2017年12月31日日曜日

書物消尽の歴史――隋書牛弘伝「請開献書之路」

 さいきん史学史について整理してみようと思い立って、その一環で目録を学んでいる。
 で、その基礎史料となると隋書経籍志(以下、たんに隋志)や班固の芸文志、さらに梁の阮孝緒が編纂した目録『七録』の序文(広弘明集巻3引)、そして牛弘が「開献書之路」を請うた表文が主なもの、というかこれくらいしかたぶんなく、それでこれら史料に目を通しつつ、『隋書経籍志詳攷』(興膳宏・川合康三、汲古書院、1995年)のような専門書も読み進めるみたいな感じでやってる。個人の近況とかどうでもいいですね、ごめんなさい。
 本記事では牛弘の表文を訳出し、若干のコメントを加えた。訳文は多く意訳し、また注は細かくつけなかった、というか気が向いたらつけた。

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 開皇のはじめ、散騎常侍、秘書監に移った。牛弘は書籍が失われるのを憂慮し、上表して書物献上の道筋を開くよう要望した。

 書籍には古い由来があります。爻の記号は庖羲に発明され、文字は蒼頡に考案されました。記号や文字は、聖人が教えを広め、古今のことに通じる方法であり、また「政治の決定を王庭で公然と示」したり[1]、「(優秀な人を求めて)中華に語りかける」[2]手段でありました。堯は至聖と称えられましたが、それでも古道を調べてそれを遵守しておりましたし[3]、舜は大智と評されておりますが、それでもいにしえの服制における服の図像を明らかにしようとしました[4]。周礼によれば、外史は三皇五帝(三墳五典)の書物と諸侯の記録を管轄しています(春官。訳は鄭玄注に拠っている)。武王が黄帝や顓頊の道を尋ねると、太公は「丹書に書いてあります」と答えました(『大戴礼』武王踐阼)。これらからわかりますように、符を授ける権限を有し(原文「握符」)、暦を支配し(原文「御暦」)、国家を統治する者は、必ず詩や尚書で教化をおこない、礼楽を拠りどころにして偉業を打ち立てたのです。
 むかし、周の徳が衰えると、ふるい書物は乱され、棄てられました。このようなとき、孔子は大聖の才能を発揮して素王の事業を創始しました。文王、武王にのっとり、堯、舜の道を伝え述べ[5]、礼を整理し、詩を取捨し、五つの始まり[6]を正して春秋を編集し、十翼を著して易を明らかにしました。国を治め、自らの身を立てるにあたって、模範となるものをつくり伝えたのです。しかし、始皇帝が天下を統べ、諸侯を併合するにいたって、軍事力に頼るのみで、政治はいにしえを手本とせず、かくして焚書の令を下し、偶語〔詩や書などについて語りあうこと〕の刑が実施されたのです。そうして先王の書籍は一掃されてしまいました。このように根本部分が先に失われていたため、秦は転覆したのであります。予言めいた言い方をいたしますが、書籍の興廃はその国家の行方を示しています。この秦の焚書が、書物の災禍の一つめです。
 漢は秦の弊害を改め、儒を重んじ、書物を所蔵する台閣(?)を建て[7]、書物を研究する官を設けました。すると、山の洞穴や旧宅の壁など、あちこちから隠されていた書物が現れてきました。書物を保管する場所としては、宮城外に太常、太史の書庫、宮城内に延閣、秘書がありました。ですが、成帝の時代になっても、失われた書物がいまだに多いため、謁者の陳農を天下に派遣して捜索させ、劉向父子に書籍を校訂させました。このとき、漢の書籍はもっとも充実していました。王莽の末年になって、長安で戦争が起こると、宮室の蔵書は焼き尽くされました。これが書物の災禍の二つめです。
 光武帝が漢を中興すると、とりわけ儒の経典〔原文「経誥」。用例から経書を指すと思われる〕を尊重し、まだ戦争が終わらないうちから作文の巧みな者たち〔原文「文雅」。自信なし〕を探し求めました。こうして、大勢の優れた儒学者があいついで集まったのであり、書物を抱きかかえたり背負ったりして、距離を省みずにやってきました。粛宗(章帝)はみずから講義に出席し〔出典捜索中〕、和帝はしばしば書庫を訪問していました〔出典捜索中〕。蘭台、石室、鴻都、東観には蔵書がいっぱいに積まれており、前代の倍の量になっていました。ところが、献帝が長安に遷都するさい、朝廷も民衆も混乱し、書籍の材質であった絹は帳やふくろに使われてしまいました。それでも、残ったものを集めれば車70余乗ほどで、それを長安に運びましたが、そこでも戦乱が起こると、たちまちに焼尽してしまいました。これが書物の災禍の三つめです。
 魏の文帝が漢から禅譲を受けると、書籍の収集につとめ、すべて秘書府と宮城内外の三つの台閣に所蔵し[8]、秘書郎の鄭黙に前代までの書籍を吟味させました。当時の世論は、彼の仕事によって書籍に朱と紫の区別がつけられた〔似たものにハッキリ区別がつけられた〕[9]ことを称えました。晋氏が魏を継ぐと、書籍はいよいよ増大しました。晋の秘書監の荀勗は魏の『内経』(『中経』)を整理し、さらに『新簿』を作成しました。ふるめの書物は失われて減っていたようですが欠損本もあったようですが、新しめの書籍は非常に多く収集されており、正道を広め、当世を導くには十分でした。ですが、ちょうどそのようなときに劉氏と石氏が跋扈して、中華が壊滅したため、国家が所蔵していた書籍は失われてしまいました。これが書物の災禍の四つめです。
 永嘉の乱ののち、賊がつぎつぎと出てきて、中原を占拠したり、関中や河北に跋扈したりしました。賊の国家を調べてみるに、その僭号こそ記録に残っていますが、法制〔原文「憲章」〕や礼楽の整理事業となるとまったく記述がありません。劉裕が姚氏を平定したさい、その蔵書を接収しましたが、五経、諸子、史記(歴史)の書物は4000巻ほどしかなく、すべて赤い軸木に青い紙であって、書体は古風で味気なく、つたないものでした。賊のうちでも前秦、後秦がもっとも栄えましたが、このことからその様子がわかりましょう。ともかくこうして、ここからわかりますように、礼物、図像、記録の類いは、賊のうちを流浪していたものはすべて江南に収められたわけです晋が移ったさいに、すべて江南へ収まったわけです(なので、長安には図書が少なかったのです)〔余嘉錫『目録学発微』邦訳p. 227を承け、修正する――2018/01/06〕。晋宋の時期は学術が拡大し、斉梁の時代になると経学と史学がますます盛んになりました。宋の秘書丞の王倹は劉氏の『七略』に倣って『七志』を編纂し、梁の阮孝緒も『七録』をまとめましたが、『七録』に記録されている書籍の総数は3万余巻にものぼります。侯景が長江を渡って梁を転覆させるや、それら秘書省の蔵書は戦火に巻き込まれてしまいましたが、文徳殿の蔵書は免れ、そのまま残っていました。元帝は江陵に拠っていましたが、将軍を派遣して侯景を平定させると、文徳殿の蔵書と公私に保管されていた書物や貴重な本[追記1]、合計で7万余巻を集め、荊州に送らせました。江南の書籍はことごとく元帝のもとに集められたのです。ところが、周の軍〔原文「周師」〕が江陵に入城するに及ぶと、元帝は外城で書籍をすべて焼いてしまい、残存したのはわずか一、二割ほどでした。これが書物の災禍の五つめです。
 北魏は遠い北方〔原文「幽方」〕から中原に移ってきましたが、収集に力を割けず、蔵書は少ない状態でした。関西で創業した周は戦争が続いていました。保定〔武帝の元号〕のはじめ、書籍は8000巻ほどでしたが、徐々に収集してゆき、1万巻にまでいたりました。山東を領有していた斉も、当初は収集をしていましたが、そこで編纂された目録を調べてみると、収集の不足が多いようです残欠の記録が多く目につきます。周が関東を平定すると、斉の蔵書を接収しましたが、四部で重複する書籍が多く、総数こそ3万余巻ありましたが、周の蔵書は5000しか増えませんでした。
 いま、わが朝の書籍は総数1万5000余巻ございますが、書物の数には依然として不足があり蔵書には残欠が依然あり、また書物の数を梁の目録と比較してみると、わずか半分しかございません。陰陽・河洛〔河図のこと。総じて讖緯類を指す〕や、医方・図譜〔おそらく図表類〕の書籍にかんしては、いっそう量が減っています。臣が書籍について考えますに、孔子から現在にいたるまで千年が経ち、その間に五度の災厄に遭ってきましたが、それを乗り越え、集まっていく時期は聖人の世にあたっています。思いますに、陛下は天命を受け、天下に君臨しており、功は比類なく、徳は上古にまさっています。中華が分裂し、道理が崩壊して以来、覇王がかわるがわる現れたものの、世の混乱はおさまらず、そうした時期にあっては儒を尊重しようと思ってもできるわけではありません。ですがいま、領域は三王よりも広く、人口は漢よりも多く、人が足りていて時も来ているとはまさに当今のことなのです。ゆえに、教化を押し広めて、民を太平に導くべき時なのですが、書籍に収集漏れがあるままとしておくのは、下々が御心を仰いてひとつに合わせ、訓戒を後世に伝えていくに適切な状態ではありません。臣は記録や書籍を管理しておりますため、寝ても覚めても不安でなりません。むかし、陸賈が高祖に「馬上から天下は治められません」と言いましたが、国家を切り盛りし、政治をしっかりさせるのは書籍にかかっているわけです。これ以上の国家の根本はございません。いまの蔵書はひととおりそろってはいますが、現代に存在している書籍はすべて備えておくべきです。朝廷にはないが民間にはある――そのようであってはなりません。とはいえ、民の数は多く、蔵書の捜索は困難でしょうし、かりにわかったとしても、多くの民はしぶることでしょう。ですので、朝威で強制したり、褒美で誘ったりする必要があります。もし詔を多く発し、加えて賞金もかければ、珍しい書籍が必ず届いて台閣に積まれましょう。かくして、道を尊ぶ風潮はこれまでになかったような篤さをもつでしょう。なんと良いことでありませんか。どうかわずかばかりのご配慮を下してくださいますよう、陛下にお願い申し上げます。

 文帝はこれを聴き入れ、詔を下し、書物一巻の献上につき絹一匹を与えることとした。すると、一、二年のあいだに蔵書はおおいに整った。

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 書物が散佚の憂き目に遭いつつ、他方で収集整理に傾けた人々の努力で生き延びてきた過程が、ひとつの歴史として構想され、物語られている。

 魏晋南朝(元帝以前)は『七録』序を参考に叙述が構成されているが、それ以外の箇所、すなわち五胡、梁元帝、北朝については牛弘以前にさかのぼる史料を得られない。隋志・史部簿禄類を見ても、北朝が作成した目録は非常に少なく、当然『七録』レベルの総括的なものは存在しなかったはずである。牛弘以前には五胡北朝、また元帝以後を概括するような文章ないし情報整理はされていなかったのではなかろうか。隋志・総序でも先ほど挙げた時期は牛弘の表文に大きく拠っているので、希少な情報がここで提供されていると見なしてよいと思われる。

 それでは、牛弘は当該時期の情報をどのように知りえたのだろうか。
 まず元帝。帝が焼いた書物の総数については異同があり、『南史』元帝紀には「聚図書十余万巻尽焼之」、隋志には「元帝克平侯景、収文徳之書及公私経籍、帰于江陵、大凡七万余卷」とあり、双方について資治通鑑考異は「隋経籍志云焚七万巻、南史云十余万巻。按周〔王〕僧弁所送建康書已八万巻、并江陵旧書、豈止七万巻乎、今従典略」と、「十四万巻」と記す『三国典略』が妥当と論じる。なお牛弘の表文は「遣将破平侯景、収文徳之書及公私典籍重本七万余巻、悉送荊州」とあり、隋志の記述に近い、というか隋志が牛弘にもとづいて記述を構成していることがわかる。
 司馬光が言うように、『南史』侯景伝に王僧弁が8万巻の書籍を建康で収集して江陵に送ったことが記されているし、『隋書経籍志詳攷』は『金楼子』を引いて元帝が害される前年の蔵書数が8万巻であったことを指摘していて(pp. 25-26、注18)、やはり『三国典略』の記述が妥当のようである。
 しかし、隋志にしても牛弘にしても、非常にややこしい書き方になってはいるものの、よく読めばそこに書いてあるのは「建康に送った書物の総数」であって、元帝が焼いた数ではない。で、伝送された書物の数については『南史』侯景伝と大幅な違いはない。つまり、他書と異同があることを記しているわけではないし、焚書の総数を考察するに論難するべき対象でもない。司馬光が誤読してナンセンスな批判を広げていただけである。
 とはいえ、これは牛弘にも問題がある。彼は「いかに多くの書物が存在したか、あるいは失われたか」を数字を挙げることによって強調する戦略を採っているわけだが、元帝の箇所については、建康で集めた書籍の総数のみを言い(つまりいかに多かったかを叙述し)、焚書の数に言及していない。牛弘の叙述戦略を踏まえていれば、「建康の7万巻が当時の南朝の書籍総数であり、元帝の蔵書もこの数で、これをすべて焼いたのだ」と読むのがむしろ自然かもしれないし、実際、牛弘自身はそのつもりで書いているのかもしれない。
 とまあ、そんな感じのことに気がついたから言いたかっただけで、とくにまとまりはないですごめんなさい。『隋書経籍志詳攷』(p. 25)によれば、元帝焚書に言及するもっとも早い史料は顔之推「観我生賦」だが、とくだん牛弘に影響を与えているように見受けられないので、牛弘は独自に収集した情報にもとづいているのかもね。

 次に五胡北朝の記述。五胡、というか後秦のくだりだが、あれは南朝でつくられた目録が情報源だと思う。広弘明集に引かれている『七録』の序が節略なのかどうかよく知らないけど、そこに記述されていてもおかしくない話ではある。
 興味を惹くのは北朝の話題で、北朝ではあまり目録学が栄えなかったそうだから話すこともとくにないようで、なので簡素な記述になってはいるものの、だからこそこうした統括的な叙述が貴重になる。牛弘は北周の蔵書の増加具合を詳しく書いていてくれているし(北斉平定時の増加数とか)、北斉の目録も実見したそうだから、なかなか信頼が置けそうである。
 そもそもどうして牛弘がこんなに具体的に書けているのかというと、彼の経歴に関係があるように思われる。彼は北周で起家し、中外記室府、内史上士に就き、その後、「専掌文翰」という納言に転じ、威烈将軍、員外散騎侍郎を加えられ、「修起居注」という。どの職が何に相当するのかさっぱりわからんが、起居注の整理に関わっていたりするので、著作や秘書に相当する職に従事していたのではないか。というか、そういうことにしておこう。
 ようするに、「周の蔵書は武帝以降、だんだんと増えてきたんよ」とか「斉の目録を見たら最初はがんばっていたようなんだけどねえ」とか「でも斉の蔵書は周の蔵書とかぶりが多くてあんまり増加に益しなかったわ」とか言っているのは、牛弘自身が北周の秘書管理や北斉の図書整理に携わっていたからではないだろうか。隋が建って秘書監に任じられたのも、そうした経験を買われてのことでないだろうか。となれば、先ほどの元帝の話も、そうした経験が活かされているのかもしれない。起家は早くて武帝のはじめころだと思われるので、焚書は実見できていないはずだが、当時の記録があればそれを閲覧できただろうし、北方に連れられていった南朝人士ら――顔之推がまさにそうだが――から取材をすることだって可能だろう。
 ちなみに、隋志だと北朝、とくに北魏の記述は牛弘の表文よりも詳しく、なので別に牛弘をそんなに高く買う必要なくないかとか思われるかもしれないが、史書の一般的な体例からして、列伝に掲載されている章奏が節略である可能性を排除できないので、一概にそうは言えない。隋志はやっぱりぜんぶ牛弘の表文の丸写しかもしれない。同じ隋書なのにそんなことあるのかと思われそうだが、隋書の志は隋書の志というより五代史の志として別途編集されているので、そんなことがあってもおかしくないように思います。

 そういう具合に牛弘の経験が活かされている文章だと思うよ!って報告したかっただけでした。

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 さすがにそれで終わるわけにはいかないのでもうちょい気になったことを書いてみる。牛弘が「すっげえ数が減ってる」と言っている書物のこと。
 牛弘が挙げている分野のうち、陰陽、河洛、医方は従来まで術技・術数に分類されてきた書籍で、図譜は分類に試行錯誤を重ねられていたジャンルである(王倹『七志』は独立して一分類としたが、阮孝緒はそうするべきでないとし、図譜が対象としている分野に配した)。
 ここで注意したいのは術技類のほう。隋志というと、史部・集部の創設・体系整理といったところについ目がいってしまうのだが、『隋書経籍志詳攷』は術技書の動向にも注意を促している。同書によれば、隋志の子部全体で術技が占める割合は、実数で部数の約79%、巻数で61%を占め、「実質上は『七録』の術技録に属していた書が圧倒的な優位を占めているのである。・・・先秦以来の諸子の学は、・・・実は術技系の書に乗っ取られていたというのが正しいかも知れない」(p. 39)とまで述べる。またこれら術技系の特徴として、似通った内容をもつ書物が大量につくられたと想像され、そのことが目録の記述に混乱をもたらしていると考えられること(pp. 39-42)、宋史芸文志においても術技は一貫して増大していること(pp. 42-43)、新陳代謝が激しいため、後世に伝わるものが非常に少ないこと(pp. 39-43)、を挙げている。
 ここからはあくまで私の想像だが、術技系というのは全部が全部そうとは言い切れないだろうが、ようするにハウツー的なもの、実用書的なもの、そういう類いでないだろうか。技術の発展やニーズに応じて著されるが、細かいものが多く、数年でその役割を終えてしまうけれどそのころにはもう新しいバージョンが出ていて、保管には意を向けられない。
 梁は従来までの四部分類から術数を独立させて五部の分類をおこなっており、また阮孝緒は民間所蔵の書籍も記録したというから、きっとそれらの目録では術技系統が多く列記されていたのだろう。牛弘が隋の蔵書を梁代作成の目録と比べたとき、学問や政治には基礎的な書籍こそだいたいは大丈夫だが、実用的な技術書にかんしてはまったくそろっておらず、技術書への無関心こそが蔵書数のいちじるしい減少の根本原因であると映じたのでないか。
 牛弘は政治的なところから書籍の由来を説いており、その点では常套的な観点に立っている。だが、彼自身は政治や学問や作文に有用という価値づけを前提とせず、あらゆる書物への関心をここで披露しているように見える。書物であればなんでもいいのだ。ここに彼の実直さ、偉さを感じました。
 もちろん、彼とて制約はある。たとえば、『七録』が記録する巻数を3万と表文で述べているが、この数は『七録』の内篇のみに相当しており、外篇すなわち道教と仏教の書籍は除外されている。道仏は王倹『七志』もオマケ扱いだし、隋志では序文のみだから、そうして考えると牛弘の除外も時代の産物であったと言えよう。

 牛弘が術技系の書籍が少ないんだよねえと述べているくだりは、それなりの背景があったわけである。ただ、それは『隋書経籍志詳攷』の分析と指摘を俟ってようやくうかがえるような、見えにくいものだった。
 この時期の目録学というか書物の歴史は、もっと広い視点でみないといけないなあとか思いました。

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 最後に梁元帝。帝が書籍を燃やした場面は、『三国典略』に拠っている『資治通鑑』に詳しく描かれている。

帝は東閤の竹殿(?)に入ると、舎人の高善宝に古今の図書十四万巻を焼かせ、自らも火に飛び込もうとしたが、宮人や左右の者に止められた。また宝剣で柱を斬らせて(わざと)折らせると、「今夜、文武の道はすべて失われた」と嘆息した[胡注:書を焼いたこと、剣を折ったことを「文武の道が失われた」と言うのである]。・・・ある人が「どうして書籍を焼いたのですか」と尋ねると、帝は「万巻を読んでもこのような有様だ。だから焼いた」と答えた。(帝入東閤竹殿、命舍人高善宝焚古今図書十四万巻、将自赴火、宮人左右共止之。又以宝剣斫柱令折、嘆曰、「文武之道、今夜尽矣」[焚書、折剣、以為文武道尽]。・・・或問、「何意焚書」、帝曰、「読書万巻、猶有今日、故焚之」。)

 時、西魏軍はすでに江陵の城門を破り、帝は金城を保持するのみであったという。

 元帝の悲哀がよく伝わるエピソードなので、ついそっちに注意がいってしまうが、よくよく考えると元帝の焚書はひどい。
 牛弘が言う5つの災厄のうち、3つは戦乱で、混乱のうちにわちゃわちゃしちゃったなあっていう話なのだけど、残り2つ、始皇帝と元帝は、一個人の「書籍を廃棄する」という強い意志のもとなされた焚書であって、ちょっとどうかなあ。
 元帝の行動自体はおそらくだいたいの人が理解しうる、その点で普遍的な感情の表出と言えなくもない。追いつめられて深い絶望に陥ると、それまで救いとなっていたもの、夢を見させてくれていたものに距離を置こうとしたり、あるいは意図的にキライになってみたり、という心の機微は個人的にはわかる気がする。だからつい元帝に感情移入してしまって、一連の出来事を彼の悲劇のように捉えてしまいがちだが、牛弘のように、これは書籍の災難なのだと認識するべきでもある。
 牛弘が歴史を描いてみせたように、書籍はいくつかの戦乱を経ても、収集整理を重んじた人々の尽力により、連綿と伝承されてきた。元帝が愛した書籍はそうして伝えられてきた。元帝はプライベートなコレクションを廃棄した程度に考えていたのかもしれないが、その蔵書群は当代一で、文化的価値は測り知れない。万巻を読破しておきながら、書籍を愛好する一人としてどのような行動を取るべきか思慮を巡らせることができなかったのだとすれば、それは残念だ。元帝にもまた、伝えていく側としての責務があったのではないか。

 胡三省もこの焚書を冷ややかに見ているようだ。元帝が書籍を焼いた理由を答えた場面での注、というか感想は簡潔である。

帝の敗亡は読書に原因があるのではない。(帝之亡国、固不由読書也。)

 絶望に駆られた心意はわかるが、書籍には何の責任もなく、廃棄したのはただただナンセンスで、大きな損害しか生み出していない。胡三省もやはりそう見なしていたのでないかな。
 この簡潔な文に込められた意図を汲み取るのはなかなか容易でない。胡三省の注には、彼の生きた時代や社会への認識が踏まえられており、その現代認識から発した共感や批判が込められている、という指摘がある[10]。ここの部分もその1つにカウントできるだろう。動きの激しい世情下で資治通鑑に沈潜して生きた胡三省が、元帝の焚書を多少でも擁護するどころか、いっさいの共感すら示そうとしないのは、まあわからんでもない。



――注――

[1]原文「揚於王庭」。『易』夬の卦辞。『漢書』芸文志・六芸略小学類に「易曰、「上古結縄以治、後世聖人易之以書契、百官以治、万民以察、蓋取諸夬」、「夬、揚於王庭」、言其宣揚於王者朝廷、其用最大也」と、文字(小学)の効用を説くに易を引用しているが、後者が卦辞、前者が繋辞下伝。繋辞伝の韓康伯注に「夬、決也。書契所以決断万事也」とあり、本文はこれを踏まえて訳出してみた。夬の卦辞は文字の役割を述べるさいに常用される句であったようだ。[上に戻る]

[2]原文「肆於時夏」。『毛詩』周頌・時邁「我求懿徳、肆于時夏」。鄭箋に「懿、美。肆、陳也。我武王求有美徳之士而任用之、故陳其功於是夏而歌之」。『後漢書』伝52荀悦伝に引く漢紀の序文に「昔在上聖、惟建皇極、経緯天地。観象立法、乃作書契、以通宇宙、揚于王庭、厥用大焉。先王光演大業、肆于時夏。亦惟厥後、永世作典」と、「揚于王庭」とのセットで用例がある。[上に戻る]

[3]原文「考古道而言」。『尚書』堯典「曰若稽古帝堯」の孔伝に「若、順。稽、考也。能順考古道而行之者、帝堯」とある。ちなみに『三国志』魏書4高貴郷公紀・甘露元年条に尚書の講義の記述が見え、高貴郷公が「鄭玄曰、「稽古同天、言堯同於天也」。王粛云、「堯順考古道而行之」。二義不同、何者為是」と問うている。鄭玄は孔伝とまったくちがう読みをしているが、王粛は孔伝と同じ読み方をしているようだ。[上に戻る]

[4]原文「観古人之象」。『尚書』益稷「予欲観古人之象」、孔伝に「欲観示法象之服制」とある。『魏書』巻91江式伝に載せる江式の上表に、この句を含むいくつかの語が引かれたうえで「皆言遵修旧史而不敢穿鑿也」と述べられている。牛弘もかかる文脈でこの語を引いてきたのであろう。[上に戻る]

[5]原文「憲章祖述」。『礼記』中庸「仲尼祖述堯舜、憲章文武」。同句を引く『漢書』芸文志・諸子略儒家類の顔師古注に「祖、始也。述、修也。憲、法也。章、明也。宗、尊也。言以堯舜為本始而遵修之、以文王武王為明法、又師尊仲尼之道」とあるのに従って訳出した。「憲章」はたんに法制を言う例があり、この箇所もそう取れなくないが、「祖述」とセットとなるとやはり礼記の文脈に沿うのが妥当と思う。この上表の後段、後秦のくだりでもこの句が使われているが、そちらは「法制」を指すと思われたのでそう訳出した。[上に戻る]

[6]原文「五始」。字のとおり「五つの始まり」であり、端的には「元年春王正月」と表現される。『漢書』巻64下・王褒伝の顔師古注に「元者気之始、春者四時之始、王者受命之始、正月者政教之始、公即位者一国之始、是為五始」。[上に戻る]

[7]原文「建蔵書之策」。『漢書』芸文志・総序からの引用だが、「策」が不詳。ちくま訳は「竹簡(竹の札)に同じ。ここでは書籍の目録をさす」(文庫第3冊p. 584、注7)とするが、師古の引く如淳注は「劉歆七略曰、外則有太常、太史、博士之蔵、内則有延閣、広内、秘室之府」と説いており、どう考えても「書庫を建設した」と読んでいる。そして師古はまったくツッコミを入れていないので、おおむね賛同ということなのだろう。「策」をスペースのような義で読むのは難しいような気もするのだが、かといってちくま訳のような理解だと全体がうまく読めないし、ということで今回はいろいろ目をつぶって本文のように訳出した。[上に戻る]

[8]原文「皆蔵在秘書中外三閣」。同様の記述は『七録』序にも見えている。『隋書経籍志詳攷』は「秘書省・中閣・外閣の三ヵ所に収蔵した」と訳出し、注に「「中」は、中書。「外」は、蘭台」と記す(p. 18)。「外」を蘭台とするのは、『三国志』王粛伝の裴注引『魏略』に「蘭台為外台、秘書為内閣」とあるのにもとづいている。
 だが、この推論過程には疑問も残る。「中外」は「内外」のこと、すなわち中=内で外の対称の意で解すべきであり、晋の中軍が内軍と呼ばれることも念頭に置かねばならない。中=中書という結論を出すのならば、中閣=内閣が中書を指している例を論拠に据えるべきである。これでは、中の字から中書と解しているように見えてしまう。が、いま述べたように、ここの中は内の意と取るのが適当なので、その読み方はできない。
 また、たしかに『七録』でも「在秘書中外三閣」とあるものの、書庫としての「三閣」については阮孝緒以前にさかのぼる記述も存在する。『太平御覧』巻224職官部32校書郎に引く「晋令」がそれで、「秘書郎掌中外三閣経書、覆校闕遺、正定脱誤」とある。おそらくこの晋令に拠っているからなのであろうが、通典でも「三閣」「中外三閣」としか記していない。『隋書経籍志詳攷』は秘書・中(中書)・外(蘭台)が「三閣」だと解したのだが、晋令の記述の仕方を見るに、そのような理解を採るのは難しいように思う。晋令の記述に従うのならば、「中外の三閣」と読むのがよく、そして「中外」とは前述したように「(宮城の)内外」の意であり、その「三閣」とは注 [7] に掲げた如淳注に引く「七略」に「外則・・・、内則・・・」とあった如く、内外全体で書庫となる台閣が三つあったことを言うのだろう。
 すると本文の「秘書」が今度は問題になるが、これは『隋書経籍志詳攷』のように秘書の官府の意でよいと思われる。以上、「在秘書中外三閣」は「秘書省と内外の三つの台閣に所蔵されていた」と読むのがよいと考えたので、そのように訳出した。[上に戻る]

[9]原文「朱紫有別」。程千帆・徐有富『中国古典学への招待』(向島成美・大橋賢一・樋口泰裕・渡邉大訳、研文出版、2016年)が『論語』陽貨篇「悪紫之奪朱也」を典拠とするのに従った(p. 138)[上に戻る]

[10]増淵龍夫「歴史のいわゆる内面的理解について」(同氏『歴史家の同時代史的考察について』所収、岩波書店、1983年)参照。少し長いが引用してみる。「陳垣は、日本軍占領下の暗い世情の下で、ひとり門をとざして『資治通鑑』を読み、それに附せられている胡三省の注釈を読んで行くうちに、胡三省の注釈は単なる史実の考証というようなものではない、ということに陳垣は気付いたのです。南宋末の政治の腐敗のもとに生きて、宋朝の滅亡と蒙古人の侵入、占領支配の下に生涯を送った胡三省は、蒙古人の占領支配下においては、山中にかくれて、一切の官職には辞してつかず、亡国の暗い世情の下にあって、元朝の残酷な統治と、それに阿附し、或はそれに抵抗するさまざまな人の動きを、その目で見、きびしい現実批判の心を内にこめて、『資治通鑑』を読み、その全精神を、『通鑑』の注釈という仕事に託したのであった」(pp. 90-91)。元朝ファンには承服しがたい表象が使われていると思うが、胡三省の目に映った世相を代弁した記述、と見なしてもらえれば。[上に戻る]

[追記1]原文「収文徳之書及公私典籍、重本七万余巻」。「重本」を「貴重な本」と訳出しているが、『北斉書』巻45文苑伝・顔之推伝の「観我生賦」自注に「王司徒表送秘閣旧事八万巻、乃詔比校、分為正御、副御、重雑三本」とあり、「重本」は本来「重雑本」=重複している書籍の意だと思われる。牛弘の原文がこうであったのか、引用者が一部省略したのか不明だが、ともかく原文には脱落があると思われ、「重本」を顔之推をふまえて「重複本」と訳出しても文意が通じないように思われる。そこで、訳文はとりあえず文意が通る「貴重本」のままとしておく。(2018/01/07追記)[上に戻る]


2017年10月29日日曜日

沈約『宋書』の系譜とその周辺

 沈約『宋書』はじめ、宋史のお話。
 なお本記事ではあくまで便宜的に、宋朝の国史編纂事業において成り立った宋史を国史、それ以外の宋史を野史と呼び、区別する。

***
国史
沈約
『宋書』巻100自序の末尾。

 史臣は十三のときに父を亡くし、早くから学問に打ち込んできた。時ばかり重ねて何も成し遂げてはいないが、やめるつもりはまったくなかった。そうした日々で気にかかっていたのが、晋氏の史書で起こりから亡びまで叙述したものがないことだった。そこで二十のころ、自分で書いてやろうという目標を立てたのである。泰始(西暦465-471年)のはじめ、征西将軍の蔡興宗が史臣のために明帝にそのことを申し上げてくれ、すると勅が下って編纂の許可を賜った。以来二十年、晋史は120巻まで書きあがり、筋道〔原文「条流」。常套表現のようだが、よくわからん。秩序だった流れ?〕は立ったのだが、記録の収集がまだ不満足であった。そうしたところ、永明(483-493年)のはじめ、盗人に出くわしてしまい、五つめの帙(41-50巻?)を失ってしまった。
 ところで、建元4年(482年)のまだ年が明けないころ、勅を受けて宋の国史の編纂をすることになった。永明2年(484年)、過分にも著作郎の兼任を命じられ、起居注の執筆整理に当たった。以後は戦争があったため[1]、資料の収集や記述に割く時間がなかったのだが、5年(487年)の春にふたたび宋書編纂の勅が下った。そうして6年の2月、とうとう完成し、献上したのである。その上表文でこう申し上げた。

「・・・(前略)・・・
 宋の著作郎、故何承天が最初に宋書を編纂し、紀と伝をつくりましたが、武帝の功臣までしか叙述しておらず、全体の分量が薄い出来でした。何承天が撰述した志は天文と律暦のみで、それ以外は奉朝請の山謙之に任されたものでした。
 山謙之は孝建(454-456年)のはじめにも編纂の詔を下されたのですが、まもなく病没してしまったため、南台(御史台)の侍御史、蘇宝生に伝の編纂が命じられました。元嘉の名臣伝は彼の撰述です。
 蘇宝生が誅殺されてしまうと、大明(457-464年)のなかば、著作郎の徐爰にこれまでの編纂の引継ぎが命じられました。徐爰は何承天と蘇宝生が撰述した伝を受け継ぎ、一つにまとめあわせました。その叙述範囲は晋の義煕(405-418年)はじめから大明の終わりころまでに及びます。また、臧質、魯爽、王僧達の伝は孝武帝の御撰です。
 しかし以後、永光(465年)から禅譲(479年)までの十数年ほどは編纂の担当者がおらず、事業は停滞し、帝一代の記録ですら、始めから終わりまで完備しておりません。加えて、記録する事跡は自分たちの時代だったのですから、事実とは異なる記録も多くあります。立伝の基準にかんしましても、取捨の選択は公正でなく、進んでは当時の帝の意向に阿り、退いては世論に追従するありさまです。宋の国史を後世〔原文「方来」。『文選』巻49の范曄皇后紀論「貽厥方来」、李善注「毛詩曰、詒厥孫謀」に拠った〕に伝えていくにあたり、このような状態では信頼に欠けます。
 そこで臣は、伝を見直して設け、新たに国史を作成いたしました。義煕改元から昇明3年(479年)までを範囲としております。(具体的に、これまで立伝されてきた以下の者たちを見直しました。)桓玄、譙縱、盧循、司馬休之と魯宗之[2]らは晋朝の賊であって、後世の宋とは関係がありません。呉隠、謝混、郗僧施[3]ですが、彼らの義は前代の晋でのことですから、宋の史書にむやみに入れるべきでありません。劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民ですが、彼らの志は晋の復興であって、宋を建立するつもりはありませんでした。これらの伝はすべて取り除き、晋の史書に委ねます[4]
 遠くは南史氏、董孤〔ともに直筆で知られる春秋時代の史官〕に劣ることを恥じ、近くは司馬遷、班固に及ばず、そのような凡才が宋一代の史書を叙述いたしました。言葉をつむいで事跡を列記するに、いにしえの良史と比べると恥じ入るばかり、かしこまって身を小さくしても、冷や汗が止まらず、落ち着く場所もないほどです。本紀と列伝は清書が終わり、合計で七帙七十巻となります。いま、つつしんでこれを献上いたします。志は完成次第、献上いたします。内容目次を添えて省に行き、表を奉じてこの書物を献じましたことをここに申し上げます。臣約、まことに恐れおののくばかりです。頓首頓首死罪死罪」。
(史臣年十三而孤、少頗好学、雖棄日無功、而伏膺不改。常以晋氏一代、竟無全書、年二十許、便有撰述之意。泰始初、征西将軍蔡興宗為啓明帝、有勅賜許、自此迄今、年逾二十、所撰之書、凡一百二十巻。条流雖挙、而採掇未周、永明初、遇盜失第五帙。建元四年未終、被勅撰国史。永明二年、又忝兼著作郎、撰次起居注。自茲王役、無暇搜撰。五年春、又被勅撰宋書。六年二月畢功、表上之。曰、
「・・・宋故著作郎何承天始撰宋書、草立紀伝、止於武帝功臣、篇牘未広。其所撰志、唯天文、律歴、自此外、悉委奉朝請山謙之。
 謙之、孝建初、又被詔撰述、尋値病亡、仍使南台侍御史蘇宝生続造諸伝、元嘉名臣、皆其所撰。
 宝生被誅、大明中、又命著作郎徐爰踵成前作。爰因何蘇所述、勒為一史、起自義熙之初、訖于大明之末。至於臧質、魯爽、王僧達諸伝、又皆孝武所造。
 自永光以来、至於禅譲、十余年内、闕而不続、一代典文、始末未挙。且事属当時、多非実録、又立伝之方、取捨乖衷、進由時旨、退傍世情、垂之方来、難以取信。
 臣今謹更創立、製成新史、始自義熙肇号、終於昇明三年。桓玄、譙縱、盧循、馬魯之徒、身為晋賊、非関後代。呉隠、謝混、郗僧施、義止前朝、不宜濫入宋典。劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民、志在興復、情非造宋。今並刊除、帰之晋籍。
 臣遠愧南董、近謝遷固、以閭閻小才、述一代盛典、属辞比事、望古慚良、鞠躬跼蹐、靦汗亡厝。本紀列伝、繕写已畢、合七帙七十巻、臣今謹奏呈。所撰諸志、須成続上。謹條目録、詣省拜表奉書以聞。臣約誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪」。)

 いきなりの長文になってしまったが、沈約がどういう経緯で宋書をまとめたのか等、よくまとめられている。
 彼が宋朝における国史編纂事業の歴史から自分の仕事の意義を説いていることに察せられるように、「製成新史」とはいっても、まったくのゼロベースからつくるわけでなく、何承天以来の事業でまとめられた宋書を点検しつつ加筆し、そうしてできあがったのが沈約の宋書、というふうに見ておくのがよいように思われる。
 したがって、沈約宋書の記述を分析するにあたっては、宋朝の編纂事業で生み出された史書をつねに念頭に置いておかねばならない。以下、何承天から順にこの歴史をまとめてみる。

何承天
『宋書』巻64何承天伝

元嘉16年(439年)、著作佐郎に任じられ、国史を編纂した。何承天は老年だったが、ほかの著作佐郎はみな名家の若者だった。(十六年、除著作佐郎、撰国史、承天年已老、而諸佐郎並名家年少。)

 16年当時、何承天は70歳です。著作佐郎は起家官としてランクの高い職であった(宮崎市定『九品官人法の研究』中公文庫、1997年、pp. 252-253。著作そのものについては拙訳注参照)
 若い著作の一人が山謙之だったのだろうか。それは措くにしても、彼はなかなか優秀な史官だったようなので記憶に留めてよい。

 何承天版は隋書経籍志(以下、たんに隋志と呼ぶ)にも記録がないし、いままで類書での引用も見たことがない。沈約は何承天版を直接参観できていたようなので、どこかの段階で消失してしまったようだ(徐爰版・沈約版に吸収されたとみてよいのかもしれない)。
 沈約の自序によれば紀伝の下限は武帝時代までのようだから、同時代にあたる文帝時代は範囲外だったようだ。ただし志の下限はどうであろう。沈約の律暦志には元嘉暦の記述があるが、元嘉暦制定の張本人である何承天であれば、彼自身がここまで執筆したと考えて差し支えないと思われるが。
 ほかの手がかりは沈約宋書の志序である。

元嘉年間、東海の何承天は詔を下されて宋書を編纂した。その志は15篇(15巻)〔篇と巻は厳密にはちがうが、巻子本が主流であったこの時代においてはおそらくほぼ同義であったと思われ、また沈約が8志30巻であることからみても、「巻」の意でとってよいと考える〕あり、司馬彪『続漢書』のあとを承けた記述内容だった。諸書からの引用が広範であるのはこのような事情に拠っているのであり、司馬遷、班固のごとく、一家の書となっている。遺漏や何承天以後の事跡は、記録を収集して適宜に補った。(元嘉中、東海何承天受詔纂宋書、其志十五篇、以続馬彪漢志、其証引該博者、即而因之、亦由班固、馬遷共為一家者也。其有漏闕、及何氏後事、備加捜采、随就補綴焉。

 太字箇所に注目したい。
 まず「十五篇」だが、詳しい構成は当然不明。沈約の自序、志序からは、何承天版には天文志、律暦志、五行志があったこと、沈約版の符瑞志は沈約が新たに立てた項目であること、これらは確からしい。また沈約が州郡志の序文で参考書籍に「何〔承天〕〔爰〕州郡」を挙げており、実際に文中で「何志」に頻繁に言及することから、州郡志もあっただろう。蕭子顕『南斉書』百官志でも何承天の志に触れており(州牧刺史の条に「何徐志云起魏武遣諸州将督軍」)、百官志の類も設けられていたと思われる。
 分量を比較してみると、沈約の志は30巻ある。うしろの太字箇所を言葉どおりに受け取れば、沈約は何承天版に補筆しただけのようだが、分量が増したのか、何承天版を分割したのか。符瑞志のように沈約の新設した志が他にあったのかもしれない。

 次に「続馬彪漢志」について。訳文で取ってみたように、「司馬彪を継承する」というのは「後漢以後の三国から叙述を起こし、魏晋を含めた内容とする」意味だと解しておきたい。何承天のこの方針は沈約志序の次の一節からもうかがえる。

天文志、五行志は司馬彪以後、記録がない。何承天の志は黄初のはじめから、徐爰の志は義煕のはじめから記述がはじまっている。魏を漢に接続させるにあたり、何承天に従うこととする。(天文、五行、自馬彪以後、無復記録。何書自黄初之始、徐志肇義煕之元。今以魏接漢、式遵何氏。)

 何承天がこういう方針を採ったのは、沈約が言うように司馬彪以降はまとまった志がないからかもしれないし、彼なりにポリシーがあったのかもしれないし、また、そもそも文帝の時点では宋のことだけで書くとたいした分量にならないからいっそ魏晋まで含めて内容をふくらませたのかもしれない。
 沈約の志を見ると、天文五行だけでなく、すべての志で魏晋が範囲になっているので、「以魏接漢式遵何書」というのは、沈約の志全体の編纂方針でもあったようだ。

 と、わからないことが多いのだが、沈約があえて徐爰版でなく何承天版を採っていることからも、沈約の志は何承天版に強い影響を受けている。それに、根拠なしだが、徐爰版もおおよその記述内容は何承天版を継承しているんじゃないか。ようするに、何承天版の両版への影響力はとてつもなく大きいと思う。記述内容の比較もしようがないが、沈約版のいくつかは何承天版を継承しただけのものがあるかもしれない。

何承天と徐爰の間
 沈約は自序で触れていないが、文帝期に何承天のあとを継いだ者がいる。裴松之である。曽孫にあたる裴子野の『宋略』総論に次のようにある[5]

私の曽祖父で、宋の中大夫、西郷侯〔裴松之のこと〕は、文帝の元嘉13年に詔を受けて起居注を編集した。同16年、また詔を受けて何承天の宋書を引き継いで編集することになったが、その年に在官のまま没したため、著述できなかった[6](子野曽祖、宋中大夫、西郷侯、以文帝十三年受詔撰起居注。十六年、重被詔続成何承天宋書、其年終于位、書則未遑述作。)

 沈約の自序に裴松之への言及がないのは、彼自身の文章がないからであろうか。

 山謙之は沈約『宋書』に「史学生」「学士」とも出てくる人物だが、他の詳細は不明。蘇宝生は沈約『宋書』の王僧達伝に附伝があるが、宋書編纂のことについては触れられていない[7]

 さて、『宋略』総論には裴松之が「続成何承天宋書」を命じられたとあり、このあと見ていく『宋書』徐爰伝にも何承天以来の国史編纂を「踵成」させたという表現が見えている。
 つまり、これまで挙げた人物たちは、その都度に国史の宋書を編纂しているのではなく、前任者がまとめたもの(何承天版)に継ぎ足ししていくような方式で国史を整理していったのではないかと思われる。何承天や蘇宝生が個別の志や伝の撰述者として伝えられているのは、このような編纂形式に起因しているのだろう。こうしたやりかたは後漢の『東観漢記』にも似ている(呉樹平『東観漢記校注』中華書局、2008年、序pp. 1-3)

 ここからしばらく脇道。
 沈約の自序に蘇宝生は「元嘉名臣」を作成したとあった。『史通』古今正史だと「勅南台侍御史蘇宝生続造諸伝、元嘉名臣皆其所撰」とあり、彼は「諸伝」作成の引継ぎを命じられたと記されている。
 彼の仕事はあくまで伝であって、紀(文帝紀)にはなかったのだろうか。
 振り返ってみると、沈約の自序にも何承天は「武帝功臣」まで叙述したと記されている。「紀伝」を立てたともあるので、武帝紀ももちろんつくったのだろうが、やはりここでも何承天の仕事の力点が伝のほうに置かれているような表現となっている。
 これは当時の著作の仕事と関係があっての表現だと思われる。
 まず、どうして紀への言及がないのかというと、すでにタネとなる記録がすでに作成されているからでないか。そう、起居注である。起居注がそのまま紀になることはないだろうが、だいたいの記録も形式も整えられている。
 それに対し、伝はゼロから文書を集めたり聞き取りしたりして、記録を整理していかねばならなかったであろう。伝を作成するとはこうした作業をこなすことに違いない。そして文書の散逸や証言の埋没を防ぐためにも、この作業は一定期間ごとに継続的に続けていくことが求められる[8]

 宋のこのやり方は、晋とはやや違っていたようである。
 晋の国史編纂といえば、唐修『晋書』賈謐伝に記されている上限の議論[9]が比較的知られていようが、それ以外だと干宝や徐広が国史編纂を担当したとか(両者の『晋紀』はその成果である)[10]、そういう感じの話が伝わっているくらいで、いまいちつかみにくい。
 しかし、まさに干宝や徐広の話から伝わってくるように、晋における国史の編纂は一定期間の記録をその都度に集成するものであって、以前の国史担当が作成した国史に継ぎ足すわけではなかったようである。その結果、複数の国史(晋紀)が存在するままで、一つにまとまった晋史がないという沈約が自序で述べたような事態を招いてしまったようだ。
 さらに、晋の国史編纂者には伝のタネもすでに提供されていた可能性が高い。沈約『宋書』百官志によれば、晋の佐著作郎は就任時に名臣伝を作成することが課せられていたという拙訳注参照、注 [24] のあたり)。徐広らはこれらを利用できたはずだ。起居注と名臣伝を整理・総合して数代の帝紀を(編年体で)まとめるのが晋の国史担当者の仕事だったのでないか。こうした事情から、干宝や徐広はそれぞれが作成した国史(晋紀)の編纂者として名が伝わることになったと思われる。
 百官志によれば、著作の名臣伝の慣習は劉宋以降、廃れてしまったという。劉宋の国史担当者の仕事が伝の作成に置かれてしまったのは、タネとなる伝がなかったことに由っているのでないだろうか。

 また、宋と晋では叙述の形式も違っていた。宋は紀伝体で、晋は――西晋の国史は不明だが――編年体である。東晋の国史が編年体なのは最初の編纂者・干宝がそれを採ったのが受け継がれているからだろうか(なお、この当時の編年体は紀に伝を挿入する形式であったと思われるので、編年体だからといって伝を作成する作業が不要なわけではない)。

 晋、とりわけ東晋の国史は関連する記録こそあまり残っていないが、宋の国史と比較することでさまざまな特徴が見えてくるかもしれない。そういったことはまたの機会に。

徐爰
『宋書』巻94恩倖伝・徐爰伝

これ以前の元嘉年間、著作郎の何承天に国史をはじめてつくらせた。孝武帝のはじめ、また奉朝請の山謙之、南台侍御史の蘇宝生に引き継がせた。大明6年、徐爰に著作郎を兼任させ、国史の事業を完成させるよう命じた。徐爰はそれまでにできあがったものを受け継ぎつつも、独自に一家の書物をつくりあげた。(先是元嘉中、使著作郎何承天草創国史。世祖初、又使奉朝請山謙之、南台御史蘇宝生踵成之。六年、又以爰領著作郎、使終其業。爰雖因前作、而専為一家之書。)

 徐爰の宋書は沈約本の藍本であるとの指摘がなされている(趙翼『廿二史箚記』巻9「宋書多徐爰旧本」。また邱敏『六朝史学』南京出版社、2003年、pp. 88-89も参照)
 散逸した宋史のなかでも比較的佚文が残っているほうで、『芸文類聚』『太平御覧』にいくつか見えている。両書はともに『修文殿御覧』が資料源であるらしいので[11]、北斉当時によく流通していたのだろう。
 沈約の自序にあったように、臧質、魯爽、王僧達の伝は孝武帝の御撰だが、これらは劉知幾に言わせると「序事多虚、難以取信」(『史通』古今正史)だったそうだ。
 ほか、多少の特徴をここでまとめてみたい。

 隋志によると全65巻。詳しい構成はわからないが、基本的には何承天版以来の宋書を継いでいるであろう。まあ、その何承天版がさっぱりわからないんですけどね。
 徐爰は編纂にあたり、上表して三つの議題を提起している。(1)義煕を王業の始まりとし、ここを功臣の区切りとしたい(起元義熙、為王業之始、載序宣力、為功臣之断)、(2)桓玄伝を削除したい(其偽玄篡竊、同於新莽、雖霊武克殄、自詳之晋録)、(3)禅譲前に劉裕に逆らうなどして滅んだ者たちも国史に収めたい(及犯命干紀、受戮覇朝、雖揖禅之前、皆著之宋策)
 結論から言うと(1)と(3)は認可され、(2)は孝武帝に却下された。(3)から順に考察を加えてみよう。

 (3)についての議論は徐爰伝に記録されていないので、何承天版ではどうだったのか等々、詳細は知りえない。ただ、ここで思い出されるのは沈約が自序で、削除した列伝に劉毅らを挙げていたことである。自序で挙げられていた人物だと、劉毅、諸葛長民、謝混、郗僧施が(3)に該当するだろうか。捉え方によっては、沈約に「晋賊」と判断された魯宗之らも含まれるかもしれない。徐爰が入れたいと要望したこれらの者たちは、この時点では公認されたものの、最終的に沈約に除外されてしまったことになる。

 次に(2)。徐爰は、桓玄は王莽と同じようなもんだから晋の史書に書けばよくね、と理由を述べている。対して孝武帝は「項羽も更始帝も漢の史書に入っているから平気やろ」と返し、「桓玄伝は入れるべきだ」と判断を示した。論点がたがいに噛み合ってない気がするが、孝武帝は(3)も認可しているので、劉裕がぶっ倒したやつは全員宋史にぶち込んでしまえという考えだったのかもしれない。まあ、結局沈約が外してしまうんですけどね。

 唯一、関連記述が残っているのが(1)である。徐爰伝より引用。

太宰の江夏王義恭ら三十五人は徐爰の議に賛同し、義煕元年を区切りにするのが良いとした。散騎常侍の巴陵王休若、尚書金部郎の檀道鸞は元興3年を主張し、太学博士の虞龢は開国を宋公元年にするのが適当だと論じた。(太宰江夏王義恭等三十五人同爰議、宣以義煕元年為断。散騎常侍巴陵王休若、尚書金部郎檀道鸞二人謂宜以元興三年為始。太学博士虞龢謂宜以開国為宋公元年。)

 断限の話は何を言っているのかよくわかんないのだが、想像をまじえつつ事情を考えてみる。

 元興3年は桓玄打倒の起義の年(404年)、義煕元年は東晋の天子が建康に戻り、劉裕が朝廷の実権を握った年(405年)、「開国」はおそらく義煕12年に劉裕が宋公に封じられた年(416年)を指しているのだろうか。これ以前だと義煕2年に豫章郡公に封じられているが、たぶんこれじゃないだろう。
 西晋での争点も踏まえて考えてみると、断限の議論で問題とされているのは「どこからの人物を自朝の人間に数えるか/数えないか」だと思われる。創業の紀の記述がはじまる年ではないはず。宋公元年や義煕元年をはじまりとするからといって、武帝紀に起義をまったく記さないなんてことは現実的でない。元興3年であっても、それ以前の劉牢之時代を記述しないのはやはりおかしいだろう。
 そう仮定してみると、虞龢の主張はわかりやすい。ようするに、元興3年の起義に参加しただけでは宋の人間にカウントしないというのだろう。なので、何無忌のような人物も外されることになろう。そりゃあ、まったく賛同者はいないでしょうね。劉裕の片腕で禅譲前に没した劉穆之という者がいたけれど、劉穆之伝によれば劉裕は即位後、「佐命元勲」を思い、その一人として穆之を追贈したと記されている。『晋書』の何無忌伝や魏詠之伝にもやはり追贈の詔が載っているので、彼らも劉裕から「佐命元勲」に数えられていた可能性が高いはずだ。そういう人物たちを外すのは宋朝として抵抗があるんでないか。そういうふうに想像していってみると、何無忌伝とかは何承天版からすでにあったはずで、彼らの伝を設けること自体は徐爰版当時でもまったく疑問視されていなかっただろう。
 しかし、虞龢の主張に近い基準をもっている人物が一人いる。沈約だ。もちろん、沈約は義煕元年を起点にしていると自序で述べているが、一方で彼は何無忌ら宋公封建以前に没した人物たちを伝から外してしまっているし、沈約版で生き残った武帝功臣たちはおおむね義煕12年の宋建国まで存命している。こういう文脈からすると、虞龢は時代を先取りしすぎてしまっていたようだ。

 つづいて義煕元年と元興3年であるが、両者の違いが私には正直よくわからない。いや、シンボル的な意味がぜんぜん違うのはわかるのだが、どっちを採っても実際の作業上で何らか変化は起こらないのでは・・・? どちらの基準でもはじきだされるのは劉牢之だが、どちらかでしかカウントされない人物はたぶんいないのでは?
 で、実際の作業でどういう変化がありうるかをしいて考えてみるに、沈約の志序に「徐爰の志は義煕のはじめから記述がはじまっている(徐志肇義煕之元)」とあったのに着目してみよう。義煕元年を宋のはじまりとすることで、徐爰は何承天版から魏晋時代の記述を削った。義煕元年の劉裕執権以降が宋の歴史だからである。人物の紀伝と違い、志であれば思い切って区切れるだろう。元興3年と義煕元年の差異は、志であればハッキリするのではないか。もちろん、両主張は志をどこからはじめるかを争っているのでないが。

 両者のシンボル性としては、志も含めた国史全体の統一性の点では義煕元年がわかりやすく思うし、「物語のはじまり」にふさわしいと感じる。元興3年は「チュートリアル」って感じですね。義煕元年のが賛同者圧倒的だし、やっぱりみんなそう思ったんじゃないの? 知らんけど。
 ともかく最終的には義煕元年が採用され、それに合わせて伝の基準が見直されたり、志の記述が削られていったのだろうと思われる。

 だがしかし! 沈約はここでも徐爰をそのまま継いだりしていない。前述したように、志は何承天版の方針に従っているし、伝は義煕元年はじまりを自称しているが、実際には虞龢に近い観点をもって編集している。何承天もどうして曹魏から志をはじめたのか知る由がないが、沈約はどういう意図とか統一性をもっていたのでしょうね。宋の国史に魏晋を記録した志を収録するって変だと思いますが・・・。宋では置かれなくなった、という官の記述すらあるからね。

 まとめてみると、徐爰は編纂に当たって3つの修正案を要請し、以下の裁可を得た。(1’)義煕元年をはじまりとする(2’)桓玄伝は削除せずに収録する(3’)劉裕即位前に劉裕に滅ぼされた者たちも収録する。
 しかしこの三つの決定は、沈約によってほぼ覆されたことになる。
 仮にだが、徐爰の(2)(3)の提案は何承天版ではそうではないから求めているのだとしたら――何承天版では桓玄伝が立てられていたし、劉毅らの伝がないのだとしたら。桓玄伝の有無こそあるが、だいたいの編集方針の点で、沈約版は徐爰版よりも何承天版に近いと言えないだろうか。

王智深
 斉の王智深には『宋紀』という著作がある。隋志に記録はないが、『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志にそれぞれ30巻で記録がある。
 『南斉書』巻52文学伝・王智深伝によると、彼は斉の武帝から勅命を受けて『宋紀』を著している。完成したので召されたが、武帝が崩じて献上できず、しばらく放置されたのちに秘書に入れられたそうだ[12]。武帝は沈約にも宋書の編纂を命じていたが、王智深への勅命は沈約完成のあとだろうか。王智深のは編年体だから、武帝は宋史を紀伝体と編年体それぞれで作成させたのだね。マニアだなあ。
 王智深『宋紀』は宋朝の国史編纂事業の延長上にあるものかは不明だが、あの武帝からの命令でまったく無関係ではなかったかもしれないし、とりあえず国史の側に分けておいた。
 章宗源『隋書経籍志考証』で12条(『水経注』2条『初学記』6条『太平御覧』4条)、王仁俊『玉函山房輯佚書補編』に1条、佚文が挙げられている。章宗源の見逃しとしては、『初学記』巻27宝器部・芙蓉に引かれている1条があるが、これは他と違って「宋紀」と書名しか書かれておらず、王智深の名がないため、挙げなかったのかもしれない。『太平御覧』巻1000百卉部7苔に引く「王智深宋記」も挙げられていないが、この佚文は章宗源も挙げている『初学記』宝器部・苔に引く1条と同内容である。

***
野史
孫沖之
『史通』古今正史

何承天ののち、文帝は裴松之に国史編纂の引継ぎを命じたが、松之はまもなく没してしまった。史佐の孫沖之が、国史とは別に自分で宋史をつくりたいと上表し、(許可を得て)一家の書を仕上げた。・・・大明6年、孝武帝は著作郎の徐爰に国史編纂の引継ぎを命じた。徐爰は何承天、孫沖之、山謙之、蘇宝生の著述を受け継ぎつつ、まとめあげて一家の書を完成させた。(後又命裴松之続成国史、松之尋卒。史佐孫冲〔ママ〕之表求別自創立、為一家之言。・・・六年、又命著作郎徐爰踵成前作。爰因何孫山蘇所述、勒為一書。)

 孫沖之は沈約『宋書』にやや記述があり[13]、かの孫盛の曽孫であるらしいが、史書編纂のことは触れられていない。
 『史通』のこの書き方からすると、国史とは別個に個人的につくったものだろうと思われるので、野史に分類した。徐爰版にネタ提供しているというのに、沈約が自序で触れないのは国史でないからなのだろう(沈約は国史の歴史しか概述していない)。隋志にも記録がないので、徐爰版に吸収されてしまったのだろうか。
 しかし、劉知幾はいったい孫沖之のことをどこから知ったのだろう。沈約は自序でも列伝でも言及していないし、現物も残っていなかった可能性が高いというのに。徐爰版の自序みたいのがあって、そこで述べられていたのだろうか。

その他いろいろ
 ほかはロクな記録がないので、隋志、『旧唐書』経籍志(旧唐)、『新唐書』芸文志(新唐)から列記する。


撰者『書名』隋志旧唐新唐備考
孫厳『宋書』65巻46巻58巻斉冠軍録事参軍(隋志)
佚氏名『宋書』61巻宋大明年間撰。隋志時点で亡(隋志沈約宋書条原注)
王琰『宋春秋』20巻20巻梁呉興令(隋志)
鮑衡卿『宋春秋』20巻20巻


 新唐書には「王智深『宋書』三十巻」の記録があるが、これは同名著者の『宋紀』の誤りだろう。
 孫厳は孫沖之と同一人物なんじゃないかと疑っていたことがあり、実際そういう学説があるそうだが(邱敏『六朝史学』、pp. 89-90)、そう性急に判断するのはやめておくのがよいだろう(邱氏前掲書p. 90)
 佚氏名『宋書』は徐爰とほぼ同時期のもので、巻数も似ているが、材料がないのでどうしようもない。
 王琰『宋春秋』は『太平御覧』とかで佚文をちょくちょく見かける。鮑衡卿は梁の鮑行卿、鮑客卿兄弟(『南史』巻62鮑泉伝)との関係が推測されている(邱氏前掲書pp. 139-140)

 以上の志には記録がないが、南斉の劉祥にも『宋書』があったらしい。『南斉書』巻36劉祥伝「撰宋書、譏斥禅代、尚書令王倹密以啓聞、上銜而不問」とある。邱氏は、劉祥が宋斉革命に批判的であったのは、彼が劉穆之の曽孫であったことと関係があるのだろうと推測している(邱氏前掲書p. 90)

裴子野
『宋略』総論(『建康実録』引)

私の曽祖父で、宋の中大夫、西郷侯は、文帝の元嘉13年に詔を受けて起居注を編集した。同16年、また詔を受けて何承天の宋書を引き継いで編集することになったが、その年に在官のまま没したため、著述できなかった。斉が起こってから十数年、宋の新しい史書〔沈約の宋書だろう〕がすでに流通している。私は泰始の末に生まれ、永明年間を過ごした。家には古い書物があり、見聞がたがいに結びつき、どんなことでも収集した(?)。宋の新しい史書に即しつつ、『宋略』20巻をつくった。(子野曽祖、宋中大夫、西郷侯、以文帝十三年受詔撰起居注。十六年、重被詔続成何承天宋書、其年終于位、書則未遑述作。斉興後十余年、宋之新史、既行於世。子野生乎太始之季、長於永明之間、家有旧書、聞見交接、是以不量深浅、因宋之新史、以為宋略二十巻。)

『梁書』裴子野伝

はじめ、裴子野の曽祖父の松之は宋の元嘉年間に詔を受けて、何承天の宋史の引継ぎを命じられたが、遂げられずに没した。そこで子野はいつも松之の未完の仕事を受け継ぎ、完成させたいと思っていた。斉の永明の末、沈約の『宋書』はすでに世に出回っていたが、子野は内容をコンパクトにまとめ、『宋略』20巻を編纂した。優れた叙述や評論が多く、沈約がこれを見ると、「私には書けない書物だ」と嘆息した。(初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒。子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其叙事評論多善、約見而歎曰、吾弗逮也。)

 沈約以外でもっともよく知られている宋史かもしれない。詳しい話は別記事『建康実録』の東晋巻についてでつづったつもりなので、そちらを参照。
 「削った(刪)」とあるが、沈約のダイジェスト版ということなのか、沈約(紀伝で70巻)よりも短い分量でまとめたということなのか、判然としない。たぶん後者の意味あいだと思うが。
 劉知幾は裴子野伝のエピソードをもって、沈約より裴子野のが上等と断ずるが、そもそも彼は沈約そのものを嫌っているので、そういう評価を真に受けるのはよくないと思います。

***
 以上、それぞれの宋史について簡単にまとめてみた。
 沈約はだいたい現存しているが、ほかは断片的にもほとんど伝わっておらず、後漢史や晋史のような輯佚もほぼされていない(はず)。
 というなかで宋史の歴史をまとめてみたのは、沈約『宋書』における時間的な堆積をちょっと強調してみたかったからである。
 先行書物から記述材料を採ることは当たり前だろうが、沈約の場合、多く依っている資料が宋朝で編纂されていた国史だという点に注意しなければならない。沈約が全体に手を加えているであろうが、良くも悪くも同時代資料の集積と言える部分があるのでないか。沈約の認識というものを抽出するにはそこそこの手続きが必要になるし[14]、何承天・徐爰以降アップデートされていないままの情報もあるかもしれない。

 例えば百官志を考えてみよう。百官志でもっとも不思議なところは、宋史の志であるはずなのに、宋の情報が意外に少ないことだ。劉宋の情報だけで構成しようとすれば、蕭子顕『南斉書』の百官志くらいの分量になるだろう。
 また、沈約の同時代、『斉職儀』という官職の歴史を集成した書物があったが[15]、沈約の百官志にはこれを参照した形跡があまりないように見受けられる。『斉職儀』は斉の永明9年に秘書に入れられているので、沈約が志を編纂している時期にあたる。参照できなかったとは思えないし、情報源としても価値はあったと思うが。それに『斉職儀』は官職の通史であったと考えられるので、魏晋以降の通史的叙述をめざす沈約にとってはちょうどよい手本だったはずだが。
 ひょっとしてだが、百官志は何承天版に多少の情報を加えたのみで完成させたのではないか。『斉職儀』のような書物を参照して、何承天版を大幅に書き換えるなんて作業をしなかったのではないか。沈約の志が成ったのは梁初だとしても(中華書局校点本p. 2参照)、そこの情報はヨリ古いものと見なす必要がでてこないか。まあでも、この想像はちょっとやりすぎかもしれない[16]

 もう一つ気になるのが、唐修『晋書』職官志との関係である。唐修『晋書』の志は沈約の志と重複していて無用との見解もあるが(内藤湖南『支那史学史』、全集11巻、p. 156)、百官志・職官志だけに限ればそうとも言えない。
 たしかに内容的な重複どころか、字句の重複まで見られるが、『晋書』のほうは晋の記録に細かいし、『晋書』と『宋書』で同じ資料から引用していると思われる箇所についても、『晋書』のほうが長く引用されている場合がある。唐の史官が沈約『宋書』を参考に可能性はあるだろうが、しかし比重は別の資料に置かれているように思われる。つまり、唐修『晋書』職官志と沈約『宋書』百官志とは直接的には異なる系譜をもっており、例えば前者は臧栄緒で後者は何承天が直接的な継承関係、といったところでないか。
 ここでまた想定しなければならないのは、じゃあ臧栄緒はどのあたりの資料を参考に志をまとめたと考えうるか、ということだ。沈約の自序にあったように、晋史で江右と江左を統合した書物は晋滅亡後も書かれていなかった。宋末に成ったであろう臧栄緒の『晋書』が唐にいたっても重んじられたのは、東西の晋史をまとめたからである。なので、臧栄緒『晋書』は多くの部分で彼自身の編集が加わっていると思われる。
 どうして臧栄緒の成り立ちなどを取り上げるかというと、ある想定を念頭に置く必要があると思うからである。仮に唐修『晋書』の職官志が臧栄緒『晋書』をだいたいの形で継承したものであったとすれば、唐職官志に多く見える傅暢『晋公卿礼秩』、荀綽『晋百官表注』を参照した形跡は、臧栄緒の編集によるものだったことになる。ここでさらに、臧栄緒の参考文献に何承天の百官志を加えることはできないか。
 先に挙げた2書は西晋までを範囲としている。しかし唐職官志と沈約の百官志は東晋の記述においても重複が見られる。これは両志が東晋以降の資料を部分的に共有しているからだと思われるが、その共有部分こそ何承天であったりしないか。沈約が何承天の志を高く評価しているのは、志序で述べられていたように、魏晋をまとめて叙述した志がほかにないからだ。まして晋は東西を統合した歴史叙述すらない。そうした状況は臧栄緒においても変わらなかったはずである。何承天の志をベースとしつつ、『晋公卿礼秩』『晋百官表注』『晋令』などの資料で増補していったのでないか。
 ここで逆の想定、沈約が臧栄緒を参照して百官志を編集した、と考えるのは難しいと思う。宋の国史でありかつ沈約の意向に沿う通史的な何承天と、晋一代の臧栄緒とでは、前者を優先するのが当然だろう。
 すごくゴチャゴチャとしてしまったのは、まだ情報やら想定やらを整理できていないからなのですんません。

 まあ、以上のような想像は「こういうのを念頭に検討してみたいです」って表明みたいなもんです。前段階の作業として今回のまとめをしてみた。何承天、徐爰、唐修『晋書』、臧栄緒『晋書』、『斉職儀』、ここでは言及できなかった史部職官類の零細史籍等々、いろいろ洗ってみないといけないですね。しかし、こうして記述の起源をたどっていく的な作業ってどんだけ意味があるのかとも思うので、あんまり不毛にならない程度にしておきたいですね。



――注――

[1]原文は「王役」なので戦争関連のことだと思うが、南斉のことはよく知らないのでわからない。永明4年の唐宇之の乱?[上に戻る]

[2]原文「馬魯之徒」。義煕11年に結託して劉裕討伐の兵を挙げた荊州刺史・司馬休之と雍州刺史・魯宗之を指すと考えられる。二人は劉裕に敗れたあと、北に亡命。魯宗之の孫は魯爽といい、北朝育ちで、太武帝に仕えていた。のちに劉宋に奔り、劉宋孝武帝のとき、劉義宣、臧質と挙兵する計画を立てていたが、いろいろあって計画は失敗し、斬られた。[上に戻る]

[3]謝混、郗僧施は劉毅と仲が良かったらしい。建康にいた謝混は義煕8年に劉裕によって誅殺されたが、これは劉毅の挙兵を予測して事前に殺害したものと記述されている。郗僧施は劉毅とともに江陵で挙兵したが、劉裕が江陵を陥落させたさいに劉毅ともども誅殺したようである(どちらも宋書武帝紀など参照)。呉隠之は広州で盧循にボコボコにされたやつ以上のことをぶっちゃけ知らないのだけど、東晋末に清廉で鳴らした人物らしい(『晋書』巻90良吏伝・呉隠之伝)。劉裕とも多少やり取りがあったようだ。義煕9年没なので、彼の事跡はあくまで晋史に入れるべき、ということだろう。[上に戻る]

[4]ここに挙がっている人物は、前代までの宋書では立伝されていたとのことだが、「劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民」のグループは唐修『晋書』巻85にほぼそのままのメンツで固められており、もしかすると唐の史官が編纂時に徐爰版などからそのまま転載したのではないかと疑っているが、確証はない。他の人物は魯宗之を除き、唐修『晋書』に伝が立てられているが(郗僧施は郗超伝末尾に小さい附伝があるだけだが)、それらと沈約以前の宋書の伝との関係は検証していないので不明。魯宗之は沈約宋書の魯爽伝冒頭に記述がある(爽は宗之の孫)。[上に戻る]

[5]『宋略』については本ブログ別記事を参照『建康実録』の東晋巻について。総論は『建康実録』巻14末尾から引用した。『建康実録』は張忱石氏の校訂本(中華書局、1986年)を使用した。本来は、総論の引用は蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)からのが望ましいのだが、自宅のどこかに埋もれてしまって発掘するのがめんどうなので、『建康実録』からで勘弁してほしい。ほか、裴松之の国史編纂にかんする記述を挙げておく。『宋書』巻64裴松之伝「続何承天国史、未及撰述、二十八年、卒」、『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒」、『史通』外篇・古今正史「後又命裴松之続成国史、松之尋卒」。[上に戻る]

[6]『宋書』裴松之伝によると、松之は元嘉28年に没している。それに元嘉16年といえば、何承天が編纂を命じられた年なのだが・・・。記憶違いか何かかな?[上に戻る]

[7]『宋書』王僧達伝「蘇宝者、名宝生、本寒門、有文義之美。元嘉中立国子学、為毛詩助教、為太祖所知、官至南台侍御史、江寧令。坐知高闍反不即啓聞、与闍共伏誅」。[上に戻る]

[8]『史通』外篇・史官建置には次のような記述も見える。「かつては、佐郎が広く収集し、著作郎が伝の文章を作成し、両者に誤りがあった場合は秘書監がその問題にあたっていた(?)(旧事、佐郎職知博採、正郎資以草伝、如正佐有失、則秘監職思其憂)」。[上に戻る]

[9]『晋書』巻40賈充伝附謐伝「賈謐は(喪のため官から去っていたが)家から起って秘書監に就き、国史を担当することとなった。以前より、朝廷では晋書の(はじまりの)区切りが議論されていた。中書監の荀勖は魏の正始を起年に主張し、著作郎の王瓚は嘉平年間以降の朝臣もみな晋の史書に入れたいと論じた。そのときはどちらかに決められなかった。恵帝が即位すると、再度議論されることとなった。賈謐は議を奏上し、泰始を区切りにしたいと要望した。議題は三府に下され、審議された。司徒の王戎、司空の張華、領軍将軍の王衍、侍中の楽広、黄門侍郎の嵇紹、国子博士の謝衡は賈謐の提案に賛同した。騎都尉、済北侯の荀畯、侍中の荀藩、黄門侍郎の華混は正始、博士の荀熙と刁協は嘉平を主張した。賈謐ははもう一度、王戎と張華の議を奏上した。こうして賈謐の議のとおり、泰始が採用された(起為秘書監、掌国史。先是、朝廷議立晋書限断、中書監荀勖謂宜以魏正始起年、著作郎王瓚欲引嘉平已下朝臣尽入晋史、于時依違未有所決。恵帝立、更使議之。謐上議、請従泰始為断。於是事下三府、司徒王戎、司空張華、領軍将軍王衍、侍中楽広、黄門侍郎嵇紹、国子博士謝衡皆従謐議。騎都尉済北侯荀畯、侍中荀藩、黄門侍郎華混以為宜用正始開元。博士荀熙、刁協謂宜嘉平起年。謐重執奏戎華之議、事遂施行)」。[上に戻る]

[10]『晋書』巻82干宝伝「晋が中興したさい、まだ史官が置かれていなかった。そこで中書監の王導が上疏して述べた。『そもそも帝王の事跡は必ず書かれねばならず、記録して法典とし、これを無窮に伝えていくものです。宣皇帝は四海を平定し、武皇帝は魏から受禅しました。両帝の至高の徳、偉大な勲功は、上古の聖人に等しいですが、その紀伝は王府になく、両帝を称える徳音はまだ管弦で演奏されておりません。聖明なる陛下は、中興という隆盛の時期にあたっております。まさしく国史をつくり、帝紀を編集し、上は祖宗の功績を述べ伝え、下は功臣の勲功を記録すべきです。事実の記録に腐心することで、後世の手本となり、かつ天下の希望に従い、かつ人と神の心を満足させることとなり、これらこそ天下が落ち着くという非常な麗しさ、王者のおおいなる基盤と言えましょう。史官を設け、佐著作郎の干宝らに命じ、国史を漸次編纂させるのがよろしいかと存じます』。元帝は聞き入れた。干宝はこうしてはじめて国史を担当することになった。・・・『晋紀』を著し、宣帝から愍帝まで53年、全20巻、これを奏した(中興草創、未置史官、中書監王導上疏曰、『夫帝王之迹、莫不必書、著為令典、垂之無窮。宣皇帝廓定四海、武皇帝受禅於魏、至徳大勳、等蹤上聖、而紀伝不存於王府、徳音未被乎管絃。陛下聖明、当中興之盛、宜建立国史、撰集帝紀、上敷祖宗之烈、下紀佐命之勲、務以実録、為後代之準、厭率土之望、悦人神之心、斯誠雍熙之至美、王者之弘基也。宜備史官、勅佐著作郎干宝等漸就撰集』。元帝納焉。宝於是始領国史。・・・著晋紀、自宣帝迄于愍帝五十三年、凡二十卷、奏之)」。
 『宋書』巻55徐広伝「義煕2年、尚書が上奏した。『左史は帝王の発言を記録し、右史は時事を記録する、と伝えられています。乗は晋で、志は鄭で編纂され、春秋は魯の歴史を記しました。わが朝が起こり、晋の祭祀を中興させて以来、道徳的な風流(?)や帝王の記録(?)は、国史に明らかとされております。ですが現在、太和から三朝(三代)を経ており、その玄妙なる風流と聖なる事跡は、たちまちに過去の出来事となってしまうものです(のに、まだ記録がされておりません)。臣らが考えますに、著作郎の徐広が国史の編纂に適当かと存じます』。 詔が下った。『先代の輝かしい徳はまだ記録されていない。遠い先までこの様子を伝え、後世に久しく継いでいくべきだろう』。こうして編纂を命じられた。・・・12年、『晋紀』全46巻が完成し、上表して献上した(二年、尚書奏曰、『臣聞左史述言、右官書事、乗志顕於晋鄭、陽秋著乎魯史。自皇代有造、中興晋祀、道風帝典、煥乎史策。而太和以降、世歴三朝、玄風聖迹、倏為疇古。臣等参詳、宜勅著作郎徐広撰成国史』。詔曰、『先朝至徳光被、未著方策、宜流風緬代、永貽将来者也』。便勅撰集。・・・十二年、晋紀成、凡四十六巻、表上之)」。[上に戻る]

[11]勝村哲也「修文殿御覧巻第三百一香部の復元――森鹿三氏「修文殿御覧について」を手掛りとして」(『日本仏教学会年報』38、1973年)、同氏「『修文殿御覧』新考」(『森鹿三博士頌寿記念論文集』同朋舎、1977年)。[上に戻る]

[12]『南斉書』王智深伝「勅智深撰宋紀、召見芙蓉堂、賜衣服、給宅。智深告貧於豫章王、王曰、『須卿書成、当相論以禄』。書成三十巻、世祖後召見智深於璿明殿、令拝表奏上。表未奏而世祖崩。隆昌元年、勅索其書、智深遷為竟陵王司徒参軍」。[上に戻る]

[13]『宋書』巻74臧質伝「沖之、太原中都人、晋秘書監盛曽孫也。官至右軍将軍、巴東太守。後事在鄧琬伝」。[上に戻る]

[14]思い返すと、川合安先生の議論はこういう問題に抵触しないよう構成されていたはずで(「史臣曰」条を核にするとか)、やっぱりスゲェって思いました。。。[上に戻る]

[15]『斉職儀』は歴代の官職の歴史を叙述した書物で、王珪之が宋・後廃帝から勅命を受けて編纂を開始し、斉の永明9年に秘書に入れられた。本ブログの記事「太宰ってさあ・・・」も参照。[上に戻る]

[16]『南斉書』百官志・州牧刺史の条で、州都督の起源を記述するに、「何徐志云起魏武遣諸州将督軍」と何承天&徐爰の志での説明を紹介している。沈約の百官志ではどうなっているかというと、「持節都督・・・建安中、魏武帝為相、始遣大将軍督軍。・・・魏文帝黄初二年、始置都督諸州軍事、或領刺史」あたりが関連部分だろうか。これを見るかぎりでは、州都督の起源は魏文帝ということになっている。残念ながら蕭子顕は何承天&徐爰を引用しているわけではないので、確実な比較にはなりにくい。例えば、実際は沈約と同じ記述が何承天&徐爰の志にもあって、それを見た蕭子顕が「魏武が最初だ!」と読んだのかもしれない。なので、この部分からあーだこーだ言うのはやりにくい。とはいえ、何承天&徐爰と沈約のあいだには記録に相違があるようですね。
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2017年10月9日月曜日

『宋書』百官志訳注(13)――御史台(蘭台)

 御史中丞は一人。不法の弾劾を掌る[1]。秦のとき、御史大夫には丞が二つ置かれたが、一つを御史丞、もう一つを御史中丞と言った[2]。殿中の蘭台には秘書が所蔵されていたが、御史中丞はここに勤務し、外では部刺史を監督して、内では侍御史を統べた。(侍御史は)公卿の奏事〔告発の奏文〕を受けると、弾劾して法のとおりに処置した[3]。当時は御史中丞も奏事を受けていたので、(御史中丞と侍御史とで)職務を分担していたのであろう。成帝の綏和元年、御史大夫を大司空に改称し、長史を置いたが、御史中丞は従来のままとされた。哀帝の建平2年、(大司空は)御史大夫に戻された。元寿2年、大司空に戻された。(このとき)御史中丞は(勤務先を殿中から?)外に出され、(御史大夫に代わって)御史台の主任となり、御史長史と改名された[4]。光武帝のときに御史中丞に戻され、少府の所属となった[5]。献帝のとき、改革で御史大夫と長史一人が置かれたが、(御史大夫が)御史中丞を管轄することはなかった。東漢では、御史中丞が尚書の丞や郎に偶然会うと、御史中丞は車を止め、笏を手にして拱手の礼をおこなうが、尚書丞、郎は車に座ったまま手を挙げて返礼するのみであった。この決まりがいつ廃されたのかはわからない[6]。御史中丞は毎月25日に、行宮の城壁を視察して修繕していた〔原文「繞行宮垣白壁」。「白」を「キレイにする」で取ってみたが・・・〕。史臣が考えるに、漢志〔続漢書〕によると、執金吾は毎月三回、行宮の城壁を視察していたという。おそらく執金吾を廃したさい〔=魏晋のころ〕、この仕事が御史中丞に割り振られたのであろう。御史中丞は秩千石[7]
 治書侍御史は、官品六品以上の弾劾を掌る。漢の宣帝が身体を洗って(宣室で)過ごしながら判決事務を執るとき、御史二人に(傍に控えさせて)文書を作成させた。(のちに)このことにちなんで(この役職を)治書侍御史と言うようになった[8]。東漢では法に明るい者をこの官に就かせ、地方から(中央に)疑事〔判決に悩む案件〕の裁定判断を仰がれたさいには、法を根拠に判決を示した[9]。魏晋以降、侍御史が配属されていた諸曹を分担して管轄することになり、尚書二丞のようになった[10]
 侍御史は、周では柱下史と言う[11]。『周官』に御史が見え、治の法令のことを担当していたが[12]、侍御史もこの職務である。秦は侍御史を置き、漢はこれを継承した。二漢はともに定員十五人であった。不法の弾劾に従事する。公卿の奏事を受けたさいは、違反があったら告発する。五つの曹があった。一つめを令曹といい、律令を担当した。二つめを印曹といい、刻印を担当した。三つめを供曹といい、齋祠〔厳密には「春にものいみしておこなう祭祀」の意っぽいが通じていないので不詳〕を担当した。四つめを尉馬曹といい、官厩の馬を担当した。五つめを乗曹といい、護駕〔天子の車の護衛隊列〕を担当した。魏は御史を八人置いた。(列曹には)度支と運送を担当する治書曹、考課を担当する課第曹があったが、そのほかについてはわからない。西晋には全部で、吏曹、課第曹、直事曹、印曹、中都督曹、外都督曹、媒曹、符節曹、水曹、中塁曹、営軍曹、算曹、法曹の十三曹があったが、御史は九人であった[13]。江左の初め、課第曹を廃した。庫曹を置き、厩牧の牛馬や市税を担当した。のち、庫曹を外左庫曹、内左庫曹に分けた。宋の太祖の元嘉年間、外左庫曹を廃したので、内左庫曹をたんに左庫曹と言うようになった。世祖の大明年間、(外左庫曹を)復置した。廃帝の景和元年にまた廃された。順帝の初め、営軍曹を廃して水曹に、算曹を廃して法曹に、それぞれ統合し、吏曹には御史を置かず、全部で(曹が十なので?)御史を十人とした。
 魏には殿中侍御史が二人いたが、おそらくこれは蘭台が御史二人を殿中に居らせて不法を挙げさせたものであろう。西晋では四人、江左では二人[14]
 秦、漢には符節令がおり、少府に所属し、符璽郎、符節令史を管轄していたが[15]、これらは『周礼』に見える典瑞、掌節の職務である[16]。漢から魏までは(御史台とは)別に台(符節台)を組織しており、位は御史中丞に次いだに位置した[17]。節、銅虎符、竹使符の授与を職掌とした。晋の武帝の泰始9年、符節令を廃して蘭台に統合し、(蘭台に)符節御史を置いて、この職務を担当させた。



――注――

[1]『通典』巻24職官志6御史台「所居之署、漢謂之御史府、亦謂之御史大夫寺、亦謂之憲台。…後漢以来、謂之御史台、亦謂之蘭台寺」。『太平御覧』巻226職官部24御史大夫下引『謝霊運晋書』「漢官、尚書為中台、御史為憲台、謁者為外台、是為三台。自漢罷御史大夫、而憲台猶置、以丞為台主、中丞是也」。[上に戻る]

[2]『通典』巻24中丞「亦謂中丞為御史中執法」。[上に戻る]

[3]『漢書』百官公卿表・御史大夫「有両丞、…一曰中丞、在殿中蘭台、掌図籍秘書、外督部刺史、内領侍御史、員十五人、受公卿奏事、挙劾按章」。本文とほぼ同じなので、本文は『漢書』を参考に作成された可能性が高いと思われる。とすると、本文の侍御史以下の記述「受公卿奏事…」は、『漢書』におけるように、侍御史の職掌についての記述と読むべきである。したがって、訳文のように区切って読んだ。とはいえ、百官志作成者がそのように『漢書』を読んで引用したのかは不明だが。[上に戻る]

[4]『続漢書』志26百官志五・小府・御史中丞には「及御史大夫転為司空、因別留中、為御史台率」とあり、御史台は変わらず宮中に留められたとされている。『三国志』巻13王朗伝附粛伝に「蘭台為外台、秘書為内閣」とあるのを見ると、蘭台は「外」であったとみるのがよいのだろうか。後文に魏の殿中侍御史の条文があるが、そこでわざわざ「蘭台から殿中に派遣させている侍御史」と説明しているのをみると、蘭台自体はやはり「外」にあったのかもね。[上に戻る]

[5]『太平御覧』巻225職官部23御史中丞上引『漢官解詁注』「建武以来、省御史大夫官属、入侍蘭台。蘭台有十五人、特置中丞一人、以惣之。此官得挙非法、其権次尚書」。[上に戻る]

[6]『南斉書』巻16百官志・御史中丞に「宋孝建二年制、中丞与尚書令分道、雖丞郎下朝相値、亦得断之、余内外衆官、皆受停駐」と、御史中丞と尚書令とで優先道路?のようなもの(朝廷への/からの道の途中で他の官と出くわしたりしてもそのままスルーできたりするとかいうやつだろう)が定められ?、御史中丞が尚書丞・郎と出くわしてもそのままスルーできた?っぽいから、漢のしきたりが廃されたのは孝武帝のこのときなんじゃね?とか思うのだけどよくワカラン(よく読めない)。
 この件については、先立つ文帝の元嘉13年に御史中丞の劉式之の議(『宋書』巻15礼志2引)も関係している。長いのでまとめてみると、①法には「中丞は道を専らにする」とあるのみで、「他の官と分ける」とは定められていない、しかし分けたほうが良い。②揚州刺史、丹陽尹、建康令もこの土地の官で、迅速な対応が必要になるからやっぱり道を分けたほうが良いと思うけど、それらの官が行馬内の官に属するのかよくわかんないからそんな特別扱いしちゃって妥当かは自信がない。これに対する回答が、①要望通り中丞は分ける。②行馬内=六門内は州郡県に属さないし、門外の事情を持ち出すのは妥当じゃないんじゃないかな。③ついでだから、尚書令と尚書僕射にも中丞と同じように専道の定めがあったけど、中丞と同じ感じで分けておくね。という文脈で、孝武帝のときの改革があるのでした。(宋書の原文:宋文帝元嘉十三年七月、有司奏、「御史中丞劉式之議、『毎至出行、未知制与何官分道、応有旧科。法唯称中丞専道、伝詔荷信、詔喚衆官、応詔者行、得制令無分別他官之文、既無画然定則、準承有疑。謂皇太子正議東儲、不宜与衆同例、中丞応与分道。揚州刺史、丹陽尹、建康令、並是京輦土地之主、或検校非違、或赴救水火、事応神速、不宜稽駐、亦合分道。又尋六門則為行馬之内、且禁衞非違、並由二衛及領軍、未詳京尹、建康令門内之徒及公事、亦得与中丞分道与不。其准參旧儀、告報參詳所宜分道』。聴如台所上。其六門内、既非州郡県部界、則不合依門外。其尚書令、二僕射所応分道、亦悉与中丞同」)
 なお、揚州刺史なども分ければいいのに~という要望についてだが、『太平御覧』巻225御史大夫上引『魏氏春秋』に「故事、御史中丞与洛陽令、相遇、則分路而行。以土主多逐捕、不欲稽留也」と、劉式之が挙げたのと同じ理由で曹魏の洛陽令は優先されていたようである。[上に戻る]

[7]魏晋、劉宋期の消息について。『通典』中丞「魏のはじめ、中丞を宮正に改称し、鮑勛をこれに就けた。のちに中丞に戻った。晋も漢と同様に中丞を設けた。中丞を蘭台のボスとし、司隷校尉と分担して百官を監督した。皇太子以下、糾弾できない官はいなかった。当初は尚書を弾劾できなかったのだが、のちに可能となった。中丞は行馬の内側での違反者を、司隷校尉は外側での違反者を担当していた。とはいえ、このように内外で区切られていても、どんな官でも告発していたので、実際にはその区別はないようなものである(魏初、改中丞為宮正、挙鮑勛為之、百僚厳憚。後復為中丞。晋亦因漢、以中丞為台主、与司隷分督百僚。自皇太子以下、無所不糾。初不得糾尚書、後亦糾之。中丞専糾行馬内、司隷専糾行馬外。雖制如是、然亦更奏衆官、実無其限」とあり、司隷校尉と補完的な関係にあったらしい。「行馬内」というのは、殿中のことを言うのであろう。
 『通典』のこの記述の参考資料であったと思われる一つが、『晋書』巻47傅玄伝附咸伝の上事である。長い文章なのだが、要点としては、①晋令には「御史中丞は百官を監督し、行馬内では皇太子以下誰でも弾劾でき、外だと弾劾はできないが、奏文は可能である」と定められていること、②といっても、行馬外のことでも拡大解釈的な感じでやっちゃっているが、令の解釈的には「百官を監督する」と定めながら内外の区別を導入しているのは、中丞は内だけ、司隷は外だけと分割させず、双方とも内外に対して一定の権限をもたせ、もって補完させているので、「(内外の)百官を監督する」と記しているのだ、とする(原文はコチラ:按令、御史中丞督司百僚。皇太子以下、其在行馬内、有違法憲者、皆弾糾之。雖在行馬外、而監司不糾、亦得奏之。如令之文、行馬之内有違法憲、謂禁防之事耳。宮内禁防、外司不得而行、故専施中丞。今道路橋梁不修、闘訟屠沽不絶、如此之比、中丞推責州坐、即今所謂行馬内語施於禁防。既云中丞督司百僚矣、何復説行馬之内乎。既云百僚、而不得復説行馬之内者、内外衆官謂之百僚、則通内外矣。司隸所以不復説行馬内外者、禁防之事已於中丞説之故也。中丞、司隸俱糾皇太子以下、則共対司内外矣、不為中丞専司内百僚、司隸専司外百僚。自有中丞、司隸以来、更互奏内外衆官、惟所糾得無内外之限也。)
 東晋だと御史中丞には優秀な名門が就いていたらしいが、しかし当の名門たちにとってはあまり喜べない職であったらしい。多忙だったからとかそんな理由かな? 『通典』中丞「自斉梁皆謂中丞為南司。江左中丞雖亦一時髦彦、然膏粱名士猶不楽」。[上に戻る]

[8]『続漢書』御史中丞・劉昭注に引く胡広「孝宣感路温舒言、秋季後請讞。時帝幸宣室、齋居而決事、令侍御史二人治書、御史起此。後因別置、冠法冠、秩千石、有印綬、与符節郎共平廷尉奏事、罪当軽重」。[上に戻る]

[9]『続漢書』御史中丞・劉昭注引蔡質『漢儀』「選御史高第補之」。[上に戻る]

[10]魏晋期の治書侍御史については、『晋書』巻24職官志から補足しておきたい。まず曹魏では、治書侍御史と同格の官として治書執法が新設された及魏、置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史、掌律令、二官俱置)。だが晋ではすぐ廃されてしまったらしい。「晋のときになると、治書侍御史のみを設け、定員は四人であった。泰始4年、黄沙獄治書侍御史を一人設けた。秩は御史中丞と同じで、詔獄と廷尉が担当しない裁判を職務とした。のちに河南尹と統合され、とうとう黄沙獄治書侍御史は廃止された。太康年間になると、治書侍御史の定員を二人減らした(及晋、唯置治書侍御史、員四人。泰始四年、又置黄沙獄治書侍御史一人、秩与中丞同、掌詔獄及廷尉不当者皆治之。後并河南、遂省黄沙治書侍御史。及太康中、又省治書侍御史二員)」。これ以後、法のエキスパートという漢代の特質も剥落したようで、『続漢書』御史中丞・劉昭注に引く荀綽『晋百官表注』に「恵帝以後、無所平治、備位而已」とある(なお『通典』はこの形骸化を漢桓帝以後としている)。この傾向は劉宋以降も変わらなかったようで、『通典』中丞によれば、劉宋以降も侍御史の統御官という位置づけは有していたが、「自宋斉以来、此官不重、自郎官転持書者、謂之南奔」とある。[上に戻る]

[11]老子が就いていたとされる周の職。[上に戻る]

[12]『周礼』春官・御史「掌邦国都鄙及万民之治令、以賛冢宰。凡治者受灋令焉。掌賛書。凡数従政者」。[上に戻る]

[13]『晋書』職官志に「品同治書」とある。[上に戻る]

[14]このほかの蘭台の官として、『晋書』職官志に「案魏晋官品令又有禁防御史第七品、孝武太元中有検校御史呉琨、則此二職亦蘭台之職也」とある。検校御史については、『通典』巻24職官典6監察侍御史にも見えており、「至晋太元中、始置検校御史、以呉混之為之、掌行馬外事、亦蘭台之職」とあり、「掌行馬外事」の原注に「晋志云、古司隷知行馬外事、晋過江、罷司隷官、故置検校御史、専掌行馬外事」と、行馬外の監察をなしていた司隷校尉に代わって設けられた職であったらしい。ちなみに原注に引く「晋志」は唐修晋書ではないようである。[上に戻る]

[15]『続漢書』百官志五・小府・符節令・本注「為符節台率、主符節事、凡遣使掌授節」。属官として尚符璽郎中(「主璽及虎符、竹符之半者」)、符節令史(「掌書」)が記されている。[上に戻る]

[16]典瑞は春官、掌節は地官。『周礼』典瑞「掌玉瑞玉器之蔵。弁其名物与其用事、設其服飾」。形状等によって所持者や祭祀対象のランクを表したりするモノをつかさどる(という感じ)。同掌節「掌守邦節而弁其用、以輔王命」。使者など、それの所持者を保証するモノをつかさどる(みたいな感じ)。[上に戻る]

[17]『晋書』職官志には「秦符璽令之職也。漢因之、位次御史中丞。至魏、別為一台、位次御史中丞」とあり、符節台の設置は曹魏とされていているが、注 [15] で引いた『続漢書』や史書の用例を参照するに、少なくとも後漢期には符節台は置かれていたとみるのが妥当のように思われる。[上に戻る]


2017年8月14日月曜日

論語集解序

◎『古注十三経』(明・永懐堂本)所収の論語集解の訳。
◎邢昺『論語注疏』を多く参照した。参照したらなるべくその旨を注記するが、しないこともあるかもしれない。
◎ほか、ネット上で公開されている皇侃『論語義疏』もそこそこに参照した。

論語序


 叙に述べる劉向の録に言う[1]、「漢の中塁校尉の向、申し上げます。魯論語、20篇。すべて孔子の弟子たちが師のすぐれた言葉を記録したものです。太子太傅の夏侯勝、前将軍の蕭望之、丞相の韋賢と子の玄成らはこれを授受していました」。「斉論語、22篇。(そのうちの)20篇については、(魯論と篇名は共通していますが)篇のなかの章(段落)と句(文言)は魯論よりも少し多くなっています。琅邪の王卿、膠東の庸生、昌邑中尉の王吉はみなこれを伝えていました」。つまり、(論語には)魯論語と斉論語があった。(また劉向の録によると?)漢の魯共王のとき、王が孔子の家屋を王宮にしようと思い、解体したところ、古文の論語を発見した。斉論語には問王篇、知道篇という篇があり、これが魯論語より多い2篇だが、古論語にもこの2篇はなかった。(古論語は)堯曰篇の「子張問」の章を独立させて1篇とし、子張篇が2つあった。そのため、全21篇となる。篇の順番は斉論語、魯論語と違っている。安昌侯の張禹はもともと魯論語を伝授されていたのだが、同時に斉論語の読み方も研究しており、すぐれている説があれば採用していた。(そうしてできあがった彼独自の論語を)「張侯論」と呼び、世で重んじられた。包氏と周氏の章句〔読み方、文意の取り方。皇侃「章句者注解。因為分断之名也」〕はこの張侯論にもとづいている。古論語には、博士の孔安国の注釈〔「訓解」。皇侃「訓亦注也」〕があるのみだが、広まらなかった。漢の順帝のとき、南郡太守の馬融が張侯論〔皇侃に由る〕の注釈〔「訓説」。字義を説き明かすこと〕を著した。漢末に大司農の鄭玄が、魯論での篇と章の区切りにもとづきつつ、斉論、古論と比べながら注を記した。近年ではもと司空の陳羣、太常の王粛、博士の周生烈が注釈〔「義説」。疏に「注をつくって義を説き明かすので義説という」〕を著している〔皇侃によれば三人とも張論〕。かつては、師の説を学んで、またそれを授けていくのであって、賛成しかねる箇所があってもその部分の(自分の)注釈を記すことはなかった。その後になって(包氏、周氏のように)注釈が書かれるようになり、現在ではその数も多くなってきた。目にする説で同じものはないし、各人の説にはそれぞれ長短がある。いま、学者たち〔具体的には孔安国、包氏、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王粛、周生烈〕のすぐれた説を収集し、(そのまま引用するときには)その姓名を記し、微妙なところがある説は多く手を加えて注とした[2]。これを「論語集解」と名づける[3]
 光録大夫、関内侯の臣、孫邕、光録大夫の臣、鄭沖、散騎常侍、中領軍、安郷亭侯の臣、曹羲、侍中の臣、荀顗、尚書、附馬都尉、関内侯の臣、何晏、献上いたします。



―――注―――

[1]原文「叙曰」。邢昺の疏(以下、たんに「疏」)によると、「序と叙は音も意味も同じ。曰は発語の辞」。邢昺はそう言っているが、ここの「叙」は劉向の録を指すのだろう。つまり劉向の引用は冒頭からはじまる。劉向の録は「目」(篇目)と「叙」(序)からなり、そのゆえにこの録を「叙録」等々と呼ぶこともあったらしい(余嘉錫『目録学発微』古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹訳、平凡社・東洋文庫、2013年、pp. 41-43参照)。録の冒頭が「――劉向言」ではじまることは、余氏前掲書や厳可均『全漢文』巻37収録の佚文を参照。どこまでが劉向からの引用なのかは最初に更新したときから悩んでおり、まえは「中尉王吉以教授」までとしていたのだが、今回は篇目の次第を云々しているところ全部とした。変だけど劉向の録は魯論と斉論で別個につくられていたであろうと思ったので本文のような感じでわけた(2018/01/02修正)。[上に戻る]

[2]ここは集解の体例を述べた大事なところ。疏が具体的でわかりやすいので以下に引用。「学者たちのすぐれた説を収集して記録し、剽窃でないことを示す。そのため、それぞれで『その姓名を記す』のである。集解の注に『包曰』『馬曰』とあるのがこれである。本文の注では姓のみを書いているのに、序では『名』と言っているが、これは姓を記すことによってその人を名づける(示す)という意味であって、名前のほうの意味ではない。『微妙なところがある』というのは、学者たちの説に疑問があることである。『多く手を加えた』というのは、すぐれた説はそのまま記録して改変することをせず、疑問のある説は多く改変したということである。注の最初に『包曰』『馬曰』となかったり、学者の注の引用のあとにつづけて『一曰』とあるのは、どれも何氏のものであり、そこから下は先学の説を改変したものであることを示している」。

 ところで、邢昺のこの記述は歴史的にも興味深いものである。というのも、邢昺は「序だと姓名を記すと言っているのに実際には姓しか書いていないのはなぜか」という問いを提出して、序の字義を解説しているが、私の見ている永懐堂本も邢昺が例に引いているとおり、姓しか書いていない。
 ところが邢昺に先立って論語集解の疏を著した梁の皇侃の『論語義疏』では、集解の注に「馬融曰」「王粛曰」とバッチリ名も書いて引用してある。皇侃の義疏は中国では佚してしまい、日本に伝存していたものが逆輸入されたそうなのだが(詳しいことは知らない・・・)、学而篇第1章の包氏注への皇侃の疏に「何氏の集解ではすべて人名で呼んでいるのに、包氏だけ『包氏』としている。包氏の名は咸である。何氏の(父の)諱なので避けているのだ」とあるとおり、元来の論語集解の体裁は、ちゃんと姓名を書いて引用していたのであろう(ちなみに包氏の名が咸であるという根拠はよくわからない。周氏のほうは、皇侃も「まったくわからない」らしいのに)。
 いつ、どうして、論語集解で引用されている注が「姓のみ」になってしまったのかはちゃんと研究を読んでいないのでわからないけれど、少なくとも邢昺の時点では、集解の注は名を省略して姓のみにするタイプの本が広くおこなわれていて、邢昺もそれを参照したのであろう。上の引用文はそういう事情をうかがわせるのだ。いい加減な解説でゴメンナサイ[上に戻る]

[3]疏「杜預の春秋左氏伝も『集解』と言っているが、あちらは『春秋の経と伝(注釈=左氏伝)とを集めまとめ、その解釈を著した』という意味である。こちらのほうは『学者たちの解釈を収集して論語を解き明かした』という意味である。ともに『集解』と言っていても、このように意味はちがう」。[上に戻る]

2017年2月8日水曜日

馬融「周官伝」序、鄭玄「周礼注」序

 ともに賈公彦「序周礼廃興」の引用より。明・永懐堂本を使った。句読点は私がつけた。改行も私が勝手に加えた。途中に挿入されている賈氏の文(又云とか)は省略したか、ポイントを下げて文中に挿入した。


馬融「周官伝」

 秦は孝公以降、商君子の法を採用したため、その政治は苛烈となり、『周官』とは真逆の方針であった。そのため、始皇帝は挟書を禁じたさいに、とくに『周官』を嫌って消滅させようとはかり、捜索して焼いたのであった。ただこのためのだけに、百年間秘蔵されたのである。
 孝武帝が挟書律をとりはらって、書籍を募集するようになるや、山の洞穴や旧宅の壁から取り出され、朝廷の秘書に入れられたのであった。しかし五家の儒者(礼の五伝弟子の学派を指すか)はこれを見ることができなかった(理解することができなかった?)
 孝成帝のときになって、達才通人と称すべき、劉向とその子の歆が朝廷の秘書を整理、校勘した。こうしてようやく『周官』は整えられ、劉向の『別録』および劉歆の『七略』に記録されたのである。だが、冬官の一篇は失われていたため、『考工記』を付け加えたのであった。
 当時、多くの儒者が世に出ていたが、そろって『周官』を退けておかしいと批判した。ただ劉歆だけが(この書の意義を)見抜いていた。彼はまだ若いにもかかわらず(原文「尚幼」。ちょっと年を増した感じで訳した)、広く書物を読むことに力を注いでいたし、春秋末年のことに精通していた。それゆえ、周公が太平を招来した事跡はすべて『周官』に記録されていることを彼は理解していたのである。
 ところが、天下は戦乱の世となり、戦争が各地で起こり、流行病と凶年が重なるようになってしま(い、このようななかで彼は亡くなってしま)った。弟子たちも死去してしまったが、河南緱氏の杜子春だけは生き延びた。永平のはじめころには、九十歳になろうかという高齢で、終南山に家を構えていた。『周官』の(あるいは「劉歆の」?)読み方に通じており、劉歆の(?)学説に詳しかった。鄭衆と賈逵は彼のもとに行って『周官』の学業を受けた。
 鄭衆、賈逵は博識の秀才で、経、書、記はたがいに典拠となって文意を明らかにしているとみなし、注釈を著した。賈逵の注釈は広く読まれたが、鄭衆のものはあまり読まれなかった。二氏の説をいっしょに採用していけば、本文はよく読めるようになるが、それでも誤りやいたらない箇所が多い。
 とはいえ、鄭衆の説のほうはしばしば妥当さを得ている。彼が誤っているのは、尚書の周官篇の序に「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」とあるのをみて、これこそ『周官』のことだと主張しているくらいのものである(原文は「鄭衆はこの書物が尚書の周官篇だということを見逃していた」の意にも読めるが、馬国翰も訳文のように理解しているみたいだし、とりあえずこれで)
 賈逵はというと、「六郷大夫は冢宰である」云々と言ったり、「六郷(原文は「六遂」だが後文と通じないので改める)は十五万家で、千里の地にわたっている」と論じているが、ひどいまちがいだ。このような例がひじょうに多い。慨嘆してやまぬものだ。六郷の住民は四同の地に居住しているのだから、「千里の地にわたっている」というのは誤りだ(賈曰く、「『六郷大夫は冢宰である』以降の批判している箇所は省略する。また『ひじょうに多い』という箇所だが、馬融による賈逵説の紹介については多く省略したという意である」)
 ・・・(省略あり?)・・・私は六十歳になったときに武都の太守になったが、郡は小さくて仕事が少ないので、考えをまとめておこうと思い、易、尚書、詩、礼の伝(注釈)を書き記し、すべて完成させた。しかし『周官』のみ完成させれなかったことを気にしていた。そこで六十六のとき、目は悪くなり、集中力もつづかなくなってきたなかで、なんとかまとめることができた。かくてこれを「周官伝」と名づける。


 秦、自孝公已下、用商君之法、其政酷烈、与周官相反。故始皇禁挟書、特疾悪、欲絶滅之、捜求焚焼之、独悉是以隠蔵百年。
 孝武帝始除挟書之律、開献書之路、既出於山巌屋壁、復入于秘府。五家之儒莫得見焉。
 至孝成皇帝、達才通人、劉向子歆、校理秘書、始得列序、著于録略。然亡其冬官一篇、以考工記足之。
 時衆儒並出、共排以為非。是唯歆独識。其年尚幼、務在広覧博観、又多鋭精于春秋末年、乃知其周公致太平之迹、迹具在斯。
 奈遭天下倉卒、兵革並起、疾疫喪荒、弟子死喪、徒有里人河南緱氏杜子春。尚在永平之初、年且九十、家于南山、能通其読、頗識其説。鄭衆、賈逵往受業焉。
 衆、逵、洪雅博聞、又以経書記轉(阮元は「傳」の誤りとするが、ママとしておいた)相証明為解。逵解行於世、衆解不行。兼攬二家為備、多所遺闕。
 然衆、時所解説、近得其実。独以書序言「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」、則此周官也、失之矣。
 逵以為六郷大夫則冢宰以下、及六遂為十五万家、絙千里之地、甚謬焉。此比多多。吾甚閔之久矣。六郷之人、実居四同地、故云「絙千里之地」者、誤矣。〔又六郷大夫冢宰以下所非者不著。又云「多多」者如此解不著者多。〕
 至六十為武都守、郡小少事、乃述平生之志、著易尚書詩礼伝、皆訖。惟念前業未畢者、唯周官。年六十有六、目瞑意倦、自力補之、謂之周官伝也。

鄭玄「周礼注」序

 世祖(後漢)以降の通人達士といえば、大中大夫の鄭少贛、名は興、および子の大司農仲師、名は衆。もと議郎、衛次仲、侍中の賈君景伯。南郡太守の馬季長。みな周礼の注釈を著した。
 ・・・(省略あり?)・・・玄がみるところ、二、三の君子の注釈は原文の曖昧な文章によく注意をはらっているので、夜明けを見るかのように文意がはっきりするし、割符を一致させてまた切り離されたものであるかのように(注釈と本文が)ぴったりとした説である。優れた解釈が多く集められていると言えよう。
 しかし、本文には依然として混乱している箇所が残っているし、(本文が?諸子が?)同じ事柄についてであっても記述が相違している場合がある。したがって、(まず)本文の文字の発音へとたちもどり、(そこから)読み方を考察し、(そのなかでも)とりわけよいものを採用する(べきである)。
 思うに、二鄭は同族の大儒者であり、書籍に明るく、皇祖(文王?周公?)の道をあらまし知っていたため、『周官』の義は古文字にあることを理解し、疑わしい箇所を見抜いて読み方を正した。実際、優れた説が多いのである。だが、門徒が(?)少なく、(二子の文が)簡略であるゆえに、世に広まっていない。ここに二子を称えて議論にとりあげるが、これは鄭家の訓詁を完成させんと願ってのことである。
(鄭衆は?)[1]『周礼』を『尚書』周官篇とみなし、周官篇は周の天子の官を述べたものだと言っている。これは『尚書』周官篇の序に「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」とあるのを根拠としている。しかし、これはおそらくまちがいである。『尚書』の盤庚、康誥、説命、泰誓などの篇は三篇で、序には「某篇を若干篇つくる」とあり、現存している篇は多くても三千言をこえない。また『尚書』に書かれているのは、時事の事柄か、君臣の訓戒である。(推測するに、)周官篇が作成されたころ、周公も『周礼』をつくり、それによって上下の別を正した。周官篇はただ一篇だが、『周礼』は六篇である。文章は数万字を数える。その言葉は全篇にわたって『尚書』の体裁と異なり、『尚書』の篇だとはとてもみなせない。そうだと考える余地はあるにしても、その見解に従うことはできない。
 ・・・(省略あり?)・・・(『周官』に示されている)この道たるや、文王、武王が周を秩序だて、天下に君臨した法である。周公は『周礼』を定めて、太平と龍鳳の瑞獣を到来させたのである。


 世祖以来、通人達士、大中大夫鄭少贛、名興、及子大司農仲師、名衆、故議郎、衛次仲、侍中賈君景伯、南郡太守馬季長、皆作周礼解詁。
 玄竊観二三君子之文章、顧省竹帛之浮辞、其所変易灼然、如晦之見明、其所弥縫奄然、如合符復析斯。可謂雅達広攬者也。
 然猶有参錯、同事相違、則就其原文字之声類、考訓詁、捃秘逸。
 謂、二鄭者同宗之大儒、明理于典籍、觕識皇祖大経、周官之義、存古字、発疑正読、亦信多善。徒寡且約、用不顕伝于世。今讃而辨之、庶成此家世所訓也。
 其名周礼為尚書周官者周天子之官也。書序曰、「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」。是言、蓋失之矣。案尚書盤庚、康誥、説命、泰誓之属、三篇、序皆云「某作若干篇」、今多者不過三千言。又書之所作、拠時事為辞、君臣相誥命之語。作周官之時、周公又作、立政上下之別。正有一篇、周礼乃六篇。文異数万、終始辞句非書之類、難以属之。時有若茲、焉得従諸。
 斯道也、文武所以綱紀周国、君臨天下。周公定之、致隆平龍鳳之瑞。


[1]「庶成此家世所訓也」以下につづく、「其名」からはじまる段落には、篇章の区切りを示す記号が附されている。はじめの「其名」から「従諸」までの部分は鄭玄の序とみなすこともできるので、序の引用がまだつづいているものとして、とりあえずまとめてみた。が、阮元の校勘記に「盧文炤がここの段落は鄭玄の序ではないって言ってる」とあるものだから、だめかもしれない。
 しかしだとしたら、(1)「是言、蓋失之矣」とあるが、周礼=周官篇と考えているのは誰のことなのか。賈公彦の時代にそんなことを考えていたやつおるんか? だって賈公彦の時代的には、周官篇と『周礼』が両方あったわけで。『周礼』こそ周官篇なのだ、という推測は、周官篇そのものを見ることができない、という条件下でなければならないはずである。(2)そこでやや譲歩して、「其名」から「作周官」までを鄭玄、「是言」以下の按語を賈公彦による鄭玄批判だと考えることもできるだろう。つまり、鄭玄が『周礼』と周官篇を同一に見なしていたという読み方である。しかし、これはいろいろとおかしくなる。天官・小宰における、天地四時の官のおおまかな体系を述べたくだりの鄭玄注に「前此者、成王作周官、其志有述天授位之義、故周公設官分職以法之」とあり、鄭玄は『周礼』と周官篇の関係をそれとなく示している。賈公彦はここの疏で次のような鄭玄の他書の注(?)を引用している。「周公摂政三年、践奄、与滅淮夷同時。又按、成王周官、成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官、則成王作周官、在周公摂政三年時周公制礼、在攝政六年時」。すなわち、『周礼』は周公の摂六年に成ったが、それ以前の同三年に周官篇がつくられており、周官篇で述べられた義を周公が官に体系化して記録したのが『周礼』である、と彼は理解していたのではないかと思われる。したがって、もとの論点に戻るが、(2)鄭玄が周官篇と『周礼』を同一にみなしていた可能性はありえない。
 ここの本文自体は偽古文を見ていなければ書けないわけではないはずだと思うし(序でいけるんじゃないか?)、鄭玄とみなしておいたほうがいい気がするんだが・・・。せっかく訳しちゃったんでこのままにしちゃいます。
 余談だが、賈公彦はさきの小宰の鄭玄注を周官篇を参照しつつ解説し、「此鄭義〔周官篇の志は「述天授位之義」のこと〕不見古文尚書、故為此解」、鄭玄が言っている義というものが周官篇にまったく見られないので、この義というものは鄭玄の解釈なのであろう、とする。とはいっても、いまとなってはという話であるが、賈公彦の見ている、そして現存している周官篇は偽古文とされている。孫詒譲が言うように、鄭玄が偽古文の周官篇を見られるわけがないのだから合致していなくたってしょうがないだろう。孫氏は「ひょっとするとマジモンの周官篇を鄭玄は見ていて、それにもとづいて其志有述天授位之義と言っているんじゃね」と言うが、希望的である。[上に戻る]

 かなり補いまくって読んでみたので、思い込みで読んでいるところがけっこうある。スマニョ。
 鄭玄が文字の正しい読み方に注の方針を置いていた、というところだけは読めた(と思う)ので、それだけで個人的には満足である。

 実際、鄭玄はテキトウに言っているのではなく、彼の注を読んでいけば「この字はこの字として読む」「この字は本来この字だろう、発音が似ているから誤写したんだ」とかすっごく言っている。
 なんか鄭玄には勝手な偏見をもっていたのだが、「ああ、字をどう読むかが鄭玄の基本なんだな、思ったよりメタじゃないんだな」と思えたので、少し好きになったヨ。でもこのおっさんは変なひとですね。

 そしてまた、二鄭の注、とりわけ鄭衆(鄭司農)を重んじていることも、彼が頻繁に引用していることからわかる。杜子春の注もけっこうな頻度で引用されているが、引用されている杜注はやはり「この字はこう読む」「この字はこの字の誤り」のたぐい。
 鄭衆はよく「春秋の伝にこう言っている」のようなことをよく言っているが、これが馬融の伝に言われていることであろう。鄭玄も同様の方法で周礼を読み解いている。

 しかし、周礼の鄭玄注でおもしろいのは、鄭玄と鄭司農の解釈がいちじるしくちがっているところである。
 たとえば、秋官に野廬氏という、道路整備の官があるのだが、

若有賓客、則令守涂地之人聚【柝と通じる表現するのがムズイ字。以下「柝」】之、有相翔者誅之。

という一節がある。ここの鄭玄注。

守涂地之人、道所生廬宿旁民也。相翔、猶昌翔観伺者也。鄭司農云、聚柝之、聚撃柝、以宿衛之也。有姦人相翔於賓客之側、則誅之、不得令寇盜賓客。

「守涂地之人」とは、道路上の休息・宿泊所そばの住民のことである。「相翔」とは、好き勝手に出歩いて周囲を見回ることである。鄭司農は次のように言う。「『聚柝之』とは、住民を集めて拍子木を打たせて警戒させ、賓客を夜通し護衛することである。悪者が賓客の付近に『相翔』、すなわちかけとんで近寄ったら、この者を誅殺し、賓客の拉致を阻止するのである」。

 両説にしたがって本文を読むと、

鄭玄
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。その者たちのなかで勝手に出歩く者がおれば、その者を誅殺する。


鄭司農
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。悪者が賓客の近くにかけよるようなことがあれば、その者を誅殺する。

 これは秋官だからたまたま記憶に新しいだけで、そこらにこんなんがある。だいたい鄭玄のほうが筋が通っている。
 また訓詁の区切りがそもそもちがう、という箇所もある。これまた最近読んだのでまだ覚えているところになるが、考工記・輪人の蓋のくだり。〔 〕は鄭玄注。

桯長倍之四尺者二〔杠長八尺、謂達常以下也。加達常二尺、則葢高一丈立乗也〕十分寸之一謂之枚〔為下起数也。枚一分。故書十与上二合為二十字、杜子春云、当為四尺者二十分寸之一

 ちなみに何を言っているのかはさっぱりわからない。
 唯一わかるところ(にして興味を覚えたところ)は、鄭玄は「四尺者二」と「十分寸」以下を分けて読んでいるのだが、従来のテキストでは「二」と「十」で分けずに読んでおり、たとえば杜子春は「四尺者二十分寸……」と読んでいる、というところ。
 従来の読みにまったく束縛されない、というところに彼の天性があるんじゃないでしょうか。

 繰り返しになるけど、鄭玄はもっとこう、メタってるっていう偏見があったから、こういう姿を見れてよかった。安心した。
 こういう感じのが経学、なんですかね。オレは好きだよ。