2014年11月24日月曜日

で、尚書って何してたとこなの



 先日、『宋書』百官志の訳注で尚書の項目をアップしたところなのだが、よく考えたら尚書ってとこがそもそも何をするとこなのか/しているとこなのか、よく理解していないことに気づいた。
 それでまあ、主に漢代だけども、尚書関係の研究論文を取り寄せたりして、基礎的なところから勉強しようとしたんですね。

 しかし、結局全然わからなかった。
 と、そう言ってしまっては一向に身動きが取れずこの気持ちの悪さを中和することもできないので、とりあえずはつれづれに書きなぐってみることにする。


 尚書の基本的な業務は公務文書の伝達・取次であるらしい。
 それだけ。
 え・・・

 想像力を働かせて考えてみる。
 彼らが取次いでいた文書は皇帝と官庁の間を行き交う文書である。
 なんでその、要するに皇帝の書記官だよね。官庁から来た文書をそのたびごとにいちいち皇帝が受け取るのもめんどくさいし、官庁に渡すときもいちいち訪問しに行ったのでは皇帝の権威って何なんだろうね。
 だから書記官を置いておいて、彼を窓口にしておく。官庁から来た文書はとりあえず全部この窓口に集めておいて、一定程度集まったら皇帝に届けに行くとか、そんな感じなんじゃないの。逆もまた然り、だろうか。
 漢代は尚書が少府に所属していたってのも、やっぱり皇帝の書生というか小間使いというか、皇帝の業務や生活を補助する官であったことを暗に示しているよね。

 以上を踏まえてまず触れてみたいのは、「領尚書事」というやつ。
 周知のように、前漢の霍光に由来し、「尚書事」を「領」(代行)することによって、強大な権力を把握した。
 なんで強大な権力を握ったのだろう? 西嶋定生氏は次のように説明している。
当時の上奏文はかならず正副二通を必要とし、上奏がなされると、尚書はまずその副本を被見して、これを皇帝に取り次ぐべきかどうかを取捨選択した。当然、尚書の意にそわない上奏は、その段階で破棄されることになる。また詔書の下達を職務とすることによって、国家の枢機にふれるために、しだいに実質的な権限をもつこととなり、ついには政策の立案と事実上の決定とが尚書の手によって行われることとなった。このようにして、少府の一属官にすぎない尚書は重要な職責をもつ官職に転化した。(西嶋『秦漢帝国――中国古代帝国の興亡』講談社学術文庫、1997年、p. 288、原著は1974年)
 古いし概説書だが、手元に新しいものがないんで仕様がない[1]
 この記述、論理的に理解できない箇所がある。
 まず「政策の立案」という部分だが、仮に尚書が検閲の職務をなしていたとすれば、たしかに政策の「決定」に彼らが関与するようになるのは比較的自然のように思える。
 だが、検閲が仕事の官がどうして政策の企画立案まで行うようになるのだろう。検閲とはそもそも次元の異なる役割だと思うのだが。それともあれか、上奏される企画がことごとく皇帝や自分たちの意に沿わないから「もうオレたちでやってやんよ」ってなったわけか。ただの伝達係が?

 それから詔書の下達をやるから機密に触れるようになって~というやつ、これもよくわからん。結局その情報は官庁にも行くから尚書だけ特別とも言えないんじゃないの・・・。
 尚書はどの官庁の機密情報も握ってるから!っていうのならわかるが。でも、機密に触れるようになったから要職になったというロジックはわかるにしても、どうしてそれで「実質的な権限」をもつようになったのか。

 漢代の尚書研究は基本的に、魏晋南北朝や唐代に見られるような、執行権力組織としての尚書を念頭に置いていると思う。だからわざわざ、ここで尚書が行政権力を握りはじめた起源を説明しようと試みているようだが、残念ながら、私にはあまり合理的に見えない。逆に、論理が飛躍していることから見ても、前漢の尚書が魏晋・唐代の尚書になるためにはなんらかの飛躍が必要であったのだ、というのは言葉遊びがすぎるが、上述のようなロジックで安住してはいけないほど、かなり謎は深いと見るべきである。

 という疑問はじつは脇道で、ここで話題にしたかったのは「領尚書事」です。
 前述したように、これは「尚書事」を「領」=代行/兼任するという意味だと思われる。
 なるほど、そうなると霍光は幼少の昭帝の犬となって文書を運びまわっていたわけですね。

 そんなわけがありませんね。
 何が言いたいかというと、従来「尚書事」は「尚書の業務」を指していると解釈されてきたと思うが、それでは単に文書の取次を代行でやるようになったという意味だ。どうして霍光のような高官がそんなことをわざわざやらねばならんのかね。
 いやそんなことはない! 西嶋氏が言っているように、上奏の検閲権があって自由に上奏の取り下げまでできたんだ! だから「尚書の仕事」は莫大な権力を伴うんだ!
 という反論は容易に予想される。ではそこで、西嶋氏(および西嶋氏が拠ったと思われる先学)が根拠としてきた史料を見てみよう(『漢書』巻74魏相伝)
(魏相が河南太守になってから)数年後、宣帝が即位すると、魏相を中央に召して大司農に任じ、ついで御史大夫に移った。四年後、大将軍の霍光が没した。宣帝は霍光の功績と人徳をかんがみ、子の禹を右将軍に、兄の子の楽平侯山を領尚書事とした。平恩侯の許伯が封事を上奏した機会をとらえて、魏相は進言した、・・・。また漢の慣習では、上書するときは必ず二枚作成し、そのうち一つを控えとする。領尚書事は(上書を受け取ったら)まず控えの封を切って(内容をチェックし)、内容がよくなければ却下し、上書を皇帝に奏しなかった。魏相はこれまた許伯の上奏の機会を利用して進言し、控えの封を切る手続きを廃し、秘密を防ぐよう提案した。宣帝は良い進言とし、詔書を下して魏相を給事中とし、すべて魏相の意見に従った。(数年、宣帝即位、徴相入為大司農、遷御史大夫。四歳、大将軍霍光薨、上思其功徳、以其子禹為右将軍、兄子楽平侯山復領尚書事。相因平恩侯許伯奏封事、・・・。又故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、領尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏。相復因許伯白、去副封以防雍蔽。宣帝善之、詔相給事中、皆従其議。)
 関連して『漢書』巻68霍光伝も見ておこう。
霍光が没すると、宣帝はみずから朝政を執るようになり、御史大夫の魏相が給事中となった。・・・ちょうど魏相は丞相となると、しばしば宣帝のくつろぎのときに謁見し、政事の案件について言上した。平恩侯の許伯と侍中の金安上らも宮中に出入りして(進言して)いた。当時、霍山は依然として領尚書事であったが、宣帝は官吏と人民に封事で上奏させ、尚書を関与させずに(自分のところへ文章を運ばせたので)、朝臣は単独で謁見して言上することができるようになった。ゆえに霍氏はこの事態を苦々しく感じていた。(光薨、上始躬親朝政、御史大夫魏相給事中。会魏大夫為丞相、数燕見言事。平恩侯与侍中金安上等徑出入省中。時霍山自若領尚書、上令吏民得奏封事、不関尚書、群臣進見独往来、於是霍氏甚悪之。)
 これらの史料を見て「やっぱりそうじゃないか、尚書はとんでもないとこじゃないか!」と思うのは軽率である。
 よく見てみると、魏相伝で問題に挙げられているのは「尚書」じゃないか。・・・おかしくない?
 尚書が上書を自分の裁量で進めたり退いたり~って業務をやっているんだったら、「領」の字は明らかにいらないよね・・・。
 でまあ、『漢書』の用例から見ると、「領尚書」は領尚書事を指しているのだろうと。
 とすると、上の文章は、領尚書事はそういうことをやっているとは言えても、尚書がそういうことをやっているとは言えないじゃん。
 それにまあ、尚書が仮に上のようなことを職務として遂行していたとして、「領尚書事」って言い方はやっぱりおかしいと思わない?
 だってそうであるなら、尚書令か僕射か知らんけど、尚書の官に就任するか兼任するか、その官に就けばそれでいいやんね。どうして「領」の対象が尚書の官ではなく「尚書の事」なのだろう。
 つまり、尚書の官を「領」しても上のようなことはできんのだが、「尚書の事」を「領」すればできるという、そういう話なんじゃないの?

 それでも、霍光伝の記事を見ると、やっぱり領尚書ってのは尚書の業務を代行しているもので、それは文書の検閲って意味なんじゃないの? って思えてくるかもしれない。
 これについては、米田健志氏の「尚書事」解釈を参照し、考えてみよう[2]
 氏は、「尚書事」の「領」(代行)っていうのは、言い換えれば「皇帝の代行」でしょ、と解している。
 どういうことかというと、「尚書の業務」(取次)を代行ってのはいくらなんでもわりにあわない、「領尚書事」が意味しているのは、尚書から送られてくる文書を決裁すること、すなわち皇帝の文書業務を代行するってことなんじゃなかろうか、という具合だ。
 重要なのは、「尚書事」を「尚書の業務」ではなく「尚書から送られてくる文書の仕事」の意味に解したこと。ちょっと無理矢理に聞こえる気もするかもしれないが、『宋書』百官志などの史書に「尚書奏事」という用語が見え、文脈的に「尚書から上奏されてきた文書の案件」の意であるらしいことを踏まえると、米田氏の「尚書事」解釈はこじつけでも何でもなく、妥当であるとすら言えるだろう[3]
 こういうふうに「尚書事」を理解すれば、霍光伝の記事だって、尚書から文書が送られてこなければ領尚書は何もできんのも当然じゃん、ってうまく解釈できるね。

 以上、「領尚書事」について述べてきたが、私は米田氏の解釈が妥当なんじゃないかと思っている。
 だとするとですよ、じゃあなんで尚書は行政権を手中にするようになったの?
 上述までの解釈に基づけば、尚書には上奏して検閲し、それを決裁する裁量は有していなかったことになる。いやさすがにそれはちょい言い過ぎで、封を切って検閲くらいはやってたんじゃないかと思う。けど取り下げなどの裁量まではもってなかったんじゃないかぁ。
 それに前述したけど、そういう権限をもっていたからといって、魏晋以後のような行政府としての機能に一直線に進展しないよね。繰り返すけど、決定権があることと政策の企画を立てることは別の仕事だよやっぱり。

 私は、直感的なものにすぎないが、このヒントは尚書のもう一つの要務、公文書の起草にあるように思う。
 この職掌も先学で言及こそされてきたが、これまた米田氏が言うように、従来は文書伝達業務が権力の強化に寄与したのだろうと考えられ、過度に注目されてきた結果、ついつい視野から外れてしまってきた感がある。
 しかし、尚書の本質部分はむしろこっちの仕事なんじゃないかとすら私は思っている。
 『宋書』百官志を訳注してて感じたことなんだけど、要するに尚書台って作家集団みたいなところだと思うんだよね。作文技術で雇われてる。実際、尚書の下っ端である尚書郎は作文能力の試験に合格しないとダメだからね。
 ランサーズのようなフリーランスの求人サイトで作文の仕事を探してみたことがある人は感覚的にわかってくれると思うんだが、例えば皇帝が「こういう詔書下してぇー下してぇーわ」と思ったとするじゃない? そしたら尚書令だか僕射だか、まあそいつらに言うわけ。そんでその依頼がその分野を得意とする部署の尚書郎に発注され、彼は皇帝の要望をもとに、うまーく文飾とかを散りばめて「いかにもプロっぽい人が書いた文章」ないし「一般官僚が読んでも不自然に思わない文章」なんかを作成して納品、で、おそらくその部署のボス(列曹尚書、僕射)がそれをチェックし、晴れて下されるわけ。
 かなり妄想が入ってしまったが、作文の求人でもよく、「物件を紹介する文章を依頼します。以下の要領は守ったうえで、あなたの作文能力を振るってください!」とか、そんな感じの案件あるじゃない。あれと同じようなもんだと私は思ってるんです。自分で書くのはめんどいからその能がある人、時間がある人にやらせようっていうね。

 と、やや大書してしまったが・・・
 そもそも作文は尚書に当初から課せられていた職務だったのだろうか? という疑問も一方では抱いている。
 だって尚書の人員は成帝の建始四年まで一人で、そのときになってようやく五人に増やされた程度ですよ?
 それまで詔書の起草は尚書一人でやってたってことになるんですがそれは・・・ありえますよね、皇帝が自分ですべて書くとも思えないし。
 人員が増加されたのは、識字率の増加っていうか、文書による行政の新党具合なり緻密化なりと関連があるかもしれない。つまり発行する文書や届く上書が多くなりすぎて尚書令一人(もしくは皇帝)では担当できなくなったとか、そういう背景なのかもしれない。
 なんでまあ、作文がはじめから尚書の職掌だったかはわからんけど、皇帝の実務的に考えても、はやくに尚書に委託された職務だったんじゃないかなと思っています。

 そんでどうしてこれにフォーカスしたのかっていうと、そいつは尚書がどの範囲の公文書まで作成していたのかってところがポイントだと思うからですよ。
 まず「詔令」、すなわち皇帝が下達する文書は尚書の筆に成ったと考えられる。
 そこはいいんですよ、先行研究でも(いろいろややこしい経緯はあったらしいが)確認されているからね。
 問題は「章奏」、すなわち朝臣から皇帝へ進められる文書なわけです。
 さすがにそれらは尚書が作ってねーだろw
 と思われるでしょう。魏相伝を見る限りでも、上書をしたい朝臣は自分で二通作成して持参せねばならんようだから(もちろん、やっぱり自分で書く必要はなく、府に書記官がいればそいつに書かせればよかろう)。
 でも、唐代の成立ではあるけど、次の『通典』の記述はどうしても気になる。
(尚書郎は)文書の作成を職掌とする。五十歳未満の孝廉合格者から登用するが、(その際には)まず箋や奏などの上書文作成を試験に出し、出来の良い者を選抜する(主作文書起草、取孝廉年未五十、先試箋奏、選有吏能者為之)
   ここで上書文の作成を試験に出しているってことは、尚書郎はそういう文書を書く機会が多かったことを示しているんじゃ、ってどうしても自分は思っちまいます。

 これだけでは根拠があるとは言えないし、現実的でもないわけだが、仮に尚書がそういう上書の文書まで作成を担当していたらどうだろう。官庁から「こういう感じの政策考えてるんだけど~」って来たら、尚書は「じゃあオレたちで書いてみるわ」みたいなそんな感じ? なんか尚書、ずいぶん偉くなった感じだよね。
 そうなんです、ここで想定している尚書は魏晋以後の尚書です。
 魏晋以後の尚書は、官庁から上書が届いたら、それをいったんチェックし、問題がなかったら皇帝のところへいき、そこで読み上げるような、そういう政策企画の伝達係ではなく、自分たちで政策企画の上書を作成し、皇帝のところへ(中書を介して)届けた。
 いや当然っちゃ当然ですけど、「上書を作成するのはだれか」って視点から尚書のことを考えたことはいままでなかったんですわ。
 この転換が案外大事なんじゃないかと思ったのは、本ブログで訳出した李重伝を読みなおしたとき。西晋の李重は尚書吏部郎に就任すると、何人もの人材を見いだしつつ、不適切な人間は要職に就けなかったと褒められている。
 いや、おかしくない? 彼はたかが尚書郎ですよ。『宋書』百官志をご覧ください。そこで描かれているのは漢代、しかも少なくとも後漢中期以降だとは思うけど、その時期の尚書郎は五日間宿直して文書(詔書など?)を作成するとか、皇帝のとこへいって上書を読み上げるとか、読むときはフリスク噛んでなければならないとか、そんな仕事ですよ。
 それがどうして李重みたいなことできんの、どうしてここまで変わってんの、ってあらためて考えたわけだけど、いやでも、と思ったわけです。公文書を作成している点では変わらないんだろうなと。
 だからまあ、私的にはですね、尚書が行政権を握りはじめたのはどういう経緯で~って議論は次のように問題を絞るべきだと思う。
 「官庁(いわゆる外朝)が本来作成すべき文書まで尚書が担当しはじめるのようになったのはいつか」。
 尚書による案件の判断がよく重視されるけど、これまた繰り返すが、その権限じゃあ行政までいかないと思うんで。
 この件は皇帝がどういう経緯で尚書に詔令の作成を委ねるようになったのかという事柄と相通じていることかもしれないが、どうだろう。
 こう釘を刺しておくのは、尚書が作成するようになったからといって、それがただちに尚書の行政権掌握を意味するのではないからだ。最初は作成の手間を省くために尚書に委ねただけだったのかもしれない。結果的に行政権の把握までいたっただけかもしれん。

 と、こんなに長く書くつもりはなかったんだけども、ついこんなことに・・・。
 自分でも何に引っ掛かりを覚えているのか、いまいち整理できてないんですね。書いてるうちにある程度まとまるだろうかと期待していたのだが、そんなことはなかった。
 あと、あんまり挟めなかったけど、尚書の時代的変化というか、時間的要素はもっと考慮すべきかもしれない。尚書関連で比較的整っているのは、じつは『宋書』百官志の記述なんですよね。しかしあれは蔡質(蔡邕の叔父)の『漢官典儀』や応劭『漢官儀』あたりが元ネタっぽいので、後漢後期の尚書と考えた方がよさそうなんだ。だから、それ以前の尚書は用例を見ていきながら考えるしかなさそうだね。
 悔しく思うのは、この時期の宮城の風景というか、尚書をはじめとする官僚たちの仕事の場がイメージできないこと。つくづく、これが頭に浮かばないのがなあと。言うて現代の官僚も何してんのか知らんけどね。

 ついでに、後漢の尚書もちょい調べた限りで触れておく。
 わたしが目にした限りで、重要だと思われたのは『後漢書』伝36陳寵伝。
陳寵は三度官を異動して、章帝のはじめ、列曹尚書となった。当時、永平の故事を受け継いだ時代だったので、文吏による政治は依然として厳格で細かく、尚書の決裁も徐々に重要な仕事になりつつあった。(三遷、粛宗初、為尚書。是時承永平故事、吏政尚厳切、尚書決事率近於重。)
 「永平」は明帝の元号。光武帝と明帝は実務(法律とか文書業務に明るい官吏、このような吏を「文吏」と呼ぶ)を重視し、みずから積極的に関与した皇帝として知られている[4]。よっぽど厳しかったらしくて、後漢書を見るともう、明帝といったら苛酷って言葉が出るくらい。
 尚書といえば、やっぱり文書に関わるところだから、それと関連して重視されはじめたのだろうけども、「尚書の決裁」と訳した「尚書決事」とは一体何を指しているのか、もうちょい慎重に考えるべきだろうか・・・。
 合わせて関係ありそうなのが後漢末の仲長統『昌言』法誡篇(『後漢書』伝39仲長統伝引)
光武帝は数代の間(劉氏が)権力を失ったことを反省し、強大な臣が天命を強奪したことに憤っていた。そこで曲がったものを元に戻そうとするあまりに度がすぎてしまい、政治を臣下に委ねず、三公を設置したところで(彼らに政治をおこなわせず)、政治は尚書台に帰した。以後、三公はポストが存在するだけとなった。(光武皇帝愠数世之失権、忿彊臣之竊命、矯枉過直、政不任下、雖置三公、事帰台閣。自此以来、三公之職、備員而已。)
 文中、「尚書台」と訳した「台閣」は必ずしも尚書台を意味するのではないという指摘もあるのだが、ここは文脈的にも尚書台で構わんと思う、というかじゃないと通じないと思う。
 そんでこれに関連するのが、陳寵の子・忠の伝に見える記述。
当時〔安帝の時代〕、三公の職務は責任が軽く、重要な事柄はもっぱら尚書に任されていた。しかし災異が起こると、そのたびに三公が罷免されていた〔天人感応説〕。陳忠は、この有様は国家のかつての体制ではないと考え、上疏して諌めた、「・・・漢の故事では、丞相が要請した事柄は必ず採用されていました。ところが現在の三公は名ばかりで実質がなく、選挙や賞罰はすべて尚書に決定されています。尚書の現在の職責は三公より重く、陵遅〔ゆっくり徐々に衰えること、陳忠の別の上書の用例を参照すると和帝時代以降というニュアンスっぽい〕以来、このような傾向が徐々に進行して久しいものがございます。・・・」。(時三府任軽、機事専委尚書、而災眚変咎、輒切免公台。忠以為非国旧体、上疏諌曰、「・・・漢典旧事、丞相所請、靡有不聴。今之三公、雖当其名而無其実、選挙誅賞、一由尚書、尚書見任、重於三公、陵遅以来、其漸久矣。・・・」。)
 こっちだと「陵遅」以後、たぶん和帝以後?だけども、とりあえず章帝以後に尚書重視の傾向が顕著になったと言っているね。
 なんだ、前漢の尚書とはもう全然違うんだろうなってのは感じるよね。そのきっかけが「諸功臣・外戚への権力集中を抑制しながら、文吏的官僚を駆使して法による皇帝一元支配の樹立を図った」光武帝・明帝の「統治理念」(東氏前掲書、p. 49)なのか、章帝以後の幼帝即位なのか、それはちょっとわからないが。
 もう一つ後漢の尚書で大事なのが録尚書事。こいつについては伝66陳蕃伝が興味深いかも。
永康元年、桓帝が崩御した。竇皇后が臨朝し、詔を下した、「・・・陳蕃を太傅とし、録尚書事とする」。ときに、(国家は)皇帝の崩御という事態に直面しながら、後継者はまだ決まらない状態であった。尚書官は権勢を誇っていた官〔宦官?〕を恐れ、病気と称して出勤しなかった。陳蕃は書簡を送って彼らを批判した、「いにしえの人は主君が崩じても自身は生きて職務を全うし、節義を立てたのだ。現在、皇帝はまだ決まらず、政治は日増しに緊迫している。諸君らよ、父たる帝を失った苦しみから逃れ、ベッドで休んでいる場合かね。その程度の義で仁者たることはできぬぞ」。尚書らは恐々としながらも、みな出勤して政務を執った。(永康元年、帝崩。竇后臨朝、詔曰、「其以蕃為太傅、録尚書事」。時新遭大喪、国嗣未立、諸尚書畏懼権官、託病不朝。蕃以書責之曰、「古人立節、事亡如存。今帝祚未立、政事日蹙、諸君柰何委荼蓼之苦、息偃在牀。於義不足、焉得仁乎」。諸尚書惶怖、皆起視事。)
 この事例から判断すると、録尚書事は尚書たちの元締めみたいな立場だったんだろうな。
 領尚書事が前述したような理解で大過ないのであれば、じゃあ後漢の録尚書事は何なのって当然なるわけで。後漢の尚書は何をしていたのかを究明しつつ、調べなければいかんだろう。


 尚書について思ったことを思ったままに書きなぐってみました。


――注――

[1]さすがにこれだけでは不安なので、図書館で新しい概説書を確認してみた。以下の通り。

尚書とは少府の属官で官秩は低いが、詔書の下達や上奏の皇帝への取次ぎなど行政上最重要の文書を扱うことを職務としていた。したがって、幼帝を身近に輔佐するという実務を通して実質的には政策の立案権をも把握しうる地位にあったのである。(『世界歴史体系 中国史1 先秦―後漢』山川出版社、2003年、pp. 418-419、執筆:太田幸男氏)

尚書の職務を兼ねて国政に関与うるという独裁権力は、前漢昭帝のときの霍光に始まっていた。(鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産――秦漢帝国』講談社、2004年、p. 311)
 そんなに西嶋氏と違ってなかった。[上に戻る]

[2]米田健志「前漢後期における中朝と尚書――皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64-2、2005年)、なお『東洋史研究』なのでCiNiiからPDFで閲覧可能。[上に戻る]

[3]たしか米田氏も引用していたが、次の『漢書』巻74丙吉伝の記述もかかる「尚書事」解釈の根拠となりうるだろう。「霍氏が誅殺されると、宣帝はみずから政治を執り、尚書事をみた(及霍氏誅、上躬親政、省尚書事」。みずから政治を執ること(親政)と尚書事の遂行がセットになっていることから考えると、ここの「尚書事」は「尚書から送られてくる文書案件」の意で、それを「省(み)る」=処理するということなのだろう。霍山が領尚書事であった際は宣帝単独でおこなうことはできなかったが、領尚書事がいなくなったことで、誰も介さずに皇帝だけで決定することができるようになった、ということを記述しているんではなかろうか。[上に戻る]

[4]東晋次『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、1995年)第1章第1節参照。[上に戻る]

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