2014年5月31日土曜日

成漢・李氏の来歴神話(続)

 前回の記事では李氏の来歴に廩君伝説が利用されていることを述べ、李氏の来歴神話に矛盾が見られることを指摘した。今回はその廩君説話について、他の史料を読みつつ検討してみたい。
 さて、廩君および李氏の神話に関連する説話は、『華陽国志』、『後漢書』、『水経注』、『十六国春秋』などの諸書に見えているが、まず最初に比較的記事が豊富で整っている范曄『後漢書』伝86南蛮西南夷列伝から読んでみよう(引用文中、ブラケット[ ]は李賢注、亀甲カッコ〔 〕は訳者注を示す)。
A(長沙武陵蛮の条)
秦の昭王は白起に楚を討たせ、(楚が支配していた)蛮夷を支配下に置き、黔中郡を設けた。漢が起こると、武陵郡に改称された。(その地の蛮夷は)毎年、大人は一人につき布一匹、小口〔子供という意味でしょう〕は一人につき二丈を納付させた。これを「賨布」と呼ぶ[李賢注:『説文』は「(賨とは)南蛮の賦税のことである」と記している](秦昭王使白起伐楚、略取蛮夷、始置黔中郡。漢興、改為武陵。歳令大人輸布一匹、小口二丈、是謂賨布。[『説文』曰、「南蛮賦也」。])

B(巴郡南郡蛮の条)
巴郡南郡蛮。もともとは巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏の五姓であった。みな武落の鍾離山が出自である[一]。その山には赤と黒の二つの色をしたほら穴があり、巴氏の子は赤穴で、ほかの四姓の子はみな黒穴で生まれていた。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相だけが当てることができたので、みなは(務相を)たたえた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かばせることができた者が君長になると決まりを立てて勝負した。ほかの四姓の者はすべて沈んだが、務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた[二]。塩水〔『水経注』によれば夷水の別名〕の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩陽の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回った。日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天地はようやく明るさをとりもどした[三]。廩君はこうして夷城の君主となり[四]、四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。秦の恵文王が巴中を併合すると、巴氏を(その地の)蛮夷の君長とし、代々秦の王族の娘を嫁がせた。蛮夷の一般人には不更と同等の爵を与え、罪を得ても爵で免罪することができるようにした。君長は、毎年2016銭の賦銭、三年に一回1800銭の義賦を納めた。一般の人民は一戸につき、幏布八丈二尺、にわとり三十鍭〔李賢によると149羽〕を納めた。漢が起こると、南郡太守の靳彊はすべて秦の時代のやりかたを踏襲するよう要請し(許可され)た。(巴郡南郡蛮、本有五姓、巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏。皆出於武落鍾離山。其山有赤黒二穴、巴氏之子生於赤穴、四姓之子皆生黒穴。未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣於石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃独中之、衆皆歎。又令各乗土船、約能浮者、当以為君。余姓悉沈、唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦即化為蟲、与諸蟲羣飛、掩蔽日光、天地晦冥。積十余日、廩君伺其便、因射殺之、天乃開明。廩君於是君乎夷城、四姓皆臣之。廩君死、魂魄世為白虎。巴氏以虎飲人血、遂以人祠焉。及秦恵王并巴中、以巴氏為蛮夷君長、世尚秦女、其民爵比不更、有罪得以爵除。其君長歳出賦二千一十六銭、三歳一出義賦千八百銭。其民戸出幏布八丈二尺、鶏羽三十鍭。漢興、南郡太守靳彊請一依秦時故事。)

[一]『世本』によれば、「廩君の祖先は、巫誕〔中華書局によると人名らしいが、詳細は不明〕の子孫である」。(『代本』曰、「廩君之先、故出巫誕」也。)
[二]『荊州図副』によれば、「夷陵県の西に温泉がある。古老の話によると、この温泉は元来、塩を産出していたとのことで、現在でも塩っ気があるそうだ。県の西にはほら穴がある山が一つある。穴のなかには二つの大きな石が、一丈ばかり離れて並んでおり、俗に陰陽石と呼ばれている。陰石のほうはいつも湿っていて、陽石のほうはいつも乾いている」。また盛弘之の『荊州記』によれば、「むかし、廩君が夷水を航行していたとき、塩神を陽石の上で射殺した。調べてみたところ、現在〔盛弘之は劉宋の人〕の施州清江県の河に塩水とも呼ばれている河がある。源流は清江県の西の都亭山にある」。『水経』に「夷水はは巴郡魚復から流れ出ている」とあり、酈道元の注に「水の色が澄んでいて、十丈にわたって照らすほどで、砂と石がきれいに分かれている。蜀の人はその澄んださまを見て、清江と名づけたのである」。(『荊州図副』曰、「夷陵県西有温泉。古老相伝、此泉元出塩、于今水有塩気。県西一独山有石穴、有二大石並立穴中、相去可一丈、俗名為陰陽石。陰石常湿、陽石常燥」。盛弘之『荊州記』曰、「昔廩君浮夷水、射塩神于陽石之上。案今施州清江県水一名塩水、源出清江県西都亭山」。『水経』云、「夷水巴郡魚復県」、注云、「水色清、照十丈、分沙石。蜀人見澄清、因名清江也」。)
[三]『世本』に「廩君は人をやって青い糸を塩神に贈り、『これを身に着けてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします』と伝えさせた。塩神は糸を受け取ると、それを身に着けた。廩君は陽石の上に立ち、青糸をねらって矢を放った。矢は塩神に命中し、塩神は絶命した。すると、天は明るくなった」とある。(『代本』曰、「廩君使人操青縷以遺塩神、曰、『嬰此即相宜、云与女俱生、弗宜将去』。塩神受縷而嬰之、廩君即立陽石上、応青縷而射之、中塩神、塩神死、天乃大開」也。)
[四]以上の文章はすべて『世本』にも見えている。(此已上並見『代本』也。)

C(板楯蛮の条)
板楯蛮。秦の昭襄王のとき、一匹の白虎が現われ、虎の群れを引き連れながら秦、蜀、巴、漢の領域をうろうろし、千余人を殺傷していた。昭襄王は虎を殺せる者を何度も募り、一万家の邑と百鎰の金を懸賞金にかけていた。当時、巴郡閬中の蛮夷で、白い竹製の弩をつくることができる者が、たかどのに登り、(その弩を使って)白虎を射殺した。昭襄王は彼をたたえたが、蛮夷であったために封建したくなかった。そこで石に盟約を刻み、(巴郡の蛮夷はみな)田地は一頃まで租税を課さないこと、妻は十人まで算賦税を課さないこと、人に傷害を加えた者は罪を減免し、人を殺害した者は倓銭[何承天の『纂文』によれば、「倓とは、蛮夷が贖罪するために使用する貨幣である」]によって罪をあがなうことができるようにした。盟約には、「秦人が夷人に対して罪を犯した場合、黄龍のつがいを送る。夷人が秦人に対して罪を犯した場合は、清酒ひとつぼを送る」とあった。蛮夷はこれに安堵した。高祖が漢王になると、蛮夷を徴発して関中を討った。関中が平定されると、巴中に帰らせた。渠帥の羅、朴、督、鄂、度、夕、龔の七姓は租と賦を免税した。ほかの夷人は、毎年、一人につき四十の賨銭を納めさせることとした。(彼らは)代々、板楯蛮夷と呼ばれていた。閬中には渝水が流れており、住民の多くはその河の側に住んでいた。元来、敏捷かつ勇猛で、漢軍の先鋒となり、何度も敵軍の陣営を陥落させていた。歌や舞踊を好む風俗で、高祖は彼らの歌や舞踊を見ると、「武王が紂王を討ったときの歌のようだ」と言った。そこで音楽を仕事とする楽人にその歌と舞を覚えさせた。それがいわゆる巴渝舞と呼ばれている舞である。こうしてついに、代々漢に服従することになったのである。(板楯蛮夷者、秦昭襄王時有一白虎、常従羣虎数遊秦、蜀、巴、漢之境、傷害千余人。昭王乃重募国中有能殺虎者、賞邑万家、金百鎰。時有巴郡閬中夷人、能作白竹之弩、乃登楼射殺白虎。昭王嘉之、而以其夷人、不欲加封、乃刻石盟要、復夷人頃田不租、十妻不筭、傷人者論、殺人者得以倓銭贖死。盟曰、「秦犯夷、輸黄龍一双。夷犯秦、輸清酒一鍾」。夷人安之。至高祖為漢王、発夷人還伐三秦。秦地既定、乃遣還巴中、復其渠帥羅、朴、督、鄂、度、夕、龔七姓、不輸租賦、余戸乃歳入賨銭、口四十。世号為板楯蛮夷。閬中有渝水、其人多居水左右。天性勁勇、初為漢前鋒、数陷陳。俗喜歌舞、高祖観之、曰、「此武王伐紂之歌 也」。乃命楽人習之、所謂巴渝舞也。遂世世服従。)
 かなりの部分で『晋書』李特載記と重なる。さしあたり、以下の点を挙げておこう。
①黔中郡と賨
 『晋書』李特載記によれば、廩君の子孫たちは秦の時代に黔中郡の統治下に編入され、毎年賨銭四十を納めていたという。しかし、『後漢書』の記述によると、黔中郡の蛮夷(武陵蛮)は銭ではなく布を納めているし、賨銭四十を納めていたのは巴郡に集住していた蛮夷(板楯蛮)である。しかも、武陵蛮も板楯蛮も、廩君の子孫とは記述されていない。
②漢の高祖との関係
 『晋書』李特載記においては、李特の先祖たちは漢の高祖に付き従い、関中の平定に功績があったという。同様の記述が『後漢書』板楯蛮の条に見えるが、彼らは廩君とはあまり関係がないようである。
③巴郡南郡蛮と板楯蛮
 そもそも、漢字文化圏の人間が記述した内容に従って、当時の蛮夷を厳密に区分けすることなどできるのか、という批判があるかもしれない。あるいは、これらの蛮夷たちは隣接地域に居住していたので、現実にも区分があいまいだし、あくまで行政的な区分にすぎない、あまりきっちりとした区切りを設けて蛮夷を考えるべきではないという意見もありそうだ。たしかにそれらは一理ある。だが、だとしても、巴郡南郡蛮にかんする説話と板楯蛮にかんする説話は全体的にあまりにも異なっていないだろうか。
 巴郡南郡蛮は夷水一帯、南郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しているらしいが、『晋書』でも『後漢書』でも彼らは元来五姓であり、白虎を尊んでいる。
 板楯蛮は巴郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しており、『後漢書』によると彼らの親分は七姓、白虎を殺す者たちである[1]
 とりわけ、白虎に対する姿勢の違いは注目すべきだろう。廩君の話も含め、いったいどうやってこれらの話が漢字に翻訳されたのかというのは謎だが[2]、現状確認できる限り、これは両者の風俗の違いとして大事なポイントだと思う。

 『後漢書』との比較検討を通してなにが言いたかったかというと、『晋書』李特載記冒頭のあの来歴の神話は、漢字文化圏に伝わっていた廩君=巴郡南郡蛮と、武陵蛮[3]と、板楯蛮の話がそれぞれ混合してできあがったまがいものだということだ。色々な資料をつなぎ合わせて一見筋の通ったお話に見せかけているものの、文脈が共通しない各資料を特段の根拠もなく、しかも矛盾を隠しきれないままに一つの筋に並べた、非常にずさんな話だと断言できるでしょう。

 ここで本質的な問題に入ろう。この李氏の来歴のお話はいつ、どのようにして創られたのか。直前の記事で、『晋書』の載記は北魏・崔鴻『十六国春秋』に由来する可能性が高いことを述べておいた。今回の李特についてはどうなのであろうか。『十六国春秋』を見てみよう(『太平御覧』巻123引『崔鴻十六国春秋蜀録』)。
李特、字玄休、巴西宕渠人、其先廩君之苗裔。秦併天下、以為黔中郡、薄賦其人、口歳出銭四十。巴人謂賦為賨、遂因名焉。及高祖為漢王、始慕賨民、平定三秦。既而不願出関、求還郷里、高祖以其功、復同豊沛、更名其地為巴郡。土有塩漆之利、民用殷阜、俗性剽勇、又善歌舞、高祖愛其舞、詔楽府習之、今巴渝舞是也。其後繁昌、分為数十姓。及魏武剋漢中、特祖父虎帰魏、魏武嘉之、遷略陽、拝虎等為将軍。内徙者亦万余家、散居隴右諸郡及三輔・弘農、所在号為巴人。
 翻訳はいいですかね。ええ、『晋書』の李特載記とまったく同じです。廩君のお話が『十六国春秋』では詳しく記述されていないのが『晋書』との違いとして挙げられるけど、『御覧』への引用時に節略された可能性もあるので、その点を差異として言い切ることは難しい(というか、『十六国春秋』でも蜀録冒頭に廩君の神話を記述していた可能性は高いと思う)。

 以上、次のことが明らかになりましたね。すなわち、『晋書』李特載記に記されている李氏の来歴はかなりデタラメである可能性が高いけども、それは唐の史官がテキトーに諸資料をツギハギしてしまったからではなく、そもそも唐の史官がほぼ丸写ししたと思われる『十六国春秋』の時点からああいう整合性の取れない話になっていたということだ。
 じゃあ崔鴻はいったい何を参考にしてあんな話を記述したのだろう。注[2]で論じておいたように、范曄『後漢書』、酈道元『水経注』である可能性は低い。だとしたらなにを参考にしたのだろう? それに李氏は本当に廩君の子孫を名乗っていたのだろうか。仮にそうだとしたらどうして? 逆に崔鴻のウソだとしたらそれもまたどうして?
 また次回。



――注――

[1]板楯蛮が虎狩りを特徴とする蛮夷として認識されていたことは、次の『華陽国志』巻一巴志の記述からうかがい知れる。「秦の昭襄王のとき、白虎が危害を加えることが起こり、秦、蜀、巴、漢の地域がこれに悩んでいた。そこで秦王は国内に何度も懸賞をかけた。『虎を殺した者には封邑一万家、(もしくは?)それと同等の金と布帛を与える』。これを受けて、夷人の朐忍廖仲、薬何、射虎秦精らが白い竹から弩を製作し、たかどのの上から白虎を射撃した。(白虎の)頭に三本の矢が命中した。白虎はいつも虎の群れを従えていたが、群れの虎は(白虎が殺されたのを見て)大いに怒り狂った。(朐忍廖仲らは)群れの虎をすべて殴り殺し、虎たちはうなったあとに息絶えた。・・・〔秦王と夷人との盟約のくだりは省略。『後漢書』の記述とほぼ変わらないので〕・・・。漢が起こると、夷人は高祖に従って戦乱を平定し、功績を立てた。高祖は功績を考慮して税を免除し、虎を射ることだけを生業とさせた。一戸ごとに、一人につき賨銭四十を毎年納付させていた。そのため、『白虎復夷』と代々呼ばれることとなった〔「復」は税を免除することを意味する。虎狩りの功績で銭納以外の税の免除措置を得た夷人、ということだろう〕。あるいは「板楯蛮」とも呼ばれた。(彼らは)現在〔撰者・常璩が執筆した東晋時代ころのことか〕の『弜頭虎子』である〔虎のようにつえー、みたいな感じらしい〕(秦昭襄王時、白虎為害、自秦、蜀、巴、漢患之。秦王乃重募国中、『有能煞虎者邑万家、金帛称之』。於是夷朐忍廖仲、薬何、射虎秦精等乃作白竹弩、於高楼上、射虎。中頭三節。白虎常従群虎、瞋恚、尽搏煞群虎、大呴而死。・・・漢興、亦従高祖定乱、有功。高祖因復之、専以射虎為事。戸歳出賨銭口四十。故世号白虎復夷。一曰板楯蛮。今所謂弜頭虎子者也)」。なお『華陽国志』のテクストは任乃強氏の校注本(『華陽国志校補図注』上海古籍出版社、1987年)を用いた。[上に戻る]

[2]廩君の記述はこのほか、『水経注』巻37夷水にも見えており(後掲)、また李賢の注から推測するに、盛弘之『荊州記』にも記述されていた可能性が高いと思われる(現在は佚書で佚文にも明確に見当たらないが、廩君が塩神を殺した「陽石」についての記述が見えているので。また後掲の『水経注』も参照)。だが、より古くは、李賢が指摘している『世本』に見えているようである。たとえば『太平御覧』巻944に引く『世本』には断片的記述だが、『晋書』の李特載記とほとんど変わらない文言の文章が引用されている。
 では『世本』とはなんだねという話になるのだが、現在は佚書ということもあって、詳しくはよくわからない。先秦の帝王や諸侯・王の系譜などを細かに記述していたらしいということがわかるくらい。この本はじつは非常に古いもので、司馬遷が『史記』を編纂するさいにも参照した史書である。陳夢家氏は戦国趙の趙王遷の時代に趙で編纂された史書だと推測しているが(「世本考略」、『陳夢家著作集――西周年代考・六国紀念』中華書局、2005年)、妥当性はどうだろう。しかし、司馬遷以前にさかのぼるのは確かである。そんな古い時代から廩君の話が伝えられていたっていうのは興味深いね(ちなみに、『世本』は輯本が複数つくられており、代表的なものは西南書局や中華書局から発行されている『世本八種』に収められている)
《参考までに》『水経注』巻37夷水

 夷水は沙渠県から(佷山県に)入る。河の流れは浅く、かつ狭いので、かろうじて船が通れるほどである。夷水は東に流れて、難留城を過ぎてから南に向かう。難留城とは山のことである。山はぽつんとそびえていて、非常に険しい。西の斜面には一里ばかりのほら穴があり、火をともして百歩ばかり歩くと、二つの大きな石が一丈ばかりの離れて並んでいるのが見える。これを俗に「陰陽石」と呼んでいる。陰石はいつも湿っていて、陽石はいつも乾いている。水害もしくは干ばつが激しいときは、住民が服装を整えてほら穴に行き、干ばつのときは陰石をむちで叩く。すると、間もなく雨の日が多くなるという。水害のときは陽石をむちで叩く。するとたちまち晴れるという。聞くところでは、よく効き目があるそうだ。しかし、むちで叩く人が年寄りでなければ、住民たちはとても嫌がるので、(適当な年寄りがいない場合は)おこなわないそうだ。東北の斜面にもほら穴があり、数百人ばかりを入れることができる。戦乱が起こるたびに、住民はほら穴に入って賊から避難する。(このほら穴には)攻め入る隙がないので、難留城と呼ばれているのである。
 むかし、巴蛮には五姓あった。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相が当てることができた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かんだ者が君長になると決まりを立てて勝負した。務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた。塩水の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩水の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回ったので日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天はようやく明るさをとりもどした。廩君は土の船に乗って河を下ってゆき、夷城に到着した。夷城の岸壁は険阻で曲がりくねっており、夷水も湾曲していた。廩君はこの光景を遠く見てとるとため息をついた。すると岸壁が崩落した。廩君がそれを登っていくと、上には四方が二丈五尺の平らな石があった。そこでそのそばに城を築き、居住することに決めた。四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。そのため巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。塩水とは、夷水のことである。また、塩石というのがあるが、それは陽石のことである。盛弘之は、廩君が塩神を射撃した場所だと推測している。(夷水自沙渠県入、水流浅狭、裁得通船。東逕難留城南、城即山也。独立峻絶、西面上里余得石穴、把火行百許歩、得二大石磧、並立穴中、相去一丈、俗名陰陽石。陰石常湿、陽石常燥。毎水旱不調、居民作威儀服飾、往入穴中、旱則鞭陰石、応時雨多、雨則鞭陽石、俄而天晴。相承所説、往往有効。但捉鞭者不寿、人頗悪之、故不為也。東北面又有石室、可容数百人、毎乱、民入室避賊、無可攻理、因名難留城也。昔巴蛮有五姓、未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣于石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃中之、又令各乗土船、約浮者、当以為君。唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦化為蟲、羣飛蔽日、天地晦暝、積十余日、廩君因伺便、射殺之、天乃開明。廩君乗土舟下及夷城、夷城石岸険曲、其水亦曲。廩君望之而嘆、山崖為崩。廩君登之、上有平石方二丈五尺、因立城其傍而居之。四姓臣之。死、精魂化而為白虎。故巴氏以虎飲人血、遂以人祀。塩水、即夷水也。又有塩石、即陽石也。盛弘之以是推是、疑即廩君所射塩神処也。)

   この記述を見る限り、酈道元は『世本』ではなく、盛弘之の『荊州記』を手元に置いてここの部分を記した可能性が高いように思える。細かく見てもらえればわかるのだが、文言の重複具合や省略する箇所の一致など、ここの酈道元の注に記された廩君の記述は范曄『後漢書』の記述とほぼ重なっている。
 そこで気になってくるのが盛弘之『荊州記』と范曄『後漢書』との関係である。どっちが早く書かれたのであろうか。『隋書』経籍志によると、盛弘之は劉宋の時期の人で、「臨川王侍郎」であったという。臨川王義慶を指しているものと解しておこう。『荊州記』なんていう地理書を記すからには、彼は最低限のフィールドワークをやったはずだし、やんなかったらそもそもこんな書物を記そうとは思わないだろう、という推定で調べてみると、劉義慶は元嘉九年に荊州刺史に任命されている。劉義慶に従って荊州に赴任し、数年のあいだに『荊州記』をまとめたと見ておくのが妥当ではないだろうか。一方の范曄『後漢書』であるが、呉樹平氏によると元嘉九年~十六年のあいだに編纂されたらしい(「范曄《後漢書》的撰修年代」、同氏『秦漢文献研究』斉魯書社、1988年)。なんだかんだうまい具合に明解な答えが出るだろうと思ったら、見事に同年代でどっちがはやいとかそういうのわかんねー・・・。
 というわけなので、次の二つの場合を想定するほかなさそうだ。盛弘之『荊州記』が范曄と酈道元の資料源になったケース、范曄→盛弘之→酈道元というケース。
 ところで、その一方で『水経注』や『後漢書』を『晋書』李特載記と比べてみると、かなり異なっていることに気づく。つまり、まず李特載記は省略が少ない。少なくとも范曄や酈道元を見て記したのであれば、彼らが省略したところどころの文脈、たとえば廩君が塩神の願いを断ったさいのセリフや塩神を殺害したあとから夷城を築くまでのお話などといった箇所は、『後漢書』や『水経注』をいくら参考にしたって書けるわけがないのだ。では、盛弘之の『荊州記』はどうだったのだろうかというと、これはなんともいえない。范曄や酈道元と同様の記述だった可能性もあるし、地理書だからもっと豊富に記してあったかもしれない。ともかく、『晋書』の李特載記は『後漢書』や『水経注』を参照したのではなく、異なる書物を参考に廩君の話を記述した可能性が高く、候補としては盛弘之『荊州記』か『世本』が挙げられる、ということが言えるだろう。[上に戻る]

[3]余談だが、范曄『後漢書』や酈道元『水経注』などの漢文史料では、武陵蛮の起源のお話として、槃瓠の説話が記されている。槃瓠は帝嚳の飼っていた犬で、帝を悩ませていた犬戎のボスを討ち取ったことから帝の娘を妻として迎えることができ、山のなかで子をつくった、その子孫が「蛮夷」と呼ばれるようになり、武陵蛮がそれに相当するのだと。匈奴だとか、あと楚とか蜀にしても同じことが言えるけど、非漢族の起源は中華だってお話はやっぱり多いね。漢文史料だからそうなるのも仕方ないが、場合によっては、自分たち自身で「おれたちは中華が起源!」と言い出したりすることもある。楚の王族や劉淵たちはそうなんじゃないかね。そういう選択をしたのも構造的な問題から考察すべきではあろうが。[上に戻る]

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