2014年6月7日土曜日

書道で死にかけた話

『晋書』巻80王羲之伝附献之伝
謝安甚欽愛之、請為長史。安進号衛将軍、復為長史。太元中、新起太極殿、安使欲献之題榜、以為万代宝、而難言之、試謂曰、「魏時陵雲殿榜未題、而匠者誤釘之、不可下、乃使韋仲将懸橙書之。比訖、鬚鬢尽白、裁余気息。還語子弟、宜絶此法」。献之揣知其旨、正色曰、「仲将、魏之大臣、寧有此事。使其若此、有以知魏徳之不長」。安遂不之逼。

謝安はとても王献之を気に入っていたので、自分の長史にしたいと願い出(て許可され)た。謝安が衛将軍になると、またも王献之は長史となった。太元年間、太極殿を新築したさい、謝安は王献之に扁額の題字を書かせようと思い、大量の財宝を報酬に出そうとしていたが、言い出せずにいた。そこで謝安はやる気をうかがってみるために、ためしに語ってみた、「魏の時代、陵雲殿の扁額に題字がまだ書かれていなかったのに、職人が間違って扁額を釘で打ちつけてしまい、下ろすことができなくなってしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて扁額に題字を書かせた。ほどなく終わったのだが、そのときには韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えの様子。帰宅すると年少の親族たちに、『書道なんてやらんほうがええで・・・死んでまうわ・・・』と語った、という話があったそうだ(ところで太極殿の扁額もまだ題字がないんだけど、もう打ちつけちゃったんだよねー、どうしようかなー、まじで困ったわー)」。王献之は謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「韋誕は魏の大臣ですよ、そんなバカなことをさせるわけないでしょう! もしそんなことをさせたのなら、魏が短命だったのも当然ですね!」こうして謝安は諦めたのだった
 そんな話を聞いて「おれもやるぅーー」って言うやついると思ってんの、謝安氏よ?
 え? ゴンドラの上で悲鳴をあげながら震えた字を書いてる韋誕を想像すると萌えるでしょ?キミがやってくれるともう・・・///って謝安は言ってんの? そこまでオレは察せられなかったわー、まじごめーーん。



 ところで、このお話は『世説新語』および同書劉孝標注引の佚書にも見えている。参考までに引いておきましょう。

『世説新語』方正篇
太極殿始成、王子敬時為謝公送版使王題之、王有不平色、語信云、「可擲著門外」。謝後見王、曰、「題之上殿何若、昔魏朝韋誕諸人亦自為也」。王曰、「魏祚所以不長」。謝以為名言。

太極殿が完成したとき、王献之は謝安の長史であった。謝安は王献之に扁額を送りつけ、題字を書かせようとしたが、王献之は不満な様子。扁額を持って来た謝安の使者に「門外に放っておけや」と言う始末。後日、謝安が王献之に会ったさいに、「扁額を打ちつけたあとならどうかな? かつて魏の韋誕はそうしたらしいぞ」と言うと、「へえ、だから魏は短命だったんですね」と王献之は答えた。名言ですねえ、と謝安は思ったのだった。

宋明帝『文章志』(同書同篇劉注引)
太元中、新宮起、議者欲屈王献之題榜、以為万代宝。謝安与王語次、因及魏時起陵雲閣、忘題榜、乃使韋仲将県橙上題之、比下、須髪尽白、裁余気息、還語子弟云、宜絶楷法。安欲以此風動其意、王解其旨、正色曰、「此奇事、韋仲将魏朝大臣、寧可有使其若此、有以知魏徳之不長」。安知其心、迺不復逼之。

太元年間、新しく宮殿が完成したさい、財宝を報酬にして王献之に扁額の題字を依頼しようと会議で決まった。謝安と王献之が雑談しているさいにこの話題におよび、そこから魏の韋誕の話に話題が移った。(その話は次の通り。)魏の時代、陵雲閣を建てたさいに扁額に題字を書くのを忘れてしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて題字を書かせた。ほどなく(終わって)下ろされると、韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えな様子。帰宅して年少の親族に、「書道なんてやめとけや・・・」と語った。謝安はこの話で王献之をやる気にさせようとしたのだが、王献之はその謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「おかしな話ですね。韋誕は魏の大臣なのにそんなことをさせるんですか。それじゃあ魏も短命に終わりますよね」。謝安は王献之の心中を知ったので、無理強いしなかった。

『世説新語』巧芸篇
韋仲将能書。魏明帝起殿、欲安榜、使仲将登梯題之。既下、頭鬢皓然。因勅児孫勿復学書。

韋誕は書道に長けていた。魏の明帝が宮殿を新築したさい、扁額を設けようと思い、(打ちつけたあとで)韋誕をはしごに登らせて題字を書かせた。はしごから下ろされると、頭髪は真っ白になっていた。韋誕は子や孫に、書道なんて習うんじゃないと命じたそうだ。

衛恒『四体書勢』(同書同篇劉注引)〔晋の衛瓘の子〕
誕善楷書、魏宮観多誕所題。明帝立陵霄閣、誤先釘榜、乃籠盛誕、轆轤長絙引上、使就題之、去地二十五丈、誕甚危懼、乃戒子孫絶此楷法、著之家令。

韋誕は楷書の達人で、魏の宮殿や台観の題字はほぼ韋誕が書いたものだった。明帝が陵霄閣を建てたさい、間違って扁額を先に打ちつけてしまったので、韋誕をかごに乗せ、滑車と長めの綱を使って吊るし上げて題字を書かせた。その高さ、地面から二十五丈(約60メートル)。韋誕は恐ろしくたまらなかった。そこで子や孫には書道なんて習うもんじゃないと戒め、家令にも記したのである。
 けっこう書物によって記述が違う。『晋書』はいいとこどりしてきれいにまとめた感じ。たいてい、いいとこだけ混ぜ合わせると駄作ができるもんなんですが。そもそも佚文には残っていない先行晋史から唐の史官が引っ張ってきた可能性もかなり高いけどね。

 てか60メートルも吊るされたのかよ・・・! 家令に記録して戒めたという『四体書勢』の記述はなまなましいね・・・

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