2020年11月28日土曜日

唐修『晋書』に見える「臺」について

 『晋書』で「臺」と見かけたとき、私は反射的に「尚書臺」といままで読んでいたのだが、どうもそれはまずいのかもしれないと最近になって気づいた。
 まず例を二つ挙げてみよう。(訳文は拙訳「晋書簡訳所」から引用。一部漢字表記を改めてある。)

及李流寇蜀、昌潜遁半年、聚党数千人、盜得幢麾、詐言遣其募人討流。(巻100、張昌伝)

李流が蜀を侵略すると、張昌は半年間潜伏して人目を避け、徒党を数千人集め、幢麾を盗み、「の使いだ。人を募集して李流を討伐せよとの命令である」と偽って言った。


朝廷遣使諷諭之、峻曰、「下云我欲反、豈得活邪。我寧山頭望廷尉、不能廷尉望山頭。往者国危累卵、非我不済、狡兔既死、猟犬理自応烹、但当死報造謀者耳」。(巻100、蘇峻伝)

朝廷は使者をつかわして説諭したが、蘇峻は言った、「下は、私がそむこうとしていると言っているそうじゃないか。〔そのようななかで中央に行ったら〕命を保つことができようか。廷尉から山の頂上を眺めるなんてもってのほかで、それなら山の頂上から廷尉を眺めるほうがましだ。かつて国家が累卵の危難に陥ったとき、私でなければ救済することはできなかった。〔だが〕狡猾な兎が死ぬと、猟犬は道理からしておのずと煮殺されるもの。それならば、死して謀反をでっちあげる者に報いるのみよ」。

 張昌伝の引用箇所は拙訳の訳注にも記したように解釈に自信がないものの、私はここに見える「臺」を「尚書臺」の意で取った。ここはそのように取って不都合はなさそうに見える。

 いっぽう、蘇峻伝のほうはどうであろうか。これまた訳注に記したことだが、この蘇峻の発言は『建康実録』顕宗成皇帝、咸和元年十月の条に「己巳、庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛、誅之」とあるのを受けてのもの、すなわち南頓王が蘇峻と結託して謀叛していると庾亮がそしったことを「臺下云我欲反」と言っているのだと考えられる。この当時、庾亮は中書監であったから、ここの「臺下」は中書臺の庾亮を指していると見れなくもなく、そうすると「臺」は必ずしも「尚書臺」の意ではないのかもしれないと思いたくなる。

 しかし、ではこの「臺下」を「尚書臺」と読んで支障が生じるのかと言われると、とくに問題はないようにも思われる。というより、「尚書臺」と取ってもよいし、そこから意を拡張して「中央政府」とか「天子」とまで読んでしまってもいいのかもしれない。つまり、語が表現しているのは「尚書臺」なのだけれども、その語が指示しているのは、尚書が中心となって運用されている「中央の政府」であり、だから日本語に訳すときは、「尚書臺」と訳せば少なくともまちがいではないが、文脈によっては「中央」のような意で訳出したほうが適した表現になるのかもしれない。蘇峻の「臺下」に関して言えば、「中央(の政府)」と訳したほうが適当であろうと感じる。

 そしてあらためて張昌伝を見なおしてみると、「臺遣」も「中央からつかわされた使者」という意味で読めるし、というよりそう訳したほうがむしろしっくり来るかもしれない。

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 ついでだが、『晋書』には「行臺」「留臺」という語も頻出する。
 一般的には、「行臺」は「都の外に置かれた尚書臺」、「留臺」は「天子が都を離れて以降も都に留まっている尚書臺」を言う。
 つまり、これらの「臺」は「尚書臺」を意味すると考えるのが通常である。

 だが、『晋書』巻81、蔡豹伝に「於是遣治書御史郝嘏為行臺、催摂令進討」とあり、読んだときに「なんで侍御史を行臺にするんだ、しかも戦闘の催促に尚書が必要なのかな」と違和感を覚えなかったわけではなかったが、上記のような意味以外に「行臺」を読もうとまでは考えず、拙稿にもそのつもりで引用してしまっていた。
 いま考えると、ここの「行臺」の「臺」は御史臺であったのかもしれない。「臺」といえば「尚書臺」、まして「行臺」であればなおさら、という先入見があまりに強かったゆえに他の可能性を考えられなかったのである。

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 ところで、「臺」を含む成語に「三臺」というものがある。漢代、この語は尚書臺、謁者臺、御史臺を指して用いられることがあったようで、尚書臺に関連する成語と見なすことができる。魏晋以降は尚書、中書、御史の三つを「三臺」と呼んだらしいが、かかる意味での使用例は少ないように思われる。

 似た成語に「三台」というものもあり、こちらは星座の名称で、三公を比喩する。これまでいちいち「臺」字を使ってきたのは、この(現代の日本語から見れば)ややこしい成語が存在するためである。

 しかし「三臺」の用例をチェックしていくと、数はわずかながら、どうも尚書を含まないケースがあるらしい。
 たとえば『宋書』や『南斉書』に「三臺五省」という語が見える。この場合、尚書は「五省」のほうに含まれていると考えるのが妥当だと思われる(尚書省、中書省、秘書省、門下省、残りひとつは散騎の省?)。
 そうだとすれば、「三臺」は御史臺、謁者臺、あとひとつはよくわからないが(『隋書』巻27、百官志中に載せる北斉の制にはこの二つのほかに都水臺(都水使者)がみえている)、ともかく尚書臺ではないはずである。

 これとは別に、数はぐっと減る、というかいまのところ応詹伝しか見つかっていないのだけど、「三臺九府、中外諸軍、有可減損、皆令附農」という語もある。
 「九府」は「九卿」の意であることからすると、この場合の「三臺」は「三台」すなわち「三公」の意であろうと思われる。
 だが、本当にここの「三臺」を「三公」で取ってよいのだろうか。『晋書』巻67、温嶠伝に「三省軍校無兵者、九府寺署可有并相領者、可有省半者、粗計閑劇、随事減之」とあり、この文の「三省」は「三臺」と同義であるかのごとくであり、かつ「三省」といえば尚書、中書、門下もしくは秘書を指すはずであろうから、「三臺」もそれら尚書などを指すと考えるべきとも思えてくる。
 しかし、かの温嶠伝の記述は、「三省」で「無兵」のところがあれば「減」ずべし、という温嶠の提言であるのだが、そもそも尚書などは兵を有するのだろうか、また場合によっては省いてもよい官署なのだろうか。ありえないはずである。
 温嶠伝の「三省」が何を指すのかはけっきょくわからないのだが(「軍校」は「四軍五校尉」を指すと思う)、「三臺」とはあまり関連がないか、あったとしても「三台」(三公)のほうだと思う。

 話が本筋から逸れてしまったが、「三臺」が「三台」(三公)をも意味するかもしれない例としては、『晋書』巻59、斉王冏伝に「司徒王戎、司空東海王越説冏委権崇譲。冏従事中郎葛旟怒曰、『(中略)三臺納言不恤王事、(中略)』」というのもおそらく「三公」の意で「三臺」と言っている可能性が高い。
 そんなに多く見られるわけではないのだが、「臺」のつもりで「台」を使っているらしい用例はほかにもあるにはあったので、字のちがいはあるていど柔軟に考えてもよさそうである。

 さらに、どうもそれらよりもずっと広い範囲の官署を「三臺」と読んでいるのではないかとおぼしき例もある。『晋書』巻45、劉毅伝附暾伝の「恵帝復阼、暾為左丞、正色立朝、三臺清粛」である。劉暾が尚書左丞に就いて「三臺清粛」というのだから、この「三臺」は端的に「尚書臺」を指しているかのようだが、直前の文に「正色立朝」とあることからすると、「清粛」したのは中央政界全体であったのではないだろうか。そう考えてよいのならば、ここの「三臺」は「中央の政府」くらいの意味になってしまうだろう。

 以上を整理すると、

(1)「三臺」には尚書を含んだ臺を指す場合と、尚書を含まない臺を指す場合がある。体感的には、魏晋代は後者のケースが多い。
(2)「三臺」で「三台」すなわち「三公」を指す場合がある。
(3)「三臺」で「中央の政府」を指す場合がある。

 これ何かの間違いなのでは・・・? と思っているので、詳しい方がいらしたらご教示いただきたい。

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 もうひとつめんどくさい成語に「臺府」がある。
 斉王冏伝に、冏が「符勅三臺」したという記述が見えるのだが、これが『宋書』巻30、五行志一だと「符勅臺府」に書き換えられている。
 じゃあ「三臺」と「臺府」は同義なのだろうか。

 「臺府」の用例を見るかぎり、たいていは「中央の各官署」を指しているように見受けられる。『晋書』巻105、石勒載記下は「台府」の用例ではあるが、「命郡国立学官、毎郡置博士祭酒二人、弟子百五十人、三考修成、顕升台府」とあり、この「台府」は尚書臺か中央官署の府を指すのではないかと考えらえる。あるいは「三臺九府」を略した書き方が「臺府」なのかもしれない。
 『漢語大詞典』は、いま述べた「中央の官署機構」の意味以外に「御史臺」の意味を挙示している。もっとも、その根拠はよくわからないというか、これ以上調べる元気が出ないのでもう終わりにしよう。

 ともかく、いちおう「三臺」と「臺府」には共通する語用があるようである。とはいえ、その共通の語用で斉王冏伝の「符勅三臺」が読めるのかどうかはわからないのだが。

 史料も思考もぐちゃぐちゃになっていて整理できていない気がするので、後日きちんと再考します。とりあえずメモがてら。