2014年2月23日日曜日

「言葉にならない」という言葉のありえなさ

文章の弊害としては、叙述が対象の描写に終始すること、心が修飾に集中すること、語の意味が文章全体の趣旨を損なうこと、韻の調整のために文意が変更させられることが挙げられる。たまに文章の上手い者がいても、おおよそこれらの弊害からは逃れられておらず、(そうであっては)うまい絵画のようなもので、とうとう(本当の文章を)得られない。(文患其事尽於形、情急於藻、義牽其旨、韻移其意。雖時有能者、大較多不免此累、政可類工巧図繢、竟無得也。)
――范曄「獄中与諸甥姪書」


荃は魚を捕まえる道具である。魚が得られれば荃のことは忘れてしまう。蹄は兎を捉えるわなである。兎が得られれば蹄のことは忘れてしまう。言は意味を捉えるための手段である。意味がわかれば言は忘れてしまう。言を忘れた人と言葉を交わしてみたいものだ。(荃者所以在魚、得魚而忘荃。蹄者所以在兎、得兎而忘蹄。言者所以在意、得意而忘言。吾安得夫忘言之人而与之言哉。)
――『荘子』外物篇



 永井均さんに『倫理とは何か』という著作があるが、この本でプラトンの道徳・倫理に関する考えを説明された際、プラトンの著作は『パイドロス』から読むのがよいということだったので、さっそく読んでみた。たしかにわかりやすいし、おもしろかった(恋の話とか)。
 『パイドロス』で展開された「恋」の話、そして「Aに恋している者と恋していない者とでは、どちらがAにとって善い行動を取りうるか」という(道徳的な)問題は興味深いが、これとは別に気になる問題も取り上げられていた。言語に関してである。
[ソクラテス] じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は絵画の場合とほんとうによく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それはあたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。それがものを語っている様子は、あたかも実際に何ごとかを考えているかのように思えるかもしれない。だが、もし君がそこで言われている事柄について、何か教えてもらおうと思って質問すると、いつでもふたたびひとつの同じ合図をするだけである。それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、全然不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。(岩波文庫、p. 166)
 書かれた言葉は不完全なのである――それは「もうひとつの種類の言葉」の代理でしかないのだ。「それはどんな言葉のことでしょうか」(パイドロス)。
[ソクラテス] それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつむぐすべを知っているような言葉だ。
[パイドロス] あなたの言われるのは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょうが。
[ソクラテス] まさしくそのとおりだ。(同p. 167)
 つまり「魂に書き込まれた本当の言葉」を表出したものが「書かれた言葉」である。「書かれた言葉」には「本当のもの」や「真実」なぞは込められていない。そこには、「本当のもの」の残像、残骸、「真実らしく見えるもの」しかないのだ。
[ソクラテス] いやしくもかつてものを書いたり、ないしはこれから書こうとするに際して、もし書かれた文字の中に何か高度の確実性と明瞭性が存すると考えてそうするのであれば、その場合にこそ、人が実際に非難を口にするとしないとにかかわらず、書く本人にとって恥ずべきことなのである。(同p. 173)
 書くという営みは所詮、「慰み」でしかない。「『もの忘るるよわいの至りしとき』にそなえて、自分自身のために、また、同じ足跡を追って探求の道を進むすべての人のために、覚え書きをたくわえるということ」・・・・・・

 プラトンは言葉を否定しているのではない。少し俗っぽい表現で、適切ではないかもしれないが、プラトンの言いたいことはこうであろう。すなわち、「書かれた言葉」とは「心の言葉」をかりに表したものにすぎない、と。「書かれた言葉」や「書くこと」にとらわれてはならない、「心」で「言葉」と向き合え、と。

 これらを読んでわたしが思い浮かべたのは、いわゆる「脱構築」(と「エクリチュール」という比喩)であるわけだけども(そういえばデリダはこのようなプラトン的言語観を批判するところからはじまったんだっけ、読んだことはないから知らんけど)、そんなことよりももう一つ思い当たったのが『荘子』である。
 『荘子』斉物論篇には「物は之を謂いて然る(物謂之而然)」という端的な記述がある。「事物に言葉を与えることによって、事物は事物として成立する」ということ。事物に言語を与えることによって、事物は他の事物と分別される(山田史生「「万物斉同の哲学」私論」参照)。つまり、言葉を事物に与えるとは、その事物が他の事物と異なるのだということを把握したことであり、事物の本質を知ることの第一歩と見なすことができる。ところが、ここで『荘子』は言語の省察を深めることによって、自己破壊的な言語観を提出するのである。次の記述をごらんいただこう(郭象注を参考にしても難解なので、自己流の解釈を長く補足しておきました。金谷訳はあまり参考にしてません)。
 いまここに言葉があるとしよう。その言葉が「これ」(とかりに名づけるある対象)と似ているか似ていないかはわからない。ただ、似ていることと似ていないこととは、(ある観点から下された差異の判断なのだから)ともに似たことだと言えるのであり、そうすると「(似ている)これ」は「(似ていない)あれ」とは異ならないものともなる。(要するに、言葉によって事物に差異を設け、あれかこれかの判断を下すことは難しいことである。しかし、同じ言葉で「あれ」とされることもあれば、「これ」とされることもあるとはいえ、言語によって事物に差異を与え、区別を可能にしている点もまた確かである。認識において、言葉を用いて差異を設けた以上、「言葉を用いて差異を立てた」ということも言葉を用いて説明する必要がある。というのも、そうしなかった場合との違いを立てねばならないからである。そして「『言葉を用いて差異を立てた』ということも言葉を用いて説明する」ということも言葉を用いて説明せねばならない。かくして無限後退に陥るわけだが、その行きつく先は言語がまったくない地平であろう。その地平に達すれば、言葉を用いてあまねく言わざるをえないという、あの無限後退について、そもそも言葉を用いて言う必要がなくなる。すると、ものとものとの差異というのも、自然と消滅することになるのだ。結局のところ、ものの本質を認識するためには、言葉を用いて差異を立てる必要がそもそもないのであり、言葉を用いる必要なぞまったくない。)とはいっても、かりに言葉を用いて言ってみることにしよう(、なぜならば、言葉を用いることによって真理の手前まではいくことができるから)。
 はじまりというものが有る。(この世界を「はじまりが有る」と言ったわけだが、そうであるからにはそうではないこと、すなわち)「はじまりが有る」ということがまだはじまっていないことが有る。(同様に、)そもそも「『はじまりが有る』ということがまだはじまっていないことが有る」ということすらはじまっていないことが有る。(しかし、この命題に意味があるだろうか、「はじまり」というものが起こっていない世界の状態を「はじまりがはじまっていない」と言うことができるだろうか、「はじまりが有る」ことがなければ「はじまりが無い」ことに意味をもたせることはできないのではないか。わたしが言いたかったのは「はじまりが根源的に無い世界」であったのだが、それを言葉を用いて説明しようとしてもどうもうまくいかないようだ。そこで観点を変えてみよう。)有るということが有る。(この世界を「有ることが有る」と言ってみたわけだが、そうであるからにはそうではないこと、すなわち)無いということが有る。(同様に、)「無いということが有る」ということが、まだはじまっていないことが有る。(さらに)そもそも「『無いということが有る』ということが、まだはじまっていないことが有る」ということすらはじまっていないことが有る。(「有る」ことではないこと、つまり「無い」ことをわたしは言おうとしてきたのだが、「無いことが有る」こと、あるいは「無いことが有る」ことがまだ起こっていないこと、そしてそれすら起こっていないということは、結局「有る」ということになっているではないか。「根源的な無」というのも、「無が『有る』」ことになってしまう。だがわたしが言いたかった「根源的な無」はそうではないのだ。「根源的な無の世界」にしても、言葉で言うことができないようだ。ならば次のように考えてみよう。なんの起こりもなく、)いきなり無いということが有る。しかし、「無いことが有る」というのは、はたして有ることなのだろうか、無いことなのだろうか、(やはり)わからない。いま、わたしは言葉を言ってきた。しかし、わたしが述べてきたことは、(結局「はじまりが有ること」と「はじまりが無いこと」、「有ること」と「無いこと」の間に差異を設けることはできなかったのだから、)はたしてものを言ったことになるのだろうか、それとも言ったことにはならないのだろうか。 (今且有言於此。不知其与是類乎、其与是不類乎。類与不類、相与為類、則与彼無以異矣。雖然、請嘗言之。有始也者、有未始有始也者、有未始有夫未始有始也者。有有也者、有無也者、有未始有無也者、有未始有夫未始有無也者。俄而有無矣、而未知有無之果孰有孰無也。今我則已有謂矣、而未知吾所謂之其果有謂乎、其果無謂乎。)
 ちょっとわかりにくいところも多々あるが、要するに『荘子』は「言えなさ」を強調するのである。根源的に「はじまりが無い」世界、しかし表象しているその世界はどう言葉を使ったってうまい具合に言うことができない。書いたかどうかなぞそもそも問題ではない。「言葉」それ自体が問題なのである。『荘子』が言いたかったのは、「有る」とか「無い」とか、はたまた「はじまる」とか「終わる」とか、そんな表現がそもそも言えないような世界なのであった。
 「知る」ことが言葉を用いて世界に差異を立てることであるとすれば、『荘子』がかかる「知」の価値を反転させるのは必然である。
「知」とは、「知らない」ところにとどまるのが最上である。(知止其所不知、至矣。)
 ここでの「知らない」とは、事物に差異を設けない渾然とした状態のようなままでたちどまることと考えてよいだろう。そのような世界は「言えない」。『荘子』がここで言っているのは、そのような世界のありかたではなく、ただひたすら「言えなさ」を言っているのであった。郭慶藩の疏に言うではないか、「真理に到達すれば言葉は根源的に無くなる、しかし言葉でなければ探究のしようがない。したがって、言葉にかこつけて真理として言わんとすることを描こうとしたのだ(夫至理雖復無言、而非言無以詮理、故試寄言、彷象其義)」。

 というふうに、『荘子』斉物論篇を読むとして。すると、斉物論篇の「風」の話が妙に気になってくる。
そもそも言葉は風の音とは違う。言葉には意味があるからだ。だが、言葉に意味が確定していなかったら、はたしてそれは言葉と言えるだろうか、それとも言葉でないのだろうか。また、それを殻のなかにいる雛鳥の声とは違うとしてみたところで、区別をつけたことになろうか、あるいはならないだろうか。(夫言非吹也。言者有言、其所言者特未定也、果有言邪、其未曾有言邪。其以為異於鷇音、亦有弁乎、其無弁乎。)
 斉物論篇の冒頭、南郭子綦が子游に対し、「風」のことを大地の息・音だと述べているくだりがある。ただの「風」であっても、南郭子綦はそこに大地の声を聴きとっていた。
 なんでこれに注目するかと言うと、ウィトゲンシュタインの私的言語のお話を思い出すからだ。彼は「自分だけが意味を理解している言語」を「私的言語」とし、その可否を検証するため、「E」という思考実験をおこなう。すなわち、「わたし」はある日、ある特別な感じをもった。知っている言葉では表現しきれない、その感覚を「わたし」は「E」と名づけ、「E」を感じた日には日記に記入する。さて、はたしてこの「E」は私的言語、すなわち「わたしだけが意味を知っている言葉」か否か、というもの。ウィトゲンシュタインは「記号『E』には今のところまだ何の機能もない」と考える。
「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どのような根拠があるのか。つまり、「感覚」というのは、われわれに共通の言語に含まれる語であって、わたくしだけに理解される言語の語ではない。それゆえ、この語の慣用は、すべての人が了解するような正当化を必要とする。――だから、また、それが感覚である必要はあるまいとか、かれが「E」と書くときには何かを感じているのだと言ったところで、何の役にも立たないであろう――しかも、それ以上のことをわれわれは何も言えないであろう。ところが、「感じている」とか「何かを」とかいうことばもまた、共通の言語に属している。――だから、ひとは哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。(『哲学探究』261節。強調原文)
 「『E』は『わたしだけ』しかわからない、特別な感覚なんだ!」という主張を「わたし」(筆者)は理解することができる。それは「特殊な感覚」なのであろう? と。「わたしだけ」を強調したいのであれば、そもそもそれを「感覚」とか「何か」とか、はたまた「それ」とも表現する必要はなかったはずである。「わたしだけにしかわからない」を欲望する主体は、言語を話さなくなる――彼はただ音を発するだけなのだ。
 『荘子』の編纂者もまた、そのような地点に達していたのではないだろうか。「言えなさ」をつきつめていき、音だけを発する地点に。

 さて、えらい過去の人になってしまったが、それじゃあプラトンの言語に対する省察は浅かったということになるのだろうか。プラトンは一方で、ソクラテスにこんなことを語らせている――「始原とは、生じることのないものである。なぜならば、すべて生じるものは、必然的に始原から生じなければならないが、しかし始原そのものは、他の何ものからも生じはしないからである。じじつ、もし始原があるものから生じるとするならば、始原でないものからものが生じるということになるだろう」(p. 67)。とても説得的だ。そして、それゆえにこそ、『荘子』は「始原」に「はじまり」という名称を与えることをしなかったのではないか。与えたその瞬間、「はじまりのはじまり」が必要になるのだから。
 わたしはプラトンをこの一冊しか読んでいないのでなんとも言えないが、しかし永井均先生に従えば、プラトンは『荘子』の方向への探究に気づきながらも、あえてそうせずにおき、言葉とのうまい付き合いというのを考えようとした、「善なる嘘つき」なのかもしれない(『〈魂〉に対する態度』など参照)

 じゃあプラトンはあっさいオッサンということで切り捨ててよいのかというとそれはどうであろうか。現に考えてみるに、わたしたちの多くはプラトン的、いやプラトン以下であろう。『荘子』やウィトゲンシュタインのように、「言えなさ」に病的に取りつかれた者はまずほとんどいないのではないか、多くの人は欲するどころか、考えたことすらないのではないか。それにも関わらず無理にウィトゲンシュタインになる必要なぞない。上掲の『荘子』に示されているであろう、病気になった者の結末が。彼は黙ってしまったではないか、何も言えない、と。社会的で合理的な存在「人間」たらんとするのであれば、プラトン的になるほかないのではないか。つまり、ちゃんとした言葉を習得するということ。
 だが、病気でない人間でも、たまに私的言語を話したくなる場面があることも事実である。例えば――『パイドロス』のテーマ「恋」にかこつけて――意中の人と相愛関係になれたとき。次のように言う人間を想像することができる――「言葉にならないくらい嬉しい!」。事実、彼の嬉しさは言葉にならないほどだったのだ。しかし、悲しいことに、わたしたちの言語には「言葉にならない」ことを言うための言語表現がかねてより存在する――「五月の朔日に、姉なる人、子うみてなくなりぬ。よそのことだに、をさなくよりいみじくあはれと思ひわたるに、ましていはむ方なく、あはれかなしと思ひ歎かる」(『更級日記』)。『荘子』であれば次のように問答したであろう、「言葉が有る、言葉にならないことが有る、『言葉にならないことが有る』という言葉が有る、以下略。かくして言葉にならないことを言葉にすることはできない」。
 まるで言語から逃れられないこの状況、じつは恐ろしい。「言葉にならないくらい嬉しい」の例でも片鱗は感じ取れるであろう。その「嬉しさ」は他の数多ある「嬉しさ」のなかの一つでは決してなく、唯一無比のものだったはずだ。それゆえ、私的言語として語りたくなくのである、「このわたしだけにしかわからないこれ」として。しかし、いざ言ってみたらなんともない、ありふれた「嬉しさ」だった。「ありふれていない」ことを言うためのありふれた言語表現を使ってしまったのが間違いだったのかもしれない。が、これは奇異な表現を使ったとしてもつきまとうことであろう。
 はたして自分の歴史を語ることができるだろうか。言葉にならないくらい難しく見える。


【文献】
プラトン『パイドロス』(岩波文庫、藤沢令夫訳)
郭象(注)郭慶藩(疏)『荘子集釈』(諸子集成版)
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(『全集』8巻、藤本隆志訳)
山田史生「「万物斉同の哲学」私論」(『東方』2013年9月号)
鈴木達明「語り得ぬものへのことば」(『中国文学報』66、2003年)
永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』(ナカニシヤ出版、2012年)

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