2014年1月22日水曜日

唐の皇帝ってかっこいいよなあ!?

 唐皇帝の諡号の変遷を調べてみた。

李淵(廟号:太祖)
太武(貞観九年)→神堯(上元元年)→神堯大聖(天宝八載)→神堯大聖大光孝(天宝十三載)

李世民(太宗)
(貞観二十三年)→文武聖(上元元年)→文武大聖(天宝八載)→文武大聖大広孝(天宝十三載)

李治(高宗)
天皇大帝(文明元年)→天皇大聖(天宝八載)→天皇大聖大弘孝(天宝十三載)

李顕(中宗)
孝和(景雲元年)→孝和大聖(天宝八載)→孝和大聖大昭孝(天宝十三載)

李旦(睿宗)
大聖玄真(開元四年)→玄真大聖(天宝八載)→玄真大聖大興孝(天宝十三載)

李隆基(玄宗)
至道大聖大明孝(広徳元年)

李亨(粛宗)
文明武徳大聖大宣孝(宝応二年)

 「○○+大聖+大○+孝」っていう構造になっててわかりやすいね!

 さて、粛宗のあとを継いで即位した代宗の治世中(大暦十四年)、顔真卿がこれら歴代皇帝の諡号について、大胆な提案をしている(『唐会要』巻2帝号雑録)
高祖から粛宗までの七帝の廟号、諡号は文字がとても多く、皇帝であれば必ず「大聖」、皇后であれば必ず「順聖」の称号がついておりますが、もしこれらの称号を(使用して)話をすれば(誰を指しているかわからないので)現代に混乱をひきおこしますし、(また)これらの称号を(このまま)採用するのは過去のしきたりからはずれています。どうか高祖以下の皇帝の諡号は、すべて最初の諡号を採用して決定版といたしてくださいますよう。かつての制度を調べまして、諡号を提案いたします。すなわち、高祖が武皇帝、太宗が文皇帝、高宗が天皇大帝、中宗が孝和皇帝、睿宗が聖真皇帝、玄宗が孝明皇帝、粛宗が孝宣皇帝、廟号はそのままといたします。漢魏および聖朝の故事に準拠されますよう、お願い申し上げます。(高祖至粛宗七聖、廟号諡号、文字繁多、皇帝則悉有大聖之号、皇后則尽有順聖之名。使言之者惑於今、行之者異於古。請高祖以下累聖諡号、悉取初諡為定。謹按旧制、上諡号、高祖為武皇帝、太宗為文皇帝、高宗為天皇大帝、中宗為孝和皇帝、睿宗為聖真皇帝、元宗為孝明皇帝、粛宗為孝宣皇帝、其廟号如故。仍請準漢魏及国朝故事。)
 たしかに、受験生にたいして「唐の皇帝の号を漢字で書け(廟号は不正解とする)」という問題が出たらクレームが出るだろう[1]。教科書なんかでは唐以降の皇帝を廟号で呼ぶのも、諡号がやたら長いという事情が関連しているんでしょうか、あんまり知らんけど(明清にいたっては元号で呼ぶよね)[2]
 顔真卿の建議はどうなったのだろうか。顛末を見てみよう。
そこで尚書省で審議させた。当時、諡号の規則はころころ変わることが多かったので、儒学を規範としていた臣下たちのあいだでは、これを改め(て正し)たいと考えている者たちが以前からいたのであった。(そんなときに)ちょうど顔真卿が上奏してきたので、これでしっかり正すことができるとみなで言い合っていた。しかし尚書兵部侍郎の袁傪、この者は軍事の業績でここまで出世したのであって、古典的な教養なぞまったく備わっていなかったのだが、「山陵の霊廟に奉じた玉製の冊書にはすでに諡号を刻んでしまっています。軽々に改めるべきではありません」と上言した。こうしてとうとう、沙汰止みになったのである。袁傪はなんにもわかっていないやつである。山陵に奉ずる玉冊は、実際には最初の諡号を刻むのであり、後世の追尊があったとしても、冊書の文字は改めないのである。(乃令尚書省議之。時以諡号前後不経、儒学之臣、思改者久矣。会真卿上奏、皆謂必克正焉。而兵部侍郎袁傪、官以兵達、不詳典故、乃上言、陵廟中玉冊既刊矣、不可軽改。遂罷之。傪曾不知陵中玉冊、実紀其初号、後雖追尊、而冊文如故。)
 というわけで、神堯大聖大光孝皇帝は神堯大聖大光孝皇帝のママとされたのでした。ていうか、袁傪以外の人はそのことがわからんかったのかね。だとしたら袁傪を責めるのではなく、袁傪を批判しなかった人たちに問題があるとするべきではないだろうか・・・。



――注――

[1]もちろん、ハイレベルな者なら「この場合の『号』とは諡号なのか、即位前の爵位のことなのか、それとも自称としての号なのか、判然としないので、複数の『号』を有している皇帝に関してはすべて併記する」という回答を記述するにちがいない。[上に戻る]

[2]余談だけど、漢の皇帝は「孝」を諡号に必ずつける規則があったらしいじゃない。孝文皇帝、孝武皇帝、孝宣皇帝、・・・。この規則は、宣帝期に和親を締結して以後の匈奴単于の称号にも取り入れられたらしい。『漢書』巻94匈奴伝・下「匈奴の言葉では『孝』を『若鞮』と言う。呼韓邪よりのち、匈奴は漢と親密になり、漢が皇帝に『孝』とおくりなしているのを知って、倣うことにした。そのため呼韓邪以後の単于はみな『若鞮』を単于の称号に加えているのである(匈奴謂孝曰若鞮。自呼韓邪後、与漢親密、見漢諡帝為孝、慕之、故皆為若鞮)」。東匈奴の単于の順番は次の通り。呼韓邪単于→復株絫若鞮単于→搜諧若鞮単于→車牙若鞮単于→烏珠留若鞮単于→烏累若鞮単于→呼都而尸道皋若鞮単于。なお、復株から呼都而尸までの単于はすべて呼韓邪単于の息子。たしか単于号は生前に名乗るんだったかな、呼韓邪に「若鞮」がついてないのはそういう事情だと思う。呼都而尸単于は新末から更始帝期に匈奴を一時期強盛せしめた単于輿のことですが、単于輿の死後、烏珠留若鞮単于の子の比がいざこざを起こして新単于から独立、呼韓邪を名乗って後漢に帰属していきます(南匈奴の成立)。[上に戻る]

2 件のコメント:

  1. たしかに、唐代から諡号が長くなりました。ただ、天宝8年以前、すなわち玄宗の前の七聖、彼らの諡号は1文字から三文字までという事実があります。天宝8年から一回追尊して、13年もう一回、これでやっと七文字、そして粛宗の九文字になりました。大臣の諡号も前の一文字を中心としたから、だんだん二文字を中心とする諡号が増えました。ここから見ると、かっこいいのは、玄宗ではないでしょうか。私はこのテーマを中心として論文を作成中です、なんがご教示あれば、メールアドレス lihang1984@i.softbank.jpまで連絡して教えてもらえるでしょうか。

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  2. コメントありがとうございます。言及はしてませんでしたが、たしかにおっしゃるとおり、諡号が長くなったのは天宝8載と13載のときであり、「唐代から」というより「玄宗から」と考えるのが妥当でした。いささか不適切な記事タイトルでした。

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