2021年10月3日日曜日

「任命された官職に父祖および本人の名が含まれていた場合は改選希望を申請できる」という晋代の慣例について

 タイトルの件について、晋代でよく知られている事例は王舒であろう。『晋書』巻76の本伝に次のようにある(以下、『晋書』を引用するときは書名省略)。

時将徴蘇峻、司徒王導欲出舒為外援、乃授撫軍将軍、會稽内史、秩中二千石。舒上疏辞以父名、朝議以字同音異、於礼無嫌。舒復陳音雖異而字同、求換他郡。於是改「會」字為「鄶」。舒不得已而行。

このころ(成帝はじめころ)、朝廷は蘇峻を中央に召そうとしていた。司徒の王導は王舒を地方に出して外援にしようとし、そこで王舒に撫軍将軍、會稽内史を授け、秩は中二千石とした。王舒は上疏し、父の名が「會」であるのを理由に辞退した。朝議が開かれ、「文字は同じだが発音は違うので、礼において問題はない」と判断された。王舒はふたたび陳述し、発音は違うが文字は同じなので、ほかの郡に変更してほしいと要望した。そこで朝廷は「會稽」の「會」の文字を「鄶」に変えた。王舒はしぶしぶ赴任した。

 蘇峻が乱を起こす二年前のことであったという。

 同様の問題は王舒の子の王允之のときにも発生したらしい。『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議に、

康帝咸康八年、詔以王允之為衛将軍、會稽内史。允之表郡与祖會同名、乞改授。詔曰、「祖諱孰若君命之重邪。下八座詳之」。給事黄門侍郎譙王無忌議以為、「春秋之義、不以家事辞王事、是上之行乎下也。夫君命之重、固不得崇其私。又国之典憲、亦無以祖名辞命之制也」。

康帝の咸康八年、詔が下り、王允之を衛将軍、會稽内史とした。王允之は上表し、郡と祖父の會が同名なので、改選を希望した。詔が下った、「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか。尚書八座にこの案件を下すので、議論して明らかにせよ」。給事黄門侍郎の譙王無忌の議、「春秋の義に、『私家の事情を理由に国家の仕事を辞退してはならない。これは、上位者が下位者に命じていることだからである』(公羊伝・哀公三年)とあります。そもそも君命の重大さと比べれば、私家の事情を重んじることなどできません。また、国家の法制にも、祖父の名を理由に君命を辞退してよいとの決まりはありません」。

とある。王舒伝附伝の允之伝によると、王允之は會稽内史に任命されたが、任地に到着する前に逝去したという。つまり、最終的に王允之は會稽内史を受け入れたということである。

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 これだけを見ると王舒父子がワガママを言っているように思えるが、実際は王舒や王允之が改選を希望しているのは正当な権利であったらしい。巻56、江統伝に次のような記事がある。

選司以統叔父春為宜春令、統因上疏曰、「故事、父祖与官職同名、皆得改選、而未有身与官職同名、不在改選之例。臣以為父祖改選者、蓋為臣子開地、不為父祖之身也。而身名所加、亦施於臣子。佐吏係属、朝夕従事、官位之号、発言所称、若指実而語、則違経礼諱尊之義、若詭辞避迴、則為廃官擅犯憲制。今以四海之広、職位之衆、名号繁多、士人殷富、至使有受寵皇朝、出身宰牧、而令佐吏不得表其官称、子孫不得言其位号、所以上厳君父、下為臣子、体例不通。若易私名以避官職、則違春秋不奪人親之義。臣以為身名与官職同者、宜与触父祖名為比、体例既全、於義為弘」。朝廷従之。

選司が江統の叔父の江春を宜春令とすると、江統は上疏して言った、「故事では、父祖の名と官職の名が同じである場合は、すべて改選が許されます。しかし、本人の名と官職の名が同じである場合〔に改選を許可したこと〕はこれまでなかったため、改選の事例に含まれていません。臣が考えますに、父祖と同名であるから改選するのは、臣子として土地を開拓するためであって、父祖のためではないと思われます。ところが、〔父祖の名を避けた官職を授けるさいに、〕自分の名が加わっている官職も臣子に授けています。佐吏や部下が終日のあいだ勤務するとき、〔府君の〕官職名は口に出してしまう言葉です。もし実際の官職名のとおりに言えば、尊貴をはばかるという礼典の義にもとってしまうことになりますし、言葉を変えて〔府君の名を〕避ければ、官を廃してほしいままに法制を犯してしまうことになります。いま、思いますに、四海は広大で、官職は数多く、名称は膨大におよび、士人は多数おります。〔士人のなかで〕恩恵を皇朝より授かり、宰牧(地方官の意)になった者がいたら、佐吏にその官名を呼ばせず、子孫にその官号を言わせないことになってしまいます。〔このように、本人と同名の官職を授けるというのは、〕上は君父を尊び、下は臣子であるという体例を通じなくさせているゆえんです。もし、私名を変えて官職名〔と同じになるの〕を避ければ、『人の親の名づけを奪わない』(穀梁伝・昭公七年)という春秋の義にそむいてしまいます。臣が考えますに、本人の名と官職の名が同じである場合は、〔官職名が〕父祖の名に抵触してしまっている場合と同例とするのがよいと存じます。そうすれば、体例が完全になり、義において広大となることでしょう」。朝廷はこれを聴き入れた。

 読みにくい記事で、かなり解釈を施してある。近日中に拙訳サイトで江統伝をアップする予定なので、解釈の詳細はそちらで参照してほしい。
 ここで確認しておきたいおおまかな文意は、「授けられた官職が父祖と同名であった場合、改選を許可されるという故事がある。しかし本人と同名であったケースについては故事のなかに含まれていない。本人と同名の場合も、父祖の場合と同様に扱い、改選を許可するのが理に適っている」というものである。 なおこの上疏は西晋の恵帝・元康七年ころのものである(『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議)。

 この記述により、王舒や王允之の要望は故事に沿ったものであることがわかるだろう。彼らがとりわけ家礼にこだわっていたからモンスターなクレームを出していたわけではないのである。
 もっとも、王舒父子に対する東晋朝廷の対応をみると、この「故事」が東晋でも継承されていたのかはやや疑わしくも思える。
 また江統は「故事」と言及しているので、これは規定のようなものというより慣例としておこなわれていた措置と言うべきだろう。康帝がハッキリさせるように命じているのも、法として明文化されていたわけではなかったからだと思われる。
 神矢法子氏によれば、漢魏の時代にはこのような措置は取られておらず、西晋になってからおこなわれるようになったのだという(神矢「晋時代における王法と家礼」、『東洋学報』60-1・2、1978年、24頁)。

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 さて、この問題はおそらくいろいろな角度から掘り下げることが可能だと思われるが、ここでは晋代における銓衡プロセスにしぼって考察を進めてみたい。
 まず参照したいのが巻106、石季龍載記上にみえる記述である。

季龍僭位之後、有所調用、皆選司擬官、経令僕而後奏行。不得其人、案以為令僕之負、尚書及郎不坐。至是、吏部尚書劉真以為失銓考之体而言之、季龍責怒主者、加真光禄大夫、金章紫綬。

石季龍が天王位を僭称して以後、調用する人材があるときには、すべて選司が擬官し、〔その案が〕尚書令と尚書僕射〔の承認〕を経てから〔石季龍に〕奏上し、施行された。〔しかし施行してみたところ、その官に〕適当な人物でなかった場合には、調べて(?)尚書令と尚書僕射の責任とし、吏部尚書と吏部曹の尚書郎は罪に問われなかった。このときになって、吏部尚書の劉真は、選挙の根本を失っていると考え、このことを上言した。石季龍は主者(選司=吏部曹)を叱責し、劉真に光禄大夫、金章紫綬をくわえた。

 これは後趙の選挙制であるものの、石勒や石虎は魏晋期の選挙制に範を取って制度構築しており、ここで言われている銓衡プロセスも晋代で取られていたものである可能性が高いと思われる。
 これによれば、吏部曹が銓衡案を作成し、その案が尚書令および僕射の承認を得られたら皇帝に奏上する、という手順をとる。
 拙訳サイトで「擬官」に付した注を引用してもう少し補足しておこう。

「擬官」は原文のまま。用例(といっても唐書だが)をみるかぎり、「その人物に適当な官職を挙げる」というニュアンスらしく思われる。陳の「用官式」では、まず吏部が叙任したい数十人の名を白牒に列記し、吏部尚書の承認と勅可を得られたら、今度は各人に適当な官を選定してそれを黄紙に記し、八坐の承認と奏可を得られたら施行、という手はずになっているが、この後半の黄紙あたりに相当する作業になるだろうか。王坦之伝には「僕射江虨領選、将擬為尚書郎。……虨遂止」という記述がみえるが、これは起家の例である。また山濤伝には「濤再居選職十有余年、毎一官缼、輒啓擬数人、詔旨有所向、然後顕奏、随帝意所欲為先」という記述もある。両方のケース、すなわち人事を施す人材をまず選考し、それから適当な官を選定するという場合と、官の欠員をうめるにふさわしい人材を選考するという場合と、どちらも最終的には黄紙に人名とその「擬官」を記すことになるのであろう。

 「用官式」については中村圭爾『六朝政治社会史研究』第六章が詳しい。
 上の注をじゃっかん訂正すると、山濤の場合、欠員が出たら適任の人材を数人みつくろって武帝に「啓」した、つまり私的に進言したものである。ゆえに、欠員が出たら人材をみつくろうという銓衡プロセスが吏部で一般的であったかは定かではない。あるいは、皇帝が補欠候補者を吏部に諮問し、それに応じて吏部が人材案を作成して奏し、勅可を仰ぐ、という手順だったのかもしれない。このあたり、今回は細かく詰めてもしかたがないのでこれくらいにしておく。

 さて、人事対象者の官職候補を選定するにも、官職の補欠者を決定するにも、どちらにせよ人材のプロフィールは吏部で精査するはずである。そのさい、父祖のキャリアもチェックされていた(川合安『南朝貴族制研究』第十章)。
 つまり、吏部は銓衡案を作成するにあたり、父祖の名を避けようと思えば避けれたはずである。現に川合氏は、吏部の銓衡時に姓譜が使用されていたと指摘し、その目的のひとつは父祖の諱を避けるためであったと述べている(同前、282頁)。避諱が強力なタブーとして機能していたのなら、銓衡時に父祖の諱を考慮するのは吏部の職務の一環とさえ言えるのだろう。
 しかし、現実には避けていないのではないか。だからこそ「故事」というものが存在するのだし、王舒父子のような問題が発生しているのである。
 避諱が銓衡時に考慮必須なタブーであったならば、こういう問題の発生は吏部の職務怠慢以外のなにものでもなく、叱責されねばならない過失に相当するはずだ。しかし、誰も吏部を責めていない。吏部の過失でこの問題が生じているとは誰も考えていないように思われるのである。
 はたして吏部は本当に父祖の名を配慮していたのであろうか。

***
 いまいちど、江統伝の「故事」をよくみてほしい。「故事、父祖与官職同名、皆改選」。このうち、「皆改選」を私は「すべて改選が許されます」と訳した。
 読み過ぎになるかもしれないが、あくまで「得」であって、「必」や「当」でないことに注意を払いたい。父祖と同名であれば「改選しなければならない」「必ず改選する」「改選するべきである」とは言われていないのだ。「得」とは、改選の可能性を保証するという意味ではなかろうか。絶対に改選するわけではないが、改選希望の正当な理由として要望を受け入れる――こういう含意だと思われる。
 王舒のケースだと、朝廷の対応は明らかに小手先のもので、どうあっても改選するつもりがなかったようにみえる。ただ注意しなければならないのは、朝廷はいちおう、「父祖と同名になっている」という問題を解消するためにあれこれ処理しているところだ。「礼的に問題はない」との朝議や文字の改変などは、ようするに「王舒が嫌がっているような問題はこういうふうにすれば解決するよね?」と対応しているわけである。朝廷の姿勢はひじょうに不誠実にみえるものの、このことから考えれば、朝廷は官人の改選希望を無視することはできず、問題を解消するための努力義務を負っていたと言えよう。そして改選は、問題を解消するための手段(おそらく最終手段)のひとつにすぎなかったのではないだろうか。
 王允之の場合も、朝廷は詳議を開いて希望を通すことはできないとの結論を下しているので、やはり希望を無下にしているというわけではないと思われる。

 くわえて、王舒と王允之は改選希望を自己申告している。おそらく江統もそうである。逆に言えば、官人が申告しなければ問題は発生しない。ここからうかがうかぎり、官人は「嫌だったら言おう」、吏部ないし朝廷は「嫌だったら言っていいよ」というスタンスであったと思われる。つまり、吏部は父祖の名を配慮しない。官人もそれを理解していて、どうしても嫌な場合は申告の権利が保証されていたから改選希望を申請した。だから吏部の仕事に過失があるとは責めなかった。
 『梁書』巻25、徐勉伝にこのようにある(訳は川合氏前掲書、282頁)。

勉居選官、彝倫有序、既閑尺牘、兼善辞令、雖文案塡積、坐客充満、応対如流、手不停筆。又該綜百氏、皆為避諱。

徐勉は吏部尚書となって、一定の規則のもとに人事を行い、文書作成に習熟し、弁舌もたくみであったので、書類が積み重なり、順番待ちの客が満ち溢れても、応対は流れるようで、手も筆をやすめなかった。また百氏についての知識をそなえ、みなその父祖の諱を避けた。

 おそらくだが、避諱に配慮して官を選定できる吏部は有能な吏部とみなされていたのであろう。すなわち、一般的にはできなくてもよかったのではなかろうか。
 あるいは時代差もあるのかもしれない。東晋時代ではそれほど普及していたマナーではなかったが、時代が降るにつれ、常識のようなものになっていったという可能性も考慮できる。

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 以上をまとめると、

・吏部は銓衡時、父祖の名と官職の名が同じであるか否かには配慮しなかった。
・同名であるのが嫌な場合、官人は改選希望を自己申告することが許されていた。朝廷は、同名を理由とした官人の改選希望申請を官人の正当な権利として保証していた。
・しかし官人が申請したとしても、必ず改選されるとはかぎらなかった。朝廷はあくまで避諱の問題を解消すればよかったからであり、そのためならば改選でなくともよかったからである。
・朝廷は官人の申請を無下にできず、避諱問題を解消する努力義務を負っていた。

となる。やや強引な史料解釈もあるが、現状ではこういうふうに考えておきたい。
 なお六朝から唐宋にいたるまでの避諱の事例は趙翼『陔余叢考』巻31、避諱にいくつか挙げられている。この問題をとりあげた論考には野田俊昭「東晋時代における孝と行政」(『九州大学東洋史論集』32、2004年)もある。

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 ところで、この改選希望の故事をわかりやすく表現すると「改選の希望を申請してよい(改選するとは言っていない)」という構文になる。
 われわれには馴染みのある言語の使い方である。「社員は自由に有休を申請できます(無条件で承認するとは言っていない)」。まさにこれである。
 求人欄に「時給1100円」と書いてあったのに面接に行ったら「君は若いから1000円で大丈夫だ」と言われてしかたなくその条件で契約した。こういう経験は誰しももっているだろう。「時給1100円」という記載からは「(この条件で契約するとは言っていない)」という但し書きを読み取らねばならない。現代日本の労働者言語はハイコンテクストだと言われるゆえんであるが、晋代の官人、いや同志もなかなか大変だったようだ。
 とくに王舒の事例は同情ものだ。「申請していい」って言うからしたのにめんどくさそうに表面的な対応だけして「これでいいでしょ?」と言ってくるこの嫌な感じ。しぶしぶ赴任した王舒の気持ちが私にはよくわかる。

 康帝も注意が必要だ。彼の詔をあらためて引用しよう。「祖諱孰若君命之重邪」。私はこの文を「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか」と、疑問調で訳出した。『漢辞海』や『古代漢語虚詞詞典』で解説されているように、「孰若(いずレゾ)」は前の語句を否定して後ろの語句を肯定する比較の慣用句(AよりもBがよい)である。じつはこの文、『通典』の中華書局標点本は「邪」を反語で読んでいる。私は後文との兼ね合いもあって疑問のニュアンスで取ったものの、反語ふうに訳出してみたらこうなるだろう。「祖父の諱と君命、どちらが重要だというのか! 君命に決まっているだろう!」なんということだ。厚労省が定める「職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるもの」に明らかに抵触している。パワハラだ。
 しかもこの皇帝、康帝紀をみると礼を重んじた人物なのである。成帝崩御一周年を機に有司が喪の解除を要請すると「礼の軽減なんてとんでもない」と言っているのだ。そんなパーソナリティの皇帝でも「あれぇ~、家礼と君命、どっちが大事だったかなぁ~?」と言ってしまうのだから恐ろしい。さしづめ、社長は有休取りまくっているから自分だっていいだろうと思って申請してみたら露骨に嫌な顔をされてネチネチ言われる“例のアレ”といったところだ。

 まあ康帝には言いすぎたかもしれない。あまり真に受けないでください。


※有休だの時給だのの件はすべてフィクションです。現在勤務している会社で不利益な扱いを被ったことは一度もありません。

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