2014年3月30日日曜日

成漢・李氏の来歴神話

『晋書』巻120李特載記
 李特、字は玄休、巴西宕渠の人で、その祖先は廩君の子孫である。
 昔、武落の鍾離山が崩れたとき、ほらあなが二つできた。一つは丹のように真っ赤で、もう一つは漆のように真っ黒であった。赤穴から出た者は名を務相といい、姓は巴氏であった。黒穴から出た者は合わせて四姓おり、曎氏、樊氏、柏氏、鄭氏と言った。五姓は一緒に出てきて、みな(自分が)神になろうとして競い合った。そこで、みなで一緒に剣をほらあなに(投げ入れて)突き刺し、きっちり突き刺すことができた者を廩君とすることに取り決めした。四姓で突き刺せた者はいなかったが、ただ務相の剣はしっかり刺さった。また、土で船を造り、模様を装飾して川に浮かべることになった際には、こう決められた。「もし船が浮き続けられたら、(その船を造った者を)廩君としよう」。またも、務相の船だけが浮いた。こうして遂に(務相は)廩君を称したのである。(廩君は)造った土船に乗り、歩兵を率いて川を上っていった。夷水にぶつかるとそのまま夷水を下り、塩陽に到着した。塩陽の水神である女神が廩君を引き留めて言った。「ここは魚と塩が獲れますし、土地は広大です。ここに留まって一緒に暮らしましょうよ」。廩君、「君のために廩(米などの食料)の取れる土地を探そうと思う。留まることはできない」。(すると)塩神が夜、廩君に従ってそのまま一晩泊まり、夜が明けて朝になるとたちまち去って飛虫となり、もろもろの神々もみな(塩神の)飛ぶのにつき従ったため、(たくさんの虫で)日光が覆われて昼でも真っ暗であった。廩君は虫(神)を殺そうとしたができず、また上下や東西もわからなくなった。このようであること十日、廩君はそこで、青い糸を塩神に贈ろうとした。「これを身につけてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします」。塩神はこれを受け取って身につけた。すると、廩君は(その地にあった)陽石の上に立ち、胸に青い糸がある者を遠く見て取るや、ひざをついてこれを射て、塩神に命中させた。塩神は死に、一緒になって飛んでいた神々はすべて去り、天はようやく広々と開けて明るくなった。廩君はふたたび土船に乗り、川を下って夷城に着いた。夷城の石の岸壁は湾曲しており、川も湾曲していた。廩君が遠くを眺めると、(行く先は)穴のような様子だったので、歎息して言った。「私はほらあなの中から出てきたのに、いままたかようなあなに入ることになるのか。マジどうしよう」。するとたちまち岸壁が崩落し、幅三丈あまりにもわたり、(石が)積み重なって階段ができあがった。廩君はこれを登っていくと、岸壁の上には四方一丈、長さは五尺の平石があった。廩君はその上で一息つき、くじを引いて(うらないで)計画を立てた。(そうして)みなで石を配置して(積み上げ)、その平石のそばに城を築き、(廩君は)そこに居住した 。その後、種族は増えていった。

 秦が天下を統一すると、(その地を)黔中郡とし、税金の取り立てを軽くして、一口ごと年に銭四十を取り立てた。巴人は「賦」のことを「賨」と呼んでいたため、「賨人」と呼ばれた。

 漢の高祖が漢王となると、賨人を募って三秦地方を平定した。平定後、(賨人は)郷里に還ることを求めた。高祖はその功績を評価して、豊・沛と同様、賦税を免除し、地名を改めて巴郡とした 。その土地には塩・鉄・丹・漆が豊富で、習俗は素早く勇敢、また歌舞を得意としていた。高祖はその舞を好んだので、詔を下して楽府にこれを習わせた。現在の巴渝舞がこれである。

 後漢末、張魯が漢中に割拠し、鬼道で民衆を教え導いていた。賨人は祈祷師を敬い信仰していたので、よく(張魯の元に)行って奉じていた。天下大乱の時代となると、(賨人は)巴西の宕渠から漢中の楊車坂に移住し、旅人から掠奪を行なったので、民衆はこれに頭を悩ませ、楊車巴と呼んでいた。魏の武帝が漢中を陥落させると、李特の祖父は五百余家を率いて帰順した。魏の武帝は将軍に任命して、(李特の祖父らを)略陽に移し、北方では彼らをを巴氐と呼んだ。
 さて、なかなかおもしろい来歴=歴史ですね。何回かに分けて分析を試みるつもりですが、とりあえず今回は問題点の提示ということで。
 まず上掲の物語を分析してみたいと思う。が、上から順にではなく、下から順に、さかのぼる形で検討を行なうことにしよう。

 李特の祖父は後漢末、漢中付近で張魯の勢力下に暮らしていたらしい。のち、曹操が漢中を平定すると関中の略陽へ移住した。略陽は五胡時代に活躍する氐の苻氏や呂氏の本貫でもあり、どうもこの後漢末あたりに非漢族が集中的に移住させられたらしい。李氏が本当に氐なのかどうかはわからないが、氐が集住していた地域に移住させられたということから、彼らも「氐」と見なされたのだとしてもおかしくはない。まあともかく、彼らの直近の由来は巴西から漢中へ、漢中から関中へと移動したということになっている。なお『三国志』巻1武帝紀・建安20年の条に「九月巴七姓夷王朴胡・賨邑侯杜濩挙巴夷・賨民来附」とあり、「巴夷・賨民」が帰順したことが記されている。

 そこからさかのぼると、李氏の祖先は前漢期「巴郡」(郡治は現在の重慶市)に居住していた「賨人」であるらしい。高祖にも協力したことがあるらしいというのはへぇーって感じですね[1]
 さらさらに、秦代では当該地は黔中郡という地であり、優遇措置を受けていたという。彼らは税のことを「賨」と呼んでいたから、彼らの呼称も「賨」に転化したらしい。
 で、その「賨」のさらなる祖先をたずねると廩君にたどりつくんだってさ。


 さて、わたしはこの話を統一的に理解するのにだいぶ苦しんだ。というか、いまでもできていない。
 上の話を整理すると、賨は巴西というか巴一帯に住んでいたらしいじゃん? それに対し黔中郡って漢代以降の行政区分で言うと武陵郡に相当するんですよ[2]? 前漢の巴郡って秦の巴郡をほぼそのまま継承したはずなのであって(『漢書』巻28地理志・上)、黔中郡を改称したものではないなんだが・・・。
 廩君のとこで出てきた地名にかんしては、夷水は武陵郡・南郡あたりだね。武落ってのはよくわからないんだけど・・・『水経注』の記述を参考にすると、夷水の南にあるらしい。で、廩君が出てきた山からは川が流れてて、その川を下って行くと夷水に合流する。そんで夷水を下っていくと長江に合流する、という。なるほど、『晋書』の記述とそんなに矛盾しない。どうやら廩君は武陵郡の土地柄にかんする説話なもようだ。

 なんかうまくごまかされている感じなんだけど、『晋書』のお話って地理的に離れた場所のお話をくっつけているんですよ、これ。巧妙にも。李氏の来歴神話とは、異なる説話をごっちゃにミックスして創り上げた、その意味ででたらめなお話になっているようにしかわたしには感じられません。
 そしてこのことは、『華陽国志』、『後漢書』、『水経注』といった他史料を参照することによっても明らかになるのだが、各史料の比較分析はまた今度としましょう。
 そんでもちろん忘れてはならない問題は・・・この『晋書』の記事はなにに由来し、どういった意図から説話が創られたのか。解答は得られんでも、なにかしらの材料は得たいですな。せっかく調べてみるんだし。



――注――

[1]なお、これを李氏の来歴を箔付けするための創られた説話と見なすのは誤りである。たしかに「賨人」が付き従ったとの記述は『史記』、『漢書』に見えない。明確な記述の初出は陳寿(楊戯)である。「季然名畿、巴西閬中人也。劉璋時為漢昌長。県有賨人、種類剛猛、昔高祖以定関中(『三国志』巻45楊戯伝引『季漢輔臣賛』賛程季然)。同様の記述は『華陽国志』巻1巴志、『後漢書』列伝76南蛮西南夷列伝・板楯蛮条にも見えている。ともかく、『三国志』(『季漢輔臣賛』)から記述が確かめられるのだから、李氏の来歴をアレンジするさいに創られた話ではない。『史記』、『漢書』にはないとはいっても、巴蜀の経済力等を基盤にして高祖が関東を平定したことはよく知られていることだし、史書には記述されなかったが、蜀の学者の間では伝承されていた、という可能性はありうる。それが李氏の来歴説話のさいにも取り入れられたにすぎないのではなかろうか。なお、『風俗通』(『文選』蜀都賦・李善注引)、『華陽国志』によると、高祖に積極的に協力した人物として閬中の范目なる人物が記されている。この范目がみずから賨人を募兵し、高祖に従ったらしい。そういえば、李氏が蜀で嫌われて孤立したさい、彼らを物質的に援助した人に范長生ってのがいるよね。偶然なんだろうか。[上に戻る]

[2]『続漢書』郡国志四・武陵郡の条には次のようにある。「秦昭王置、名黔中郡、高帝五年更名」。[上に戻る]

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