2018年6月17日日曜日

王敦と劉隗の応酬

 晋書・劉隗伝に記されているエピソード。
 王敦が劉隗に「君や周生(顗)と協力してがんばりたい」(大意)って書簡を送ったら、劉隗から

魚相忘於江湖、人相忘於道術。竭股肱之力、効之以忠貞、吾之志也。

って返答がきて王敦がキレたというのだが、どうして王敦がキレたのかわからなくてこっちがキレそうになっていた。
 で、多少はまとまりがついたので、せっかくだし久々にブログにしてみた。

 胡三省によると、「魚相忘於江湖、人相忘於道術」は荘子・大宗師篇にもとづいた表現であるらしい。「湖が枯れて陸に上がった魚はたがいに水分をかけあったりするが、それよりも湖でたがいの存在を忘れて気遣わずにいるのがよい。人は天子を褒めたり批判したりするが、それよりも善悪を忘れて道と一体化しているのがよい」というのが該当箇所の文意だが、郭象は「魚は不足があるとたがいを思いやるが、余裕があれば気遣わない。褒めたり批判したりするのも不足に起因しているので、充足したら善悪など忘れる」と注している。
 めんどくさいので原文は引用しないが、たしかに胡三省の言うとおり、ここを意識した言葉であろう。さらに郭注で示される解釈はポイントっぽい気がするので、これを踏まえるのがよさそう。
 また、江湖の魚も道の人も、どちらも自分(あるいは東晋)を指すと思われる(とくに前者はぴったりの比喩だ)。

 うしろの「竭股肱之力、効之以忠貞」にかんしては、胡三省は晋の荀息という大夫の言葉だと言っている。左伝・僖公九年にたしかに見え、さらに荀息は「忠とは云々、貞とは云々」ということも語っているので、これにもとづけば「之を効すに忠と貞を以てす」と読むのがよいのだろう。
 ただ、同様の言葉は諸葛亮が劉備臨終時にも言っており、そっちを意識したのかもね(ちなみに文言上では左伝ではなく蜀書と一致している)。
 問題は、どっちにしてもそれらの歴史的な文脈を有した典故表現なのかがわからないこと。
 現段階ではわかんないので、典故とはみなさなかった。胡三省が典故と言っているから言及した。

 で、以上をまとめてみた試案は以下のとおり。

江湖の魚は他の魚を気にしていませんし(足りているのであなたのお気遣いやご協力は不要です)、
道のうちにある人は善悪を気にしません(不満はないので誰それが嫌いとかくだらない話ですね)。
全力で忠と貞を尽くすことが私の志です(あなたが嫌いだから行動しているのではなく、ただ忠誠を尽くしているだけです、そしてあなたは険悪な二人とも協力して力を尽くしたいと言っているのですが、私ははじめから力を尽くすことしか考えておらず、険悪とか和解とかどうでもいいです)。

 こういう意味なら王敦はキレるよね、というのを意識して考えてみた。
 つまり、王敦は劉隗に「和解しようよ」って言ったんじゃないかって読み方になる。
 頭の中で整理してこんな感じで多少は納得したけど、あまりにうがった読み方な気もするし、けどこいつら知識人だしなあ・・・。別案あったら教えてください。

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