2013年6月8日土曜日

デカルトと漱石

デカルト『方法序説』第二部
私は気がついたのである、私どもを説得するのは確実な認識であるよりは、まさにそれ以上に慣習と実例であると。しかしそれにもかかわらず、多数の声というものが、少しく発見しがたい真理に対しては、証明として何ら妥当するものでないと。なぜならかかる真理は全民衆によってよりは、ただひとりの人間によって発見されるというのがはるかに真実に近いらしいから。他のさまざまな意見に比べてみて、これぞと思えるような意見を有する人を私は一人として択ぶことができなかった。そこで私はやむをえず自分を自分自身で導こうと企てなければならなかった。
夏目漱石「私の個人主義」(講演録)
私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込めれた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。・・・私は出来るだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出るわけには参りません。この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付りそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。詰らないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。・・・私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。

 漱石先生よぉ、「自己本位」とか言っときながら?デカルト?ぱくってないっすかあ?お前ら同じやんけ。読んだんやろ?『方法序説』?どーも、オメェはキナクセーと思ってたんだッ

 いやそんな漱石をまじめに研究するつもりもないのでそんなことはどうでもいい。やけにフッサールとかウィトゲンシュタインにかぶって見えたってどうでもよい。
 漱石は漱石で良い。平易な日本語であるのが良い。

 「引用」というのが一つの概念のように使われることがある(デリダが言い出したってじっちゃんが言ってた)。個人の信じている真理や生きかたというのも、実はその人の独創というより、誰かのものを「引用」したもの、平たく言えば真似たものだ、みたいなことである(おそらく)。
 ロラン・バルトも「作者の死」のなかで、文学の「書き手」とは「様々な言語を寄せ集めた辞書のようなものだ」と言っていたはずだが、だいたいこの考えとも共通する。

 漱石もデカルトのような人を引用したのかもしれない。そのデカルトも誰かを引用した。デリダだってバルトだって、引用しているのだろう。しかし引用の仕方、あるいは読み方は必ずしも同じでない。多くの引用をどのように組み合わせるかもそうだろう。
 だいたいそんなことを思いながら『方法序説』を読んだんですわ。

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