で、その基礎史料となると隋書経籍志(以下、たんに隋志)や班固の芸文志、さらに梁の阮孝緒が編纂した目録『七録』の序文(広弘明集巻3引)、そして牛弘が「開献書之路」を請うた表文が主なもの、というかこれくらいしかたぶんなく、それでこれら史料に目を通しつつ、『隋書経籍志詳攷』(興膳宏・川合康三、汲古書院、1995年)のような専門書も読み進めるみたいな感じでやってる。個人の近況とかどうでもいいですね、ごめんなさい。
本記事では牛弘の表文を訳出し、若干のコメントを加えた。訳文は多く意訳し、また注は細かくつけなかった、というか気が向いたらつけた。
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開皇のはじめ、散騎常侍、秘書監に移った。牛弘は書籍が失われるのを憂慮し、上表して書物献上の道筋を開くよう要望した。
書籍には古い由来があります。爻の記号は庖羲に発明され、文字は蒼頡に考案されました。記号や文字は、聖人が教えを広め、古今のことに通じる方法であり、また「政治の決定を王庭で公然と示」したり[1]、「(優秀な人を求めて)中華に語りかける」[2]手段でありました。堯は至聖と称えられましたが、それでも古道を調べてそれを遵守しておりましたし[3]、舜は大智と評されておりますが、それでもいにしえの服制における服の図像を明らかにしようとしました[4]。周礼によれば、外史は三皇五帝(三墳五典)の書物と諸侯の記録を管轄しています(春官。訳は鄭玄注に拠っている)。武王が黄帝や顓頊の道を尋ねると、太公は「丹書に書いてあります」と答えました(『大戴礼』武王踐阼)。これらからわかりますように、符を授ける権限を有し(原文「握符」)、暦を支配し(原文「御暦」)、国家を統治する者は、必ず詩や尚書で教化をおこない、礼楽を拠りどころにして偉業を打ち立てたのです。
むかし、周の徳が衰えると、ふるい書物は乱され、棄てられました。このようなとき、孔子は大聖の才能を発揮して素王の事業を創始しました。文王、武王にのっとり、堯、舜の道を伝え述べ[5]、礼を整理し、詩を取捨し、五つの始まり[6]を正して春秋を編集し、十翼を著して易を明らかにしました。国を治め、自らの身を立てるにあたって、模範となるものをつくり伝えたのです。しかし、始皇帝が天下を統べ、諸侯を併合するにいたって、軍事力に頼るのみで、政治はいにしえを手本とせず、かくして焚書の令を下し、偶語〔詩や書などについて語りあうこと〕の刑が実施されたのです。そうして先王の書籍は一掃されてしまいました。このように根本部分が先に失われていたため、秦は転覆したのであります。予言めいた言い方をいたしますが、書籍の興廃はその国家の行方を示しています。この秦の焚書が、書物の災禍の一つめです。
漢は秦の弊害を改め、儒を重んじ、書物を所蔵する台閣(?)を建て[7]、書物を研究する官を設けました。すると、山の洞穴や旧宅の壁など、あちこちから隠されていた書物が現れてきました。書物を保管する場所としては、宮城外に太常、太史の書庫、宮城内に延閣、秘書がありました。ですが、成帝の時代になっても、失われた書物がいまだに多いため、謁者の陳農を天下に派遣して捜索させ、劉向父子に書籍を校訂させました。このとき、漢の書籍はもっとも充実していました。王莽の末年になって、長安で戦争が起こると、宮室の蔵書は焼き尽くされました。これが書物の災禍の二つめです。
光武帝が漢を中興すると、とりわけ儒の経典〔原文「経誥」。用例から経書を指すと思われる〕を尊重し、まだ戦争が終わらないうちから作文の巧みな者たち〔原文「文雅」。自信なし〕を探し求めました。こうして、大勢の優れた儒学者があいついで集まったのであり、書物を抱きかかえたり背負ったりして、距離を省みずにやってきました。粛宗(章帝)はみずから講義に出席し〔出典捜索中〕、和帝はしばしば書庫を訪問していました〔出典捜索中〕。蘭台、石室、鴻都、東観には蔵書がいっぱいに積まれており、前代の倍の量になっていました。ところが、献帝が長安に遷都するさい、朝廷も民衆も混乱し、書籍の材質であった絹は帳やふくろに使われてしまいました。それでも、残ったものを集めれば車70余乗ほどで、それを長安に運びましたが、そこでも戦乱が起こると、たちまちに焼尽してしまいました。これが書物の災禍の三つめです。
魏の文帝が漢から禅譲を受けると、書籍の収集につとめ、すべて秘書府と宮城内外の三つの台閣に所蔵し[8]、秘書郎の鄭黙に前代までの書籍を吟味させました。当時の世論は、彼の仕事によって書籍に朱と紫の区別がつけられた〔似たものにハッキリ区別がつけられた〕[9]ことを称えました。晋氏が魏を継ぐと、書籍はいよいよ増大しました。晋の秘書監の荀勗は魏の『内経』(『中経』)を整理し、さらに『新簿』を作成しました。ふるめの書物は失われて減っていたようですが欠損本もあったようですが、新しめの書籍は非常に多く収集されており、正道を広め、当世を導くには十分でした。ですが、ちょうどそのようなときに劉氏と石氏が跋扈して、中華が壊滅したため、国家が所蔵していた書籍は失われてしまいました。これが書物の災禍の四つめです。
永嘉の乱ののち、賊がつぎつぎと出てきて、中原を占拠したり、関中や河北に跋扈したりしました。賊の国家を調べてみるに、その僭号こそ記録に残っていますが、法制〔原文「憲章」〕や礼楽の整理事業となるとまったく記述がありません。劉裕が姚氏を平定したさい、その蔵書を接収しましたが、五経、諸子、史記(歴史)の書物は4000巻ほどしかなく、すべて赤い軸木に青い紙であって、書体は古風で味気なく、つたないものでした。賊のうちでも前秦、後秦がもっとも栄えましたが、このことからその様子がわかりましょう。ともかくこうして、ここからわかりますように、礼物、図像、記録の類いでは、賊のうちを流浪していたものはすべて江南に収められたわけです晋が移ったさいに、すべて江南へ収まったわけです(なので、長安には図書が少なかったのです)〔余嘉錫『目録学発微』邦訳p. 227を承け、修正する――2018/01/06〕。晋宋の時期は学術が拡大し、斉梁の時代になると経学と史学がますます盛んになりました。宋の秘書丞の王倹は劉氏の『七略』に倣って『七志』を編纂し、梁の阮孝緒も『七録』をまとめましたが、『七録』に記録されている書籍の総数は3万余巻にものぼります。侯景が長江を渡って梁を転覆させるや、それら秘書省の蔵書は戦火に巻き込まれてしまいましたが、文徳殿の蔵書は免れ、そのまま残っていました。元帝は江陵に拠っていましたが、将軍を派遣して侯景を平定させると、文徳殿の蔵書と公私に保管されていた書物や貴重な本[追記1]、合計で7万余巻を集め、荊州に送らせました。江南の書籍はことごとく元帝のもとに集められたのです。ところが、周の軍〔原文「周師」〕が江陵に入城するに及ぶと、元帝は外城で書籍をすべて焼いてしまい、残存したのはわずか一、二割ほどでした。これが書物の災禍の五つめです。
北魏は遠い北方〔原文「幽方」〕から中原に移ってきましたが、収集に力を割けず、蔵書は少ない状態でした。関西で創業した周は戦争が続いていました。保定〔武帝の元号〕のはじめ、書籍は8000巻ほどでしたが、徐々に収集してゆき、1万巻にまでいたりました。山東を領有していた斉も、当初は収集をしていましたが、そこで編纂された目録を調べてみると、収集の不足が多いようです残欠の記録が多く目につきます。周が関東を平定すると、斉の蔵書を接収しましたが、四部で重複する書籍が多く、総数こそ3万余巻ありましたが、周の蔵書は5000しか増えませんでした。
いま、わが朝の書籍は総数1万5000余巻ございますが、書物の数には依然として不足があり蔵書には残欠が依然あり、また書物の数を梁の目録と比較してみると、わずか半分しかございません。陰陽・河洛〔河図のこと。総じて讖緯類を指す〕や、医方・図譜〔おそらく図表類〕の書籍にかんしては、いっそう量が減っています。臣が書籍について考えますに、孔子から現在にいたるまで千年が経ち、その間に五度の災厄に遭ってきましたが、それを乗り越え、集まっていく時期は聖人の世にあたっています。思いますに、陛下は天命を受け、天下に君臨しており、功は比類なく、徳は上古にまさっています。中華が分裂し、道理が崩壊して以来、覇王がかわるがわる現れたものの、世の混乱はおさまらず、そうした時期にあっては儒を尊重しようと思ってもできるわけではありません。ですがいま、領域は三王よりも広く、人口は漢よりも多く、人が足りていて時も来ているとはまさに当今のことなのです。ゆえに、教化を押し広めて、民を太平に導くべき時なのですが、書籍に収集漏れがあるままとしておくのは、下々が御心を仰いてひとつに合わせ、訓戒を後世に伝えていくに適切な状態ではありません。臣は記録や書籍を管理しておりますため、寝ても覚めても不安でなりません。むかし、陸賈が高祖に「馬上から天下は治められません」と言いましたが、国家を切り盛りし、政治をしっかりさせるのは書籍にかかっているわけです。これ以上の国家の根本はございません。いまの蔵書はひととおりそろってはいますが、現代に存在している書籍はすべて備えておくべきです。朝廷にはないが民間にはある――そのようであってはなりません。とはいえ、民の数は多く、蔵書の捜索は困難でしょうし、かりにわかったとしても、多くの民はしぶることでしょう。ですので、朝威で強制したり、褒美で誘ったりする必要があります。もし詔を多く発し、加えて賞金もかければ、珍しい書籍が必ず届いて台閣に積まれましょう。かくして、道を尊ぶ風潮はこれまでになかったような篤さをもつでしょう。なんと良いことでありませんか。どうかわずかばかりのご配慮を下してくださいますよう、陛下にお願い申し上げます。
文帝はこれを聴き入れ、詔を下し、書物一巻の献上につき絹一匹を与えることとした。すると、一、二年のあいだに蔵書はおおいに整った。
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書物が散佚の憂き目に遭いつつ、他方で収集整理に傾けた人々の努力で生き延びてきた過程が、ひとつの歴史として構想され、物語られている。
魏晋南朝(元帝以前)は『七録』序を参考に叙述が構成されているが、それ以外の箇所、すなわち五胡、梁元帝、北朝については牛弘以前にさかのぼる史料を得られない。隋志・史部簿禄類を見ても、北朝が作成した目録は非常に少なく、当然『七録』レベルの総括的なものは存在しなかったはずである。牛弘以前には五胡北朝、また元帝以後を概括するような文章ないし情報整理はされていなかったのではなかろうか。隋志・総序でも先ほど挙げた時期は牛弘の表文に大きく拠っているので、希少な情報がここで提供されていると見なしてよいと思われる。
それでは、牛弘は当該時期の情報をどのように知りえたのだろうか。
まず元帝。帝が焼いた書物の総数については異同があり、『南史』元帝紀には「聚図書十余万巻尽焼之」、隋志には「元帝克平侯景、収文徳之書及公私経籍、帰于江陵、大凡七万余卷」とあり、双方について資治通鑑考異は「隋経籍志云焚七万巻、南史云十余万巻。按周〔王〕僧弁所送建康書已八万巻、并江陵旧書、豈止七万巻乎、今従典略」と、「十四万巻」と記す『三国典略』が妥当と論じる。なお牛弘の表文は「遣将破平侯景、収文徳之書及公私典籍重本七万余巻、悉送荊州」とあり、隋志の記述に近い、というか隋志が牛弘にもとづいて記述を構成していることがわかる。
司馬光が言うように、『南史』侯景伝に王僧弁が8万巻の書籍を建康で収集して江陵に送ったことが記されているし、『隋書経籍志詳攷』は『金楼子』を引いて元帝が害される前年の蔵書数が8万巻であったことを指摘していて(pp. 25-26、注18)、やはり『三国典略』の記述が妥当のようである。
しかし、隋志にしても牛弘にしても、非常にややこしい書き方になってはいるものの、よく読めばそこに書いてあるのは「建康に送った書物の総数」であって、元帝が焼いた数ではない。で、伝送された書物の数については『南史』侯景伝と大幅な違いはない。つまり、他書と異同があることを記しているわけではないし、焚書の総数を考察するに論難するべき対象でもない。司馬光が誤読してナンセンスな批判を広げていただけである。
とはいえ、これは牛弘にも問題がある。彼は「いかに多くの書物が存在したか、あるいは失われたか」を数字を挙げることによって強調する戦略を採っているわけだが、元帝の箇所については、建康で集めた書籍の総数のみを言い(つまりいかに多かったかを叙述し)、焚書の数に言及していない。牛弘の叙述戦略を踏まえていれば、「建康の7万巻が当時の南朝の書籍総数であり、元帝の蔵書もこの数で、これをすべて焼いたのだ」と読むのがむしろ自然かもしれないし、実際、牛弘自身はそのつもりで書いているのかもしれない。
とまあ、そんな感じのことに気がついたから言いたかっただけで、とくにまとまりはないですごめんなさい。『隋書経籍志詳攷』(p. 25)によれば、元帝焚書に言及するもっとも早い史料は顔之推「観我生賦」だが、とくだん牛弘に影響を与えているように見受けられないので、牛弘は独自に収集した情報にもとづいているのかもね。
次に五胡北朝の記述。五胡、というか後秦のくだりだが、あれは南朝でつくられた目録が情報源だと思う。広弘明集に引かれている『七録』の序が節略なのかどうかよく知らないけど、そこに記述されていてもおかしくない話ではある。
興味を惹くのは北朝の話題で、北朝ではあまり目録学が栄えなかったそうだから話すこともとくにないようで、なので簡素な記述になってはいるものの、だからこそこうした統括的な叙述が貴重になる。牛弘は北周の蔵書の増加具合を詳しく書いていてくれているし(北斉平定時の増加数とか)、北斉の目録も実見したそうだから、なかなか信頼が置けそうである。
そもそもどうして牛弘がこんなに具体的に書けているのかというと、彼の経歴に関係があるように思われる。彼は北周で起家し、中外記室府、内史上士に就き、その後、「専掌文翰」という納言に転じ、威烈将軍、員外散騎侍郎を加えられ、「修起居注」という。どの職が何に相当するのかさっぱりわからんが、起居注の整理に関わっていたりするので、著作や秘書に相当する職に従事していたのではないか。というか、そういうことにしておこう。
ようするに、「周の蔵書は武帝以降、だんだんと増えてきたんよ」とか「斉の目録を見たら最初はがんばっていたようなんだけどねえ」とか「でも斉の蔵書は周の蔵書とかぶりが多くてあんまり増加に益しなかったわ」とか言っているのは、牛弘自身が北周の秘書管理や北斉の図書整理に携わっていたからではないだろうか。隋が建って秘書監に任じられたのも、そうした経験を買われてのことでないだろうか。となれば、先ほどの元帝の話も、そうした経験が活かされているのかもしれない。起家は早くて武帝のはじめころだと思われるので、焚書は実見できていないはずだが、当時の記録があればそれを閲覧できただろうし、北方に連れられていった南朝人士ら――顔之推がまさにそうだが――から取材をすることだって可能だろう。
ちなみに、隋志だと北朝、とくに北魏の記述は牛弘の表文よりも詳しく、なので別に牛弘をそんなに高く買う必要なくないかとか思われるかもしれないが、史書の一般的な体例からして、列伝に掲載されている章奏が節略である可能性を排除できないので、一概にそうは言えない。隋志はやっぱりぜんぶ牛弘の表文の丸写しかもしれない。同じ隋書なのにそんなことあるのかと思われそうだが、隋書の志は隋書の志というより五代史の志として別途編集されているので、そんなことがあってもおかしくないように思います。
そういう具合に牛弘の経験が活かされている文章だと思うよ!って報告したかっただけでした。
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さすがにそれで終わるわけにはいかないのでもうちょい気になったことを書いてみる。牛弘が「すっげえ数が減ってる」と言っている書物のこと。
牛弘が挙げている分野のうち、陰陽、河洛、医方は従来まで術技・術数に分類されてきた書籍で、図譜は分類に試行錯誤を重ねられていたジャンルである(王倹『七志』は独立して一分類としたが、阮孝緒はそうするべきでないとし、図譜が対象としている分野に配した)。
ここで注意したいのは術技類のほう。隋志というと、史部・集部の創設・体系整理といったところについ目がいってしまうのだが、『隋書経籍志詳攷』は術技書の動向にも注意を促している。同書によれば、隋志の子部全体で術技が占める割合は、実数で部数の約79%、巻数で61%を占め、「実質上は『七録』の術技録に属していた書が圧倒的な優位を占めているのである。・・・先秦以来の諸子の学は、・・・実は術技系の書に乗っ取られていたというのが正しいかも知れない」(p. 39)とまで述べる。またこれら術技系の特徴として、似通った内容をもつ書物が大量につくられたと想像され、そのことが目録の記述に混乱をもたらしていると考えられること(pp. 39-42)、宋史芸文志においても術技は一貫して増大していること(pp. 42-43)、新陳代謝が激しいため、後世に伝わるものが非常に少ないこと(pp. 39-43)、を挙げている。
ここからはあくまで私の想像だが、術技系というのは全部が全部そうとは言い切れないだろうが、ようするにハウツー的なもの、実用書的なもの、そういう類いでないだろうか。技術の発展やニーズに応じて著されるが、細かいものが多く、数年でその役割を終えてしまうけれどそのころにはもう新しいバージョンが出ていて、保管には意を向けられない。
梁は従来までの四部分類から術数を独立させて五部の分類をおこなっており、また阮孝緒は民間所蔵の書籍も記録したというから、きっとそれらの目録では術技系統が多く列記されていたのだろう。牛弘が隋の蔵書を梁代作成の目録と比べたとき、学問や政治には基礎的な書籍こそだいたいは大丈夫だが、実用的な技術書にかんしてはまったくそろっておらず、技術書への無関心こそが蔵書数のいちじるしい減少の根本原因であると映じたのでないか。
牛弘は政治的なところから書籍の由来を説いており、その点では常套的な観点に立っている。だが、彼自身は政治や学問や作文に有用という価値づけを前提とせず、あらゆる書物への関心をここで披露しているように見える。書物であればなんでもいいのだ。ここに彼の実直さ、偉さを感じました。
もちろん、彼とて制約はある。たとえば、『七録』が記録する巻数を3万と表文で述べているが、この数は『七録』の内篇のみに相当しており、外篇すなわち道教と仏教の書籍は除外されている。道仏は王倹『七志』もオマケ扱いだし、隋志では序文のみだから、そうして考えると牛弘の除外も時代の産物であったと言えよう。
牛弘が術技系の書籍が少ないんだよねえと述べているくだりは、それなりの背景があったわけである。ただ、それは『隋書経籍志詳攷』の分析と指摘を俟ってようやくうかがえるような、見えにくいものだった。
この時期の目録学というか書物の歴史は、もっと広い視点でみないといけないなあとか思いました。
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最後に梁元帝。帝が書籍を燃やした場面は、『三国典略』に拠っている『資治通鑑』に詳しく描かれている。
帝は東閤の竹殿(?)に入ると、舎人の高善宝に古今の図書十四万巻を焼かせ、自らも火に飛び込もうとしたが、宮人や左右の者に止められた。また宝剣で柱を斬らせて(わざと)折らせると、「今夜、文武の道はすべて失われた」と嘆息した[胡注:書を焼いたこと、剣を折ったことを「文武の道が失われた」と言うのである]。・・・ある人が「どうして書籍を焼いたのですか」と尋ねると、帝は「万巻を読んでもこのような有様だ。だから焼いた」と答えた。(帝入東閤竹殿、命舍人高善宝焚古今図書十四万巻、将自赴火、宮人左右共止之。又以宝剣斫柱令折、嘆曰、「文武之道、今夜尽矣」[焚書、折剣、以為文武道尽]。・・・或問、「何意焚書」、帝曰、「読書万巻、猶有今日、故焚之」。)
時、西魏軍はすでに江陵の城門を破り、帝は金城を保持するのみであったという。
元帝の悲哀がよく伝わるエピソードなので、ついそっちに注意がいってしまうが、よくよく考えると元帝の焚書はひどい。
牛弘が言う5つの災厄のうち、3つは戦乱で、混乱のうちにわちゃわちゃしちゃったなあっていう話なのだけど、残り2つ、始皇帝と元帝は、一個人の「書籍を廃棄する」という強い意志のもとなされた焚書であって、ちょっとどうかなあ。
元帝の行動自体はおそらくだいたいの人が理解しうる、その点で普遍的な感情の表出と言えなくもない。追いつめられて深い絶望に陥ると、それまで救いとなっていたもの、夢を見させてくれていたものに距離を置こうとしたり、あるいは意図的にキライになってみたり、という心の機微は個人的にはわかる気がする。だからつい元帝に感情移入してしまって、一連の出来事を彼の悲劇のように捉えてしまいがちだが、牛弘のように、これは書籍の災難なのだと認識するべきでもある。
牛弘が歴史を描いてみせたように、書籍はいくつかの戦乱を経ても、収集整理を重んじた人々の尽力により、連綿と伝承されてきた。元帝が愛した書籍はそうして伝えられてきた。元帝はプライベートなコレクションを廃棄した程度に考えていたのかもしれないが、その蔵書群は当代一で、文化的価値は測り知れない。万巻を読破しておきながら、書籍を愛好する一人としてどのような行動を取るべきか思慮を巡らせることができなかったのだとすれば、それは残念だ。元帝にもまた、伝えていく側としての責務があったのではないか。
胡三省もこの焚書を冷ややかに見ているようだ。元帝が書籍を焼いた理由を答えた場面での注、というか感想は簡潔である。
帝の敗亡は読書に原因があるのではない。(帝之亡国、固不由読書也。)
絶望に駆られた心意はわかるが、書籍には何の責任もなく、廃棄したのはただただナンセンスで、大きな損害しか生み出していない。胡三省もやはりそう見なしていたのでないかな。
この簡潔な文に込められた意図を汲み取るのはなかなか容易でない。胡三省の注には、彼の生きた時代や社会への認識が踏まえられており、その現代認識から発した共感や批判が込められている、という指摘がある[10]。ここの部分もその1つにカウントできるだろう。動きの激しい世情下で資治通鑑に沈潜して生きた胡三省が、元帝の焚書を多少でも擁護するどころか、いっさいの共感すら示そうとしないのは、まあわからんでもない。
――注――
[1]原文「揚於王庭」。『易』夬の卦辞。『漢書』芸文志・六芸略小学類に「易曰、「上古結縄以治、後世聖人易之以書契、百官以治、万民以察、蓋取諸夬」、「夬、揚於王庭」、言其宣揚於王者朝廷、其用最大也」と、文字(小学)の効用を説くに易を引用しているが、後者が卦辞、前者が繋辞下伝。繋辞伝の韓康伯注に「夬、決也。書契所以決断万事也」とあり、本文はこれを踏まえて訳出してみた。夬の卦辞は文字の役割を述べるさいに常用される句であったようだ。[上に戻る]
[2]原文「肆於時夏」。『毛詩』周頌・時邁「我求懿徳、肆于時夏」。鄭箋に「懿、美。肆、陳也。我武王求有美徳之士而任用之、故陳其功於是夏而歌之」。『後漢書』伝52荀悦伝に引く漢紀の序文に「昔在上聖、惟建皇極、経緯天地。観象立法、乃作書契、以通宇宙、揚于王庭、厥用大焉。先王光演大業、肆于時夏。亦惟厥後、永世作典」と、「揚于王庭」とのセットで用例がある。[上に戻る]
[3]原文「考古道而言」。『尚書』堯典「曰若稽古帝堯」の孔伝に「若、順。稽、考也。能順考古道而行之者、帝堯」とある。ちなみに『三国志』魏書4高貴郷公紀・甘露元年条に尚書の講義の記述が見え、高貴郷公が「鄭玄曰、「稽古同天、言堯同於天也」。王粛云、「堯順考古道而行之」。二義不同、何者為是」と問うている。鄭玄は孔伝とまったくちがう読みをしているが、王粛は孔伝と同じ読み方をしているようだ。[上に戻る]
[4]原文「観古人之象」。『尚書』益稷「予欲観古人之象」、孔伝に「欲観示法象之服制」とある。『魏書』巻91江式伝に載せる江式の上表に、この句を含むいくつかの語が引かれたうえで「皆言遵修旧史而不敢穿鑿也」と述べられている。牛弘もかかる文脈でこの語を引いてきたのであろう。[上に戻る]
[5]原文「憲章祖述」。『礼記』中庸「仲尼祖述堯舜、憲章文武」。同句を引く『漢書』芸文志・諸子略儒家類の顔師古注に「祖、始也。述、修也。憲、法也。章、明也。宗、尊也。言以堯舜為本始而遵修之、以文王武王為明法、又師尊仲尼之道」とあるのに従って訳出した。「憲章」はたんに法制を言う例があり、この箇所もそう取れなくないが、「祖述」とセットとなるとやはり礼記の文脈に沿うのが妥当と思う。この上表の後段、後秦のくだりでもこの句が使われているが、そちらは「法制」を指すと思われたのでそう訳出した。[上に戻る]
[6]原文「五始」。字のとおり「五つの始まり」であり、端的には「元年春王正月」と表現される。『漢書』巻64下・王褒伝の顔師古注に「元者気之始、春者四時之始、王者受命之始、正月者政教之始、公即位者一国之始、是為五始」。[上に戻る]
[7]原文「建蔵書之策」。『漢書』芸文志・総序からの引用だが、「策」が不詳。ちくま訳は「竹簡(竹の札)に同じ。ここでは書籍の目録をさす」(文庫第3冊p. 584、注7)とするが、師古の引く如淳注は「劉歆七略曰、外則有太常、太史、博士之蔵、内則有延閣、広内、秘室之府」と説いており、どう考えても「書庫を建設した」と読んでいる。そして師古はまったくツッコミを入れていないので、おおむね賛同ということなのだろう。「策」をスペースのような義で読むのは難しいような気もするのだが、かといってちくま訳のような理解だと全体がうまく読めないし、ということで今回はいろいろ目をつぶって本文のように訳出した。[上に戻る]
[8]原文「皆蔵在秘書中外三閣」。同様の記述は『七録』序にも見えている。『隋書経籍志詳攷』は「秘書省・中閣・外閣の三ヵ所に収蔵した」と訳出し、注に「「中」は、中書。「外」は、蘭台」と記す(p. 18)。「外」を蘭台とするのは、『三国志』王粛伝の裴注引『魏略』に「蘭台為外台、秘書為内閣」とあるのにもとづいている。
だが、この推論過程には疑問も残る。「中外」は「内外」のこと、すなわち中=内で外の対称の意で解すべきであり、晋の中軍が内軍と呼ばれることも念頭に置かねばならない。中=中書という結論を出すのならば、中閣=内閣が中書を指している例を論拠に据えるべきである。これでは、中の字から中書と解しているように見えてしまう。が、いま述べたように、ここの中は内の意と取るのが適当なので、その読み方はできない。
また、たしかに『七録』でも「在秘書中外三閣」とあるものの、書庫としての「三閣」については阮孝緒以前にさかのぼる記述も存在する。『太平御覧』巻224職官部32校書郎に引く「晋令」がそれで、「秘書郎掌中外三閣経書、覆校闕遺、正定脱誤」とある。おそらくこの晋令に拠っているからなのであろうが、通典でも「三閣」「中外三閣」としか記していない。『隋書経籍志詳攷』は秘書・中(中書)・外(蘭台)が「三閣」だと解したのだが、晋令の記述の仕方を見るに、そのような理解を採るのは難しいように思う。晋令の記述に従うのならば、「中外の三閣」と読むのがよく、そして「中外」とは前述したように「(宮城の)内外」の意であり、その「三閣」とは注 [7] に掲げた如淳注に引く「七略」に「外則・・・、内則・・・」とあった如く、内外全体で書庫となる台閣が三つあったことを言うのだろう。
すると本文の「秘書」が今度は問題になるが、これは『隋書経籍志詳攷』のように秘書の官府の意でよいと思われる。以上、「在秘書中外三閣」は「秘書省と内外の三つの台閣に所蔵されていた」と読むのがよいと考えたので、そのように訳出した。[上に戻る]
[9]原文「朱紫有別」。程千帆・徐有富『中国古典学への招待』(向島成美・大橋賢一・樋口泰裕・渡邉大訳、研文出版、2016年)が『論語』陽貨篇「悪紫之奪朱也」を典拠とするのに従った(p. 138)。[上に戻る]
[10]増淵龍夫「歴史のいわゆる内面的理解について」(同氏『歴史家の同時代史的考察について』所収、岩波書店、1983年)参照。少し長いが引用してみる。「陳垣は、日本軍占領下の暗い世情の下で、ひとり門をとざして『資治通鑑』を読み、それに附せられている胡三省の注釈を読んで行くうちに、胡三省の注釈は単なる史実の考証というようなものではない、ということに陳垣は気付いたのです。南宋末の政治の腐敗のもとに生きて、宋朝の滅亡と蒙古人の侵入、占領支配の下に生涯を送った胡三省は、蒙古人の占領支配下においては、山中にかくれて、一切の官職には辞してつかず、亡国の暗い世情の下にあって、元朝の残酷な統治と、それに阿附し、或はそれに抵抗するさまざまな人の動きを、その目で見、きびしい現実批判の心を内にこめて、『資治通鑑』を読み、その全精神を、『通鑑』の注釈という仕事に託したのであった」(pp. 90-91)。元朝ファンには承服しがたい表象が使われていると思うが、胡三省の目に映った世相を代弁した記述、と見なしてもらえれば。[上に戻る]
[追記1]原文「収文徳之書及公私典籍、重本七万余巻」。「重本」を「貴重な本」と訳出しているが、『北斉書』巻45文苑伝・顔之推伝の「観我生賦」自注に「王司徒表送秘閣旧事八万巻、乃詔比校、分為正御、副御、重雑三本」とあり、「重本」は本来「重雑本」=重複している書籍の意だと思われる。牛弘の原文がこうであったのか、引用者が一部省略したのか不明だが、ともかく原文には脱落があると思われ、「重本」を顔之推をふまえて「重複本」と訳出しても文意が通じないように思われる。そこで、訳文はとりあえず文意が通る「貴重本」のままとしておく。(2018/01/07追記)[上に戻る]
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