『晋書』巻48段灼伝より、西晋の段灼が晩年に武帝に奉じたという上表を取り上げます。
時期はおそらく武帝の天下統一から間もないころだと思われれる。
どうしても死ぬ前に、武帝に
四つ目に、法令や賞罰は信頼が肝要でございます。・・・わたくしが以前に西郡太守であったころ、(涼)州に己未詔書が下されました。詔書には「(このたびの遠征は)羌胡にとって路程が遠く(嫌がる者が多いだろうから)、行きたいという者だけを募集せよ。強制してはならぬ」とございました。わたくしは詔書の命令を承ると、恩賞を明示したうえで公募し、応じて来た者の人名を箇条書きにして征西将軍に申告しました。そもそも晋人であれば、わたくしみずからが壮健な者を選抜して、法に則って徴発することができますが、羌胡についてはというと、恩賞が出なければ(ここから南の)金城や河西まで行こうとする者はおりません。(そのため)以前より、軍を起こして黄河を渡るたびに必ず(羌胡のあいだで)変事が起こったのです。(そこで)もとの涼州刺史の郭綏はなるべく正直な者を兵に加え、励ましをかけて(精神的距離を埋め)、必ず大きな褒賞を与えると約束したのでした。かくして募集に応じた者たちは、この恩に感激し、かつ褒賞を得ようとつとめたので、ついに天下第一の功績をあげたのです。現在の州郡の都督や将軍はすべて(このときに)封爵を与えられ、羌胡のつわものたちは王や侯になり、みなが叙勲を得たのでした。(其四曰、法令賞罰、莫大乎信。・・・臣前為西郡太守、被州所下己未詔書、「羌胡道遠、其但募取楽行、不楽勿強」。臣被詔書、輒宣恩広募、示以賞信、所得人名即條言征西。其晋人自可差簡丁強、如法調取、至於羌胡、非恩意告諭、則無欲度金城河西者也。自往毎興軍渡河、未曾有変、故刺史郭綏勧帥有方、深加奨励、要許重報。是以所募感恩利賞、遂立績効、功在第一。今州郡督将、並已受封、羌胡健児、或王或侯、不蒙論敘也。)さて、ここで述べられている経験談をもうちょい掘り下げてみよう。
まず地理関係から。西郡は涼州の属郡。なので文中の「州」は涼州を指すだろう。
わたしのもてるすべての技術を用いて表現すると・・・
・張掖
・西郡
・武威 【涼州】
・西平 ↑
―――――――――――――黄河
・金城 ↓
【秦州】
すまん、こんな感じで許してくれ頼む
だからその、西郡は涼州のうちでは東側で、金城は涼州の南の境界のそば、黄河のすぐ南にあるのです。
つづいて人名。
郭綏はほかの箇所に見えず。まあいいでしょう。
見るからに征西将軍のほうが大事でしょ。こいつは誰を指しているのか。
まず挙げたくなるのは鄧艾。というのも、この段灼、以前は鄧艾の部下で、けっこう彼に心酔しているらしいのである。引用した上表とは別の、彼の提出した上書には「故征西」として鄧艾のことも言及されているし、鄧艾の可能性を考えたくなるのだが・・・鄧艾ではないと思う。
いやなんというか、魏の時代の話をしている感じではないと思うんだよね。冒頭で説明したけど、これ晋の武帝に奉じた文章だから。「己未詔書」ってのは、魏の時代に下された詔書ってのではなくて、「陛下はこういう詔書を下されましたよね」って意味なんじゃないか。なお「己未」の干支は詔書が下された日付を指しています、年月ではありません、というふうにわたしは教わっています。
それと文中の「晋人」。原本ママの表現だとすれば、「一般人民だったらこうしたんですけど、非漢族はできませんでした」と言っているわけだから、己未詔書の指令が下されたのは一般人民が「晋人」と呼称される時代=晋の時代と考えるべきではないだろうか。
というような諸々の理由につき、わたしは「征西」を鄧艾と解釈しません。晋の武帝治下における征西将軍だと思います。
じゃあ該当者には誰がいるのか。一人おるわけです。そいつは司馬懿の息子のうちでも秀才と評判の司馬駿。武帝紀によると、彼は咸寧2年10月に鎮西大将軍から征西大将軍へと昇格している。
もうちょい詳しい経歴を『晋書』巻38宣五王伝・扶風王駿伝から一瞥しておこう。
汝陰王の駿は鎮西大将軍、使持節、都督雍凉等州諸軍事に異動し、汝南王の亮と交代して関中に出鎮した。・・・咸寧年間のはじめ、羌の樹機能らが反乱を起こしたので、駿は征伐軍を派遣し、3000あまりの首級を挙げた。征西大将軍、開府儀同三司に昇進し、持節と都督は以前のままとされた。また、駿に詔が下り、7000人の軍隊を派遣し、涼州の屯田兵と交代させるよう命じられた。樹機能や侯弾勃らは交代以前に屯田兵を拉致しようと目論んだが、駿は(それを察したので)平虜護軍の文俶に涼州・秦州・雍州の軍を統率させ、各所の屯田地に進ませて樹機能らを威圧させた。すると樹機能は手勢の20部(の首長?)と侯弾勃を(文俶のもとへ)つかわし、(彼らに自分を)後ろ手で縛らせ、降服した。(首長らは)人質となる子弟を入れた。(遷鎮西大将軍、使持節、都督雍涼等州諸軍事、代汝南王亮鎮関中。・・・咸寧初、羌虜樹機能等叛、遣衆討之、斬三千余級。進位征西大将軍、開府辟召儀同三司、持節都督如故。又詔駿遣七千人代涼州守兵。樹機能、侯弾勃等欲先劫佃兵、駿命平虜護軍文俶督涼秦雍諸軍各進屯以威之。機能乃遣所領二十部及弾勃面縛軍門、各遣入質子。)ちょうどぴったりな感じのことが書いてあるね! すなわち、文鴦が司馬駿の命令を受け、涼州や秦州などの兵士を率いて樹機能を討ちにいったというのだ。
ただし、駿伝では直接的戦闘があったとは記されていない。これでは「功績第一!」という段灼のアレをどう捉えたらよいのか。見栄? と言っても、相手は皇帝なわけで、世辞にしたってバレバレなウソをつくのもねー。
ここの事柄について、武帝紀を見てみると、
咸寧3年3月、平虜護軍の文俶が樹機能らを征伐し、すべて撃破した。(三月、平虜護軍文淑討叛虜樹機能等、並破之。)とあって、なんかいかにも「戦闘がありました」みたいな記述になっているので、本当には戦闘があったのかもしれない。といっても、これだけではちょっと苦しいね。
とりあえず、征西将軍指揮下の軍事行動であることと涼州軍が参加していたことが明記されているので、有力な候補として留めておこう。
別の軍事行動としては、これ以後におこなわれた二度のものが挙げられる。
まず咸寧5年の軍事行動。
この年の正月、涼州刺史の楊欣が禿髪樹機能に殺害されると、武帝は征伐隊として馬隆を中央から派遣、馬隆は12月に樹機能を斬っている。
段灼が言っているのはこのときの戦闘のことではないか、とも思えるかもしれないが、史料的にそれを言うのはかなり難しい。
一つに、さきに説明したように、このときは涼州刺史が亡くなっている。もっとも、没して間もなくに武帝が後任を任命したり、涼州の郡守が臨時代行(「守」)した可能性も考えられるので、刺史はそれほど大きな障害にはならない。
むしろ問題はこのときの軍編成である。『晋書』巻57馬隆伝によると、このとき馬隆が率いたのは都で募集した3500人。そいつを率いて西行してゆき、樹機能を平定したという。馬隆伝にはそれだけしか書いておらず、このときに関西の都督の司馬駿がどの程度介入・援助したのかはまったく記述がない。それは駿伝にしたって同じ。
それにこの戦闘の功績第一は馬隆および彼の直接指揮下の軍というのが当時の共通認識だろうから、そこで段灼が「涼州軍が一番!」ってやるのはさすがにいろいろとまずい。
こんな大事な戦闘に駿が関与していないとは考えがたいのだが、記述がない以上、どうにも手の出しようがない。
というわけなので、否定することもできないのだが、積極的な根拠もないので、有力候補とはいいがたい。
次に挙げられるのは太康年間はじめになされた馬隆の征討なんだが・・・これは挙げてはみたけどかなり可能性は低い。
馬隆伝によると、当時、西平太守であった馬隆が「南虜」を討ったというのだが・・・地理的に金城は関係なさそうだし、馬隆の郡守としての軍事行動だろうから、これに西郡太守の段灼が関わっていた可能性はかなり低い。とりあえず挙げるだけ挙げてみただけ・・・。
これら以外にも記録に残っていない軍事行動があるだろうけども、残っている情報で考えるならば、司馬駿伝記載の咸寧2年のものが該当する可能性が高い、と言えるだろう。
仮にそうだとすれば、なかなか興味深い事例じゃないですか。夷には夷をもって制すんでしょうか? それとも兵士が不足していたとか? 司馬駿伝の記事によれば、咸寧2年段階では涼州には守備兵=屯田兵が常駐していたみたいだけど、多くの人員はそれに充てられていて緊急編成軍には組み込めなかったとか?
いずれにせよ、段灼の上表が樹機能のときのことを語っているのならば、当時の朝廷がどういう対策で臨もうとしていたかをうかがい知れる貴重な史料になりますね。
ただ、私が一番気になっている問題はこの記事が指している事件のことじゃないんです。
「羌胡」の語句なんです。これ、字義通りに受け取っていいんでしょうか?
すなわち、羌と胡(匈奴)って言うけど、あのあたりは鮮卑もソグド人も・・・って、そんな細かいことはどうでもいいんです。
そんなことではなくて、「羌胡」ってのは実は「無籍者」(籍に登録していない者)を指しているんじゃない?と解釈してみたいんだということ。
段灼の「羌胡」に言及している箇所、どうも論点がおかしいように感じないだろうか?
段灼は、晋人なら法に従って徴発できんだけど、羌胡は金城まで行きたがらないから面倒なんだよなー、と言っている。
ちょっと待ってくれ。「行きたがらないから徴発できない」のならば、それは晋人にだって適用されるぞ。
晋人は法の点から話をしていたのに、羌胡になると感情の点から問題が述べられている。論点がずらされていないか?
いや、これはずれていないのだ、と解することも可能である。すなわち、「晋人の徴発は法的正当性があるので、有無を言わさず連れていけるが、羌胡については徴発に法的正当性がないので、無理に連れていこうとすると大きな反感を買ってしまう、だから詔書で合法性を確保しつつ、恩賞で釣るしかない」。こういうことを実は言っているんじゃないか。
仮にこのように考えられるとして、さらにつっこんで考察していけば、晋人の兵役の合法性を保障しているのは、彼らが兵役・徭役負担者名簿に登録されていること(「傅籍」という)に存すると思われるのであり、だとすれば、兵役の合法/非法の境界は晋人/非漢族の区別というより、官庁保管の名簿に登録されているか/いないかの区分に合致しているのではないか。
ということを思い立ち、非漢族の税役体系を調べつつ、一般編戸の税役徴収における理念的部分を勉強していましたが・・・
断念しました・・・。
まあ、、、無理くりに言おうとすれば言えなくはなさそうなんだけど、調べれば調べるほど、非漢族の税役はよくわからんのよね。
私は当初、次のようなことを考えていました。
一般的な兵役は一定年齢・身長に達した男子が登録される特定の名簿から選抜されるのであり、男子が一定年齢に達したかどうかを把握するためにはその男子があらかじめ官庁保管の名簿(「戸籍」あるいは「名籍」)に登録されている必要がある、また一つの戸から一人を徴兵する制度であったと考えられる、要するに兵役は彼が編戸であること(戸籍に登録されていること)を前提に構築されている、
これに対し非漢族は、布やその他の貢納物の納付が地域ごと便宜的に定められており、兵役や徭役に相当するものはこれらの貢納の代替(「義従」)としておこなわれていた可能性がある、またこれらの納付に際し、一般的には首長が人数分をまとめて納付していたと思われる、官庁が名籍を作成・保管していた可能性は否定できないが、いわゆる「戸籍」は存在しなかったと考えるべきである、というのも、「戸」が形成されれば爵が賜与され、耕作地と家屋が支給され、里の責任者に自己申告して官庁に報告し、県の役人も数年に一度顔を確認しながら戸籍記録を改めたり等々、「戸」を形成するというのは思った以上に面倒な手続きやら何やらがついてくるのであり、それらを非漢族にまで一々やっていたとは思えないし、爵の賜与対象とも考えられない(段灼の上表にある「或王或侯」とは封地が実際的にも観念的にも存在しない称号としての意味あいしかない)、以上より、そもそも編戸ではない非漢族には編戸と同様の兵役負担が存在せず、非漢族と地方官庁があらかじめ合意を得ている場合を除いて、兵役を負担する義務はない、そのため臨時的に合法性を確保したり、代替の恩賞措置を取るなどの手続きが必要となる。
以上のような仮説を立てていたんですが、まあこれがなかなか厄介というか面倒というか・・・
編戸については山田勝芳氏や鷲尾祐子氏などを参照しているんで、私の誤読でない限りはそんなに外れていないと思うんですが、いかんせん、そもそもの知識が乏しいだけに、非漢族のケースをどう考えたらいいのかわからんのよね。
調べれば調べるほどよくわからん事例があるし・・・。
例えば、張家山漢簡の「奏讞書」に徴兵されたけども途中で逃亡した蛮の男子の案件が記されているけど、そのときの蛮夷の言い分「首長が特殊な待遇を受けており、毎年銭を納めることで租税と労役の税分を負担していたものだから、兵役に関しても免除されていると思っていた」、官吏の言い分「銭の納付で税と徭役を負担していることに定まっているけど、蛮夷律に徴兵するなって書いてないし、違反とは言えないね」、というその理屈は通じていいのかって感じなんだが(詳しくは『宋書』百官志訳注(6)の注[2])、それはともかくも、この事例は、非漢族はやっぱり税役の負担の仕方が特殊であり、それはそもそも非漢族が編戸ではない=戸を形成していないからなんだろうという上記の仮説を傍証しているかのように見えるが、だが一方、徴兵が可能であったということは兵役負担者を記録する特定名簿に記録されていたということでもあるのではないだろうか、そうなるとどういうことなんだ、非漢族も登録されていたのか? これ以上はもう考えたくありません。
それに、魏晋だとあの「兵戸」っていう特殊な兵役制度もあるじゃん? いや兵戸があったとしても臨時兵役や徭役はあったと思うんだけど(もっとも、後漢は銭納での代替が一般的だったらしいが)、そもそも同時に税の徴収単位も変わったとかなんとか言うじゃない(戸調式ってやつ)、あんまり学んでこなかったとこだから詳しくは知らんのだけど。
だからまあ、気づいちゃったよね、「あ、これ手に負えないな」って。
この段灼の上表、樹機能の乱の知られざる裏側かもしれないという以上に、当時の徴兵の仕方をうかがわせてくれる史料としておもしろかったし、この簡単な記述には深い法的背景があるんじゃないかと予感させてくれたが、あまりにも深かったよ、闇が。
でもやっぱり、「羌胡」っていうのは無籍っていうかゴロツキっていうか、そういう情景しかイメージできないんだよなあ・・・。
もちろん非漢族にも告示はしたんだけうけどさ、ってかこの地域って後漢ころは「義従胡」がたくさんいたらしいからプロフェッショナルやつが多かったんだろうけどさ、そこらをぶらついてる、明らかに役所の登録から漏れているだろう流人に「おいそこの、ちょっとやってこうぜ」みたいな、そんなスカウトをやって集める――ってのはさすがに手間がかかって人件費がやばいことになるからやんないだろうけど、そういう人たちも全然応募して問題なかったと思うし、実際告示の板なんかにも「腕に自身のある羌胡求む」みたいな限定はしなかったっしょ、たぶん。
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