【考察】晋南朝の「増位」




『晋書』巻3武帝紀・泰始元年の条
其余増封進爵各有差、文武普増位二等。

そのほか、封邑を加増したり、爵を進めたりすることは各人に等差が設けられておこなわれた。文武官はすべて「位」を二等加増した。
 ここの「位」を何と訳すべきであるだろうか? 「二等」「増す」のであるから、何らかの体系を有した「位」なのだろうと察しがつく。しかも「文武」官に限定されているのだから、官吏に関係ありそうな「位」であるだろう。
 「官位」と答えてみても、それは回答になりきれてはいない。そもそも官位とは何を指すのかをはっきりさせていないからだ。

 このような皇帝による一律「増位」の事例は、この記事を皮切りとして、西晋・東晋17例、南朝25例が確認される(を参照)。
 この「増位」を見て想起されるのは、民に爵一級を賜うという、漢代の賜爵の記事である。
朕初即位、其赦天下、賜民爵一級(『漢書』巻4文帝紀)
 おお、何だか文言がよく似ている。
 しかし、魏晋南朝期における「増位」というのは爵を増したというわけではなさそうである。というのも、『南斉書』巻2高帝紀・下・建元元年の条に、
可大赦天下。改昇明三年為建元元年。賜民爵二級、文武進位二等。

天下を大赦する。昇明三年を建元元年に改める。民には爵二級を賜い、文武官は「位」を二等進める。
とあって、どうやら「増位」は「賜爵」とは別個の事柄であるように読めるからだ。
 とすると、ほかに候補として挙げられそうなのは何であろうか。
 また南朝、とりわけ劉宋孝武帝期以降、漢代同様の賜爵がおこなわれるようになるのだが、これと「増位」との関係はどうなっているのだろう? どういう場面で「増位」したのだろうか?

 最初に基礎的な情報から整理してみよう。「増位」のおこなわれた回数を王朝ごとに計算してみると以下の通り(を参照)。

増 位賜 爵
西晋41
東晋133
01
1016
75
620
215

 参考までに賜爵の回数も附しておいた。1、2回の数の出入りはあるかもしれないがそれはアレで。なお晋南朝の賜爵が両漢代に劣らぬペースでおこなわれていることについては、すでに戸川貴行氏が指摘している(「魏晋南朝の民爵賜与について」、『九州大学東洋史論集』30、2002年)

 こうしてみると「増位」にはムラがある。晋代~宋代はそこそこだが徐々に減少。まあしかし、それは王朝の持続年数によると言えなくもない。
 だが一転、賜爵の方は宋代から増加し、梁陳では相当頻繁になされている。より具体的に言うと、賜爵は劉宋・孝武帝期から増加しはじめる。どうやらこの皇帝が契機であるようだ。もう一人、賜爵で注目すべき皇帝は梁の武帝で、彼はかなーり民爵賜与をおこなっているが、それはどうしてなんでしょうね。

 「増位」というのは、漢代の賜爵という断絶した故事を代替するために創られた新しい伝統だったのかもしれない。しかし古き伝統たる賜爵が復活するに伴い、新しく創られた伝統はお役御免になった、ということなのだろうか。

 次に、「増位」がおこなわれた場面を検討してみよう。

①皇帝即位
『晋書』巻7成帝紀
太子即皇帝位、大赦、増文武位二等、賜鰥寡孤老帛、人二匹。
②立皇太子
『晋書』巻9孝武帝紀
立皇子徳宗為皇太子、大赦、増文武位二等、大酺五日、賜百官布帛各有差。
③立皇后
『晋書』成帝紀
立皇后杜氏、大赦、増文武位一等。
④皇帝元服
『晋書』巻8穆帝紀
帝加元服、告于太廟、始親万機。大赦、改元、増文武位一等。
⑤改元
『宋書』巻7前廃帝紀
改元為景和元年。文武賜位二等。
⑥大赦
『宋書』巻9後廃帝紀
是日解厳、大赦天下、文武賜位一等。
⑦南郊
『宋書』巻5文帝紀
車駕親祠南郊、大赦天下。文武賜位一等、孤老六疾不能自存者、人賜穀五斛。
と、代表的なものを挙げてみた。ほかにも反乱が討伐された後とか嘉禾が出たときとかにもおこなわれている。
 またもちろん、すべての事例が截然と分類できるわけでもない。大赦・改元・即位が同時みたいな事例もあるし、⑦で例示した史料なんかは大赦に伴って「増位」がおこなわわれたのかもしれない。
 いずれにせよ、「おめでたいこと」があったときにおこなわれる慣例であったようだ。

 この点は案外大事である。漢代の賜爵も同様の機会におこなわれる民への恩典であったからだ。増位は恩典としての性格を有するとみてよさそうである。
 ただし、増位と賜爵には決定的な違いがある。まずひとつに恩典の対象者。前者は官僚(「文武」)、後者は官僚をも含むすべての「民」。範囲が断然ことなるではないか。
 二つめが、爵のもともとの性格である。近年の出土資料研究によって、漢代の爵は軍功に対する報酬としての性格が濃く残存していたことが指摘されている(宮宅潔「漢初の二十等爵制」、冨谷至編『江陵張家山二四七号墓出土漢律令の研究 論考篇』朋友書店、2006年)。張家山漢簡の「二年律令」盗律や捕律の規定を一瞥すると、民が官吏に従って盗人を捕縛、あるいは斬った場合に限って爵が賜与されているのだ(そうでない場合は賞金が出る)。軍功を立てた者への報酬として賜与されるべき爵が、民全員に一律に与えられるからこそ、民への賜爵は恩典としての意味をもつわけである(どうして一律賜爵がおこなわれるようになったのかを問題にたてた研究として楯身智志「前漢における民爵賜与の成立」、『史滴』28、2006年がある)。ちなみに、「爵をもらって何か得するの?」っていう質問は恐ろしいからそういうこと聞かないでほしい社会的・経済的ステータスとして、実際生活に種々の便宜をはかってくれる程度にとらえておいてください。

 爵がこのように、軍功褒賞であるがゆえに一律賜与が恩典になるのに比べ、増位の場合はどうであろうか。このような点からしても、増位は賜爵と類似していると言えるだろうか。この問題は「増位」における「位」が何を指しているのか究明していない以上、答えようがない。そこがわからないので、当然ながら、「増位」が象徴的あるいは実際的にもつ「ありがたさ」も不鮮明なままである。
 賜爵との関係は第一義的な問題ではないとはいえ、「増位」における「位」とは何か、明らかにする必要があるのは言うまでもない。

 いったん、これまでの論点をまとめておこう。
・晋南朝期を通じ、皇帝が「文武」の官僚に対し、一律に「位」を加増する事例が見えている。
・「増位」は「おめでたいこと」があった場合におこなわれていた。
 ひきつづき、「位」について具体的に考えてみよう。すなわち、「位」とは何を指しているのか?
 ここでは方法のひとつとして、「位」という字の当該時期における用例を調べてみることで、「増位」の「位」の指示対象を検討してみたいと思う。
 私が見るところ、以下の4つの用例が検討に値する。

①官品(官位)
『晋書』巻6明帝紀
進(陶)侃征南大将軍・開府儀同三司。
 よく見かける用例。何も意識しなければ「官位」と翻訳するような事例ではないだろうか。具体的には官品だとか官相互における序列のようなものであろう。
(※例えば、晋官品によると尚書令と尚書僕射はともに三品であるが、序列は尚書令のほうが上である。このような意味における「序列」 ④の用例とも強く関わる)
 より明確に官品を指す用例としては、『南斉書』巻56倖臣伝・序に、
晋令、舎人居九品。
とある。

②爵
『晋書』巻6元帝紀
年十五、嗣琅邪王。
『晋書』巻35裴秀伝
有二子、濬・頠。濬嗣、至散騎常侍、早卒。濬庶子憬、不恵、別封高陽亭侯、以濬少弟頠嗣。
 漢文で「爵位」とあったら「爵と位」と読んでしまいがちだが、「位」はこのように、爵を意味する場合もあった。

③品(いわゆる郷品)
『宋書』巻43徐羨之伝
初、高祖議欲北伐、朝士多諌、唯羨之黙然。或問何独不言、羨之曰、「吾至二品、官為二千石、志願久充」。
 「『位』は二品、官は二千石にまでなったし、もう満足じゃけえ」という徐羨之の発言。このときの彼の官は太尉(=劉裕)左司馬(七品)、兼任で鷹揚将軍(五品)、琅邪内史(五品)を領していたと思われる。「二千石」は琅邪内史を指すのだろう。
 では二品とは? 官品二品の官に就任していないのだから、ここの品はいわゆる「郷品」のことを指すと見られる。とはいっても、中華書局校勘記を参照すると、「二品」は「五品」の誤りである可能性もあるため、「郷品」であるとは確言できない。

④朝位
『宋書』巻39百官志・上
漢東京大将軍自為官、位在三司上。魏明帝青龍三年、晋宣帝自大将軍為太尉、然則大将軍在三司下矣。其後又在三司上。晋景帝為大将軍、而景帝叔父孚為太尉、奏改大将軍在下、後還復旧。
 訳しておくとこんな感じ。「後漢のときに大将軍が常設官となって以来、その『位』は三公の上に置かれていた。曹魏の明帝の青龍三年、晋の宣帝が大将軍から太尉に移った。さすれば、(この時期は)大将軍が三公より下に置かれていたのだろう。その後、再び三公の上とされた。晋の景帝が大将軍になったとき、景帝の叔父の孚が太尉であったので、(景帝は)大将軍を三公の下に置くよう上奏し(、許可され)た。その後、もとに戻された」。
 この場合における「位」は官を所有する個人ではなく、官自体の「位」である。このような「位在○○上/下」という記載は慣例的な表現で、もう一例、『晋書』巻24職官志から引用しておこう。
特進、漢官也。二漢及魏晋以加官従本官車服、無吏卒。太僕羊琇遜位、拝特進、加散騎常侍、無余官、故給吏卒車服。其余加特進者、唯食其禄賜、位其班位而已、不別給特進吏卒車服、後定令。特進品秩第二、位次諸公、在開府驃騎下

特進は漢代の官である。両漢、曹魏、晋においては加官であったので、(特進に任じられた者は、)本官の馬車・服装の規定に従い、(特進の)属吏・兵卒はいなかった。(西晋時代、)太僕の羊琇が「位」を辞そうとしたとき(=引退しようとしたとき)、特進に任じられ、散騎常侍を加えられたが、他に官を有さなかったので(、本官に相当する官が無かった。そこで特別に)、属吏・兵卒・馬車・服を給った。(これは特殊な事例であったので、)他に特進を加えられた者は、単に俸禄を食み、班位を定められただけで、属吏などが支給されることはなかった。のちに(このことは)令に定められた。特進の官品は二、位は公の下、開府驃騎将軍の上である。
 末尾で「品秩」と「位」が弁別されているように、「位」は官品とは別の序列規定であったようだ。
 ではこのような場合の「位」は何を指すのだろうか?
 実は漢代における上記の用例の「位」については、阿部幸信氏が詳細な検討を加えているのだが、氏によると、かかる用例の「位」とは「宮中の席順」を指すらしい(「漢代における朝位と綬制について」、『東洋学報』82-3、2000年)
 この場合における「位」は史料上、「朝位」「班位」「班次」などと表記されることが多いが、本記事では阿部氏に倣って「朝位」と表示することにする。
 「宮中での席順」と言ってもあまりピンとこないかもしれないが、現代日本でも上座とかいう慣習が残っているじゃない? 朝臣たちが朝廷に一堂に会したときの偉い順の座り方みたいな、そんなイメージで良い。
 さて、しかしこの朝位、史料を見ていくと実はえらい曖昧な価値体系であったらしく、官品と対応させるべきだとする意見もあれば、そんなの関係ねえとする意見もあったり、なんかまあ、実態がつかみにくい序列体系なのだ[1]
 とは言っても、注[1]に引いた議論からうかがえるように、官品とは必ずしも対応していなかったらしいこと、宮廷席次がそれなりに重要な意味を有していたらしいことは確かである。朝廷での席順においては、官品とかとはまた別の意味で、それぞれの上下関係が可視化されていたということだ。

 さて、「位」の用例をおおよそ挙げたところで当初の問題に戻ることにしよう。「増位」において加増される「位」とは何か。
 私は当初、④だと思っていた。といっても積極的な理由はなく、消去法である。①官品をホイホイと、しかも一律に加増するっておかしいじゃん? てかそんなことどうやるの? 尚書令(3品)に就いているやつが1品官品を加増されるってどういう意味なのよ? 2品の官に昇進するってこと? そんなことを一律にやったら相当まずいっしょ。③郷品もそんな簡単に上げれんやろー、と。②爵は冒頭でも示したように、「増位」と「賜爵」が同時におこなわれる例があるし、「増位」の場合は「文武」官に限定されているのだから、「賜爵」とは違うでしょうさ。
 というような具合で朝位しかなさそうだな、と考えたわけだ。「位在~~」っていう史料が示すように、狭義の、官制用語としての「位」といったら一般的には「朝位」だろうしね。
 だがよく考えてみると、現実的にどうなのだろう。みんなの席順が一律に上がるって何も増えてないのと同じだし、そんなのして意味あるのだろうか・・・。

 実務的に障害が出るわけでもなく、加増されたらありがたいもの・・・上の用例に挙がっていないが、ひとつ該当しそうなものがある。⑤秩石である。
 魏晋以降は官品が導入されたことによって御役御免になったかに思える秩石だが、魏晋以降もちゃっかり残りつづけている。ここでは『宋書』巻14礼志一に引く「咸寧注」を掲げておこう。
皇帝興、王再拝。皇帝坐、復再拝、跪置璧御座前、復再拝。成礼訖、謁者引下殿、還故位。治礼郎引公・特進・匈奴南単于子・金紫将軍当大鴻臚西、中二千石・二千石・千石・六百石当大行令西、皆北面伏。
 「咸寧注」とは、西晋咸寧年間に定められた元会儀礼(元日に朝廷で臣下が皇帝に謁見する儀礼)のマナー・マニュアルである。ここの記述で重要なのは、官僚が「中二千石・二千石」の秩石によってグループ化されている点である。どうしてなのかわからないが、ともかくこういう儀礼の場では官品ではなく、秩石が序列化の基準のひとつになっていたらしい。
 現に、この時期の史料には「礼秩」を加えるとか定めるとか、「~~と礼秩を同じに定める」とか、そういった用例が多く見られるのであり、それぞれの官で秩石がちゃんと決まっていて、軽視されていなかったことを示しているように思われる。おそらくは、当該の官が礼的な場ではどのような位置に立ち、どのように振る舞い、どのように待遇をされるべきなのかをランク付けするもの、そうした基準として秩石が機能していたと考えられるのではないだろうか。

 仮にであるが、ある官職において、実務的な場では官品、儀礼の場では秩石が機能しているのだとすれば・・・秩石を一等増やしても実務に障害は生じないし、もらえたら(たぶん)ありがたい。
 「位」の用例にこそ見られないが、実際は「増位」って秩石をランクアップさせるって意味なんじゃないだろうか。最初に挙げた4つの用例がダメとなると、こっちの方向で結論を下すしかないね!

 が、この説もまた欠陥がある。まず秩石がどういう場で機能していたのか、網羅的にうかがうことは困難なのだが、上引「咸寧注」に見られる通り、儀礼の場での序列がひとつのケースであった可能性が高い。だとするとですよ、秩石を加増するっていうのは、官はそのままだけど、ワンランクアップしたグループの待遇に(周囲のみんなと一緒に)入る、ってことだよね。まあ、それなりに象徴的意味もありそうだ。しかし、そうした秩石の役割は朝位とどう異なることになるのだろうか・・・。秩石が儀礼の場での官の上下関係を規定しているのだとすれば、それって朝位とたいして変わんなくないか? 朝位が朝廷の場での儀礼的席順で、秩石は・・・何ですかねえ・・・漠然としすぎててわかんないねえ・・・。

 もし朝位と秩石が対応関係にあるのだとすれば、この曖昧としている両者の関係どころか、両者そのものも明瞭になってくる。
 ④朝位で掲げた史料をもう一度思い出してほしい。「位は驃騎将軍の上」とか、おいおいおい一々そんなふうに決めてんの? って感じませんか。朝位が秩石に対応しているのだとすれば、上級官僚についてはこうやって細かく決めるけれども、下のほうの官は「はい、600石は全員おなじ、差別しませーん」って大雑把にやれるじゃない。っていう具合に朝位は定められていたんじゃないだろうか。
 要するに、朝位っていうのも、別の価値体系を参照して定めたほうが楽じゃん。官には官品やら秩石やら印綬やらいろいろ序列がくっついているわけだし、そこにそれらとはまた独立した朝位って序列を作成するの、めんどくさすぎっしょ。だからどれかの体系とリンクしている方が効率的だと思うの。だから、機能する場が似ているという意味でも、秩石と朝位が対応関係にあった可能性自体はある[2]
 しかし、その仮説を採用したところで、肝心の「増位」問題は解決されないのだ。というのも、どうして「増位」=「朝位を加増」説を却下したのかも同時に思い出してほしい。席順を全員一律に上げても何も変わんないよね・・・。

 以上、「増位」=「秩石がランクアップ」説を要約すると、(a)秩石は朝位と対応関係にあった可能性が考えられる、(b)しかし「増位」の際に加増されたと見なすのはむずかしそう。そもそも「位」で秩石を指す用例が(管見の限り)ないので、この説はもとから可能性が低いのだ(いくつか用例があるが、秩石を加増するときは「増秩」と表現するのが慣例であるようだ)。

 すごく尻すぼみですが、「増位」問題はここで終わりです。結論が出ません。
 魏晋南朝の「増位」に言及している先行研究もあるんですが、その結論で良いのかちょっと判断つけられないですね・・・[3]
 また今回、論じきれなかった論点に、時代差がある。最初の方で指摘したけど、「増位」は王朝によってかなり差があるってやつ。王朝が短命なら仕方ないかもしれんが、たとえば梁の武帝のように、民爵賜与はかなり頻繁にやっているのに、増位がほんの数回ってのは明らかにアンバランス。「位」ってのは南朝全般を通して重視された体系ではないのかもしれないし、あるいは「位」の内実自体、時代を降るにつれて概念変化したのかもしれないし、このへんはやはりなんとも知らんけど。

 ただただ、こういう問題があるんです! とても気になってるんです! 誰か良い案を思いついたら教えてください! っていうだけの話になってしまいましたが、まあいいじゃない。

 

※本ページは、本ブログ2013年の5/28、30、6/2、9、20投降の各記事に大幅な加筆・修正を加え、ひとつにまとめたものです。



【参考文献一覧】
阿部幸信「漢代における朝位と綬制について」、『東洋学報』82-3、2000年
同「漢代官僚機構の構造」、『九州大学東洋史論集』31、2003年
同「武帝期・前漢末における国家秩序の再編と対匈奴関係」、『早期中国史研究』1、2009年
石岡浩「張家山漢簡二年律令にみる二十等爵制度」、『中国史研究』(韓国)26、2003年
岡部毅史「北魏の「階」の再検討」、『集刊東洋学』83、2000年
同「晋南朝の免官について」、『東方学』101、2001年
同「魏晋南北朝期の官制における「階」と「資」」、『古代文化』54-8、2002年
小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年
同「漢六朝時代における礼制と官制の関係に関する一考察」、『東洋史研究』60-4、2002年
同「西晋における礼制秩序の構築とその変質」、『九州大学東洋史論集』30、2002年
楯身智志「前漢における民爵賜与の成立」、『史滴』28、2006年
戸川貴行「魏晋南朝の民爵賜与について」、『九州大学東洋史論集』30、2002年
中村圭爾『六朝貴族制研究』、風間書房、1987年
同「初期九品官制における人事」、川勝義雄ほか編『中国貴族制社会の研究』京都大学人文科学研究所、1987年
宮宅潔「漢初の二十等爵制」、冨谷至編『江陵張家山二四七号墓出土漢律令の研究 論考篇』朋友書店、2006年

閻歩克「魏晋的朝班・官品和位階」、『中国史研究』2000-4、2000年
同『品位与職位』中華書局、2002年


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――注――

[1](個人的に)興味深い事例を紹介しよう。劉宋高祖期、揚州刺史廬陵王義真の朝堂での序列(「班次」)をめぐる、中書令傅亮と御史中丞蔡廓の議論である(『宋書』巻57蔡廓伝)。

 ○傅亮の見解
  (傅)亮与廓書曰、

 ①揚州自応著刺史服耳。然謂坐起班次、応在朝堂諸官上、不応依官次坐下。足下試更尋之。
 ①廬陵王の序列は朝堂においては諸官の上にあるべきなのに、揚州刺史(四・五品)の位に基づいて、諸官の下に置かれている。

 ②詩序云、『王姫下嫁於諸侯、衣服礼秩、不係其夫、下王后一等』推王姫下王后一等、則皇子居然在王公之上。
 ②『毛詩』に詠われているように、皇族は王公よりも上の身分である。

 ③陸士衡起居注、式乾殿集、諸皇子悉在三司上。
 ③西晋の陸機が記した起居注によれば、式乾殿で百官が集った際、皇子たちは三公の上に位置していた。

 ④今抄疏如別。又海西即位赦文、太宰武陵王第一、撫軍将軍会稽王第二、大司馬第三。大司馬位既最高、又都督中外、而次在二王之下、豈非下皇子邪。此文今具在也。
 ④別の例では、東晋の廃帝が即位した際の大赦文での序列は、一番目が太宰の武陵王晞、二番目が会稽王昱、三番目が大司馬の桓温であった。大司馬の位は最も高く、また都督中外諸軍事でもあったのだが、序列は二人の王の下であった。これはやはり皇子であるからこそ特別待遇されたのである。

 ⑤永和中、蔡公為司徒、簡文為撫軍開府、対録朝政。蔡為正司、不応反在儀同之下、而于時位次、相王在前、蔡公次之耳。
 ⑤東晋の穆帝の永和年間、蔡謨は司徒、会稽王昱は撫軍大将軍・開府儀同三司であり、二人で輔政していた。蔡謨は正式な三公であるから、仮の三公位を保証する開府儀同三司の下にあるべきではないが、当時の序列では会稽王が前で、蔡謨はその後ろであった。

 ⑥諸例甚多、不能復具疏。揚州反乃居卿君之下、恐此失礼、宜改之邪。
 ⑥このような例は非常に多い。したがって、揚州刺史の廬陵王が卿より下にいるのは礼を失したものであると考えられる。

 ◎傅亮は「王」という位が官位に優越して班位を定めるとしている。

 ○蔡廓の反論
  廓答曰、

 ①揚州位居卿君之下、常亦惟疑。然朝廷以位相次、不以本封、復無明文云皇子加殊礼。
 ①揚州刺史の廬陵王位が卿より下であるのは不自然なようであるが、朝廷の序列は封爵に基づくものではないし、皇子には殊礼が加えられるとの規定はない。

 ②斉献王為驃騎、孫秀来降、武帝欲優異之、以秀為驃騎、転斉王為鎮軍、在驃騎上。若如足下言、皇子便在公右、則斉王本次自尊、何改鎮軍、令在驃騎上、明知故依見位為次也。
 ②西晋のとき、斉王攸は驃騎将軍だったが、孫呉から孫秀が来降した際、武帝は孫秀を優遇しようと考え、驃騎将軍とし、斉王攸を鎮軍将軍に転任させ、驃騎将軍の上とした。もしあなたの言う通り、皇子には特別待遇が加えられるのであれば、皇子であるだけで公より右に出るはずで、斉王の封爵からしてそれは自然なことであるはずなのに、どうしてわざわざ鎮軍将軍に転任させ、驃騎将軍の上に置かせるという手間を取ったのであろうか。そのときに両者が就いていた官の位を(そのまま)席順としたのであ(り、王族だからといって官に定められた朝位をないがしろにしたりすることはなかったのであ)る。

 ③又斉王為司空、賈充為太尉、俱録尚書署事、常在充後。潘正叔奏公羊事、于時三録、梁王肜為衛将軍、署在太尉隴西王泰・司徒王玄沖下。
 ③また斉王攸が司空、賈充が太尉で、ともに録尚書事であったとき、斉王攸は常に賈充のあとであった。潘尼が『公羊』故事を奏上によると、当時の三人の録尚書事の一人であった梁王肜は衛将軍であったが、残り二人である太尉の隴西王泰、及び司徒の王渾の下に置かれた。

 ④近太元初、賀新宮成、司馬太傅為中軍、而以斉王柔之為賀首。立安帝為太子、上礼、徐邈為郎、位次亦以太傅在諸王下。又謁李太后、宗正尚書符令以高密王為首、時王東亭為僕射。王・徐皆是近世識古今者。
 ④東晋の孝武帝の太元の初め、新しい宮殿の完成祝賀の際、太傅の琅邪王道子は中軍将軍であったが、斉王柔之を祝賀の第一番目とした。のちの安帝を立てて皇太子として、礼を挙行した際、当時礼に通じていた徐邈は郎(中書侍郎?)であったが、やはり琅邪王道子の位は諸王より下であった。また李太后に謁見した際も、宗正や尚書の指令で高密王純之を筆頭としたが、当時博識であった王珣は尚書右僕射であった。王と徐はともに近年の博識の人物であるが、これらの件を問題としていない。

 ⑤足下引式乾公王、吾謂未可為拠。其云上出式乾、召侍中彭城王植・荀組・潘岳・嵇紹・杜斌、然後道足下所疏四王、在三司之上、反在黄門郎下、有何義。且四王之下則云大将軍梁王肜・車騎趙王倫、然後云司徒王戎耳。梁・趙二王亦是皇子、属尊位斉、在豫章王常侍之下、又復不通。蓋書家指疏時事、不必存其班次。式乾亦是私宴、異於朝堂。如今含章西堂、足下在僕射下、侍中在尚書下耳。
 ⑤あなたは式乾殿での故事を引いているが、それは根拠にならない。陸機の起居注によれば、式乾殿に集まった際、まず侍中の彭城王植・荀組・潘岳・嵇紹・杜斌を召し、その後であなたの挙げている四人の王の記述があるが、四王は確かに三司の上に置かれているけれども、黄門郎(黄門侍郎ではなく侍中を指すか?)より下ではないか。これはおかしい。かつ四王の下には大将軍の梁王肜と車騎将軍の趙王倫が続き、そのあとで三公の一人司徒の王戎であると記述されている。梁王も趙王も皇子であり、四王と親族関係は同じであるのに、どうして散騎常侍の豫章王熾の下に置かれるのか、不明である。おそらくは記述者が当時のことを記す際、必ずしも朝位に忠実でなかったのであろう。また式乾殿の集まりは私宴でもあるので、朝堂での事情とは異なることも考えられる。ちょうど現在の含章西堂においては、中書令のあなたは尚書僕射の下で、侍中は列曹尚書の下であるようなものである。

 ⑥来示又云曾祖与簡文対録、位在簡文下。吾家故事則不然、今寫如別。王姫身無爵位、故可得不従夫而以王女為尊。皇子出任則有位、有位則依朝、復示之班序。
 ⑦唯引泰和赦文、差可為言。然赦文前後、亦参差不同。太宰上公、自応在大司馬前耳。簡文雖撫軍、時已授丞相殊礼、又中外都督、故以本任為班、不以督中外便在公右也。今護軍総方伯、而位次故在持節都督下、足下復思之。
 ⑥また私の曾祖父(蔡謨)が会稽王昱とともに輔政していたのに、位は会稽王の下であったということについてだが、
 ⑦ただ廃帝即位時の大赦文については、確かにそうだと思わせるものがある。しかし大赦文発布の前後状況を見ると、おそらく違うだろう。太宰は上公で、大司馬より前の位。会稽王昱は撫軍大将軍であったけれども、すでに丞相と殊礼を加えられている。また都督中外諸軍事であるが、本来は本官を朝位としていたので、都督中外諸軍事であるからといって公の前に出るわけではない。現在の護軍は地方官を統べているが、班位は持節都督の下である。(刺史ならなおさらであろう。)これらのことを考慮するよう」。

 ◎蔡廓は王の封爵は関係なく、あくまで官の位を基準として班位を定めるべきであるとしている。

 読めているのかどうかこころもとないのだが、とても重要な史料だと思うので引用しておきました。[上に戻る]

[2]小林聡氏は、魏晋南朝時代の印綬冠服の序列規定が官品や爵のみならず秩石序列とも対応していることを指摘しており、梁・武帝の天監の官制改革において秩石が大幅に改められていることからも、秩石がなんらかの形で必要であったことは疑いなく、氏が言うように、礼制秩序の基幹として秩石序列が六朝において存続したのかもしれない(「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年、「漢六朝時代における礼制と官制の関係に関する一考察」、『東洋史研究』60-4、2002年、「西晋における礼制秩序の構築とその変質」、『九州大学東洋史論集』30、2002年)。だとすれば、やはり礼制秩序のひとつに数えられる朝位もまた、秩石に応じて定められている可能性を排除できないだろう。
 閻歩克氏は当該時期の秩石の形骸化を前提に、朝位は基本的に官品と対応するものだとし(「魏晋的朝班・官品和位階」、『中国史研究』2000-4、『品位与職位』中華書局、2002年)、中村圭爾氏も秩石は機能していないと説くが(『六朝貴族制研究』風間書房、1987年)、以上の事情からすると、少なくとも秩石が無意味であったとはいいがたい。朝位と秩石が対応していた根拠もあまりないが、秩石が機能するとしたら儀礼の場以外に見当がつかないように思われる。
 余談だが、阿部幸信氏によると、漢代の朝位は「公―卿―大夫―士」序列と綬制に対応していたらしい(前掲「漢代における朝位と綬制について」)。記憶が定かでないのだが、漢代の公―卿―・・・ってたしか秩石と一定の対応を有していた、よね・・・? 600石までは大夫みたいな? [上に戻る]

[3]私の知る限り、日本の学術雑誌に掲載された論文では、閻歩克氏の「魏晋的朝班・官品和位階」(前掲)がこの問題を最も詳細に扱っている。そこで閻氏の見解も参考までに要約しておこう。
 まず閻氏が検討するのは「増位」=「増秩」説である。例えば『晋書』諸葛恢伝では「進其位班」が「増秩中二千石」と言い換えられており、この説の妥当性を裏づけているかのように見える。しかし、閻氏によれば、魏晋南朝期の「増位」と「増秩」は明確に区別されており、同一のこととは見なせないのだという。諸葛恢伝の「位班」は具体的な何かを指しているのではなく、「官位」の汎称であろう、と述べておられる。
 次に検討しているのが「増位」=「増朝位」説。閻氏はこの説も否定する。全員一律に席次を昇格させると、かえって意味が失われており、考えがたい、と。
 したがって、「合理的に考えるに、加増された『位』とは官僚個人の官簿に記載され、一種の選挙資格を形づくるものにすぎないのだろう」(p.57)。閻氏はこのような意味での「位」を「資位」「階級」「資次」と呼ぶ。魏晋以降に設けられたこの制度は、官僚の任官や昇進コースを決める資格のようなものである。例えば同一の官品でも出世コースにあるものとそうでないものがあるが、「階級」が高ければよりランクの高い官に就けるみたいな。「資位」が「一階」増えれば、それまでは就けなかったワンランク上の官にもいけるようになる。この個人の「資位」は「牒」と呼ばれる文書に記載され、管理されている。「増位」とは「牒」に記入されている「資位」を加増することにほかならない、と。

 閻氏の「階級」に関する議論は説明不足な印象があるものの、具体的に細かい話は措いといて、氏は「増秩」や「増朝位」の可能性を明確に否定し、「郷品」のようなものを加増したのだと理解しておられるということだ。

 閻氏の見解には根本的に疑問がある。閻氏のいう「資位」というやつ、おそらく史料上では「資」とか「階」と表現されているものじゃないのか? 私の記憶では、「位」の用例のなかでそういうものはなかった気がするんだけど。増位と増秩は厳密にわけるのに、ここはそれほど厳密じゃないんだ。
 閻氏は史料上から資位・階級という概念を抽出しており、それ自体はまあ問題なしとしておくにしても、それらの概念が「増位」における「位」と同一の指示対象であることはまったく証明していない。「増位」の「位」=資位という論理は、他の序列体系(秩石や朝位)は「増位」に該当しない=他の序列体系と考えるべき=この時代の大事な体系に資位・階級がある=「増位」はこれだ! っていうふうに成り立っているわけですよ。おかしいよね、この論理の進め方。
 そういうわけで、閻氏の見解にすぐ従う気にはちょっとなれないです・・・。

 なお、上で「資」や「階」についても少し触れたが、これについては中村圭爾氏(「初期九品官制における人事」、川勝義雄ほか編『中国貴族制社会の研究』京都大学人文科学研究所、1987年)、岡部毅史氏(本文末尾の参考文献一覧をご覧ください)の研究がある。両氏とも閻氏とはちがい、「資」と「階」を区別して解釈し、双方の概念を選挙資格や昇進基準、官と官との上下関係を示すようなものとして検討し、かつ官品からは距離を置いた別個の序列体系であるとしている。さらに岡部氏は、当該時期においては「官品」よりも「資」が官僚の身分表示機能として用いられる傾向にあったと論じている。
 ただ、「増位」、あるいは朝位との関係はとくに言及されていないこともあるので、ここではこれ以上触れないでおく(まだよく整理できてもいないので)。[上に戻る]

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