2014年3月30日日曜日

成漢・李氏の来歴神話

『晋書』巻120李特載記
 李特、字は玄休、巴西宕渠の人で、その祖先は廩君の子孫である。
 昔、武落の鍾離山が崩れたとき、ほらあなが二つできた。一つは丹のように真っ赤で、もう一つは漆のように真っ黒であった。赤穴から出た者は名を務相といい、姓は巴氏であった。黒穴から出た者は合わせて四姓おり、曎氏、樊氏、柏氏、鄭氏と言った。五姓は一緒に出てきて、みな(自分が)神になろうとして競い合った。そこで、みなで一緒に剣をほらあなに(投げ入れて)突き刺し、きっちり突き刺すことができた者を廩君とすることに取り決めした。四姓で突き刺せた者はいなかったが、ただ務相の剣はしっかり刺さった。また、土で船を造り、模様を装飾して川に浮かべることになった際には、こう決められた。「もし船が浮き続けられたら、(その船を造った者を)廩君としよう」。またも、務相の船だけが浮いた。こうして遂に(務相は)廩君を称したのである。(廩君は)造った土船に乗り、歩兵を率いて川を上っていった。夷水にぶつかるとそのまま夷水を下り、塩陽に到着した。塩陽の水神である女神が廩君を引き留めて言った。「ここは魚と塩が獲れますし、土地は広大です。ここに留まって一緒に暮らしましょうよ」。廩君、「君のために廩(米などの食料)の取れる土地を探そうと思う。留まることはできない」。(すると)塩神が夜、廩君に従ってそのまま一晩泊まり、夜が明けて朝になるとたちまち去って飛虫となり、もろもろの神々もみな(塩神の)飛ぶのにつき従ったため、(たくさんの虫で)日光が覆われて昼でも真っ暗であった。廩君は虫(神)を殺そうとしたができず、また上下や東西もわからなくなった。このようであること十日、廩君はそこで、青い糸を塩神に贈ろうとした。「これを身につけてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします」。塩神はこれを受け取って身につけた。すると、廩君は(その地にあった)陽石の上に立ち、胸に青い糸がある者を遠く見て取るや、ひざをついてこれを射て、塩神に命中させた。塩神は死に、一緒になって飛んでいた神々はすべて去り、天はようやく広々と開けて明るくなった。廩君はふたたび土船に乗り、川を下って夷城に着いた。夷城の石の岸壁は湾曲しており、川も湾曲していた。廩君が遠くを眺めると、(行く先は)穴のような様子だったので、歎息して言った。「私はほらあなの中から出てきたのに、いままたかようなあなに入ることになるのか。マジどうしよう」。するとたちまち岸壁が崩落し、幅三丈あまりにもわたり、(石が)積み重なって階段ができあがった。廩君はこれを登っていくと、岸壁の上には四方一丈、長さは五尺の平石があった。廩君はその上で一息つき、くじを引いて(うらないで)計画を立てた。(そうして)みなで石を配置して(積み上げ)、その平石のそばに城を築き、(廩君は)そこに居住した 。その後、種族は増えていった。

 秦が天下を統一すると、(その地を)黔中郡とし、税金の取り立てを軽くして、一口ごと年に銭四十を取り立てた。巴人は「賦」のことを「賨」と呼んでいたため、「賨人」と呼ばれた。

 漢の高祖が漢王となると、賨人を募って三秦地方を平定した。平定後、(賨人は)郷里に還ることを求めた。高祖はその功績を評価して、豊・沛と同様、賦税を免除し、地名を改めて巴郡とした 。その土地には塩・鉄・丹・漆が豊富で、習俗は素早く勇敢、また歌舞を得意としていた。高祖はその舞を好んだので、詔を下して楽府にこれを習わせた。現在の巴渝舞がこれである。

 後漢末、張魯が漢中に割拠し、鬼道で民衆を教え導いていた。賨人は祈祷師を敬い信仰していたので、よく(張魯の元に)行って奉じていた。天下大乱の時代となると、(賨人は)巴西の宕渠から漢中の楊車坂に移住し、旅人から掠奪を行なったので、民衆はこれに頭を悩ませ、楊車巴と呼んでいた。魏の武帝が漢中を陥落させると、李特の祖父は五百余家を率いて帰順した。魏の武帝は将軍に任命して、(李特の祖父らを)略陽に移し、北方では彼らをを巴氐と呼んだ。
 さて、なかなかおもしろい来歴=歴史ですね。何回かに分けて分析を試みるつもりですが、とりあえず今回は問題点の提示ということで。
 まず上掲の物語を分析してみたいと思う。が、上から順にではなく、下から順に、さかのぼる形で検討を行なうことにしよう。

 李特の祖父は後漢末、漢中付近で張魯の勢力下に暮らしていたらしい。のち、曹操が漢中を平定すると関中の略陽へ移住した。略陽は五胡時代に活躍する氐の苻氏や呂氏の本貫でもあり、どうもこの後漢末あたりに非漢族が集中的に移住させられたらしい。李氏が本当に氐なのかどうかはわからないが、氐が集住していた地域に移住させられたということから、彼らも「氐」と見なされたのだとしてもおかしくはない。まあともかく、彼らの直近の由来は巴西から漢中へ、漢中から関中へと移動したということになっている。なお『三国志』巻1武帝紀・建安20年の条に「九月巴七姓夷王朴胡・賨邑侯杜濩挙巴夷・賨民来附」とあり、「巴夷・賨民」が帰順したことが記されている。

 そこからさかのぼると、李氏の祖先は前漢期「巴郡」(郡治は現在の重慶市)に居住していた「賨人」であるらしい。高祖にも協力したことがあるらしいというのはへぇーって感じですね[1]
 さらさらに、秦代では当該地は黔中郡という地であり、優遇措置を受けていたという。彼らは税のことを「賨」と呼んでいたから、彼らの呼称も「賨」に転化したらしい。
 で、その「賨」のさらなる祖先をたずねると廩君にたどりつくんだってさ。


 さて、わたしはこの話を統一的に理解するのにだいぶ苦しんだ。というか、いまでもできていない。
 上の話を整理すると、賨は巴西というか巴一帯に住んでいたらしいじゃん? それに対し黔中郡って漢代以降の行政区分で言うと武陵郡に相当するんですよ[2]? 前漢の巴郡って秦の巴郡をほぼそのまま継承したはずなのであって(『漢書』巻28地理志・上)、黔中郡を改称したものではないなんだが・・・。
 廩君のとこで出てきた地名にかんしては、夷水は武陵郡・南郡あたりだね。武落ってのはよくわからないんだけど・・・『水経注』の記述を参考にすると、夷水の南にあるらしい。で、廩君が出てきた山からは川が流れてて、その川を下って行くと夷水に合流する。そんで夷水を下っていくと長江に合流する、という。なるほど、『晋書』の記述とそんなに矛盾しない。どうやら廩君は武陵郡の土地柄にかんする説話なもようだ。

 なんかうまくごまかされている感じなんだけど、『晋書』のお話って地理的に離れた場所のお話をくっつけているんですよ、これ。巧妙にも。李氏の来歴神話とは、異なる説話をごっちゃにミックスして創り上げた、その意味ででたらめなお話になっているようにしかわたしには感じられません。
 そしてこのことは、『華陽国志』、『後漢書』、『水経注』といった他史料を参照することによっても明らかになるのだが、各史料の比較分析はまた今度としましょう。
 そんでもちろん忘れてはならない問題は・・・この『晋書』の記事はなにに由来し、どういった意図から説話が創られたのか。解答は得られんでも、なにかしらの材料は得たいですな。せっかく調べてみるんだし。



――注――

[1]なお、これを李氏の来歴を箔付けするための創られた説話と見なすのは誤りである。たしかに「賨人」が付き従ったとの記述は『史記』、『漢書』に見えない。明確な記述の初出は陳寿(楊戯)である。「季然名畿、巴西閬中人也。劉璋時為漢昌長。県有賨人、種類剛猛、昔高祖以定関中(『三国志』巻45楊戯伝引『季漢輔臣賛』賛程季然)。同様の記述は『華陽国志』巻1巴志、『後漢書』列伝76南蛮西南夷列伝・板楯蛮条にも見えている。ともかく、『三国志』(『季漢輔臣賛』)から記述が確かめられるのだから、李氏の来歴をアレンジするさいに創られた話ではない。『史記』、『漢書』にはないとはいっても、巴蜀の経済力等を基盤にして高祖が関東を平定したことはよく知られていることだし、史書には記述されなかったが、蜀の学者の間では伝承されていた、という可能性はありうる。それが李氏の来歴説話のさいにも取り入れられたにすぎないのではなかろうか。なお、『風俗通』(『文選』蜀都賦・李善注引)、『華陽国志』によると、高祖に積極的に協力した人物として閬中の范目なる人物が記されている。この范目がみずから賨人を募兵し、高祖に従ったらしい。そういえば、李氏が蜀で嫌われて孤立したさい、彼らを物質的に援助した人に范長生ってのがいるよね。偶然なんだろうか。[上に戻る]

[2]『続漢書』郡国志四・武陵郡の条には次のようにある。「秦昭王置、名黔中郡、高帝五年更名」。[上に戻る]

2014年3月23日日曜日

『宋書』百官志訳注(6)――卿(廷尉・大司農)

 廷尉は一人。丞は一人[1]。刑罰のことをつかさどる。およそ裁判での判決で、必ずその是非を朝廷にチェックしてもらうのは、(独断せず)衆とともに判決する義のゆえである。軍事と裁判は制度が共通しているので、「廷尉」と言うのである[2]。舜が帝位につくと、咎繇を士としたが、すなわち士が(現在の)廷尉の職務である。周のとき、大司寇が秋官となり、国家の刑罰を管轄した。秦は廷尉を置いた。漢の景帝の中六年、大理に改称した。武帝の建元四年、廷尉に戻された。哀帝の元寿二年、ふたたび大理とされた。東漢のはじめ、またも廷尉とされた[3]
 廷尉正は一人。廷尉監は一人。正と監はともに秦の官である。もとは左監と右監がおり、漢の光武帝は右監を廃したが、それでも「左監」と呼ばれていた。魏晋以後になって、たんに「監」と言うようになった。廷尉評は一人。漢の宣帝の地節三年、はじめて左右評を置いた。漢の光武帝は右評を廃したが、それでも「左評」と呼んでいた。魏晋以後になって、たんに「評」と言うようになった[4]。正・監・評とこれ以下の属官は廷尉卿に敬礼を行なわなければならない[5]。正・監は秩千石、評は六百石。廷尉律博士は一人。魏武帝が魏国を建てたときに置かれた[6]

 大司農は一人。丞は一人。九穀六畜[7]の中から良質なものを、宮廷の食事や祭祀に差配するのが職掌である[8]。舜が帝位につくと、棄を后稷に命じたが、すなわち后稷が(現在の)大司農の職務である。周は太府、秦は治粟内史と言い、漢の景帝の後元年、大農令に改称され、武帝の太初元年、大司農に改称された。晋の哀帝の末年、廃して都水使者に併合したが、孝武帝のときに復置された。漢のときは丞が二人であったが、魏以降は一人である[9]
 太倉令は一人。丞は一人。秦の官である[10]。江左以後、また東倉丞、石頭倉丞各一人が置かれた[11]
 導官令は一人[12]。丞は一人。皇帝にささげる米の脱穀を担当する[13]。東漢のときに置かれた[14]。「導」とは「択」のことである。米を選んで精米するということである。司馬相如の「封禅書」に、「台所で一本の茎六つの稲穂から米を選んで精米する」とある。
 籍田令は一人。丞は一人。宗廟・社稷の田の耕作を職務とする。周では甸師であった。漢の文帝がはじめて籍田を設けると、令・丞を各一人置いた。東漢と魏では置かれなかった。晋の武帝の泰始十年に復置された。江左では廃された。宋の太祖の元嘉年間にまた置かれた[15]
 太倉令から籍田令までは、みな大司農に所属する[16]



――注――

[1]『通典』巻25職官典7・大理卿には、丞と獄丞の二つの丞が記載されている。丞については「自晋武帝咸寧中、曹志上表請廷尉置丞。宋、斉、梁並因之」とあり、獄丞については「晋有左右丞各一人、宋斉因之、梁陳置二人」とある。丞は曹志の上表によって置かれたという記述から推測するかぎり、それ以前には置かれていなかったのかもしれない(実際、『続漢書』には見えていない)。丞と獄丞が同一の可能性もあるが、その場合、獄丞は左右合わせて二人いるのだから、『宋書』百官志と若干の齟齬が生じる。さしあたり丞については保留。[上に戻る]

[2]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注に引く応劭注に「聴獄必質諸朝廷、与衆共之、兵獄同制、故称廷尉」。原文とほぼ同じ。これに対し師古は「『廷』とは『平』のことである。裁判は公平を重視したので、『廷』を名称につけたのである(廷、平也。治獄貴平、故以為号)」とする。さらに『韋昭辨釈名』(『太平御覧』巻231引)には「廷尉と県尉はともにいにしえの尉である。思うに、『尉』とは人民をいわたる(慰める)ということである。賊の鎮圧や不正の調査などを職務とする官はすべて『尉』と呼ぶが、この場合、『尉』とは罰することを意味する。罪をもって悪事を罰することを言うのである(廷尉、県尉、皆古尉也。以、尉、尉人也。凡掌賊及司察之官、皆曰尉。尉、罰也。言以罪罰姦非也)」とある。たしかに太尉の名称について、「上から下々(の人々)を安堵させることを『尉』という」とあった。『説文解字』には「従上按下也」とあり、段注の「按、抑也」を参照すると、「上から下をおさえつける」という感じか。「慰」も「罰」も、武力行使を辞さず、上方から下方へ秩序を与える、という点では共通しているのかしら。軍事と裁判は同じなので~というのはどういう根拠から言っているのかがいまいちわからなかったのが、このように双方の職務に根源的類似点を見いだしていたからなのかもしれない。
 なお職務については『続漢書』百官志二・廷尉の条にやや詳しく見えており、「郡国は判決に悩む犯罪があった場合はすべて廷尉に判断をあおぎ、廷尉は判決を定めて郡国に通達する(凡郡国讞疑罪、皆処当以報)」とある。同様の記述は『漢書』刑法志にもあるが、それによると県・道で判断に悩む犯罪があったら郡・国に判断をあおぎ、郡・国の場合は廷尉に、廷尉でも判断できない場合は皇帝に奏して判断を求めたという。「讞」というのは官制用語(判断に悩む罪案を上級官庁に報告し、判決を求めること)なので、覚えておこう。
 これに関連するのが出土漢簡「奏讞書」である(「張家山漢簡」)。「奏讞書」は「讞」や「奏」の判例集であり、この竹簡群には22の判例が記されているという。わたしはこれについてはあんまり詳しくないのだが、22例中16例が前漢、4例が秦、2例が東周であるらしい(工藤元男ほか編『二年律令与奏讞書』上海古籍出版社、2007年、p. 331、注〔一〕)。睡虎地秦簡にも「封診式」という判例集があるとのことだが、こっちになると完全にお手上げなので省略。「奏讞書」から一例簡単に紹介してみましょう(高祖十一年、南郡での事例)。蛮夷の男子・毋憂は、南郡尉・窯から徴兵の指令を受け、配属地に遣わされた。しかし毋憂は途中で逃亡した(そしてのちに捕まる)。毋憂の弁解「わたしは蛮夷の男子であり、毎年五十六銭を納めているが、それによって納税と同時に労役分も支払っているのだ。徴兵は不当だ」、窯「蛮夷律には徴兵してはならないとは書いていないから徴兵したのだ。関係あるか」、官吏「律によれば、蛮夷の男子は毎年『賨銭』を納め、それによって納税と労役を負担することになっているが、徴兵するなとは書いていない。仮に徴兵してはならんとしても、いったん任じられたものを途中で勝手に逃げ出すのはいかがなものか。弁解があれば言いたまえ」、毋憂「われらには君長がいて特殊な待遇を受けており、毎年賨銭を納めることで租税と労役の税分を負担していたものだから、徴兵に関しても免除されていると思っていた。弁解いたしません」。官吏のあいだでは腰斬に当たるかどうかで意見が分かれたので、廷尉に「讞」した。廷尉の判決「腰斬に相当」(すべて上掲の『二年律令与奏讞書』に基づいて解釈)。賨銭については諸書(『華陽国志』、『後漢書』南蛮伝、『晋書』李氏載記など)にも見えるもの。ここでは詳細な記述をしません。[上に戻る]

[3]『通典』大理卿によると、建安年間に大理に改められたが、魏の黄初元年に廷尉に戻されたという。鍾繇は「大理」だよね。そういえば、光禄勲も建安末に「郎中令」という旧名に戻り、黄初元年に光禄勲になったとかいう話だが・・・。と少し深刻な問題に見えたのだが、大理も郎中令も「魏国」内の官名だよね。別に朝廷の官名が変わったわけでもなかろう。『通典』での書き方は少しまぎわらしい。たしかに『三国志』文帝紀で文帝が即位する際に官名がいっきょに改名されているが、王から帝への移行に伴い、魏国の組織を改造しましたみたいな、そんな感じなんでしょ? 知らんけど。
 南朝では、梁のはじめに大理になったほか、ずっと廷尉。北朝では、北魏が廷尉、北斉が大理、北周は王莽もびっくりの大司寇(さすが北周ですわ)、隋は大理。唐もおおよそ大理。[上に戻る]

[4]『漢書』百官公卿表・上、『続漢書』百官志二には「平」と記述されているので、漢代は「平」だったかもしんない。
 『通典』大理卿・正に「魏晋謂正・監・平為廷尉三官」とある。原注には「晋廷尉三官通視南台持書、旧尚書郎下選」とあり、おそらく「晋代においては、廷尉三官はみな御史台の治書侍御史と同格とみなされ、かつては尚書郎の下級昇進コースであった」かな? 「持」は「治」と通ずると思われ、なので「南台」も御史台でよかろうと。「視」は「なぞらえる」とか「みなす」とかいったニュアンスで、ある官とある官の同格関係、とりわけ「位」=朝位の同格関係を言う場合によく使用される語。官制用語とまで言っていいかはわからないけど、わりとよく出てくる。
 なおこの三官、具体的には「詔獄の裁判を職務とする」(『続漢書』百官志二)、すなわち地方官が管轄し得ない中央官などの犯罪の裁判を廷尉とともに担当したんじゃなかろうか。[上に戻る]

[5]管見のかぎり、本文のみに見える記述。参軍も都督に敬礼を行なわなければならんかったらしいが(訳注(2)注[26]参照)、廷尉も軍官みたいなもんだったらしいし、まあ体育会系根性でもしみついてたんじゃんーの? 前回も今回も、「敬礼」と訳しておいたが、参軍のほうは「施敬」、廷尉三官のほうは「礼敬」と原文では記されている。どういう礼を行なったのかは知らんが、とりあえず厳格に形式ばった礼をやったんだろうという感じで「敬礼」と便宜的に訳しておく。[上に戻る]

[6]博士の職掌は不明。ほか属官には主簿がおり、魏晋以来、南朝を通じて置かれていたという(『通典』)[上に戻る]

[7]九穀は黍(きび)・稷(もちきび)・秫(もちあわ)・稲・麻・大豆・小豆・大麦・小麦(『周礼』大宰)、六畜は馬・牛・羊・鶏・狗(=犬)・猪(=豚)(『左伝』昭公25年)[上に戻る]

[8]『漢書』巻19百官公卿表・上「治粟内史、秦官、掌穀貨」、『続漢書』百官志三・大司農・本注「銭、穀物、金、布帛、その他もろもろの貨幣を管轄する。郡・国は季節変わり(正月・四月・七月・十月)の一日に、現在の銭と穀物を記録した帳簿を大司農に報告し、徴税が遅滞している分に関しては、すべて別にして報告する。辺郡の場合、備蓄物資を(大司農に)求めればすべて支給し、(財政が?)赤字であれば供給して解消させる掌諸銭穀金帛諸貨幣。郡国四時上月旦見銭穀簿、其逋未畢、各具別之。辺郡諸官請調度者、皆為報給、損多益寡、取相給足)」。宮中の財政をつかさどる少府に対し、国家の財政をつかさどる枢要として機能していた大司農(桑弘羊とかね)もいつしか財政の担当から外れてしまい、本文にあるように、南朝期にはたんなる食品係になってしまっていたようだ。なんたること。じゃあだれが国家財政を運営していたのかって? そりゃあ度支尚書じゃない? すいませんよくわかんないです。[上に戻る]

[9]『通典』巻26職官典8・司農卿・丞「秦曰理粟内史丞、有二人。漢為大司農丞、亦二人、或謂之中丞。平帝又置大司農部丞十三人、人部一州、勧農桑。後漢司農丞一人、部丞一人。魏晋因之。銅印黄綬、進賢一梁冠、介幘皁衣」。ちなみに部丞は「貨幣の貯蓄を担当する(主帑蔵)(『続漢書』百官志三)[上に戻る]

[10]『続漢書』百官志三によれば「郡・国が水陸輸送してきた穀物をチェックする(主受郡国伝漕穀)」。『太平御覧』巻232引『斉職儀』「太倉令、周司徒属官有廩人・倉人、則其職也」[上に戻る]

[11]東倉は『晋書』に一例見えるのみだが、どうやら呉郡にあったらしい。『漢書』百官公卿表・上に「郡国諸倉監、都水六十五官、長丞皆属焉」とあるように、前漢時代は郡国の各地の諸倉も大司農の所属下にあったらしい。後漢でもおそらく変わらなかっただろう。魏晋以後となると不明。また『漢書』の記述だと倉長・倉丞と一人ずついたはずだが、東晋以後ではどうだったか。つまり本文の記述は次の二様に解釈できる。①地方の倉は基本的に郡国の管理下に移されていたが、東倉・石頭倉はとりわけ重要なため、大司農が属官を置いて管理した。②他の倉は長だけ置いていたが、東倉と石頭倉はとりわけ重要なため、丞も置いた。どっちにしろ詳しくはわかりません。
 なお『続漢書』百官志三に「雒陽市長、滎陽敖倉官、中興皆属河南尹」とあり、後漢までは大司農の属官であった敖倉官(長・丞)が見えている。敖倉は洛陽にほど近い輸送の要地点で、西晋末や東晋と五胡政権抗争の際にも頻出する重要地点であるが、それゆえに、洛陽に都を置いた後漢はここを特殊化し、洛陽市長とともに大司農から切り離したのであろう。ともかく、太倉令とはやや別の話ではあるが、特殊な倉庫地には特別な倉庫管理官を置くということであり、東晋南朝にとってはそれが東倉、石頭倉だったと。そんでそれを中央の食物倉庫=太倉令の属官が管理していたと。[上に戻る]

[12]原文は「道」の下に「禾」がついた字であるが、諸書では「導」に作っているし、どちらも「択」の意と解釈されているから、通じるものと見なし、以下ではすべて「導」に置き換えて記述する。いちいち〔道+禾〕ってやるのもめんどうだし、みづらいしね。[上に戻る]

[13]『続漢書』百官志三に「主舂御米、及作乾糒」とあり、ほしいいの生産もやってたらしい。[上に戻る]

[14]じつは導官は秦漢期にすでに置かれていたが、そのときは少府の所属であったらしい(『漢書』百官公卿表・上、『通典』)。沈約の見落とし?かな。[上に戻る]

[15]籍田(藉田とも書く)とは皇帝の耕作地のこと。『礼記』祭義によれば千畝らしく、また『続漢書』礼儀志四・上・劉昭注引『漢旧儀』などによれば、漢代と西晋は都の東郊外にあったとか。漢、魏、西晋では、春のはじめ(正月)に皇帝みずから籍田に最初の鍬を入れ、農業に勤める姿を率先して示す籍田儀礼が行なわれていた。干宝によれば、①籍田での収穫で皇帝祖先の宗廟を祀り、孝の実践を示すこと、②みずからが農業に努める姿を示すこと、③子孫に田を伝え、農業の苦労を子孫に教えさせること、の意義があるらしい(『続漢書』礼儀志四・上・劉昭注引『干宝周礼儀注』)。農業国家としての在り方を象徴的に示す儀礼とも言えるだろう。儀礼として創始したのは漢の文帝で、その後徐々に整備されていったが、恵帝以後は廃れてしまい、東晋になって元帝と哀帝が籍田儀礼を復活させようとしたが、もうやり方がわからなくなっていたから実行できずに終わったという(『晋書』巻19礼志・上)。この儀礼を復活させたのが宋の文帝で、元嘉二十年、何承天に儀礼の次第(「儀注」)を定めさせ、儀礼を実行したという(『宋書』巻14礼志一)。籍田令の復置はこれに伴ってなされたわけだ。『太平御覧』巻232引『斉職儀』に「司農卿耕籍、則掌其礼儀」とあるが、籍田儀礼の復活によって大司農の仕事も増えたわけだ。やったね! それにしても、何承天もさぞかし大変だったろう。助手役の山謙之もいっつも何承天にこき使われただろうから苦労しただろうなあと思います。[上に戻る]

[16]すでに一度廃止されたことがある時点で組織がスカスカなのはお察しなわけです。漢代の姿はいずこへやら。西晋の時代にはいちおう、ほかに襄国都水長、東西南北部護漕掾がいたらしい(『晋書』巻14職官志)。注[11]にあるように、前漢時代には各郡国の都水長・丞(堤防管理など、各郡国の水運を安帝させる仕事)も大司農の所属にあったらしいが、西晋時代になると不明。『晋書』職官志の記述から推測すると、「襄国の」都水長ってわざわざ限定つけているってことは、各郡国の都水長はもう・・・。護漕掾についてはほかに記載がないので不明。
 ほか、廃された属官も含め、以下に簡単に挙げておこう。
 主簿 西晋太康年間に設置されたが、その後は不明(『通典』)
 廩犠令 祭祀の犠牲を管理。秦、前漢、後漢と置かれる。秦、前漢は左馮翊、後漢は大司農の所属。魏晋南朝でも置かれていたが、所属先は不明。おそらく大司農だと思われるが・・・(『通典』巻25職官典7太常卿)
 典農中郎将・都尉・校尉 曹操が設置した官(屯田官)。晋の泰始二年に廃し、典農の管理地を郡県化した。のちに復置されたというが、本文には記述なし(『通典』)
 塩官・鉄官(鉄市官)・均輸官・斡官 前漢までは置かれていたが後漢光武帝によってすべて廃止、もしくは郡県官にされた(塩鉄の官)。均輸と並んで著名な平準官は、後漢までは大司農に所属していたが、西晋以降は少府に所属している(曹魏は不明)。また注[11]で触れた(洛陽)市長だが、もともと都の市長・丞はその地域の行政官、すなわち前漢なら京兆尹、後漢・魏・西晋なら河南尹、東晋・劉宋・南斉なら丹楊尹に所属する(『通典』巻26職官典8・太府卿・諸市署)。『続漢書』の書き方はアレかな、副都だった時期の洛陽の市長は大司農に所属していたけど、洛陽が都になったので河南尹に移しましたって意味なのかな? それはそれでちょっと意味がわからない。どうもやや史料に混乱がありそうだけど、あんまり大司農とは関連がなかったってことで。[上に戻る]