2019年1月20日日曜日

晋南朝期の「素論」について

『晋書』巻70応詹伝に載っている、応詹が江州都督赴任時に上した疏は、当時の官人への引き締めを訴えるもので、具体的な制度改修案を列挙したものである。そのうちのひとつに次のようにある。

漢の宣帝のとき、二千石のうちで、職務をきっちりこなし、善良の成績を上げた者は、中央に入朝させて公卿としました。職務に不適格で官を免ぜられた者は、みな平民に戻されました。懲罰と褒賞が必ず実行されたために、(漢は?)長期の歴運を得たのです。(ところが)近年以来、昇進措置は競争心を高めることができず、免官措置は不安を抱かせることができません。昇進して失望する者もいれば、降格して満足する者もいます。官に就いて成績を上げたとしても、「素論」を理由に降格させられてしまいますし、職務においては事実上、劣等成績であっても、たんに「旧望」を理由に抜擢されます。(これは)交際や談論で比較をおこない、優劣をつけているのであって、実際の仕事(の成果)によって優劣をつけていないということです。この基準に拠りながら成果を要求しておりますが、臣は成果のきざしを確認できていません。いま、左遷の旧制を厳しくするべきです。二千石は免官されたら、三年経ってようやく(官に?)就任できるようにし、長吏[1]は期間を六年とし、どちらも(再任時の郡県の)戸口は(前任時の)半分、都からの距離は倍のところとするのが適当だと考えます。この法がしっかりおこなわれれば、官は得がたいが失いやすいことを天下に知らしめられましょうし、必ずや人々は職務に注意して当たるようになり、朝廷からは怠惰な官がいなくなることでしょう。(漢宣帝時、二千石有居職修明者、則入為公卿、其不称職免官者、皆還為平人。懲勧必行、故歴世長久。中間以来、遷不足競、免不足懼。或有進而失意、退而得分。莅官雖美、当以素論降替、在職実劣、直以旧望登叙。校游談為多少、不以実事為先後。以此責成、臣未見其兆也。今宜峻左降旧制、可二千石免官、三年乃得叙用、長史六年、戸口折半、道里倍之。此法必明、使天下知官難得而易失、必人慎其職、朝無惰官矣。)

 ここに見える「素論」とは何であるのか。「旧望」と対になっているので、それに類似した意味なのだろうとまずは推測されるものの、「素」の「論」とは具体的にどういうことなのだろう。「素論」や「旧望」に基づく評価は、「游談」を基準にしたものだとも表現されているので、これとの関連性も考えねばならない。
 中央研究院の電子文献で晋南朝の正史での用例を検索してみると、晋書:3、宋書:2、南斉書:1、梁書:1である。北斉書、隋書、北史にもそれぞれひとつ検索される。その他の時代の正史ではまずかかっていないので、晋南北朝期に特有の用語とみてよさそうだが、それにしても用例が少ない。

 辞書を確認してみよう。『漢語大詞典』には、(1)「猶高論」(用例に『宋書』蔡廓伝、『文選』任昉「百辟勧進今上箋」)、(2)「猶与論」(用例に『北斉書』廬文偉伝、『隋書』廬思道伝)、の二つの義が掲載されている(縮刷版、p. 5617)
 応詹の上疏は(2)の意味で取るのが良さそうに思えるが、辞書らしくざっくりとしたニュアンスでしか書かれていないので、以下、この辞書の記述を手がかりにして具体的なイメージを固めてみたい。

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 最初に漢語大が(1)の用例に挙げる『宋書』巻57蔡廓伝の「史臣曰」条。

世重清談、士推素論、蔡廓雖業力弘正、而年位未高、一世名臣、風格皆出其下。

 蔡廓は「年位未高」とはいえ、「世」や「士」が重んじる「清談」「素論」のもとでは高く評されたため、「一世名臣、風格皆出其下」であった、ということだろう。「素論」は「世」や「士」によって形成される言論活動とひとまずは素描できるだろうか。
 注目されるのは「素論」が「清談」と対になっていることであり、おそらくこの点が「猶高論」とされる根拠なのだろう。
 ただ、ここでは「清談」との対偶関係はいったん措いて、蔡廓のどういう点が評価されているのか、本伝から確かめてみようではないか。

 ということで本伝を見ると、伝の末尾に次ような記述がある。

廓年位並軽、而為時流所推重、毎至歳時、皆束帯到門。奉兄軌如父、家事小大、皆諮而後行、公禄賞賜、一皆入軌、有所資須、悉就典者請焉。

 史臣曰が、ここの「時流にモテモテでした」という箇所を承けているのは明白だろう。だが、なぜモテたのか。本伝には、彼が清談ないし老荘的な言論を好んでいたとは書かれていない。むしろ上の引用に見られるように、彼は兄によく奉仕した模範的な知識人と言えるのであって、儒教的なものからの逸脱が見られるのでもない。
 本伝から高評価につながりそうなポイントを探してみると、「剛直」「不容邪枉」という彼の性格がそれに該当するのではないかと思われる。劉裕はこの性格を買って蔡廓を御史中丞に就けたし、また蔡廓は時の権力者である傅亮らに迎合もせず、徐羨之からは疎んじられるほどであった。蔡廓の子の蔡興宗もまた剛直な人間であったが、父・蔡廓の風格を受け継いでいると評されていた[2]。つまり、蔡廓は剛直をもって評判を得たと言いうるのであり、これをこそ「時流」は評価したのだろう。そしてその「時流」が重んじた「清談」や「素論」は、蔡廓のこうした性格や振る舞いに注意を向けるようなものなのだろう[3]
 こういうふうに考えていくと、史臣曰の「清談」は老荘的言論ではなく、いわゆる「清議」を指しているのではとも思われてくる。そうであるならば、ここの「清談」も「猶与論」とみなしてよいのかもしれない。

 以上をまとめると、
・「素論」は「世」「士」「時流」が重んじるものであり、かつ「世」や「士」によって形成されるものだと思われる。
・「素論」は「清談」と対の関係に立ちうる。
・老荘的言論に親しんでいない可能性の高い蔡廓であっても、「素論」によって評価されている。

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 つづいて『晋書』より、老荘的な清談とは関わりの薄い用例を二つ検討してみよう。

『晋書』巻40楊駿伝附珧伝
珧初以退譲称、晚乃合朋党、搆出斉王攸。中護軍羊琇与北軍中候成粲謀欲因見珧而手刃之、珧知而辞疾不出、諷有司奏琇、転為太僕。自是挙朝莫敢枝梧、而素論尽矣。

楊珧は最初のうちこそ謙遜ぶりを称賛されていたが、晩年になると徒党を集めるようになり、斉王攸を陥れて中央から出るように仕向けてしまった。中護軍の羊琇と北軍中候の成粲は、楊珧に会う機会を得たらみずから斬る算段を立てていたが、楊珧はそれに気づいて病気と称して朝廷に出勤しなくなった。そして有司に、羊琇を異動させるよう言い含めたので、羊琇は太僕に移ってしまった。これ以後、朝廷で楊珧に逆らおうとする者は誰もいなくなったが、しかし「素論」は失われてしまった。

『晋書』巻50郭象伝
郭象字子玄、少有才理、好老荘、能清言。・・・後辟司徒掾、稍至黄門侍郎。東海王越引為太傅主簿、甚見親委、遂任職当権、熏灼内外、由是素論去之。

郭象は字を子玄といい、若くして聡明で、老荘を好み、清談が得意であった。・・・のちに司徒掾に召され、ついで黄門侍郎に就いた。東海王越が太傅主簿に召すと、多大な信頼を寄せられ、とうとう権力のある職務を委ねられるようになり、内外(天下?)を圧倒するような権勢を得たが、このことで「素論」は郭象のもとから離れてしまった。

 けっきょく清談とバリバリ関係ある郭象を引いて申しわけない。とはいえ、郭象伝の用例自体はあんまり清談と関係なさそうだからセーフですね。
 さて、これは見てすぐに直感できると思うのだが、漢語大の掲げる(2)「猶与論」ドンピシャであろう。さきに少し触れた「清議」にぐっと近い用法だと思われる。
 さらに興味深いのは、「素論」が離れていったそのキッカケもまた共通していることである。すなわち、権力にベッタリであること、あるいは私的に濫用していること。謙譲や清談で評判を得た二人は、権力との適切な距離を保てず、その評判を落としてしまった、つまり「素論」が離れてしまったわけである。ここでついでに蔡廓も想い起してほしい。彼の剛直ぶりは、権力者にも狎れあわないこと、迎合しないことに端的に示されていたのであった。
 そもそも「素論」自体の用例が少ないので、この三例をもって特徴づけるのは慎むべきとはいえ、これらの用例における「素論」が権力との距離を問題にしている点で共通しているのは興味を惹かれる。権力に酔うことへのこの批判的姿勢においては、清議はもちろん、清談と共有部分があると言えなくもないだろう。

 清談との関係でもう少し付け加えておく。郭象がどうして「素論」を得ていたかというと、彼が清談で名を馳せたからだろう。家格とか孝、礼の実践とかではたぶんない。そんな郭象が権力ズブズブになっちゃったから、なんだあいつ、口では資本主義廃絶とか言っておいてやっていること金まみれじゃねえかよってなったわけですよね。つまり、彼の清談を評価する層と、「素論」を形成する層とはいっしょってことだよね。「素論」自体が清談を好む層によって形成されているならば、双方の基底に横たわる価値判断も共通していて当然だろう。
 応詹の上疏も思い出してほしい。そこでは、「素論」や「世望」による評価が、「游談」基準の評価とも言い換えられていた。「游談」という並びは浮華的な活動を連想させるのだが、はたして応詹は老荘や放達の流行こそ永嘉の乱を招いたとの考えを保持しているのであって[4]、その姿勢がこの疏でも貫かれているとみなすべきだろう、近年流行の人物評価指標で政治を回してもなんにもいいことないですよ、みたいな。こうして考えていくと、応詹の疏に見える「素論」は「游談」すなわち浮華の活動のひとつとなるだろう。
 応詹の疏に留まるかぎり、この連関は応詹の主観である可能性を排去できない。しかし、上の郭象の事例が加わると、応詹の言葉の使い方はあながち正当性を欠いたものだと言えないようである。

***
 これまで、「素論」は与論すなわち清議との距離が近いこと、老荘的な言論活動とはなんらかの関係性をもつことを確認してきた。
 これで応詹の疏がすっかり解決するかと言えばそんなことはない。最初にさらっと触れたが、応詹の疏では「素論」が「旧望」と対になっているのである。これをどう考えたらよいだろうか。

 そこで次に取り上げたいのが、漢語大が(1)の用例に挙げる『文選』巻40所収の任昉「百辟勧進今上箋」である。該文には「道風素論、坐鎮雅俗」とあり、確かにこれは「猶高論」で良さそうだ。だが、これはわりとどうでもいい。注目したいのは李善注である。

王隠晋書、「劉琨表曰、『李術以素論門望、不可与樵采同日也』」。

 任昉の文と、李善の注引する文とが同一の語用であるように見えないのが少し不安なのだが、そこは気にしないでおきましょう。
 見られるように、劉琨の表(勧進表かな?)では「素論」と「門望」がセットで用いられている。応詹伝の用例とピッタリではないか!
 李術の素性が不明なのと、「同日」がどういうことなのかわからないので、劉琨の表現を精確に日本語で置き換えられないのだが、おおよそ「李術は『素論』と『門望』があるので、そこらの薪拾いさんといっしょにしないでください」というカンジでしょう。
 そもそもこれまで、「素」というのがいったい何を指しているのか、明確な言及を避けてしまっていた。「素論」が「清談」と対であるかぎりでは、「素」は「清」とほぼ同義と見なしてさしつかえないだろう。しかし一方で、「世」や「門」と対になるということは、「もともとの」というニュアンスなのだろうか。だがこれはこれで「もともとの論」って何なんすか。
 よくわからないですけど、「素」を「旧」や「門」とひもづけて理解しなくてもいいんじゃないかという気がします。「清議」とか言うじゃん、あれとおんなじ感覚でいいんじゃないすか。

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 まあこういういろいろな問題はやる気をはじめとする複雑な事情ゆえに放棄せざるをえないんですが、それにしてもこれまでの用例ほぼすべてで共通している点がある。それは「素論」が「自分に対して向けられる言論活動」であるという点だ。郭象伝にあるように、清談については「するのが得意」とか「好き」とか、その人物の「スルコト」としての用例が目立つ。対して「素論」はと言うと、「素論が得意」なんて例は見つからず、「素論を失った/によって評判を落とした」みたいなのばかりである。まあ用例が少ないので、あまり厳密な主張をするつもりはないが、用例の傾向性からみて、やはり「素論」は「与論」の意で取って大過ないし、字義を踏まえると「清議」と同義くらいに考えていいんじゃないですかね。で、その与論はどこから出てくるかというと清談をしている連中からって感じなんでしょうか。

 応詹の疏はどう読んだらいいかというと、官僚の成績いかんに関わりなく、「世」や「士」の言論活動が官人の位の進退を左右している、と言っているんじゃないかな。「官に就いて成績を上げたとしても、『素論』を理由に降格させられてしまいます」とは、「『素論』を得なければ/で評価されなければ、成績を上げたとしても降格となる」。え? そんなもんふつうに読めばわかるだろ? またまたそういうのやめてくださいよお。
 ちなみにだが、この応詹の認識ないし主張の扱い方は注意を要するだろう。応詹の言うことに従えば、人事は不公平におこなわれているように思えるが、実際は応詹の認識が一方的なだけかもしれない。またかりに応詹の認識したとおりが実態であったとしても、そういう運用がされているということと、そういうふうに定められていたこととは混同しないようにしなければならない。それに吏部の銓衡は家格のみで決定されていたわけではなく、「その人物の才能、血筋、年齢、官爵などが考慮され」(川合安『南朝貴族制研究』、p. 235)、「人物の統合的評価」(中村圭爾『六朝貴族制研究』風間書房、1987年、p. 346)が重視されたという。そうであるならば、「素論」を踏まえた官人の評価は通常の銓衡と言えるのであって、応詹の主張――実績だけを問うべきだ――は不正の糾弾というより、現行の人事方法では現在の政治的・社会的問題に対処できないとの認識から発した、根本的な改革要求だとみなせるだろう。

 こういうわけで、「なんとなくわかった気もするけど、よくわからん気もする」というのが本記事の結論です。最後にお伝えしなければならないのは、先行研究はまったく確認していませんということです。



――注――

[1]原文は「長史」だがどうしてここで唐突に長史なのか、そもそも何の長史なのか、長史一般なのか、いろいろとよくわからないので、ここは「長吏」(県令長)の誤字だろうと独断して読みました。[上に戻る]

[2]『宋書』蔡廓伝附興宗伝「時上方盛淫宴、虐侮群臣、自江夏王義恭以下、咸加穢辱、唯興宗以方直見憚、不被侵媟。尚書僕射顏師伯謂議曹郎王耽之曰、『蔡尚書常免昵戯、去人実遠』。耽之曰、『蔡予章昔在相府、亦以方厳不狎、武帝宴私之日、未嘗相召、毎至官賭、常在勝朋。蔡尚書今日可謂能負荷矣』。」[上に戻る]

[3]川合安氏は、東晋末年の謝方明が劉裕・劉毅双方の派と距離を置いていたことを「権力闘争に際して傍観者的態度を採る姿勢」と指摘し、この姿勢は「蔡廓やその他の名族出身者官僚にも共通していた」とする(同氏『南朝貴族制研究』汲古書院、2015年、p. 81)。川合氏が引用する『宋書』巻53謝方明伝には、劉穆之との付き合いを避けていた謝方明と蔡廓が、劉毅派粛清後に訪問したことが記されている。そういう計算高さもあるようなので、蔡廓伝の蔡郭像のみでまじめに判断しないほうがよさそうですね。また、蔡廓の起家官は著作佐郎で、年齢は22歳ごろという上級コースの起家だが、これは彼の学問が加味されての措置らしい(川合安『南朝貴族制研究』pp. 235, 251)。彼が「時流」から重んじられたのもこうした背景があってのことなのだろう。
 いちおう本記事の立場を説明しておくと、蔡郭が実際としてどういうヤツだったかはそれほど大事ではなくて、あくまで列伝の語りの構成を見ているのみであって、列伝のどの事跡の記述が後文の評価の部分につながるのか、後文の評価は列伝のどの語りの部分を指示しているのか、ただそれだけがわかれば十分ですので、実際上の蔡廓は不問とします。[上に戻る]

[4]応詹が後軍将軍に任じられて中央に召されたさいの上疏に、「魏正始之間、蔚為文林。元康以来、賤経尚道、以玄虚宏放為夷達、以儒術清倹為鄙俗。永嘉之弊、未必不由此也」とある。[上に戻る]


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