2014年1月25日土曜日

皇后の諡号

 晋朝皇后の諡号を列挙してみる。

楊艶(武帝皇后)→元
楊芷(武帝皇后)→悼
賈南風(恵帝皇后)→無し
羊献容(恵帝皇后)→無し
王媛姫(武帝中才人)→不明?(懐帝の母、即位と同時に追尊)
虞孟母(元帝皇后)→敬
庾文君(明帝皇后)→穆
杜陵陽(成帝皇后)→恭
褚蒜子(康帝皇后)→献
何法倪(穆帝皇后)→章
王穆之(哀帝皇后)→靖
庾道憐(廃帝海西公皇后)→孝(廃帝在世中に死去、廃帝が廃されると海西公夫人に格下げ)
鄭阿春(元帝夫人)→宣(簡文帝の母、即位と同時に追尊)
王簡姫(簡文帝皇后)→順
李陵容(孝武帝皇后)→文
王法慧(孝武帝皇后)→定
陳帰女(孝武帝夫人)→徳(安帝の母、即位と同時に追尊)
王神愛(安帝皇后)→僖
褚霊媛(恭帝皇后)→思


 と、挙げてはみたけど、今回の主旨はこれらの諡号から一般法則を取りだすとかそういうものではない。見てきたように、晋代では皇后への諡号はごく当然のこととして行なわれているが、『史記』、『漢書』をもっている人は確認してみて欲しい。前漢では皇后に諡号を贈っているだろうか? 贈っていませんね。
 じゃあ、皇后に諡号を送るしきたりはいつごろ形成されたのだろうか。この疑問に答えてくれるのが、『後漢書』紀10皇后紀・下に范曄が立てた「論」である。
漢の時代、皇后には諡号がなく、みな夫であった皇帝の諡号を使用して呼称としていた。呂氏は朝政をもっぱらにし、上官氏〔昭帝皇后〕は称制〔皇帝代行のようなもの〕したが、それでも特殊な称号は贈られなかった。後漢になると、明帝は初めて(光武帝皇后の陰皇后に)「光烈」の称号を贈り、その後はみな(皇帝の)諡号に「徳」を加え、賢愚優劣に関わりなく、一律にそのようにした。ゆえに(明徳)馬皇后、(章徳)竇皇后もともに「徳」と称されているのである。その他は側室の子や封建された皇族が帝位を継承した際に、追尊の重要性を理由に、特別に称号を(母へ)贈ったのみであり、(和帝の母の)恭懐梁皇后や(桓帝の母の)孝崇匽皇后らがその例である。初平年間、蔡邕が初めて諡号の規範をさかのぼって正し、(和帝皇后の鄧太后に)「和熹」の諡号を贈り、安帝皇后の閻皇后、順帝皇后の梁皇后より以下は、みなこれに倣って諡号が(追尊されて)加えられたのである。(漢世皇后無諡、皆因帝諡以為称。雖呂氏専政、上官臨称、亦無殊号。中興、明帝始建光烈之称、其後並以徳為配、至於賢愚優劣、混同一貫、故馬竇二后俱称徳焉。其余唯帝之庶母及蕃王承統、以追尊之重、特為其号、如恭懐孝崇之比、是也。初平中、蔡邕始追正蔡邕和熹之諡、其安思順烈以下、皆依而加焉。)
 李賢の注もあるので、参照してみよう。
『蔡邕集』「諡議」に言う、「漢代、母には諡号がありませんでしたが、明帝のときに初めて「光烈」の称号を建てました。これより後、(決まりが)変わって皇帝の諡号に「徳」を加え(た二文字を皇后の諡号とし)、優劣関係なく、一律にこの規則に従っていますが、これは『礼記』の「大いなる行ないは大いなる名号を受け、小さな行ないは小さな名号を受ける」の制度に違っています。『諡法』に「功績があって人々を安んじたことを『熹』と言う」とあります。皇帝と皇后は一体でありますので、(皇后に関する)礼も(皇帝と)同じように処するべきでありましょう。(行ないに関係なく、すべて『徳』にしてしまうのは間違っておりますし、偉大な業績を残した鄧太后を十分に顕彰することができません。皇帝と同じように、行ないに応じて個別の諡号を贈るべきです。)鄧皇太后の諡号は「和熹」とするべきだと考えます」。(蔡邕集諡議曰、「漢世母氏無諡、至于明帝始建光烈之称、是後転因帝号加之以徳、上下優劣、混而為一、違礼大行受大名、小行受小名之制。諡法有功安人曰熹。帝后一体、礼亦宜同。大行皇太后諡宜為和熹」。)
 少しわかりにくい面もあるので、整理しておこう。
 前漢→諡号無し。
 後漢明帝期→母の陰太后(光武帝皇后)が崩ずると、「光烈」を贈る。「光武」から一字を取ったようだ。
 後漢章帝期→母の馬太后(明帝皇后)が崩ずると、「明徳」を贈る。以後、皇帝の諡号+「徳」。
 後漢和帝期→和帝、生母の梁貴人に「恭懐」の諡号を贈る(和帝の父は章帝。和帝は章帝の皇后である竇皇后とのあいだの子ではなかった)。
 後漢桓帝期→桓帝、生母の匽氏に「孝崇」の諡号を贈る(桓帝の父は和帝の孫にあたる皇族。この皇族と側室とのあいだに生れたのが桓帝。桓帝は即位の翌年、皇帝にはなっていない父に「孝崇皇」の諡号を贈っている。したがって、生母の諡号は父の諡号と同じことになる)。
 後漢献帝期→蔡邕、一律にすべて「徳」とするのはおかしいと建議。あわせて和帝皇后の鄧皇后の諡号は「和熹」に改めるべきだと提案(明記はされていないが、これまでの鄧皇后の諡号は「和徳」だったのだろう)。採用されると、鄧皇后のほかにも、安帝皇后の閻皇后、順帝皇后の梁皇后、桓帝皇后の梁皇后にそれぞれ「思」、「烈」、「懿献」がさかのぼって贈られる。

 皇后に諡号を贈るということ自体は、明帝期に始まったが、章帝以後、そのしきたりはかなり規則的であったようだ。皇帝の諡号が決まっちゃうと自動的に皇后の諡号も決まるわけで。皇后には必ず「徳」をつけるっていうのは、漢代の皇帝はすべて「孝」をつけるってしきたりと似ているね。
 これが改められたのはなんと後漢の末。そのときになって、後漢中期の鄧皇后の諡号が改正されたというのだから、いまさら感がすごいっすね。ていうか、なんで明帝皇后や章帝皇后は追尊しなかったんだ・・・?
 ともかく、後漢末に定まった規則によって、
皇帝⇒「孝」+個別の諡号
皇后⇒皇帝の個別諡号+皇后個別の諡号
となったわけですな。構造としてみれば両者とも似通っている。すなわち、前の一字は自動に、規則的に決定されるのにたいし、後ろの一字は当事者の行動や業績次第で決まる。

 ところで、冒頭に掲げた晋朝皇后の諡号一覧には、皇帝の諡号が加えられていない。後漢以後、皇帝の諡号がつくという風習はなくなってしまったのだろうか、というとそれはわからない。
 じつは、『晋書』巻31・32の皇后伝・上下をみると、各皇后の列伝の見出しは「武元楊皇后」とか、「元敬虞皇后」、「明穆庾皇后」、「簡文宣鄭太后」となっている。それをわたしは、意図して「皇帝の諡号を除いた部分」を冒頭に挙げておいたのです。
 そういうことをしておいてこう言うと開き直りのように聞こえるかもしれんですが、魏晋以後の皇后諡号は皇帝の諡号を省略してかまわんのではないかと思うのです。精査したわけでもないですが、ざっと見た感じ、「元后」、「靖后」、「宣太后」などと皇后を呼称しているし、『宋書』を見ても、「有司奏諡宣皇后」、「諡曰昭皇太后」などとあるのを見ると、皇帝の諡号は省略される傾向にあったか、そもそもそのしきたりは廃されていたか、どちらかだと思う。
 まあ、よく考えたらそうですね。前漢のように「衛皇后」とか言ってたら区別つかないから、「孝武衛皇后」としたり、「徳皇后」では誰のことかわからんから「明徳」としていたのであって、皇后に個別でほかの誰ともかぶらない、唯一の諡号が贈られることになったのであれば、その諡号で呼んだほうが手っ取り早いからね。わざわざうるさく、皇帝の諡号をつけなくても伝わるのだ[1]

 しかし、この現象をどのように捉えたらよいだろうか。皇后としての役割への重視、妻かつ母という人に対する感性の変化、等々。そんなところ?
 この点で示唆に富むのが下倉渉先生の論文「漢代の母と子」(『東北大学東洋史論集』8、2001年)である。下倉氏は、工藤元男先生らに代表される雲夢睡虎秦簡研究(=母の身分が子の身分に関係していたという指摘)を基礎にし、漢代(主に前漢)にも「母」を媒介とした血縁関係の広がりが広範に見られたことを指摘している。政治的には、外戚の輔政という協同観念(頼る黄帝と守ろうとする外戚)に象徴されているという[2]
 しかし、六朝期になると、「母の原理」は「父の原理」の後景に退いてしまった。政治的な現象としてみれば、宗室=父系同族が政治理念の根幹に据えられたことに象徴されている[3]
 晋朝にもいちおうマザコンっぽい皇帝はいるが・・・外戚の輔政っぽいのもたびたび起っているしね(庾冰兄弟、褚裒)[4]。しかし、詳しく調べたことがないので、このへんにかんするわたしなりの意見というのはとくにあるわけではない。たんに、下倉氏が重視する漢代の「母の原理」と皇后へ諡号を贈る慣習の確立とはなんらか関係はあるのだろうか、という点で気になるにすぎない。
 このことを考えていくうえで、さしあたり注意しておきたいのは、皇后が媒介して実際の人間関係が結ばれることと、礼制上で皇后の位置づけが上がっていくことは、慎重に区別されるべきであると思われることだ。とりわけ、六朝期に関しては、礼制が全般的に精密化していった時代なだけに、一見すると皇后の待遇はあがっているように見えそうである。が、本質的なところでは、秦代や漢代における重視のしかたとまったく違っている、というのはありえそう。まあ、簡単な問題ではありませんわな、おそらく(というか礼制関係の史料を読むのがめんどくさそう)。


――注――

[1]このように、後漢が皇后への諡号慣習のはじまりと確立の時代であったと見れば、范曄が『後漢書』で「皇后」を立てたのも、わからんでもない気がする。そこまでの意図があったのかどうかは知らないけど。以前、范曄が史書の記述形式を創出したことを論じたことがあるが、ただこの皇后は、沈約にも唐修晋書にも継承されなかった。[上に戻る]

[2]下倉氏は、「母を基点・結節点として異父の兄弟姉妹や母党の族員と血縁的な絆意識を当時の人々は堅持していた」という、このような親族観念を「母の原理」と名づけている。「父の存在が当該期に全く等閑視されていたと言いたいのではない。『母の原理』が『父の原理』と同等に人間関係を形成する上での重要な原理として有効性を発揮していたと主張したいのである。・・・この『母の原理』は、皇帝を中心とする関係にあっても最も機能的な役割を果たしたのである。皇帝は母后の生族を頼みとし、母族も出嫁女性の子である皇帝を守り立てようとした。『母の原理』に基づく皇帝と外戚のこうした相互的な関係が、外戚保翼の慣行を生み出し、更にその当権・擅朝なる事態を招来するに至ったのである」(p. 39)。[上に戻る]

[3]同論文p. 40。もっとも、これはあくまで「一つの見通し」だと述べられている。[上に戻る]

[4]少し長くなるが『晋書』巻77何充伝を引用しておこう。
 「庾冰ら兄弟は成帝の舅〔成帝の母・明穆庾皇后は庾亮らと兄妹〕であることから、王室を輔佐していたが、その権勢は主君にも等しいほどであった。庾氏は、皇帝が代替わりすると外戚は没落してしまうことを不安に思い、ちょうど外敵が攻めてきたことを機会に、康帝、すなわち成帝の同母弟を皇帝に擁立しようと画策した。いつも成帝に対し、『国家に強大な敵が存在する場合、(国家は)優れた君主を必要とするのです』と説き、(暗に退位しろと言っていたが、)成帝はこれを聴きいれた。・・・(何充は反対したが、とうとう庾氏の成帝退位・康帝即位が実現した)・・・。康帝が即位し、朝堂にのぞむと、庾冰と何充がそばにつきそって座った。帝、『朕が帝業を継ぐことになったのは、二人の力である』。何充、『陛下が即位できたのは冰のお力があったからです。臣の意見が採用されていれば、(わたくしどもは)陛下の太平の治世をお目にかかることができなかったでしょう』。康帝は恥じ入った(庾冰兄弟以舅氏輔王室、権侔人主。慮易世之後、戚属転疏、将為外物所攻、謀立康帝、即帝母弟也。每説帝以国有強敵、宜須長君、帝従之。・・・既而康帝立、帝臨軒、冰充侍坐。帝曰、『朕嗣鴻業、二君之力也」。充対曰、『陛下龍飛、臣冰之力也。若如臣議、不覩升平之世」。帝有慚色)」。
 「(康帝の建元年間、)庾翼が北伐を計画していたが、(庾翼の計画に協力する予定の)庾冰は江州に出鎮していた。何充は(京口から)朝廷に入ると、康帝に進言した、『臣冰は舅という重要な人物でございますから、宰相につけるべきです。遠くに行かせてはなりません』。朝議はこれを採用しなかった(庾翼将北伐、庾冰出鎮江州、充入朝、言於帝曰、『臣冰舅氏之重、宜居宰相、不応遠出」。朝議不従)」。
 「康帝の病気が急変して重くなった。庾冰と庾翼は簡文帝を後継者にしようと思っていたが、何充は(康帝の子を)皇太子に立てるよう建議し、奏上して採決され(すぐに皇太子が立てられ)た。康帝が崩御すると、何充は言いつけに従い、すぐに皇太子を皇帝に立てた。これが穆帝である。庾冰、翼はこれをたいへん悔しがった(俄而帝疾篤、冰翼意在簡文帝、而充建議立皇太子、奏可。及帝崩、充奉遺旨、便立太子、是為穆帝。冰翼甚恨之)」。
 穆帝は即位時2歳。褚皇后が皇太后となり、政治を執った。褚太后の父・褚裒はこれを機に中央に召され、重職に就く(たいした活躍はできなかったけど)。升平元年、穆帝が成人すると、同年にはさっそく皇后を立てた。皇后は何氏。ええ、何充の弟の娘です、コレが。しかしまあ、何充は穆帝即位後数年で亡くなっているけどね。[上に戻る]

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