で考えるならば、司馬駿伝記載の咸寧2年のものが該当する可能性が高い、と言えるだろう。
 仮にそうだとすれば、なかなか興味深い事例じゃないですか。夷には夷をもって制すんでしょうか? それとも兵士が不足していたとか? 司馬駿伝の記事によれば、咸寧2年段階では涼州には守備兵=屯田兵が常駐していたみたいだけど、多くの人員はそれに充てられていて緊急編成軍には組み込めなかったとか?
 いずれにせよ、段灼の上表が樹機能のときのことを語っているのならば、当時の朝廷がどういう対策で臨もうとしていたかをうかがい知れる貴重な史料になりますね。

 ただ、私が一番気になっている問題はこの記事が指している事件のことじゃないんです。
 「羌胡」の語句なんです。これ、字義通りに受け取っていいんでしょうか?
 すなわち、羌と胡(匈奴)って言うけど、あのあたりは鮮卑もソグド人も・・・って、そんな細かいことはどうでもいいんです。
 そんなことではなくて、「羌胡」ってのは実は「無籍者」(籍に登録していない者)を指しているんじゃない?と解釈してみたいんだということ。

 段灼の「羌胡」に言及している箇所、どうも論点がおかしいように感じないだろうか?
 段灼は、晋人なら法に従って徴発できんだけど、羌胡は金城まで行きたがらないから面倒なんだよなー、と言っている。
 ちょっと待ってくれ。「行きたがらないから徴発できない」のならば、それは晋人にだって適用されるぞ。
 晋人は法の点から話をしていたのに、羌胡になると感情の点から問題が述べられている。論点がずらされていないか?
 いや、これはずれていないのだ、と解することも可能である。すなわち、「晋人の徴発は法的正当性があるので、有無を言わさず連れていけるが、羌胡については徴発に法的正当性がないので、無理に連れていこうとすると大きな反感を買ってしまう、だから詔書で合法性を確保しつつ、恩賞で釣るしかない」。こういうことを実は言っているんじゃないか。
 仮にこのように考えられるとして、さらにつっこんで考察していけば、晋人の兵役の合法性を保障しているのは、彼らが兵役・徭役負担者名簿に登録されていること(「傅籍」という)に存すると思われるのであり、だとすれば、兵役の合法/非法の境界は晋人/非漢族の区別というより、官庁保管の名簿に登録されているか/いないかの区分に合致しているのではないか。

 ということを思い立ち、非漢族の税役体系を調べつつ、一般編戸の税役徴収における理念的部分を勉強していましたが・・・
 断念しました・・・。
 まあ、、、無理くりに言おうとすれば言えなくはなさそうなんだけど、調べれば調べるほど、非漢族の税役はよくわからんのよね。

 私は当初、次のようなことを考えていました。
 一般的な兵役は一定年齢・身長に達した男子が登録される特定の名簿から選抜されるのであり、男子が一定年齢に達したかどうかを把握するためにはその男子があらかじめ官庁保管の名簿(「戸籍」あるいは「名籍」)に登録されている必要がある、また一つの戸から一人を徴兵する制度であったと考えられる、要するに兵役は彼が編戸であること(戸籍に登録されていること)を前提に構築されている、
 これに対し非漢族は、布やその他の貢納物の納付が地域ごと便宜的に定められており、兵役や徭役に相当するものはこれらの貢納の代替(「義従」)としておこなわれていた可能性がある、またこれらの納付に際し、一般的には首長が人数分をまとめて納付していたと思われる、官庁が名籍を作成・保管していた可能性は否定できないが、いわゆる「戸籍」は存在しなかったと考えるべきである、というのも、「戸」が形成されれば爵が賜与され、耕作地と家屋が支給され、里の責任者に自己申告して官庁に報告し、県の役人も数年に一度顔を確認しながら戸籍記録を改めたり等々、「戸」を形成するというのは思った以上に面倒な手続きやら何やらがついてくるのであり、それらを非漢族にまで一々やっていたとは思えないし、爵の賜与対象とも考えられない(段灼の上表にある「或王或侯」とは封地が実際的にも観念的にも存在しない称号としての意味あいしかない)、以上より、そもそも編戸ではない非漢族には編戸と同様の兵役負担が存在せず、非漢族と地方官庁があらかじめ合意を得ている場合を除いて、兵役を負担する義務はない、そのため臨時的に合法性を確保したり、代替の恩賞措置を取るなどの手続きが必要となる。

 以上のような仮説を立てていたんですが、まあこれがなかなか厄介というか面倒というか・・・
 編戸については山田勝芳氏や鷲尾祐子氏などを参照しているんで、私の誤読でない限りはそんなに外れていないと思うんですが、いかんせん、そもそもの知識が乏しいだけに、非漢族のケースをどう考えたらいいのかわからんのよね。
 調べれば調べるほどよくわからん事例があるし・・・。
 例えば、張家山漢簡の「奏讞書」に徴兵されたけども途中で逃亡した蛮の男子の案件が記されているけど、そのときの蛮夷の言い分「首長が特殊な待遇を受けており、毎年銭を納めることで租税と労役の税分を負担していたものだから、兵役に関しても免除されていると思っていた」、官吏の言い分「銭の納付で税と徭役を負担していることに定まっているけど、蛮夷律に徴兵するなって書いてないし、違反とは言えないね」、というその理屈は通じていいのかって感じなんだが(詳しくは『宋書』百官志訳注(6)の注[2]、それはともかくも、この事例は、非漢族はやっぱり税役の負担の仕方が特殊であり、それはそもそも非漢族が編戸ではない=戸を形成していないからなんだろうという上記の仮説を傍証しているかのように見えるが、だが一方、徴兵が可能であったということは兵役負担者を記録する特定名簿に記録されていたということでもあるのではないだろうか、そうなるとどういうことなんだ、非漢族も登録されていたのか? これ以上はもう考えたくありません。

 それに、魏晋だとあの「兵戸」っていう特殊な兵役制度もあるじゃん? いや兵戸があったとしても臨時兵役や徭役はあったと思うんだけど(もっとも、後漢は銭納での代替が一般的だったらしいが)、そもそも同時に税の徴収単位も変わったとかなんとか言うじゃない(戸調式ってやつ)、あんまり学んでこなかったとこだから詳しくは知らんのだけど。

 だからまあ、気づいちゃったよね、「あ、これ手に負えないな」って。

 この段灼の上表、樹機能の乱の知られざる裏側かもしれないという以上に、当時の徴兵の仕方をうかがわせてくれる史料としておもしろかったし、この簡単な記述には深い法的背景があるんじゃないかと予感させてくれたが、あまりにも深かったよ、闇が。

 でもやっぱり、「羌胡」っていうのは無籍っていうかゴロツキっていうか、そういう情景しかイメージできないんだよなあ・・・。
 もちろん非漢族にも告示はしたんだけうけどさ、ってかこの地域って後漢ころは「義従胡」がたくさんいたらしいからプロフェッショナルやつが多かったんだろうけどさ、そこらをぶらついてる、明らかに役所の登録から漏れているだろう流人に「おいそこの、ちょっとやってこうぜ」みたいな、そんなスカウトをやって集める――ってのはさすがに手間がかかって人件費がやばいことになるからやんないだろうけど、そういう人たちも全然応募して問題なかったと思うし、実際告示の板なんかにも「腕に自身のある羌胡求む」みたいな限定はしなかったっしょ、たぶん。    

2014年11月24日月曜日

で、尚書って何してたとこなの



 先日、『宋書』百官志の訳注で尚書の項目をアップしたところなのだが、よく考えたら尚書ってとこがそもそも何をするとこなのか/しているとこなのか、よく理解していないことに気づいた。
 それでまあ、主に漢代だけども、尚書関係の研究論文を取り寄せたりして、基礎的なところから勉強しようとしたんですね。

 しかし、結局全然わからなかった。
 と、そう言ってしまっては一向に身動きが取れずこの気持ちの悪さを中和することもできないので、とりあえずはつれづれに書きなぐってみることにする。


 尚書の基本的な業務は公務文書の伝達・取次であるらしい。
 それだけ。
 え・・・

 想像力を働かせて考えてみる。
 彼らが取次いでいた文書は皇帝と官庁の間を行き交う文書である。
 なんでその、要するに皇帝の書記官だよね。官庁から来た文書をそのたびごとにいちいち皇帝が受け取るのもめんどくさいし、官庁に渡すときもいちいち訪問しに行ったのでは皇帝の権威って何なんだろうね。
 だから書記官を置いておいて、彼を窓口にしておく。官庁から来た文書はとりあえず全部この窓口に集めておいて、一定程度集まったら皇帝に届けに行くとか、そんな感じなんじゃないの。逆もまた然り、だろうか。
 漢代は尚書が少府に所属していたってのも、やっぱり皇帝の書生というか小間使いというか、皇帝の業務や生活を補助する官であったことを暗に示しているよね。

 以上を踏まえてまず触れてみたいのは、「領尚書事」というやつ。
 周知のように、前漢の霍光に由来し、「尚書事」を「領」(代行)することによって、強大な権力を把握した。
 なんで強大な権力を握ったのだろう? 西嶋定生氏は次のように説明している。
当時の上奏文はかならず正副二通を必要とし、上奏がなされると、尚書はまずその副本を被見して、これを皇帝に取り次ぐべきかどうかを取捨選択した。当然、尚書の意にそわない上奏は、その段階で破棄されることになる。また詔書の下達を職務とすることによって、国家の枢機にふれるために、しだいに実質的な権限をもつこととなり、ついには政策の立案と事実上の決定とが尚書の手によって行われることとなった。このようにして、少府の一属官にすぎない尚書は重要な職責をもつ官職に転化した。(西嶋『秦漢帝国――中国古代帝国の興亡』講談社学術文庫、1997年、p. 288、原著は1974年)
 古いし概説書だが、手元に新しいものがないんで仕様がない[1]
 この記述、論理的に理解できない箇所がある。
 まず「政策の立案」という部分だが、仮に尚書が検閲の職務をなしていたとすれば、たしかに政策の「決定」に彼らが関与するようになるのは比較的自然のように思える。
 だが、検閲が仕事の官がどうして政策の企画立案まで行うようになるのだろう。検閲とはそもそも次元の異なる役割だと思うのだが。それともあれか、上奏される企画がことごとく皇帝や自分たちの意に沿わないから「もうオレたちでやってやんよ」ってなったわけか。ただの伝達係が?

 それから詔書の下達をやるから機密に触れるようになって~というやつ、これもよくわからん。結局その情報は官庁にも行くから尚書だけ特別とも言えないんじゃないの・・・。
 尚書はどの官庁の機密情報も握ってるから!っていうのならわかるが。でも、機密に触れるようになったから要職になったというロジックはわかるにしても、どうしてそれで「実質的な権限」をもつようになったのか。

 漢代の尚書研究は基本的に、魏晋南北朝や唐代に見られるような、執行権力組織としての尚書を念頭に置いていると思う。だからわざわざ、ここで尚書が行政権力を握りはじめた起源を説明しようと試みているようだが、残念ながら、私にはあまり合理的に見えない。逆に、論理が飛躍していることから見ても、前漢の尚書が魏晋・唐代の尚書になるためにはなんらかの飛躍が必要であったのだ、というのは言葉遊びがすぎるが、上述のようなロジックで安住してはいけないほど、かなり謎は深いと見るべきである。

 という疑問はじつは脇道で、ここで話題にしたかったのは「領尚書事」です。
 前述したように、これは「尚書事」を「領」=代行/兼任するという意味だと思われる。
 なるほど、そうなると霍光は幼少の昭帝の犬となって文書を運びまわっていたわけですね。

 そんなわけがありませんね。
 何が言いたいかというと、従来「尚書事」は「尚書の業務」を指していると解釈されてきたと思うが、それでは単に文書の取次を代行でやるようになったという意味だ。どうして霍光のような高官がそんなことをわざわざやらねばならんのかね。
 いやそんなことはない! 西嶋氏が言っているように、上奏の検閲権があって自由に上奏の取り下げまでできたんだ! だから「尚書の仕事」は莫大な権力を伴うんだ!
 という反論は容易に予想される。ではそこで、西嶋氏(および西嶋氏が拠ったと思われる先学)が根拠としてきた史料を見てみよう(『漢書』巻74魏相伝)
(魏相が河南太守になってから)数年後、宣帝が即位すると、魏相を中央に召して大司農に任じ、ついで御史大夫に移った。四年後、大将軍の霍光が没した。宣帝は霍光の功績と人徳をかんがみ、子の禹を右将軍に、兄の子の楽平侯山を領尚書事とした。平恩侯の許伯が封事を上奏した機会をとらえて、魏相は進言した、・・・。また漢の慣習では、上書するときは必ず二枚作成し、そのうち一つを控えとする。領尚書事は(上書を受け取ったら)まず控えの封を切って(内容をチェックし)、内容がよくなければ却下し、上書を皇帝に奏しなかった。魏相はこれまた許伯の上奏の機会を利用して進言し、控えの封を切る手続きを廃し、秘密を防ぐよう提案した。宣帝は良い進言とし、詔書を下して魏相を給事中とし、すべて魏相の意見に従った。(数年、宣帝即位、徴相入為大司農、遷御史大夫。四歳、大将軍霍光薨、上思其功徳、以其子禹為右将軍、兄子楽平侯山復領尚書事。相因平恩侯許伯奏封事、・・・。又故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、領尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏。相復因許伯白、去副封以防雍蔽。宣帝善之、詔相給事中、皆従其議。)
 関連して『漢書』巻68霍光伝も見ておこう。
霍光が没すると、宣帝はみずから朝政を執るようになり、御史大夫の魏相が給事中となった。・・・ちょうど魏相は丞相となると、しばしば宣帝のくつろぎのときに謁見し、政事の案件について言上した。平恩侯の許伯と侍中の金安上らも宮中に出入りして(進言して)いた。当時、霍山は依然として領尚書事であったが、宣帝は官吏と人民に封事で上奏させ、尚書を関与させずに(自分のところへ文章を運ばせたので)、朝臣は単独で謁見して言上することができるようになった。ゆえに霍氏はこの事態を苦々しく感じていた。(光薨、上始躬親朝政、御史大夫魏相給事中。会魏大夫為丞相、数燕見言事。平恩侯与侍中金安上等徑出入省中。時霍山自若領尚書、上令吏民得奏封事、不関尚書、群臣進見独往来、於是霍氏甚悪之。)
 これらの史料を見て「やっぱりそうじゃないか、尚書はとんでもないとこじゃないか!」と思うのは軽率である。
 よく見てみると、魏相伝で問題に挙げられているのは「尚書」じゃないか。・・・おかしくない?
 尚書が上書を自分の裁量で進めたり退いたり~って業務をやっているんだったら、「領」の字は明らかにいらないよね・・・。
 でまあ、『漢書』の用例から見ると、「領尚書」は領尚書事を指しているのだろうと。
 とすると、上の文章は、領尚書事はそういうことをやっているとは言えても、尚書がそういうことをやっているとは言えないじゃん。
 それにまあ、尚書が仮に上のようなことを職務として遂行していたとして、「領尚書事」って言い方はやっぱりおかしいと思わない?
 だってそうであるなら、尚書令か僕射か知らんけど、尚書の官に就任するか兼任するか、その官に就けばそれでいいやんね。どうして「領」の対象が尚書の官ではなく「尚書の事」なのだろう。
 つまり、尚書の官を「領」しても上のようなことはできんのだが、「尚書の事」を「領」すればできるという、そういう話なんじゃないの?

 それでも、霍光伝の記事を見ると、やっぱり領尚書ってのは尚書の業務を代行しているもので、それは文書の検閲って意味なんじゃないの? って思えてくるかもしれない。
 これについては、米田健志氏の「尚書事」解釈を参照し、考えてみよう[2]
 氏は、「尚書事」の「領」(代行)っていうのは、言い換えれば「皇帝の代行」でしょ、と解している。
 どういうことかというと、「尚書の業務」(取次)を代行ってのはいくらなんでもわりにあわない、「領尚書事」が意味しているのは、尚書から送られてくる文書を決裁すること、すなわち皇帝の文書業務を代行するってことなんじゃなかろうか、という具合だ。
 重要なのは、「尚書事」を「尚書の業務」ではなく「尚書から送られてくる文書の仕事」の意味に解したこと。ちょっと無理矢理に聞こえる気もするかもしれないが、『宋書』百官志などの史書に「尚書奏事」という用語が見え、文脈的に「尚書から上奏されてきた文書の案件」の意であるらしいことを踏まえると、米田氏の「尚書事」解釈はこじつけでも何でもなく、妥当であるとすら言えるだろう[3]
 こういうふうに「尚書事」を理解すれば、霍光伝の記事だって、尚書から文書が送られてこなければ領尚書は何もできんのも当然じゃん、ってうまく解釈できるね。

 以上、「領尚書事」について述べてきたが、私は米田氏の解釈が妥当なんじゃないかと思っている。
 だとするとですよ、じゃあなんで尚書は行政権を手中にするようになったの?
 上述までの解釈に基づけば、尚書には上奏して検閲し、それを決裁する裁量は有していなかったことになる。いやさすがにそれはちょい言い過ぎで、封を切って検閲くらいはやってたんじゃないかと思う。けど取り下げなどの裁量まではもってなかったんじゃないかぁ。
 それに前述したけど、そういう権限をもっていたからといって、魏晋以後のような行政府としての機能に一直線に進展しないよね。繰り返すけど、決定権があることと政策の企画を立てることは別の仕事だよやっぱり。

 私は、直感的なものにすぎないが、このヒントは尚書のもう一つの要務、公文書の起草にあるように思う。
 この職掌も先学で言及こそされてきたが、これまた米田氏が言うように、従来は文書伝達業務が権力の強化に寄与したのだろうと考えられ、過度に注目されてきた結果、ついつい視野から外れてしまってきた感がある。
 しかし、尚書の本質部分はむしろこっちの仕事なんじゃないかとすら私は思っている。
 『宋書』百官志を訳注してて感じたことなんだけど、要するに尚書台って作家集団みたいなところだと思うんだよね。作文技術で雇われてる。実際、尚書の下っ端である尚書郎は作文能力の試験に合格しないとダメだからね。
 ランサーズのようなフリーランスの求人サイトで作文の仕事を探してみたことがある人は感覚的にわかってくれると思うんだが、例えば皇帝が「こういう詔書下してぇー下してぇーわ」と思ったとするじゃない? そしたら尚書令だか僕射だか、まあそいつらに言うわけ。そんでその依頼がその分野を得意とする部署の尚書郎に発注され、彼は皇帝の要望をもとに、うまーく文飾とかを散りばめて「いかにもプロっぽい人が書いた文章」ないし「一般官僚が読んでも不自然に思わない文章」なんかを作成して納品、で、おそらくその部署のボス(列曹尚書、僕射)がそれをチェックし、晴れて下されるわけ。
 かなり妄想が入ってしまったが、作文の求人でもよく、「物件を紹介する文章を依頼します。以下の要領は守ったうえで、あなたの作文能力を振るってください!」とか、そんな感じの案件あるじゃない。あれと同じようなもんだと私は思ってるんです。自分で書くのはめんどいからその能がある人、時間がある人にやらせようっていうね。

 と、やや大書してしまったが・・・
 そもそも作文は尚書に当初から課せられていた職務だったのだろうか? という疑問も一方では抱いている。
 だって尚書の人員は成帝の建始四年まで一人で、そのときになってようやく五人に増やされた程度ですよ?
 それまで詔書の起草は尚書一人でやってたってことになるんですがそれは・・・ありえますよね、皇帝が自分ですべて書くとも思えないし。
 人員が増加されたのは、識字率の増加っていうか、文書による行政の新党具合なり緻密化なりと関連があるかもしれない。つまり発行する文書や届く上書が多くなりすぎて尚書令一人(もしくは皇帝)では担当できなくなったとか、そういう背景なのかもしれない。
 なんでまあ、作文がはじめから尚書の職掌だったかはわからんけど、皇帝の実務的に考えても、はやくに尚書に委託された職務だったんじゃないかなと思っています。

 そんでどうしてこれにフォーカスしたのかっていうと、そいつは尚書がどの範囲の公文書まで作成していたのかってところがポイントだと思うからですよ。
 まず「詔令」、すなわち皇帝が下達する文書は尚書の筆に成ったと考えられる。
 そこはいいんですよ、先行研究でも(いろいろややこしい経緯はあったらしいが)確認されているからね。
 問題は「章奏」、すなわち朝臣から皇帝へ進められる文書なわけです。
 さすがにそれらは尚書が作ってねーだろw
 と思われるでしょう。魏相伝を見る限りでも、上書をしたい朝臣は自分で二通作成して持参せねばならんようだから(もちろん、やっぱり自分で書く必要はなく、府に書記官がいればそいつに書かせればよかろう)。
 でも、唐代の成立ではあるけど、次の『通典』の記述はどうしても気になる。
(尚書郎は)文書の作成を職掌とする。五十歳未満の孝廉合格者から登用するが、(その際には)まず箋や奏などの上書文作成を試験に出し、出来の良い者を選抜する(主作文書起草、取孝廉年未五十、先試箋奏、選有吏能者為之)
   ここで上書文の作成を試験に出しているってことは、尚書郎はそういう文書を書く機会が多かったことを示しているんじゃ、ってどうしても自分は思っちまいます。

 これだけでは根拠があるとは言えないし、現実的でもないわけだが、仮に尚書がそういう上書の文書まで作成を担当していたらどうだろう。官庁から「こういう感じの政策考えてるんだけど~」って来たら、尚書は「じゃあオレたちで書いてみるわ」みたいなそんな感じ? なんか尚書、ずいぶん偉くなった感じだよね。
 そうなんです、ここで想定している尚書は魏晋以後の尚書です。
 魏晋以後の尚書は、官庁から上書が届いたら、それをいったんチェックし、問題がなかったら皇帝のところへいき、そこで読み上げるような、そういう政策企画の伝達係ではなく、自分たちで政策企画の上書を作成し、皇帝のところへ(中書を介して)届けた。
 いや当然っちゃ当然ですけど、「上書を作成するのはだれか」って視点から尚書のことを考えたことはいままでなかったんですわ。
 この転換が案外大事なんじゃないかと思ったのは、本ブログで訳出した李重伝を読みなおしたとき。西晋の李重は尚書吏部郎に就任すると、何人もの人材を見いだしつつ、不適切な人間は要職に就けなかったと褒められている。
 いや、おかしくない? 彼はたかが尚書郎ですよ。『宋書』百官志をご覧ください。そこで描かれているのは漢代、しかも少なくとも後漢中期以降だとは思うけど、その時期の尚書郎は五日間宿直して文書(詔書など?)を作成するとか、皇帝のとこへいって上書を読み上げるとか、読むときはフリスク噛んでなければならないとか、そんな仕事ですよ。
 それがどうして李重みたいなことできんの、どうしてここまで変わってんの、ってあらためて考えたわけだけど、いやでも、と思ったわけです。公文書を作成している点では変わらないんだろうなと。
 だからまあ、私的にはですね、尚書が行政権を握りはじめたのはどういう経緯で~って議論は次のように問題を絞るべきだと思う。
 「官庁(いわゆる外朝)が本来作成すべき文書まで尚書が担当しはじめるのようになったのはいつか」。
 尚書による案件の判断がよく重視されるけど、これまた繰り返すが、その権限じゃあ行政までいかないと思うんで。
 この件は皇帝がどういう経緯で尚書に詔令の作成を委ねるようになったのかという事柄と相通じていることかもしれないが、どうだろう。
 こう釘を刺しておくのは、尚書が作成するようになったからといって、それがただちに尚書の行政権掌握を意味するのではないからだ。最初は作成の手間を省くために尚書に委ねただけだったのかもしれない。結果的に行政権の把握までいたっただけかもしれん。

 と、こんなに長く書くつもりはなかったんだけども、ついこんなことに・・・。
 自分でも何に引っ掛かりを覚えているのか、いまいち整理できてないんですね。書いてるうちにある程度まとまるだろうかと期待していたのだが、そんなことはなかった。
 あと、あんまり挟めなかったけど、尚書の時代的変化というか、時間的要素はもっと考慮すべきかもしれない。尚書関連で比較的整っているのは、じつは『宋書』百官志の記述なんですよね。しかしあれは蔡質(蔡邕の叔父)の『漢官典儀』や応劭『漢官儀』あたりが元ネタっぽいので、後漢後期の尚書と考えた方がよさそうなんだ。だから、それ以前の尚書は用例を見ていきながら考えるしかなさそうだね。
 悔しく思うのは、この時期の宮城の風景というか、尚書をはじめとする官僚たちの仕事の場がイメージできないこと。つくづく、これが頭に浮かばないのがなあと。言うて現代の官僚も何してんのか知らんけどね。

 ついでに、後漢の尚書もちょい調べた限りで触れておく。
 わたしが目にした限りで、重要だと思われたのは『後漢書』伝36陳寵伝。
陳寵は三度官を異動して、章帝のはじめ、列曹尚書となった。当時、永平の故事を受け継いだ時代だったので、文吏による政治は依然として厳格で細かく、尚書の決裁も徐々に重要な仕事になりつつあった。(三遷、粛宗初、為尚書。是時承永平故事、吏政尚厳切、尚書決事率近於重。)
 「永平」は明帝の元号。光武帝と明帝は実務(法律とか文書業務に明るい官吏、このような吏を「文吏」と呼ぶ)を重視し、みずから積極的に関与した皇帝として知られている[4]。よっぽど厳しかったらしくて、後漢書を見るともう、明帝といったら苛酷って言葉が出るくらい。
 尚書といえば、やっぱり文書に関わるところだから、それと関連して重視されはじめたのだろうけども、「尚書の決裁」と訳した「尚書決事」とは一体何を指しているのか、もうちょい慎重に考えるべきだろうか・・・。
 合わせて関係ありそうなのが後漢末の仲長統『昌言』法誡篇(『後漢書』伝39仲長統伝引)
光武帝は数代の間(劉氏が)権力を失ったことを反省し、強大な臣が天命を強奪したことに憤っていた。そこで曲がったものを元に戻そうとするあまりに度がすぎてしまい、政治を臣下に委ねず、三公を設置したところで(彼らに政治をおこなわせず)、政治は尚書台に帰した。以後、三公はポストが存在するだけとなった。(光武皇帝愠数世之失権、忿彊臣之竊命、矯枉過直、政不任下、雖置三公、事帰台閣。自此以来、三公之職、備員而已。)
 文中、「尚書台」と訳した「台閣」は必ずしも尚書台を意味するのではないという指摘もあるのだが、ここは文脈的にも尚書台で構わんと思う、というかじゃないと通じないと思う。
 そんでこれに関連するのが、陳寵の子・忠の伝に見える記述。
当時〔安帝の時代〕、三公の職務は責任が軽く、重要な事柄はもっぱら尚書に任されていた。しかし災異が起こると、そのたびに三公が罷免されていた〔天人感応説〕。陳忠は、この有様は国家のかつての体制ではないと考え、上疏して諌めた、「・・・漢の故事では、丞相が要請した事柄は必ず採用されていました。ところが現在の三公は名ばかりで実質がなく、選挙や賞罰はすべて尚書に決定されています。尚書の現在の職責は三公より重く、陵遅〔ゆっくり徐々に衰えること、陳忠の別の上書の用例を参照すると和帝時代以降というニュアンスっぽい〕以来、このような傾向が徐々に進行して久しいものがございます。・・・」。(時三府任軽、機事専委尚書、而災眚変咎、輒切免公台。忠以為非国旧体、上疏諌曰、「・・・漢典旧事、丞相所請、靡有不聴。今之三公、雖当其名而無其実、選挙誅賞、一由尚書、尚書見任、重於三公、陵遅以来、其漸久矣。・・・」。)
 こっちだと「陵遅」以後、たぶん和帝以後?だけども、とりあえず章帝以後に尚書重視の傾向が顕著になったと言っているね。
 なんだ、前漢の尚書とはもう全然違うんだろうなってのは感じるよね。そのきっかけが「諸功臣・外戚への権力集中を抑制しながら、文吏的官僚を駆使して法による皇帝一元支配の樹立を図った」光武帝・明帝の「統治理念」(東氏前掲書、p. 49)なのか、章帝以後の幼帝即位なのか、それはちょっとわからないが。
 もう一つ後漢の尚書で大事なのが録尚書事。こいつについては伝66陳蕃伝が興味深いかも。
永康元年、桓帝が崩御した。竇皇后が臨朝し、詔を下した、「・・・陳蕃を太傅とし、録尚書事とする」。ときに、(国家は)皇帝の崩御という事態に直面しながら、後継者はまだ決まらない状態であった。尚書官は権勢を誇っていた官〔宦官?〕を恐れ、病気と称して出勤しなかった。陳蕃は書簡を送って彼らを批判した、「いにしえの人は主君が崩じても自身は生きて職務を全うし、節義を立てたのだ。現在、皇帝はまだ決まらず、政治は日増しに緊迫している。諸君らよ、父たる帝を失った苦しみから逃れ、ベッドで休んでいる場合かね。その程度の義で仁者たることはできぬぞ」。尚書らは恐々としながらも、みな出勤して政務を執った。(永康元年、帝崩。竇后臨朝、詔曰、「其以蕃為太傅、録尚書事」。時新遭大喪、国嗣未立、諸尚書畏懼権官、託病不朝。蕃以書責之曰、「古人立節、事亡如存。今帝祚未立、政事日蹙、諸君柰何委荼蓼之苦、息偃在牀。於義不足、焉得仁乎」。諸尚書惶怖、皆起視事。)
 この事例から判断すると、録尚書事は尚書たちの元締めみたいな立場だったんだろうな。
 領尚書事が前述したような理解で大過ないのであれば、じゃあ後漢の録尚書事は何なのって当然なるわけで。後漢の尚書は何をしていたのかを究明しつつ、調べなければいかんだろう。


 尚書について思ったことを思ったままに書きなぐってみました。


――注――

[1]さすがにこれだけでは不安なので、図書館で新しい概説書を確認してみた。以下の通り。

尚書とは少府の属官で官秩は低いが、詔書の下達や上奏の皇帝への取次ぎなど行政上最重要の文書を扱うことを職務としていた。したがって、幼帝を身近に輔佐するという実務を通して実質的には政策の立案権をも把握しうる地位にあったのである。(『世界歴史体系 中国史1 先秦―後漢』山川出版社、2003年、pp. 418-419、執筆:太田幸男氏)

尚書の職務を兼ねて国政に関与うるという独裁権力は、前漢昭帝のときの霍光に始まっていた。(鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産――秦漢帝国』講談社、2004年、p. 311)
 そんなに西嶋氏と違ってなかった。[上に戻る]

[2]米田健志「前漢後期における中朝と尚書――皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64-2、2005年)、なお『東洋史研究』なのでCiNiiからPDFで閲覧可能。[上に戻る]

[3]たしか米田氏も引用していたが、次の『漢書』巻74丙吉伝の記述もかかる「尚書事」解釈の根拠となりうるだろう。「霍氏が誅殺されると、宣帝はみずから政治を執り、尚書事をみた(及霍氏誅、上躬親政、省尚書事」。みずから政治を執ること(親政)と尚書事の遂行がセットになっていることから考えると、ここの「尚書事」は「尚書から送られてくる文書案件」の意で、それを「省(み)る」=処理するということなのだろう。霍山が領尚書事であった際は宣帝単独でおこなうことはできなかったが、領尚書事がいなくなったことで、誰も介さずに皇帝だけで決定することができるようになった、ということを記述しているんではなかろうか。[上に戻る]

[4]東晋次『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、1995年)第1章第1節参照。[上に戻る]

2014年7月6日日曜日

家伝から見る家伝系史料の特徴と王敦の人望のなさ

『世説新語』言語篇
摯瞻曾作四郡太守、大将軍戸曹参軍、復出作内史[一]。年始二十九。嘗別王敦、敦謂瞻曰、「卿年未三十、已為万石、亦太蚤」、瞻曰、「方於将軍少為太蚤、比之甘羅已為太老」[二]

摯瞻はかつて四郡太守、大将軍(王敦)戸曹参軍を歴任していたが、今度は内史〔王国の長官。要するに太守〕に就任が決まった。そのとき、年齢はようやく29になったところ。王敦と別れるさい、王敦は摯瞻に言った、「君はまだ30にもなっていないというのに万石〔2000石×5=1万〕とは、ちょい早すぎるのではないかね」。摯瞻、「将軍と比べるといささか早すぎるようですが、(12歳で上卿になった)秦の甘羅と比べると遅すぎます」。

 ここで二ヶ所、劉孝標の注[一][二]が付され、『摯氏世本』が引用されている。見てみよう。
[一]
瞻字景游、京兆長安人、太常虞兄子也。父育、凉州刺史。瞻少善属文、起家著作郎。中朝乱、依王敦為戸曹参軍。歴安豊、新蔡、西陽太守。見敦以故壊裘賜老病外部都督、瞻諌曰、「尊裘雖故、不宜与小吏」、敦曰、「何為不可」、瞻時因醉、曰、「若上服皆可用賜、貂蟬亦可賜下乎」、敦曰、「非喩所引、如此不堪二千石」、瞻曰、「瞻視去西陽、如脱屣耳」。敦反、乃左遷随郡内史。

摯瞻は字を景游といい、京兆は長安の人である。太常であった摯虞の兄の子にあたる。父の育(の最高官)は涼州刺史であった。摯瞻は若いころから文章の作成に長けており、最初に就任した官は著作郎〔起居注の執筆など、言ってみればライター的な仕事〕であった。永嘉の乱で朝廷が混乱すると、(荊州にいた)王敦を頼り、その戸曹参軍となった。安豊太守、新蔡太守、西陽太守を歴任した。王敦が使い古しでぼろぼろの毛皮の服を、高齢あるいは病気の外部都督にあげているのを見ると、摯瞻は諌めた、「使い古しとはいえ、高級な毛皮を下っ端にあげるのはいかがかと思います」。王敦、「どうして?」。摯瞻は酔いにかまけて言った、「高級な服をあげてよいことになるなら、貂蝉をあげてもよいことになりませんか〔貂蝉は侍官の冠につける装飾。暗に侍官を独断で任命する=野心をもつのはよしなさいと言っている。注[1]参照〕」。王敦、「下手な喩えだな。それではまるで、二千石では満足できないと言っているようなものだぞ〔侍官の筆頭侍中は比二千石で三品〕」、摯瞻、「西陽太守を離れることなぞ、わたしにとってはくつを脱ぐこととたいして変わりません〔おまえのとこを辞めるなんてよゆーだし!という意味だろう〕」。王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された。


[二]
瞻高亮有気節、故以此答敦。後知敦有異志。建興四年、与第五琦拠荊州以距敦、竟為所害。

摯瞻は高潔で気概盛んなため、王敦(の意地悪な言い方)に(強気に)答えたのである。のち、王敦が野心を抱いていることに気づいた。建興四年、摯瞻は第五猗とともに荊州を根城として王敦に背いたが、ついには殺害された。
 摯瞻は摯虞の親族であるらしい。摯虞といえば礼制のスペシャリストとして西晋政治史に欠かせない人物。最期は洛陽で餓死してしまうが・・・。
 摯瞻は『晋書』に列伝が立てられていない。なかなか気骨のある人物がこういうかたちでしか知れないとは。劉孝標および摯氏の家伝と思われる『摯氏世本』は本当にいい仕事をしてくれた。












で終わると思ったか?
終わってやらねーーー


 いやまあ、ともかく。この『摯氏世本』の記述、ちょい検討する必要がありそうなのである。
 徐震堮氏は次のような興味深い注を記している(『世説新語校箋』中華書局、1984年)
第五猗が荊州で王敦に反抗したことは、元帝紀で建武元年に記されている。この年は愍帝の建興四年である。王敦が反乱を起こしたのは永昌元年なので、王敦が反乱を起こす5、6年前の出来事になるのだが、どうやって王敦の野心を察知できたのだろう。また、摯瞻は第五猗と反乱を起こして最終的に殺害されたとあるのに、最初の注に引かれた『摯氏世本』の文章には「王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された」とある。同一の本の記述なのに矛盾している。
 なるほど。双方の佚文が『摯氏世本』のなかでどのような文脈のもとで配置されていたのかがわからないのだが、[一]の佚文は王敦のお気に召さなかったために、王敦の反乱後は遠くに飛ばされたって内容になっている。一方の[二]は、王敦の反乱を事前に察知し、第五猗と組んで反乱の芽を摘もうとしたけど失敗して殺された、という内容。うむ、たしかに。この[一]と[二]の佚文だけで比較してもつじつまが合わなくなっている。

 それに加えて徐氏の指摘で注目したいのが、摯瞻の反乱が王敦反乱の直前になされたものではなく、かなり前のものだという点だ。少し詳しく調べてみよう。まず元帝紀。
建武元年・・・八月・・・荊州刺史の第五猗が賊の頭領・杜曾から推戴され、とうとう杜曾と反乱を起こした。九月、戊寅の日、王敦は武昌太守の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻に第五猗を討伐させたが、杜曾らに敗北し、趙誘らはみな戦死した。・・・梁州刺史の周訪が杜曾を討ち、おおいに破った。・・・太興二年、・・・五月、・・・甲子の日、梁州刺史の周訪は杜曾と武当で戦い、杜曾を斬り、第五猗を捕えた。
 あれ、賊と組んでたの? っていうか賊から推戴されちゃってたの? さいわい、杜曾伝が『晋書』にあるので、それを参考にしてみると、杜曾は新野の人で、武官として活躍していた。永嘉の乱前後、荊州は徐々に混乱におちいり、胡亢、王沖、王如、杜弢など、様々な流民集団が自立・自衛し、晋朝の統制からはずれてしまっていた。賊乱立の無政府状態になってしまったんですね(もちろん、「賊」というのは晋朝側からの物言いである)。杜曾は当初、胡亢の部下として過ごしていたが、やがて胡亢を殺害し、胡亢集団を乗っ取ってしまった。要するに、杜曾は荊州に割拠していた群雄(?)の一人で、晋朝の支配下から抜けていた人物なのである。

 第五猗はどうしてそんな杜曾と組むにいたったのだろうか。この事情もかなりややこしいが、諸列伝を参照すると次のように整理できる。

 荊州が晋の統制からはずれていたことは前述の通り。これに苦心して取り組んだのが琅邪王(のちの元帝)率いるグループであった。
 元帝は揚州刺史王敦と甘卓に江州(豫章)を鎮圧させたのち(後述)、王敦に当時暴れまわっていた杜弢集団を討伐するよう命じた。豫章に駐屯した王敦は、陶侃や周訪を派遣、とりわけ陶侃の活躍により杜弢集団を鎮圧することに成功した。陶侃は功績が認められ、荊州刺史に昇進していたが、長沙で余勢も討伐し終え、いよいよ帰還というとき、
王敦は陶侃の功績を妬んだ。(長沙から)江陵に帰還し、王敦に(荊州刺史赴任にあたっての)いとまごいを告げようとしていたが〔当時の荊州刺史の赴任地は襄陽かな、たぶん〕、皇甫方回や朱伺らは行ってはいけないと諌めた。陶侃は聴きいれずに江陵へ向かった。はたして、王敦は陶侃を江陵に留めて赴任地へ行かせず、かえって広州刺史、平越中郎将に左遷し、王廙を荊州刺史に命じた[2]。陶侃の部下たちは陶侃の留任を王敦に願い出たが、王敦は怒ってしまい、許さなかった。陶侃の部将の鄭攀、蘇温、馬儁らは南の広州に行きたくなかったので、とうとう西の杜曾を迎えて王廙に反抗した。(『晋書』巻66陶侃伝)
 王廙はもちろん琅邪王氏。さて、同じ事情を記した王廙伝を見てみよう。
はじめ、王敦が陶侃を左遷し、王廙を荊州刺史に命じた。陶侃の部下の馬俊(「俊」、原文ママ)、鄭攀らは王敦に陶侃の留任を要請したが、王敦は許可しなかった。すると、王廙は馬俊らの襲撃を受け、江安に敗走した。賊の杜曾は馬俊、鄭攀らと手を組み、北に進んで第五猗を迎え、王廙に反抗した。(『晋書』巻76王廙伝)
 ほほう、第五猗は王廙に反発した陶侃の部将たちによって迎えられたわけだね。杜曾伝によると、直後に陶侃の討伐軍が来るのだがこれを破ったとか。おまえらの望みは陶侃じゃねーのかよと言いたくなるのは措いとくとして、次に注意したいのが周訪伝だ。
当時、梁州刺史の張光が没したので、愍帝は侍中の第五猗を征南大将軍、監荊・梁・益・寧四州とし、武関から荊州に向かわせた。荊州の賊の頭領たち、杜曾、摯瞻、胡混らはみな第五猗を迎え、彼を推戴し、数万の兵を集めた。陶侃を石城で撃破すると、宛で平南将軍の荀崧を包囲したが、落とすことができず、兵を率いて江陵に向かった。王敦は従弟の王廙を荊州刺史にし、征虜将軍の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻を統率させて杜曾らを討伐させたが、女観湖で大敗し、趙誘、朱軌らはみな殺害された。杜曾はとうとう王廙を荊州から追い出した。・・・元帝は周訪に討伐を命じた。・・・杜曾の部将の蘇温が(敗走していた)杜曾を捕まえて周訪軍に出頭した。また周訪軍は第五猗、胡混、摯瞻らを捕えた。全員を王敦に送るにあたり、周訪は、第五猗は杜曾に脅されていただけだから殺すべきでないと伝言した。王敦は聴きいれずに斬った。(『晋書』巻58周訪伝)
 さきに引用した元帝紀と同様の記述が見えてきました。周訪伝によれば第五猗は愍帝によって派遣された荊州刺史であることがわかる。杜曾伝も愍帝から派遣された刺史だと明記しており、さらに襄陽で迎えたこと、杜曾と第五猗が婚姻関係を結んだことも記されている(「会愍帝遣第五猗為安南将軍、荊州刺史、曾迎猗於襄陽、為兄子娶猗女、遂分拠沔漢」)

 諸史料で若干人名が違うとか、ほかにもいろいろ異同はあるのだが、荊州における王敦派と陶侃派との対立が起き始めたときにたまたま第五猗が北から来ちゃって、「コイツは使える」と思った陶侃派が王敦に対抗する意図で彼を反乱に巻き込んだ、ってことでしょうかね[3]。なにしろ愍帝からのお墨つきもらってるからなー。いくら王敦が元帝から自由に地方官を任命する権限を与えらえているとはいえ、愍帝はその元帝の上にいるわけだし、王敦の法的正当性/正統性なんぞ一瞬で吹き飛ぶわな。
 陶侃は杜弢の反乱を鎮圧しているうちに荊州の人々のハートをがっちりつかんでおり、「陶将軍がいなかったらいまの荊州はなかった」なんて言われてるくらい慕われていたようである。第五猗らの反乱が鎮圧されたあと、結局王廙が荊州刺史に留任するのだが、「陶侃が刺史だったときの官吏や処士の皇甫方回を殺害しつくし、荊州の人望を失った」(『晋書』王廙伝)ため、中央に召され、その後任には王敦が就いた(『晋書』王敦伝)。なんかヨゴレ役をぜんぶ王廙に押しつけたかっこうになってるね、王敦。

 別に王敦ディスってないし、王敦が陶侃を広州刺史に任命したのだってほかの意図があったかもしんないじゃん。めんどいから調べないけど。
 で、問題なのは冒頭に挙げた摯瞻。彼はいったいどういう経緯から杜曾&第五猗連合軍に加わったのだろう、捕まったあとどうなったのだろう、という肝心のところは推測する手がかりすらないので、ちょい度外に置いときましょう[4]。気になるのは『摯氏世本』の書き方だ。

 『摯氏世本』の言っていることは間違っちゃいない。しかしなにか違和感を感じないだろうか。違和感があるという人、それはこの時代の歴史を東晋の側からしか見ていない証です。
 摯瞻のやったことは、王敦や元帝などのちに東晋となる政治集団から見れば、まぎもない「反乱」。自分たちの言うことを聞かないし、杜曾と組むしで、いくら愍帝の任命した刺史とはいえ、反抗者に違いはない。王敦だって第五猗を斬ってるじゃないか。の割にはかなり書き方がマイルドになっていないだろうか。杜曾の名前は伏せ、摯瞻は反乱を起こしたのではなく、王敦を事前に潰そうとしたのだと、反乱を起こしたことを弁護し、行動を正当化しているように見えないだろうか。
 『摯氏世本』の執筆者は摯氏か、親しい関係者で、のちに王敦が武力で政府の実権を制圧したことを利用して、摯瞻の反乱はじつは反乱ではなく朝廷を守るための行為だったのだと記述し、名誉を回復しようとしたとかそんなねらいがあったように思われる。ものは言いようですね。

 『摯氏世本』の記述を簡単に調べてみる程度だったのだが、思った以上にいろいろ興味深かった。まず、王敦派と陶侃派との対立があんな出来事まで誘発していたこと。正直、この時期の荊州は複雑だなあという印象だけでちゃんと調べたことはなかったので、ああやっぱり複雑だなあと思いました。
 次に元帝グループと懐帝・愍帝グループとの軋轢。いちおう元帝は愍帝から権限を任命されている立場なので元帝グループは愍帝に逆らえないはずだが・・・第五猗の例から見ると、愍帝の権威なんぞなんとも思ってなさそう。『資治通鑑』によると、周訪は第五猗を王敦に送るさいに「中央政府が任命した刺史だから斬っちゃダメよ」って伝言してるのだけど見事に王敦は無視。このような傾向は王敦だけのものかと言うと、そうとも言えない節がある。例えば江州刺史華軼なんかがそうだ[5]。元帝からすれば、もう力の残っていない中原政府に一々おうかがいするより、自分たちで判断してテキパキやったほうが早いわけ。実際、「例外状態・異常事態」下である程度の権限を緊急に振るうことは禁じられているわけではないだろうし、元帝たちはそういう理由をもって自分たちの勢力を各地に浸透させていたわけだね。

 最後に家伝・家譜の記述の扱い方。魏晋南北朝では大量につくられたこれらの書物も、現在ではほとんどが散佚してしまい、どういう形態の書物だったのかはうかがいしれないのが大変残念(ちなみに魏収の『魏書』は家伝をたくさん集めたようなものと言われることがあるから、一種の家伝と言えるかもしれない)。
 家伝系の書物でよくわからないのは、①誰が書いていたのか、②どういう目的で書いたのか、③そもそも何が書かれていたのか。③がわからない限り①と②もわかりっこなさそうなのだが、種々の佚文を見る限り、名・字、官歴、長所、逸話がコンパクトに書かれている感じ。『摯氏世本』もそんな感じだった。史書の列伝に近い感じだろうな、と思われます。
 ①と②は書物ごとに違っている可能性もあるだろうし、一般的に言うことはできないけども、少なくとも『摯氏世本』に関しては、前述の通り親族か親しい関係者かが書いたでしょうな。目的は『摯氏世本』に限ってもわからないが、まあ悪いこともひっくるめていろいろ書くぜ、みたいな書物ではなさそうだ。そういえば吉川忠夫先生の『六朝精神史研究』だったか、沈約の祖先はかつて東晋に反乱を起こしたのだけど、沈約の自序ではそこらのことがぼかされているとかなんとか指摘されていたと思う。
 繰り返すが、『摯氏世本』の記述が間違っているとか言いたいのではない。後年の王敦の挙兵にこじつけるのはどうかと思うけど、王敦派への反発から生まれたこじれではあるし。ただ、ああいうぼかした書き方は、あきらかに東晋朝廷への弁護的な意味合いがあるだろうにしても、現代の研究者からすれば信用問題に関わってくるだろう。今回取り上げた件はそんなに問題視するほどでもなかったかもしれないが、他の家譜・家伝の記述はどうだろうか。史料として参照する場合、吟味しておいた方がよさそうだ。たんに信用問題だけでなく、ひょっとすると今回のように、東晋側の視点を相対化してこの時代をみるいいきっかけになるかもしれないからね。



――注――

[1]少なくとも西晋以降、侍中を含めた侍臣の官は、武冠を「貂蝉」で飾る規定であったらしい。『宋書』巻18礼志五に「侍中・散騎常侍及中常侍、給五時朝服、武冠。貂蝉、侍中左、常侍右。皆佩水蒼玉」とある(礼志五のかかる箇所が、西晋泰始年間の規定である可能性が高いことは、小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年を参照)。具体的には、蝉の羽で飾りつけた金製のバッジと、貂の毛を挿した金製の竿のことで、竿を侍中は左、散騎常侍は右に挿す。『晋書』職官志「侍中・常侍則加金璫、附蝉為飾、挿以貂毛、黄金為竿、侍中挿左、常侍挿右」。武冠は戦国趙が起源だというが、これに貂蝉を飾る習慣は秦漢以来あったようで、その由来について、後漢の胡広は「昔趙武霊王為胡服、以金貂飾首。秦滅趙、以其君冠賜侍臣」と言い、応劭『漢官儀』は金=剛健・百錬不耗、蝉=高潔(「居高食潔」)、貂=内剛外柔、を比喩しているとするなど諸説ある。[上に戻る]

[2]このとき王敦は。鎮東大将軍、開府儀同三司、都督江揚荊湘交広六州諸軍事、江州刺史で、都督下の州郡の長官を自分で任命する権限を与えられている(『晋書』巻98王敦伝)[上に戻る]

[3]ちょっと異なる経緯を記しているのが『晋書』巻81朱伺伝と、朱伺伝をベースにしている『資治通鑑』。これらによると、鄭攀らは杜曾と結託して王廙を拒絶しようとしたが、趙誘、朱軌らを差し向けられると、誅殺をビビッて投降、杜曾も罪をつぐなうため、襄陽の第五猗を討伐したいと願い出た。しかしこれは王廙らを油断させる罠で、杜曾は王廙らを急襲し、さらに趙誘らも破って戦死させる。その後の経緯は特に本文の説明と変わりなし。鄭攀は結局降ったママ?っぽいが、馬俊と蘇温はそのまま杜曾軍にいた感じになる。[上に戻る]

[4]ホントはここらをいろいろ妄想考察してみたいんだけど、残念ながらあまりにも材料不足。最初考えたのは、摯瞻は第五猗と一緒に荊州に来て、なりゆきで反乱に加わってしまい、捕まったあとは王敦に罪を許され、その後は王敦の爪牙として働いた、というもの。ただこれは永嘉の乱前に王敦を頼ったという『摯氏世本』の記述と乖離してしまうし、微妙。『世説新語』本文の記述から見ても、摯瞻は多少王敦に反感をもっていたのかもしれないが、王敦派の一人ではあろうし、わざわざ王敦に背くまでの理由がなんかあったのだろうか。なさそうだから上記のように考えてみたんですけどね、もう完全に謎ですね。[上に戻る]

[5]江州は荊州と揚州のあいだにある州とイメージしてもらえるとよい。華軼は琅邪王が江南に来る以前から江州刺史として政治を執っており、なかなか評価は高かった。華北で劉淵や石勒らが跋扈しはじめても、洛陽に皇帝がいる限り皇帝の詔書以外の命令は聴かないと言い、江南で秩序を回復させようと努める元帝たちの命令を受けつけなかった(『晋書』巻61華軼伝「軼自以受洛京所遣、而為寿春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡県多諌之、軼不納、曰、『吾欲見詔書耳』」)
 やがて洛陽が陥落し、荀藩が元帝を盟主にしようとの檄を飛ばしても元帝に従わなかったため、とうとう元帝から討伐部隊を差し向けられ、殺害されてしまった。華軼が辟召していた高悝という人物は、華軼の二人の子と妻を何年もかくまい、大赦が出てからかくまっていたことを出頭したというから、華軼は反乱者扱いにされていることがわかる。
 たしかに華軼は融通が利かないが、言い分が間違っているわけではない。懐帝はまだ存命中だし、元帝が後継者に指名されたわけでもない。荀藩が勝手に言っているだけだ。元帝に法的正当性がないことは元帝たちだって知っているだろう、だからこそはじめから武力を使用しなかったものと思われる。
 元帝も懐帝・愍帝ら中原政府から正当性を付与されているにすぎないのだが、懐帝・愍帝をタテにとって元帝の言うことを聞かないやつらが邪魔でしょうがなく、そうなると懐帝や愍帝すらも元帝にとっては邪魔だっただろう。そういった建前と本音がこれらの事例には垣間見えるよね。元帝の正当性/正統性の弱さゆえ、最終的には武力で無理矢理聞かせていき、人々も中原政府には期待できないからだと元帝に服従していったこの時期の政治的過程がよく想像できる。[上に戻る]

2014年6月7日土曜日

書道で死にかけた話

『晋書』巻80王羲之伝附献之伝
謝安甚欽愛之、請為長史。安進号衛将軍、復為長史。太元中、新起太極殿、安使欲献之題榜、以為万代宝、而難言之、試謂曰、「魏時陵雲殿榜未題、而匠者誤釘之、不可下、乃使韋仲将懸橙書之。比訖、鬚鬢尽白、裁余気息。還語子弟、宜絶此法」。献之揣知其旨、正色曰、「仲将、魏之大臣、寧有此事。使其若此、有以知魏徳之不長」。安遂不之逼。

謝安はとても王献之を気に入っていたので、自分の長史にしたいと願い出(て許可され)た。謝安が衛将軍になると、またも王献之は長史となった。太元年間、太極殿を新築したさい、謝安は王献之に扁額の題字を書かせようと思い、大量の財宝を報酬に出そうとしていたが、言い出せずにいた。そこで謝安はやる気をうかがってみるために、ためしに語ってみた、「魏の時代、陵雲殿の扁額に題字がまだ書かれていなかったのに、職人が間違って扁額を釘で打ちつけてしまい、下ろすことができなくなってしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて扁額に題字を書かせた。ほどなく終わったのだが、そのときには韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えの様子。帰宅すると年少の親族たちに、『書道なんてやらんほうがええで・・・死んでまうわ・・・』と語った、という話があったそうだ(ところで太極殿の扁額もまだ題字がないんだけど、もう打ちつけちゃったんだよねー、どうしようかなー、まじで困ったわー)」。王献之は謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「韋誕は魏の大臣ですよ、そんなバカなことをさせるわけないでしょう! もしそんなことをさせたのなら、魏が短命だったのも当然ですね!」こうして謝安は諦めたのだった
 そんな話を聞いて「おれもやるぅーー」って言うやついると思ってんの、謝安氏よ?
 え? ゴンドラの上で悲鳴をあげながら震えた字を書いてる韋誕を想像すると萌えるでしょ?キミがやってくれるともう・・・///って謝安は言ってんの? そこまでオレは察せられなかったわー、まじごめーーん。



 ところで、このお話は『世説新語』および同書劉孝標注引の佚書にも見えている。参考までに引いておきましょう。

『世説新語』方正篇
太極殿始成、王子敬時為謝公送版使王題之、王有不平色、語信云、「可擲著門外」。謝後見王、曰、「題之上殿何若、昔魏朝韋誕諸人亦自為也」。王曰、「魏祚所以不長」。謝以為名言。

太極殿が完成したとき、王献之は謝安の長史であった。謝安は王献之に扁額を送りつけ、題字を書かせようとしたが、王献之は不満な様子。扁額を持って来た謝安の使者に「門外に放っておけや」と言う始末。後日、謝安が王献之に会ったさいに、「扁額を打ちつけたあとならどうかな? かつて魏の韋誕はそうしたらしいぞ」と言うと、「へえ、だから魏は短命だったんですね」と王献之は答えた。名言ですねえ、と謝安は思ったのだった。

宋明帝『文章志』(同書同篇劉注引)
太元中、新宮起、議者欲屈王献之題榜、以為万代宝。謝安与王語次、因及魏時起陵雲閣、忘題榜、乃使韋仲将県橙上題之、比下、須髪尽白、裁余気息、還語子弟云、宜絶楷法。安欲以此風動其意、王解其旨、正色曰、「此奇事、韋仲将魏朝大臣、寧可有使其若此、有以知魏徳之不長」。安知其心、迺不復逼之。

太元年間、新しく宮殿が完成したさい、財宝を報酬にして王献之に扁額の題字を依頼しようと会議で決まった。謝安と王献之が雑談しているさいにこの話題におよび、そこから魏の韋誕の話に話題が移った。(その話は次の通り。)魏の時代、陵雲閣を建てたさいに扁額に題字を書くのを忘れてしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて題字を書かせた。ほどなく(終わって)下ろされると、韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えな様子。帰宅して年少の親族に、「書道なんてやめとけや・・・」と語った。謝安はこの話で王献之をやる気にさせようとしたのだが、王献之はその謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「おかしな話ですね。韋誕は魏の大臣なのにそんなことをさせるんですか。それじゃあ魏も短命に終わりますよね」。謝安は王献之の心中を知ったので、無理強いしなかった。

『世説新語』巧芸篇
韋仲将能書。魏明帝起殿、欲安榜、使仲将登梯題之。既下、頭鬢皓然。因勅児孫勿復学書。

韋誕は書道に長けていた。魏の明帝が宮殿を新築したさい、扁額を設けようと思い、(打ちつけたあとで)韋誕をはしごに登らせて題字を書かせた。はしごから下ろされると、頭髪は真っ白になっていた。韋誕は子や孫に、書道なんて習うんじゃないと命じたそうだ。

衛恒『四体書勢』(同書同篇劉注引)〔晋の衛瓘の子〕
誕善楷書、魏宮観多誕所題。明帝立陵霄閣、誤先釘榜、乃籠盛誕、轆轤長絙引上、使就題之、去地二十五丈、誕甚危懼、乃戒子孫絶此楷法、著之家令。

韋誕は楷書の達人で、魏の宮殿や台観の題字はほぼ韋誕が書いたものだった。明帝が陵霄閣を建てたさい、間違って扁額を先に打ちつけてしまったので、韋誕をかごに乗せ、滑車と長めの綱を使って吊るし上げて題字を書かせた。その高さ、地面から二十五丈(約60メートル)。韋誕は恐ろしくたまらなかった。そこで子や孫には書道なんて習うもんじゃないと戒め、家令にも記したのである。
 けっこう書物によって記述が違う。『晋書』はいいとこどりしてきれいにまとめた感じ。たいてい、いいとこだけ混ぜ合わせると駄作ができるもんなんですが。そもそも佚文には残っていない先行晋史から唐の史官が引っ張ってきた可能性もかなり高いけどね。

 てか60メートルも吊るされたのかよ・・・! 家令に記録して戒めたという『四体書勢』の記述はなまなましいね・・・

2014年5月31日土曜日

成漢・李氏の来歴神話(続)

 前回の記事では李氏の来歴に廩君伝説が利用されていることを述べ、李氏の来歴神話に矛盾が見られることを指摘した。今回はその廩君説話について、他の史料を読みつつ検討してみたい。
 さて、廩君および李氏の神話に関連する説話は、『華陽国志』、『後漢書』、『水経注』、『十六国春秋』などの諸書に見えているが、まず最初に比較的記事が豊富で整っている范曄『後漢書』伝86南蛮西南夷列伝から読んでみよう(引用文中、ブラケット[ ]は李賢注、亀甲カッコ〔 〕は訳者注を示す)。
A(長沙武陵蛮の条)
秦の昭王は白起に楚を討たせ、(楚が支配していた)蛮夷を支配下に置き、黔中郡を設けた。漢が起こると、武陵郡に改称された。(その地の蛮夷は)毎年、大人は一人につき布一匹、小口〔子供という意味でしょう〕は一人につき二丈を納付させた。これを「賨布」と呼ぶ[李賢注:『説文』は「(賨とは)南蛮の賦税のことである」と記している](秦昭王使白起伐楚、略取蛮夷、始置黔中郡。漢興、改為武陵。歳令大人輸布一匹、小口二丈、是謂賨布。[『説文』曰、「南蛮賦也」。])

B(巴郡南郡蛮の条)
巴郡南郡蛮。もともとは巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏の五姓であった。みな武落の鍾離山が出自である[一]。その山には赤と黒の二つの色をしたほら穴があり、巴氏の子は赤穴で、ほかの四姓の子はみな黒穴で生まれていた。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相だけが当てることができたので、みなは(務相を)たたえた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かばせることができた者が君長になると決まりを立てて勝負した。ほかの四姓の者はすべて沈んだが、務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた[二]。塩水〔『水経注』によれば夷水の別名〕の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩陽の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回った。日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天地はようやく明るさをとりもどした[三]。廩君はこうして夷城の君主となり[四]、四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。秦の恵文王が巴中を併合すると、巴氏を(その地の)蛮夷の君長とし、代々秦の王族の娘を嫁がせた。蛮夷の一般人には不更と同等の爵を与え、罪を得ても爵で免罪することができるようにした。君長は、毎年2016銭の賦銭、三年に一回1800銭の義賦を納めた。一般の人民は一戸につき、幏布八丈二尺、にわとり三十鍭〔李賢によると149羽〕を納めた。漢が起こると、南郡太守の靳彊はすべて秦の時代のやりかたを踏襲するよう要請し(許可され)た。(巴郡南郡蛮、本有五姓、巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏。皆出於武落鍾離山。其山有赤黒二穴、巴氏之子生於赤穴、四姓之子皆生黒穴。未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣於石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃独中之、衆皆歎。又令各乗土船、約能浮者、当以為君。余姓悉沈、唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦即化為蟲、与諸蟲羣飛、掩蔽日光、天地晦冥。積十余日、廩君伺其便、因射殺之、天乃開明。廩君於是君乎夷城、四姓皆臣之。廩君死、魂魄世為白虎。巴氏以虎飲人血、遂以人祠焉。及秦恵王并巴中、以巴氏為蛮夷君長、世尚秦女、其民爵比不更、有罪得以爵除。其君長歳出賦二千一十六銭、三歳一出義賦千八百銭。其民戸出幏布八丈二尺、鶏羽三十鍭。漢興、南郡太守靳彊請一依秦時故事。)

[一]『世本』によれば、「廩君の祖先は、巫誕〔中華書局によると人名らしいが、詳細は不明〕の子孫である」。(『代本』曰、「廩君之先、故出巫誕」也。)
[二]『荊州図副』によれば、「夷陵県の西に温泉がある。古老の話によると、この温泉は元来、塩を産出していたとのことで、現在でも塩っ気があるそうだ。県の西にはほら穴がある山が一つある。穴のなかには二つの大きな石が、一丈ばかり離れて並んでおり、俗に陰陽石と呼ばれている。陰石のほうはいつも湿っていて、陽石のほうはいつも乾いている」。また盛弘之の『荊州記』によれば、「むかし、廩君が夷水を航行していたとき、塩神を陽石の上で射殺した。調べてみたところ、現在〔盛弘之は劉宋の人〕の施州清江県の河に塩水とも呼ばれている河がある。源流は清江県の西の都亭山にある」。『水経』に「夷水はは巴郡魚復から流れ出ている」とあり、酈道元の注に「水の色が澄んでいて、十丈にわたって照らすほどで、砂と石がきれいに分かれている。蜀の人はその澄んださまを見て、清江と名づけたのである」。(『荊州図副』曰、「夷陵県西有温泉。古老相伝、此泉元出塩、于今水有塩気。県西一独山有石穴、有二大石並立穴中、相去可一丈、俗名為陰陽石。陰石常湿、陽石常燥」。盛弘之『荊州記』曰、「昔廩君浮夷水、射塩神于陽石之上。案今施州清江県水一名塩水、源出清江県西都亭山」。『水経』云、「夷水巴郡魚復県」、注云、「水色清、照十丈、分沙石。蜀人見澄清、因名清江也」。)
[三]『世本』に「廩君は人をやって青い糸を塩神に贈り、『これを身に着けてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします』と伝えさせた。塩神は糸を受け取ると、それを身に着けた。廩君は陽石の上に立ち、青糸をねらって矢を放った。矢は塩神に命中し、塩神は絶命した。すると、天は明るくなった」とある。(『代本』曰、「廩君使人操青縷以遺塩神、曰、『嬰此即相宜、云与女俱生、弗宜将去』。塩神受縷而嬰之、廩君即立陽石上、応青縷而射之、中塩神、塩神死、天乃大開」也。)
[四]以上の文章はすべて『世本』にも見えている。(此已上並見『代本』也。)

C(板楯蛮の条)
板楯蛮。秦の昭襄王のとき、一匹の白虎が現われ、虎の群れを引き連れながら秦、蜀、巴、漢の領域をうろうろし、千余人を殺傷していた。昭襄王は虎を殺せる者を何度も募り、一万家の邑と百鎰の金を懸賞金にかけていた。当時、巴郡閬中の蛮夷で、白い竹製の弩をつくることができる者が、たかどのに登り、(その弩を使って)白虎を射殺した。昭襄王は彼をたたえたが、蛮夷であったために封建したくなかった。そこで石に盟約を刻み、(巴郡の蛮夷はみな)田地は一頃まで租税を課さないこと、妻は十人まで算賦税を課さないこと、人に傷害を加えた者は罪を減免し、人を殺害した者は倓銭[何承天の『纂文』によれば、「倓とは、蛮夷が贖罪するために使用する貨幣である」]によって罪をあがなうことができるようにした。盟約には、「秦人が夷人に対して罪を犯した場合、黄龍のつがいを送る。夷人が秦人に対して罪を犯した場合は、清酒ひとつぼを送る」とあった。蛮夷はこれに安堵した。高祖が漢王になると、蛮夷を徴発して関中を討った。関中が平定されると、巴中に帰らせた。渠帥の羅、朴、督、鄂、度、夕、龔の七姓は租と賦を免税した。ほかの夷人は、毎年、一人につき四十の賨銭を納めさせることとした。(彼らは)代々、板楯蛮夷と呼ばれていた。閬中には渝水が流れており、住民の多くはその河の側に住んでいた。元来、敏捷かつ勇猛で、漢軍の先鋒となり、何度も敵軍の陣営を陥落させていた。歌や舞踊を好む風俗で、高祖は彼らの歌や舞踊を見ると、「武王が紂王を討ったときの歌のようだ」と言った。そこで音楽を仕事とする楽人にその歌と舞を覚えさせた。それがいわゆる巴渝舞と呼ばれている舞である。こうしてついに、代々漢に服従することになったのである。(板楯蛮夷者、秦昭襄王時有一白虎、常従羣虎数遊秦、蜀、巴、漢之境、傷害千余人。昭王乃重募国中有能殺虎者、賞邑万家、金百鎰。時有巴郡閬中夷人、能作白竹之弩、乃登楼射殺白虎。昭王嘉之、而以其夷人、不欲加封、乃刻石盟要、復夷人頃田不租、十妻不筭、傷人者論、殺人者得以倓銭贖死。盟曰、「秦犯夷、輸黄龍一双。夷犯秦、輸清酒一鍾」。夷人安之。至高祖為漢王、発夷人還伐三秦。秦地既定、乃遣還巴中、復其渠帥羅、朴、督、鄂、度、夕、龔七姓、不輸租賦、余戸乃歳入賨銭、口四十。世号為板楯蛮夷。閬中有渝水、其人多居水左右。天性勁勇、初為漢前鋒、数陷陳。俗喜歌舞、高祖観之、曰、「此武王伐紂之歌 也」。乃命楽人習之、所謂巴渝舞也。遂世世服従。)
 かなりの部分で『晋書』李特載記と重なる。さしあたり、以下の点を挙げておこう。
①黔中郡と賨
 『晋書』李特載記によれば、廩君の子孫たちは秦の時代に黔中郡の統治下に編入され、毎年賨銭四十を納めていたという。しかし、『後漢書』の記述によると、黔中郡の蛮夷(武陵蛮)は銭ではなく布を納めているし、賨銭四十を納めていたのは巴郡に集住していた蛮夷(板楯蛮)である。しかも、武陵蛮も板楯蛮も、廩君の子孫とは記述されていない。
②漢の高祖との関係
 『晋書』李特載記においては、李特の先祖たちは漢の高祖に付き従い、関中の平定に功績があったという。同様の記述が『後漢書』板楯蛮の条に見えるが、彼らは廩君とはあまり関係がないようである。
③巴郡南郡蛮と板楯蛮
 そもそも、漢字文化圏の人間が記述した内容に従って、当時の蛮夷を厳密に区分けすることなどできるのか、という批判があるかもしれない。あるいは、これらの蛮夷たちは隣接地域に居住していたので、現実にも区分があいまいだし、あくまで行政的な区分にすぎない、あまりきっちりとした区切りを設けて蛮夷を考えるべきではないという意見もありそうだ。たしかにそれらは一理ある。だが、だとしても、巴郡南郡蛮にかんする説話と板楯蛮にかんする説話は全体的にあまりにも異なっていないだろうか。
 巴郡南郡蛮は夷水一帯、南郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しているらしいが、『晋書』でも『後漢書』でも彼らは元来五姓であり、白虎を尊んでいる。
 板楯蛮は巴郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しており、『後漢書』によると彼らの親分は七姓、白虎を殺す者たちである[1]
 とりわけ、白虎に対する姿勢の違いは注目すべきだろう。廩君の話も含め、いったいどうやってこれらの話が漢字に翻訳されたのかというのは謎だが[2]、現状確認できる限り、これは両者の風俗の違いとして大事なポイントだと思う。

 『後漢書』との比較検討を通してなにが言いたかったかというと、『晋書』李特載記冒頭のあの来歴の神話は、漢字文化圏に伝わっていた廩君=巴郡南郡蛮と、武陵蛮[3]と、板楯蛮の話がそれぞれ混合してできあがったまがいものだということだ。色々な資料をつなぎ合わせて一見筋の通ったお話に見せかけているものの、文脈が共通しない各資料を特段の根拠もなく、しかも矛盾を隠しきれないままに一つの筋に並べた、非常にずさんな話だと断言できるでしょう。

 ここで本質的な問題に入ろう。この李氏の来歴のお話はいつ、どのようにして創られたのか。直前の記事で、『晋書』の載記は北魏・崔鴻『十六国春秋』に由来する可能性が高いことを述べておいた。今回の李特についてはどうなのであろうか。『十六国春秋』を見てみよう(『太平御覧』巻123引『崔鴻十六国春秋蜀録』)。
李特、字玄休、巴西宕渠人、其先廩君之苗裔。秦併天下、以為黔中郡、薄賦其人、口歳出銭四十。巴人謂賦為賨、遂因名焉。及高祖為漢王、始慕賨民、平定三秦。既而不願出関、求還郷里、高祖以其功、復同豊沛、更名其地為巴郡。土有塩漆之利、民用殷阜、俗性剽勇、又善歌舞、高祖愛其舞、詔楽府習之、今巴渝舞是也。其後繁昌、分為数十姓。及魏武剋漢中、特祖父虎帰魏、魏武嘉之、遷略陽、拝虎等為将軍。内徙者亦万余家、散居隴右諸郡及三輔・弘農、所在号為巴人。
 翻訳はいいですかね。ええ、『晋書』の李特載記とまったく同じです。廩君のお話が『十六国春秋』では詳しく記述されていないのが『晋書』との違いとして挙げられるけど、『御覧』への引用時に節略された可能性もあるので、その点を差異として言い切ることは難しい(というか、『十六国春秋』でも蜀録冒頭に廩君の神話を記述していた可能性は高いと思う)。

 以上、次のことが明らかになりましたね。すなわち、『晋書』李特載記に記されている李氏の来歴はかなりデタラメである可能性が高いけども、それは唐の史官がテキトーに諸資料をツギハギしてしまったからではなく、そもそも唐の史官がほぼ丸写ししたと思われる『十六国春秋』の時点からああいう整合性の取れない話になっていたということだ。
 じゃあ崔鴻はいったい何を参考にしてあんな話を記述したのだろう。注[2]で論じておいたように、范曄『後漢書』、酈道元『水経注』である可能性は低い。だとしたらなにを参考にしたのだろう? それに李氏は本当に廩君の子孫を名乗っていたのだろうか。仮にそうだとしたらどうして? 逆に崔鴻のウソだとしたらそれもまたどうして?
 また次回。



――注――

[1]板楯蛮が虎狩りを特徴とする蛮夷として認識されていたことは、次の『華陽国志』巻一巴志の記述からうかがい知れる。「秦の昭襄王のとき、白虎が危害を加えることが起こり、秦、蜀、巴、漢の地域がこれに悩んでいた。そこで秦王は国内に何度も懸賞をかけた。『虎を殺した者には封邑一万家、(もしくは?)それと同等の金と布帛を与える』。これを受けて、夷人の朐忍廖仲、薬何、射虎秦精らが白い竹から弩を製作し、たかどのの上から白虎を射撃した。(白虎の)頭に三本の矢が命中した。白虎はいつも虎の群れを従えていたが、群れの虎は(白虎が殺されたのを見て)大いに怒り狂った。(朐忍廖仲らは)群れの虎をすべて殴り殺し、虎たちはうなったあとに息絶えた。・・・〔秦王と夷人との盟約のくだりは省略。『後漢書』の記述とほぼ変わらないので〕・・・。漢が起こると、夷人は高祖に従って戦乱を平定し、功績を立てた。高祖は功績を考慮して税を免除し、虎を射ることだけを生業とさせた。一戸ごとに、一人につき賨銭四十を毎年納付させていた。そのため、『白虎復夷』と代々呼ばれることとなった〔「復」は税を免除することを意味する。虎狩りの功績で銭納以外の税の免除措置を得た夷人、ということだろう〕。あるいは「板楯蛮」とも呼ばれた。(彼らは)現在〔撰者・常璩が執筆した東晋時代ころのことか〕の『弜頭虎子』である〔虎のようにつえー、みたいな感じらしい〕(秦昭襄王時、白虎為害、自秦、蜀、巴、漢患之。秦王乃重募国中、『有能煞虎者邑万家、金帛称之』。於是夷朐忍廖仲、薬何、射虎秦精等乃作白竹弩、於高楼上、射虎。中頭三節。白虎常従群虎、瞋恚、尽搏煞群虎、大呴而死。・・・漢興、亦従高祖定乱、有功。高祖因復之、専以射虎為事。戸歳出賨銭口四十。故世号白虎復夷。一曰板楯蛮。今所謂弜頭虎子者也)」。なお『華陽国志』のテクストは任乃強氏の校注本(『華陽国志校補図注』上海古籍出版社、1987年)を用いた。[上に戻る]

[2]廩君の記述はこのほか、『水経注』巻37夷水にも見えており(後掲)、また李賢の注から推測するに、盛弘之『荊州記』にも記述されていた可能性が高いと思われる(現在は佚書で佚文にも明確に見当たらないが、廩君が塩神を殺した「陽石」についての記述が見えているので。また後掲の『水経注』も参照)。だが、より古くは、李賢が指摘している『世本』に見えているようである。たとえば『太平御覧』巻944に引く『世本』には断片的記述だが、『晋書』の李特載記とほとんど変わらない文言の文章が引用されている。
 では『世本』とはなんだねという話になるのだが、現在は佚書ということもあって、詳しくはよくわからない。先秦の帝王や諸侯・王の系譜などを細かに記述していたらしいということがわかるくらい。この本はじつは非常に古いもので、司馬遷が『史記』を編纂するさいにも参照した史書である。陳夢家氏は戦国趙の趙王遷の時代に趙で編纂された史書だと推測しているが(「世本考略」、『陳夢家著作集――西周年代考・六国紀念』中華書局、2005年)、妥当性はどうだろう。しかし、司馬遷以前にさかのぼるのは確かである。そんな古い時代から廩君の話が伝えられていたっていうのは興味深いね(ちなみに、『世本』は輯本が複数つくられており、代表的なものは西南書局や中華書局から発行されている『世本八種』に収められている)
《参考までに》『水経注』巻37夷水

 夷水は沙渠県から(佷山県に)入る。河の流れは浅く、かつ狭いので、かろうじて船が通れるほどである。夷水は東に流れて、難留城を過ぎてから南に向かう。難留城とは山のことである。山はぽつんとそびえていて、非常に険しい。西の斜面には一里ばかりのほら穴があり、火をともして百歩ばかり歩くと、二つの大きな石が一丈ばかりの離れて並んでいるのが見える。これを俗に「陰陽石」と呼んでいる。陰石はいつも湿っていて、陽石はいつも乾いている。水害もしくは干ばつが激しいときは、住民が服装を整えてほら穴に行き、干ばつのときは陰石をむちで叩く。すると、間もなく雨の日が多くなるという。水害のときは陽石をむちで叩く。するとたちまち晴れるという。聞くところでは、よく効き目があるそうだ。しかし、むちで叩く人が年寄りでなければ、住民たちはとても嫌がるので、(適当な年寄りがいない場合は)おこなわないそうだ。東北の斜面にもほら穴があり、数百人ばかりを入れることができる。戦乱が起こるたびに、住民はほら穴に入って賊から避難する。(このほら穴には)攻め入る隙がないので、難留城と呼ばれているのである。
 むかし、巴蛮には五姓あった。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相が当てることができた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かんだ者が君長になると決まりを立てて勝負した。務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた。塩水の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩水の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回ったので日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天はようやく明るさをとりもどした。廩君は土の船に乗って河を下ってゆき、夷城に到着した。夷城の岸壁は険阻で曲がりくねっており、夷水も湾曲していた。廩君はこの光景を遠く見てとるとため息をついた。すると岸壁が崩落した。廩君がそれを登っていくと、上には四方が二丈五尺の平らな石があった。そこでそのそばに城を築き、居住することに決めた。四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。そのため巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。塩水とは、夷水のことである。また、塩石というのがあるが、それは陽石のことである。盛弘之は、廩君が塩神を射撃した場所だと推測している。(夷水自沙渠県入、水流浅狭、裁得通船。東逕難留城南、城即山也。独立峻絶、西面上里余得石穴、把火行百許歩、得二大石磧、並立穴中、相去一丈、俗名陰陽石。陰石常湿、陽石常燥。毎水旱不調、居民作威儀服飾、往入穴中、旱則鞭陰石、応時雨多、雨則鞭陽石、俄而天晴。相承所説、往往有効。但捉鞭者不寿、人頗悪之、故不為也。東北面又有石室、可容数百人、毎乱、民入室避賊、無可攻理、因名難留城也。昔巴蛮有五姓、未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣于石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃中之、又令各乗土船、約浮者、当以為君。唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦化為蟲、羣飛蔽日、天地晦暝、積十余日、廩君因伺便、射殺之、天乃開明。廩君乗土舟下及夷城、夷城石岸険曲、其水亦曲。廩君望之而嘆、山崖為崩。廩君登之、上有平石方二丈五尺、因立城其傍而居之。四姓臣之。死、精魂化而為白虎。故巴氏以虎飲人血、遂以人祀。塩水、即夷水也。又有塩石、即陽石也。盛弘之以是推是、疑即廩君所射塩神処也。)

   この記述を見る限り、酈道元は『世本』ではなく、盛弘之の『荊州記』を手元に置いてここの部分を記した可能性が高いように思える。細かく見てもらえればわかるのだが、文言の重複具合や省略する箇所の一致など、ここの酈道元の注に記された廩君の記述は范曄『後漢書』の記述とほぼ重なっている。
 そこで気になってくるのが盛弘之『荊州記』と范曄『後漢書』との関係である。どっちが早く書かれたのであろうか。『隋書』経籍志によると、盛弘之は劉宋の時期の人で、「臨川王侍郎」であったという。臨川王義慶を指しているものと解しておこう。『荊州記』なんていう地理書を記すからには、彼は最低限のフィールドワークをやったはずだし、やんなかったらそもそもこんな書物を記そうとは思わないだろう、という推定で調べてみると、劉義慶は元嘉九年に荊州刺史に任命されている。劉義慶に従って荊州に赴任し、数年のあいだに『荊州記』をまとめたと見ておくのが妥当ではないだろうか。一方の范曄『後漢書』であるが、呉樹平氏によると元嘉九年~十六年のあいだに編纂されたらしい(「范曄《後漢書》的撰修年代」、同氏『秦漢文献研究』斉魯書社、1988年)。なんだかんだうまい具合に明解な答えが出るだろうと思ったら、見事に同年代でどっちがはやいとかそういうのわかんねー・・・。
 というわけなので、次の二つの場合を想定するほかなさそうだ。盛弘之『荊州記』が范曄と酈道元の資料源になったケース、范曄→盛弘之→酈道元というケース。
 ところで、その一方で『水経注』や『後漢書』を『晋書』李特載記と比べてみると、かなり異なっていることに気づく。つまり、まず李特載記は省略が少ない。少なくとも范曄や酈道元を見て記したのであれば、彼らが省略したところどころの文脈、たとえば廩君が塩神の願いを断ったさいのセリフや塩神を殺害したあとから夷城を築くまでのお話などといった箇所は、『後漢書』や『水経注』をいくら参考にしたって書けるわけがないのだ。では、盛弘之の『荊州記』はどうだったのだろうかというと、これはなんともいえない。范曄や酈道元と同様の記述だった可能性もあるし、地理書だからもっと豊富に記してあったかもしれない。ともかく、『晋書』の李特載記は『後漢書』や『水経注』を参照したのではなく、異なる書物を参考に廩君の話を記述した可能性が高く、候補としては盛弘之『荊州記』か『世本』が挙げられる、ということが言えるだろう。[上に戻る]

[3]余談だが、范曄『後漢書』や酈道元『水経注』などの漢文史料では、武陵蛮の起源のお話として、槃瓠の説話が記されている。槃瓠は帝嚳の飼っていた犬で、帝を悩ませていた犬戎のボスを討ち取ったことから帝の娘を妻として迎えることができ、山のなかで子をつくった、その子孫が「蛮夷」と呼ばれるようになり、武陵蛮がそれに相当するのだと。匈奴だとか、あと楚とか蜀にしても同じことが言えるけど、非漢族の起源は中華だってお話はやっぱり多いね。漢文史料だからそうなるのも仕方ないが、場合によっては、自分たち自身で「おれたちは中華が起源!」と言い出したりすることもある。楚の王族や劉淵たちはそうなんじゃないかね。そういう選択をしたのも構造的な問題から考察すべきではあろうが。[上に戻る]

2014年5月18日日曜日

『晋書』の載記について

 できたら近いうちに前回の李氏の話のつづきを書きたいと思っているのだけど、その前にやや史料のお話をしておいたほうがよさそうなので。
 といっても、今回の記事は李氏ではなく、匈奴劉氏の政権である漢・趙を中心に書きます。李氏はいずれ。長文&やや専門的なので、その点ご了承ください。

『晋書』載記
 特徴としては以下が挙げられる。
①載記冒頭に序文がついていること。
②十四国が項目に立てられていること(漢・前趙、後趙、前燕、前秦、後秦、成・漢、後涼、後燕、西秦、北燕、南涼、南燕、北涼、夏)。
③名臣などの伝が載記末尾に付記される場合があること。
④君主の即位には「僭」字を必ず使ったり、晋の軍隊を「王師」と表記したりすること。
 ②などは特に不思議に思わない人もいるだろうが、じつはとても重要である。念頭に置いてほしい。
 『晋書』はいろいろと問題が指摘されてはいるものの、五胡時代の史料で体系的にまとまったかたちで残存しているのはこの載記のみ。なので、これを基礎にせざるを得ないのが現状。その基本資料がどういうなりたちをもっているのか、推測がかなり交じってしまうけれども、そのあたりの考察は必要でしょう。


『魏書』
 巻95~99にかけて、五胡関連(および南朝)の列伝が並んでいる。項目は十四(後燕、南燕などは「徒何慕容廆伝」に一括され、赫連勃勃は「鉄弗劉虎伝」に記されてる)。巻95には五胡に関する序文もあるが、『晋書』の載記とはだいぶ違う。ただ、諸列伝の内容はおおよそ載記のダイジェスト版みたいなものになっている(少なくとも漢・前趙に関してはそう言える)。『魏書』は北斉の魏収によって編纂された史書で、唐の『晋書』よりも当然ながら成立が早いにもかかわらず、どうして『魏書』は『晋書』のコンパクト版になっているのか。ここは大事なポイント。
 史料的には載記よりも情報量は劣る。漢・前趙関連で言えば、それほど『魏書』に独自な記述はなかったと思う。しかし、他のところでは独自史料があったりするかもしれないんで、見逃さないほうがよろしい。


『十六国春秋』
 ところで、北魏の五行をみなさんはご存じだろうか。唐代の公式見解では、王朝の五行は次のように継承されていた。
漢(火)→曹魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)
 北魏は晋の金徳を承けて水徳、これを覚えておこう[1]

 以下では、川本芳昭「五胡十六国・北朝時代における「正統」王朝について」(『九州大学東洋史論集』25、1997年)、梶山智史「崔鴻『十六国春秋』の成立について」(『明大アジア史論集』10、2005年)を参照にして、『十六国春秋』のことについて簡単にまとめておこう。
 『十六国春秋』は北魏末に編纂された史書である。撰者は崔鴻(本貫は清河)。梶山氏によると、彼が執筆活動を開始したのは景明年間(500-503年)のはじめころ、崔鴻20代前半のころであった。完成は正光三年(522年)、45歳のとき。序と年表各1巻を加え、全102巻であったという。残念ながら現在では散佚してしまい、『太平御覧』などに引用された佚文が残るのみである。
 川本氏によると、もともとの書名はたんに「春秋」であった可能性もあるらしいが、そうであったにしても、「十六国」を対象に歴史叙述をしていると見て大過ない。崔鴻は十六国各国で編纂された国史(『隋書』経籍志では「覇史」に分類されている史書)などの資料を収拾し、それらを参考にして一書を著わしたとのこと。従来、この時代をひとつにまとめて記した史書が存在しなかったことが崔鴻の執筆動機であったとされる。

 構成は『三国志』をイメージしてもらえるとわかりやすいが、まず各国ごとに大きなブロックが設けられ、そのなかにさらに伝が立てられる、といった具合。前者の区切りには「録」字を使う(前趙録、後趙録、蜀録)。後者には「伝」を使う(苻堅伝)。たとえば前趙録には劉淵伝、劉和伝、劉聡伝、劉粲伝、劉曜伝あたりが立てられていたと思われる(劉和と劉粲はちょい微妙だが)。「春秋」という名称からしても、おそらく編年体に近い体裁だったと思われるので、各録は編年体の形式で記述されていたのではなかろうか。だとすれば、「伝」は基本的に君主のみ立てられ、臣下の「伝」は独立して立てられていなかったと考えられる。以前記事にしたが、この時期の編年体は臣下たちの列伝を編年の途中で挿入する形式を有していたので、臣下たちの列伝も各君主の「伝」のなかに組み込まれていたのではないだろうか。

 『十六国春秋』の特徴として、梶山氏が陳寿『三国志』と比較しているのはとても素晴らしい着眼点である。すなわち、周知の通り、『三国志』には「正統」王朝が存在している。魏が「正統」なので、魏書にのみ本紀が存在し、蜀書・呉書はすべて列伝になっているわけ。ところが、『十六国春秋』には正統王朝が存在しない。川本氏・梶山氏の検討によると、『十六国春秋』で叙述されている各国はすべて「僭」、つまり非正統王朝として記述されているのだ。しかもこの見方は、孝文帝以後の北魏において、公式に取られた見解とも一致するのだ。

 もう少し詳しく見ておこう。さきほど北魏の五行について確認をしておいた。唐代、北魏は晋の金徳を継承して水徳となっている。しかし、じつはこの考え方もまた、孝文帝時代に確立されたものなのである。
 かの拓跋珪(道武帝)が即位した当初は、北魏は土徳を称していた。どうしてかと言えば、拓跋氏は黄帝の子孫だから、ということであったらしい。他にも理由は色々あったかもしれないが、ともかく土徳を採用していたことは間違いない。これが改革されたのが孝文帝のときであった。
 『魏書』巻108・礼志一によると、太和14年(490年)、孝文帝は北魏の五行について議論するように詔をくだしている。いままでなんとなくで土徳にしていたけど、ホントにそれでいいのか考えようぜ、っていう感じの内容だ。
 この詔を受けた会議において、高閭は土徳のままにすべきで変えてはならないと意見を述べている。重要と思われる一節を以下に引用してみよう。
魏は漢を継承しておりますが、火は土を生じさせるので、魏は土徳でございます。晋は魏を継承しておりますが、土は金を生じさせるので、晋は金徳でございます。〔おそらく後趙を指す〕は(金徳の)晋を継承しておりますが、金は水を生じさせるので、趙は水徳でございます。(前)燕は趙を継承しておりますが、水は木を生じさせるので、燕は木徳でございます。(前)秦は燕を継承しておりますが、木は火を生じさせるので、秦は火徳でございます。秦がまだ滅んでいないとき、わが魏はまだ中原〔原文「神州」〕を領有していませんでした。秦が滅んでから、わが魏は北方〔原文「玄朔」〕で帝号を称したのです。・・・もし晋を継承するということにすれば、晋が滅んでかなり時間が経ってわが魏が帝号についたことになり(違和感がございますし)、もし秦を継承しないということにすれば、中原(を領有しているかどうか)は基準からはずれてしまいます〔原文「中原有寄」。川本氏に従い、「有」を「無」の誤字として読んでおく。中華書局の校勘記も参照〕。このように考えてみますと、秦を継承することの道理は明々白々、ゆえに魏は秦を継承して土徳とすべきなのです。・・・いま、もし三家〔趙、燕、秦〕を一挙に切り捨て、遠くさかのぼって晋を継承することにすれば、中原が王者としての中心〔原文「正次」、こう訳して良いかは自信無〕であったという事実をないがしろにすることになるでしょう。
 史料には詳細な記述はないが、高閭が発言する前に、北魏は土徳ではない、晋を継承して水徳とすべきだ、という意見が出され、それに対する反論として彼が発言したであろうことは容易に察せられよう。拓跋氏が黄帝の子孫だから土徳なのだ、というものではなく、彼は論理的・法則的に土徳なのだと証明しようとしているのだが、そのさいに五行継承の基準に置かれたのが「中原を支配したか否か」であった。彼から見れば、後趙・前燕・前秦がそれに該当し、ゆえに、この三国を継承の順序からはずすことはあってはならないことなのである。
 礼志を読む限り、北魏=土徳説の代表格がこの高閭であったらしい。注意しておきたいのは、高閭の考え方がかなり独特あるいは独創的なものであったとも必ずしも言えないことだ。川本氏が前燕時代の例をすでに指摘しているが、前燕がみずからの五行を定めたさいのことを記した史料に、「後趙の水徳を継承して木徳とする」(『晋書』巻111慕容暐載記)とか、「後趙は中原を領有したが、これは人事で成し遂げられることではなく、天が命じたことであったのだ(したがって後趙を継承すべきだ)」(『晋書』巻110慕容儁載記附韓恒伝)といった記述が見えており、高閭の論理は十六国諸国でも参照されていた基準に従っていた可能性が高いのだ。色々な意味で、高閭は五胡十六国の延長上に北魏を考えているのである。

 一方、北魏=水徳説の代表格が孝文帝のブレーンであった李彪、崔光らであった。分量がアレなのではしょりますが、

①北魏の来歴をさかのぼると、神元帝(拓跋力微)のときに帝業の基礎が築かれたが、神元帝は晋の武帝と友好関係を築いていた。その後も晋朝とは関係を保ち続けていた。つまり、時代が離れていたとは必ずしも言えず、むしろ同時代的であり、晋が中原で滅亡し、魏が北方で天命を受けたと言えるのだ。

②過去の事例を探してみると、漢は秦ではなく周の五行を継承している。周が滅んで漢が興るまで約60年、晋が滅んで道武帝が即位するまでも約60年。すなわち、仮に①は大した理由にならないとしても、さかのぼって晋を継承することはそれほど不自然なことではない。

③そもそも石氏とか慕容氏とか苻氏とかってさぁ、短命だったじゃん? 天下に秩序を立てたっていうほどのことでもないじゃん? そんなやつらどうでもよくね? わが魏と比較対象にすらならんでしょうが!

という感じ。この考え方にしても、必ずしも孝文帝期にこねくりだされたとは言えないかもしれないが、詳しくはわかりません。ちなみに崔鴻は崔光の孫にあたる。
 この議論は太和15年に結論がくだされ、水徳説が採用された。かくして十六国時代は、正統王朝が存在していなかった時代として、公式に見なされるようになった。この五行観が唐代における認識をも規定づけ、したがって唐修『晋書』においても同様の見解が取られているのと考えられるのである。
 長くなってしまったが、崔鴻もこの公式見解と同様の著述をおこなっているわけ。北魏の公式見解が崔鴻に内面化していたのか、あるいはその枠内で著述をおこなわざるをえなかったのか、そこらへんはよくわからない。梶山氏によると、崔鴻がこの書を私撰したことは時の皇帝・宣武帝に伝わり、献上を要求されたのだという。朝廷側としても、この時代をどう記述されたのかが気になったのであろう。崔鴻は上表文を作成したが、結局生前にその上表文を奏上することも、書物を献上することもなく、鴻の没後、子によって朝廷に献上されたという(『魏書』巻67崔光伝附鴻伝)。崔鴻伝によると、『十六国春秋』はかなり初歩的なミスが多かったという。それなりに毀誉褒貶もあったらしいが、禁止されるとかそのあたりにまではいたっていないので、大きな史観では抵触していなかったのではなかろうか。

 以上のほか、『十六国春秋』ではもう一つ重要なポイントがある。それは「十六国」という言葉である。十六国マニアならご存じのように、五胡十六国時代は「五胡」ではないし「十六国」ではない。丁零の翟氏がいたじゃないか! 漢人は含めないの? 仇池は? 冉魏は? 西燕は? 等々。これらはすべて排除され、五胡=匈奴・羯・氐・羌・鮮卑、十六国=前趙・後趙・成漢・前凉・前燕・前秦・後秦・後燕・後涼・西秦・南涼・北涼・西涼・南燕・北燕・夏、ということになっているのだ。どうしてそういう選別になってしまったのか?
 じつは「十六国」に関しては、崔鴻が『十六国春秋』で対象としている国、すなわち「録」を立てて叙述をおこなった国とぴったり一致するのである。
劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連勃勃、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋らをまとめて、・・・崔鴻は『十六国春秋』百巻を撰述した。(以劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連屈孑、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋等、・・・鴻乃撰為十六国春秋、勒成百巻。)

晋の永寧年間以後、あちこちで兵が起こり、みなが競ってみずからの尊厳を確立させようしていましたが、しっかりと国を立てて官職を設け、先進国となることができましたのは、十六国でした。(自晋永寧以後、雖所在称兵、競自尊樹、而能建邦命氏成為戦国者、十有六家。)

臣の亡父・鴻は、・・・趙・燕・秦・夏・涼・蜀などの事跡を叙述し、賛・序を立てて批評を加えました。先帝の御世、下書きはできていましたが、李雄の国史がまだ入手できておりませんでしたので、この国の記述のみできておらず、完成が遅れていました。正光三年、当該書を購入することができ、検討をおこなって叙述をちょうど終えたとき、鴻は世を去りました。全部で十六国、「春秋」と名づけ、全102巻となっています。(乃刊著趙、燕、秦、夏、涼、蜀等遺載、為之贊序、褒貶評論。先朝之日、草構悉了、唯有李雄蜀書、搜索未獲、闕茲一国、遅留未成。去正光三年、購訪始得、討論適訖、而先臣棄世。凡十六国、名為春秋、一百二巻。)
 以上はすべて崔鴻伝からの引用。三崎良章氏によると、現在確認し得る「十六国」の初出はこの崔鴻伝であるらしい(『五胡十六国』東方書店)。崔鴻以前にもこのような「十六国」認識はあったかもしれない。崔鴻前後の時代に「十六国」という考え方が一般的だったかは微妙なところで、三崎氏は魏収『魏書』の伝の構造が崔鴻のものと相違していることなどを挙げ、共通した「十六国」理解が存在していなかったとしている。共通した理解がないことはたしかだが、まあでもおおよその枠組みでは共通しているようにも見えますけどもね。たとえば仇池や翟魏は排したり、とか。ともかく、崔鴻が当該時代を「十六国」時代と明確に打ち出したことは、相応のインパクトがあったはずである[2]

 冗長になってしまったが、『十六国春秋』は、
①晋以後北魏以前の華北時代を「十六国」時代として歴史把握したこと。
②「十六国」はすべて非正統と見なしていたこと。それは北魏の公式見解に抵触しなかったこと。
という特徴があった。現在でもこの時代を「十六国時代」と通称し、正統王朝の不在時代と見なすのが一般的であるから、孝文帝改革および『十六国春秋』の影響は非常に大きい。

 ここでようやく本題になるのですが、どうしてこの『十六国春秋』がそんなに大事なのかというと、じつは唐修『晋書』の載記は『十六国春秋』をコピペないし簡略に引用したものだと考えられるからだ。構造としても、載記は前述したように、項目は十四だが、前凉と西涼が列伝に移されているのを含めればぴったり十六、しかも崔鴻が「録」に立てた諸国と一致している。
 『太平御覧』偏覇部の十六国関連の項目では、『十六国春秋』が長文で引用されている[3]。わたしが詳しく検討したことがあるのは漢・前趙のみだが、たしかに両者の内容はとてもよく似ている。『十六国春秋』は節略した引用文のため、載記と比べるとどうしても情報量は劣るが、それでも載記の文言とかなり似ている。『十六国春秋』の佚文にはたまに載記ではすっ飛ばされている記述があったりするので、細かく見ることはけっこう価値がある。
 そもそも考えてみれば、崔鴻がこの書を執筆した動機が、十六国時代の史書が国別にバラバラで、全体をまとめて記した史書が存在しないからであった。唐修『晋書』の時代においても、『十六国春秋』を除けば依然として同じ状況。唐の史官としても、国別の国史を参照してイチから編集をはじめるより、すでにその作業をやってくれた『十六国春秋』を利用した方が手っ取り早いに決まっている。太宗の晩年に急いで編纂された『晋書』であれば、なおさらそんなめんどい作業をすることも考えにくい。
 とはいえ、唐の史官の手がまったく入らないまま転載されているとまでは言えない。引用にも取捨選択があった、というレベルではなくいろいろと。たとえば避諱。あるいは序。序はもしかしたら崔鴻のものを転載している可能性もありうるが、その可能性が高いのはどちらかといえば『魏書』のほうで『晋書』載記のものは違うと思う。雑伝の序も唐の史官が書いているっぽいので、たぶん序文は唐の史官が書き下ろしたのではないだろうか[4]。それと、前述したように、『十六国春秋』は君主の「伝」のなかに臣下の伝を挿入していたと考えられるが、唐の史官はそれをすべて削除したようである。ただ、削除に惜しい人物は、載記の末尾に附記したり、孝友伝や忠義伝などの雑伝に組み込んだらしい[5]。だからアレだね、編集者みたいに最低限の校正と編集だけやって『十六国春秋』から載記を作りだしたのではないかな。おそらく魏収も『十六国春秋』を基礎に叙述をしたと思う。また、載記からは削除された『十六国春秋』の文章がときどき『資治通鑑』に引用されていたりします。

 かなり推測交じりになっているが、唐修『晋書』は史観も記述もかなりの部分で『十六国春秋』に負っていると考えられる。そういうことを念頭に置いて載記は扱ったほうが良い。


覇史(『漢趙記』)
 『隋書』経籍志では、五胡諸国で編纂された史書のことを「覇史」と呼んでいる。わたしも便宜的に「覇史」と呼んでおく。
 さて、『十六国春秋』がどういうものか、これまで力説したつもりである。ただし、諸所で触れてきたように、崔鴻は覇史を基礎にして『十六国春秋』を編集している。しかも、成漢の国史が入手できないことをもって成漢の記述(「蜀録」)をしなかったということは、覇史をかなり重視していたらしいことがわかるだろう。そこでこうした覇史にかんしても考慮の外に置くことはできないのである。
 といっても覇史の種類はさまざま、そのうえ現在では佚文もわずかしか残っていないくらいに痕跡がない。なので、かなりの部分を推測に頼ることになるが、決して無駄な作業にはならないだろう。ここでは前趙の国史『漢趙記』について述べておく。
 覇史については、唐初に残存していた覇史は隋書経籍志に書名が記述されているほか、唐の劉知幾『史通』巻12外篇・古今正史に詳しい記述がある。前趙に関連する部分を引用してみよう。
前趙は、劉聡の時代に領左国史の公師彧が高祖〔劉淵の廟号〕本紀、功臣伝二十人を著述したが、きちんとした史書の体裁であった。しかし、凌修が先帝を誹謗していると讒言したので、劉聡は怒って公師彧を誅殺した。劉曜の時代、平輿子〔平輿県に封ぜられた子爵〕の和苞が『漢趙記』10巻を編纂したが、記録は盛時のものに留まり、劉曜が死んだところまで記されていない。(前趙劉聡時、領左国史公師彧撰高祖本紀及功臣伝二十人、甚得良史之体。凌修譛其訕謗先帝、聡怒而誅之。劉曜之時、平輿子和苞撰漢趙記十篇、事止当年、不終曜滅。)
 公師彧や和苞は載記にも見える。凌修も、「陵修」という人物と同一かもしれない。
 そんなことはまあ良いのだ。ここで言及されている『漢趙記』こそ、崔鴻が前趙録編纂時に参照したと思われる覇史なのだ[6]
 『漢趙記』のポイントは劉曜時代に編纂されたということ。劉曜が即位して間もなくおこなったことは、国号と太祖の変更である。 
光初二年六月、劉曜は宗廟と社稷、長安の南郊・北郊を修繕すると、令をくだして言った、「王者がおこるときというのは、必ず始祖を祀るものである。わが一族の祖先は禹の子孫で、北方の夷狄として生活し、代々北方地帯で勢力を誇ってきた。光文帝〔劉淵〕は、漢が久しく天下を領有し、その恩徳が庶民に行き渡っていたため、(便宜的に)漢の皇帝たちの廟を立て、民の支持を得ようとしたのである。(しかし)昭武帝〔劉聡〕はそのまま継承し、とうとう改革を加えなかった。いま、漢帝の宗廟を取り除き、国号を改め、また〔原文は「御」だが意味が通じない。仮に「復」と見なして読んでみる〕大単于〔冒頓単于〕を太祖に定めたいと考えている。この件について議論し、意見を述べよ」。太保の呼延晏らの議、「いま思いますに、(漢を称するのは魏や晋を継承しないことを意味していますが、)晋を継承すべきであり、母から子へと受け継がれるように、国号も考えるべきであります。光文帝はもともと(晋から)盧奴に封建されていましたが、盧奴は中山の領域に相当します。また、陛下のわが国家における功績は洛陽平帝をはじめ、偉大なものでございまして、ついには中山王に封建されました。(かくして中山という点で、陛下と光文帝は共通点がございますが、)中山の分野は梁・趙に属します。ですので、大趙を国号とし、(晋の金徳を継承して)水徳とするのがよろしいと存じます」。劉曜はこれに従った。かくして、冒頓単于を天に配し、劉淵を上帝に配することとした。(六月、繕宗廟社稷、南北郊于長安、令曰、「蓋王者之興、必褅始祖。我皇家之先、出自夏后、居于北夷、世跨燕朔。光文以漢有天下歳久、恩徳結於民庶、故立漢祖宗之廟、以懐民望。昭武因循、遂未悛革。今欲除宗廟、改国号、御以大単于為太祖。其連議以聞」。於是太保呼延晏等議曰、「今宜承晋、母子伝号。以光文本封盧奴、中之属城。陛下勲功懋於平洛、終於中山。中山分野属大梁・趙也。宜革称大趙、遵以水行」。曜従之。於是以冒頓配天、淵配上帝。)
 以上は『太平御覧』巻119に引く『十六国春秋前趙録』の文章である。劉曜載記ではこの詳しい経緯は省略されてしまっている。
 趙を結論に出す論理はよくわからんが、大事なことは劉淵による漢帝の祭祀・宗廟を否定したことである。劉淵は即位時、はっきりと「太祖高皇帝」と述べていたが、劉曜は完全にそれを拒絶し、太祖(王朝の始祖的存在者)を漢の高祖から冒頓単于に変更し、あわせて国号も変更してしまった。冒頓単于を持ち出すあたり、「漢なんかクソくらえ!」という彼の認識がうかがえるね。たかが国号、されど国号、この変更には重大なイデオロギーの変更があったわけで、軽視すべきではないのだ。
 しかし、かといって劉曜は劉淵時代を否定するわけではない。むしろ、彼は劉淵を継承することに自身の正統性を見いだしている。「漢趙記」という国史の名前もそうだろう。趙は漢を否定して成り立った国号にも関わらず、漢を名乗っていた時代をなかったことにはできない、一概に否定的評価をくだすわけにもいかない。複雑でゆがんだ歴史観がここに現前することは、容易に想像できるだろう。
 ①劉淵は臨時に漢を国号としたこと、②劉曜にいたって本来の姿=趙になったこと、大まかにこの二つを視点を基礎に、『漢趙記』が編纂されたと思われる。もちろん、崔鴻も載記も同様の視点。前趙録、劉淵・劉聡・劉曜載記を根本から枠づけているのは『漢趙記』なのである[7]。このこともやはり忘れてはならない。

 ところで、劉曜が言うように、劉淵は便宜的に漢を称したのであろうか。わり本気で漢を称していたんじゃないだろうか。
 劉淵の即位直前、劉淵に即位を勧めていた劉宣は「呼韓邪単于の業績を復興する」べきだと説いていた。劉淵は「その通りだ」と返答しておきながら、漢帝こそわが先祖と宣言しちゃって即位してしまった。即位までの詳しい経緯はよくわからないが、この政治的変更は劉淵の個人的判断に基づくところが大きいと思う。劉宣が冒頓でなく呼韓邪を持ち出したのはとても不思議だが、漢と友好を築いた単于なのだし、たぶん漢にそんなに悪い印象はもっていなかったとは思う。
 が、劉淵の即位宣言を読めばわかるように、呼韓邪か漢帝かという問題は自分たちの来歴の物語にとても重大な変更をもたらすものである。劉曜が冒頓に変更したのだって、自分たちの来歴を確認しながらなされている。要するに、自分たちの歴史をどう語るかという問題。そのとき、劉淵は自分たちの物語の由来を漢皇帝に求めて歴史を語り直したのでは・・・? このあたりの記述も『漢趙記』の観点から編集し直されているんだ!と言われるともう何も言えなくなるんですけどね。
 ともかく、政治的視点もさることながら、移住民はどのように歴史を語り継いでいくのか、という視点からも考える必要があるように思います。



 全体的に長くなってしまったし、専門的な話が多くなってしまった。ただ、史書がいつ、誰が主導して、どのように成り立ったかというところは本当にとても大事なこと。それを調べるのは容易でない。日本語では概説書がないから、研究論文を読んだり、電子文献にない史書をめくったりし、あるいは史書の「書きグセ」を実感するために何度も通読したり・・・。わたしだって、『十六国春秋』や覇史全般に精通しているわけではない。漢・趙関連を多少知っている程度にすぎない。
 そういうこともあるので、なるべく自分が知っている情報は開示してみようと思った次第です。役立つかは知りません。なんというか、うまく言えないんだけど、間違い探しじゃないんですよ、史書を読むっていうのは。キーワードを検索して、ヒットした記述をもってきて自分の意見を正当化するだけで、その文章がどのような史料のどのようなところに書かれてあるのか、ってことは軽視してはいけないんですよ、本来は。それはとても高い要求のようだけど、でも「事実」を語るっていうのはそういうことなんじゃないかな。

 それともう一つ。『十六国春秋』のところで、長々と北魏孝文帝時代の五行改革に言及しておいたが、アレから想像してもらえるように、現在では「五胡十六国時代」と呼んでいるあの時代は、そうでない可能性もありえた。というか、現にそういう見方があった。「もしかしたらこういうふうに語れるのでは・・・」という想像力は大事なことだ。
 わたしは、劉淵たちの歴史が「歴史をどう語るかという歴史」にしか見えなくなってしまい、それ以来、「歴史はどのように語られてきたのか」という観点からこの時代を眺めつつ、「歴史」自体にいかなる意味があるのだろうかと考えるようになりました。わたしにはそういう現れ方をした、そういうことですね。


――注――

[1]唐代の五行の継承に関する認識は、『旧唐書』巻190文苑伝上・王勃伝、『新唐書』巻201文芸伝上・王勃伝、『唐語林』巻5を参照。本記事から脱線するが、せっかくなので『新唐書』の記事を以下に紹介しておく。

武周のとき、李嗣真は周・漢を(直接継承したとしてこれらの王朝を)「二王後」 と見なし、北周・隋を(正しい継承関係から)はずすよう要請し(採用され)たが、(則天武后が退くと)中宗は再び北周・隋を「二王後」に採用した。玄宗の天宝年間、平和が長く続き、奏上される進言の多くは妖しげなものであった。崔昌という者がおり、王勃のかつての学説を採用して、『五行応運暦』を(著して)献上し、周・漢を継承することを説き、北周・隋を(継承することを)やめて閏とみなすよう請うた。右丞相の李林甫もこれに賛同した。・・・こうして玄宗は詔をくだし、唐は漢を直接継承していることにし、隋以前の(魏晋南北朝の)皇帝をしりぞけ、(「二王後」であった北周の後裔)介公・(隋の後裔)酅公を廃し、周・漢を尊んで「二王後」とし、(周・漢と)商を三恪とした。京師に周の武王と漢の高祖の廟を建て、崔昌を太子賛善大夫に任命した・・・。楊国忠が右丞相となると、自身が隋の子孫を称しているので、再び北魏(から北周・隋)を三恪とし、北周・隋を「二王後」とするよう建議した。そのため酅公・介公は以前の爵位を戻され、崔昌は烏雷尉に官を降格された。
 すなわち玄宗の天宝九載(750年)、崔昌『五行応運暦』の提案により、漢→唐の継承が正式に採用され 、漢(火)→魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)とされてきた五行継承も漢(火)→唐(土)に変更されたということである。
 崔昌『五行応運暦』の基となったと言われる王勃の旧説についてであるが、王勃は魏晋以降の王朝は「みな天下を一統していない(咸非一統)(『唐語林』)、「みな正統ではない(咸非正統)(『旧唐書』)、「北周・隋は短命である(周・隋短祚)(『新唐書』)とし、一方「黄帝から漢までが、五行の正しい継承王朝である」とし、唐は「真主」の王朝「周・漢」を継承するべきだと主張しているようである。かかる王勃の理論は「現実的でない(迂闊)」とされ、高宗の受け入れるところとはならなかった(『唐語林』)
 また、玄宗ころの文士に蕭穎士という者がいたが、こちらは梁の皇族の子孫のようで、梁陳革命を否定し、晋(金)→劉宋(水)→南斉(木)→梁(火)→唐(土)という案を提出したという(『新唐書』巻202文芸伝・中・蕭穎士伝)。唐の土徳を梁の火徳から正統化づけたかったわけだね。ただこの説が普及したかどうかはとくに言及がないので不明。さっきの漢→唐説もそうだけど、北朝をすっとばすのは唐にとってはきつかったんじゃないかな。[上に戻る]

[2]なお崔鴻は「五胡」という言葉によってこの時代を特徴づけてはいない。彼は「十六国」の戦国時代と見ているにすぎない。「五胡」の語については、三崎氏の前掲書に詳しいので、そちらを参照のこと。[上に戻る]

[3]梶山氏も指摘しているが、北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』をもとに成立したものであり、『太平御覧』偏覇部の当該項目で唐修『晋書』ではなく『十六国春秋』を引用しているのは、北斉『修文殿御覧』を継承しているからだと考えられる。[上に戻る]

[4]載記に設けられている「史臣曰」と「賛」は不明。[上に戻る]

[5]漢・趙関連で言えば、劉殷(孝友伝)、王延(同前)、王育(忠義伝)、劉敏元(同前)、喬智明(良吏伝)、崔遊(儒林伝)、范隆(同前)、董景道(同前)、卜珝(芸術伝)、台産(同前)、賈渾妻宗氏(列女伝)、劉聡妻劉氏(同前)、王広女(同前)、陝婦人(同前)、靳康女(同前)、劉宣(劉元海載記)、陳元達(劉聡載記)。すべて『十六国春秋』由来とも言いきれないが。『十六国春秋』の佚文にも、こうした臣下たちの伝が多く見えている。またも漢・趙関連になるが、「李景年字延祐、前部人也。長平之戦、劉聡馬中失、幾為晋軍所獲、景年以馬授聡、揮戈前戦。以功封梁鄒侯」(『太平御覧』巻351引)、「江都王延年、年十五喪二親、奉叔父孝聞。子良孫及弟従子、為噉人賊所掠。延年追而請之。賊以良孫帰延年、延年拝請曰、『我以少孤、為叔父所養。此叔父之孤孫也。願以子易之』。賊曰、『君義士也』。免之」(『太平御覧』巻421引)とか。[上に戻る]

[6]公師彧が編纂した国史の書名は伝わっていない。少なくとも唐初の時点で残存していなかったと見られるが、そもそも『漢趙記』編纂時点で吸収されたか、あるいは淘汰されたかどちらかであろう。[上に戻る]

[7]わたしは、劉聡へのあの徹底的にネガティヴな記述は、すべて『漢趙記』に由来するのではないかと疑っている。安田二郎氏か福原啓郎氏かが曹魏の明帝を取り上げたさいに「王朝滅亡の原因を提示するために、暗君の姿が描かれやすいものだ」みたいな言及をしていたが、劉聡への否定的評価も同様の理由でなされたものと感じている。「漢が滅んだのはこいつのせいです」みたいにね。ここらへんは感触に過ぎませんが。[上に戻る]

2014年3月30日日曜日

成漢・李氏の来歴神話

『晋書』巻120李特載記
 李特、字は玄休、巴西宕渠の人で、その祖先は廩君の子孫である。
 昔、武落の鍾離山が崩れたとき、ほらあなが二つできた。一つは丹のように真っ赤で、もう一つは漆のように真っ黒であった。赤穴から出た者は名を務相といい、姓は巴氏であった。黒穴から出た者は合わせて四姓おり、曎氏、樊氏、柏氏、鄭氏と言った。五姓は一緒に出てきて、みな(自分が)神になろうとして競い合った。そこで、みなで一緒に剣をほらあなに(投げ入れて)突き刺し、きっちり突き刺すことができた者を廩君とすることに取り決めした。四姓で突き刺せた者はいなかったが、ただ務相の剣はしっかり刺さった。また、土で船を造り、模様を装飾して川に浮かべることになった際には、こう決められた。「もし船が浮き続けられたら、(その船を造った者を)廩君としよう」。またも、務相の船だけが浮いた。こうして遂に(務相は)廩君を称したのである。(廩君は)造った土船に乗り、歩兵を率いて川を上っていった。夷水にぶつかるとそのまま夷水を下り、塩陽に到着した。塩陽の水神である女神が廩君を引き留めて言った。「ここは魚と塩が獲れますし、土地は広大です。ここに留まって一緒に暮らしましょうよ」。廩君、「君のために廩(米などの食料)の取れる土地を探そうと思う。留まることはできない」。(すると)塩神が夜、廩君に従ってそのまま一晩泊まり、夜が明けて朝になるとたちまち去って飛虫となり、もろもろの神々もみな(塩神の)飛ぶのにつき従ったため、(たくさんの虫で)日光が覆われて昼でも真っ暗であった。廩君は虫(神)を殺そうとしたができず、また上下や東西もわからなくなった。このようであること十日、廩君はそこで、青い糸を塩神に贈ろうとした。「これを身につけてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします」。塩神はこれを受け取って身につけた。すると、廩君は(その地にあった)陽石の上に立ち、胸に青い糸がある者を遠く見て取るや、ひざをついてこれを射て、塩神に命中させた。塩神は死に、一緒になって飛んでいた神々はすべて去り、天はようやく広々と開けて明るくなった。廩君はふたたび土船に乗り、川を下って夷城に着いた。夷城の石の岸壁は湾曲しており、川も湾曲していた。廩君が遠くを眺めると、(行く先は)穴のような様子だったので、歎息して言った。「私はほらあなの中から出てきたのに、いままたかようなあなに入ることになるのか。マジどうしよう」。するとたちまち岸壁が崩落し、幅三丈あまりにもわたり、(石が)積み重なって階段ができあがった。廩君はこれを登っていくと、岸壁の上には四方一丈、長さは五尺の平石があった。廩君はその上で一息つき、くじを引いて(うらないで)計画を立てた。(そうして)みなで石を配置して(積み上げ)、その平石のそばに城を築き、(廩君は)そこに居住した 。その後、種族は増えていった。

 秦が天下を統一すると、(その地を)黔中郡とし、税金の取り立てを軽くして、一口ごと年に銭四十を取り立てた。巴人は「賦」のことを「賨」と呼んでいたため、「賨人」と呼ばれた。

 漢の高祖が漢王となると、賨人を募って三秦地方を平定した。平定後、(賨人は)郷里に還ることを求めた。高祖はその功績を評価して、豊・沛と同様、賦税を免除し、地名を改めて巴郡とした 。その土地には塩・鉄・丹・漆が豊富で、習俗は素早く勇敢、また歌舞を得意としていた。高祖はその舞を好んだので、詔を下して楽府にこれを習わせた。現在の巴渝舞がこれである。

 後漢末、張魯が漢中に割拠し、鬼道で民衆を教え導いていた。賨人は祈祷師を敬い信仰していたので、よく(張魯の元に)行って奉じていた。天下大乱の時代となると、(賨人は)巴西の宕渠から漢中の楊車坂に移住し、旅人から掠奪を行なったので、民衆はこれに頭を悩ませ、楊車巴と呼んでいた。魏の武帝が漢中を陥落させると、李特の祖父は五百余家を率いて帰順した。魏の武帝は将軍に任命して、(李特の祖父らを)略陽に移し、北方では彼らをを巴氐と呼んだ。
 さて、なかなかおもしろい来歴=歴史ですね。何回かに分けて分析を試みるつもりですが、とりあえず今回は問題点の提示ということで。
 まず上掲の物語を分析してみたいと思う。が、上から順にではなく、下から順に、さかのぼる形で検討を行なうことにしよう。

 李特の祖父は後漢末、漢中付近で張魯の勢力下に暮らしていたらしい。のち、曹操が漢中を平定すると関中の略陽へ移住した。略陽は五胡時代に活躍する氐の苻氏や呂氏の本貫でもあり、どうもこの後漢末あたりに非漢族が集中的に移住させられたらしい。李氏が本当に氐なのかどうかはわからないが、氐が集住していた地域に移住させられたということから、彼らも「氐」と見なされたのだとしてもおかしくはない。まあともかく、彼らの直近の由来は巴西から漢中へ、漢中から関中へと移動したということになっている。なお『三国志』巻1武帝紀・建安20年の条に「九月巴七姓夷王朴胡・賨邑侯杜濩挙巴夷・賨民来附」とあり、「巴夷・賨民」が帰順したことが記されている。

 そこからさかのぼると、李氏の祖先は前漢期「巴郡」(郡治は現在の重慶市)に居住していた「賨人」であるらしい。高祖にも協力したことがあるらしいというのはへぇーって感じですね[1]
 さらさらに、秦代では当該地は黔中郡という地であり、優遇措置を受けていたという。彼らは税のことを「賨」と呼んでいたから、彼らの呼称も「賨」に転化したらしい。
 で、その「賨」のさらなる祖先をたずねると廩君にたどりつくんだってさ。


 さて、わたしはこの話を統一的に理解するのにだいぶ苦しんだ。というか、いまでもできていない。
 上の話を整理すると、賨は巴西というか巴一帯に住んでいたらしいじゃん? それに対し黔中郡って漢代以降の行政区分で言うと武陵郡に相当するんですよ[2]? 前漢の巴郡って秦の巴郡をほぼそのまま継承したはずなのであって(『漢書』巻28地理志・上)、黔中郡を改称したものではないなんだが・・・。
 廩君のとこで出てきた地名にかんしては、夷水は武陵郡・南郡あたりだね。武落ってのはよくわからないんだけど・・・『水経注』の記述を参考にすると、夷水の南にあるらしい。で、廩君が出てきた山からは川が流れてて、その川を下って行くと夷水に合流する。そんで夷水を下っていくと長江に合流する、という。なるほど、『晋書』の記述とそんなに矛盾しない。どうやら廩君は武陵郡の土地柄にかんする説話なもようだ。

 なんかうまくごまかされている感じなんだけど、『晋書』のお話って地理的に離れた場所のお話をくっつけているんですよ、これ。巧妙にも。李氏の来歴神話とは、異なる説話をごっちゃにミックスして創り上げた、その意味ででたらめなお話になっているようにしかわたしには感じられません。
 そしてこのことは、『華陽国志』、『後漢書』、『水経注』といった他史料を参照することによっても明らかになるのだが、各史料の比較分析はまた今度としましょう。
 そんでもちろん忘れてはならない問題は・・・この『晋書』の記事はなにに由来し、どういった意図から説話が創られたのか。解答は得られんでも、なにかしらの材料は得たいですな。せっかく調べてみるんだし。



――注――

[1]なお、これを李氏の来歴を箔付けするための創られた説話と見なすのは誤りである。たしかに「賨人」が付き従ったとの記述は『史記』、『漢書』に見えない。明確な記述の初出は陳寿(楊戯)である。「季然名畿、巴西閬中人也。劉璋時為漢昌長。県有賨人、種類剛猛、昔高祖以定関中(『三国志』巻45楊戯伝引『季漢輔臣賛』賛程季然)。同様の記述は『華陽国志』巻1巴志、『後漢書』列伝76南蛮西南夷列伝・板楯蛮条にも見えている。ともかく、『三国志』(『季漢輔臣賛』)から記述が確かめられるのだから、李氏の来歴をアレンジするさいに創られた話ではない。『史記』、『漢書』にはないとはいっても、巴蜀の経済力等を基盤にして高祖が関東を平定したことはよく知られていることだし、史書には記述されなかったが、蜀の学者の間では伝承されていた、という可能性はありうる。それが李氏の来歴説話のさいにも取り入れられたにすぎないのではなかろうか。なお、『風俗通』(『文選』蜀都賦・李善注引)、『華陽国志』によると、高祖に積極的に協力した人物として閬中の范目なる人物が記されている。この范目がみずから賨人を募兵し、高祖に従ったらしい。そういえば、李氏が蜀で嫌われて孤立したさい、彼らを物質的に援助した人に范長生ってのがいるよね。偶然なんだろうか。[上に戻る]

[2]『続漢書』郡国志四・武陵郡の条には次のようにある。「秦昭王置、名黔中郡、高帝五年更名」。[上に戻る]

2014年2月23日日曜日

「言葉にならない」という言葉のありえなさ

文章の弊害としては、叙述が対象の描写に終始すること、心が修飾に集中すること、語の意味が文章全体の趣旨を損なうこと、韻の調整のために文意が変更させられることが挙げられる。たまに文章の上手い者がいても、おおよそこれらの弊害からは逃れられておらず、(そうであっては)うまい絵画のようなもので、とうとう(本当の文章を)得られない。(文患其事尽於形、情急於藻、義牽其旨、韻移其意。雖時有能者、大較多不免此累、政可類工巧図繢、竟無得也。)
――范曄「獄中与諸甥姪書」


荃は魚を捕まえる道具である。魚が得られれば荃のことは忘れてしまう。蹄は兎を捉えるわなである。兎が得られれば蹄のことは忘れてしまう。言は意味を捉えるための手段である。意味がわかれば言は忘れてしまう。言を忘れた人と言葉を交わしてみたいものだ。(荃者所以在魚、得魚而忘荃。蹄者所以在兎、得兎而忘蹄。言者所以在意、得意而忘言。吾安得夫忘言之人而与之言哉。)
――『荘子』外物篇



 永井均さんに『倫理とは何か』という著作があるが、この本でプラトンの道徳・倫理に関する考えを説明された際、プラトンの著作は『パイドロス』から読むのがよいということだったので、さっそく読んでみた。たしかにわかりやすいし、おもしろかった(恋の話とか)。
 『パイドロス』で展開された「恋」の話、そして「Aに恋している者と恋していない者とでは、どちらがAにとって善い行動を取りうるか」という(道徳的な)問題は興味深いが、これとは別に気になる問題も取り上げられていた。言語に関してである。
[ソクラテス] じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は絵画の場合とほんとうによく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それはあたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。それがものを語っている様子は、あたかも実際に何ごとかを考えているかのように思えるかもしれない。だが、もし君がそこで言われている事柄について、何か教えてもらおうと思って質問すると、いつでもふたたびひとつの同じ合図をするだけである。それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、全然不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。(岩波文庫、p. 166)
 書かれた言葉は不完全なのである――それは「もうひとつの種類の言葉」の代理でしかないのだ。「それはどんな言葉のことでしょうか」(パイドロス)。
[ソクラテス] それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつむぐすべを知っているような言葉だ。
[パイドロス] あなたの言われるのは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょうが。
[ソクラテス] まさしくそのとおりだ。(同p. 167)
 つまり「魂に書き込まれた本当の言葉」を表出したものが「書かれた言葉」である。「書かれた言葉」には「本当のもの」や「真実」なぞは込められていない。そこには、「本当のもの」の残像、残骸、「真実らしく見えるもの」しかないのだ。
[ソクラテス] いやしくもかつてものを書いたり、ないしはこれから書こうとするに際して、もし書かれた文字の中に何か高度の確実性と明瞭性が存すると考えてそうするのであれば、その場合にこそ、人が実際に非難を口にするとしないとにかかわらず、書く本人にとって恥ずべきことなのである。(同p. 173)
 書くという営みは所詮、「慰み」でしかない。「『もの忘るるよわいの至りしとき』にそなえて、自分自身のために、また、同じ足跡を追って探求の道を進むすべての人のために、覚え書きをたくわえるということ」・・・・・・

 プラトンは言葉を否定しているのではない。少し俗っぽい表現で、適切ではないかもしれないが、プラトンの言いたいことはこうであろう。すなわち、「書かれた言葉」とは「心の言葉」をかりに表したものにすぎない、と。「書かれた言葉」や「書くこと」にとらわれてはならない、「心」で「言葉」と向き合え、と。

 これらを読んでわたしが思い浮かべたのは、いわゆる「脱構築」(と「エクリチュール」という比喩)であるわけだけども(そういえばデリダはこのようなプラトン的言語観を批判するところからはじまったんだっけ、読んだことはないから知らんけど)、そんなことよりももう一つ思い当たったのが『荘子』である。
 『荘子』斉物論篇には「物は之を謂いて然る(物謂之而然)」という端的な記述がある。「事物に言葉を与えることによって、事物は事物として成立する」ということ。事物に言語を与えることによって、事物は他の事物と分別される(山田史生「「万物斉同の哲学」私論」参照)。つまり、言葉を事物に与えるとは、その事物が他の事物と異なるのだということを把握したことであり、事物の本質を知ることの第一歩と見なすことができる。ところが、ここで『荘子』は言語の省察を深めることによって、自己破壊的な言語観を提出するのである。次の記述をごらんいただこう(郭象注を参考にしても難解なので、自己流の解釈を長く補足しておきました。金谷訳はあまり参考にしてません)。
 いまここに言葉があるとしよう。その言葉が「これ」(とかりに名づけるある対象)と似ているか似ていないかはわからない。ただ、似ていることと似ていないこととは、(ある観点から下された差異の判断なのだから)ともに似たことだと言えるのであり、そうすると「(似ている)これ」は「(似ていない)あれ」とは異ならないものともなる。(要するに、言葉によって事物に差異を設け、あれかこれかの判断を下すことは難しいことである。しかし、同じ言葉で「あれ」とされることもあれば、「これ」とされることもあるとはいえ、言語によって事物に差異を与え、区別を可能にしている点もまた確かである。認識において、言葉を用いて差異を設けた以上、「言葉を用いて差異を立てた」ということも言葉を用いて説明する必要がある。というのも、そうしなかった場合との違いを立てねばならないからである。そして「『言葉を用いて差異を立てた』ということも言葉を用いて説明する」ということも言葉を用いて説明せねばならない。かくして無限後退に陥るわけだが、その行きつく先は言語がまったくない地平であろう。その地平に達すれば、言葉を用いてあまねく言わざるをえないという、あの無限後退について、そもそも言葉を用いて言う必要がなくなる。すると、ものとものとの差異というのも、自然と消滅することになるのだ。結局のところ、ものの本質を認識するためには、言葉を用いて差異を立てる必要がそもそもないのであり、言葉を用いる必要なぞまったくない。)とはいっても、かりに言葉を用いて言ってみることにしよう(、なぜならば、言葉を用いることによって真理の手前まではいくことができるから)。
 はじまりというものが有る。(この世界を「はじまりが有る」と言ったわけだが、そうであるからにはそうではないこと、すなわち)「はじまりが有る」ということがまだはじまっていないことが有る。(同様に、)そもそも「『はじまりが有る』ということがまだはじまっていないことが有る」ということすらはじまっていないことが有る。(しかし、この命題に意味があるだろうか、「はじまり」というものが起こっていない世界の状態を「はじまりがはじまっていない」と言うことができるだろうか、「はじまりが有る」ことがなければ「はじまりが無い」ことに意味をもたせることはできないのではないか。わたしが言いたかったのは「はじまりが根源的に無い世界」であったのだが、それを言葉を用いて説明しようとしてもどうもうまくいかないようだ。そこで観点を変えてみよう。)有るということが有る。(この世界を「有ることが有る」と言ってみたわけだが、そうであるからにはそうではないこと、すなわち)無いということが有る。(同様に、)「無いということが有る」ということが、まだはじまっていないことが有る。(さらに)そもそも「『無いということが有る』ということが、まだはじまっていないことが有る」ということすらはじまっていないことが有る。(「有る」ことではないこと、つまり「無い」ことをわたしは言おうとしてきたのだが、「無いことが有る」こと、あるいは「無いことが有る」ことがまだ起こっていないこと、そしてそれすら起こっていないということは、結局「有る」ということになっているではないか。「根源的な無」というのも、「無が『有る』」ことになってしまう。だがわたしが言いたかった「根源的な無」はそうではないのだ。「根源的な無の世界」にしても、言葉で言うことができないようだ。ならば次のように考えてみよう。なんの起こりもなく、)いきなり無いということが有る。しかし、「無いことが有る」というのは、はたして有ることなのだろうか、無いことなのだろうか、(やはり)わからない。いま、わたしは言葉を言ってきた。しかし、わたしが述べてきたことは、(結局「はじまりが有ること」と「はじまりが無いこと」、「有ること」と「無いこと」の間に差異を設けることはできなかったのだから、)はたしてものを言ったことになるのだろうか、それとも言ったことにはならないのだろうか。 (今且有言於此。不知其与是類乎、其与是不類乎。類与不類、相与為類、則与彼無以異矣。雖然、請嘗言之。有始也者、有未始有始也者、有未始有夫未始有始也者。有有也者、有無也者、有未始有無也者、有未始有夫未始有無也者。俄而有無矣、而未知有無之果孰有孰無也。今我則已有謂矣、而未知吾所謂之其果有謂乎、其果無謂乎。)
 ちょっとわかりにくいところも多々あるが、要するに『荘子』は「言えなさ」を強調するのである。根源的に「はじまりが無い」世界、しかし表象しているその世界はどう言葉を使ったってうまい具合に言うことができない。書いたかどうかなぞそもそも問題ではない。「言葉」それ自体が問題なのである。『荘子』が言いたかったのは、「有る」とか「無い」とか、はたまた「はじまる」とか「終わる」とか、そんな表現がそもそも言えないような世界なのであった。
 「知る」ことが言葉を用いて世界に差異を立てることであるとすれば、『荘子』がかかる「知」の価値を反転させるのは必然である。
「知」とは、「知らない」ところにとどまるのが最上である。(知止其所不知、至矣。)
 ここでの「知らない」とは、事物に差異を設けない渾然とした状態のようなままでたちどまることと考えてよいだろう。そのような世界は「言えない」。『荘子』がここで言っているのは、そのような世界のありかたではなく、ただひたすら「言えなさ」を言っているのであった。郭慶藩の疏に言うではないか、「真理に到達すれば言葉は根源的に無くなる、しかし言葉でなければ探究のしようがない。したがって、言葉にかこつけて真理として言わんとすることを描こうとしたのだ(夫至理雖復無言、而非言無以詮理、故試寄言、彷象其義)」。

 というふうに、『荘子』斉物論篇を読むとして。すると、斉物論篇の「風」の話が妙に気になってくる。
そもそも言葉は風の音とは違う。言葉には意味があるからだ。だが、言葉に意味が確定していなかったら、はたしてそれは言葉と言えるだろうか、それとも言葉でないのだろうか。また、それを殻のなかにいる雛鳥の声とは違うとしてみたところで、区別をつけたことになろうか、あるいはならないだろうか。(夫言非吹也。言者有言、其所言者特未定也、果有言邪、其未曾有言邪。其以為異於鷇音、亦有弁乎、其無弁乎。)
 斉物論篇の冒頭、南郭子綦が子游に対し、「風」のことを大地の息・音だと述べているくだりがある。ただの「風」であっても、南郭子綦はそこに大地の声を聴きとっていた。
 なんでこれに注目するかと言うと、ウィトゲンシュタインの私的言語のお話を思い出すからだ。彼は「自分だけが意味を理解している言語」を「私的言語」とし、その可否を検証するため、「E」という思考実験をおこなう。すなわち、「わたし」はある日、ある特別な感じをもった。知っている言葉では表現しきれない、その感覚を「わたし」は「E」と名づけ、「E」を感じた日には日記に記入する。さて、はたしてこの「E」は私的言語、すなわち「わたしだけが意味を知っている言葉」か否か、というもの。ウィトゲンシュタインは「記号『E』には今のところまだ何の機能もない」と考える。
「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする。――だから、また、それが感覚である必要はあるまいとか、かれが「E」と書くときには何かを感じているのだと言ったところで、何の役にも立たないであろう――しかも、それ以上のことをわれわれは何も言えないであろう。ところが、「感じている」とか「何かを」とかいうことばもまた、共通の言語に属している。――だから、ひとは哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。(『哲学探究』261節。強調原文)
 「『E』は『わたしだけ』しかわからない、特別な感覚なんだ!」という主張を「わたし」(筆者)は理解することができる。それは「特殊な感覚」なのであろう? と。「わたしだけ」を強調したいのであれば、そもそもそれを「感覚」とか「何か」とか、はたまた「それ」とも表現する必要はなかったはずである。「わたしだけにしかわからない」を欲望する主体は、言語を話さなくなる――彼はただ音を発するだけなのだ。
 『荘子』の編纂者もまた、そのような地点に達していたのではないだろうか。「言えなさ」をつきつめていき、音だけを発する地点に。

 さて、えらい過去の人になってしまったが、それじゃあプラトンの言語に対する省察は浅かったということになるのだろうか。プラトンは一方で、ソクラテスにこんなことを語らせている――「始原とは、生じることのないものである。なぜならば、すべて生じるものは、必然的に始原から生じなければならないが、しかし始原そのものは、他の何ものからも生じはしないからである。じじつ、もし始原があるものから生じるとするならば、始原でないものからものが生じるということになるだろう」(p. 67)。とても説得的だ。そして、それゆえにこそ、『荘子』は「始原」に「はじまり」という名称を与えることをしなかったのではないか。与えたその瞬間、「はじまりのはじまり」が必要になるのだから。
 わたしはプラトンをこの一冊しか読んでいないのでなんとも言えないが、しかし永井均先生に従えば、プラトンは『荘子』の方向への探究に気づきながらも、あえてそうせずにおき、言葉とのうまい付き合いというのを考えようとした、「善なる嘘つき」なのかもしれない(『〈魂〉に対する態度』など参照)

 じゃあプラトンはあっさいオッサンということで切り捨ててよいのかというとそれはどうであろうか。現に考えてみるに、わたしたちの多くはプラトン的、いやプラトン以下であろう。『荘子』やウィトゲンシュタインのように、「言えなさ」に病的に取りつかれた者はまずほとんどいないのではないか、多くの人は欲するどころか、考えたことすらないのではないか。それにも関わらず無理にウィトゲンシュタインになる必要なぞない。上掲の『荘子』に示されているであろう、病気になった者の結末が。彼は黙ってしまったではないか、何も言えない、と。社会的で合理的な存在「人間」たらんとするのであれば、プラトン的になるほかないのではないか。つまり、ちゃんとした言葉を習得するということ。
 だが、病気でない人間でも、たまに私的言語を話したくなる場面があることも事実である。例えば――『パイドロス』のテーマ「恋」にかこつけて――意中の人と相愛関係になれたとき。次のように言う人間を想像することができる――「言葉にならないくらい嬉しい!」。事実、彼の嬉しさは言葉にならないほどだったのだ。しかし、悲しいことに、わたしたちの言語には「言葉にならない」ことを言うための言語表現がかねてより存在する――「五月の朔日に、姉なる人、子うみてなくなりぬ。よそのことだに、をさなくよりいみじくあはれと思ひわたるに、ましていはむ方なく、あはれかなしと思ひ歎かる」(『更級日記』)。『荘子』であれば次のように問答したであろう、「言葉が有る、言葉にならないことが有る、『言葉にならないことが有る』という言葉が有る、以下略。かくして言葉にならないことを言葉にすることはできない」。
 まるで言語から逃れられないこの状況、じつは恐ろしい。「言葉にならないくらい嬉しい」の例でも片鱗は感じ取れるであろう。その「嬉しさ」は他の数多ある「嬉しさ」のなかの一つでは決してなく、唯一無比のものだったはずだ。それゆえ、私的言語として語りたくなくのである、「このわたしだけにしかわからないこれ」として。しかし、いざ言ってみたらなんともない、ありふれた「嬉しさ」だった。「ありふれていない」ことを言うためのありふれた言語表現を使ってしまったのが間違いだったのかもしれない。が、これは奇異な表現を使ったとしてもつきまとうことであろう。
 はたして自分の歴史を語ることができるだろうか。言葉にならないくらい難しく見える。


【文献】
プラトン『パイドロス』(岩波文庫、藤沢令夫訳)
郭象(注)郭慶藩(疏)『荘子集釈』(諸子集成版)
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(『全集』8巻、藤本隆志訳)
山田史生「「万物斉同の哲学」私論」(『東方』2013年9月号)
鈴木達明「語り得ぬものへのことば」(『中国文学報』66、2003年)
永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』(ナカニシヤ出版、2012年)

2014年1月25日土曜日

皇后の諡号

 晋朝皇后の諡号を列挙してみる。

楊艶(武帝皇后)→元
楊芷(武帝皇后)→悼
賈南風(恵帝皇后)→無し
羊献容(恵帝皇后)→無し
王媛姫(武帝中才人)→不明?(懐帝の母、即位と同時に追尊)
虞孟母(元帝皇后)→敬
庾文君(明帝皇后)→穆
杜陵陽(成帝皇后)→恭
褚蒜子(康帝皇后)→献
何法倪(穆帝皇后)→章
王穆之(哀帝皇后)→靖
庾道憐(廃帝海西公皇后)→孝(廃帝在世中に死去、廃帝が廃されると海西公夫人に格下げ)
鄭阿春(元帝夫人)→宣(簡文帝の母、即位と同時に追尊)
王簡姫(簡文帝皇后)→順
李陵容(孝武帝皇后)→文
王法慧(孝武帝皇后)→定
陳帰女(孝武帝夫人)→徳(安帝の母、即位と同時に追尊)
王神愛(安帝皇后)→僖
褚霊媛(恭帝皇后)→思


 と、挙げてはみたけど、今回の主旨はこれらの諡号から一般法則を取りだすとかそういうものではない。見てきたように、晋代では皇后への諡号はごく当然のこととして行なわれているが、『史記』、『漢書』をもっている人は確認してみて欲しい。前漢では皇后に諡号を贈っているだろうか? 贈っていませんね。
 じゃあ、皇后に諡号を送るしきたりはいつごろ形成されたのだろうか。この疑問に答えてくれるのが、『後漢書』紀10皇后紀・下に范曄が立てた「論」である。
漢の時代、皇后には諡号がなく、みな夫であった皇帝の諡号を使用して呼称としていた。呂氏は朝政をもっぱらにし、上官氏〔昭帝皇后〕は称制〔皇帝代行のようなもの〕したが、それでも特殊な称号は贈られなかった。後漢になると、明帝は初めて(光武帝皇后の陰皇后に)「光烈」の称号を贈り、その後はみな(皇帝の)諡号に「徳」を加え、賢愚優劣に関わりなく、一律にそのようにした。ゆえに(明徳)馬皇后、(章徳)竇皇后もともに「徳」と称されているのである。その他は側室の子や封建された皇族が帝位を継承した際に、追尊の重要性を理由に、特別に称号を(母へ)贈ったのみであり、(和帝の母の)恭懐梁皇后や(桓帝の母の)孝崇匽皇后らがその例である。初平年間、蔡邕が初めて諡号の規範をさかのぼって正し、(和帝皇后の鄧太后に)「和熹」の諡号を贈り、安帝皇后の閻皇后、順帝皇后の梁皇后より以下は、みなこれに倣って諡号が(追尊されて)加えられたのである。(漢世皇后無諡、皆因帝諡以為称。雖呂氏専政、上官臨称、亦無殊号。中興、明帝始建光烈之称、其後並以徳為配、至於賢愚優劣、混同一貫、故馬竇二后俱称徳焉。其余唯帝之庶母及蕃王承統、以追尊之重、特為其号、如恭懐孝崇之比、是也。初平中、蔡邕始追正蔡邕和熹之諡、其安思順烈以下、皆依而加焉。)
 李賢の注もあるので、参照してみよう。
『蔡邕集』「諡議」に言う、「漢代、母には諡号がありませんでしたが、明帝のときに初めて「光烈」の称号を建てました。これより後、(決まりが)変わって皇帝の諡号に「徳」を加え(た二文字を皇后の諡号とし)、優劣関係なく、一律にこの規則に従っていますが、これは『礼記』の「大いなる行ないは大いなる名号を受け、小さな行ないは小さな名号を受ける」の制度に違っています。『諡法』に「功績があって人々を安んじたことを『熹』と言う」とあります。皇帝と皇后は一体でありますので、(皇后に関する)礼も(皇帝と)同じように処するべきでありましょう。(行ないに関係なく、すべて『徳』にしてしまうのは間違っておりますし、偉大な業績を残した鄧太后を十分に顕彰することができません。皇帝と同じように、行ないに応じて個別の諡号を贈るべきです。)鄧皇太后の諡号は「和熹」とするべきだと考えます」。(蔡邕集諡議曰、「漢世母氏無諡、至于明帝始建光烈之称、是後転因帝号加之以徳、上下優劣、混而為一、違礼大行受大名、小行受小名之制。諡法有功安人曰熹。帝后一体、礼亦宜同。大行皇太后諡宜為和熹」。)
 少しわかりにくい面もあるので、整理しておこう。
 前漢→諡号無し。
 後漢明帝期→母の陰太后(光武帝皇后)が崩ずると、「光烈」を贈る。「光武」から一字を取ったようだ。
 後漢章帝期→母の馬太后(明帝皇后)が崩ずると、「明徳」を贈る。以後、皇帝の諡号+「徳」。
 後漢和帝期→和帝、生母の梁貴人に「恭懐」の諡号を贈る(和帝の父は章帝。和帝は章帝の皇后である竇皇后とのあいだの子ではなかった)。
 後漢桓帝期→桓帝、生母の匽氏に「孝崇」の諡号を贈る(桓帝の父は和帝の孫にあたる皇族。この皇族と側室とのあいだに生れたのが桓帝。桓帝は即位の翌年、皇帝にはなっていない父に「孝崇皇」の諡号を贈っている。したがって、生母の諡号は父の諡号と同じことになる)。
 後漢献帝期→蔡邕、一律にすべて「徳」とするのはおかしいと建議。あわせて和帝皇后の鄧皇后の諡号は「和熹」に改めるべきだと提案(明記はされていないが、これまでの鄧皇后の諡号は「和徳」だったのだろう)。採用されると、鄧皇后のほかにも、安帝皇后の閻皇后、順帝皇后の梁皇后、桓帝皇后の梁皇后にそれぞれ「思」、「烈」、「懿献」がさかのぼって贈られる。

 皇后に諡号を贈るということ自体は、明帝期に始まったが、章帝以後、そのしきたりはかなり規則的であったようだ。皇帝の諡号が決まっちゃうと自動的に皇后の諡号も決まるわけで。皇后には必ず「徳」をつけるっていうのは、漢代の皇帝はすべて「孝」をつけるってしきたりと似ているね。
 これが改められたのはなんと後漢の末。そのときになって、後漢中期の鄧皇后の諡号が改正されたというのだから、いまさら感がすごいっすね。ていうか、なんで明帝皇后や章帝皇后は追尊しなかったんだ・・・?
 ともかく、後漢末に定まった規則によって、
皇帝⇒「孝」+個別の諡号
皇后⇒皇帝の個別諡号+皇后個別の諡号
となったわけですな。構造としてみれば両者とも似通っている。すなわち、前の一字は自動に、規則的に決定されるのにたいし、後ろの一字は当事者の行動や業績次第で決まる。

 ところで、冒頭に掲げた晋朝皇后の諡号一覧には、皇帝の諡号が加えられていない。後漢以後、皇帝の諡号がつくという風習はなくなってしまったのだろうか、というとそれはわからない。
 じつは、『晋書』巻31・32の皇后伝・上下をみると、各皇后の列伝の見出しは「武元楊皇后」とか、「元敬虞皇后」、「明穆庾皇后」、「簡文宣鄭太后」となっている。それをわたしは、意図して「皇帝の諡号を除いた部分」を冒頭に挙げておいたのです。
 そういうことをしておいてこう言うと開き直りのように聞こえるかもしれんですが、魏晋以後の皇后諡号は皇帝の諡号を省略してかまわんのではないかと思うのです。精査したわけでもないですが、ざっと見た感じ、「元后」、「靖后」、「宣太后」などと皇后を呼称しているし、『宋書』を見ても、「有司奏諡宣皇后」、「諡曰昭皇太后」などとあるのを見ると、皇帝の諡号は省略される傾向にあったか、そもそもそのしきたりは廃されていたか、どちらかだと思う。
 まあ、よく考えたらそうですね。前漢のように「衛皇后」とか言ってたら区別つかないから、「孝武衛皇后」としたり、「徳皇后」では誰のことかわからんから「明徳」としていたのであって、皇后に個別でほかの誰ともかぶらない、唯一の諡号が贈られることになったのであれば、その諡号で呼んだほうが手っ取り早いからね。わざわざうるさく、皇帝の諡号をつけなくても伝わるのだ[1]

 しかし、この現象をどのように捉えたらよいだろうか。皇后としての役割への重視、妻かつ母という人に対する感性の変化、等々。そんなところ?
 この点で示唆に富むのが下倉渉先生の論文「漢代の母と子」(『東北大学東洋史論集』8、2001年)である。下倉氏は、工藤元男先生らに代表される雲夢睡虎秦簡研究(=母の身分が子の身分に関係していたという指摘)を基礎にし、漢代(主に前漢)にも「母」を媒介とした血縁関係の広がりが広範に見られたことを指摘している。政治的には、外戚の輔政という協同観念(頼る黄帝と守ろうとする外戚)に象徴されているという[2]
 しかし、六朝期になると、「母の原理」は「父の原理」の後景に退いてしまった。政治的な現象としてみれば、宗室=父系同族が政治理念の根幹に据えられたことに象徴されている[3]
 晋朝にもいちおうマザコンっぽい皇帝はいるが・・・外戚の輔政っぽいのもたびたび起っているしね(庾冰兄弟、褚裒)[4]。しかし、詳しく調べたことがないので、このへんにかんするわたしなりの意見というのはとくにあるわけではない。たんに、下倉氏が重視する漢代の「母の原理」と皇后へ諡号を贈る慣習の確立とはなんらか関係はあるのだろうか、という点で気になるにすぎない。
 このことを考えていくうえで、さしあたり注意しておきたいのは、皇后が媒介して実際の人間関係が結ばれることと、礼制上で皇后の位置づけが上がっていくことは、慎重に区別されるべきであると思われることだ。とりわけ、六朝期に関しては、礼制が全般的に精密化していった時代なだけに、一見すると皇后の待遇はあがっているように見えそうである。が、本質的なところでは、秦代や漢代における重視のしかたとまったく違っている、というのはありえそう。まあ、簡単な問題ではありませんわな、おそらく(というか礼制関係の史料を読むのがめんどくさそう)。


――注――

[1]このように、後漢が皇后への諡号慣習のはじまりと確立の時代であったと見れば、范曄が『後漢書』で「皇后」を立てたのも、わからんでもない気がする。そこまでの意図があったのかどうかは知らないけど。以前、范曄が史書の記述形式を創出したことを論じたことがあるが、ただこの皇后は、沈約にも唐修晋書にも継承されなかった。[上に戻る]

[2]下倉氏は、「母を基点・結節点として異父の兄弟姉妹や母党の族員と血縁的な絆意識を当時の人々は堅持していた」という、このような親族観念を「母の原理」と名づけている。「父の存在が当該期に全く等閑視されていたと言いたいのではない。『母の原理』が『父の原理』と同等に人間関係を形成する上での重要な原理として有効性を発揮していたと主張したいのである。・・・この『母の原理』は、皇帝を中心とする関係にあっても最も機能的な役割を果たしたのである。皇帝は母后の生族を頼みとし、母族も出嫁女性の子である皇帝を守り立てようとした。『母の原理』に基づく皇帝と外戚のこうした相互的な関係が、外戚保翼の慣行を生み出し、更にその当権・擅朝なる事態を招来するに至ったのである」(p. 39)。[上に戻る]

[3]同論文p. 40。もっとも、これはあくまで「一つの見通し」だと述べられている。[上に戻る]

[4]少し長くなるが『晋書』巻77何充伝を引用しておこう。
 「庾冰ら兄弟は成帝の舅〔成帝の母・明穆庾皇后は庾亮らと兄妹〕であることから、王室を輔佐していたが、その権勢は主君にも等しいほどであった。庾氏は、皇帝が代替わりすると外戚は没落してしまうことを不安に思い、ちょうど外敵が攻めてきたことを機会に、康帝、すなわち成帝の同母弟を皇帝に擁立しようと画策した。いつも成帝に対し、『国家に強大な敵が存在する場合、(国家は)優れた君主を必要とするのです』と説き、(暗に退位しろと言っていたが、)成帝はこれを聴きいれた。・・・(何充は反対したが、とうとう庾氏の成帝退位・康帝即位が実現した)・・・。康帝が即位し、朝堂にのぞむと、庾冰と何充がそばにつきそって座った。帝、『朕が帝業を継ぐことになったのは、二人の力である』。何充、『陛下が即位できたのは冰のお力があったからです。臣の意見が採用されていれば、(わたくしどもは)陛下の太平の治世をお目にかかることができなかったでしょう』。康帝は恥じ入った(庾冰兄弟以舅氏輔王室、権侔人主。慮易世之後、戚属転疏、将為外物所攻、謀立康帝、即帝母弟也。每説帝以国有強敵、宜須長君、帝従之。・・・既而康帝立、帝臨軒、冰充侍坐。帝曰、『朕嗣鴻業、二君之力也」。充対曰、『陛下龍飛、臣冰之力也。若如臣議、不覩升平之世」。帝有慚色)」。
 「(康帝の建元年間、)庾翼が北伐を計画していたが、(庾翼の計画に協力する予定の)庾冰は江州に出鎮していた。何充は(京口から)朝廷に入ると、康帝に進言した、『臣冰は舅という重要な人物でございますから、宰相につけるべきです。遠くに行かせてはなりません』。朝議はこれを採用しなかった(庾翼将北伐、庾冰出鎮江州、充入朝、言於帝曰、『臣冰舅氏之重、宜居宰相、不応遠出」。朝議不従)」。
 「康帝の病気が急変して重くなった。庾冰と庾翼は簡文帝を後継者にしようと思っていたが、何充は(康帝の子を)皇太子に立てるよう建議し、奏上して採決され(すぐに皇太子が立てられ)た。康帝が崩御すると、何充は言いつけに従い、すぐに皇太子を皇帝に立てた。これが穆帝である。庾冰、翼はこれをたいへん悔しがった(俄而帝疾篤、冰翼意在簡文帝、而充建議立皇太子、奏可。及帝崩、充奉遺旨、便立太子、是為穆帝。冰翼甚恨之)」。
 穆帝は即位時2歳。褚皇后が皇太后となり、政治を執った。褚太后の父・褚裒はこれを機に中央に召され、重職に就く(たいした活躍はできなかったけど)。升平元年、穆帝が成人すると、同年にはさっそく皇后を立てた。皇后は何氏。ええ、何充の弟の娘です、コレが。しかしまあ、何充は穆帝即位後数年で亡くなっているけどね。[上に戻る]

2014年1月22日水曜日

唐の皇帝ってかっこいいよなあ!?

 唐皇帝の諡号の変遷を調べてみた。

李淵(廟号:太祖)
太武(貞観九年)→神堯(上元元年)→神堯大聖(天宝八載)→神堯大聖大光孝(天宝十三載)

李世民(太宗)
(貞観二十三年)→文武聖(上元元年)→文武大聖(天宝八載)→文武大聖大広孝(天宝十三載)

李治(高宗)
天皇大帝(文明元年)→天皇大聖(天宝八載)→天皇大聖大弘孝(天宝十三載)

李顕(中宗)
孝和(景雲元年)→孝和大聖(天宝八載)→孝和大聖大昭孝(天宝十三載)

李旦(睿宗)
大聖玄真(開元四年)→玄真大聖(天宝八載)→玄真大聖大興孝(天宝十三載)

李隆基(玄宗)
至道大聖大明孝(広徳元年)

李亨(粛宗)
文明武徳大聖大宣孝(宝応二年)

 「○○+大聖+大○+孝」っていう構造になっててわかりやすいね!

 さて、粛宗のあとを継いで即位した代宗の治世中(大暦十四年)、顔真卿がこれら歴代皇帝の諡号について、大胆な提案をしている(『唐会要』巻2帝号雑録)
高祖から粛宗までの七帝の廟号、諡号は文字がとても多く、皇帝であれば必ず「大聖」、皇后であれば必ず「順聖」の称号がついておりますが、もしこれらの称号を(使用して)話をすれば(誰を指しているかわからないので)現代に混乱をひきおこしますし、(また)これらの称号を(このまま)採用するのは過去のしきたりからはずれています。どうか高祖以下の皇帝の諡号は、すべて最初の諡号を採用して決定版といたしてくださいますよう。かつての制度を調べまして、諡号を提案いたします。すなわち、高祖が武皇帝、太宗が文皇帝、高宗が天皇大帝、中宗が孝和皇帝、睿宗が聖真皇帝、玄宗が孝明皇帝、粛宗が孝宣皇帝、廟号はそのままといたします。漢魏および聖朝の故事に準拠されますよう、お願い申し上げます。(高祖至粛宗七聖、廟号諡号、文字繁多、皇帝則悉有大聖之号、皇后則尽有順聖之名。使言之者惑於今、行之者異於古。請高祖以下累聖諡号、悉取初諡為定。謹按旧制、上諡号、高祖為武皇帝、太宗為文皇帝、高宗為天皇大帝、中宗為孝和皇帝、睿宗為聖真皇帝、元宗為孝明皇帝、粛宗為孝宣皇帝、其廟号如故。仍請準漢魏及国朝故事。)
 たしかに、受験生にたいして「唐の皇帝の号を漢字で書け(廟号は不正解とする)」という問題が出たらクレームが出るだろう[1]。教科書なんかでは唐以降の皇帝を廟号で呼ぶのも、諡号がやたら長いという事情が関連しているんでしょうか、あんまり知らんけど(明清にいたっては元号で呼ぶよね)[2]
 顔真卿の建議はどうなったのだろうか。顛末を見てみよう。
そこで尚書省で審議させた。当時、諡号の規則はころころ変わることが多かったので、儒学を規範としていた臣下たちのあいだでは、これを改め(て正し)たいと考えている者たちが以前からいたのであった。(そんなときに)ちょうど顔真卿が上奏してきたので、これでしっかり正すことができるとみなで言い合っていた。しかし尚書兵部侍郎の袁傪、この者は軍事の業績でここまで出世したのであって、古典的な教養なぞまったく備わっていなかったのだが、「山陵の霊廟に奉じた玉製の冊書にはすでに諡号を刻んでしまっています。軽々に改めるべきではありません」と上言した。こうしてとうとう、沙汰止みになったのである。袁傪はなんにもわかっていないやつである。山陵に奉ずる玉冊は、実際には最初の諡号を刻むのであり、後世の追尊があったとしても、冊書の文字は改めないのである。(乃令尚書省議之。時以諡号前後不経、儒学之臣、思改者久矣。会真卿上奏、皆謂必克正焉。而兵部侍郎袁傪、官以兵達、不詳典故、乃上言、陵廟中玉冊既刊矣、不可軽改。遂罷之。傪曾不知陵中玉冊、実紀其初号、後雖追尊、而冊文如故。)
 というわけで、神堯大聖大光孝皇帝は神堯大聖大光孝皇帝のママとされたのでした。ていうか、袁傪以外の人はそのことがわからんかったのかね。だとしたら袁傪を責めるのではなく、袁傪を批判しなかった人たちに問題があるとするべきではないだろうか・・・。



――注――

[1]もちろん、ハイレベルな者なら「この場合の『号』とは諡号なのか、即位前の爵位のことなのか、それとも自称としての号なのか、判然としないので、複数の『号』を有している皇帝に関してはすべて併記する」という回答を記述するにちがいない。[上に戻る]

[2]余談だけど、漢の皇帝は「孝」を諡号に必ずつける規則があったらしいじゃない。孝文皇帝、孝武皇帝、孝宣皇帝、・・・。この規則は、宣帝期に和親を締結して以後の匈奴単于の称号にも取り入れられたらしい。『漢書』巻94匈奴伝・下「匈奴の言葉では『孝』を『若鞮』と言う。呼韓邪よりのち、匈奴は漢と親密になり、漢が皇帝に『孝』とおくりなしているのを知って、倣うことにした。そのため呼韓邪以後の単于はみな『若鞮』を単于の称号に加えているのである(匈奴謂孝曰若鞮。自呼韓邪後、与漢親密、見漢諡帝為孝、慕之、故皆為若鞮)」。東匈奴の単于の順番は次の通り。呼韓邪単于→復株絫若鞮単于→搜諧若鞮単于→車牙若鞮単于→烏珠留若鞮単于→烏累若鞮単于→呼都而尸道皋若鞮単于。なお、復株から呼都而尸までの単于はすべて呼韓邪単于の息子。たしか単于号は生前に名乗るんだったかな、呼韓邪に「若鞮」がついてないのはそういう事情だと思う。呼都而尸単于は新末から更始帝期に匈奴を一時期強盛せしめた単于輿のことですが、単于輿の死後、烏珠留若鞮単于の子の比がいざこざを起こして新単于から独立、呼韓邪を名乗って後漢に帰属していきます(南匈奴の成立)。[上に戻る]