2026年7月25日土曜日

張軌伝の「受叔父錫官五品」について

 『晋書』張軌伝に次のような記述がある。

泰始初、受叔父錫官五品。

 さっぱり読めない。この文はいったいどういう意味なのか。本記事はこの文の読み方をめぐるちょっとしたメモである。

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 和刻本と矢野主税『魏晋百官世系表』は「錫」字を人名と解している。確かにそう読めそうである。
 だが、「叔父の張錫の官五品を受ける」とは、それはそれでどういう意味なのか。その点に関する両者の理解のありかたはうかがえないのでわからない。

 そういうわけなので、筆者があれこれ推測しながら検証してみると、まずそもそも直感的に「官五品」というフレーズが不自然である。中央研究院の漢籍電子文献で「官○品」で検索してもらえるとわかるが、「京官五品以上」とか「文武官五品」とか「百官九品」とか、そんなふうな用例ばかりが検出される。まずこの時点で少し違和感を抱いてしまう。
 かりにこの違和感を措くとして、じゃあ「官五品」を「五品の官」と解釈するとしよう。例えば日本語版のWikiが「恩蔭(任子)制度により叔父から五品官(九品官人法による官職)を継承した」(2026/7/25閲覧)とするがごとくである。しかしこの解釈は明確に問題がある(じつは、ここの文を五品起家の意味で読もうとすると後文と食い違ってしまうので、その点でこの理解の仕方はそもそも論外なのだが、いまはこの点に関しては度外視しておく)。
 問題の文が要するに「張軌は任子によって五品の官を受け継いだ」という意味なのだとすると、それは張軌が五品で起家したということになるわけである。だが、五品で起家できるのは基本的に郷品一品、すなわち超名門の子弟のみである。いくらなんでも張軌が郷品一品であったわけがなく、五品官で起こったなどということはありえない。
 おまけに、張軌は255年生まれで、泰始(265年~)のはじめの時点では10代の前半であり、とても起家の年齢に達しているとは言いがたい。こうした点から考えて、「任子によって叔父の五品の官を受け継いだ」という読み方は疑問が大きいのである。

 それならば、「官五品」を「郷品五品」と読めばいいのではないか、と考えるであろう。しかし、個人的にこれまで史料を見てきたかぎり、現代のわれわれが言うところの「郷品」が「官○品」と書かれている例を私は知らない。基本的に「二品」とか「五品」とかいうふうに、端的に記すケースが多い印象である。いわゆる郷品は人物に付されている品級なのだから、それを指すのに「官」字を用いることがそもそもおかしいように思われる。
 そして郷品を受け継ぐことなどできるのであろうか……。門資とか任子とかはあるので、まったくないのではないのかもしれないが……。
 また、前述したように、張軌はこのとき10代前半であり、官僚生活をはじめる年齢には達していなかったように思われる。にも関わらず、郷品のみ受け継ぐというのもおかしな話に感じられる。

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 以上をまとめていくと、「官五品」という言い方がなんかヘンだし、そもそもそれが何を意味しているのかも、官品だろうと郷品だろうとおかしいんじゃないか、ということになる。
 そこで私が考えるのは、「錫」を叔父の名と読むのではなく、「錫官五品」とひとまとまりに区切ってみてはどうか、という読み方である。
 といっても、「錫官」にはまったく用例がない。ので、ちょっとひねって「錫」を「賜」で読んでみてはどうか。じつに、「賜官」は零細ながら用例が存在するのである。

傅玄伝
玄復上疏曰、「……前皇甫陶上事、欲令賜拝散官皆課使親耕、天下享足食之利。……王人賜官、冗散無事者、不督使学、則当使耕、無縁放之使坐食百姓也。今文武之官既衆、而拝賜不在職者又多、……」。

良吏伝、鄧攸伝
攸七歳喪父、尋喪母及祖母、居喪九年、以孝致称。……少孤、与弟同居。初、祖父殷有賜官、勅攸受之。後太守勧攸去王官、欲挙為孝廉、攸曰、「先人所賜、不可改也」。

 とくに鄧攸伝を見ていこう(傅玄の上疏はいまいち読めないのでね)
 鄧攸伝によれば、鄧攸の祖父には「賜官」があり、鄧攸はそれを受けとった。この「賜官」は後文で「王官」とも呼ばれている。そしてこの「賜官」=「王官」に留まるかぎり、孝廉の推挙を受けることができなかったらしい。
 加えて興味深いのが、鄧攸がこのときに置かれていた境遇である。彼は幼くして両親と祖母を亡くした。おそらく祖父も故人であったのだろう。つまり、彼は幼少でありながら扶養者を亡くしてしまった。そうした彼の境遇を憐れんで、祖父の「賜官」を受けるよう命じられたのではないだろうか。つまり、ここで「賜官」は、生計能力を欠いた功労者の子孫の生活を保障するために、恩遇として受け継がれているのではないかと想像されるのである。
 前述で指摘したように、張軌も「錫官」を受けた時点では10代前半であった。ということは、彼が「錫官」すなわち「賜官」を受けたのも、鄧攸と同じような意味あいがあったのではないだろうか。

 さて、この「賜官」ないし「王官」に関して、傅玄の上疏は正確に読みかねるところがあるものの、いくぶん特徴をうかがえるような記述が見られる。つまり「王人賜官」のことを「賜拝散官」「冗散無事」「拝賜不在職」などとも呼称しており、「賜官」=「王官」には具体的な職務がなかったらしいのである。あるいは「賜官」は、後世の散官に相当する官全般を指しているのかもしれない。
 このように「賜官」は特定の職務がない官であったならば、さきほど「生活保障の意味があったのではないか」とする推測を補強してくれるであろう。いまだ職務に堪えない年齢でも問題はなく、かつ俸禄があり、税制もよくわからないけど何か特権とかあったのではないか。

 こうした手がかりをもとに推測を重ねてみよう。
 張軌の叔父や鄧攸の祖父は「賜官」を授けられていた。これは特定の職務がないけれども、彼らの生活を保障してくれる官で、思うに彼らの功労を嘉して一種の年金としてそのような官を賜わったのではないかと思われる。張軌の叔父の「賜官」は官品五品相当であったのだろう。
 さてしかし、そうした彼らの子孫は幼くして扶養者を亡くしてしまい、生計に支障が生じてしまった。そこで朝廷は、かつて二人の先輩に授けた「賜官」を、恩遇としてその子孫にも受け継がせ、生活を保護したのではないだろうか。
 張軌や鄧攸は、「賜官」を受け継いだといっても、上記のような経緯により生活を保障するための恩遇として授けられたものであって、官界における地位・身分を表示するものではなかったはずであり、当然、起家とも別であったにちがいない。現に張軌はのちに別の官職で起家しており、幼少期における「賜官」継受は起家と見なされていない。こうしたあたりの事情が、王官から去らなければ孝廉に推挙できない、ということに何らかの影響を与えているのかもしれないが、この点はよく明らかにできない。

***
 以上より、張軌伝の当該の記述は次のような事情を述べたものであったと解釈しておきたい。

泰始のはじめ、孤独となった張軌は、かつて叔父に授けられた五品の賜官を受け継ぎ、生活を保護された。

 しかし、私は先行研究をまったく調べずにここまで推測してきたので、あるいは先行研究によってすでに詳しく考察されているのかもしれない。
 もしそういうものがあれば教えてくれると助かります……!

2025年12月29日月曜日

今年の振り返りと来年の抱負


今年に入ってから、晋書の翻訳をいったんまとめてみようかなと思うようになった。電子でも紙でも自費出版的な。いまのところKindleが有力候補。

それで、今年は「どうしてもこの列伝は訳出しておかないと!」と思っているものに優先的に取りかかり、今年いっぱいで訳せたものでひと区切り。年が明けてからは訳稿を見直していって26年中に自費出版できるようにしよう、と目論んでいたのであった。

今年中に更新したい ・帝紀=読み直し(廃帝まで済) ・列伝=愍懐太子、巻61はマスト。可能なら傅咸、閻纘、潘岳、陸機・陸雲、周処、史家列伝。 さすがに全部は難しそうかな😢 この一年で更新できた分で何らか形にまとめてみたい

↑そういう意気込みを語っていた時期

そういう計画を立てていたのだが、なかなかうまくいかなかった。
なので、年内という自己設定した締め切りは少し延ばして、残り巻82(史官の伝)、周処伝、劉弘伝、陸機・陸雲伝を訳し終えてから自費出版に取り掛かることにした。夏くらいに訳し終わりそうだな…。

計画どおりに進められなかったのにはいくつか理由がある。

まず原稿の仕事が入った。
こんな自分に声がかかるなんてありがたい話。たぶん来年3月くらいに出版になるのかな。ちょっとした小文です。
編集上の連絡がうまくいってないかもしれないので、自分の校正が反映されないまま刊行されるのではないかとドキドキしている。

これの執筆に当たって、ちょっと必要そうだと思ったので社会科学の方法論の議論や統計学を勉強した。統計学は想像していた以上に職人芸だったし、教科書ですら難しすぎて読むのがきつかった…。統計学の教科書とはちょっと違うけど、久米郁男『原因を推論する』林岳彦『はじめての統計的因果推論』大塚淳『統計学を哲学する』は自分にはかなりわかりやすくて、これらがよい助けになった。ありがとうございました。
ともあれ、これの勉強にまあまあ時間を要したのがひとつ。

次に、今年度から職場の労働組合の委員長に就いた。これがなかなか大変だった。
うーん、なんというかまあ、うーん……。なんだかんだみんないい大人なんだし、必要な場面では責任感をもって動いたり意見を出したりするもんだろうって思ってたんだけど、そうではなかったという失望感というか悲しみというか。

やってよかったって思えた事案もあったのだが、全体を通して言えばかなり疲弊した。急な事案が入った場合、どういうふうに組合を動かしていくのかっていうのは前例のない話なわけだからイチからプランを練らないといけないし、そのために組合員にどういうふうに訴えかけるのかとかそういう理屈の部分を考えておかないといけないし、会社の歴史や法律的な知識とかも調べないといけないし、説明用に資料も作ったりしないといけないし、会社にはどういうふうに当たろうかとか考えておかないといけないし、それに自分が委員長だとはいえ、他の役員からも意見を吸い上げながらやらないとたんなる独裁になっちゃうからそこらへんも気を配らないといけないし。まあ、やっぱりちょっと疲れた。

ぜんぶ自分でやるのではなく、うまく他人に頼らないといけないってのはわかってるし、積極的に頼ってるんだけど、その他人に頼るのさえ、「どういうふうに切り出して頼もうか」って考え込んで悩んじゃうからストレスかかる。自分から委員長をやるって就いたからある程度は仕方ないと思ってるし、そういう覚悟を決めているつもりでいるので、そういうことは組合内にこぼさないようにしているし、そういう姿勢も見せないようにしているが。
ストレスのあまり、リアルの先輩方や先生方に盛大に愚痴をぶちまけてしまっていて大変申しわけなく思っております…。

とはいえ、よい経験になっているのは確か。特に労働法の勉強はしてよかった。来年以降も継続して勉強しようかなと考えています。

そんなこんなで、今年度は組合の業務に時間と労力を割かざるをえず、晋書の計画に支障が出てしまった。

あとはちょっとゲーム(エルデンリング ナイトレイン)をやりすぎたね。
組合が~とかわめいておきながら500時間超ゲームしてるからね。我ながら「がっつりゲームやってるやんけ」ってつっこんでしまうわ。




組合は幸い、今年度で委員長は終わり。年度内に残された業務も今月でほぼ片づいたし、年明けからはけっこう軽くなるかなと思う。
ナイトレインはまだまだぜんぜん飽きないので、そこはちょっと理性と相談しないといけないが、とりあえず年が明けてからは晋書のほうにより力を割くように努めて、自費出版に向かっていきたいですね。来年の目標はそんなところ。
というわけで、今年もありがとうございました。

2025年3月27日木曜日

翻訳を出しました

 拙訳が公刊されました。
王明珂・著/長谷川大和・訳「「民族」の建設は容易だが、「市民」の創造は困難である――辺境をどのように見て、いかに理解するか」、『史滴』第46号、2024年12月、pp. 104-140

 




 原著論文は王明珂「建”民族”易、造”国民”易――如何観看与了解辺疆」(『文化縦横』2014-3、北京、pp. 20-30)です。文化縦横のHPで全文が公開されていますので、関心のある方はそちらで原文をご確認してみてください。
 この論文はのちに同氏『華夏辺縁――歴史記憶与族群認同』(上海人民出版社、2020年)に「代序」と改題のうえ収録されています。

 拙訳は数年後にPDFがフリーで公開されるようですが、現在は紙でしか閲覧できません。
 もしご所望の方がいらっしゃいましたら紙の抜き刷りを郵送で贈呈しますので、何らかの形でご連絡いただければと思います。

 数年前に論文を書いたときと同じく、今回も仕事と両立して時間を確保するのにやはり難儀してしまいました。正直、ちょっと厳しいですね……。

 それはともあれとして、今回の翻訳は誤訳・誤解は含まれているとは思いますけど、やれるだけのことはやれたし、言いたいことは全部書けたので、その意味ですっごいスッキリしていて何の悔いもありません。間違っているところは自分の限界です。

 ご興味ある方は読んでみてください。

2022年8月13日土曜日

唐修『晋書』と『世説新語』

 今般、サイトに山濤伝王戎伝楽広伝の訳をアップしたが、これにちなんで改めて表題の件について簡単に確認しておこうと思う。

 ずいぶん前にずいぶん古い文章で「唐の晋書は世説新語を採用していてけしからん」という旨を読み、「そうなのかなあ」と長いあいだ思っていた。
 そうではあるが、私はこの件にかんしてあまり業界の人と話したことがなかった。以前の専門が五胡十六国だったこともあって、十六国春秋とかの話はよくしていたのだが……。
 すでに専門の分野では周知の問題なのかもしれないが、私は唐の史官が世説新語を参照して採用したという考えは疑わしいと思っている。

 幸い、今回訳出した上の三人(+王衍と王澄)は『世説新語』にたくさん登場するため、その分だけ調べる機会も多かった。そしてやはり、「この三伝にかんしては唐の史官は世説新語の記述を採用していない」と結論せざるをえなかった。
 ただ、サイトの訳注にいちいち異同や出典を注記するのも煩瑣に思えたので(ただでさえ十分に煩瑣なのに……)、サイトの訳注ではこの件にかんしてあまり記載しなかった。
 そこでこのブログ記事で、『晋書』と『世説新語』の違いがよくわかる事例を手短に列記しておこうと考えたわけである。


(1)山濤
呉平之後、帝詔天下罷軍役、示海内大安、州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。帝嘗講武于宣武場、濤時有疾、詔乗歩輦従。因与盧欽論用兵之本、以為不宜去州郡武備、其論甚精。于時咸以濤不学孫呉、而闇与之合。帝称之曰、「天下名言也」。而不能用。及永寧之後、屡有変難、寇賊猋起、郡国皆以無備不能制、天下遂以大乱、如濤言焉。

呉が平定されたのち、武帝は天下に詔を下し、軍役(戦時の労役)を停止し、海内に平和を示し、すべての州郡から兵士を廃し、大郡には武吏百人、小郡には五十人を置くこととした。武帝が宣武場で軍事訓練を実施したとき、山濤はちょうど病気を患っていたが、詔を下し、歩輦(持ち上げたりかついだりして運ぶみこし)に乗せて随従させた。そして〔山濤は〕盧欽と用兵の本質について議論し、州郡から軍備を取り去るべきではなかったと主張し、その論はひじょうに精密であった。そのときに話を聞いていた面々はこう思った。山濤は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している、と。武帝は山濤の論を「天下の名言である」と称えたが、採用できなかった。〔恵帝の〕永寧年間以後になると、何度も事変が起き、寇賊が大量に沸き起こったが、どの郡国にも軍備がなかったために制圧できず、天下はとうとう大混乱に陥ってしまい、山濤の言ったとおりになったのである。

 これに類した話は『世説新語』識鑑篇、第四章に収められている。
晋武帝講武於宣武場、帝欲偃武修文、親自臨幸、悉召群臣。山公謂不宜爾、因与諸尚書言孫呉用兵本意、遂究論。挙坐無不咨嗟、皆曰、「山少傅乃天下名言」。後諸王驕汰、軽遘禍難。於是寇盜処処蟻合、郡国多以無備不能制服、遂漸熾盛。皆如公言。時人以謂山濤不学孫呉、而闇与之理会。王夷甫亦嘆云、「公闇与道合」。

晋の武帝が宣武場で軍事訓練を実施したときのこと。武帝は武装を廃し、文化事業を整備しようと思い、みずから訓練場にお出ましになり、群臣を全員召集した。山公は〔武帝の考えは〕適切ではないと思い、そこで尚書たちと『孫子』や『呉子』における用兵の本質について議論し、つきつめるまで論じた。一同の人々は誰もが感嘆し、みな言った、「山少傅〔の言論〕こそ天下の名言だ」。のちに諸王がおごり高ぶり、軽々しく変難を起こした。かくして盗賊があちこちで群がり集まったが、郡国の多くは武装がないために制圧できず、しだいに賊の勢力は増していったのであった。すべて山公の言葉どおりだったのである。世の人々はこう評したという、「山公は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している」。王衍もこう感嘆したのであった、「公は図らずも道と合致している」。

 違いは一目瞭然なので説明は不要であろう。
 ひとこと加えれば、ここで山濤のことを「山少傅」と称しているところがあるが、山濤伝によれば咸寧のはじめに太子少傅に就いている。それゆえ、この話は咸寧はじめのときである可能性がある。しかしいっぽう、『隋書』経籍志、集部、別集に「晋少傅山濤集」という文集が著録されている。すなわち「山少傅」という呼称は王導を「王丞相」、郗鑑を「郗太尉」と呼ぶような類いとも考えられる。「少傅就任前の話に少傅という呼称を使うなんて道理があるか!」と思う向きもあるだろうが、私も『世説新語』のそのあたりを徹底的に調べたわけではないものの、そういう正論がはたして『世説新語』に通じるのか疑問である。

 ここの劉孝標注には「竹林七賢論」と「名士伝」という佚書が引用されている。これも合わせて引いておこう。

「竹林七賢論」
咸寧中、呉既平、上将為桃林華山之事、息役弭兵、示天下以大安。於是州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。時京師猶講武、山濤因論孫呉用兵本意。濤為人常簡黙、蓋以為国者不可以忘戦、故及之。

永寧之後諸王構禍、狡虜欻起、皆如濤言。

「名士伝」
山濤居魏晋之間、無所標明。嘗与尚書盧欽言及用兵本意、武帝聞之、曰、「山少傅名言也」。

 『世説新語』本文は『晋書』本伝と違い、孫呉平定後だとは明言しておらず、盧欽と議論したとも書かれていなかったが、この二つの佚書にはそれぞれその旨が書かれていたらしい。
 ただし「竹林七賢論」は孫呉平定後の逸話とするが、山濤が盧欽と議論したとまでは書いていない。「名士伝」は盧欽と議論したことは書いているが、時機がいつなのかはわからない。

 時期は意外と大事で、というのも盧欽は咸寧四年に死去しているからである(武帝紀、盧欽伝)。したがって、じつは『晋書』本伝のように孫呉平定後に盧欽と議論するのはもともと不可能なのである。
 そうすると、「名士伝」は〈咸寧四年以前に山濤はたまたま盧欽と用兵について議論する機会があり、そのときの山濤の主張を耳にした武帝は「イイね」と言った〉と書かれているとも読め、孫呉平定とは関係がない話だと言えてしまうわけである。
 しかしそれだと、では「竹林七賢論」や『晋書』に言うような孫呉平定後の武備撤廃との絡みはいったい何であるのか。咸寧に用兵について論じて武帝からイイねされ、孫呉平定後もあらためて論じてやっぱりみんなからイイねされたというのだろうか。

 どうも山濤が用兵について見事な論を張ったという逸話にはさまざまなバリエーションがあったようである。ただ『晋書』本伝は盧欽の没年と矛盾しているので、これはダメなバージョンである。
 唐の史官がいろいろな史書からごちゃまぜに引っ張ってきたのか、依拠している晋史の記述をそのまま採用したのかはわからないが、少なくとも『世説新語』をそのまま採用した可能性はありえないだろう。


(2)王衍(王戎伝附伝)
衍嘗喪幼子、山簡弔之。衍悲不自勝、簡曰、「孩抱中物、何至於此」。衍曰、「聖人忘情、最下不及於情。然則情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。

王衍が幼児を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王衍は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王衍は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。しからば、情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。

 これに似た話は『世説新語』傷逝篇、第四章に収録されている。
王戎喪児万子、山簡往省之、王悲不自勝。簡曰、「孩抱中物、何至於此」。王曰、「聖人忘情、最下不及情。情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。

王戎が子供の万子を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王戎は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王戎は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。

 字句はほとんど変わらない。王衍が王戎になり、幼児が王万子(王戎の子)になっている以外は。
 ちなみに劉孝標の注に「一説にこの話は王衍が子を亡くして山簡が弔問したときのことという(一説是王夷甫喪子、山簡弔之)」とある。劉孝標の時代からすでに王戎の逸話か王衍の逸話かで分裂していたようだ。

 王戎の子の「万子」のプロフィールについて確認すると、同章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「戎子綏、……綏既蚤亡」とあり、劉孝標によれば「万子」というのは王綏という人物のことらしい。『世説新語』賞誉篇、第二九章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」には「王綏字万子、……年十九卒」とある。しかし『晋書』王戎伝には「子万、……年十九卒」とあり、名が万であったかのごとくである。このあたりはいろいろ混乱があるみたいだが、ともかく十九歳で早世した子供であるのは確かのようだ。
 また引用時に記述を省いたが、『晋書』王戎伝によるとこの子はひじょうに太っていたという。

 さて、この子供のことをはたして「まだ抱きかかえる年ごろの子供」と呼ぶだろうか。私には少し難しいように思う。つまり王戎が王綏(あるいは王万)を亡くしたときの逸話だとするとかなり不自然だと感じる。
 唐の史官も同様に思い、王衍説のほうを採用したのだろうか。言葉は悪いが、唐の史官がそのような細やかな配慮をするとはとても思えない。依拠した晋史の王衍伝に記載されていたからそのまま採用しただけのように思えてならない。
 ともかくこの箇所にかんしても、『世説新語』を意識しているわけではないと言えると思う。


(3)楽広
成都王穎、広之壻也、及与長沙王乂遘難、而広既処朝望、群小讒謗之。乂以問広、広神色不変、徐答曰、「広豈以五男易一女」。乂猶以為疑、広竟以憂卒。

成都王穎は楽広の婿であった。〔成都王が〕長沙王乂と仲たがいを起こしたため、楽広は朝廷の名士の地位にあったものの、小人たちが楽広のことを〔長沙王に〕讒言した。長沙王が楽広に事情を質問したところ、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「広(わたくし)、五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。長沙王はなおも疑念を抱いていたため、楽広はとうとう不安のあまりに卒してしまった。

 『世説新語』言語篇、第二五章に同様の話が記されている。
楽令女適大将軍成都王穎、王兄長沙王執権於洛、遂構兵相図。長沙王親近小人、遠外君子、凡在朝者、人懐危懼。楽令既允朝望、加有婚親、群小讒於長沙。長沙嘗問楽令、楽令神色自若、徐答曰、「豈以五男易一女」。由是釈然、無復疑慮。

楽広の娘は成都王穎に嫁ぎ、成都王の兄の長沙王乂は洛陽で朝政を握っていたが、とうとう二王は戦争を起こしてたがいにたがいを滅ぼそうとした。長沙王は小人を近づけ、君子を遠ざけていたので、朝廷に身を置いている者はみな不安を感じていた。楽広は朝廷の人望を集め、さらに〔成都王と〕姻戚関係にあったため、小人たちが〔楽広のことを〕長沙王に告げ口した。長沙王はあるとき、楽広に〔成都王と通じていないかと〕質問したが、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。これによって疑いが晴れ、二度と疑惑を向けられることはなかった。

 結末がまったく違うのがわかる。
 劉孝標注に引く「晋陽秋」には、長沙王と楽広との同様のやりとりを記したあと、「乂猶疑之、遂以憂卒」とあり、『晋書』本伝とまったく変わらない結末になっている。
 なお『資治通鑑考異』に引く「晋春秋」には「太安二年八月、楽広自裁」とあり、自殺と伝える史書もあったらしい。

 この箇所にかんしても『世説新語』を参照しているとは言いがたいように思われる。


***
 三つの例だけを簡単に見てきた。『晋書』と『世説新語』の違いが激しいところを挙げただけと言われればそのとおりである。『世説新語』とほとんど変わらない記述も一定数存在するからである。
 しかしながら、劉孝標注や『初学記』などの類書に引用された散佚晋史を見ると、先行晋史にも『世説新語』に類した話が確認できる。しかもその話が『世説新語』と微妙に異なっていることも決して珍しくはない。また『世説新語』に収められている話がすべて『晋書』に見えているわけでもない。

 ようするに、たとえ『晋書』と『世説新語』の記述が同じであったとしても、その取材源を『世説新語』だと考えるのは早計だと私は考える。『世説新語』以外の晋史にも同様の記述が存在する例がありふれているのに、どこに取材源として『世説新語』を挙げる必然性があるのか。『世説新語』から採った可能性はあるが、必然性はない。そのあたりはきちんとすべきである。
 と、とありあえず現在は考えることにする。私は不真面目でひとの議論はきちんと読んでいないので、この程度の事柄であればすでに誰かが言っているかもしれない。そこは今後きちんとします……。

 前回記事(「『魏書』僭晋司馬叡伝の史料的価値にかんする暫定的私見」)から引き続き、歴史的事実としての妥当性云々は措いて記述の成り立ちについて考えてみた。
 それはそれとして、『世説新語』を今回のような仕方で読んだりするのは何だか書物の意向に即していない気がするというかなんというか、ごめんなさいって気分になりますね。ごめん。。

2022年4月3日日曜日

『魏書』僭晋司馬叡伝の史料的価値にかんする暫定的私見

 かつて周一良氏は、『魏書』僭晋司馬叡伝を晋史諸書と比較すると孫盛『晋陽秋』および檀道鸞『続晋陽秋』とのみ合致していると指摘し、同伝はこの二つの晋史をもとに編集されたと論じた。そして魏収がこの二つの晋史を選んだのは、紀伝体よりも編年体のほうが記述材料のピックアップが容易だったからだろうと推測している(周一良「魏収之史学」、同氏『魏晋南北朝史論集』北京大学出版社、1997年、271-274頁)。

 筆者もこの結論に異論はないが、周氏の考証はやや簡略化されており、またもう少し踏み込んで言える事柄もあるように思われる。
 筆者は現段階で、同伝のなかの司馬叡(元帝)の箇所しか精査が終わっていないが、とりあえずこの段階でも言えそうなことを本記事でまとめおこうと考えたしだいである。

***
(1)『晋書』と主旨は同じだが微妙に記述がちがっているところ

(1-1)永昌元年の王敦挙兵
『魏書』司馬叡伝
王敦先鎮武昌、乃表於叡曰、「劉隗前在門下、遂秉権寵。今趣進軍、指討姦孽、宜速斬隗首、以謝遠近。朝梟隗首、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之訓、殷道復昌、賢智故有先失後得者矣」。敦又移告州郡、以沈充為大都督、護東呉諸軍。叡乃下書曰、「王敦恃寵、敢肆狂逆、方朕於太甲、欲見囚于桐宮。是可忍也、孰不可忍也。今当親帥六軍、以誅大逆」。叡光禄勲王含率其子瑜以軽舟棄叡、帰于武昌。

王敦はまず武昌に駐屯し、それから司馬叡に上表して言った、「劉隗は以前、門下に在任していましたため(侍中に就任していたことを指す)、とうとう権力と厚遇を得るにいたりました。いま、すみやかに軍を進め、悪人の討伐に向かう所存でありますが、どうかすみやかに劉隗の首を斬り、遠近に謝罪していただけませんか。朝に劉隗の首をさらせば、諸軍は夕にも退却します。むかし、太甲は湯王の典制を尊重することができず、だいなしにしてしまいましたが、幸いにも伊尹の訓戒を聴き入れましたため、殷の道はふたたび栄えたのでした。じつに、賢者や智者というものは、はじめに失敗しても、そのあとで成功するのです」。さらに王敦は州郡にも布告し、〔呉興で挙兵して王敦に呼応した〕沈充を大都督、護東呉諸軍とした。そこで司馬叡は書を下して言った、「王敦は寵遇を恃みに、あえて狂逆を起こし、朕を太甲になぞらえ、桐宮に幽閉しようとしている(桐宮は伊尹から追放された太甲が三年間過ごした場所)。これが見過ごせるものならば、見過ごせないことなどあろうか。いま、朕みずから六軍を率い、大逆人を誅罰しよう」。司馬叡の光禄勲で〔、王敦の兄で〕ある王含は子の王瑜を従え、軽舟(軽快な小舟)に乗って司馬叡を見捨て、武昌(王敦)に帰順した。

 ここで引用されている王敦の上表文は、『晋書』王敦伝に掲載されている上疏と部分的に合致している。さしあたり『魏書』司馬叡伝の文言に相当している箇所のみを掲げておこう。
劉隗前在門下、……遂居権寵、……。今輒進軍、同討姦孽、願陛下深垂省察、速斬隗首、則衆望厭服、皇祚復隆。隗首朝懸、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之勲、殷道復昌。……。

 『魏書』の「以謝遠近」と「賢智故有先失後得者矣」に相当する文言が見られない以外はだいたい同じである。

 次に沈充だが、『建康実録』中宗元皇帝に、
遣龍驤将軍沈充都督呉興等諸軍事。

とあり、内容としてはおおむね『魏書』と同じであろうが、表現にはかなりちがいがある。たほう、『晋書』には関連する記述を見いだせない。沈充の記述は『魏書』独自の情報とみなしてよさそうである。

 つづいて司馬叡の書(詔)は『晋書』王敦伝と『建康実録』中宗元皇帝にも掲載されている。
『晋書』王敦伝
帝大怒、下詔曰、「王敦憑恃寵霊、敢肆狂逆、方朕太甲、欲見幽囚。是可忍也、孰不可忍也。今親率六軍、以誅大逆。有殺敦者、封五千戸侯」。
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年正月
帝大怒、下詔曰、「王敦憑恃寵霊、敢肆狂逆、方朕太甲、欲見幽囚。是可忍也、孰不可忍也。朕将親御六軍、以誅大逆」。

 『建康実録』は『晋書』王敦伝にかなり近い。
 『魏書』司馬叡伝ふくめ、どれも似たような記載ではあるが、しいて言えば太甲の故事に関して「桐宮」を出しているか否かでちがいがあろう。

 王含の件については以下のとおり。
『晋書』王敦伝
敦兄含時為光禄勲、叛奔於敦。
『世説新語』言語篇、第三七章
王敦兄含、為光禄勲。敦既逆謀、屯拠南州、含委職奔姑孰。
鄧粲『晋紀』(『世説新語』言語篇、第三七章、劉孝標注引)
敦以劉隗為間己、挙兵討之、故含南奔武昌、朝廷始警備也。

 『魏書』司馬叡伝では、王含は子を連れて逃げたこと、そのさいに「軽舟」を用いたことが記されていたが、上の三つの引用文にはそのことまで記述されていない。

 さて、以上までに取りあげてきた事項を列記しよう。
   
司馬叡伝 晋書王敦伝 建康実録 世説新語 鄧粲晋紀
王敦の上表劉隗前在門下、遂秉権寵。今趣進軍、指討姦孽、宜速斬隗首、以謝遠近。朝梟隗首、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之訓、殷道復昌、賢智故有先失後得者矣 劉隗前在門下、……遂居権寵、……。今輒進軍、同討姦孽、願陛下深垂省察、速斬隗首、則衆望厭服、皇祚復隆。隗首朝懸、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之勲、殷道復昌。……。 昔太甲初雖不能遵明湯典、幸伊尹之勲、……。
沈充以沈充為大都督、護東呉諸軍。 遣龍驤将軍沈充都督呉興等諸軍事。
太甲の故事方朕於太甲、欲見囚于桐宮。 方朕太甲、欲見幽囚。 方朕太甲、欲見幽囚。
王含の逃亡 叡光禄勲王含率其子瑜以軽舟棄叡、帰于武昌。 敦兄含時為光禄勲、叛奔於敦。 王敦兄含、為光禄勲。敦既逆謀、屯拠南州、含委職奔姑孰。 含南奔武昌。

 ところどころで『魏書』にのみ見られる記述が存在するが、『晋書』などではそれらの記述が省かれて引用されたと想定することも可能である。
 あくまで個人的な感覚としては、これらの異同には引っかかりを覚えるものもある。だがこれらの材料のみでは、どれも引用・編集の過程で生じた異同にすぎない可能性を排除できない。

(1-2)謝鯤のエピソード
『魏書』司馬叡伝
敦将還武昌、其長史謝鯤曰、「公不朝、懼天下私議」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近入覲、主上側席待公、遅得相見、宮省穆然、必無不虞之慮。公若入朝、鯤請侍従」。敦曰、「正復殺君等数百、何損朝廷」。遂不朝而去。

王敦が武昌へ戻ろうとすると、王敦の長史の謝鯤が言った、「〔帰還にあたって、〕公が〔主上に〕朝見しなければ、天下に私議(王敦を排除する秘密の謀議)が起こってしまうのではないかと懸念します」。王敦、「君は〔入朝すれば〕事変が起きないことを保証できるというのか」。答えて言う、「鯤(わたし)は最近、入朝して〔主上に〕謁見いたしましたが、主上はかしこまりながら公をお待ちになっておられ、面会を希望しておられました。宮中は落ち着いた様子でしたし、きっと不慮の禍は起こらないでしょう。公が入朝なさるのでしたら、侍従いたしたく存じます」。王敦、「〔事変が起こったら〕もう一度君らを数百人殺せばいいだけだ。朝廷にへりくだる必要などあろうか」。けっきょく朝見せずに建康を離れた。

 『晋書』謝鯤伝にこれと似た話が収録されている。
敦既誅害忠賢、而称疾不朝、将還武昌。鯤喩敦曰、「公大存社稷、建不世之勲、然天下之心、実有未達。若能朝天子、使君臣釈然、万物之心、於是乃服。杖衆望以順群情、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載矣」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近日入覲、主上側席、遅得見公、宮省穆然、必無虞矣。公若入朝、鯤請侍従」。敦勃然曰、「正復殺君等数百人、亦復何損於時」。竟不朝而去。

 王敦の「君能保無変乎」という発言以降は字句もほぼ同じである。しかし、それ以前の記述には相違がある。とくに謝鯤の発言は、主旨としては同じだと言えようが、表現にはおおきなちがいがある。
 また『世説新語』規箴篇、第一二章だと次のようにある。
敦又称疾不朝、鯤諭敦曰、「近者明公之挙、雖欲大存社稷、然四海之内、実懐未達。若能朝天子、使群臣釈然、万物之心、於是乃服。仗民望以従衆懐、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載」。時人以為名言。

 こちらの謝鯤の発言は『晋書』にかなり近い。
 さらにこの章の劉孝標注には「晋陽秋」が引かれている。
既克京邑、将旋武昌、鯤曰、「不就朝覲、鯤懼天下私議也」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近日入覲、主上側席、遅得見公、宮省穆然、必無不虞之慮。公若入朝、鯤請侍従」。敦曰、「正復殺君等数百、何損於時」。遂不朝而去。

 『晋陽秋』での謝鯤の発言には『魏書』と同じ「天下私議」という表現が用いられている。それに、『晋書』と『世説新語』は前置きとして〈王敦は病気と称して朝見していなかった〉と説明しているが、『魏書』ではこの文言がなかった。それはたんに『魏書』では省略されただけだとも考えられるが、この『晋陽秋』においてもそのような前振りが確認できない。『世説新語』本文では仮病に触れられているのだから、劉孝標がわざわざ『晋陽秋』からそのくだりを省いて引用したとは考えにくいはずである。だから『晋陽秋』にも仮病の記述はなかった可能性が高いと言えるだろう。
  
司馬叡伝 晋書謝鯤伝 建康実録世説新語 晋陽秋
王敦の仮病敦将還武昌。 敦既誅害忠賢、而称疾不朝、将還武昌。 敦将還屯武昌、不朝而去。 敦又称疾不朝。 既克京邑、将旋武昌。
謝鯤の発言公不朝、懼天下私議。 公大存社稷、建不世之勲、然天下之心、実有未達。若能朝天子、使君臣釈然、万物之心、於是乃服。杖衆望以順群情、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載矣。 近者明公之挙、雖欲大存社稷、然四海之内、実懐未達。若能朝天子、使群臣釈然、万物之心、於是乃服。仗民望以従衆懐、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載。 不就朝覲、鯤懼天下私議也。

 謝鯤の逸話については、たとえば『魏書』と『晋書』で同じ晋史を下敷きにしていたが、編集過程で文言に省略およびアレンジが加えられてこのような相違の結果になった、というわけではないように思われる。『魏書』は『晋陽秋』に依拠し、『晋書』は『晋陽秋』とは別の晋史に依拠した。その結果、謝鯤の発言や話のあらすじにも微妙なちがいが生じた。そのように想定するのがよいと考える。

***
(2)『晋書』では伝えられていない情報

『魏書』司馬叡伝
初為王世子、又襲爵、拝散騎常侍、頻遷射声・越騎校尉、左・右軍将軍。

〔司馬叡は〕最初は琅邪王世子となり、〔その後、〕さらに爵(琅邪王)を継ぎ、散騎常侍に任じられ、射声校尉、越騎校尉、左軍将軍、右軍将軍と昇進を重ねた。

『晋書』元帝紀でのこれに相当する記述は次のとおり。
年十五、嗣位琅邪王。……元康二年、拝員外散騎常侍。累遷左将軍。

 ここの「累遷」とは「ポンポンと出世してゆき某官に昇進した」という意味で、某官にいたるまでに経た官歴を省いた書き方である。つまり『晋書』では員外散騎常侍から左将軍にいたるまでのキャリアが省略されており、詳細不明になってしまっている。
 それに対して『魏書』では、散騎常侍以降の官歴が列挙されている。こちらのほうも「頻遷」とあるので、キャリアの完全な記録ではなく、いくつか省略されたものと考えたほうがよさそうではあるが、そうであるにしても『晋書』では省かれてしまった官歴がきちんと記録されていると考えられるわけである(なお『魏書』司馬叡伝と『晋書』元帝紀とで官名に異同があるが、どちらが妥当なのかは不明。今回は取りあげないが、官の異同もひじょうに多い)。

 このように『魏書』には独自の情報がしばしば見えている。今度はこのことについて考察する。

(2-1)王敦挙兵時の石頭での攻防戦
『魏書』司馬叡伝
叡遣右将軍周札戍于石頭、札潛与敦書、許軍至為応。敦使司馬楊朗等入于石頭。札□見敦。朗等既拠石頭、叡征西将軍戴淵、鎮北将軍劉隗率衆攻之、戴淵親率士、鼓衆陵城。俄而鼓止息、朗等乗之、叡軍敗績。

司馬叡は右将軍の周札を派遣し、石頭に駐屯させたが、周札は秘密裏に王敦に書簡を送り、王敦軍が到着したら内応することを約束した。王敦は〔石頭に到着すると、周札が呼応して石頭を開門したので、〕司馬の楊朗らを石頭に入れさせた。周札は……(原文欠字)王敦に面会した。楊朗らが石頭を占領すると、司馬叡の征西将軍である戴淵と鎮北将軍の劉隗が軍を率いてこれを攻め、戴淵はみずから兵士を指揮し、太鼓を打って兵士を励まし、城壁をよじのぼらせようとした。〔しかし〕にわかに太鼓が鳴りやみ、攻撃が停止すると、楊朗らはこの隙に乗じ〔て反撃したため〕、司馬叡軍は敗北した。

 この引用文には『晋書』に見えない記録が含まれている。どこがそれに該当するかというと、すべてである。順を追って述べていこう。

 王敦が挙兵して建康に迫ったさい、石頭を守備していた周札が城門を開いて王敦軍を入れてしまったことは事実であり、『晋書』の諸紀伝にも記されている。
『晋書』元帝紀、永昌元年四月
敦前鋒攻石頭、周札開城門応之、奮威将軍侯礼死之。
『晋書』周処伝附札伝
王敦挙兵石頭、札開門応敦、故王師敗績。
『晋書』王敦伝
敦至石頭、欲攻劉隗、其将杜弘曰、「劉隗死士衆多、未易可克、不如攻石頭。周札少恩、兵不為用、攻之必敗。札敗、則隗自走」。敦従之。札果開城門納弘。諸将与敦戦、王師敗績。
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年四月
敦先鋒攻石頭軍、周札開城納賊、王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。

 このように周札が開門したことはあちこちに記されている。しかし、『魏書』のように周札が事前に王敦と通じていたとは書かれていない。むしろ王敦伝は〈王敦の将が「周札を攻めれば必ず破ることができるからまずはこちらを攻めるべきだ」と進言し、王敦がその策を採用したところ、周札は開城して王敦軍を入れた〉とあり、『魏書』の記載とは趣を異にしている。

 次に王敦の司馬の楊朗。この人物は『晋書』に見えない。『建康実録』にも記録はない。現在調べたところ、『世説新語』に三度登場を確認できるのみである(識鑑篇、第一三章、賞誉篇、第五八章、同、第六三章)。しかし劉孝標が引いている諸書を合わせて参照しても、このときの戦闘にかんする記述は残されていない。つまり彼が石頭戦でこのような活躍をしていたことは『魏書』司馬叡伝にのみ伝わっているのである。

 最後に石頭での攻防過程について。先に引用した文と一部重複するところもあるが、あらためて関連する記述を列挙しよう。
『晋書』元帝紀、永昌元年四月
敦拠石頭、戴若思、劉隗、帥衆攻之、王導、周顗、郭逸、虞潭等三道出戦、六軍敗績。
『晋書』王敦伝
諸将与敦戦、王師敗績。
『晋書』劉隗伝
及敦克石頭、隗攻之不抜。
『晋書』戴若思伝
尋而石頭失守、若思与諸軍攻石頭、王師敗績。
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年四月
王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。

 王師が敗北したことはあらゆる箇所に記されており、たとえばここには引用しなかった伝(周札伝、温嶠伝、刁協伝、周顗伝など)でも簡潔に〈王師は敗北した〉とのみ記されている。しかし、『魏書』が記しているような攻防の過程にかんしてはどこにもまったく描かれていない。石頭でこのような攻防があったことは『魏書』からのみ知れるのであり、貴重な記録である。

 ただし、貴重な情報であるのは確かなものの、信憑性はまた別問題である。というのも、さきほど軽く言及したように、周札の石頭開門をめぐっては『魏書』司馬叡伝と『晋書』王敦伝とで矛盾していると考えられるからである。
 残念ながら妥当性を判断する材料は残されていない。しいて言えば〈『魏書』司馬叡伝はプロパガンダのために作成されたのだから事実としては怪しい〉として『魏書』を退けることもできるかもしれない。しかし私は、そのような考え方は論点先取だと思う。プロパガンダ性というのは、史料の検証の結果として導き出されなければならない結論であって、史料の真偽性を判断する論拠にあらかじめそれを持ち出してしまうのは証明の手続きとして誤っている。
 そしてまた、魏収が石頭戦の経緯を改竄ないし捏造する必要性はあるのだろうか。プロパガンダを云々するのならば、この点が説明されなければならない。
   
司馬叡伝 晋書元帝紀 晋書王敦伝 晋書周札伝 晋書戴若思伝 建康実録
周処の開城叡遣右将軍周札戍于石頭、札潛与敦書、許軍至為応。 敦前鋒攻石頭、周札開城門応之、奮威将軍侯礼死之。 敦至石頭、欲攻劉隗、其将杜弘曰、「劉隗死士衆多、未易可克、不如攻石頭。周札少恩、兵不為用、攻之必敗。札敗、則隗自走」。敦従之。札果開城門納弘。 王敦挙兵石頭、札開門応敦。 敦先鋒攻石頭軍、周札開城納賊。
楊朗敦使司馬楊朗等入于石頭。
石頭での攻防戦朗等既拠石頭、叡征西将軍戴淵、鎮北将軍劉隗率衆攻之、戴淵親率士、鼓衆陵城。俄而鼓止息、朗等乗之、叡軍敗績。 敦拠石頭、戴若思、劉隗、帥衆攻之、王導、周顗、郭逸、虞潭等三道出戦、六軍敗績。 諸将与敦戦、王師敗績。 王敦挙兵石頭、札開門応敦、故王師敗績。 尋而石頭失守、若思与諸軍攻石頭、王師敗績。 王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。


(2-2)譙王承と王敦軍の戦闘
『魏書』司馬叡伝
敦遣従母弟南蛮校尉魏乂率江夏太守李恒攻承於臨湘、旬日城陷、執承送于武昌。敦従弟王廙使賊迎之、害于車中。

王敦は従母弟で南蛮校尉の魏乂をつかわし、江夏太守の李恒を統率させ、臨湘で譙王承を攻めさせた。旬日(約十日)で城は陥落し、〔魏乂は〕譙王を捕えて武昌へ送った。王敦の従弟の王廙は盗賊に譙王を襲撃させ、車中で殺させた。

 まず魏乂だが、彼は王敦の従母弟(母の姉妹の子で王敦より年少の関係)と続柄が記されている。
 しかしこの情報は『晋書』には存在しない。『晋書』宗室伝、譙剛王遜伝附承伝。
敦遣南蛮校尉魏乂、将軍李恒、田嵩等甲卒二万以攻承。

 このときの戦闘で譙王承に従った者が数人忠義伝に立伝されており、そのぶんだけ魏乂もよく登場しているが、やはり王敦との続柄までは記されていない。
 ところが『晋陽秋』には記されていたようなのである。『世説新語』仇隙篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」。
敦遣従母弟魏乂攻丞(「丞」は譙王承のこと)

 このように『魏書』の情報は、唐修『晋書』に相当する記述がないとしても、好き勝手にデタラメを書いているわけでは必ずしもない。唐修『晋書』があまり依拠しなかった晋史にもとづいた結果、唐修『晋書』には記されていない独自情報を含むことになったのではないだろうか。

 引き続きみていこう。『魏書』司馬叡伝では魏乂と李恒の上下関係が記されているが、さきに引いた『晋書』譙王承伝はじめ、ほかの列伝や史書にはこのことは記されていない。
 譙王軍と魏乂軍との攻防は「旬日」(約十日)と記されていた。しかし『晋書』譙王承伝には「相持百余日、城遂陥」とあり、「百余日」すなわち約三か月にも及んだという。『晋書』元帝紀によると譙王陥落は永昌元年四月であるから、『晋書』に従えば同年正月の王敦の挙兵前後から譙王と魏乂らは戦闘していたことになる。じっさい、『資治通鑑』はそのような繋年をしている。この齟齬にかんしては『晋書』が事実として妥当である可能性が高い。魏収が依拠した晋史に「旬日」と書かれていたか、魏収が晋史を誤読してしまったのではないかと想像している。
 そして譙王の最期だが、『晋書』譙王承伝には次のようにある。
乂檻送承、荊州刺史王廙承敦旨於道中害之。(中華書局は「乂檻送承荊州、刺史王廙……」と標点しているが、この読み方は妥当でないと思われるため、標点を改めて引用した。)

 細かいところではあるが、『魏書』司馬叡伝に比べて簡略化した書き方になっている。これに対し、『世説新語』仇隙篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」には、
王廙使賊迎之、薨於車。

とあり、『魏書』司馬叡伝とほぼ同じ記述になっている。よってこの箇所にかんしても、魏収がデタラメに書いたわけではなく、晋史に依拠した記述内容だったのではないかと思われるのである。
   
司馬叡伝 晋書譙王承伝 晋陽秋 建康実録
魏乂敦遣従母弟南蛮校尉魏乂率江夏太守李恒攻承於臨湘。 敦遣南蛮校尉魏乂、将軍李恒、田嵩等甲卒二万以攻承。 敦遣従母弟魏乂攻丞。
戦闘日数旬日城陷。 相持百余日、城遂陥。
譙王の最期〔魏乂〕執承送于武昌。敦従弟王廙使賊迎之、害于車中。 乂檻送承、荊州刺史王廙承敦旨於道中害之。 王廙使賊迎之、薨於車。


***
(3)『晋書』と矛盾している記述
 これまでもしばしば取り上げてきたが、『魏書』司馬叡伝には唐修『晋書』と矛盾している記述もしばしばみられる。本節ではこのことを中心に述べてみよう。

(3-1)永嘉年間に司馬叡に追加された食邑
『魏書』司馬叡伝
五年、進鎮東将軍、開府儀同三司、又以会稽戸二万増封、加督揚・江・湘・交・広五州諸軍事。

永嘉五年、鎮東将軍、開府儀同三司に進められ、さらに会稽の二万戸を封国に加増され、督揚・江・湘・交・広五州諸軍事を加えられた。

 『晋書』元帝紀にこれに相当する記述が残されている。
増封宣城郡二万戸、加鎮東大将軍、開府儀同三司。

 太字で強調しておいたように、『魏書』では「会稽戸二万」とあるのに対し、『晋書』では「宣城郡二万戸」とある。
 分量が大きくなるのでここでは詳しく考察しないが(拙訳サイトに訳注をアップしてあるので興味のある方はそちらを参照してほしい)、いちおういずれであっても不自然ではない。宣城のほうがやや妥当性が高いかと思うが、決定的な根拠があるわけではない。
 つまりここの「会稽戸二万」という記述はそう簡単に却下できるようなものではない。そして魏収がわざわざこの箇所を改竄ないし捏造するとも思えない。ということは、彼が依拠した晋史だとこのように書いてあったと想定するのが自然ではないだろうか。

(3-2)南郊を実施した年
『魏書』司馬叡伝
叡以晋王而祀南郊。其年、叡僭即大位、改為大興元年。

司馬叡は晋王の身分であるにもかかわらず、南郊の祭祀を実施した。その年、司馬叡は大位につき、大興元年と改めた。

 司馬叡は帝位につく前に南郊をおこなったという。なお即位は太興元年三月丙辰(十日)である。
 
建興五年(建武元年、西暦317年)三月 司馬叡、晋王に即位。承制して建武に改元
建武二年(太興元年、西暦318年)三月 愍帝の訃報が届き、司馬叡、皇帝に即位。太興に改元

 やはり分量の関係もあって、ここでは細かく立ち入ることはしないが、軽く問題に触れておこう。

 司馬叡が南郊を実施した年を調べてみると、太興元年とするものと同二年とするものがある。
 
太興元年 太興二年
魏書司馬叡伝
宋書礼志三
晋書礼志上
建康実録
資治通鑑
金子修一『中国古代皇帝祭祀の研究』

 歴史的事実としては太興二年、すなわち即位の翌年とするのが正しいと私も考えている。
 いちおう『魏書』司馬叡伝と同じ年とする史書もある点をどう考えるか、といったところだろう。

 次に月日の記載を確認してみると、『建康実録』が記述を欠いている以外、すべての史書が三月辛卯の日で一致している。
 しかし、じつはこれには問題があり、太興元年であろうと二年であろうと、三月に辛卯の日は存在しない。そこで『晋書』中華書局校勘記は佚書の記述を参照し、「三月」は「二月」の誤りである可能性を指摘している。二月ならば太興元年・二年ともに辛卯の日が存在する。
 この可能性は実際にはかなり低いと思うが、かりにこの説のとおりに三月ではなく二月が正しく、かつ年についても『宋書』のとおり太興元年が正しいとすれば……わかるだろうか。太興元年二月。司馬叡が皇帝位につくひと月前の時期に当たる。もしこのときに南郊を実施していたのなら、『魏書』司馬叡伝が記していることと符合してしまうわけである。これは逆に、『魏書』の記述を根拠に挙げ、〈年は『宋書』が正しく、月は中華書局校勘記の説が正しい〉と主張することが可能である、ということをも意味する。

 やや大仰に書いてきたが、そもそも私は太興元年説に反対なので、『魏書』の記述が歴史的事実として正しいとはまったく考えていない。だがここで問題なのは、歴史的事実としては何が正しいのかということではなく、魏収は何を参考にこのように記したのかというところにある。言い換えれば、魏収は事実をでっち上げて難癖をつけているわけではなく、魏収が依拠した晋史には太興元年二月と記されてあり、その記述を見て非難的論調の記述に書き換えたという可能性は想定しうるだろうか、ということだ。

 だからこの問題はとても重大なものと言えるのだが、やはり残念ながら現在は考える手だてがない。

***
中間整理
 これまでの検討をふまえ、いったん私の考えをまとめてみる。

◆孫盛『晋陽秋』との関係
 これまで、『魏書』司馬叡伝の記述を唐修『晋書』などの他書と比較し、独自の記述を多く含んでいることを示してきた。
 ここで取りあげてきたのは司馬叡伝のなかの一部でしかないが、(あくまで司馬叡の段落のみに限定すると)独自の記述は全体の大半を占めると言っても過言ではない。唐修『晋書』はもちろん、『世説新語』『建康実録』などとも似ていないのである。
 しかしそうしたなかにあって、孫盛『晋陽秋』の佚文とだけは異常な確率で一致している。これはかなり異様な事態だと感じる。周一良氏の指摘もふまえれば、『魏書』司馬叡伝(の司馬叡の箇所)は孫盛『晋陽秋』に依拠して作成されたと断定してよいと考える。

◆唐修『晋書』との関係
 司馬叡伝が孫盛『晋陽秋』に依拠しているということから、いろいろと言えることが増えてくる。
 重ねて確認するが、司馬叡伝は唐修『晋書』と似ていない。これが意味するのは、唐修『晋書』または唐修『晋書』が依拠した晋史には『晋陽秋』が反映されていない、ということだ。
 唐修『晋書』を読むうえで、これはひじょうに大事な情報になるだろう。

◆『建康実録』との関係
 私は以前、『建康実録』の東晋巻は『晋陽秋』などの編年体晋史をベースにしているのではないかと想像していた。
 しかし今回あらためて検討してみて、『建康実録』は司馬叡伝と似ていなかった。つまり『晋陽秋』にもとづいているわけではなさそうだった。
 かえって唐修『晋書』の帝紀や列伝と類似している箇所が多かったと感じた。そのいっぽうで独自の記述もしばしば見えるし、自注で何法盛『晋中興書』を引いていることもある(永昌元年に挿入の周顗伝)。
 思うに、許嵩は唐修『晋書』を下敷きに据え、紀伝体を編年体に整理しなおす作業をしつつ、さまざまな書物から情報を引いて付加し、独自の歴史叙述へ仕上げていったのではないか。許嵩はそれなりの労力をかけているし、それ相応のオリジナリティも出ているようだと思っている。

◆『資治通鑑』との関係
 今回はあまり『資治通鑑』を取りあげなかった。
 およそ確認したところでは、司馬光は一部で司馬叡伝の記述を採用しているものの、基本的には採択していないようであった。唐修『晋書』と異同がある箇所でも、とくにコメントをしないままに『晋書』を採用している。司馬叡伝の情報の価値を認めていないか、あるいは見落としてしまっていたのではないかと疑われる。

***
(4)魏収の加筆と修正
 司馬叡伝が『晋陽秋』に依拠しているとはいっても、しかしすべて『晋陽秋』からの抜粋で構成されているとはとうてい考えられないだろう。魏収の加筆や修正があってしかるべきである。加筆修正はどの程度にまで及ぶものだったのか。最後にこの問題について考えてみたい。

(4-1)表現の変更
『魏書』司馬叡伝
六月、王弥、劉曜寇洛陽、懐帝幸平陽、晋司空荀蕃、司隸校尉荀組推叡為盟主。於是輒改易郡県、仮置名号。江州刺史華軼、北中郎将裴憲並不従之。

永嘉五年六月、王弥と劉曜が洛陽を侵略し〔て落とし〕、懐帝が〔拉致されて〕平陽に行幸すると、晋の司空の荀藩と司隷校尉の荀組は司馬叡を盟主に推戴した。かくして、〔司馬叡は〕独断で郡県の官吏を改任し、かってに称号を授与したのである。江州刺史の華軼と北中郎将の裴憲はどちらも司馬叡に従わなかった。

 太字の箇所はたいへんな非難となっており、かえってうさんくささを感じさせる。
 しかし冷静になって客観的に考えてみると、ここで言われているのは「承制」(皇帝から委任を受けて統治を代行すること)なのではなかろうか。
 現に『晋書』華軼伝には、
尋洛都不守、司空荀藩移檄、而以帝為盟主。既而帝承制改易長吏、軼又不従命。

と、洛陽陥落後に司馬叡が「承制」したと明記されている。
 当然だが、司馬叡の承制は自称であろう。洛陽陥落後は司馬叡のほかにも、南陽王保、王浚、苟晞、劉琨が承制して地方官や将軍号の授与を裁量でおこなっているが、(きちんと調べてはいないけれど)みな承制は自称である。
 承制を自称する、すなわち皇帝から地方統治を委任されたと自称する。これはもちろん、みずからの命令が正当なものであることをアピールするためである。逆に言えば、承制でなければ正当性を欠いてしまうわけである。
 そしてまさに、司馬叡の承制に従わなかった者が上の引用文に見えている華軼である。
時天子孤危、四方瓦解、軼有匡天下之志、毎遣貢献入洛、不失臣節。謂使者曰、「若洛都道断、可輸之琅邪王、以明吾之為司馬氏也」。軼自以受洛京所遣、而為寿春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡県多諫之、軼不納、曰、「吾欲見詔書耳」。

 洛陽陥落前に「洛陽への道路が途絶すれば、洛陽への献賦を琅邪王へ転送しよう」と言っておきながら、陥落後も司馬叡には承服しなかったという華軼の本心は不可解だが、ともあれ、洛陽陥落前に彼が堅持していた主張は〈洛陽朝廷が健在なのにどうして琅邪王の命令に服従しなければならないのか〉というものだったと思われる。そして陥落後は〈琅邪王が晋朝の臨時のトップだと誰が決めたのか〉と固持し、司馬叡の命令を突っぱねていたのではなかろうか。
 このように、①司馬叡の承制はしょせん自称にすぎないこと、②実際に司馬叡の承制に正当性を認めなかった者が存在したことをふまえると、魏収が「輒」(独断で)とか「仮」(デタラメに)とか表現しているのも、あながち間違いとも言えないように思われる。むしろ西晋末における承制の一側面を的確に捉えている、いやもっと踏み込んで言えば本質を言い当てているようにさえ私には感じられる。
 実際のところ、司馬叡陣営からしてもこのときの承制の正当性を突かれるのは痛いにちがいない。魏収はその点を見逃さず、表現を改めたのだと考えられる。

 一見すると嘘らしい表現に思えた魏収の記述ではあったが、司馬叡の承制自称という歴史的事実を、それなりに妥当性をもつ一視点から表現しなおしたものであると私は考える。魏収は捏造したわけではなく、〈司馬叡が承制を自称した〉という晋史の記述にきちんともとづいていたのであろう。

(4-2)原作の編集
『魏書』司馬叡伝
僭晋司馬叡、字景文、晋将牛金子也。初晋宣帝生大将軍、琅邪武王伷、伷生冗従僕射、琅邪恭王覲。覲妃譙国夏侯氏、字銅環、与金姦通、遂生叡、因冒姓司馬、仍為覲子。由是自言河内温人。

僭晋の司馬叡は字を景文といい、晋の将の牛金の子である。もともと、晋の宣帝は大将軍の琅邪武王伷を生み、伷は冗従僕射の琅邪恭王覲を生んだのであった。覲の妃であった譙国の夏侯氏は字を銅環というが、牛金と姦通し、そのはてに叡を生んだ。そこで司馬氏になりすませ、覲の子としてしまったのである。かくして河内温県の出身だと自称しているわけである。

 よく知られたこのエピソードも魏収が創作したものではない。もっとも古く確認できるのは孫盛『晋陽秋』(『太平御覧』巻九八、東晋元皇帝)である。
又初、玄石図有牛継馬後。故宣帝深忌牛氏遂為二榼、共一口、以貯酒、帝先飲佳者、以毒者酖其将牛金。而恭王妃夏氏、通小吏牛欽而生元帝。亦有符云。

 沈約『宋書』符瑞志上にも同じあらすじでこの逸話が掲載されているが、そちらは干宝の著作から引用したものかもしれない。
 孫盛の上の引用文は、司馬叡が即位して晋を中興させる瑞祥や予言をたくさん列挙しているなかの一節である。つまり、孫盛はこのエピソードを司馬叡即位の予言・吉兆とみなしているのである。
 話の構造はこうなっている。曹魏の時代に玄石図という奇異な巨石が発見されたが、そこには動物の図像が描かれており、その動物配置が「牛継馬後(馬のうしろに牛がつづく)」というものであった。司馬懿はこれを司馬氏にとって不吉な予言と受け取り、牛金を謀殺することによってこの予言の実現を防いだ。しかしのち、琅邪王妃が牛氏と不倫し、とうとう司馬叡を生み、そして司馬叡は即位して晋を再興させた。まさしく玄石図の予言どおりである。と。(玄石図は津田資久「符瑞「張掖郡玄石図」の出現と司馬懿の政治的立場」(『九州大学東洋史論集』35、2007年)が詳しい。)

 いろいろと不可解に思うだろうが、ともかくこの話の意図は、司馬叡の即位は天の意志なのだと示すところに置かれている。東晋南朝においては、そのような文脈のエピソードとして意味をもち、流通していたと考えられる。
 ひるがえって魏収の記述を確認してみると、話のプロットがまったく異なっていることに気づく。玄石図と司馬懿のくだりが消失しているのである。
 魏収が依拠した晋史には玄石図と司馬懿のくだりが存在せず、それをそのまま魏収が引き写したのだ、という想定は可能であろうか。そもそも魏収が依拠した晋史は『晋陽秋』だと思われるのでかなり可能性の低い仮説だが、それとは別の観点からでも問題点を指摘できる。上で述べたように、少なくとも晋史においては、この逸話は司馬叡が即位する吉兆として意味づけられていた。そうした語りのなかでは、玄石図は不可欠な要素であり、これを省いてしまうと司馬叡の即位を予言する物語にならない。したがって、魏収が依拠した晋史がたとえ『晋陽秋』でなかったとしても、玄石図のくだりが存在しなかったとは考えられない。

 だが魏収から見れば、玄石図がどうこう、司馬懿が云々といった前振りはどうでもいい要素だろう。彼にとっては、この逸話がもつもうひとつの意味が重要なのであった。〈予言に合致しているとかそうなのかもしれないけど、ようするに司馬叡は実際は司馬氏ではなくて牛氏ってコトなんでしょ?〉――これこそ魏収が読み取ったこの逸話の意味である。彼は元来の文脈を意図的に無視して一部分だけを切り取って引用し、この逸話に原作とは別の意味をもたせて提示してみせたのだ。司馬叡は牛氏なのに司馬氏を騙ったヤツなのだ、だから彼が樹立した政権もしょせんは偽りの晋、すなわち「僭晋」にすぎない、と。

 魏収のやり方は元来の文脈を無視した切り取り引用であるのにちがいないが、しかし彼が逸話から読み取ったもうひとつの意味は、いちじるしい飛躍を必要とするような不当な物語解釈と言えるだろうか。とてもそういうふうには思えないだろう。確かに切り取ってはいるが、そもそも原作からして〈司馬叡はじつは牛氏である〉と言っているのだから、魏収の読み方は不正に当たらないはずである。原作に潜在的に存在していた意味を顕在化させたにすぎない。

 推測も多く交えたが、司馬叡が牛氏だとの逸話は魏収が創作した話ではない。元ネタは晋史にある。魏収は晋史に書かれてあるとおりには引用せず、元来の文脈を無視して切り取り、逸話に別の意味を付与した。しかしそうして提示された逸話の意味〈司馬叡は実際は牛氏である〉は、原作が潜在的にもっていた意味であって、いちじるしく不当なアレンジとも言いがたい。

(4-3)挿入・加筆の箇所
『魏書』司馬叡伝
遣使韓暢浮海来請通和。平文皇帝以其僭立江表、拒不納之。

〔司馬叡は〕使者の韓暢をつかわし、海を渡って〔わが国(拓跋氏)に〕来訪し、通好を求めた。平文帝は、司馬叡が僭越して江南に自立しているのを理由に、拒絶して受けつけなかった。

 司馬叡伝にはしばしばこの手の記録が記されている。ちなみにこの遣使は『魏書』序紀、平文帝五年に記録されている。
 どういう意図があるのかはわからないが、おそらく北魏側の記録にもとづいて魏収が挿入した文章であろう。
 また司馬叡伝には江南地方の風俗を悪しざまに記述した箇所があるが、おそらくそこも魏収が挿入した箇所だと思われる。


 以上、一部の記述を材料に考察してみた。あくまで一部を対象にしたものなので、臆断しているところも含まれているとは思うが、さしあたり次のようにまとめておきたい。
 依拠した晋史には含まれていなかった情報を、魏収がみずから挿入・加筆した部分は確かに存在する。ただ、そのような記述は分量的にはそれほど大きくないと思われる。
 司馬叡を非難するような表現や正当性に疑念を抱かせるような逸話も、基本的には依拠する晋史に元ネタが記されており、魏収はそれに即していた。そして司馬叡の正当性を相対化する視点に立って、元ネタの表現やプロットを改変したが、元ネタの晋史から大幅に逸脱しているとは言えない程度であると思われる。
 魏収の方針はあくまで晋史に依拠することに置かれており、ウソを捏造して混交するようなやり方は取っていなかったように思われる(言い換えればそれほどの手間ヒマをかけなかったのではないか)。そして晋史のなかに、ケチや難クセをつけられそうな記述や出来事があれば、その表現を改変して列伝に採用したのであろう。もし司馬叡伝に歴史的事実として妥当とは思えないような記述・情報があったとしても、それは依拠した晋史が誤っているか、魏収が誤読してしまったかのどちらかであって、魏収が故意にウソを書くことはなかったと思う。東晋にとって醜聞となるような出来事のみをピックアップし、いっぽうで東晋の国威が発揚したような出来事は一言も触れない。このような一貫した取捨判断にのっとって列伝を作成しているのであって、わざわざ虚偽情報をでっち上げる必要はなかったのではないかと思われる。
 現在のところ、私はこのように考えている。

***
結 論

・『魏書』司馬叡伝(の元帝の部分)は孫盛『晋陽秋』に依拠して作成されている。
・魏収はウソを捏造して混交するようなやり方は取らず、あくまで晋史(『晋陽秋』)の記述に即している。そして司馬叡の正当性に疑義を呈せるような記述や出来事があれば、その表現を改変して列伝に採用した。
・『魏書』司馬叡伝に歴史的事実として誤りと思われる情報があったとしたら、それは『晋陽秋』がまちがっているか、魏収が『晋陽秋』の記述を誤読してしまったかのどちらかであると思われる。魏収は故意にウソ情報を書くつもりはなく、東晋にとっての醜聞ばかりをピックアップし、東晋の国威が発揚したような出来事はまったく書かないという取捨方針で一貫していたと考えられる。
・唐修『晋書』は『魏書』司馬叡伝と類似していない。すなわち唐修『晋書』または唐修『晋書』が依拠した晋史には、『晋陽秋』が反映されていないと言える。
・『建康実録』も『魏書』司馬叡伝とは類似していない。『資治通鑑』は『魏書』司馬叡伝を参照している形跡があまり見られなかった。
・『魏書』司馬叡伝は、魏収による取捨判断が強く作用している点に注意が必要だが、個々の情報自体は孫盛『晋陽秋』に由来するものと考えられるため、晋代史を研究するうえでの第一級史料と言える。

 ここまでひとまずまとめたところで、私は武井彩佳『歴史修正主義』(中央公論新社、2021年)の一節を思い出した。
ホロコースト否定論には、事実も、矛盾のない筋の通る部分もある。むしろ五割は事実であり、三割は真偽のほどが明らかでなく、最後の二割が完全な嘘からなると言っても過言ではない。それゆえに、ホロコースト否定論者の主張を一〇〇%嘘であると言い切ることもできない。(91頁)

 私は当初、司馬叡伝をファクトチェックしてやろうというくらいのつもりでいた。
 いまから考えるとずいぶん驕った姿勢であったが、結果として魏収はウソを織り交ぜているとまでは言えなかった。私の力不足もあるかもしれない。魏収は比較的晋史に忠実で、捏造や改竄はしておらず、ただたんに悪意をもって難クセをつけているだけだし、実際のところ司馬叡陣営にとって痛いところを的確に突いているので不当な視点とも言いづらい。
 しかし、司馬叡伝全体を読むと「この東晋像は歪曲されている」と感じずにはいられない。
 個々の情報は虚偽ではないのに、全体で見ると歪曲されている。いわば、魏収はウソをつかずにウソをついている。事実以上に強力なプロパガンダは存在しないと言っているかのようだ。
 これはじつに興味深い。事実に即しているというだけではある種の「正しさ」は獲得できないということなのだろうか。いったい、魏収のどこがおかしいのだろうか。私は何を基準に「正しさ」を測っているというのか。そもそも魏収をおかしいと感じる自分はまったく歪んでいないのか。

 どこかおかしなところがあるとすれば、魏収の取捨選択の基準が公正ではないといったあたりに求められるのだろう。だが、私はそのあたりを明快に、論理的に、説明することができない。それをもどかしく思う。


※『世説新語』を調べるにあたっては、独寡さん(@Dokka_Satoru)「デイリー晋宋春秋」の世説新語索引をおおいに活用させていただきました。記して感謝申し上げます。

2021年10月3日日曜日

「任命された官職に父祖および本人の名が含まれていた場合は改選希望を申請できる」という晋代の慣例について

 タイトルの件について、晋代でよく知られている事例は王舒であろう。『晋書』巻76の本伝に次のようにある(以下、『晋書』を引用するときは書名省略)。

時将徴蘇峻、司徒王導欲出舒為外援、乃授撫軍将軍、會稽内史、秩中二千石。舒上疏辞以父名、朝議以字同音異、於礼無嫌。舒復陳音雖異而字同、求換他郡。於是改「會」字為「鄶」。舒不得已而行。

このころ(成帝はじめころ)、朝廷は蘇峻を中央に召そうとしていた。司徒の王導は王舒を地方に出して外援にしようとし、そこで王舒に撫軍将軍、會稽内史を授け、秩は中二千石とした。王舒は上疏し、父の名が「會」であるのを理由に辞退した。朝議が開かれ、「文字は同じだが発音は違うので、礼において問題はない」と判断された。王舒はふたたび陳述し、発音は違うが文字は同じなので、ほかの郡に変更してほしいと要望した。そこで朝廷は「會稽」の「會」の文字を「鄶」に変えた。王舒はしぶしぶ赴任した。

 蘇峻が乱を起こす二年前のことであったという。

 同様の問題は王舒の子の王允之のときにも発生したらしい。『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議に、

康帝咸康八年、詔以王允之為衛将軍、會稽内史。允之表郡与祖會同名、乞改授。詔曰、「祖諱孰若君命之重邪。下八座詳之」。給事黄門侍郎譙王無忌議以為、「春秋之義、不以家事辞王事、是上之行乎下也。夫君命之重、固不得崇其私。又国之典憲、亦無以祖名辞命之制也」。

康帝の咸康八年、詔が下り、王允之を衛将軍、會稽内史とした。王允之は上表し、郡と祖父の會が同名なので、改選を希望した。詔が下った、「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか。尚書八座にこの案件を下すので、議論して明らかにせよ」。給事黄門侍郎の譙王無忌の議、「春秋の義に、『私家の事情を理由に国家の仕事を辞退してはならない。これは、上位者が下位者に命じていることだからである』(公羊伝・哀公三年)とあります。そもそも君命の重大さと比べれば、私家の事情を重んじることなどできません。また、国家の法制にも、祖父の名を理由に君命を辞退してよいとの決まりはありません」。

とある。王舒伝附伝の允之伝によると、王允之は會稽内史に任命されたが、任地に到着する前に逝去したという。つまり、最終的に王允之は會稽内史を受け入れたということである。

***
 これだけを見ると王舒父子がワガママを言っているように思えるが、実際は王舒や王允之が改選を希望しているのは正当な権利であったらしい。巻56、江統伝に次のような記事がある。

選司以統叔父春為宜春令、統因上疏曰、「故事、父祖与官職同名、皆得改選、而未有身与官職同名、不在改選之例。臣以為父祖改選者、蓋為臣子開地、不為父祖之身也。而身名所加、亦施於臣子。佐吏係属、朝夕従事、官位之号、発言所称、若指実而語、則違経礼諱尊之義、若詭辞避迴、則為廃官擅犯憲制。今以四海之広、職位之衆、名号繁多、士人殷富、至使有受寵皇朝、出身宰牧、而令佐吏不得表其官称、子孫不得言其位号、所以上厳君父、下為臣子、体例不通。若易私名以避官職、則違春秋不奪人親之義。臣以為身名与官職同者、宜与触父祖名為比、体例既全、於義為弘」。朝廷従之。

選司が江統の叔父の江春を宜春令とすると、江統は上疏して言った、「故事では、父祖の名と官職の名が同じである場合は、すべて改選が許されます。しかし、本人の名と官職の名が同じである場合〔に改選を許可したこと〕はこれまでなかったため、改選の事例に含まれていません。臣が考えますに、父祖と同名であるから改選するのは、臣子として土地を開拓するためであって、父祖のためではないと思われます。ところが、〔父祖の名を避けた官職を授けるさいに、〕自分の名が加わっている官職も臣子に授けています。佐吏や部下が終日のあいだ勤務するとき、〔府君の〕官職名は口に出してしまう言葉です。もし実際の官職名のとおりに言えば、尊貴をはばかるという礼典の義にもとってしまうことになりますし、言葉を変えて〔府君の名を〕避ければ、官を廃してほしいままに法制を犯してしまうことになります。いま、思いますに、四海は広大で、官職は数多く、名称は膨大におよび、士人は多数おります。〔士人のなかで〕恩恵を皇朝より授かり、宰牧(地方官の意)になった者がいたら、佐吏にその官名を呼ばせず、子孫にその官号を言わせないことになってしまいます。〔このように、本人と同名の官職を授けるというのは、〕上は君父を尊び、下は臣子であるという体例を通じなくさせているゆえんです。もし、私名を変えて官職名〔と同じになるの〕を避ければ、『人の親の名づけを奪わない』(穀梁伝・昭公七年)という春秋の義にそむいてしまいます。臣が考えますに、本人の名と官職の名が同じである場合は、〔官職名が〕父祖の名に抵触してしまっている場合と同例とするのがよいと存じます。そうすれば、体例が完全になり、義において広大となることでしょう」。朝廷はこれを聴き入れた。

 読みにくい記事で、かなり解釈を施してある。近日中に拙訳サイトで江統伝をアップする予定なので、解釈の詳細はそちらで参照してほしい。
 ここで確認しておきたいおおまかな文意は、「授けられた官職が父祖と同名であった場合、改選を許可されるという故事がある。しかし本人と同名であったケースについては故事のなかに含まれていない。本人と同名の場合も、父祖の場合と同様に扱い、改選を許可するのが理に適っている」というものである。 なおこの上疏は西晋の恵帝・元康七年ころのものである(『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議)。

 この記述により、王舒や王允之の要望は故事に沿ったものであることがわかるだろう。彼らがとりわけ家礼にこだわっていたからモンスターなクレームを出していたわけではないのである。
 もっとも、王舒父子に対する東晋朝廷の対応をみると、この「故事」が東晋でも継承されていたのかはやや疑わしくも思える。
 また江統は「故事」と言及しているので、これは規定のようなものというより慣例としておこなわれていた措置と言うべきだろう。康帝がハッキリさせるように命じているのも、法として明文化されていたわけではなかったからだと思われる。
 神矢法子氏によれば、漢魏の時代にはこのような措置は取られておらず、西晋になってからおこなわれるようになったのだという(神矢「晋時代における王法と家礼」、『東洋学報』60-1・2、1978年、24頁)。

***
 さて、この問題はおそらくいろいろな角度から掘り下げることが可能だと思われるが、ここでは晋代における銓衡プロセスにしぼって考察を進めてみたい。
 まず参照したいのが巻106、石季龍載記上にみえる記述である。

季龍僭位之後、有所調用、皆選司擬官、経令僕而後奏行。不得其人、案以為令僕之負、尚書及郎不坐。至是、吏部尚書劉真以為失銓考之体而言之、季龍責怒主者、加真光禄大夫、金章紫綬。

石季龍が天王位を僭称して以後、調用する人材があるときには、すべて選司が擬官し、〔その案が〕尚書令と尚書僕射〔の承認〕を経てから〔石季龍に〕奏上し、施行された。〔しかし施行してみたところ、その官に〕適当な人物でなかった場合には、調べて(?)尚書令と尚書僕射の責任とし、吏部尚書と吏部曹の尚書郎は罪に問われなかった。このときになって、吏部尚書の劉真は、選挙の根本を失っていると考え、このことを上言した。石季龍は主者(選司=吏部曹)を叱責し、劉真に光禄大夫、金章紫綬をくわえた。

 これは後趙の選挙制であるものの、石勒や石虎は魏晋期の選挙制に範を取って制度構築しており、ここで言われている銓衡プロセスも晋代で取られていたものである可能性が高いと思われる。
 これによれば、吏部曹が銓衡案を作成し、その案が尚書令および僕射の承認を得られたら皇帝に奏上する、という手順をとる。
 拙訳サイトで「擬官」に付した注を引用してもう少し補足しておこう。

「擬官」は原文のまま。用例(といっても唐書だが)をみるかぎり、「その人物に適当な官職を挙げる」というニュアンスらしく思われる。陳の「用官式」では、まず吏部が叙任したい数十人の名を白牒に列記し、吏部尚書の承認と勅可を得られたら、今度は各人に適当な官を選定してそれを黄紙に記し、八坐の承認と奏可を得られたら施行、という手はずになっているが、この後半の黄紙あたりに相当する作業になるだろうか。王坦之伝には「僕射江虨領選、将擬為尚書郎。……虨遂止」という記述がみえるが、これは起家の例である。また山濤伝には「濤再居選職十有余年、毎一官缼、輒啓擬数人、詔旨有所向、然後顕奏、随帝意所欲為先」という記述もある。両方のケース、すなわち人事を施す人材をまず選考し、それから適当な官を選定するという場合と、官の欠員をうめるにふさわしい人材を選考するという場合と、どちらも最終的には黄紙に人名とその「擬官」を記すことになるのであろう。

 「用官式」については中村圭爾『六朝政治社会史研究』第六章が詳しい。
 上の注をじゃっかん訂正すると、山濤の場合、欠員が出たら適任の人材を数人みつくろって武帝に「啓」した、つまり私的に進言したものである。ゆえに、欠員が出たら人材をみつくろうという銓衡プロセスが吏部で一般的であったかは定かではない。あるいは、皇帝が補欠候補者を吏部に諮問し、それに応じて吏部が人材案を作成して奏し、勅可を仰ぐ、という手順だったのかもしれない。このあたり、今回は細かく詰めてもしかたがないのでこれくらいにしておく。

 さて、人事対象者の官職候補を選定するにも、官職の補欠者を決定するにも、どちらにせよ人材のプロフィールは吏部で精査するはずである。そのさい、父祖のキャリアもチェックされていた(川合安『南朝貴族制研究』第十章)。
 つまり、吏部は銓衡案を作成するにあたり、父祖の名を避けようと思えば避けれたはずである。現に川合氏は、吏部の銓衡時に姓譜が使用されていたと指摘し、その目的のひとつは父祖の諱を避けるためであったと述べている(同前、282頁)。避諱が強力なタブーとして機能していたのなら、銓衡時に父祖の諱を考慮するのは吏部の職務の一環とさえ言えるのだろう。
 しかし、現実には避けていないのではないか。だからこそ「故事」というものが存在するのだし、王舒父子のような問題が発生しているのである。
 避諱が銓衡時に考慮必須なタブーであったならば、こういう問題の発生は吏部の職務怠慢以外のなにものでもなく、叱責されねばならない過失に相当するはずだ。しかし、誰も吏部を責めていない。吏部の過失でこの問題が生じているとは誰も考えていないように思われるのである。
 はたして吏部は本当に父祖の名を配慮していたのであろうか。

***
 いまいちど、江統伝の「故事」をよくみてほしい。「故事、父祖与官職同名、皆改選」。このうち、「皆改選」を私は「すべて改選が許されます」と訳した。
 読み過ぎになるかもしれないが、あくまで「得」であって、「必」や「当」でないことに注意を払いたい。父祖と同名であれば「改選しなければならない」「必ず改選する」「改選するべきである」とは言われていないのだ。「得」とは、改選の可能性を保証するという意味ではなかろうか。絶対に改選するわけではないが、改選希望の正当な理由として要望を受け入れる――こういう含意だと思われる。
 王舒のケースだと、朝廷の対応は明らかに小手先のもので、どうあっても改選するつもりがなかったようにみえる。ただ注意しなければならないのは、朝廷はいちおう、「父祖と同名になっている」という問題を解消するためにあれこれ処理しているところだ。「礼的に問題はない」との朝議や文字の改変などは、ようするに「王舒が嫌がっているような問題はこういうふうにすれば解決するよね?」と対応しているわけである。朝廷の姿勢はひじょうに不誠実にみえるものの、このことから考えれば、朝廷は官人の改選希望を無視することはできず、問題を解消するための努力義務を負っていたと言えよう。そして改選は、問題を解消するための手段(おそらく最終手段)のひとつにすぎなかったのではないだろうか。
 王允之の場合も、朝廷は詳議を開いて希望を通すことはできないとの結論を下しているので、やはり希望を無下にしているというわけではないと思われる。

 くわえて、王舒と王允之は改選希望を自己申告している。おそらく江統もそうである。逆に言えば、官人が申告しなければ問題は発生しない。ここからうかがうかぎり、官人は「嫌だったら言おう」、吏部ないし朝廷は「嫌だったら言っていいよ」というスタンスであったと思われる。つまり、吏部は父祖の名を配慮しない。官人もそれを理解していて、どうしても嫌な場合は申告の権利が保証されていたから改選希望を申請した。だから吏部の仕事に過失があるとは責めなかった。
 『梁書』巻25、徐勉伝にこのようにある(訳は川合氏前掲書、282頁)。

勉居選官、彝倫有序、既閑尺牘、兼善辞令、雖文案塡積、坐客充満、応対如流、手不停筆。又該綜百氏、皆為避諱。

徐勉は吏部尚書となって、一定の規則のもとに人事を行い、文書作成に習熟し、弁舌もたくみであったので、書類が積み重なり、順番待ちの客が満ち溢れても、応対は流れるようで、手も筆をやすめなかった。また百氏についての知識をそなえ、みなその父祖の諱を避けた。

 おそらくだが、避諱に配慮して官を選定できる吏部は有能な吏部とみなされていたのであろう。すなわち、一般的にはできなくてもよかったのではなかろうか。
 あるいは時代差もあるのかもしれない。東晋時代ではそれほど普及していたマナーではなかったが、時代が降るにつれ、常識のようなものになっていったという可能性も考慮できる。

***
 以上をまとめると、

・吏部は銓衡時、父祖の名と官職の名が同じであるか否かには配慮しなかった。
・同名であるのが嫌な場合、官人は改選希望を自己申告することが許されていた。朝廷は、同名を理由とした官人の改選希望申請を官人の正当な権利として保証していた。
・しかし官人が申請したとしても、必ず改選されるとはかぎらなかった。朝廷はあくまで避諱の問題を解消すればよかったからであり、そのためならば改選でなくともよかったからである。
・朝廷は官人の申請を無下にできず、避諱問題を解消する努力義務を負っていた。

となる。やや強引な史料解釈もあるが、現状ではこういうふうに考えておきたい。
 なお六朝から唐宋にいたるまでの避諱の事例は趙翼『陔余叢考』巻31、避諱にいくつか挙げられている。この問題をとりあげた論考には野田俊昭「東晋時代における孝と行政」(『九州大学東洋史論集』32、2004年)もある。

***
 ところで、この改選希望の故事をわかりやすく表現すると「改選の希望を申請してよい(改選するとは言っていない)」という構文になる。
 われわれには馴染みのある言語の使い方である。「社員は自由に有休を申請できます(無条件で承認するとは言っていない)」。まさにこれである。
 求人欄に「時給1100円」と書いてあったのに面接に行ったら「君は若いから1000円で大丈夫だ」と言われてしかたなくその条件で契約した。こういう経験は誰しももっているだろう。「時給1100円」という記載からは「(この条件で契約するとは言っていない)」という但し書きを読み取らねばならない。現代日本の労働者言語はハイコンテクストだと言われるゆえんであるが、晋代の官人、いや同志もなかなか大変だったようだ。
 とくに王舒の事例は同情ものだ。「申請していい」って言うからしたのにめんどくさそうに表面的な対応だけして「これでいいでしょ?」と言ってくるこの嫌な感じ。しぶしぶ赴任した王舒の気持ちが私にはよくわかる。

 康帝も注意が必要だ。彼の詔をあらためて引用しよう。「祖諱孰若君命之重邪」。私はこの文を「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか」と、疑問調で訳出した。『漢辞海』や『古代漢語虚詞詞典』で解説されているように、「孰若(いずレゾ)」は前の語句を否定して後ろの語句を肯定する比較の慣用句(AよりもBがよい)である。じつはこの文、『通典』の中華書局標点本は「邪」を反語で読んでいる。私は後文との兼ね合いもあって疑問のニュアンスで取ったものの、反語ふうに訳出してみたらこうなるだろう。「祖父の諱と君命、どちらが重要だというのか! 君命に決まっているだろう!」なんということだ。厚労省が定める「職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるもの」に明らかに抵触している。パワハラだ。
 しかもこの皇帝、康帝紀をみると礼を重んじた人物なのである。成帝崩御一周年を機に有司が喪の解除を要請すると「礼の軽減なんてとんでもない」と言っているのだ。そんなパーソナリティの皇帝でも「あれぇ~、家礼と君命、どっちが大事だったかなぁ~?」と言ってしまうのだから恐ろしい。さしづめ、社長は有休取りまくっているから自分だっていいだろうと思って申請してみたら露骨に嫌な顔をされてネチネチ言われる“例のアレ”といったところだ。

 まあ康帝には言いすぎたかもしれない。あまり真に受けないでください。


※有休だの時給だのの件はすべてフィクションです。現在勤務している会社で不利益な扱いを被ったことは一度もありません。

2021年9月5日日曜日

研究発表しました

 表題のとおり、大会で報告しました。

三国志学会大会
http://sangokushi.gakkaisv.org/taikai.html

 「匈奴劉氏の歴史認識」と題して報告しました。報告資料は上記リンクから参照できます。長いレジュメでごめんなさい。

 今回発表する件について、ツイッターではたびたびつぶやいていました。RTやいいねをしてくださった皆さま、ありがとうございました。嬉しかったです。御礼申し上げます。

 ユーチューブライブでの配信をリアルタイムでチェックできなかったので、どういうコメントがあったのか等は把握できていません。ツイッターも然り。当分は恐いので検索しません。。


 学術的な意義だとか他の人に理解しやすかったかとかの問題は措くとして、今回の発表は個人的にはすごく納得のいく史料解釈ができたかな、と。
 じつは今回のテーマは学部卒業研究に立てたテーマでした。ただその当時は満足のいく解釈ができませんでした。学部以来のモヤモヤ感がさっぱりなくなったので、私としては満足しました。
 さらに、後漢末の南匈奴の動向や五部分割の実態というのは史料の記述が零細で、諸説紛々していたのですが、これまた私個人としてはスッキリ統一的な解釈ができたかなと思います。
 この機会を与えてくださった皆さまにただただ感謝いたします。ありがとうございました。

 活字化すればいいのではというお言葉もいただけてありがたいのですが、正直いまはそこまで考えられないというか、休みたい(笑)という気分で…。こうやってグダグダしてしまうのが自分のよくないところなんでしょうね。

 それにしても、他の方の発表は余裕がなくてあまり聞けず、レジュメをざっと見ただけなのですが、小野響さんのレジュメに王明珂氏が引用されていましたね。私も王氏を引用しました。とくに『游牧者的抉択』は遊牧民の研究する人は必読になるかもしれない。匈奴の政治史のような概説ではなく、あくまで匈奴における遊牧生活の概説って感じなんですけど、その記述がよくまとまっていて類書がなさそうに思われます。
 とりあえずこの方はおさえておいたほうがよさそうです。
 ただ、氏の議論はいろいろ文脈が豊富だったりするので、援用するさいには少し注意が必要な気もします。

 少し脱線してしまいましたが、何かご質問やご指摘あればツイッターでもここのコメント欄でも構いませんのでお気軽にどうぞ。

2020年12月19日土曜日

唐修『晋書』職官志の「位従公」について

 『晋書』職官志に次のような記述がある。

驃騎・車騎・衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国等大将軍、左右光禄・光禄三大夫、開府者皆為位従公

驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国などの大将軍、左光禄大夫、右光禄大夫、光禄大夫で、開府辟召を授けられた場合はみな「位従公」となる。

 特定の官にある者が開府を加えられた場合、「従公」という位、つまり公よりワンランク低い位になるのだ、と読めそうである。
 が! ちょっとまってほしい。末尾をよく見ると、「為従公」、すなわち「従公と為る」とある。はたしてこれは「位が従公と為る」という意味なのだろうか。そのように読もうとするにはやや違和感のある語順である。

 そう思い調べてみると、たとえば『通典』に載せる晋官品の第一品に「諸位従公」と、やはり「位」の字が付いているし、『南斉書』の百官志でも特進などを「位従公」と言っている。ほかの用例を調べてみても、用例の多くが「位従公」である。
 いっぽう、公や卿は「諸公」「諸卿」であって、「諸位公」「諸位卿」ではない。

 言いたいことをうまく表現できないのだが、ようは「位従公」の「位」は不用意に外さないほうがいい文字なのではないだろうか。この三字を「従公という位」と読んだり、はたまた「位」を省略して「従公(となった)」と読むのは不適切なのではないだろうか。この三字はあくまで「位従公」ひとかたまりで読むべきではないだろうか。

 だとすればこれは何を意味するのかというと、「位は公に従う」=「朝位は諸公に準じる」ということではないかと考える。
 「位」=朝位は席次を言うが、ここで「公に従う」のはもちろん朝位のみを指すのではなく、朝位によって可視化されるところの礼的な場における序列のはずであろう。
 私が何を言いたいのかすでに察した方もいるかもしれない。私は「位従公」を「儀同三司」と同じ意味だと捉えたいのである。
 あくまで「朝位は公に準じる」という朝位が存在したのであり、それがのちに簡略に表現されてたんに「従公」と呼ばれるようになったとしても、はじめから「従公」なる朝位が設けられていたのではないように思われる。

 さて、このような解釈にもとづくと、職官志の「位従公」――職官志では「開府位従公」とも表記される――に関する規定も理解がしやすくなるはずである。
 たとえば次の文。

 太宰、太傅、太保、司徒、司空、左右光禄大夫・光禄大夫開府位従公者為文官公、冠進賢三梁、黒介幘。
 大司馬、大将軍、太尉、驃騎・車騎・衛将軍・諸大将軍開府位従公者為武官公、皆著武冠、平上黒幘。
 文武官公、皆仮金章紫綬、著五時服。……。
 諸公及開府位従公者、品秩第一、食奉日五斛。

 太宰、太傅、太保、司徒、司空、および開府位従公の左右光禄大夫と光禄大夫は文官公であり、進賢三梁冠をかぶり、黒介幘である。
 大司馬、大将軍、太尉、および開府位従公の驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍は武官公であり、みな武冠を着用し、平上黒幘である。
 文官公と武官公はみな金章紫綬を授けられ、五時服を着用する。……。
 諸公および開府位従公は、品秩第一、俸禄は一日につき五斛。

 朝服の詳しい形などは私もさっぱりわからないので説明はできないのだが、諸公(太宰などの上公や司徒などの三司)と「開府位従公」との間には朝服や官品などにまったく違いがない。
 厳密な朝位はもちろん諸公のほうが上であっただろうとは想像されるものの、礼遇は基本的に諸公に等しい、つまり「儀同三司」である。
 冒頭に引用した文の「開府を授けられたら「位従公」となる」というのは「開府を授けられたら儀同三司となる」という意味であり、「開府位従公」というのは「開府儀同三司」の意味である。

 しかし、私のこの解釈は、すでに「儀同三司」というのがあったのに、なぜ「位従公」という別の言い方をするのか、という疑問が生じてしまう。
 思うに、儀同三司はもともと「儀は三司に同じ」という特別待遇のことを言っていたのに、いつしかこの語で固定化して「儀同三司」という特別な称号ないし散官のようなものになってしまったため、かつては「儀同三司」の語で表現したかったことを「位は公に従う」と言うようになったのではないか。まあ、すごく苦しい理屈ですね。
 とりあえず、職官志の「位従公」は「儀同三司」の意で取ると文意が通じるように思われるので、さしあたりはこの解釈に従いたいと考えている。

***
 ついでにもう少し。
 職官志には次のような文もある。

驃騎已下及諸大将軍不開府非持節都督者、品秩第二、其禄与特進同。置長史、司馬各一人、秩千石。……。

驃騎将軍以下(驃騎・車騎・衛の三将軍)および諸大将軍で、「不開府」かつ持節都督でない場合、品秩第二、俸禄は特進と同じ。府に長史と司馬それぞれ一人を置く。長史と司馬は秩千石。……。

 この文、変に思わないだろうか。「不開府」であるのに長史や司馬を置いている、つまり府はあるのである。
 ここで、文のはじめに指定されている「驃騎已下及諸大将軍」が冒頭で引用した「位従公」の規定に見えている将軍号であるのに注意しよう。
 これらの将軍が「不開府」だというのは、「位従公」とならなかった、ということである。そしてそれは、私の解釈にもとづけば、「儀同三司」とならなかったという意味である。
 すると上に引いた文は、驃騎等の将軍や諸大将軍で(開府)儀同三司にならず、かつ持節都督でもない場合は、諸公および開府位従公よりも規模の小さい府を開く、という規定を記しているのではないだろうか。

 このような解釈が成り立つと、ここの「不開府」や冒頭の引用文の「開府者皆為位従公」という場合の「開府」というのは、じつは実質的な意味がない、ということになってしまう。
 「開府」を加えられることによって、はじめて府を設けて属僚を辟召する権限が与えられるのではなく、「ふつうの驃騎将軍ではありませんよ」「ふつうの光禄大夫ではありませんよ」ということを示したいためだけに加えられるもの、あるいは儀同三司とするために加えられるものと考えなくてはならなくなってしまう。
 さすがにそこまで考えるのはおかしいと感じており、調べなおしたいところなので、「開府」に関しては結論めいたものを出さないでおく。

 正直、いままで開府とか儀同三司とかたいして注意して見ておらず、どういう官位の者に開府が加えられているのかまったく考えてなかった……。すいません……。
 もしすでにこれらのことを論じている文章があればご教示いただけると助かります。

2020年11月28日土曜日

唐修『晋書』に見える「臺」について

 『晋書』で「臺」と見かけたとき、私は反射的に「尚書臺」といままで読んでいたのだが、どうもそれはまずいのかもしれないと最近になって気づいた。
 まず例を二つ挙げてみよう。(訳文は拙訳「晋書簡訳所」から引用。一部漢字表記を改めてある。)

及李流寇蜀、昌潜遁半年、聚党数千人、盜得幢麾、詐言遣其募人討流。(巻100、張昌伝)

李流が蜀を侵略すると、張昌は半年間潜伏して人目を避け、徒党を数千人集め、幢麾を盗み、「の使いだ。人を募集して李流を討伐せよとの命令である」と偽って言った。


朝廷遣使諷諭之、峻曰、「下云我欲反、豈得活邪。我寧山頭望廷尉、不能廷尉望山頭。往者国危累卵、非我不済、狡兔既死、猟犬理自応烹、但当死報造謀者耳」。(巻100、蘇峻伝)

朝廷は使者をつかわして説諭したが、蘇峻は言った、「下は、私がそむこうとしていると言っているそうじゃないか。〔そのようななかで中央に行ったら〕命を保つことができようか。廷尉から山の頂上を眺めるなんてもってのほかで、それなら山の頂上から廷尉を眺めるほうがましだ。かつて国家が累卵の危難に陥ったとき、私でなければ救済することはできなかった。〔だが〕狡猾な兎が死ぬと、猟犬は道理からしておのずと煮殺されるもの。それならば、死して謀反をでっちあげる者に報いるのみよ」。

 張昌伝の引用箇所は拙訳の訳注にも記したように解釈に自信がないものの、私はここに見える「臺」を「尚書臺」の意で取った。ここはそのように取って不都合はなさそうに見える。

 いっぽう、蘇峻伝のほうはどうであろうか。これまた訳注に記したことだが、この蘇峻の発言は『建康実録』顕宗成皇帝、咸和元年十月の条に「己巳、庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛、誅之」とあるのを受けてのもの、すなわち南頓王が蘇峻と結託して謀叛していると庾亮がそしったことを「臺下云我欲反」と言っているのだと考えられる。この当時、庾亮は中書監であったから、ここの「臺下」は中書臺の庾亮を指していると見れなくもなく、そうすると「臺」は必ずしも「尚書臺」の意ではないのかもしれないと思いたくなる。

 しかし、ではこの「臺下」を「尚書臺」と読んで支障が生じるのかと言われると、とくに問題はないようにも思われる。というより、「尚書臺」と取ってもよいし、そこから意を拡張して「中央政府」とか「天子」とまで読んでしまってもいいのかもしれない。つまり、語が表現しているのは「尚書臺」なのだけれども、その語が指示しているのは、尚書が中心となって運用されている「中央の政府」であり、だから日本語に訳すときは、「尚書臺」と訳せば少なくともまちがいではないが、文脈によっては「中央」のような意で訳出したほうが適した表現になるのかもしれない。蘇峻の「臺下」に関して言えば、「中央(の政府)」と訳したほうが適当であろうと感じる。

 そしてあらためて張昌伝を見なおしてみると、「臺遣」も「中央からつかわされた使者」という意味で読めるし、というよりそう訳したほうがむしろしっくり来るかもしれない。

***
 ついでだが、『晋書』には「行臺」「留臺」という語も頻出する。
 一般的には、「行臺」は「都の外に置かれた尚書臺」、「留臺」は「天子が都を離れて以降も都に留まっている尚書臺」を言う。
 つまり、これらの「臺」は「尚書臺」を意味すると考えるのが通常である。

 だが、『晋書』巻81、蔡豹伝に「於是遣治書御史郝嘏為行臺、催摂令進討」とあり、読んだときに「なんで侍御史を行臺にするんだ、しかも戦闘の催促に尚書が必要なのかな」と違和感を覚えなかったわけではなかったが、上記のような意味以外に「行臺」を読もうとまでは考えず、拙稿にもそのつもりで引用してしまっていた。
 いま考えると、ここの「行臺」の「臺」は御史臺であったのかもしれない。「臺」といえば「尚書臺」、まして「行臺」であればなおさら、という先入見があまりに強かったゆえに他の可能性を考えられなかったのである。

***
 ところで、「臺」を含む成語に「三臺」というものがある。漢代、この語は尚書臺、謁者臺、御史臺を指して用いられることがあったようで、尚書臺に関連する成語と見なすことができる。魏晋以降は尚書、中書、御史の三つを「三臺」と呼んだらしいが、かかる意味での使用例は少ないように思われる。

 似た成語に「三台」というものもあり、こちらは星座の名称で、三公を比喩する。これまでいちいち「臺」字を使ってきたのは、この(現代の日本語から見れば)ややこしい成語が存在するためである。

 しかし「三臺」の用例をチェックしていくと、数はわずかながら、どうも尚書を含まないケースがあるらしい。
 たとえば『宋書』や『南斉書』に「三臺五省」という語が見える。この場合、尚書は「五省」のほうに含まれていると考えるのが妥当だと思われる(尚書省、中書省、秘書省、門下省、残りひとつは散騎の省?)。
 そうだとすれば、「三臺」は御史臺、謁者臺、あとひとつはよくわからないが(『隋書』巻27、百官志中に載せる北斉の制にはこの二つのほかに都水臺(都水使者)がみえている)、ともかく尚書臺ではないはずである。

 これとは別に、数はぐっと減る、というかいまのところ応詹伝しか見つかっていないのだけど、「三臺九府、中外諸軍、有可減損、皆令附農」という語もある。
 「九府」は「九卿」の意であることからすると、この場合の「三臺」は「三台」すなわち「三公」の意であろうと思われる。
 だが、本当にここの「三臺」を「三公」で取ってよいのだろうか。『晋書』巻67、温嶠伝に「三省軍校無兵者、九府寺署可有并相領者、可有省半者、粗計閑劇、随事減之」とあり、この文の「三省」は「三臺」と同義であるかのごとくであり、かつ「三省」といえば尚書、中書、門下もしくは秘書を指すはずであろうから、「三臺」もそれら尚書などを指すと考えるべきとも思えてくる。
 しかし、かの温嶠伝の記述は、「三省」で「無兵」のところがあれば「減」ずべし、という温嶠の提言であるのだが、そもそも尚書などは兵を有するのだろうか、また場合によっては省いてもよい官署なのだろうか。ありえないはずである。
 温嶠伝の「三省」が何を指すのかはけっきょくわからないのだが(「軍校」は「四軍五校尉」を指すと思う)、「三臺」とはあまり関連がないか、あったとしても「三台」(三公)のほうだと思う。

 話が本筋から逸れてしまったが、「三臺」が「三台」(三公)をも意味するかもしれない例としては、『晋書』巻59、斉王冏伝に「司徒王戎、司空東海王越説冏委権崇譲。冏従事中郎葛旟怒曰、『(中略)三臺納言不恤王事、(中略)』」というのもおそらく「三公」の意で「三臺」と言っている可能性が高い。
 そんなに多く見られるわけではないのだが、「臺」のつもりで「台」を使っているらしい用例はほかにもあるにはあったので、字のちがいはあるていど柔軟に考えてもよさそうである。

 さらに、どうもそれらよりもずっと広い範囲の官署を「三臺」と読んでいるのではないかとおぼしき例もある。『晋書』巻45、劉毅伝附暾伝の「恵帝復阼、暾為左丞、正色立朝、三臺清粛」である。劉暾が尚書左丞に就いて「三臺清粛」というのだから、この「三臺」は端的に「尚書臺」を指しているかのようだが、直前の文に「正色立朝」とあることからすると、「清粛」したのは中央政界全体であったのではないだろうか。そう考えてよいのならば、ここの「三臺」は「中央の政府」くらいの意味になってしまうだろう。

 以上を整理すると、

(1)「三臺」には尚書を含んだ臺を指す場合と、尚書を含まない臺を指す場合がある。体感的には、魏晋代は後者のケースが多い。
(2)「三臺」で「三台」すなわち「三公」を指す場合がある。
(3)「三臺」で「中央の政府」を指す場合がある。

 これ何かの間違いなのでは・・・? と思っているので、詳しい方がいらしたらご教示いただきたい。

***
 もうひとつめんどくさい成語に「臺府」がある。
 斉王冏伝に、冏が「符勅三臺」したという記述が見えるのだが、これが『宋書』巻30、五行志一だと「符勅臺府」に書き換えられている。
 じゃあ「三臺」と「臺府」は同義なのだろうか。

 「臺府」の用例を見るかぎり、たいていは「中央の各官署」を指しているように見受けられる。『晋書』巻105、石勒載記下は「台府」の用例ではあるが、「命郡国立学官、毎郡置博士祭酒二人、弟子百五十人、三考修成、顕升台府」とあり、この「台府」は尚書臺か中央官署の府を指すのではないかと考えらえる。あるいは「三臺九府」を略した書き方が「臺府」なのかもしれない。
 『漢語大詞典』は、いま述べた「中央の官署機構」の意味以外に「御史臺」の意味を挙示している。もっとも、その根拠はよくわからないというか、これ以上調べる元気が出ないのでもう終わりにしよう。

 ともかく、いちおう「三臺」と「臺府」には共通する語用があるようである。とはいえ、その共通の語用で斉王冏伝の「符勅三臺」が読めるのかどうかはわからないのだが。

 史料も思考もぐちゃぐちゃになっていて整理できていない気がするので、後日きちんと再考します。とりあえずメモがてら。

2020年9月29日火曜日

【お知らせ】本ブログに掲載の「宋書百官志訳注」について

 このブログを開設した当初くらいから連載投稿していた「宋書百官志訳注」ですが(最近はぜんぜん投稿していませんが:)、今年に開いた別サイト(https://readingnotesofjinshu.com/)のほうに移そうと思います。

 それで実際のところ、こちらで公開している「訳注」(と称させていただいているもの)については即時すべてを非公開にしたいところなのですが、読みなおし作業の効率上、しばらくは公開したままにしておきます。
 作業がひと段落つくごとに、順次非公開にしていく予定です。
 さしあたりこの投稿を作成している現段階で、(1)は非公開にしてあります。

 そういうことになりますので、どうぞご了解願います。


2020年3月5日木曜日

論文を書きました

 拙論が公刊されました。

「東晋元帝期の北伐の理解をめぐって」、『史滴』第41号、2019年12月、pp. 47-70



 すでにいくつか反省点があり、銭大昕の引用がやや恣意的だとか、外征の事例をいろいろ挙げているけど司馬勲を挙げ忘れているとか、いろいろと自分に甘かったのが原因です……。

 企業に勤めながら書きましたが、やはり時間の確保が課題だなあと。
 といっても、職場に急な事件が起きないかぎりはほぼ毎日18時前には退勤できるし、まずい事態になっても月の時間外労働は30時間を超えるかな?程度なので、環境的にはめぐまれているでしょうが、それでも時間が足りないような気がして、つねにせわしなさを覚えていました。

 ようは、朝と夜は決まった時間になったら作業を中断しなければならないんですよね。「この作業キリがいいとこまでやりたい……!」というのができない。これはだいぶストレスでした。そして、限られた時間でなるべく先まで進めなきゃという焦りをいつも感じてしまう。

 給与があって作業できているわけだし、仕事をおろそかにしてまで作業に没頭するのは明確におかしい。有休とって作業あてるのはぜんぜん良いと思うんですけど、その結果同僚に負担かけまくるというのもちがうでしょう。連日定時ダッシュだったので、「いまこういう事情あります」的なことは言っておいたかな。ただそれでどう思われるかは自分の日ごろの振る舞いにも左右されるだろうから、一概に同僚に伝えておくのが良いとは言えないと思います。私は職場でまあまあ良いヤツキャラしているので、(表立って)反発されることはありませんでした。
 仕事でやることはきちんとやって、そのうえで執筆の作業を進めることに意味があると私は思っていました。時間を長くかけてコツコツやるしかないですね。

 もうひとつキツかったのが資料でした。母校の図書館をおおいに利用させていただきました。
 母校の図書館は、ジャーナルや書籍はだいぶそろっています。OBでも手続きをとれば書庫に自由に入れるようになるので、論文の複写は困りませんでした(そもそも図書館に寄るのがめんどくさかったというのは措いといて)。
 中国語の文献もだいぶ収蔵されていますが、やはりないものもあります。そういうもののなかで、どうしても参照しないとまずそうだと思ったものは、東方書店でCNKIカードを購入し、CNKIからPDFをダウンロードしました。このカード、だいぶいい値段しますので、最終手段的な感じがいいかと思います。

 ただ、OB生に書籍の貸し出しをしていないことには少し参りました。そこそこ厚い研究書とか借りることができないので、関係の深そうな章を複写していくしかなく。索引である程度のあたりをつけ、必要そうな章を複写、という感じで私はやりました。一日図書館にこもってもよかったかもしれないですが……。
 1冊まるごとぜんぶ読まないといけないかも、みたいなそういう感じの書籍は、めんどうだったのですべて買ってしまうことにしました。古本、新本、セールやら何やら、とにかく集めました。学生時代とちがって多少はお金あるんで。中国語の本は天猫で購入してしまいました。

 大学図書館のOB生への利用規定は大学ごとにちがうらしいので、上記のような環境ばかりではないでしょう。なお私は、国会図書館とかそういうとこには行きませんでした。

 今後どうするのかはあんまり考えていないですね。晋書の個人訳を掲載するサイト(https://readingnotesofjinshu.com/)を開設したのでよければそっちも見ていただければ嬉しいです。


2020年2月29日土曜日

サイトを開設しました

 ツイッターではすでに告知したのですが、『晋書』の個人訳を掲載するサイトを開設しました。

晋書簡訳所 https://readingnotesofjinshu.com

 現段階では宣景文三帝以外の帝紀をアップしてあります。今後は月に一回程度の更新を目標に列伝や載記を上げていこうと思います。西晋末から東晋初のものが中心になるかと。

 サイトの開設に伴い、こちらのブログは研究ノート的なところにしようかなと考えています。
 消去してもいいんですが、無料ブログだから料金かかっていないし、コンテンツの移行とかちょっと気が起きないなというもありますし、たまに何かを書きたくなることもあるので残そうと思います。

 『宋書』百官志の訳が途中になってしまっているのですが、これはまあ……。あれは通典、太平御覧、晋書職官志、続漢書百官志で関連する記述をチェックし、注釈にまとめるということを律義にやっていたんですが、途中でそれがすごく苦痛になりました。気が起きないときは手を抜きたいんですよね。
 今回の晋書サイトはそのことを反省し、注釈とか出典とかは気が向いたらつける程度にしてあります。継続できるといいんですけど……。サーバーを一年契約でレンタルしてしまったので最低でも一年はやりますが。

 「きみはいったい何をしたいの」と思う人もいると思いますが、なんとなくです……。計画性はとくにありません。

2019年1月20日日曜日

晋南朝期の「素論」について

『晋書』巻70応詹伝に載っている、応詹が江州都督赴任時に上した疏は、当時の官人への引き締めを訴えるもので、具体的な制度改修案を列挙したものである。そのうちのひとつに次のようにある。

漢の宣帝のとき、二千石のうちで、職務をきっちりこなし、善良の成績を上げた者は、中央に入朝させて公卿としました。職務に不適格で官を免ぜられた者は、みな平民に戻されました。懲罰と褒賞が必ず実行されたために、(漢は?)長期の歴運を得たのです。(ところが)近年以来、昇進措置は競争心を高めることができず、免官措置は不安を抱かせることができません。昇進して失望する者もいれば、降格して満足する者もいます。官に就いて成績を上げたとしても、「素論」を理由に降格させられてしまいますし、職務においては事実上、劣等成績であっても、たんに「旧望」を理由に抜擢されます。(これは)交際や談論で比較をおこない、優劣をつけているのであって、実際の仕事(の成果)によって優劣をつけていないということです。この基準に拠りながら成果を要求しておりますが、臣は成果のきざしを確認できていません。いま、左遷の旧制を厳しくするべきです。二千石は免官されたら、三年経ってようやく(官に?)就任できるようにし、長吏[1]は期間を六年とし、どちらも(再任時の郡県の)戸口は(前任時の)半分、都からの距離は倍のところとするのが適当だと考えます。この法がしっかりおこなわれれば、官は得がたいが失いやすいことを天下に知らしめられましょうし、必ずや人々は職務に注意して当たるようになり、朝廷からは怠惰な官がいなくなることでしょう。(漢宣帝時、二千石有居職修明者、則入為公卿、其不称職免官者、皆還為平人。懲勧必行、故歴世長久。中間以来、遷不足競、免不足懼。或有進而失意、退而得分。莅官雖美、当以素論降替、在職実劣、直以旧望登叙。校游談為多少、不以実事為先後。以此責成、臣未見其兆也。今宜峻左降旧制、可二千石免官、三年乃得叙用、長史六年、戸口折半、道里倍之。此法必明、使天下知官難得而易失、必人慎其職、朝無惰官矣。)

 ここに見える「素論」とは何であるのか。「旧望」と対になっているので、それに類似した意味なのだろうとまずは推測されるものの、「素」の「論」とは具体的にどういうことなのだろう。「素論」や「旧望」に基づく評価は、「游談」を基準にしたものだとも表現されているので、これとの関連性も考えねばならない。
 中央研究院の電子文献で晋南朝の正史での用例を検索してみると、晋書:3、宋書:2、南斉書:1、梁書:1である。北斉書、隋書、北史にもそれぞれひとつ検索される。その他の時代の正史ではまずかかっていないので、晋南北朝期に特有の用語とみてよさそうだが、それにしても用例が少ない。

 辞書を確認してみよう。『漢語大詞典』には、(1)「猶高論」(用例に『宋書』蔡廓伝、『文選』任昉「百辟勧進今上箋」)、(2)「猶与論」(用例に『北斉書』廬文偉伝、『隋書』廬思道伝)、の二つの義が掲載されている(縮刷版、p. 5617)
 応詹の上疏は(2)の意味で取るのが良さそうに思えるが、辞書らしくざっくりとしたニュアンスでしか書かれていないので、以下、この辞書の記述を手がかりにして具体的なイメージを固めてみたい。

***
 最初に漢語大が(1)の用例に挙げる『宋書』巻57蔡廓伝の「史臣曰」条。

世重清談、士推素論、蔡廓雖業力弘正、而年位未高、一世名臣、風格皆出其下。

 蔡廓は「年位未高」とはいえ、「世」や「士」が重んじる「清談」「素論」のもとでは高く評されたため、「一世名臣、風格皆出其下」であった、ということだろう。「素論」は「世」や「士」によって形成される言論活動とひとまずは素描できるだろうか。
 注目されるのは「素論」が「清談」と対になっていることであり、おそらくこの点が「猶高論」とされる根拠なのだろう。
 ただ、ここでは「清談」との対偶関係はいったん措いて、蔡廓のどういう点が評価されているのか、本伝から確かめてみようではないか。

 ということで本伝を見ると、伝の末尾に次ような記述がある。

廓年位並軽、而為時流所推重、毎至歳時、皆束帯到門。奉兄軌如父、家事小大、皆諮而後行、公禄賞賜、一皆入軌、有所資須、悉就典者請焉。

 史臣曰が、ここの「時流にモテモテでした」という箇所を承けているのは明白だろう。だが、なぜモテたのか。本伝には、彼が清談ないし老荘的な言論を好んでいたとは書かれていない。むしろ上の引用に見られるように、彼は兄によく奉仕した模範的な知識人と言えるのであって、儒教的なものからの逸脱が見られるのでもない。
 本伝から高評価につながりそうなポイントを探してみると、「剛直」「不容邪枉」という彼の性格がそれに該当するのではないかと思われる。劉裕はこの性格を買って蔡廓を御史中丞に就けたし、また蔡廓は時の権力者である傅亮らに迎合もせず、徐羨之からは疎んじられるほどであった。蔡廓の子の蔡興宗もまた剛直な人間であったが、父・蔡廓の風格を受け継いでいると評されていた[2]。つまり、蔡廓は剛直をもって評判を得たと言いうるのであり、これをこそ「時流」は評価したのだろう。そしてその「時流」が重んじた「清談」や「素論」は、蔡廓のこうした性格や振る舞いに注意を向けるようなものなのだろう[3]
 こういうふうに考えていくと、史臣曰の「清談」は老荘的言論ではなく、いわゆる「清議」を指しているのではとも思われてくる。そうであるならば、ここの「清談」も「猶与論」とみなしてよいのかもしれない。

 以上をまとめると、
・「素論」は「世」「士」「時流」が重んじるものであり、かつ「世」や「士」によって形成されるものだと思われる。
・「素論」は「清談」と対の関係に立ちうる。
・老荘的言論に親しんでいない可能性の高い蔡廓であっても、「素論」によって評価されている。

***
 つづいて『晋書』より、老荘的な清談とは関わりの薄い用例を二つ検討してみよう。

『晋書』巻40楊駿伝附珧伝
珧初以退譲称、晚乃合朋党、搆出斉王攸。中護軍羊琇与北軍中候成粲謀欲因見珧而手刃之、珧知而辞疾不出、諷有司奏琇、転為太僕。自是挙朝莫敢枝梧、而素論尽矣。

楊珧は最初のうちこそ謙遜ぶりを称賛されていたが、晩年になると徒党を集めるようになり、斉王攸を陥れて中央から出るように仕向けてしまった。中護軍の羊琇と北軍中候の成粲は、楊珧に会う機会を得たらみずから斬る算段を立てていたが、楊珧はそれに気づいて病気と称して朝廷に出勤しなくなった。そして有司に、羊琇を異動させるよう言い含めたので、羊琇は太僕に移ってしまった。これ以後、朝廷で楊珧に逆らおうとする者は誰もいなくなったが、しかし「素論」は失われてしまった。

『晋書』巻50郭象伝
郭象字子玄、少有才理、好老荘、能清言。・・・後辟司徒掾、稍至黄門侍郎。東海王越引為太傅主簿、甚見親委、遂任職当権、熏灼内外、由是素論去之。

郭象は字を子玄といい、若くして聡明で、老荘を好み、清談が得意であった。・・・のちに司徒掾に召され、ついで黄門侍郎に就いた。東海王越が太傅主簿に召すと、多大な信頼を寄せられ、とうとう権力のある職務を委ねられるようになり、内外(天下?)を圧倒するような権勢を得たが、このことで「素論」は郭象のもとから離れてしまった。

 けっきょく清談とバリバリ関係ある郭象を引いて申しわけない。とはいえ、郭象伝の用例自体はあんまり清談と関係なさそうだからセーフですね。
 さて、これは見てすぐに直感できると思うのだが、漢語大の掲げる(2)「猶与論」ドンピシャであろう。さきに少し触れた「清議」にぐっと近い用法だと思われる。
 さらに興味深いのは、「素論」が離れていったそのキッカケもまた共通していることである。すなわち、権力にベッタリであること、あるいは私的に濫用していること。謙譲や清談で評判を得た二人は、権力との適切な距離を保てず、その評判を落としてしまった、つまり「素論」が離れてしまったわけである。ここでついでに蔡廓も想い起してほしい。彼の剛直ぶりは、権力者にも狎れあわないこと、迎合しないことに端的に示されていたのであった。
 そもそも「素論」自体の用例が少ないので、この三例をもって特徴づけるのは慎むべきとはいえ、これらの用例における「素論」が権力との距離を問題にしている点で共通しているのは興味を惹かれる。権力に酔うことへのこの批判的姿勢においては、清議はもちろん、清談と共有部分があると言えなくもないだろう。

 清談との関係でもう少し付け加えておく。郭象がどうして「素論」を得ていたかというと、彼が清談で名を馳せたからだろう。家格とか孝、礼の実践とかではたぶんない。そんな郭象が権力ズブズブになっちゃったから、なんだあいつ、口では資本主義廃絶とか言っておいてやっていること金まみれじゃねえかよってなったわけですよね。つまり、彼の清談を評価する層と、「素論」を形成する層とはいっしょってことだよね。「素論」自体が清談を好む層によって形成されているならば、双方の基底に横たわる価値判断も共通していて当然だろう。
 応詹の上疏も思い出してほしい。そこでは、「素論」や「世望」による評価が、「游談」基準の評価とも言い換えられていた。「游談」という並びは浮華的な活動を連想させるのだが、はたして応詹は老荘や放達の流行こそ永嘉の乱を招いたとの考えを保持しているのであって[4]、その姿勢がこの疏でも貫かれているとみなすべきだろう、近年流行の人物評価指標で政治を回してもなんにもいいことないですよ、みたいな。こうして考えていくと、応詹の疏に見える「素論」は「游談」すなわち浮華の活動のひとつとなるだろう。
 応詹の疏に留まるかぎり、この連関は応詹の主観である可能性を排去できない。しかし、上の郭象の事例が加わると、応詹の言葉の使い方はあながち正当性を欠いたものだと言えないようである。

***
 これまで、「素論」は与論すなわち清議との距離が近いこと、老荘的な言論活動とはなんらかの関係性をもつことを確認してきた。
 これで応詹の疏がすっかり解決するかと言えばそんなことはない。最初にさらっと触れたが、応詹の疏では「素論」が「旧望」と対になっているのである。これをどう考えたらよいだろうか。

 そこで次に取り上げたいのが、漢語大が(1)の用例に挙げる『文選』巻40所収の任昉「百辟勧進今上箋」である。該文には「道風素論、坐鎮雅俗」とあり、確かにこれは「猶高論」で良さそうだ。だが、これはわりとどうでもいい。注目したいのは李善注である。

王隠晋書、「劉琨表曰、『李術以素論門望、不可与樵采同日也』」。

 任昉の文と、李善の注引する文とが同一の語用であるように見えないのが少し不安なのだが、そこは気にしないでおきましょう。
 見られるように、劉琨の表(勧進表かな?)では「素論」と「門望」がセットで用いられている。応詹伝の用例とピッタリではないか!
 李術の素性が不明なのと、「同日」がどういうことなのかわからないので、劉琨の表現を精確に日本語で置き換えられないのだが、おおよそ「李術は『素論』と『門望』があるので、そこらの薪拾いさんといっしょにしないでください」というカンジでしょう。
 そもそもこれまで、「素」というのがいったい何を指しているのか、明確な言及を避けてしまっていた。「素論」が「清談」と対であるかぎりでは、「素」は「清」とほぼ同義と見なしてさしつかえないだろう。しかし一方で、「世」や「門」と対になるということは、「もともとの」というニュアンスなのだろうか。だがこれはこれで「もともとの論」って何なんすか。
 よくわからないですけど、「素」を「旧」や「門」とひもづけて理解しなくてもいいんじゃないかという気がします。「清議」とか言うじゃん、あれとおんなじ感覚でいいんじゃないすか。

***
 まあこういういろいろな問題はやる気をはじめとする複雑な事情ゆえに放棄せざるをえないんですが、それにしてもこれまでの用例ほぼすべてで共通している点がある。それは「素論」が「自分に対して向けられる言論活動」であるという点だ。郭象伝にあるように、清談については「するのが得意」とか「好き」とか、その人物の「スルコト」としての用例が目立つ。対して「素論」はと言うと、「素論が得意」なんて例は見つからず、「素論を失った/によって評判を落とした」みたいなのばかりである。まあ用例が少ないので、あまり厳密な主張をするつもりはないが、用例の傾向性からみて、やはり「素論」は「与論」の意で取って大過ないし、字義を踏まえると「清議」と同義くらいに考えていいんじゃないですかね。で、その与論はどこから出てくるかというと清談をしている連中からって感じなんでしょうか。

 応詹の疏はどう読んだらいいかというと、官僚の成績いかんに関わりなく、「世」や「士」の言論活動が官人の位の進退を左右している、と言っているんじゃないかな。「官に就いて成績を上げたとしても、『素論』を理由に降格させられてしまいます」とは、「『素論』を得なければ/で評価されなければ、成績を上げたとしても降格となる」。え? そんなもんふつうに読めばわかるだろ? またまたそういうのやめてくださいよお。
 ちなみにだが、この応詹の認識ないし主張の扱い方は注意を要するだろう。応詹の言うことに従えば、人事は不公平におこなわれているように思えるが、実際は応詹の認識が一方的なだけかもしれない。またかりに応詹の認識したとおりが実態であったとしても、そういう運用がされているということと、そういうふうに定められていたこととは混同しないようにしなければならない。それに吏部の銓衡は家格のみで決定されていたわけではなく、「その人物の才能、血筋、年齢、官爵などが考慮され」(川合安『南朝貴族制研究』、p. 235)、「人物の統合的評価」(中村圭爾『六朝貴族制研究』風間書房、1987年、p. 346)が重視されたという。そうであるならば、「素論」を踏まえた官人の評価は通常の銓衡と言えるのであって、応詹の主張――実績だけを問うべきだ――は不正の糾弾というより、現行の人事方法では現在の政治的・社会的問題に対処できないとの認識から発した、根本的な改革要求だとみなせるだろう。

 こういうわけで、「なんとなくわかった気もするけど、よくわからん気もする」というのが本記事の結論です。最後にお伝えしなければならないのは、先行研究はまったく確認していませんということです。



――注――

[1]原文は「長史」だがどうしてここで唐突に長史なのか、そもそも何の長史なのか、長史一般なのか、いろいろとよくわからないので、ここは「長吏」(県令長)の誤字だろうと独断して読みました。[上に戻る]

[2]『宋書』蔡廓伝附興宗伝「時上方盛淫宴、虐侮群臣、自江夏王義恭以下、咸加穢辱、唯興宗以方直見憚、不被侵媟。尚書僕射顏師伯謂議曹郎王耽之曰、『蔡尚書常免昵戯、去人実遠』。耽之曰、『蔡予章昔在相府、亦以方厳不狎、武帝宴私之日、未嘗相召、毎至官賭、常在勝朋。蔡尚書今日可謂能負荷矣』。」[上に戻る]

[3]川合安氏は、東晋末年の謝方明が劉裕・劉毅双方の派と距離を置いていたことを「権力闘争に際して傍観者的態度を採る姿勢」と指摘し、この姿勢は「蔡廓やその他の名族出身者官僚にも共通していた」とする(同氏『南朝貴族制研究』汲古書院、2015年、p. 81)。川合氏が引用する『宋書』巻53謝方明伝には、劉穆之との付き合いを避けていた謝方明と蔡廓が、劉毅派粛清後に訪問したことが記されている。そういう計算高さもあるようなので、蔡廓伝の蔡郭像のみでまじめに判断しないほうがよさそうですね。また、蔡廓の起家官は著作佐郎で、年齢は22歳ごろという上級コースの起家だが、これは彼の学問が加味されての措置らしい(川合安『南朝貴族制研究』pp. 235, 251)。彼が「時流」から重んじられたのもこうした背景があってのことなのだろう。
 いちおう本記事の立場を説明しておくと、蔡郭が実際としてどういうヤツだったかはそれほど大事ではなくて、あくまで列伝の語りの構成を見ているのみであって、列伝のどの事跡の記述が後文の評価の部分につながるのか、後文の評価は列伝のどの語りの部分を指示しているのか、ただそれだけがわかれば十分ですので、実際上の蔡廓は不問とします。[上に戻る]

[4]応詹が後軍将軍に任じられて中央に召されたさいの上疏に、「魏正始之間、蔚為文林。元康以来、賤経尚道、以玄虚宏放為夷達、以儒術清倹為鄙俗。永嘉之弊、未必不由此也」とある。[上に戻る]


2018年9月14日金曜日

晋時代の「自随」と「送故」

 以下の話はひどい勘違いにもとづく妄想である可能性が否めないのだが、気が向いたのでメモも兼ねてまとめておく。

***
『晋書』巻66陶侃伝附陶称伝

称東中郎将、南平太守、南蛮校尉、仮節。・・・咸康五年、庾亮以称為監江夏・随・義陽三郡軍事、南中郎将、江夏相、以本所領二千人自随

陶称は東中郎将、南平太守、南蛮校尉、仮節であった。・・・咸康5年、庾亮は陶称を監江夏・随・義陽三郡軍事、南中郎将、江夏相とし、陶称がもともと統率していた二千人を「自随」とさせた。

『晋書』巻81桓宣伝附桓伊伝

桓沖卒、遷都督江州・荊州十郡・豫州四郡軍事、江州刺史、将軍如故、仮節。・・・在任累年、徴拝護軍将軍、以右軍府千人自随、配護軍府。

桓沖が没すると、桓伊は都督江州・荊州十郡・豫州四郡軍事、江州刺史に転任し、右軍将軍はもとのとおりそのまま帯び、仮節を与えられた。・・・数年在任すると、都に召喚されて護軍将軍に任命された。右軍府の千人を「自随」とし、護軍府に編入した。

 上のように訳してよいのか心もとないが、ともかく引用したふたつの文には「自随」という語が見えている。
 これはおそらく、字義どおりに読めば「自発的に付き従う」こと、つまり「ボスが異動になったからオレたちも異動するんだ」ということだろう。「以兵自随」とある場合、「兵を率いてみずから従軍する(のを願い出た)」と読むのがふつうだと思うが、上記のふたつ、とくに後者はそのように読めない。そこで先に述べたとおりに解してみる次第。

 この語はタームのように用いられていたようにも見えるのだが、確証はないのでその点は措く。
 かりに、前述したとおりの意で読めるのだとしたら、これは前任者の徳を表現しているのであろう。もちろん実際には「オレたちファミリーだろ?」(威圧)、とまではいかなくとも、自発的というほどでも強制的というわけでもなく、といったところでないか。

 こういうふうに「自随」を想像していくと、晋代のある慣習が想起される。「送故迎新」というやつである。この慣習にかんする史料としてよく知られている、范寧の議論を見てみよう(『晋書』巻75范汪伝附寧伝)[1]

地方の鎮が離任するさいは、みな精兵や武器を割譲して送故にしています。(送故される)米や布のたぐいは数えきれません。監察官は容認しており、いままで糾弾したことがありません。なかには(送故を受け取らずに)潔白な者もいますが、そのゆえに(受け取らなかったために)顕彰されたこともありません。兵を送る場合は、多いときは千余家にものぼり、少ないときでも数十戸におよびます。兵力は(?)個人の一門に編入され、さらに官の食糧や布を(個人の)資産にしてしまっているのです。兵役が終わっているのに、法を曲げて良民を服役させ、際限なく引き連れていって(兵員を?)補充しています。もしこの者が功績を挙げた臣であるのならば、すでに封国を授けられているにもかかわらず、どうして封国の外にさらに吏や兵を置いているのでしょうか。考えますに、送故の規則に抑制をかけ、三年を限度にするのがよいでしょう。(方鎮去官、皆割精兵器仗以為送故、米布之属不可称計。監司相容、初無弾糾。其中或有清白、亦復不見甄異。送兵多者至有千余家、少者数十戸。既力入私門、復資官廩布。兵役既竭、枉服良人、牽引無端、以相充補。若是功勲之臣、則已享裂土之祚、豈応封外復置吏兵乎。謂、送故之格宜為節制、以三年為断。)

 文中の「送故之格」という表現は「送故」が法制化されていたことをにおわせてはいるが、「送故」が取り締まられていない状況を范寧が好ましく思っていないことからして、慣習的なものと見なしておくのが穏当だと思う。
 説明されているように、「送故」では兵が送られる、というより兵をそのまま連れて行ってしまう場合もあったようである。

 ここで挙げたいのが劉毅である。東晋末、豫州刺史、江州都督であった彼は、義煕8年、劉道規に代わって荊州刺史に転任した(『宋書』巻2武帝紀中)。なんと劉毅は、江陵への出鎮にあたり、豫州と江州の兵や吏を連れて行ったのだという。『文館詞林』巻662宋・傅亮「東晋安帝征劉毅詔一首」に次のようにある。

すでに(荊州刺史に赴任し)江州都督の職務を解かれ、江州は管轄下でないというのに、(江州の)軍を(荊州の府に)移し、租税の運搬を強奪し、旧来の兵を追い出し、自分の徒党を厚遇している。(江州と豫州の)ふたつの西方の府の、一万に満ちるほどの文武の吏は、みなもとの任地から移して(荊州府に入れ、)留めたままでいるのに、まったく申し出がない。(既解督任、江州非復所統、撥徙兵衆、略取租運、駆斥旧戍、厚樹親党。西府二局、文武盈万、悉皆割留、曾無片言)[2]

 さらに『宋書』武帝紀中では次のように記されている。

及西鎮江陵、豫州旧府、多割以自随

劉毅が西に行き、江陵に駐屯すると、前職の豫州の府から多くの人員を割譲して「自随」とした。

 兵らの割譲は「自随」であったようだ。

 史料中に明言がないため、劉毅のこの行動が「送故」であったとは断言できない。

 が、関係あるってことにしておこう。そうしないと話が進まないからね。

 つまり、「送故」の名目で「送兵」といっても、それは一方で「自随」でもあったと考えられるのである。そうだとすれば、「送故」は慣習といっても、それは前任者の徳を表現するために、「自発的に」なされたものという名分を有していることになろう。西晋末から東晋初ころの状況を述べたと思われる虞預の議論に次のようにある(『晋書』巻82虞預伝)

このごろの長吏(地方の行政長官)の多くは出入りが激しく、送故と迎新が道路で交錯するありさまです(?)。迎えを受ける者は船や馬が少ないことだけを心配し、送り出される者は吏や卒がいつも少ないことだけを不満に思っています。贅沢をきわめて費用をかけることを忠義と言い、煩瑣なことを省いて簡潔に従うのを薄俗と呼び、ますますたがいにまねしあい、(そうした風習に)移り変わって(もとに)戻ろうとしません(?)。恒久の対策があるとはいえ、遵守されることはありません。(自頃長吏軽多去来、送故迎新、交錯道路。受迎者惟恐船馬之不多、見送者惟恨吏卒之常少。窮奢竭費謂之忠義、省煩従簡呼為薄俗、転相放效、流而不反、雖有常防、莫肯遵修。)

 「吏卒之常少」は、「送故」として送られる吏や卒を指すのだろうと読んでみた。いまいち自信がないが。
 「見送者」がそれの少ないのを「恨」むのは、みずからに徳がそなわっていないのを外に示してしまうようなものだからであろう。

***
 さて、ここで話はまた冒頭に戻るというか一転するのだが、桓伊について気になることがある。
 護軍将軍への転任にあたって、前職の右軍府の兵士らが「自随」したというのだが、その右軍府の兵士らはいったいどこにいたのだろうか。
 いうまでもなく、右軍将軍は内号将軍、宿衛の将軍であって、その営兵はもちろん宿衛の士である。
 江州刺史でもあった桓伊はマジで州に赴任しているっぽいのだが、右軍の兵士も江州に駐留していたのだろうか。それとも右軍府だけはそのまま都に留め置かれていたのだろうか。そもそも内号将軍が同時に方伯に出るというのはなんなのだろうか。

 気が向いたらちゃんと調べてみようと思うが、とりあえず中央研究院の漢籍電子文献を使って「右軍」で検索をかけてみた。すると、王羲之は会稽内史、右軍将軍であったそうだ。ふつうにあることだったのかな。
 だがもちろん、右軍は宿衛の軍である。『晋書』巻63郭黙伝。

(郭黙は)召されて右軍将軍に任命された。郭黙は辺境の将軍になるのを望んでおり、宿衛は希望していなかった。(右軍への)召喚に応ずるにあたって、平南将軍の劉胤に言った、「私は胡の防衛に適しているのに(その任に)用いられない。右軍将軍は禁兵を統率する職であるが、辺境で事件が起こったときは出征にかりだされ、そのときになってはじめて(兵士が)与えられるのであって、将軍と兵士のあいだに基盤がないのだから、(たがいへの)信頼がなく、このさまで敵にあたろうものなら、敗北を逃れるのは難しいだろう。・・・」(徴為右軍将軍。黙楽為辺将、不願宿衛。及赴召、謂平南将軍劉胤曰、「我能御胡而不見用。右軍主禁兵、若疆埸有虞、被使出征、方始配給、将卒無素、恩信不著、以此臨敵、少有不敗矣。・・・」)

 郭黙の言葉を上のように読めるのかひじょうに自信がないが、右軍将軍が都において宿衛を務める職であったのは確かであろうし、右軍の営兵も基本的には中央にいたのだろう。両者の関係については郭黙の言葉をヨリ厳密に読んでみなければならないが。

 という、そういう覚書でした。なんか感覚やら言語力やら思考力やら集中力やら、さまざまなものの衰えをすごく感じる。



――注――

[1]陳先生か周先生か唐先生か、どなたかに関連する研究があったはずなのだが思い出せないし、いますぐがんばって探そうという気にならないので先行研究は引用できなくてすいません。。[上に戻る]

[2]なお『晋書』巻85劉毅伝に「毅至江陵、乃輒取江州兵及豫州西府文武万余、留而不遣」とあり、表現が類似していることから、この列伝の文は詔をふまえて練られた可能性がある。したがって、『晋書』で江州のほうだけ「兵」がついている点や、「豫州西府」と記されている点について、詔を雑に圧縮したために生じた表現と見なし、重視しない。『文館詞林』所収の詔を引用するゆえんである。[上に戻る]


2018年6月17日日曜日

王敦と劉隗の応酬

 晋書・劉隗伝に記されているエピソード。
 王敦が劉隗に「君や周生(顗)と協力してがんばりたい」(大意)って書簡を送ったら、劉隗から

魚相忘於江湖、人相忘於道術。竭股肱之力、効之以忠貞、吾之志也。

って返答がきて王敦がキレたというのだが、どうして王敦がキレたのかわからなくてこっちがキレそうになっていた。
 で、多少はまとまりがついたので、せっかくだし久々にブログにしてみた。

 胡三省によると、「魚相忘於江湖、人相忘於道術」は荘子・大宗師篇にもとづいた表現であるらしい。「湖が枯れて陸に上がった魚はたがいに水分をかけあったりするが、それよりも湖でたがいの存在を忘れて気遣わずにいるのがよい。人は天子を褒めたり批判したりするが、それよりも善悪を忘れて道と一体化しているのがよい」というのが該当箇所の文意だが、郭象は「魚は不足があるとたがいを思いやるが、余裕があれば気遣わない。褒めたり批判したりするのも不足に起因しているので、充足したら善悪など忘れる」と注している。
 めんどくさいので原文は引用しないが、たしかに胡三省の言うとおり、ここを意識した言葉であろう。さらに郭注で示される解釈はポイントっぽい気がするので、これを踏まえるのがよさそう。
 また、江湖の魚も道の人も、どちらも自分(あるいは東晋)を指すと思われる(とくに前者はぴったりの比喩だ)。

 うしろの「竭股肱之力、効之以忠貞」にかんしては、胡三省は晋の荀息という大夫の言葉だと言っている。左伝・僖公九年にたしかに見え、さらに荀息は「忠とは云々、貞とは云々」ということも語っているので、これにもとづけば「之を効すに忠と貞を以てす」と読むのがよいのだろう。
 ただ、同様の言葉は諸葛亮が劉備臨終時にも言っており、そっちを意識したのかもね(ちなみに文言上では左伝ではなく蜀書と一致している)。
 問題は、どっちにしてもそれらの歴史的な文脈を有した典故表現なのかがわからないこと。
 現段階ではわかんないので、典故とはみなさなかった。胡三省が典故と言っているから言及した。

 で、以上をまとめてみた試案は以下のとおり。

江湖の魚は他の魚を気にしていませんし(足りているのであなたのお気遣いやご協力は不要です)、
道のうちにある人は善悪を気にしません(不満はないので誰それが嫌いとかくだらない話ですね)。
全力で忠と貞を尽くすことが私の志です(あなたが嫌いだから行動しているのではなく、ただ忠誠を尽くしているだけです、そしてあなたは険悪な二人とも協力して力を尽くしたいと言っているのですが、私ははじめから力を尽くすことしか考えておらず、険悪とか和解とかどうでもいいです)。

 こういう意味なら王敦はキレるよね、というのを意識して考えてみた。
 つまり、王敦は劉隗に「和解しようよ」って言ったんじゃないかって読み方になる。
 頭の中で整理してこんな感じで多少は納得したけど、あまりにうがった読み方な気もするし、けどこいつら知識人だしなあ・・・。別案あったら教えてください。

2017年12月31日日曜日

書物消尽の歴史――隋書牛弘伝「請開献書之路」

 さいきん史学史について整理してみようと思い立って、その一環で目録を学んでいる。
 で、その基礎史料となると隋書経籍志(以下、たんに隋志)や班固の芸文志、さらに梁の阮孝緒が編纂した目録『七録』の序文(広弘明集巻3引)、そして牛弘が「開献書之路」を請うた表文が主なもの、というかこれくらいしかたぶんなく、それでこれら史料に目を通しつつ、『隋書経籍志詳攷』(興膳宏・川合康三、汲古書院、1995年)のような専門書も読み進めるみたいな感じでやってる。個人の近況とかどうでもいいですね、ごめんなさい。
 本記事では牛弘の表文を訳出し、若干のコメントを加えた。訳文は多く意訳し、また注は細かくつけなかった、というか気が向いたらつけた。

***
 開皇のはじめ、散騎常侍、秘書監に移った。牛弘は書籍が失われるのを憂慮し、上表して書物献上の道筋を開くよう要望した。

 書籍には古い由来があります。爻の記号は庖羲に発明され、文字は蒼頡に考案されました。記号や文字は、聖人が教えを広め、古今のことに通じる方法であり、また「政治の決定を王庭で公然と示」したり[1]、「(優秀な人を求めて)中華に語りかける」[2]手段でありました。堯は至聖と称えられましたが、それでも古道を調べてそれを遵守しておりましたし[3]、舜は大智と評されておりますが、それでもいにしえの服制における服の図像を明らかにしようとしました[4]。周礼によれば、外史は三皇五帝(三墳五典)の書物と諸侯の記録を管轄しています(春官。訳は鄭玄注に拠っている)。武王が黄帝や顓頊の道を尋ねると、太公は「丹書に書いてあります」と答えました(『大戴礼』武王踐阼)。これらからわかりますように、符を授ける権限を有し(原文「握符」)、暦を支配し(原文「御暦」)、国家を統治する者は、必ず詩や尚書で教化をおこない、礼楽を拠りどころにして偉業を打ち立てたのです。
 むかし、周の徳が衰えると、ふるい書物は乱され、棄てられました。このようなとき、孔子は大聖の才能を発揮して素王の事業を創始しました。文王、武王にのっとり、堯、舜の道を伝え述べ[5]、礼を整理し、詩を取捨し、五つの始まり[6]を正して春秋を編集し、十翼を著して易を明らかにしました。国を治め、自らの身を立てるにあたって、模範となるものをつくり伝えたのです。しかし、始皇帝が天下を統べ、諸侯を併合するにいたって、軍事力に頼るのみで、政治はいにしえを手本とせず、かくして焚書の令を下し、偶語〔詩や書などについて語りあうこと〕の刑が実施されたのです。そうして先王の書籍は一掃されてしまいました。このように根本部分が先に失われていたため、秦は転覆したのであります。予言めいた言い方をいたしますが、書籍の興廃はその国家の行方を示しています。この秦の焚書が、書物の災禍の一つめです。
 漢は秦の弊害を改め、儒を重んじ、書物を所蔵する台閣(?)を建て[7]、書物を研究する官を設けました。すると、山の洞穴や旧宅の壁など、あちこちから隠されていた書物が現れてきました。書物を保管する場所としては、宮城外に太常、太史の書庫、宮城内に延閣、秘書がありました。ですが、成帝の時代になっても、失われた書物がいまだに多いため、謁者の陳農を天下に派遣して捜索させ、劉向父子に書籍を校訂させました。このとき、漢の書籍はもっとも充実していました。王莽の末年になって、長安で戦争が起こると、宮室の蔵書は焼き尽くされました。これが書物の災禍の二つめです。
 光武帝が漢を中興すると、とりわけ儒の経典〔原文「経誥」。用例から経書を指すと思われる〕を尊重し、まだ戦争が終わらないうちから作文の巧みな者たち〔原文「文雅」。自信なし〕を探し求めました。こうして、大勢の優れた儒学者があいついで集まったのであり、書物を抱きかかえたり背負ったりして、距離を省みずにやってきました。粛宗(章帝)はみずから講義に出席し〔出典捜索中〕、和帝はしばしば書庫を訪問していました〔出典捜索中〕。蘭台、石室、鴻都、東観には蔵書がいっぱいに積まれており、前代の倍の量になっていました。ところが、献帝が長安に遷都するさい、朝廷も民衆も混乱し、書籍の材質であった絹は帳やふくろに使われてしまいました。それでも、残ったものを集めれば車70余乗ほどで、それを長安に運びましたが、そこでも戦乱が起こると、たちまちに焼尽してしまいました。これが書物の災禍の三つめです。
 魏の文帝が漢から禅譲を受けると、書籍の収集につとめ、すべて秘書府と宮城内外の三つの台閣に所蔵し[8]、秘書郎の鄭黙に前代までの書籍を吟味させました。当時の世論は、彼の仕事によって書籍に朱と紫の区別がつけられた〔似たものにハッキリ区別がつけられた〕[9]ことを称えました。晋氏が魏を継ぐと、書籍はいよいよ増大しました。晋の秘書監の荀勗は魏の『内経』(『中経』)を整理し、さらに『新簿』を作成しました。ふるめの書物は失われて減っていたようですが欠損本もあったようですが、新しめの書籍は非常に多く収集されており、正道を広め、当世を導くには十分でした。ですが、ちょうどそのようなときに劉氏と石氏が跋扈して、中華が壊滅したため、国家が所蔵していた書籍は失われてしまいました。これが書物の災禍の四つめです。
 永嘉の乱ののち、賊がつぎつぎと出てきて、中原を占拠したり、関中や河北に跋扈したりしました。賊の国家を調べてみるに、その僭号こそ記録に残っていますが、法制〔原文「憲章」〕や礼楽の整理事業となるとまったく記述がありません。劉裕が姚氏を平定したさい、その蔵書を接収しましたが、五経、諸子、史記(歴史)の書物は4000巻ほどしかなく、すべて赤い軸木に青い紙であって、書体は古風で味気なく、つたないものでした。賊のうちでも前秦、後秦がもっとも栄えましたが、このことからその様子がわかりましょう。ともかくこうして、ここからわかりますように、礼物、図像、記録の類いは、賊のうちを流浪していたものはすべて江南に収められたわけです晋が移ったさいに、すべて江南へ収まったわけです(なので、長安には図書が少なかったのです)〔余嘉錫『目録学発微』邦訳p. 227を承け、修正する――2018/01/06〕。晋宋の時期は学術が拡大し、斉梁の時代になると経学と史学がますます盛んになりました。宋の秘書丞の王倹は劉氏の『七略』に倣って『七志』を編纂し、梁の阮孝緒も『七録』をまとめましたが、『七録』に記録されている書籍の総数は3万余巻にものぼります。侯景が長江を渡って梁を転覆させるや、それら秘書省の蔵書は戦火に巻き込まれてしまいましたが、文徳殿の蔵書は免れ、そのまま残っていました。元帝は江陵に拠っていましたが、将軍を派遣して侯景を平定させると、文徳殿の蔵書と公私に保管されていた書物や貴重な本[追記1]、合計で7万余巻を集め、荊州に送らせました。江南の書籍はことごとく元帝のもとに集められたのです。ところが、周の軍〔原文「周師」〕が江陵に入城するに及ぶと、元帝は外城で書籍をすべて焼いてしまい、残存したのはわずか一、二割ほどでした。これが書物の災禍の五つめです。
 北魏は遠い北方〔原文「幽方」〕から中原に移ってきましたが、収集に力を割けず、蔵書は少ない状態でした。関西で創業した周は戦争が続いていました。保定〔武帝の元号〕のはじめ、書籍は8000巻ほどでしたが、徐々に収集してゆき、1万巻にまでいたりました。山東を領有していた斉も、当初は収集をしていましたが、そこで編纂された目録を調べてみると、収集の不足が多いようです残欠の記録が多く目につきます。周が関東を平定すると、斉の蔵書を接収しましたが、四部で重複する書籍が多く、総数こそ3万余巻ありましたが、周の蔵書は5000しか増えませんでした。
 いま、わが朝の書籍は総数1万5000余巻ございますが、書物の数には依然として不足があり蔵書には残欠が依然あり、また書物の数を梁の目録と比較してみると、わずか半分しかございません。陰陽・河洛〔河図のこと。総じて讖緯類を指す〕や、医方・図譜〔おそらく図表類〕の書籍にかんしては、いっそう量が減っています。臣が書籍について考えますに、孔子から現在にいたるまで千年が経ち、その間に五度の災厄に遭ってきましたが、それを乗り越え、集まっていく時期は聖人の世にあたっています。思いますに、陛下は天命を受け、天下に君臨しており、功は比類なく、徳は上古にまさっています。中華が分裂し、道理が崩壊して以来、覇王がかわるがわる現れたものの、世の混乱はおさまらず、そうした時期にあっては儒を尊重しようと思ってもできるわけではありません。ですがいま、領域は三王よりも広く、人口は漢よりも多く、人が足りていて時も来ているとはまさに当今のことなのです。ゆえに、教化を押し広めて、民を太平に導くべき時なのですが、書籍に収集漏れがあるままとしておくのは、下々が御心を仰いてひとつに合わせ、訓戒を後世に伝えていくに適切な状態ではありません。臣は記録や書籍を管理しておりますため、寝ても覚めても不安でなりません。むかし、陸賈が高祖に「馬上から天下は治められません」と言いましたが、国家を切り盛りし、政治をしっかりさせるのは書籍にかかっているわけです。これ以上の国家の根本はございません。いまの蔵書はひととおりそろってはいますが、現代に存在している書籍はすべて備えておくべきです。朝廷にはないが民間にはある――そのようであってはなりません。とはいえ、民の数は多く、蔵書の捜索は困難でしょうし、かりにわかったとしても、多くの民はしぶることでしょう。ですので、朝威で強制したり、褒美で誘ったりする必要があります。もし詔を多く発し、加えて賞金もかければ、珍しい書籍が必ず届いて台閣に積まれましょう。かくして、道を尊ぶ風潮はこれまでになかったような篤さをもつでしょう。なんと良いことでありませんか。どうかわずかばかりのご配慮を下してくださいますよう、陛下にお願い申し上げます。

 文帝はこれを聴き入れ、詔を下し、書物一巻の献上につき絹一匹を与えることとした。すると、一、二年のあいだに蔵書はおおいに整った。

***
 書物が散佚の憂き目に遭いつつ、他方で収集整理に傾けた人々の努力で生き延びてきた過程が、ひとつの歴史として構想され、物語られている。

 魏晋南朝(元帝以前)は『七録』序を参考に叙述が構成されているが、それ以外の箇所、すなわち五胡、梁元帝、北朝については牛弘以前にさかのぼる史料を得られない。隋志・史部簿禄類を見ても、北朝が作成した目録は非常に少なく、当然『七録』レベルの総括的なものは存在しなかったはずである。牛弘以前には五胡北朝、また元帝以後を概括するような文章ないし情報整理はされていなかったのではなかろうか。隋志・総序でも先ほど挙げた時期は牛弘の表文に大きく拠っているので、希少な情報がここで提供されていると見なしてよいと思われる。

 それでは、牛弘は当該時期の情報をどのように知りえたのだろうか。
 まず元帝。帝が焼いた書物の総数については異同があり、『南史』元帝紀には「聚図書十余万巻尽焼之」、隋志には「元帝克平侯景、収文徳之書及公私経籍、帰于江陵、大凡七万余卷」とあり、双方について資治通鑑考異は「隋経籍志云焚七万巻、南史云十余万巻。按周〔王〕僧弁所送建康書已八万巻、并江陵旧書、豈止七万巻乎、今従典略」と、「十四万巻」と記す『三国典略』が妥当と論じる。なお牛弘の表文は「遣将破平侯景、収文徳之書及公私典籍重本七万余巻、悉送荊州」とあり、隋志の記述に近い、というか隋志が牛弘にもとづいて記述を構成していることがわかる。
 司馬光が言うように、『南史』侯景伝に王僧弁が8万巻の書籍を建康で収集して江陵に送ったことが記されているし、『隋書経籍志詳攷』は『金楼子』を引いて元帝が害される前年の蔵書数が8万巻であったことを指摘していて(pp. 25-26、注18)、やはり『三国典略』の記述が妥当のようである。
 しかし、隋志にしても牛弘にしても、非常にややこしい書き方になってはいるものの、よく読めばそこに書いてあるのは「建康に送った書物の総数」であって、元帝が焼いた数ではない。で、伝送された書物の数については『南史』侯景伝と大幅な違いはない。つまり、他書と異同があることを記しているわけではないし、焚書の総数を考察するに論難するべき対象でもない。司馬光が誤読してナンセンスな批判を広げていただけである。
 とはいえ、これは牛弘にも問題がある。彼は「いかに多くの書物が存在したか、あるいは失われたか」を数字を挙げることによって強調する戦略を採っているわけだが、元帝の箇所については、建康で集めた書籍の総数のみを言い(つまりいかに多かったかを叙述し)、焚書の数に言及していない。牛弘の叙述戦略を踏まえていれば、「建康の7万巻が当時の南朝の書籍総数であり、元帝の蔵書もこの数で、これをすべて焼いたのだ」と読むのがむしろ自然かもしれないし、実際、牛弘自身はそのつもりで書いているのかもしれない。
 とまあ、そんな感じのことに気がついたから言いたかっただけで、とくにまとまりはないですごめんなさい。『隋書経籍志詳攷』(p. 25)によれば、元帝焚書に言及するもっとも早い史料は顔之推「観我生賦」だが、とくだん牛弘に影響を与えているように見受けられないので、牛弘は独自に収集した情報にもとづいているのかもね。

 次に五胡北朝の記述。五胡、というか後秦のくだりだが、あれは南朝でつくられた目録が情報源だと思う。広弘明集に引かれている『七録』の序が節略なのかどうかよく知らないけど、そこに記述されていてもおかしくない話ではある。
 興味を惹くのは北朝の話題で、北朝ではあまり目録学が栄えなかったそうだから話すこともとくにないようで、なので簡素な記述になってはいるものの、だからこそこうした統括的な叙述が貴重になる。牛弘は北周の蔵書の増加具合を詳しく書いていてくれているし(北斉平定時の増加数とか)、北斉の目録も実見したそうだから、なかなか信頼が置けそうである。
 そもそもどうして牛弘がこんなに具体的に書けているのかというと、彼の経歴に関係があるように思われる。彼は北周で起家し、中外記室府、内史上士に就き、その後、「専掌文翰」という納言に転じ、威烈将軍、員外散騎侍郎を加えられ、「修起居注」という。どの職が何に相当するのかさっぱりわからんが、起居注の整理に関わっていたりするので、著作や秘書に相当する職に従事していたのではないか。というか、そういうことにしておこう。
 ようするに、「周の蔵書は武帝以降、だんだんと増えてきたんよ」とか「斉の目録を見たら最初はがんばっていたようなんだけどねえ」とか「でも斉の蔵書は周の蔵書とかぶりが多くてあんまり増加に益しなかったわ」とか言っているのは、牛弘自身が北周の秘書管理や北斉の図書整理に携わっていたからではないだろうか。隋が建って秘書監に任じられたのも、そうした経験を買われてのことでないだろうか。となれば、先ほどの元帝の話も、そうした経験が活かされているのかもしれない。起家は早くて武帝のはじめころだと思われるので、焚書は実見できていないはずだが、当時の記録があればそれを閲覧できただろうし、北方に連れられていった南朝人士ら――顔之推がまさにそうだが――から取材をすることだって可能だろう。
 ちなみに、隋志だと北朝、とくに北魏の記述は牛弘の表文よりも詳しく、なので別に牛弘をそんなに高く買う必要なくないかとか思われるかもしれないが、史書の一般的な体例からして、列伝に掲載されている章奏が節略である可能性を排除できないので、一概にそうは言えない。隋志はやっぱりぜんぶ牛弘の表文の丸写しかもしれない。同じ隋書なのにそんなことあるのかと思われそうだが、隋書の志は隋書の志というより五代史の志として別途編集されているので、そんなことがあってもおかしくないように思います。

 そういう具合に牛弘の経験が活かされている文章だと思うよ!って報告したかっただけでした。

***
 さすがにそれで終わるわけにはいかないのでもうちょい気になったことを書いてみる。牛弘が「すっげえ数が減ってる」と言っている書物のこと。
 牛弘が挙げている分野のうち、陰陽、河洛、医方は従来まで術技・術数に分類されてきた書籍で、図譜は分類に試行錯誤を重ねられていたジャンルである(王倹『七志』は独立して一分類としたが、阮孝緒はそうするべきでないとし、図譜が対象としている分野に配した)。
 ここで注意したいのは術技類のほう。隋志というと、史部・集部の創設・体系整理といったところについ目がいってしまうのだが、『隋書経籍志詳攷』は術技書の動向にも注意を促している。同書によれば、隋志の子部全体で術技が占める割合は、実数で部数の約79%、巻数で61%を占め、「実質上は『七録』の術技録に属していた書が圧倒的な優位を占めているのである。・・・先秦以来の諸子の学は、・・・実は術技系の書に乗っ取られていたというのが正しいかも知れない」(p. 39)とまで述べる。またこれら術技系の特徴として、似通った内容をもつ書物が大量につくられたと想像され、そのことが目録の記述に混乱をもたらしていると考えられること(pp. 39-42)、宋史芸文志においても術技は一貫して増大していること(pp. 42-43)、新陳代謝が激しいため、後世に伝わるものが非常に少ないこと(pp. 39-43)、を挙げている。
 ここからはあくまで私の想像だが、術技系というのは全部が全部そうとは言い切れないだろうが、ようするにハウツー的なもの、実用書的なもの、そういう類いでないだろうか。技術の発展やニーズに応じて著されるが、細かいものが多く、数年でその役割を終えてしまうけれどそのころにはもう新しいバージョンが出ていて、保管には意を向けられない。
 梁は従来までの四部分類から術数を独立させて五部の分類をおこなっており、また阮孝緒は民間所蔵の書籍も記録したというから、きっとそれらの目録では術技系統が多く列記されていたのだろう。牛弘が隋の蔵書を梁代作成の目録と比べたとき、学問や政治には基礎的な書籍こそだいたいは大丈夫だが、実用的な技術書にかんしてはまったくそろっておらず、技術書への無関心こそが蔵書数のいちじるしい減少の根本原因であると映じたのでないか。
 牛弘は政治的なところから書籍の由来を説いており、その点では常套的な観点に立っている。だが、彼自身は政治や学問や作文に有用という価値づけを前提とせず、あらゆる書物への関心をここで披露しているように見える。書物であればなんでもいいのだ。ここに彼の実直さ、偉さを感じました。
 もちろん、彼とて制約はある。たとえば、『七録』が記録する巻数を3万と表文で述べているが、この数は『七録』の内篇のみに相当しており、外篇すなわち道教と仏教の書籍は除外されている。道仏は王倹『七志』もオマケ扱いだし、隋志では序文のみだから、そうして考えると牛弘の除外も時代の産物であったと言えよう。

 牛弘が術技系の書籍が少ないんだよねえと述べているくだりは、それなりの背景があったわけである。ただ、それは『隋書経籍志詳攷』の分析と指摘を俟ってようやくうかがえるような、見えにくいものだった。
 この時期の目録学というか書物の歴史は、もっと広い視点でみないといけないなあとか思いました。

***
 最後に梁元帝。帝が書籍を燃やした場面は、『三国典略』に拠っている『資治通鑑』に詳しく描かれている。

帝は東閤の竹殿(?)に入ると、舎人の高善宝に古今の図書十四万巻を焼かせ、自らも火に飛び込もうとしたが、宮人や左右の者に止められた。また宝剣で柱を斬らせて(わざと)折らせると、「今夜、文武の道はすべて失われた」と嘆息した[胡注:書を焼いたこと、剣を折ったことを「文武の道が失われた」と言うのである]。・・・ある人が「どうして書籍を焼いたのですか」と尋ねると、帝は「万巻を読んでもこのような有様だ。だから焼いた」と答えた。(帝入東閤竹殿、命舍人高善宝焚古今図書十四万巻、将自赴火、宮人左右共止之。又以宝剣斫柱令折、嘆曰、「文武之道、今夜尽矣」[焚書、折剣、以為文武道尽]。・・・或問、「何意焚書」、帝曰、「読書万巻、猶有今日、故焚之」。)

 時、西魏軍はすでに江陵の城門を破り、帝は金城を保持するのみであったという。

 元帝の悲哀がよく伝わるエピソードなので、ついそっちに注意がいってしまうが、よくよく考えると元帝の焚書はひどい。
 牛弘が言う5つの災厄のうち、3つは戦乱で、混乱のうちにわちゃわちゃしちゃったなあっていう話なのだけど、残り2つ、始皇帝と元帝は、一個人の「書籍を廃棄する」という強い意志のもとなされた焚書であって、ちょっとどうかなあ。
 元帝の行動自体はおそらくだいたいの人が理解しうる、その点で普遍的な感情の表出と言えなくもない。追いつめられて深い絶望に陥ると、それまで救いとなっていたもの、夢を見させてくれていたものに距離を置こうとしたり、あるいは意図的にキライになってみたり、という心の機微は個人的にはわかる気がする。だからつい元帝に感情移入してしまって、一連の出来事を彼の悲劇のように捉えてしまいがちだが、牛弘のように、これは書籍の災難なのだと認識するべきでもある。
 牛弘が歴史を描いてみせたように、書籍はいくつかの戦乱を経ても、収集整理を重んじた人々の尽力により、連綿と伝承されてきた。元帝が愛した書籍はそうして伝えられてきた。元帝はプライベートなコレクションを廃棄した程度に考えていたのかもしれないが、その蔵書群は当代一で、文化的価値は測り知れない。万巻を読破しておきながら、書籍を愛好する一人としてどのような行動を取るべきか思慮を巡らせることができなかったのだとすれば、それは残念だ。元帝にもまた、伝えていく側としての責務があったのではないか。

 胡三省もこの焚書を冷ややかに見ているようだ。元帝が書籍を焼いた理由を答えた場面での注、というか感想は簡潔である。

帝の敗亡は読書に原因があるのではない。(帝之亡国、固不由読書也。)

 絶望に駆られた心意はわかるが、書籍には何の責任もなく、廃棄したのはただただナンセンスで、大きな損害しか生み出していない。胡三省もやはりそう見なしていたのでないかな。
 この簡潔な文に込められた意図を汲み取るのはなかなか容易でない。胡三省の注には、彼の生きた時代や社会への認識が踏まえられており、その現代認識から発した共感や批判が込められている、という指摘がある[10]。ここの部分もその1つにカウントできるだろう。動きの激しい世情下で資治通鑑に沈潜して生きた胡三省が、元帝の焚書を多少でも擁護するどころか、いっさいの共感すら示そうとしないのは、まあわからんでもない。



――注――

[1]原文「揚於王庭」。『易』夬の卦辞。『漢書』芸文志・六芸略小学類に「易曰、「上古結縄以治、後世聖人易之以書契、百官以治、万民以察、蓋取諸夬」、「夬、揚於王庭」、言其宣揚於王者朝廷、其用最大也」と、文字(小学)の効用を説くに易を引用しているが、後者が卦辞、前者が繋辞下伝。繋辞伝の韓康伯注に「夬、決也。書契所以決断万事也」とあり、本文はこれを踏まえて訳出してみた。夬の卦辞は文字の役割を述べるさいに常用される句であったようだ。[上に戻る]

[2]原文「肆於時夏」。『毛詩』周頌・時邁「我求懿徳、肆于時夏」。鄭箋に「懿、美。肆、陳也。我武王求有美徳之士而任用之、故陳其功於是夏而歌之」。『後漢書』伝52荀悦伝に引く漢紀の序文に「昔在上聖、惟建皇極、経緯天地。観象立法、乃作書契、以通宇宙、揚于王庭、厥用大焉。先王光演大業、肆于時夏。亦惟厥後、永世作典」と、「揚于王庭」とのセットで用例がある。[上に戻る]

[3]原文「考古道而言」。『尚書』堯典「曰若稽古帝堯」の孔伝に「若、順。稽、考也。能順考古道而行之者、帝堯」とある。ちなみに『三国志』魏書4高貴郷公紀・甘露元年条に尚書の講義の記述が見え、高貴郷公が「鄭玄曰、「稽古同天、言堯同於天也」。王粛云、「堯順考古道而行之」。二義不同、何者為是」と問うている。鄭玄は孔伝とまったくちがう読みをしているが、王粛は孔伝と同じ読み方をしているようだ。[上に戻る]

[4]原文「観古人之象」。『尚書』益稷「予欲観古人之象」、孔伝に「欲観示法象之服制」とある。『魏書』巻91江式伝に載せる江式の上表に、この句を含むいくつかの語が引かれたうえで「皆言遵修旧史而不敢穿鑿也」と述べられている。牛弘もかかる文脈でこの語を引いてきたのであろう。[上に戻る]

[5]原文「憲章祖述」。『礼記』中庸「仲尼祖述堯舜、憲章文武」。同句を引く『漢書』芸文志・諸子略儒家類の顔師古注に「祖、始也。述、修也。憲、法也。章、明也。宗、尊也。言以堯舜為本始而遵修之、以文王武王為明法、又師尊仲尼之道」とあるのに従って訳出した。「憲章」はたんに法制を言う例があり、この箇所もそう取れなくないが、「祖述」とセットとなるとやはり礼記の文脈に沿うのが妥当と思う。この上表の後段、後秦のくだりでもこの句が使われているが、そちらは「法制」を指すと思われたのでそう訳出した。[上に戻る]

[6]原文「五始」。字のとおり「五つの始まり」であり、端的には「元年春王正月」と表現される。『漢書』巻64下・王褒伝の顔師古注に「元者気之始、春者四時之始、王者受命之始、正月者政教之始、公即位者一国之始、是為五始」。[上に戻る]

[7]原文「建蔵書之策」。『漢書』芸文志・総序からの引用だが、「策」が不詳。ちくま訳は「竹簡(竹の札)に同じ。ここでは書籍の目録をさす」(文庫第3冊p. 584、注7)とするが、師古の引く如淳注は「劉歆七略曰、外則有太常、太史、博士之蔵、内則有延閣、広内、秘室之府」と説いており、どう考えても「書庫を建設した」と読んでいる。そして師古はまったくツッコミを入れていないので、おおむね賛同ということなのだろう。「策」をスペースのような義で読むのは難しいような気もするのだが、かといってちくま訳のような理解だと全体がうまく読めないし、ということで今回はいろいろ目をつぶって本文のように訳出した。[上に戻る]

[8]原文「皆蔵在秘書中外三閣」。同様の記述は『七録』序にも見えている。『隋書経籍志詳攷』は「秘書省・中閣・外閣の三ヵ所に収蔵した」と訳出し、注に「「中」は、中書。「外」は、蘭台」と記す(p. 18)。「外」を蘭台とするのは、『三国志』王粛伝の裴注引『魏略』に「蘭台為外台、秘書為内閣」とあるのにもとづいている。
 だが、この推論過程には疑問も残る。「中外」は「内外」のこと、すなわち中=内で外の対称の意で解すべきであり、晋の中軍が内軍と呼ばれることも念頭に置かねばならない。中=中書という結論を出すのならば、中閣=内閣が中書を指している例を論拠に据えるべきである。これでは、中の字から中書と解しているように見えてしまう。が、いま述べたように、ここの中は内の意と取るのが適当なので、その読み方はできない。
 また、たしかに『七録』でも「在秘書中外三閣」とあるものの、書庫としての「三閣」については阮孝緒以前にさかのぼる記述も存在する。『太平御覧』巻224職官部32校書郎に引く「晋令」がそれで、「秘書郎掌中外三閣経書、覆校闕遺、正定脱誤」とある。おそらくこの晋令に拠っているからなのであろうが、通典でも「三閣」「中外三閣」としか記していない。『隋書経籍志詳攷』は秘書・中(中書)・外(蘭台)が「三閣」だと解したのだが、晋令の記述の仕方を見るに、そのような理解を採るのは難しいように思う。晋令の記述に従うのならば、「中外の三閣」と読むのがよく、そして「中外」とは前述したように「(宮城の)内外」の意であり、その「三閣」とは注 [7] に掲げた如淳注に引く「七略」に「外則・・・、内則・・・」とあった如く、内外全体で書庫となる台閣が三つあったことを言うのだろう。
 すると本文の「秘書」が今度は問題になるが、これは『隋書経籍志詳攷』のように秘書の官府の意でよいと思われる。以上、「在秘書中外三閣」は「秘書省と内外の三つの台閣に所蔵されていた」と読むのがよいと考えたので、そのように訳出した。[上に戻る]

[9]原文「朱紫有別」。程千帆・徐有富『中国古典学への招待』(向島成美・大橋賢一・樋口泰裕・渡邉大訳、研文出版、2016年)が『論語』陽貨篇「悪紫之奪朱也」を典拠とするのに従った(p. 138)[上に戻る]

[10]増淵龍夫「歴史のいわゆる内面的理解について」(同氏『歴史家の同時代史的考察について』所収、岩波書店、1983年)参照。少し長いが引用してみる。「陳垣は、日本軍占領下の暗い世情の下で、ひとり門をとざして『資治通鑑』を読み、それに附せられている胡三省の注釈を読んで行くうちに、胡三省の注釈は単なる史実の考証というようなものではない、ということに陳垣は気付いたのです。南宋末の政治の腐敗のもとに生きて、宋朝の滅亡と蒙古人の侵入、占領支配の下に生涯を送った胡三省は、蒙古人の占領支配下においては、山中にかくれて、一切の官職には辞してつかず、亡国の暗い世情の下にあって、元朝の残酷な統治と、それに阿附し、或はそれに抵抗するさまざまな人の動きを、その目で見、きびしい現実批判の心を内にこめて、『資治通鑑』を読み、その全精神を、『通鑑』の注釈という仕事に託したのであった」(pp. 90-91)。元朝ファンには承服しがたい表象が使われていると思うが、胡三省の目に映った世相を代弁した記述、と見なしてもらえれば。[上に戻る]

[追記1]原文「収文徳之書及公私典籍、重本七万余巻」。「重本」を「貴重な本」と訳出しているが、『北斉書』巻45文苑伝・顔之推伝の「観我生賦」自注に「王司徒表送秘閣旧事八万巻、乃詔比校、分為正御、副御、重雑三本」とあり、「重本」は本来「重雑本」=重複している書籍の意だと思われる。牛弘の原文がこうであったのか、引用者が一部省略したのか不明だが、ともかく原文には脱落があると思われ、「重本」を顔之推をふまえて「重複本」と訳出しても文意が通じないように思われる。そこで、訳文はとりあえず文意が通る「貴重本」のままとしておく。(2018/01/07追記)[上に戻る]


2017年10月29日日曜日

沈約『宋書』の系譜とその周辺

 沈約『宋書』はじめ、宋史のお話。
 なお本記事ではあくまで便宜的に、宋朝の国史編纂事業において成り立った宋史を国史、それ以外の宋史を野史と呼び、区別する。

***
国史
沈約
『宋書』巻100自序の末尾。

 史臣は十三のときに父を亡くし、早くから学問に打ち込んできた。時ばかり重ねて何も成し遂げてはいないが、やめるつもりはまったくなかった。そうした日々で気にかかっていたのが、晋氏の史書で起こりから亡びまで叙述したものがないことだった。そこで二十のころ、自分で書いてやろうという目標を立てたのである。泰始(西暦465-471年)のはじめ、征西将軍の蔡興宗が史臣のために明帝にそのことを申し上げてくれ、すると勅が下って編纂の許可を賜った。以来二十年、晋史は120巻まで書きあがり、筋道〔原文「条流」。常套表現のようだが、よくわからん。秩序だった流れ?〕は立ったのだが、記録の収集がまだ不満足であった。そうしたところ、永明(483-493年)のはじめ、盗人に出くわしてしまい、五つめの帙(41-50巻?)を失ってしまった。
 ところで、建元4年(482年)のまだ年が明けないころ、勅を受けて宋の国史の編纂をすることになった。永明2年(484年)、過分にも著作郎の兼任を命じられ、起居注の執筆整理に当たった。以後は戦争があったため[1]、資料の収集や記述に割く時間がなかったのだが、5年(487年)の春にふたたび宋書編纂の勅が下った。そうして6年の2月、とうとう完成し、献上したのである。その上表文でこう申し上げた。

「・・・(前略)・・・
 宋の著作郎、故何承天が最初に宋書を編纂し、紀と伝をつくりましたが、武帝の功臣までしか叙述しておらず、全体の分量が薄い出来でした。何承天が撰述した志は天文と律暦のみで、それ以外は奉朝請の山謙之に任されたものでした。
 山謙之は孝建(454-456年)のはじめにも編纂の詔を下されたのですが、まもなく病没してしまったため、南台(御史台)の侍御史、蘇宝生に伝の編纂が命じられました。元嘉の名臣伝は彼の撰述です。
 蘇宝生が誅殺されてしまうと、大明(457-464年)のなかば、著作郎の徐爰にこれまでの編纂の引継ぎが命じられました。徐爰は何承天と蘇宝生が撰述した伝を受け継ぎ、一つにまとめあわせました。その叙述範囲は晋の義煕(405-418年)はじめから大明の終わりころまでに及びます。また、臧質、魯爽、王僧達の伝は孝武帝の御撰です。
 しかし以後、永光(465年)から禅譲(479年)までの十数年ほどは編纂の担当者がおらず、事業は停滞し、帝一代の記録ですら、始めから終わりまで完備しておりません。加えて、記録する事跡は自分たちの時代だったのですから、事実とは異なる記録も多くあります。立伝の基準にかんしましても、取捨の選択は公正でなく、進んでは当時の帝の意向に阿り、退いては世論に追従するありさまです。宋の国史を後世〔原文「方来」。『文選』巻49の范曄皇后紀論「貽厥方来」、李善注「毛詩曰、詒厥孫謀」に拠った〕に伝えていくにあたり、このような状態では信頼に欠けます。
 そこで臣は、伝を見直して設け、新たに国史を作成いたしました。義煕改元から昇明3年(479年)までを範囲としております。(具体的に、これまで立伝されてきた以下の者たちを見直しました。)桓玄、譙縱、盧循、司馬休之と魯宗之[2]らは晋朝の賊であって、後世の宋とは関係がありません。呉隠、謝混、郗僧施[3]ですが、彼らの義は前代の晋でのことですから、宋の史書にむやみに入れるべきでありません。劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民ですが、彼らの志は晋の復興であって、宋を建立するつもりはありませんでした。これらの伝はすべて取り除き、晋の史書に委ねます[4]
 遠くは南史氏、董孤〔ともに直筆で知られる春秋時代の史官〕に劣ることを恥じ、近くは司馬遷、班固に及ばず、そのような凡才が宋一代の史書を叙述いたしました。言葉をつむいで事跡を列記するに、いにしえの良史と比べると恥じ入るばかり、かしこまって身を小さくしても、冷や汗が止まらず、落ち着く場所もないほどです。本紀と列伝は清書が終わり、合計で七帙七十巻となります。いま、つつしんでこれを献上いたします。志は完成次第、献上いたします。内容目次を添えて省に行き、表を奉じてこの書物を献じましたことをここに申し上げます。臣約、まことに恐れおののくばかりです。頓首頓首死罪死罪」。
(史臣年十三而孤、少頗好学、雖棄日無功、而伏膺不改。常以晋氏一代、竟無全書、年二十許、便有撰述之意。泰始初、征西将軍蔡興宗為啓明帝、有勅賜許、自此迄今、年逾二十、所撰之書、凡一百二十巻。条流雖挙、而採掇未周、永明初、遇盜失第五帙。建元四年未終、被勅撰国史。永明二年、又忝兼著作郎、撰次起居注。自茲王役、無暇搜撰。五年春、又被勅撰宋書。六年二月畢功、表上之。曰、
「・・・宋故著作郎何承天始撰宋書、草立紀伝、止於武帝功臣、篇牘未広。其所撰志、唯天文、律歴、自此外、悉委奉朝請山謙之。
 謙之、孝建初、又被詔撰述、尋値病亡、仍使南台侍御史蘇宝生続造諸伝、元嘉名臣、皆其所撰。
 宝生被誅、大明中、又命著作郎徐爰踵成前作。爰因何蘇所述、勒為一史、起自義熙之初、訖于大明之末。至於臧質、魯爽、王僧達諸伝、又皆孝武所造。
 自永光以来、至於禅譲、十余年内、闕而不続、一代典文、始末未挙。且事属当時、多非実録、又立伝之方、取捨乖衷、進由時旨、退傍世情、垂之方来、難以取信。
 臣今謹更創立、製成新史、始自義熙肇号、終於昇明三年。桓玄、譙縱、盧循、馬魯之徒、身為晋賊、非関後代。呉隠、謝混、郗僧施、義止前朝、不宜濫入宋典。劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民、志在興復、情非造宋。今並刊除、帰之晋籍。
 臣遠愧南董、近謝遷固、以閭閻小才、述一代盛典、属辞比事、望古慚良、鞠躬跼蹐、靦汗亡厝。本紀列伝、繕写已畢、合七帙七十巻、臣今謹奏呈。所撰諸志、須成続上。謹條目録、詣省拜表奉書以聞。臣約誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪」。)

 いきなりの長文になってしまったが、沈約がどういう経緯で宋書をまとめたのか等、よくまとめられている。
 彼が宋朝における国史編纂事業の歴史から自分の仕事の意義を説いていることに察せられるように、「製成新史」とはいっても、まったくのゼロベースからつくるわけでなく、何承天以来の事業でまとめられた宋書を点検しつつ加筆し、そうしてできあがったのが沈約の宋書、というふうに見ておくのがよいように思われる。
 したがって、沈約宋書の記述を分析するにあたっては、宋朝の編纂事業で生み出された史書をつねに念頭に置いておかねばならない。以下、何承天から順にこの歴史をまとめてみる。

何承天
『宋書』巻64何承天伝

元嘉16年(439年)、著作佐郎に任じられ、国史を編纂した。何承天は老年だったが、ほかの著作佐郎はみな名家の若者だった。(十六年、除著作佐郎、撰国史、承天年已老、而諸佐郎並名家年少。)

 16年当時、何承天は70歳です。著作佐郎は起家官としてランクの高い職であった(宮崎市定『九品官人法の研究』中公文庫、1997年、pp. 252-253。著作そのものについては拙訳注参照)
 若い著作の一人が山謙之だったのだろうか。それは措くにしても、彼はなかなか優秀な史官だったようなので記憶に留めてよい。

 何承天版は隋書経籍志(以下、たんに隋志と呼ぶ)にも記録がないし、いままで類書での引用も見たことがない。沈約は何承天版を直接参観できていたようなので、どこかの段階で消失してしまったようだ(徐爰版・沈約版に吸収されたとみてよいのかもしれない)。
 沈約の自序によれば紀伝の下限は武帝時代までのようだから、同時代にあたる文帝時代は範囲外だったようだ。ただし志の下限はどうであろう。沈約の律暦志には元嘉暦の記述があるが、元嘉暦制定の張本人である何承天であれば、彼自身がここまで執筆したと考えて差し支えないと思われるが。
 ほかの手がかりは沈約宋書の志序である。

元嘉年間、東海の何承天は詔を下されて宋書を編纂した。その志は15篇(15巻)〔篇と巻は厳密にはちがうが、巻子本が主流であったこの時代においてはおそらくほぼ同義であったと思われ、また沈約が8志30巻であることからみても、「巻」の意でとってよいと考える〕あり、司馬彪『続漢書』のあとを承けた記述内容だった。諸書からの引用が広範であるのはこのような事情に拠っているのであり、司馬遷、班固のごとく、一家の書となっている。遺漏や何承天以後の事跡は、記録を収集して適宜に補った。(元嘉中、東海何承天受詔纂宋書、其志十五篇、以続馬彪漢志、其証引該博者、即而因之、亦由班固、馬遷共為一家者也。其有漏闕、及何氏後事、備加捜采、随就補綴焉。

 太字箇所に注目したい。
 まず「十五篇」だが、詳しい構成は当然不明。沈約の自序、志序からは、何承天版には天文志、律暦志、五行志があったこと、沈約版の符瑞志は沈約が新たに立てた項目であること、これらは確からしい。また沈約が州郡志の序文で参考書籍に「何〔承天〕〔爰〕州郡」を挙げており、実際に文中で「何志」に頻繁に言及することから、州郡志もあっただろう。蕭子顕『南斉書』百官志でも何承天の志に触れており(州牧刺史の条に「何徐志云起魏武遣諸州将督軍」)、百官志の類も設けられていたと思われる。
 分量を比較してみると、沈約の志は30巻ある。うしろの太字箇所を言葉どおりに受け取れば、沈約は何承天版に補筆しただけのようだが、分量が増したのか、何承天版を分割したのか。符瑞志のように沈約の新設した志が他にあったのかもしれない。

 次に「続馬彪漢志」について。訳文で取ってみたように、「司馬彪を継承する」というのは「後漢以後の三国から叙述を起こし、魏晋を含めた内容とする」意味だと解しておきたい。何承天のこの方針は沈約志序の次の一節からもうかがえる。

天文志、五行志は司馬彪以後、記録がない。何承天の志は黄初のはじめから、徐爰の志は義煕のはじめから記述がはじまっている。魏を漢に接続させるにあたり、何承天に従うこととする。(天文、五行、自馬彪以後、無復記録。何書自黄初之始、徐志肇義煕之元。今以魏接漢、式遵何氏。)

 何承天がこういう方針を採ったのは、沈約が言うように司馬彪以降はまとまった志がないからかもしれないし、彼なりにポリシーがあったのかもしれないし、また、そもそも文帝の時点では宋のことだけで書くとたいした分量にならないからいっそ魏晋まで含めて内容をふくらませたのかもしれない。
 沈約の志を見ると、天文五行だけでなく、すべての志で魏晋が範囲になっているので、「以魏接漢式遵何書」というのは、沈約の志全体の編纂方針でもあったようだ。

 と、わからないことが多いのだが、沈約があえて徐爰版でなく何承天版を採っていることからも、沈約の志は何承天版に強い影響を受けている。それに、根拠なしだが、徐爰版もおおよその記述内容は何承天版を継承しているんじゃないか。ようするに、何承天版の両版への影響力はとてつもなく大きいと思う。記述内容の比較もしようがないが、沈約版のいくつかは何承天版を継承しただけのものがあるかもしれない。

何承天と徐爰の間
 沈約は自序で触れていないが、文帝期に何承天のあとを継いだ者がいる。裴松之である。曽孫にあたる裴子野の『宋略』総論に次のようにある[5]

私の曽祖父で、宋の中大夫、西郷侯〔裴松之のこと〕は、文帝の元嘉13年に詔を受けて起居注を編集した。同16年、また詔を受けて何承天の宋書を引き継いで編集することになったが、その年に在官のまま没したため、著述できなかった[6](子野曽祖、宋中大夫、西郷侯、以文帝十三年受詔撰起居注。十六年、重被詔続成何承天宋書、其年終于位、書則未遑述作。)

 沈約の自序に裴松之への言及がないのは、彼自身の文章がないからであろうか。

 山謙之は沈約『宋書』に「史学生」「学士」とも出てくる人物だが、他の詳細は不明。蘇宝生は沈約『宋書』の王僧達伝に附伝があるが、宋書編纂のことについては触れられていない[7]

 さて、『宋略』総論には裴松之が「続成何承天宋書」を命じられたとあり、このあと見ていく『宋書』徐爰伝にも何承天以来の国史編纂を「踵成」させたという表現が見えている。
 つまり、これまで挙げた人物たちは、その都度に国史の宋書を編纂しているのではなく、前任者がまとめたもの(何承天版)に継ぎ足ししていくような方式で国史を整理していったのではないかと思われる。何承天や蘇宝生が個別の志や伝の撰述者として伝えられているのは、このような編纂形式に起因しているのだろう。こうしたやりかたは後漢の『東観漢記』にも似ている(呉樹平『東観漢記校注』中華書局、2008年、序pp. 1-3)

 ここからしばらく脇道。
 沈約の自序に蘇宝生は「元嘉名臣」を作成したとあった。『史通』古今正史だと「勅南台侍御史蘇宝生続造諸伝、元嘉名臣皆其所撰」とあり、彼は「諸伝」作成の引継ぎを命じられたと記されている。
 彼の仕事はあくまで伝であって、紀(文帝紀)にはなかったのだろうか。
 振り返ってみると、沈約の自序にも何承天は「武帝功臣」まで叙述したと記されている。「紀伝」を立てたともあるので、武帝紀ももちろんつくったのだろうが、やはりここでも何承天の仕事の力点が伝のほうに置かれているような表現となっている。
 これは当時の著作の仕事と関係があっての表現だと思われる。
 まず、どうして紀への言及がないのかというと、すでにタネとなる記録がすでに作成されているからでないか。そう、起居注である。起居注がそのまま紀になることはないだろうが、だいたいの記録も形式も整えられている。
 それに対し、伝はゼロから文書を集めたり聞き取りしたりして、記録を整理していかねばならなかったであろう。伝を作成するとはこうした作業をこなすことに違いない。そして文書の散逸や証言の埋没を防ぐためにも、この作業は一定期間ごとに継続的に続けていくことが求められる[8]

 宋のこのやり方は、晋とはやや違っていたようである。
 晋の国史編纂といえば、唐修『晋書』賈謐伝に記されている上限の議論[9]が比較的知られていようが、それ以外だと干宝や徐広が国史編纂を担当したとか(両者の『晋紀』はその成果である)[10]、そういう感じの話が伝わっているくらいで、いまいちつかみにくい。
 しかし、まさに干宝や徐広の話から伝わってくるように、晋における国史の編纂は一定期間の記録をその都度に集成するものであって、以前の国史担当が作成した国史に継ぎ足すわけではなかったようである。その結果、複数の国史(晋紀)が存在するままで、一つにまとまった晋史がないという沈約が自序で述べたような事態を招いてしまったようだ。
 さらに、晋の国史編纂者には伝のタネもすでに提供されていた可能性が高い。沈約『宋書』百官志によれば、晋の佐著作郎は就任時に名臣伝を作成することが課せられていたという拙訳注参照、注 [24] のあたり)。徐広らはこれらを利用できたはずだ。起居注と名臣伝を整理・総合して数代の帝紀を(編年体で)まとめるのが晋の国史担当者の仕事だったのでないか。こうした事情から、干宝や徐広はそれぞれが作成した国史(晋紀)の編纂者として名が伝わることになったと思われる。
 百官志によれば、著作の名臣伝の慣習は劉宋以降、廃れてしまったという。劉宋の国史担当者の仕事が伝の作成に置かれてしまったのは、タネとなる伝がなかったことに由っているのでないだろうか。

 また、宋と晋では叙述の形式も違っていた。宋は紀伝体で、晋は――西晋の国史は不明だが――編年体である。東晋の国史が編年体なのは最初の編纂者・干宝がそれを採ったのが受け継がれているからだろうか(なお、この当時の編年体は紀に伝を挿入する形式であったと思われるので、編年体だからといって伝を作成する作業が不要なわけではない)。

 晋、とりわけ東晋の国史は関連する記録こそあまり残っていないが、宋の国史と比較することでさまざまな特徴が見えてくるかもしれない。そういったことはまたの機会に。

徐爰
『宋書』巻94恩倖伝・徐爰伝

これ以前の元嘉年間、著作郎の何承天に国史をはじめてつくらせた。孝武帝のはじめ、また奉朝請の山謙之、南台侍御史の蘇宝生に引き継がせた。大明6年、徐爰に著作郎を兼任させ、国史の事業を完成させるよう命じた。徐爰はそれまでにできあがったものを受け継ぎつつも、独自に一家の書物をつくりあげた。(先是元嘉中、使著作郎何承天草創国史。世祖初、又使奉朝請山謙之、南台御史蘇宝生踵成之。六年、又以爰領著作郎、使終其業。爰雖因前作、而専為一家之書。)

 徐爰の宋書は沈約本の藍本であるとの指摘がなされている(趙翼『廿二史箚記』巻9「宋書多徐爰旧本」。また邱敏『六朝史学』南京出版社、2003年、pp. 88-89も参照)
 散逸した宋史のなかでも比較的佚文が残っているほうで、『芸文類聚』『太平御覧』にいくつか見えている。両書はともに『修文殿御覧』が資料源であるらしいので[11]、北斉当時によく流通していたのだろう。
 沈約の自序にあったように、臧質、魯爽、王僧達の伝は孝武帝の御撰だが、これらは劉知幾に言わせると「序事多虚、難以取信」(『史通』古今正史)だったそうだ。
 ほか、多少の特徴をここでまとめてみたい。

 隋志によると全65巻。詳しい構成はわからないが、基本的には何承天版以来の宋書を継いでいるであろう。まあ、その何承天版がさっぱりわからないんですけどね。
 徐爰は編纂にあたり、上表して三つの議題を提起している。(1)義煕を王業の始まりとし、ここを功臣の区切りとしたい(起元義熙、為王業之始、載序宣力、為功臣之断)、(2)桓玄伝を削除したい(其偽玄篡竊、同於新莽、雖霊武克殄、自詳之晋録)、(3)禅譲前に劉裕に逆らうなどして滅んだ者たちも国史に収めたい(及犯命干紀、受戮覇朝、雖揖禅之前、皆著之宋策)
 結論から言うと(1)と(3)は認可され、(2)は孝武帝に却下された。(3)から順に考察を加えてみよう。

 (3)についての議論は徐爰伝に記録されていないので、何承天版ではどうだったのか等々、詳細は知りえない。ただ、ここで思い出されるのは沈約が自序で、削除した列伝に劉毅らを挙げていたことである。自序で挙げられていた人物だと、劉毅、諸葛長民、謝混、郗僧施が(3)に該当するだろうか。捉え方によっては、沈約に「晋賊」と判断された魯宗之らも含まれるかもしれない。徐爰が入れたいと要望したこれらの者たちは、この時点では公認されたものの、最終的に沈約に除外されてしまったことになる。

 次に(2)。徐爰は、桓玄は王莽と同じようなもんだから晋の史書に書けばよくね、と理由を述べている。対して孝武帝は「項羽も更始帝も漢の史書に入っているから平気やろ」と返し、「桓玄伝は入れるべきだ」と判断を示した。論点がたがいに噛み合ってない気がするが、孝武帝は(3)も認可しているので、劉裕がぶっ倒したやつは全員宋史にぶち込んでしまえという考えだったのかもしれない。まあ、結局沈約が外してしまうんですけどね。

 唯一、関連記述が残っているのが(1)である。徐爰伝より引用。

太宰の江夏王義恭ら三十五人は徐爰の議に賛同し、義煕元年を区切りにするのが良いとした。散騎常侍の巴陵王休若、尚書金部郎の檀道鸞は元興3年を主張し、太学博士の虞龢は開国を宋公元年にするのが適当だと論じた。(太宰江夏王義恭等三十五人同爰議、宣以義煕元年為断。散騎常侍巴陵王休若、尚書金部郎檀道鸞二人謂宜以元興三年為始。太学博士虞龢謂宜以開国為宋公元年。)

 断限の話は何を言っているのかよくわかんないのだが、想像をまじえつつ事情を考えてみる。

 元興3年は桓玄打倒の起義の年(404年)、義煕元年は東晋の天子が建康に戻り、劉裕が朝廷の実権を握った年(405年)、「開国」はおそらく義煕12年に劉裕が宋公に封じられた年(416年)を指しているのだろうか。これ以前だと義煕2年に豫章郡公に封じられているが、たぶんこれじゃないだろう。
 西晋での争点も踏まえて考えてみると、断限の議論で問題とされているのは「どこからの人物を自朝の人間に数えるか/数えないか」だと思われる。創業の紀の記述がはじまる年ではないはず。宋公元年や義煕元年をはじまりとするからといって、武帝紀に起義をまったく記さないなんてことは現実的でない。元興3年であっても、それ以前の劉牢之時代を記述しないのはやはりおかしいだろう。
 そう仮定してみると、虞龢の主張はわかりやすい。ようするに、元興3年の起義に参加しただけでは宋の人間にカウントしないというのだろう。なので、何無忌のような人物も外されることになろう。そりゃあ、まったく賛同者はいないでしょうね。劉裕の片腕で禅譲前に没した劉穆之という者がいたけれど、劉穆之伝によれば劉裕は即位後、「佐命元勲」を思い、その一人として穆之を追贈したと記されている。『晋書』の何無忌伝や魏詠之伝にもやはり追贈の詔が載っているので、彼らも劉裕から「佐命元勲」に数えられていた可能性が高いはずだ。そういう人物たちを外すのは宋朝として抵抗があるんでないか。そういうふうに想像していってみると、何無忌伝とかは何承天版からすでにあったはずで、彼らの伝を設けること自体は徐爰版当時でもまったく疑問視されていなかっただろう。
 しかし、虞龢の主張に近い基準をもっている人物が一人いる。沈約だ。もちろん、沈約は義煕元年を起点にしていると自序で述べているが、一方で彼は何無忌ら宋公封建以前に没した人物たちを伝から外してしまっているし、沈約版で生き残った武帝功臣たちはおおむね義煕12年の宋建国まで存命している。こういう文脈からすると、虞龢は時代を先取りしすぎてしまっていたようだ。

 つづいて義煕元年と元興3年であるが、両者の違いが私には正直よくわからない。いや、シンボル的な意味がぜんぜん違うのはわかるのだが、どっちを採っても実際の作業上で何らか変化は起こらないのでは・・・? どちらの基準でもはじきだされるのは劉牢之だが、どちらかでしかカウントされない人物はたぶんいないのでは?
 で、実際の作業でどういう変化がありうるかをしいて考えてみるに、沈約の志序に「徐爰の志は義煕のはじめから記述がはじまっている(徐志肇義煕之元)」とあったのに着目してみよう。義煕元年を宋のはじまりとすることで、徐爰は何承天版から魏晋時代の記述を削った。義煕元年の劉裕執権以降が宋の歴史だからである。人物の紀伝と違い、志であれば思い切って区切れるだろう。元興3年と義煕元年の差異は、志であればハッキリするのではないか。もちろん、両主張は志をどこからはじめるかを争っているのでないが。

 両者のシンボル性としては、志も含めた国史全体の統一性の点では義煕元年がわかりやすく思うし、「物語のはじまり」にふさわしいと感じる。元興3年は「チュートリアル」って感じですね。義煕元年のが賛同者圧倒的だし、やっぱりみんなそう思ったんじゃないの? 知らんけど。
 ともかく最終的には義煕元年が採用され、それに合わせて伝の基準が見直されたり、志の記述が削られていったのだろうと思われる。

 だがしかし! 沈約はここでも徐爰をそのまま継いだりしていない。前述したように、志は何承天版の方針に従っているし、伝は義煕元年はじまりを自称しているが、実際には虞龢に近い観点をもって編集している。何承天もどうして曹魏から志をはじめたのか知る由がないが、沈約はどういう意図とか統一性をもっていたのでしょうね。宋の国史に魏晋を記録した志を収録するって変だと思いますが・・・。宋では置かれなくなった、という官の記述すらあるからね。

 まとめてみると、徐爰は編纂に当たって3つの修正案を要請し、以下の裁可を得た。(1’)義煕元年をはじまりとする(2’)桓玄伝は削除せずに収録する(3’)劉裕即位前に劉裕に滅ぼされた者たちも収録する。
 しかしこの三つの決定は、沈約によってほぼ覆されたことになる。
 仮にだが、徐爰の(2)(3)の提案は何承天版ではそうではないから求めているのだとしたら――何承天版では桓玄伝が立てられていたし、劉毅らの伝がないのだとしたら。桓玄伝の有無こそあるが、だいたいの編集方針の点で、沈約版は徐爰版よりも何承天版に近いと言えないだろうか。

王智深
 斉の王智深には『宋紀』という著作がある。隋志に記録はないが、『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志にそれぞれ30巻で記録がある。
 『南斉書』巻52文学伝・王智深伝によると、彼は斉の武帝から勅命を受けて『宋紀』を著している。完成したので召されたが、武帝が崩じて献上できず、しばらく放置されたのちに秘書に入れられたそうだ[12]。武帝は沈約にも宋書の編纂を命じていたが、王智深への勅命は沈約完成のあとだろうか。王智深のは編年体だから、武帝は宋史を紀伝体と編年体それぞれで作成させたのだね。マニアだなあ。
 王智深『宋紀』は宋朝の国史編纂事業の延長上にあるものかは不明だが、あの武帝からの命令でまったく無関係ではなかったかもしれないし、とりあえず国史の側に分けておいた。
 章宗源『隋書経籍志考証』で12条(『水経注』2条『初学記』6条『太平御覧』4条)、王仁俊『玉函山房輯佚書補編』に1条、佚文が挙げられている。章宗源の見逃しとしては、『初学記』巻27宝器部・芙蓉に引かれている1条があるが、これは他と違って「宋紀」と書名しか書かれておらず、王智深の名がないため、挙げなかったのかもしれない。『太平御覧』巻1000百卉部7苔に引く「王智深宋記」も挙げられていないが、この佚文は章宗源も挙げている『初学記』宝器部・苔に引く1条と同内容である。

***
野史
孫沖之
『史通』古今正史

何承天ののち、文帝は裴松之に国史編纂の引継ぎを命じたが、松之はまもなく没してしまった。史佐の孫沖之が、国史とは別に自分で宋史をつくりたいと上表し、(許可を得て)一家の書を仕上げた。・・・大明6年、孝武帝は著作郎の徐爰に国史編纂の引継ぎを命じた。徐爰は何承天、孫沖之、山謙之、蘇宝生の著述を受け継ぎつつ、まとめあげて一家の書を完成させた。(後又命裴松之続成国史、松之尋卒。史佐孫冲〔ママ〕之表求別自創立、為一家之言。・・・六年、又命著作郎徐爰踵成前作。爰因何孫山蘇所述、勒為一書。)

 孫沖之は沈約『宋書』にやや記述があり[13]、かの孫盛の曽孫であるらしいが、史書編纂のことは触れられていない。
 『史通』のこの書き方からすると、国史とは別個に個人的につくったものだろうと思われるので、野史に分類した。徐爰版にネタ提供しているというのに、沈約が自序で触れないのは国史でないからなのだろう(沈約は国史の歴史しか概述していない)。隋志にも記録がないので、徐爰版に吸収されてしまったのだろうか。
 しかし、劉知幾はいったい孫沖之のことをどこから知ったのだろう。沈約は自序でも列伝でも言及していないし、現物も残っていなかった可能性が高いというのに。徐爰版の自序みたいのがあって、そこで述べられていたのだろうか。

その他いろいろ
 ほかはロクな記録がないので、隋志、『旧唐書』経籍志(旧唐)、『新唐書』芸文志(新唐)から列記する。


撰者『書名』隋志旧唐新唐備考
孫厳『宋書』65巻46巻58巻斉冠軍録事参軍(隋志)
佚氏名『宋書』61巻宋大明年間撰。隋志時点で亡(隋志沈約宋書条原注)
王琰『宋春秋』20巻20巻梁呉興令(隋志)
鮑衡卿『宋春秋』20巻20巻


 新唐書には「王智深『宋書』三十巻」の記録があるが、これは同名著者の『宋紀』の誤りだろう。
 孫厳は孫沖之と同一人物なんじゃないかと疑っていたことがあり、実際そういう学説があるそうだが(邱敏『六朝史学』、pp. 89-90)、そう性急に判断するのはやめておくのがよいだろう(邱氏前掲書p. 90)
 佚氏名『宋書』は徐爰とほぼ同時期のもので、巻数も似ているが、材料がないのでどうしようもない。
 王琰『宋春秋』は『太平御覧』とかで佚文をちょくちょく見かける。鮑衡卿は梁の鮑行卿、鮑客卿兄弟(『南史』巻62鮑泉伝)との関係が推測されている(邱氏前掲書pp. 139-140)

 以上の志には記録がないが、南斉の劉祥にも『宋書』があったらしい。『南斉書』巻36劉祥伝「撰宋書、譏斥禅代、尚書令王倹密以啓聞、上銜而不問」とある。邱氏は、劉祥が宋斉革命に批判的であったのは、彼が劉穆之の曽孫であったことと関係があるのだろうと推測している(邱氏前掲書p. 90)

裴子野
『宋略』総論(『建康実録』引)

私の曽祖父で、宋の中大夫、西郷侯は、文帝の元嘉13年に詔を受けて起居注を編集した。同16年、また詔を受けて何承天の宋書を引き継いで編集することになったが、その年に在官のまま没したため、著述できなかった。斉が起こってから十数年、宋の新しい史書〔沈約の宋書だろう〕がすでに流通している。私は泰始の末に生まれ、永明年間を過ごした。家には古い書物があり、見聞がたがいに結びつき、どんなことでも収集した(?)。宋の新しい史書に即しつつ、『宋略』20巻をつくった。(子野曽祖、宋中大夫、西郷侯、以文帝十三年受詔撰起居注。十六年、重被詔続成何承天宋書、其年終于位、書則未遑述作。斉興後十余年、宋之新史、既行於世。子野生乎太始之季、長於永明之間、家有旧書、聞見交接、是以不量深浅、因宋之新史、以為宋略二十巻。)

『梁書』裴子野伝

はじめ、裴子野の曽祖父の松之は宋の元嘉年間に詔を受けて、何承天の宋史の引継ぎを命じられたが、遂げられずに没した。そこで子野はいつも松之の未完の仕事を受け継ぎ、完成させたいと思っていた。斉の永明の末、沈約の『宋書』はすでに世に出回っていたが、子野は内容をコンパクトにまとめ、『宋略』20巻を編纂した。優れた叙述や評論が多く、沈約がこれを見ると、「私には書けない書物だ」と嘆息した。(初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒。子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其叙事評論多善、約見而歎曰、吾弗逮也。)

 沈約以外でもっともよく知られている宋史かもしれない。詳しい話は別記事『建康実録』の東晋巻についてでつづったつもりなので、そちらを参照。
 「削った(刪)」とあるが、沈約のダイジェスト版ということなのか、沈約(紀伝で70巻)よりも短い分量でまとめたということなのか、判然としない。たぶん後者の意味あいだと思うが。
 劉知幾は裴子野伝のエピソードをもって、沈約より裴子野のが上等と断ずるが、そもそも彼は沈約そのものを嫌っているので、そういう評価を真に受けるのはよくないと思います。

***
 以上、それぞれの宋史について簡単にまとめてみた。
 沈約はだいたい現存しているが、ほかは断片的にもほとんど伝わっておらず、後漢史や晋史のような輯佚もほぼされていない(はず)。
 というなかで宋史の歴史をまとめてみたのは、沈約『宋書』における時間的な堆積をちょっと強調してみたかったからである。
 先行書物から記述材料を採ることは当たり前だろうが、沈約の場合、多く依っている資料が宋朝で編纂されていた国史だという点に注意しなければならない。沈約が全体に手を加えているであろうが、良くも悪くも同時代資料の集積と言える部分があるのでないか。沈約の認識というものを抽出するにはそこそこの手続きが必要になるし[14]、何承天・徐爰以降アップデートされていないままの情報もあるかもしれない。

 例えば百官志を考えてみよう。百官志でもっとも不思議なところは、宋史の志であるはずなのに、宋の情報が意外に少ないことだ。劉宋の情報だけで構成しようとすれば、蕭子顕『南斉書』の百官志くらいの分量になるだろう。
 また、沈約の同時代、『斉職儀』という官職の歴史を集成した書物があったが[15]、沈約の百官志にはこれを参照した形跡があまりないように見受けられる。『斉職儀』は斉の永明9年に秘書に入れられているので、沈約が志を編纂している時期にあたる。参照できなかったとは思えないし、情報源としても価値はあったと思うが。それに『斉職儀』は官職の通史であったと考えられるので、魏晋以降の通史的叙述をめざす沈約にとってはちょうどよい手本だったはずだが。
 ひょっとしてだが、百官志は何承天版に多少の情報を加えたのみで完成させたのではないか。『斉職儀』のような書物を参照して、何承天版を大幅に書き換えるなんて作業をしなかったのではないか。沈約の志が成ったのは梁初だとしても(中華書局校点本p. 2参照)、そこの情報はヨリ古いものと見なす必要がでてこないか。まあでも、この想像はちょっとやりすぎかもしれない[16]

 もう一つ気になるのが、唐修『晋書』職官志との関係である。唐修『晋書』の志は沈約の志と重複していて無用との見解もあるが(内藤湖南『支那史学史』、全集11巻、p. 156)、百官志・職官志だけに限ればそうとも言えない。
 たしかに内容的な重複どころか、字句の重複まで見られるが、『晋書』のほうは晋の記録に細かいし、『晋書』と『宋書』で同じ資料から引用していると思われる箇所についても、『晋書』のほうが長く引用されている場合がある。唐の史官が沈約『宋書』を参考に可能性はあるだろうが、しかし比重は別の資料に置かれているように思われる。つまり、唐修『晋書』職官志と沈約『宋書』百官志とは直接的には異なる系譜をもっており、例えば前者は臧栄緒で後者は何承天が直接的な継承関係、といったところでないか。
 ここでまた想定しなければならないのは、じゃあ臧栄緒はどのあたりの資料を参考に志をまとめたと考えうるか、ということだ。沈約の自序にあったように、晋史で江右と江左を統合した書物は晋滅亡後も書かれていなかった。宋末に成ったであろう臧栄緒の『晋書』が唐にいたっても重んじられたのは、東西の晋史をまとめたからである。なので、臧栄緒『晋書』は多くの部分で彼自身の編集が加わっていると思われる。
 どうして臧栄緒の成り立ちなどを取り上げるかというと、ある想定を念頭に置く必要があると思うからである。仮に唐修『晋書』の職官志が臧栄緒『晋書』をだいたいの形で継承したものであったとすれば、唐職官志に多く見える傅暢『晋公卿礼秩』、荀綽『晋百官表注』を参照した形跡は、臧栄緒の編集によるものだったことになる。ここでさらに、臧栄緒の参考文献に何承天の百官志を加えることはできないか。
 先に挙げた2書は西晋までを範囲としている。しかし唐職官志と沈約の百官志は東晋の記述においても重複が見られる。これは両志が東晋以降の資料を部分的に共有しているからだと思われるが、その共有部分こそ何承天であったりしないか。沈約が何承天の志を高く評価しているのは、志序で述べられていたように、魏晋をまとめて叙述した志がほかにないからだ。まして晋は東西を統合した歴史叙述すらない。そうした状況は臧栄緒においても変わらなかったはずである。何承天の志をベースとしつつ、『晋公卿礼秩』『晋百官表注』『晋令』などの資料で増補していったのでないか。
 ここで逆の想定、沈約が臧栄緒を参照して百官志を編集した、と考えるのは難しいと思う。宋の国史でありかつ沈約の意向に沿う通史的な何承天と、晋一代の臧栄緒とでは、前者を優先するのが当然だろう。
 すごくゴチャゴチャとしてしまったのは、まだ情報やら想定やらを整理できていないからなのですんません。

 まあ、以上のような想像は「こういうのを念頭に検討してみたいです」って表明みたいなもんです。前段階の作業として今回のまとめをしてみた。何承天、徐爰、唐修『晋書』、臧栄緒『晋書』、『斉職儀』、ここでは言及できなかった史部職官類の零細史籍等々、いろいろ洗ってみないといけないですね。しかし、こうして記述の起源をたどっていく的な作業ってどんだけ意味があるのかとも思うので、あんまり不毛にならない程度にしておきたいですね。



――注――

[1]原文は「王役」なので戦争関連のことだと思うが、南斉のことはよく知らないのでわからない。永明4年の唐宇之の乱?[上に戻る]

[2]原文「馬魯之徒」。義煕11年に結託して劉裕討伐の兵を挙げた荊州刺史・司馬休之と雍州刺史・魯宗之を指すと考えられる。二人は劉裕に敗れたあと、北に亡命。魯宗之の孫は魯爽といい、北朝育ちで、太武帝に仕えていた。のちに劉宋に奔り、劉宋孝武帝のとき、劉義宣、臧質と挙兵する計画を立てていたが、いろいろあって計画は失敗し、斬られた。[上に戻る]

[3]謝混、郗僧施は劉毅と仲が良かったらしい。建康にいた謝混は義煕8年に劉裕によって誅殺されたが、これは劉毅の挙兵を予測して事前に殺害したものと記述されている。郗僧施は劉毅とともに江陵で挙兵したが、劉裕が江陵を陥落させたさいに劉毅ともども誅殺したようである(どちらも宋書武帝紀など参照)。呉隠之は広州で盧循にボコボコにされたやつ以上のことをぶっちゃけ知らないのだけど、東晋末に清廉で鳴らした人物らしい(『晋書』巻90良吏伝・呉隠之伝)。劉裕とも多少やり取りがあったようだ。義煕9年没なので、彼の事跡はあくまで晋史に入れるべき、ということだろう。[上に戻る]

[4]ここに挙がっている人物は、前代までの宋書では立伝されていたとのことだが、「劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民」のグループは唐修『晋書』巻85にほぼそのままのメンツで固められており、もしかすると唐の史官が編纂時に徐爰版などからそのまま転載したのではないかと疑っているが、確証はない。他の人物は魯宗之を除き、唐修『晋書』に伝が立てられているが(郗僧施は郗超伝末尾に小さい附伝があるだけだが)、それらと沈約以前の宋書の伝との関係は検証していないので不明。魯宗之は沈約宋書の魯爽伝冒頭に記述がある(爽は宗之の孫)。[上に戻る]

[5]『宋略』については本ブログ別記事を参照『建康実録』の東晋巻について。総論は『建康実録』巻14末尾から引用した。『建康実録』は張忱石氏の校訂本(中華書局、1986年)を使用した。本来は、総論の引用は蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)からのが望ましいのだが、自宅のどこかに埋もれてしまって発掘するのがめんどうなので、『建康実録』からで勘弁してほしい。ほか、裴松之の国史編纂にかんする記述を挙げておく。『宋書』巻64裴松之伝「続何承天国史、未及撰述、二十八年、卒」、『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒」、『史通』外篇・古今正史「後又命裴松之続成国史、松之尋卒」。[上に戻る]

[6]『宋書』裴松之伝によると、松之は元嘉28年に没している。それに元嘉16年といえば、何承天が編纂を命じられた年なのだが・・・。記憶違いか何かかな?[上に戻る]

[7]『宋書』王僧達伝「蘇宝者、名宝生、本寒門、有文義之美。元嘉中立国子学、為毛詩助教、為太祖所知、官至南台侍御史、江寧令。坐知高闍反不即啓聞、与闍共伏誅」。[上に戻る]

[8]『史通』外篇・史官建置には次のような記述も見える。「かつては、佐郎が広く収集し、著作郎が伝の文章を作成し、両者に誤りがあった場合は秘書監がその問題にあたっていた(?)(旧事、佐郎職知博採、正郎資以草伝、如正佐有失、則秘監職思其憂)」。[上に戻る]

[9]『晋書』巻40賈充伝附謐伝「賈謐は(喪のため官から去っていたが)家から起って秘書監に就き、国史を担当することとなった。以前より、朝廷では晋書の(はじまりの)区切りが議論されていた。中書監の荀勖は魏の正始を起年に主張し、著作郎の王瓚は嘉平年間以降の朝臣もみな晋の史書に入れたいと論じた。そのときはどちらかに決められなかった。恵帝が即位すると、再度議論されることとなった。賈謐は議を奏上し、泰始を区切りにしたいと要望した。議題は三府に下され、審議された。司徒の王戎、司空の張華、領軍将軍の王衍、侍中の楽広、黄門侍郎の嵇紹、国子博士の謝衡は賈謐の提案に賛同した。騎都尉、済北侯の荀畯、侍中の荀藩、黄門侍郎の華混は正始、博士の荀熙と刁協は嘉平を主張した。賈謐ははもう一度、王戎と張華の議を奏上した。こうして賈謐の議のとおり、泰始が採用された(起為秘書監、掌国史。先是、朝廷議立晋書限断、中書監荀勖謂宜以魏正始起年、著作郎王瓚欲引嘉平已下朝臣尽入晋史、于時依違未有所決。恵帝立、更使議之。謐上議、請従泰始為断。於是事下三府、司徒王戎、司空張華、領軍将軍王衍、侍中楽広、黄門侍郎嵇紹、国子博士謝衡皆従謐議。騎都尉済北侯荀畯、侍中荀藩、黄門侍郎華混以為宜用正始開元。博士荀熙、刁協謂宜嘉平起年。謐重執奏戎華之議、事遂施行)」。[上に戻る]

[10]『晋書』巻82干宝伝「晋が中興したさい、まだ史官が置かれていなかった。そこで中書監の王導が上疏して述べた。『そもそも帝王の事跡は必ず書かれねばならず、記録して法典とし、これを無窮に伝えていくものです。宣皇帝は四海を平定し、武皇帝は魏から受禅しました。両帝の至高の徳、偉大な勲功は、上古の聖人に等しいですが、その紀伝は王府になく、両帝を称える徳音はまだ管弦で演奏されておりません。聖明なる陛下は、中興という隆盛の時期にあたっております。まさしく国史をつくり、帝紀を編集し、上は祖宗の功績を述べ伝え、下は功臣の勲功を記録すべきです。事実の記録に腐心することで、後世の手本となり、かつ天下の希望に従い、かつ人と神の心を満足させることとなり、これらこそ天下が落ち着くという非常な麗しさ、王者のおおいなる基盤と言えましょう。史官を設け、佐著作郎の干宝らに命じ、国史を漸次編纂させるのがよろしいかと存じます』。元帝は聞き入れた。干宝はこうしてはじめて国史を担当することになった。・・・『晋紀』を著し、宣帝から愍帝まで53年、全20巻、これを奏した(中興草創、未置史官、中書監王導上疏曰、『夫帝王之迹、莫不必書、著為令典、垂之無窮。宣皇帝廓定四海、武皇帝受禅於魏、至徳大勳、等蹤上聖、而紀伝不存於王府、徳音未被乎管絃。陛下聖明、当中興之盛、宜建立国史、撰集帝紀、上敷祖宗之烈、下紀佐命之勲、務以実録、為後代之準、厭率土之望、悦人神之心、斯誠雍熙之至美、王者之弘基也。宜備史官、勅佐著作郎干宝等漸就撰集』。元帝納焉。宝於是始領国史。・・・著晋紀、自宣帝迄于愍帝五十三年、凡二十卷、奏之)」。
 『宋書』巻55徐広伝「義煕2年、尚書が上奏した。『左史は帝王の発言を記録し、右史は時事を記録する、と伝えられています。乗は晋で、志は鄭で編纂され、春秋は魯の歴史を記しました。わが朝が起こり、晋の祭祀を中興させて以来、道徳的な風流(?)や帝王の記録(?)は、国史に明らかとされております。ですが現在、太和から三朝(三代)を経ており、その玄妙なる風流と聖なる事跡は、たちまちに過去の出来事となってしまうものです(のに、まだ記録がされておりません)。臣らが考えますに、著作郎の徐広が国史の編纂に適当かと存じます』。 詔が下った。『先代の輝かしい徳はまだ記録されていない。遠い先までこの様子を伝え、後世に久しく継いでいくべきだろう』。こうして編纂を命じられた。・・・12年、『晋紀』全46巻が完成し、上表して献上した(二年、尚書奏曰、『臣聞左史述言、右官書事、乗志顕於晋鄭、陽秋著乎魯史。自皇代有造、中興晋祀、道風帝典、煥乎史策。而太和以降、世歴三朝、玄風聖迹、倏為疇古。臣等参詳、宜勅著作郎徐広撰成国史』。詔曰、『先朝至徳光被、未著方策、宜流風緬代、永貽将来者也』。便勅撰集。・・・十二年、晋紀成、凡四十六巻、表上之)」。[上に戻る]

[11]勝村哲也「修文殿御覧巻第三百一香部の復元――森鹿三氏「修文殿御覧について」を手掛りとして」(『日本仏教学会年報』38、1973年)、同氏「『修文殿御覧』新考」(『森鹿三博士頌寿記念論文集』同朋舎、1977年)。[上に戻る]

[12]『南斉書』王智深伝「勅智深撰宋紀、召見芙蓉堂、賜衣服、給宅。智深告貧於豫章王、王曰、『須卿書成、当相論以禄』。書成三十巻、世祖後召見智深於璿明殿、令拝表奏上。表未奏而世祖崩。隆昌元年、勅索其書、智深遷為竟陵王司徒参軍」。[上に戻る]

[13]『宋書』巻74臧質伝「沖之、太原中都人、晋秘書監盛曽孫也。官至右軍将軍、巴東太守。後事在鄧琬伝」。[上に戻る]

[14]思い返すと、川合安先生の議論はこういう問題に抵触しないよう構成されていたはずで(「史臣曰」条を核にするとか)、やっぱりスゲェって思いました。。。[上に戻る]

[15]『斉職儀』は歴代の官職の歴史を叙述した書物で、王珪之が宋・後廃帝から勅命を受けて編纂を開始し、斉の永明9年に秘書に入れられた。本ブログの記事「太宰ってさあ・・・」も参照。[上に戻る]

[16]『南斉書』百官志・州牧刺史の条で、州都督の起源を記述するに、「何徐志云起魏武遣諸州将督軍」と何承天&徐爰の志での説明を紹介している。沈約の百官志ではどうなっているかというと、「持節都督・・・建安中、魏武帝為相、始遣大将軍督軍。・・・魏文帝黄初二年、始置都督諸州軍事、或領刺史」あたりが関連部分だろうか。これを見るかぎりでは、州都督の起源は魏文帝ということになっている。残念ながら蕭子顕は何承天&徐爰を引用しているわけではないので、確実な比較にはなりにくい。例えば、実際は沈約と同じ記述が何承天&徐爰の志にもあって、それを見た蕭子顕が「魏武が最初だ!」と読んだのかもしれない。なので、この部分からあーだこーだ言うのはやりにくい。とはいえ、何承天&徐爰と沈約のあいだには記録に相違があるようですね。
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