2015年11月3日火曜日

「闕」ってなんのことだろうって前々からずっと気になってたけど雰囲気でなんとなくわかってるつもりになっててごめんなさい

西晋・崔豹『古今注』都邑篇より[1]

「闕」とは「観」〔物見台〕のことである。いにしえは一つの門につき二つの観を門の前に建て、宮門の目印とした。観の上は座ることができるだけのスペースがあり、登れば遠くまで眺めることができるので「観」と呼ぶ。人臣が朝廷に上るとき、ここまで来ると自分の闕(=欠)けているところを反省する。そのためここを「闕」と呼ぶ。上〔屋根?〕はすべて赤い粉末で塗装されており、下〔下部の外壁?〕には気や神仙、珍獣が描かれ、図柄によって四つの方角を示している。蒼龍闕には蒼龍、白虎闕には白虎、玄武闕には玄武、朱雀闕の上には二匹の朱雀が描かれている[2](闕、観也。古毎門樹両観於其前、所以標表宮門也。其上可居、登之則可遠観、故謂之観。人臣将朝、至此則思其所闕、故謂之闕。其上皆丹堊、其下皆画雲気仙霊、奇禽怪獣、以昭示四方焉。蒼龍闕画蒼龍、白虎闕画白虎、玄武闕画玄武、朱雀闕上有朱雀二枚。)

 またテキストの校注者は『釋名』釋宮室の一節を引用している。「闕とは闕のことである。門の両端にあり、真ん中は闕然(がらん)としていて道をつくっている(ので、門の両端にあるものを「闕」と呼ぶようになった)(闕、闕也。在門両傍、中央闕然為道也)」。

 いままでどういうものを「闕」って言ってるのかたいして理解しようとしてなかった・・・ごめんわかってあげられなくて。
 これからは「闕」って出てきたら、それは「宮門の両端にあるやつで、なんかマンガとかにもよく出てきそうな雰囲気のあるよくわかんねー長いやつ、転じてだいたい宮門のことらしい」って理解すれば良いのだな! 「闕」と呼ばれるゆえんも知ったからもう忘れてやんねー。

 『古今注』にはこのほかにもおもしろそうな豆知識満載なので、これからちょくちょく紹介するかも?



――注――

[1]テキストは牟華林校箋『《古今注》校箋』(線装書局、2015年)を使用した。底本は明嘉靖年間の『四部叢刊』(覆宋本)。校勘や語釈が充実しているテキストである。附録として佚文や明清ころ?の知識人の跋文やらなにやらがいくつか収録されている。
 撰者の崔豹については『世説新語』言語篇・劉孝標注に引く『晋百官名』に「崔豹字正熊、燕国人、恵帝時、官至太傅丞」とあるほか詳細不明。『古今注』はさまざまな事物の名称の由来を中心に雑学知識を集めたもの。古今の事物の注解を書きました、って感じだね。現存する本は全三巻八篇(輿服、都邑、音楽、鳥獣、魚虫、草木、雑注、問答釈義)。隋書経籍志は三巻、旧唐書経籍志は五巻、新唐書芸文志は一巻と伝世文献の目録では構成にバラつきがあるが、上記附録に収載されている南宋の『群斎読書志』関連記事は全三巻全八篇で上記の篇名を記録しているそうなので、まあ巻数にバラつきはあっても全体の構成は(少なくとも南宋ころから)あまり変わっていないのではなかろうか。佚文がそこそこあったり字句に混乱があったりと、現在の本にはちょこちょこ散佚やら錯簡があるようだ。
 崔豹の『古今注』は成立とか本のこととかあんまり詳しくないのだが、残念なことに上記の校注本には解題がない(この部分は本当に残念!)。附録にある前近代知識人の感想文やら考証やらを読んで察しろ、というスタンスなのかもしれない。
 ともかく、附録をおおまかに参照して私なりにまとめておくことにする。

 現在伝わっている崔豹『古今注』には偽書疑惑がかけられていた。代表的なものが『四庫全書総目提要』で、そこで問題点とされているのは二つある。まず一つに、現今の崔豹『古今注』は後唐の馬縞『中華古今注』(後述)と非常に酷似している、つまり両書の出所は同一ではないのか、ということ。もう一つに、崔豹の『古今注』は北宋から元にかけて失われている可能性がある、例えば『太平御覧』は崔豹の『古今注』を引用していて『中華古今注』を引用していないのに、『文献通考』はその逆であること。この二点から、崔豹の本は北宋~元に失われたのであり、現今の崔豹本は馬縞のものをもとにして作成されたものである、というのがどうやら提要の見解みたいである。

 これに反論を加えているのが余嘉錫。まず一点目の問題について。そもそも『中華古今注』ってのは何なのだねという話なのだが、撰者の馬縞の自序には「崔豹の本は博識だけど、ところどころいたらないところがあって残念だなあと思ったからオレが新たに注を加えたよ、書名も変えてみたよ」ってある(そうだ)。つまり『古今注』の注っていう位置づけになるのだろう。したがって余嘉錫は、『中華古今注』が崔豹の『古今注』と大部分同じであるのは『古今注』本文をほぼそのまま収録して一部加筆・改変したにすぎないからだ、と主張している。また彼によれば、明の覆宋本『古今注』と『百川学海』本『中華古今注』とを比較し、馬縞が独自に加筆したところを調べてみたところ、55条「も」加筆があったそうで、しかもその加筆は崔豹本文への追加の注は除いた合計数、つまり崔豹の本文ではもともと取りあげられていなかった題材・記事の加筆数をカウントしたもので、注の追加も数えたらもっとあるんだけど?と嫌味をたれ、「どーーーこがまったく同じなんだ」と息巻いている。コイツまじでやばくない?

 二点目の問題だが、まず余嘉錫も指摘していることで問題の核心にはあまり関係がないが、そもそも北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』を下敷きにしていると言われているもので、『修文殿』が後世の『中華古今注』を参照できるはずがないのだから、『太平』に『中華古今注』が引用されていないというのはありうることである。なので『太平御覧』のみを論拠にして、「この時期まではこの本はあったがあの本はなくて~」と論じるのは少々不適切ではないだろうか。
 だがこれは大して重要な論点ではない。『文献通考』にはどうして崔豹本が著録されていないのか、というのが重要である。そこで余嘉錫が『通考』の撰者・馬端臨の参照したという北宋~南宋期の3つの目録書を調べてみたところ、どの本にも崔豹本が記録されているじゃあないかと。これはたんに馬端臨がたまたま見落としてしまったにすぎないのであって、南宋にもちゃんと崔豹本はきっちり伝わっているしぃ、てかそもそも『文献通考』の経籍考ってその書物が現存しているかどうかに関係なく記録していたのだから、「『通考』にない=当時現存していなかった」なんて等式は成り立たないんですけど?、そんなことも知らねーーーの???、と完全に彼はエクスタシーしています。

 というわけで、提要の論拠をすべて論破した余嘉錫なわけだが、さらに彼は現今の崔豹本と隋唐宋代の書籍に引用されている『古今注』の文を比較検討してみたところ、やはり現本は引用文の「本体」といえる確かさがあり、宋人や明人が佚文やらを拾い集めてつくった偽書とは一線を画しているという。このあたりの感覚はわりかし信用してもいいんじゃなかろうか。

 以上、偽書疑惑について簡単にまとめてみた。私が詳しくないばっかりに現在ではどういう扱いになっているのかわからないが、提要の疑念は確かな根拠にもとづいているとは言えないし、そもそも宋史芸文志にも崔豹『古今注』って採録されているし。北魏・崔鴻『十六国春秋』のように、宋史芸文志には記録がないのに明代にぽっと本が出てくるようなものとは問題の質が違っている。「じつは一度散佚していていま残っているのは後世の偽書だ」と言われたら確かに「そうではない」証拠を出すことはできないのだけど、逆に「散佚している」証拠もないのであって、いちおう余嘉錫に従って、現今の『古今注』は崔豹の原本だと見ておいて良いのかな、たぶん。
 てかこの2015年のテキストもさー、研究助成?かなんかで出版したらしいのだけど、それってつまり長らく『古今注』テキストを研究した成果がコレ、ってことなんでしょ。だったらテキスト問題の解題くらい書いて、研究の結果どう結論が出せそうか表明しておこうよ・・・。購入してから解題がないことに気づいた私もアレですけど。[上に戻る]

 

[2]原文は「朱雀闕上有朱雀二枚」。校注者によれば『古今事文類聚続集』は「上有」を「画」に作っており、おそらくこちらが正しいだろうとしている。私もそう思うが、とりあえず訳文では原文を尊重しておいた。また「蒼龍闕」以降の文は別の本だと改行されている、すなわちその前の闕の文とは別扱いになっているそうだ。ここでは使用したテキストに従い、すべてをまとめて一条と見なすことにする。[上に戻る]